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1982年の恐怖:福岡の孤独な老人を狙った凶悪な少年犯罪


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1982年(昭和57年)、福岡県粕屋郡須恵町で、後にも先にも滅多にないような卑劣な少年犯罪が行われた。

一人暮らしで体の不自由な75歳の老人を、23人もの小学生や中学生の悪ガキたちが入れ替わり立ち替わり37回も恐喝。

面白半分に暴行を加えるなどして、老人の唯一の収入源であるなけなしの年金を脅し取り続けていたのだ。

お年寄り相手に、よってたかってカツアゲとは何という奴らだ!

平成や令和の悪ガキでも、ここまでやる外道はいない!

本ブログの筆者は、この事件を40年以上も昔に年端のいかなかった者たちが、ついつい調子に乗りすぎてしまった程度の事件とはみなさない。

人の道を大きく踏み外した子犬畜生たちの非人道的行為として、令和の現在白日の下にさらしてやる!

目をつけられた独居老人

昭和の昔、福岡県粕屋郡須恵町に、ひっそりと暮らす独居老人がいた。

老人の名は、中辻国男(仮名・当時75歳)。

妻子がない独り身で、近所づきあいもほとんどない。

現役時代は国鉄(現JR)職員だったが、退職後は月7万円の年金だけを収入源にしていた。

神経痛のために足が不自由で腰が大きく曲がってはいたが、自宅の庭で野菜を育てるなどして、少ない年金ながら何とか暮らしている。

そんなつつましく老後の生活を送っていた中辻老人に1982年(昭和57年)の新年早々、おそらく彼の長い人生の中でも最悪の災いがもたらされることになった。

それは同年1月8日の夕方のこと、家の中にいた中辻老人の耳に、何かが自宅の壁にぶつけられた物音が響いたことから始まる。

粕屋郡は、前日から雪が降り積もっていたから外は一面の雪。

どうやら、誰かが自宅の壁に雪玉を作って投げ込んだようだ。

外を見ると二人の中学生になるかならないかの年頃の少年が前の道を歩いている。

何食わぬ顔をしているが、二人とも見るからに悪ガキそうだから、こいつらの仕業だろう。

老い先短い中辻だったが、この悪質ないたずらに黙っているわけにはいかず、二人を注意した。

しかし、注意された二人は自分たちではないと断固否定。

ばかりか「ナニ文句付けてんだよ、ジジイ!」と絡んできた。

この二人は、粕屋郡の隣の福岡市に住む中学校一年生の小峯仁志(仮名・13歳)と小学校六年生の板橋将人(仮名・12歳)だ。

年齢的には年端もいかぬ子供だったが、すでに本格的にグレて悪さを重ねている非行少年である。

よって語気に凄みがあった。

「ああ、違うのか。悪かった」

子供とは思えぬ迫力に、ひるんだ中辻老人は謝罪。

二人は「オレらのせいにしてんじぇねえぞ」などど悪態をつきながらもその日は立ち去ったが、それではすまなかった。

5日後の13日に再び中辻宅にやってきたのだ。

いや、「やってきた」というより「押しかけてきた」の方が正しい。

「この前のこと俺らのせいにしたワビ入れろや!!」と怒声を張り上げ、家にまで上がり込んできたのだ。

小峯と板橋は足が不自由な老人を押し倒し、手を広げさせて床に押し付けると台所にあった包丁を指の間に突き刺した。

「オラ!落とし前どうつけてくれんだ!ジジイ!」

5日前のことを口実にして、カツアゲに来たのである。

中辻老人が謝罪したことから、強気で押せば言うことを聞いてくれる相手と踏んだようだ。

13歳や12歳の少年らしからぬ凶悪な脅しに75歳の中辻はたまらず屈し、おわびの印として家にあった現金数千円を渡そうとしたが、「誠意っつーもんがねえぞ」と激高されて泣く泣く大金の2万円を払うことで解放された。

これはカツアゲどころか完全な強盗である。

だが、中辻老人は「警察にチクったら命はねえぞ」と二人に脅されていたし、相当恐ろしい思いをさせられたからか、通報することはなかった。

結果的に、それは大きな間違いとなる。

この災難は、これで終わらなかったからだ。

カツアゲ地獄

小峯と板橋は、そもそも同年代の悪ガキとはレベルが違う本格的な悪党だった。

すぐに金が手に入ったことに味をしめて、たびたび中辻老人の家に怒鳴り込んで金をせびりに来るようになったのだ。

取り上げた金は、もちろんゲームセンターなどでの遊ぶ金で瞬時に溶かすが、その時はまた老人の家に行けばよい。

中辻老人も中辻老人で、小中学生が相手とはいえ、恐怖が身に染みていたから、そのたびに金を渡してしまうという地獄のループが始まった。

悪党の脅しに屈して要求を飲んだりしようものならば、往々にしてこうなる。

相手が弱いと見たら徹底的に、かつ延々とたかりに来るのだ。

中辻老人は、なけなしの年金しかもらっていないから、決して金を持っているわけではないが、小峯たちにとっては知ったことではない。

しかも彼らは「ちょっと脅せば金をくれるジジイがいる」と不良仲間に吹聴したため、金をたかりに来る不良少年の数は増え、さらには、いくつかのグループに分かれて入れ替わり立ち替わり中辻老人の家にやってくるようになった。

小憎らしいことに年金の支給日も把握しており、その日には集中的に来る。

また、金があろうとなかろうと、面白半分に体の不自由な老人に暴力をふるった。

刃物を振り回して脅し、水をかけるわ、殴るわ蹴るわ、縛るわ、首を絞めるわ。

中辻老人は払う金がなくなると、普段あまりつきあいのない近所の住民に金を借りに行くようにまでなり、金を一切合切取り上げられるようになってからは、庭の野菜を食べてしのぐなど完全に悪童たちの奴隷と化す。

押しかけてくる不良少年の中には、小峯の大先輩で中学をすでに卒業した者もおり、それくらいの年齢の不良になると本職そのもののいでたちをしているから「本物のヤクザまで来た」と中辻老人は絶望し、通報する気が余計に失せてしまっていた。

