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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。
六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。
当時の日本はバブル期真っただ中。
日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。
同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。
この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。
日本人ばかりのアメリカの大学
帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)
襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。
帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。
「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。
同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。
それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。
そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。
そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。
帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。
つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。
中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。
しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。
もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。
彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。
しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。
事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。
どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。
もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。
だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。
おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。
しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。
ジャパンバッシング
この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。
帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。
正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。
そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。
1990年10月7日、事件発生
その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。
それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。
若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。
寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。
そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。
もちろん、この行為も寮の規則に違反している。
ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)
彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。
規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。
学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。
バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。
デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。
しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。
しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。
やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。
彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。
寮からの新たな参加者ではない。
現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。
そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。
その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。
そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。
相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。
日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。
「Show me your fukking ID!!」
やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。
「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」
寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。
最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。
彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。
「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」
六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。
もう完全に囲まれてしまっていたのだ。
「Lay down!!」
次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。
呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。
本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。
腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。
頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。
起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。
白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。
小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。
しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。
それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。
さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。
白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。
逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。
中には警官が乗っており、何か書類を書いている。
助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。
不審者だと思ったようだ。
だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。
アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。
その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。
他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。
アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。
また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。
だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。
ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。
その後
バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。
だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。
この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。
同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。
その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。
さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。
一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。
その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。
これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。
犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。
そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。
日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。
そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。
それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。
相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。
事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。
「あいつらをやろう」
まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。
彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。
公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。
日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。
主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。
しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。
そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。
だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。
アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。
ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。
求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。
弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。
デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。
トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。
一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。
日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。
そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。
しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。
翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。
続く
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