完全に心が折られていたんだろう。

このカツアゲ地獄は、同年8月4日までに小峯や板橋らが福岡県警の東署によって強盗、恐喝の容疑で検挙、補導されるまで約七か月間も続いた。

その回数は37回に達し、中辻老人は合計約25万円の年金を奪われ、恐喝に関わった不良少年は小学生も含めた23人にも及んだ。

老人自身は通報できなかったのに、なぜ発覚したかは報道されていないが、異変に気付いた近所の住民がしたものと思われる。

それにしても、何と非道な犯罪であろう。

これまでに発生した数多くの事件の中でも、トップレベルのクズっぷりである。

中辻老人は命こそ奪われなかったとはいえ、人生の晩節で最悪の恐怖と屈辱を味わわされてしまった。

一方の小峯たちは14歳未満だったから、大した罰も受けていなかっただろう。

現在、もうすっかりいい年齢になって丸くなっているかどうかは知らないが、中辻老人くらいの年齢になってから同じ目にあってもらいたいとに願わずにはいられない。

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身勝手な夢が奪った命:2011年鹿沼市のクレーン車事故


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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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2000年の暴力ブティック:ヨコハマソウルシティの真実

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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「万引き」「金無し」「見るだけ」「ひやかし」

上記の方は、入店を固くお断りします。

今から二十年以上前、横浜市元町に以上のような注意書きを記した紙を入口に貼って、営業していた店が実在した。

その名は、ヨコハマソウルシティ

そりゃあ、買う気もないのに店に来て何も買わずに帰っていく奴は、店の側からしたら好ましくないのは理解できるが、こうもはっきり書かれると、感じがバチクソ悪い。

たいていの人は、かように不遜な注意書きを見せられたら、入る気は失せるだろう。

だが、中には「そんなバカな」と高をくくるか見落として入ってしまい、「万引き」はともかく「見るだけ」で帰ってしまおうとする人もいた。

そして、そういった不注意な人々は、ヨコハマソウルシティが一般常識の通じる店ではないことを思い知り、同店どころか元町に行く気が終生起きなくなるくらいの思いをさせられることになった。

なぜなら、このヨコハマソウルシティは、暴力バーのブティック版、「暴力ブティック」だったからだ。

冷やかし客への過酷な仕置き

2000年11月17日、横浜の元町ショッピングストリートを訪れた村上園美(仮名・26歳)は、一軒のブティックに入った。

その店の入り口には、店名である「ヨコハマソウルシティ」のアルファベット表記の下に注意書きらしき貼り紙が貼られていたが、彼女の目は、ガラス越しの店内にある商品にあったようだ。

だからと言って、お目当てのモノがあったわけではない。

とにかく、これは、と思えるようなモノがあれば買おうというノリであり、なければ次の店に行けばよい。

ひととおり見て回って、なかなかいい感じと思えるコートを見つけた。

一応手に取って他のモノを物色するが、この店にはなさそうだ。

このコートも最初はいい感じだと思ったが、やっぱり買うのはやめとこう。

「試着してみますか?」

店主と思しき中年の男が話しかけてきた。

「すいません。やめときます」

悪いけど買う気はない。

元の場所に戻して次の店に行こう、と思っていたから、サバサバした感じで断った。

しかし、その店主の男の態度が次の瞬間に急変する。

「あ?試着しねえだと!?どういうことだ!オイ!」

いきなり怒声を張り上げ、園美を罵倒し始めたのだ。

え?何で何で?どうしてこんなこと言ってくるの?

まさか、店の人間からこんな態度を取られるとは予想だにしていなかった園美は凍り付いた。

「あ、いや、えっと…あんまり好みじゃなかったから…」

「表の貼り紙に書いてあんだろ!買う気がねえのに入ってくるたあ、ナメてんのか!?コラ!!」

「ごめんなさい」

大の男に大声で罵声を浴びせられ、園美はショックのあまり頭が真っ白になっていたが、この男が純粋にこの店の商品を買わないことにキレていることは分かった。

「じゃあ、これください…」

園美は一番安い小物を買って許してもらおうとしたが、男の怒りは収まらない。

「そんなもんで、お茶濁してんじゃねえ!てめえがさっきべたべた触ったコート買えよ!」

「いくらですか…?」

「42000円だよ!」

「そんなお金持ってません…」

男は、より激高した。

「金も持ってねえのにウチの店入りやがったのか!!土下座しろ!!ボケえ!!!」

「え…」

「しろっつってんだろ!!オラあ!!!」

あまりの剣幕に、すっかりおびえ切っていた園美は、へたり込むように土下座した。

ばかりか、男は店内でタバコを吸い始め、彼女をなじりながら吸い殻を投げつけることまでした。

園美は所持金3000円を取り上げられ、次の一週間後に残金を支払うことを約束させられた後でやっと解放されたが、この世のものとは思えないほどの言葉の暴力を加えられて、ズタボロにされた彼女は悔し泣きをしながら、その足で交番に駆け込んだ。

土下座の強制は、刑法的には義務のないことを命令したりする行為、強要罪であるから、立派な犯罪に当たる。

園美は被害届を神奈川県警加賀町署に提出し、同署は12月7日店主である石黒成(本名・38歳)を恐喝の疑いで逮捕した。

六年間のさばり続けたヨコハマソウルシティ

ヨコハマソウルシティは、事件の六年前の1995年に開店した当初から、何かと問題を起こしてきた店だったようだ。

商品を買わなかったばっかりに、園美のように土下座させられたり、肩を突き飛ばされたり、買うまで入口に施錠されて出してもらえなかったりしたなどの苦情が、元町の商店会や交番に数多く寄せられていたのである。

商店会は、たびたび改善を申し入れていたのだが、石黒は「これがうちの営業方針だ」と言い張って、聞く耳を持たなかったという。

また、被害にあうのは冷やかし客だけではない。

事件の起こる二か月前の9月には、店舗の前に配送のトラックを停めた男性に「店の前の道路もオレのもんなんだよ」とか「オレの店は1時間1万円売る店だから1万円分買え」などと、Tシャツ3枚を無理やり買わせて、1万1000円を恐喝していたのだ。

ちなみに、その店の前の道は市道であり、トラックが停まっていた時間に店のシャッターは閉まっていた。

こういうことが重なって石黒はとうとう逮捕されたが、取り調べにあたった警官によると、この男は人格的に大いに問題があったらしい。

彼は、事情聴取を受けている際にたびたび激高して大声を張り上げて、反抗的な態度を取ったかと思えば、ほどなくして、人が変わったように猫なで声を出すなど、感情の起伏が激しすぎる面が目立ったという。

何らかの人格障害があったと思われる。

ヨコハマソウルシティは店主が逮捕された後、残った女性の店員が営業を継続。

しかし、この店員もかなりの強者で、あるテレビ局が取材したところ、

「うちは、こういう方針でやっていますから」と悪びれもせずに言い放ったという。

もっとも全国的に、この店の危険性が知られた以上、営業を継続することは困難だったようで、翌年2001年の春には同店は閉店。

同年9月、恐喝、暴行罪に問われた石黒には、横浜地裁により懲役2年6月、執行猶予5年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。

出典元―朝日新聞、日刊スポーツ

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1997年、小牧市の悲劇:日系ブラジル人少年の集団暴行殺人


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1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

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最凶のヤクザ時代 – ナンパに潜む暴力団の影

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日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

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新潟六日町のトンネル事件:恋愛に狂った暴力団員の極限の嫉妬

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2000年(平成12年)5月22日午前5時ごろ、民家もまばらな新潟県魚沼群六日町の農道を歩いていた近所の住民の女性(72歳)の前に、ただごとでない様子の少年が現れた。

十代後半くらいのその少年は裸足で、全身ずぶ濡れとなってぶるぶる震えており、女性を見つけるなり「警察を呼んでほしい」と懇願するのだ。

そして、その理由は耳を疑うものだった。

何と男二人に灯油をかけられて、火をつけられそうになったから逃げてきたというのである。

しかも、もう一人一緒にいた友達は逃げることができず、焼き殺されたかもしれないと言うではないか。

それが証拠に、ずぶ濡れの彼の体からは、灯油かガソリンのような刺激臭が漂っていた。

その後、女性の家からの通報により、新潟県警六日町署の署員が出動。

少年が火をつけられそうになったという六日町舞台のわらび野トンネルに駆け付けたところ、トンネル内で焼け焦げた焼死体を発見。

それは、焼き殺されたかもしれないと言われていた少年、千村健太(仮名・16歳)の変わり果てた姿だった。

事件の経緯

千村健太(仮名)

事件は前日の5月21日の午後11時ごろ、殺されることになる千村健太と、助かった方の宇田川弘明(仮名・16歳)が、ある人物から「遊びに行こう」と呼び出しを受けたことから始まる。

彼らを呼び出したのは、矢内彰浩(仮名・32歳)という人物。

前月の4月下旬まで、千村と宇田川が働いていたラーメン店の店主であった。

彼ら二人が迎えに来た矢内の車に乗り込んだのは、日が変わった22日午前2時ごろ。

こんな夜中に「遊びに行こう」と誘われて、喜んで行く人間はあまりいない。

しかも、相手は前に働いていた職場の雇い主ではるかに年長、真夜中に呼び出されて遊ぶには、面白くないことこの上ない相手だ。

だが、二人とも断るわけにはいかなかった。

彼らに電話したのは矢内だったが、本当に用があって呼び出したのは、亀井俊彦(仮名・32歳)という男である。

ラーメン店の客として来ていたから顔なじみであったが、亀井がどういう人物であるかを、二人ともよく知っていたのだ。

亀井は暴力団組員であり、なおかつ地元では数々の暴力事件を起こしてきた悪名高き乱暴者。

前の年には、歩行者をひき逃げして逮捕されたが、それは単なるひき逃げ事故ではなかった。

その事故の際に、自分の車にぶつかった歩行者に腹を立てた亀井は、車を繰り返し前進後退させて三回も轢いて、そのまま立ち去ったという正真正銘の犯罪だったのだ。

亀井はその事件で逮捕されて、先月まで刑務所に服役して出てきたばかりであり、そんな危険な男の呼び出しを断ったら、何をされるかわからない。

そもそも、彼らがアルバイトをしていたラーメン店自体、堅気の店ではなかった。

店を直接切り盛りする店長の矢内は堅気だったが、オーナーは片岸祐一(仮名・34歳)という暴力団組員であり、亀井の兄貴分。

おまけに、ラーメン屋で働いていた千村は店員としてだけではなく、ヤクザである片岸の「若い衆見習い」ということにされていたらしい。

それに千村はこの時、自分が呼び出されたのが、なぜなのか気づいていた。

なおかつ、自分がタダでは済まないであろうことも。

彼には身に覚えがあった。

絶対にやってはいけないあることをして、それがバレたのだ。

だからと言って、逃げるわけにはいかない。

そうしたら余計厄介なことになることくらい、ヤクザの「若い衆見習い」にされていた彼なら嫌というほどわかる。

案の定、車内の亀井は、千村が乗り込んだ時から明らかに不機嫌であり、車が発進してほどなくして、いきなり暴力を振るってきた。

「このガキ、ナメたことしやがって!コラあ!!おらあ!!!」

ただでさえ危険な男は、酒をしこたま飲んで来たらしく、余計狂暴になっていた。

「宇田川ぁ、テメーも知ってたんだろ?なぁ!!」

「いえ、あの、その…ぶっ!!」

宇田川も殴られた。

宇田川が呼び出されたのは、ツレの千村がやらかした「やってはいけないこと」を知っていたにもかかわらず、報告しなかったからなのだ。

やらかした本人である千村の次に、罪が重いとみなされていた。

怒りの矛先が向けられたのは、二人の少年だけではない。

「停まんじゃねえよ!!飛ばせボケぇ!」

赤信号で車を停止させた、矢内も殴られた。

彼は普段から、ヤクザの片岸や亀井に奴隷扱いされていたのだ。

やがて、車は事件現場となる六日町の工業団地に到着すると、ほどなくして、一台の白い車がやってきた。

四人は車を降りてその車に近づき、亀井が「これに乗れ」と他の三人に命じた。

「お前ら逃げろ」

ある程度事情を知っていた矢内は、小声で二人の少年に言って自分は逃げたが、二人ともモタモタして逃げられず、白い車に乗せられてしまう。

その車を運転していたのは、加藤夏樹(仮名・28歳)という暴力団員ではないが、亀井の舎弟気取りの男だ。

車内で亀井は千村と宇田川を交互に殴りつつ、加藤の運転する車は、だんだん明るくなってきた午前四時ごろ、わらび野トンネルに到着。

車から降ろされた二人は、トンネルの中で正座させられた。

わらび野トンネル

「テメーら、これからどうなるかわかるか?アン?!」

そう言うと亀井は、加藤の車からポリタンクを取り出すや、正座させられている二人に、その中に入っていた液体をぶっかけた。

手下の加藤に、あらかじめ用意させて車に積んでいた灯油だ。

やがて、ライターを取り出して、それを加藤に渡すと、「夏樹、燃やしちまえ」と命じた。

大物ぶって、自分で手を下す気はないのだ。

加藤は、どちらかというと肝っ玉の座らない根性なしだったが、だからこそ、おっかない亀井には絶対服従な男。

本当にライターを近づけてきた。

脅しじゃない、本気で焼き殺す気だ。

逃げ出そうと立ち上がる二人。

宇田川は、前述のとおり逃げおおせたが、千村は間に合わなかった。

加藤のライターで火をつけられた千村は、火だるまになり、叫び声を上げて走り回ったあげく、トンネル内に倒れ込み絶命した。

事件現場

千村が犯してしまった過ち

事件が発生して翌々日の5月24日午前1時ごろ、実行犯の一人の加藤が六日町署に自首してきた。

加藤は堅気のくせに普段から「亀井さんのためなら何でもやります」などと公言してヤクザ気取りだったが、本性は気弱。

人を焼き殺してしまった事実を、受け入れることができなかったのだ。

そして、事実上の主犯である亀井は犯行後に逃走していたが、翌月6月9日に出頭して逮捕された。

だが、彼らは実行犯にすぎない。

亀井は顔見知りとはいえ直接の恨みはないし、加藤に至っては初対面。

実は亀井たちの背後には、犯行を指示した本物の主犯がいた。

その人物とは亀井の兄貴分であり、千村たちが働いていたラーメン店のオーナーである片岸祐一である。

彼こそが、千村の犯した行為に激怒していたのだ。

事件発覚当時から、犯行を指示したのは片岸ではないかと事情を知る関係者の間ではささやかれていた。

捜査を担当する六日町署もそれを知って、片岸の行方を追い始める。

片岸は、亀井同様事件後に行方をくらませていたが、7月7日になって、ようやく殺人容疑で逮捕された。

片岸は逮捕当時容疑を否認していたが、千村に危害を加えるように亀井に命じたことは認めた。

そして、彼が舎弟を使って制裁を加えようとした理由、それは、ある女性をめぐってのものだ。

その女性の名は、大熊径子(仮名)。

片岸がオーナーを務めるラーメン店で、アルバイトをしていた当時19歳の少女である。

彼女は、事件の起こるちょうど一年前の1999年(平成11年)5月ころの高校在学中から働き始めていた。

径子は、地元では有名な企業の社長の娘である。

片岸は、当時所属していた暴力団の組員になる前は、その会社で働いていたことがあるし、ラーメン店の開業に際して保証人になってもらったりしていたために、その社長に恩義を感じていた。

そんな恩人のお嬢さんを預かっていたうえに、その社長夫妻からはヘタな男を近づかせないように、特に依頼をされてもいたらしい。

なにせ、径子は近所でも評判の美少女だったからだ。

片岸は社長夫妻の頼みを律儀に聞き、彼女が自動車学校に通い始めた頃には、送り迎えまでしていた。

だが、その年の11月に千村がアルバイトとして雇われてしばらくしてから、ややこしいことになる。

翌年の3月ころから、径子が千村と交際するようになったのだ。

それも、ぞっこんだったのは径子の方であった。

千村は高校に行っておらず、自身の「若い衆見習い」をさせているから、社長夫妻が言うところの娘に近づかせてはいけない男のカテゴリーに入る。

事実、この交際が4月末に社長夫妻の耳に入るや、夫人は片岸に別れさせるように依頼してきたという。

そして、このティーンエイジャーの交際を、夫人以上に快く思わない者がいた。

当の片岸本人である。

片岸は、径子の父親が経営する会社で働いていたころ、まだ幼児だった径子をかわいがっていたが、彼女が美女に成長した今は魅力的な異性として、熱視線を注ぐようになってしまっていたのだ。

意識するだけでなく行動にも移し、プレゼントを渡して告白めいたことまでしでかした。

片岸は離婚したばかりでもあったから、何としても径子をモノにしようとしていたらしい。

しかし、幼いころはなついていたとはいえ、片岸はヤクザのうえに、19歳の彼女から見たら完全におじさんの34歳。

明らかに10年以上遅い。

身の程知らずにも、ほどがあるだろう。

径子は遠回しな言い方でやんわりと断ったが、こんな勘違い野郎がオーナーの店で、気持ちよく働けるわけがない。

ほどなくして、彼女は年下の彼氏である千村、その友達の宇田川と相前後して、店を辞めてしまった。

社長夫人から依頼を受けてほどない5月2日、片岸はもうすでにラーメン屋を辞めてしまった千村を呼び出して「今回は見逃すが、次はないぞ」という脅し文句とともに、径子との交際を辞めるよう迫った。

夫人に頼まれていることを理由にしていたが、本当は、こんなガキごときに自分が付き合いたい女を取られたことに、腹わたが煮えくり返っていたことを、とりあえずこの場では隠す。

一方の径子に対しても「このまま付き合い続けたら、千村は殺されるぞ」というメールまで送ったりしたため、ただ事ではないと感じた径子も千村も、別れることをこの時は了承する。

だが、そんなことまでしても、燃え上がっている最中の十代のカップルを止めることはできなかったようだ。

二日後には、二人とも連絡を取り合うようになり、千村の身を案じた径子は、一人暮らししている自分のアパートや友達の家に、千村をかくまったりして交際は続く。

しかし、いつまでも隠し通すことはできなかった。

事件発生直前の5月21日、娘がまだ千村と交際を続けていることが、社長夫人にバレてしまう。

夫人は、その日のうちにそのことを電話で片岸に伝え、「まだ付き合ってるみたい」と愚痴った。

5月2日の最後通告は守られなかったのだ。

ヤクザとしてのメンツは完全につぶされたと、片岸は激怒した。

その矛先はもちろん「若い衆見習い」の千村である。

だいたい、こんな奴が自分の狙っていた女と付き合い続けているのは許しがたい。

ナメたガキからは、きっちりケジメを取ってやる。

しかし、だからと言って、自分で手を下す気はない。

社長夫人からの電話の後、片岸は、別の人間に電話をかけた。

それは、彼の舎弟であり暴力装置、この事件の実行犯となる亀井俊彦だ。

亀井は、暴走族だったころから片岸の世話になっており、自分の体に片岸の名前を入れ墨するほど心酔しているくらいだから、命じれば、いくらでも体を張ってくれる都合のよい奴である。

「千村のガキがよ、また社長の娘にちょっかい出してやがった。しめちまえ」

片岸はこの時、そう電話で亀井に指示したと、後に供述している。

「殺せ」ではなく、あくまで「痛めつけるだけでいい」と言ったのだ、ということだ。

だが片岸も亀井もヤクザである。

彼らの世界において、上の者は本当の目的を隠して、具体的に指示することなく、それを匂わせるような言い方で指示することがあるし、下の者は、その意図を正確に察しなければならない場合があるものだ。

長年一緒に過ごしてきた彼らの間に、どんな暗黙の了解や呼吸があったかは立証できないが、亀井の方は、単に殴る蹴る以上のことをする必要があると解釈した可能性があるのは、事前に灯油を準備していたことから見て間違いがない。

おまけに、電話を受けた時は酒をしこたま飲んでおり、この乱暴者は、余計に分別のつかない状態になっていた。

その後、矢内に運転させて千村たちを連れ出し、日が変わった22日の午前3時ごろ、亀井は片岸に連絡を入れている。

その時、片岸はさらに「どういうことになるか、きっちり分からせろ」と命じたという。

そして、その電話からほどない午前4時ごろ、前述のとおり千村は、六日町舞台のわらび野トンネルで焼殺という最悪の殺され方をされてしまうことになったのだ。

不条理な判決

こんな残忍な犯行を犯した連中が、社会に出てきていいはずはない。

死刑か無期懲役、あるいは社会の脅威となる可能性がほぼなくなるほどの高齢になるまで、塀の中に隔離しておくべきである。

しかし、驚くべきことにこの凶悪犯たちは、また何か別の犯罪で捕まっていなければ、現在自由の身になっているのだ。

犯行を指示した片岸だったが、逮捕後から殺人に関して「共謀はしていない」と一貫して無罪を主張し、実行犯である亀井も殺害するように頼まれてはおらず、犯行前に灯油を準備していたのは脅すためだったと供述。

灯油までかけて加藤に「燃やしちまえ」と命じてはいたが、今回も本当は脅すつもりだったと言い張った。

ちなみに亀井は、事件前の過去に相手に灯油をかけて脅す事件を起こしている。

そして下った判決は、片岸が殺人罪で懲役13年。

実行犯の亀井は懲役18年で、加藤は15年と、人を一人焼き殺した代償にしては、軽すぎるものだった。

亀井と加藤の刑は一審で確定したが、片岸は判決を不服として控訴。

その結果、2002年4月24日に東京高裁で開かれた控訴審で「暴力を加えろという指示をしたと言えるが、殺害しても構わないという未必の殺意までは認められない」という判断がなされ、一審における殺人罪での懲役13年というただでさえ軽い判決が破棄されて、傷害致死での懲役8年という判決となってしまった。

「しめろ」「わからせろ」などの電話での指示では、殺意を立証できなかったのだ。

焼き殺すつもりは本当になかったのかもしれないが、結果としてあのような犯罪を犯した割には、あまりにも軽い制裁にしか見えない。

2023年の現在、この鬼畜がごとき犯罪者たちは恐ろしいことに、もうとっくにこの事件での刑期を終えている。

彼らはまだ50代、悪さをしようと思えば、まだできる年齢だろう。

こんな悪さをしでかした奴らが、たとえ自分とは関係のない場所に住んでいたとしても、この社会にいるというだけで、そこはかとない不気味さと釈然としなさを感じざるを得ない。

再び何かの罪で捕まって、現在は長期刑真っただ中か、より願わくば、すでに死んでいて欲しいものだ。

出典―朝日新聞、週刊新潮、週刊朝日

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不良俳優大地義行の裏の顔:2003年・京都放火殺人事件


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大地義行という俳優を、ご存じの方はどれだけいらっしゃることだろうか?

もしご存じならば、その方はヤクザものの映画やVシネマが好きで、それもかなり昔からのコアなファンだと言えるだろう。

大地義行、本名平野善幸は、1964年大阪府生まれ。

さまざまな経歴を経た後、1992年より俳優活動を開始。

Vシネマを中心に出演していたようだが、1998年の『JUNK FOOD』の出演を皮切りに、2000年から2002年にかけて『新・仁義なき戦い』、『荒ぶる魂たち』、『新・仁義の墓場』に出演。

 

『新・仁義なき戦い』などのこれら三作の映画の出演者はベテラン俳優が目白押しであり、大地はほんのチョイ役の暴力団組員を演じていたにすぎなかった。

しかし、その毒々しい存在感と迫力は本職級であり、並み居る有名な役者たちに埋もれることが全くないほどのインパクトを残して「本格的不良俳優(ヤクザ俳優)」と注目を浴び、以後の活躍が大いに期待されるようになった。

だが、2002年の『新・仁義の墓場』以降に、彼の姿をスクリーンの中で見ることは不可能になってしまっている。

なぜなら殺人で逮捕され、無期懲役で服役しているからだ。

2003年1月16日の事件

2003年1月16日午後2時。京都市下京区の木造二階建ての大地の自宅から出火して、二階の一室24平方メートルが焼ける火事が発生。

そして鎮火した後の焼け跡から、女性の焼死体が発見された。

死体は、仲居手伝いの丸山珠子さん(仮名・47歳)で、大地とは内縁関係にあった女性であったが、手足を電線コードやテープのようなもので縛られた状態で焼死していたことから、京都府警は放火殺人と見て捜査を開始する。

一方の大地は、火災時に現場にいたのだが、言動がおかしかったために、駆け付けた京都府警によって取り調べを受けた結果、覚せい剤反応が出たために逮捕されてしまっていた。

彼は覚せい剤の常用者だったのだ。

その後、大地は傷害事件で執行猶予中の身でもあったことから、覚せい剤の件で1年2か月の実刑判決を受けて服役することになったのだが、捜査の方は、状況証拠から明らかに怪しい大地を有力な容疑者として進められ、同年7月30日に、殺人・現住建造物放火の疑いで再逮捕となる。

大地は、女性を縛ったのは同じく覚せい剤の常用者だった彼女が暴れたからであるとし、火事はその時、部屋で点けていたストーブから出火したもので、自身が火をつけたわけではないと主張。

しかし、火事の時に、大地は救出しようともせずに、ぼんやりとしていたという住民の証言が決定打となって、大地は犯人と断定されてしまう。

2005年3月の京都地方裁判所の判決では懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡されたが、ここでも大地は無罪を主張したため、大阪高等裁判所の二審では「反省の態度が見られない」と一審判決を破棄され、求刑通りの無期懲役が言い渡された。

2006年の最高裁でも、上告が棄却されて無期懲役の判決が確定。

もともと転落していた彼は、さらに落ちることができる最底辺まで落ち込んでしまった。

大地義行は、2022年の現在も徳島刑務所で服役している。

近所での評判

大地義行はヤクザ俳優として評価されたが、それはどうやら演技ではなかったらしい。

普段の大地は、商品にケチをつけては金を払わなかったり、近所での工事がうるさいと怒鳴り込んだりと、居住する地域では悪名高き迷惑住民。

火災で死亡した女性以外にも関係を持っている女性がおり、痴話げんかが高じて、時々自宅前の路上で暴力をふるったりもしていた。

また、映画の撮影においても現場に遅刻することがよくあり、怒られると逆ギレするなどなかなかのトラブルメーカーだったから、高く評価された演技は素だったのだろう。

「本格的不良俳優」ならぬ、単なる「本格的不良」だったと報道するマスコミもあった。

そんな彼だから近所の住民もよく思っておらず、「女性を助けようともせず、ぼんやりと座っていただけだった」という証言までされた。

当時の大地の人となりを知るそれらの人々には、「やっていないとは思えない」と言われている始末である。

そんな彼は今でも獄中で無罪を叫び続けており、支援する弁護士も現れて再審請求の活動がなされている。

確かに支援者らの主張によると、検察の提示した証拠には矛盾が多く、女性を助けようとしなかったどころか、燃え盛る家の中に入って救出に向かおうとしていたと、当時から証言していた人間も存在しており、今後の展開によっては、無実を勝ち取って出てくることがあるかもしれない。

しかし、彼は現在57歳。

獄中で、あまりにも多くの時間を失ってしまった。

自由の身になったとしても、もう彼の姿をスクリーンで見ることはできないだろう。

たとえ、この事件はやっていなかったとしても、今までさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、人を殺したと疑われても仕方なく、自業自得だという人もいるかもしれない。

しかし同時に、彼の登場シーンを改めて見てみると思うのだ。

画面の中でヤクザを演じる大地は、本物の悪党そのものの脂ぎった嫌らしさを見事に醸し出し、ベテランのコワモテ俳優相手でも、全く迫力負けをしていない。

こんな毒気は、演技や稽古で作り上げられた悪役では、絶対に出せないだろう。

やっぱり、大地義行の姿をもっと映画で見たかった。

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最凶ヤクザ時代:1998年・那須町の調理師兄弟生き埋め事件

本記事に登場する氏名は、一部仮名です。


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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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2022年 ならず者 パキスタン 事件 事件簿 悲劇 本当のこと

パキスタンでの冒険が引き起こした悲劇:91年の早大生誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1991年3月、パキスタンを流れるインダス川をカヌーで下る旅行をしていた早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」に所属する三人の早稲田大学の学生と現地ガイド一名が姿を消した。

早大生たちは春休みを利用して、インダス川とカブール川の合流地点であるアトックからアラビア海に面した同川河口のカラチまで、約1500㎞を三週間ほどかけてカヌーで漕ぎぬくという大冒険を計画。

2月中旬にパキスタンの首都イスラマバードに到着後、物資調達や訓練を経て3月4日にアトックを出発したのだが、カラチに到着予定の同月28日になっても姿を現さず、安否が心配されていた。

やがて4月になり、春休みが終わろうとしていた同月4日に、現地の日本大使館を経由して、外務省から最悪の事態の発生が公表される。

彼らは現地の犯罪組織に誘拐され、組織から多額の身代金と獄中の幹部の釈放を要求されていたのだ。

だが、これは必然的な結末でもあった。

早大生たちが通過する予定だった場所は、誘拐事件が年間千数百件発生する危険地帯であり、彼らが出発前の情報収集のために通っていた現地の大使館の職員からは、中止するように説得されてもいたからだ。

彼らは、幸運にも生還することになるのだが、その平和ボケの極みともいうべき愚行は、その後大いに非難を浴びることとなった。

ヌケまくった冒険計画

当初のメンバー

誘拐された早稲田大学の学生は、同大学教育学部の大浜修一(仮名・当時20歳)、教育学部の斎藤実(仮名・当時19歳)、政経学部の高原大志(仮名・当時20歳)の三人である。

彼らが所属する早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」は、ラフティングというゴムボートでの激流下りを中心に活動しており、1967年の設立以降インドのガンジス川やタイのメナム川を下ったり、ゴムボートの大会では四回優勝するなど伝統も実績も有したサークルだ。

インダス川

そんな気合いの入ったサークルに所属していた大浜たちだったからこそ、インダス川の川下りという大それた冒険を実行に移したのだが、その準備と見通しはあまりにずさんだった。

それは、川下りに出発する前の早大生たちに現地で出会った日本人女性ジャーナリストの証言によって明らかになる。

1991年の2月中旬、取材のためにパキスタンの首都イスラマバードを訪れた同ジャーナリストは、パキスタン人の夫を持つ日本人女性が経営する宿にチェックイン。

その宿に、たまたま誘拐されることになる早大生たちが宿泊しており、他の宿泊者らも交えて彼らと話をするようになった。

一見して頼りなさそうな青年たちだという印象を持った彼女だったが、話していて仰天したのが彼らのやろうとしていたインダス川の川下りの計画だった。

それは冒険というより、自殺行為に近い暴挙だと思ったからだ。

彼らが行こうとしているインダス川のうち、下流のシンド州流域は、日本より総じて治安の悪いパキスタンの中でも指折りの危険地帯であり、自動小銃などで重武装した「ダコイト」と呼ばれる犯罪集団が60団体以上跋扈し、誘拐や強盗事件が横行する現地の人間ですら恐れる場所なのである。

彼らはそのことを全く知らず、どんなレベルの危険か、全く想像がつかない様子だったという。

おまけに服装も襲ってくださいとばかりに派手な新品であり、インダス川の航行には、パキスタン観光省の許可証が必要であることも知らなかった。

外見を大きく上回る大甘ぶりである。

この時点で、後に誘拐されることになる三人以外にも一緒に川下りをするはずだった教育学部の臼井誠二(仮名・当時20歳)がいたが、臼井は、この話を聞いて賢明にも計画の中止を主張。

だが「逃げんのか?」「ここまで来たら行くしかねえだろ」「危険な方がスリリングじゃねえか」と、他のバカ三人が耳を貸さず、結局臼井だけが断念して日本に帰国することになった。

そして彼らは、現地の治安について無知だっただけではない。

物資の補給についての見通しも甘く、辺鄙で商店など一軒もない流域が多いにもかかわらず、十分な食料を調達していなかった。

また彼らが、これから始まる冒険に備えてトレーニングをしているところも女性ジャーナリストは見ていたが、普段から鍛えていないのが見え見えだったし、ゴムボートを専門としている彼らは、カヌーの漕ぎ方があまりにもぎこちなかったらしい。

かように大浜たちは準備も計画もあまりに痛々しかったが、腐っても天下の早稲田大学の名門サークル「フロンティアボートクラブ」所属の学生である。

今回の川下りに際して、そのブランド力を利用して光学機器メーカーのニコンや出版社である集英社を抜け目なくスポンサーにつけ、機材などを援助してもらっていた。

そのためにも、後には引けないという思いがあったのかもしれない。

だとしても、絶対するべきではなかった。

イスラマバードでの滞在中、自殺行為だと確信していた宿の女主人とジャーナリストは、あの手この手で出発を断念させようとしたし、情報収集のために再三訪れた日本大使館の職員にも、中止するように説得されていた。

だがこの愚行は、パキスタン観光省が渋々ながらも許可証を出してしまったこともあって強行される。

そして、この「冒険ごっこ」はスポンサーになってくれた二社に対するものより、はるかに大きな迷惑を日本・パキスタン両国政府にかけることになったのだ。

シンド州で待っていた案の定の展開

アトックの場所

臼井が帰国してしまい三人となったが、早大生たちは現地ガイド一名も加えた四人で、予定通りイスラマバードから近いパンジャーブ州アトックを3月4日に出発した。

一行は当初順調に川を下って南北に長いパンジャーブ州を南下。

途中、パキスタン警察の検問を何度か受けるが、観光省の許可証があるので、それも難なく通過した。

夜になると、岸辺にカヌーをつけてテントを張って宿営地としながらシンド州に入ったのは3月16日。

グッドゥ

このシンド州に入ってすぐにグッドゥ(Guddu)という街があり、彼らはそこを停泊地としてレストハウスに宿泊した。

地図上で見たら目的地のカラチまではあとわずかだが、ここからが厄介である。

なぜなら、このシンド州のインダス川流域こそ、犯罪組織ダコイトが出没する危険地帯だからだ。

とはいえ、彼らが泊ったレストハウスの主人は非常にフレンドリーで、はるか遠方の日本からやってきた若者たちを大歓迎。

しかも彼らがこれから向かう先を知るや、心配してダコイトが出没しない安全なルートをこと細かく教えてくれた。

親切な人だ!そして、さすが地元の人間!

よそ者の大浜たちはそのルートを取ることを即決し、明日からの冒険に備えて久々のベッドに入った。

しかし、彼らはすでにこの時点で、ダコイトに捕捉されていた。

どの国でもそうだが、裏社会の組織というものは、強大な情報網を有している。

パキスタンのダコイトも、ご多分に漏れずそれを完備していた。

誘拐や強盗のターゲットを探知するために、そこら中にシンパがおり、彼らのもたらす情報は、逐一構成員の元に届けられていたのだ。

そして、その情報網の一角を、このレストハウスの主人は担っていた。

主人は、金持ち国日本からの最上級のカモの出現と、その行先を迷わず自身の所属する組織に報告。

しかも、安全だと称して早大生たちに教えたルートは、ダコイトが待ち受けるのに都合のよい場所であり、それも併せて伝えたことは言うまでもない。

翌日、グッドゥを出発して、馬鹿正直にもダコイトのシンパの提示した水路を進んだ一行は、まんまと網にかかり、準備万端待ち構えていたダコイトの大歓迎を受ける。

それは、グッドゥを離れて一時間ほどのことだった。

左岸から自動火器の連射音が聞こえたかと思ったら、うち何発かが至近をかすめたのだ。

「ヤバい!!」

早大生らは、たまらず右岸へカヌーを漕いで逃げたが、そこにもダコイトの一員と思われる者たちが、ショットガンを構えて待ち構えていた。

手慣れた連係プレーである。

すっかり腰を抜かした一行は、抵抗どころか逃走も断念してホールドアップ。

ダコイトに捕獲されてしまう。

ちなみに、彼らが捕まった地点は観光省に許可されたルートから大幅に外れていた。

こうして、インダス川の川下りより、はるかにスリリングで生きた心地すらしない日々が始まった。

最上級人質

ダコイトに捕まった早大生たちは、インダス川のほとりの森の中にある掘っ立て小屋に連行された。

アジトのひとつで、さらった人間を監禁するための施設である。

このような拠点は他にもあり、その後監禁場所が数回変わったという。

とはいえ、さらった人間の身体の一部を切り取ったり、殺すことも平気だと恐れられるダコイトだが、大浜たちに対する待遇は、そんなに悪くなかった。

朝昼晩ちゃんと食事を出してくれたし(むろんカレー)、歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活必需品も支給され、暴行を受けることもなかったらしい。

また、鎖でつながれたり閉じ込められたりも一切なく、監視付きだが近所を散歩することもできた。

彼らは「松竹梅」のうち、間違いなく最上級の「松」の部類に入る人質だったからだ。

まだ金持ち国だったころの日本から来た日本人だから、たんまり身代金が見込める。

交渉がまとまるまで、死なせてはならない。

ゲストに近い人質であり、体調を崩して体重が落ちることもなかった。

一方で「松竹梅」のうち、「梅」にも入らないとみなされると、こうはいかなかったようだ。

ここには早大生以外にも、他の場所でダコイトに捕まった一般のパキスタン人たちが何人かいたが、人質のランクとしては序の口とみなされたらしく、足かせをはめられてムチやこん棒などで、さんざん暴行を加えられていた。

これが、ダコイトたちによる本来の人質の扱い方であったのであろう。

また、それを大浜たちに見せつけることで、恐怖心を植え付ける効果もあったようだ。

そして、ゲストのように扱いながらも、絶妙のタイミングで早大生たちを「身代金の支払いが遅れたら殺すからな」と脅したりして、巧みに心を折って自分たちのコントロールに置く。

本当かどうかは分からないが、冒険家を自称する彼らは、このダコイトのアジトから脱出する計画を練っていたらしいが、常に銃を持った手下たちが抜け目なく見張っていたために、断念したという。

計画性を著しく欠いていた彼らだったが、自分たちがインディージョーンズではないことくらいは分かっていたのだ。

こんな生きた心地のしない生活がいつまで続くのか?と思った早大生たちだったが、捕まってから六日後の3月22日、三人のうち、高原大志だけが解放される。

ダコイトの要求を、日本大使館に伝えさせるためだ。

後に判明したことだが、日本大使館に早大生を誘拐したことを手紙で知らせたのに何のアクションもなく(郵便事情が悪くて届いていなかった)、そのために、致し方なくメッセンジャーとして選んだらしい。

高原は、その足でパンジャーブ州へ向かって、翌23日に同州内の地方都市から日本大使館に電話し、迎えに来た大使館員に保護された。

イスラマバードの日本大使館は、翌月の4月4日に、誘拐事件発生を公表した。

人質解放交渉

外務省は4月4日に、早稲田大学の学生三人が誘拐されたと発表したが、ほどなくして、高原大志が解放されたことを補足。

高原は、残る二人の解放交渉のために必要とみなされたために現地に残る。

この頃には、パキスタンのシンド州政府を中心に、人質解放のための行動は起こされていた。

州政府は対策本部を州内の都市サッカルに設け、地元の有力者を仲介者に立てて早大生をさらったダコイトの組織と交渉を始めた一方で、5日には特殊部隊を投入して、強行救出作戦を行ってダコイトのアジトを強襲するなど、硬軟織り交ぜた対策で臨む。

犯人側の要求は身代金1000万ルピー(当時のレートで6千万)と投獄されている仲間の釈放という法外なものであったため、交渉は紛糾。

早大生たちがいる場所は、シンド州と隣のバルーチスターン州の州境あたりにいるのではと思われたが、強行作戦を続行し続ければ人質に危害が及びかねない。

そのために交渉による解決が図られ、仲介者を介しての人質の解放条件などの交渉は続いた。

4月12日には、犯人側との合意に達したと地元警察が発表し、人質の解放も近いと思われたが、その二日後に解放されたのはパキスタン人のガイドのみ。

ガイドは「警察が動いたら人質を殺す」というメッセージを持たされていた。

その後、犯人側が態度を硬化させて、交渉が中断するなど暗雲が立ち込めた時期もあったものの、粘り強い交渉を続けた結果、残る早大生二人の解放への道筋は整ってきてはいた。

このころまでに多くのパキスタン軍・警察関係者が動員され、日本人が誘拐されたことも地元で大きく報じられるようになっており、20日には、当時のパキスタン首相ナワーズ・シャリーフが「パキスタンに汚名をもたらした事件の解決に全力を挙げる」と記者会見で異例の声明を発表。

パキスタン政府としては、不手際を犯して最大のODA供与国・日本との関係を悪化させるわけにはいかなかったのだ。

そして誘拐されてから44日目の4月30日、最終的な合意をしたダコイトは二人を解放した。

解放された二人

交渉は主にパキスタン側が引き受けていたために、その合意に至った条件の詳細な内容は公表されていない。

だが、パキスタン側は否定しているとはいえ、100万ルピー(600万円)ほどの現金が支払われたとの見方がされている。

イタい冒険者たちの帰国

解放された早大生二人は、解放現場のシンド州インダス川流域から車で、川下りの目的地だったカラチに到着。

在カラチ総領事館に入ってから、シンド州警察の事情聴取や健康チェックなどを受けた後、先に解放されていた高原とともに、5月4日に日本に帰国する。

身内や大学のサークル仲間及び関係者らはもちろん安心したが、世間は彼らを無謀で軽率な行動をして、日本・パキスタン両国政府に迷惑をかけたと批判的な見方が一般的だった。

記者会見では、ねぎらいの言葉よりも厳しい質問が多く、三人は『関係者に大変な迷惑をかけ、反省している』『身代金は払われていないと聞いているが、もし払われていたら働いて返す』と、神妙な面持ちで答えて頭を下げた。

記者会見する三人

だが、本当に心の底から反省していたかは疑わしいと世論は見ていた。

「悪気があってやったわけじゃないのに何で?」という怒られた時の子供のような顔をしているように世の人々の目には映っていたのだ。

早大生の行動に批判的な報道が多かったし、帰国前、彼らはカラチの総領事館でマスコミに『我々がやろうとしたことを理解してほしい』など書いたメモを渡したことも新聞で報道されたりと、その無責任さを糾弾する空気も作り出されていたのが大きい。

彼ら早大生が乗っていた飛行機には偶然、後にアフガニスタンで医療活動や用水路建設で活躍することになる医師・中村哲氏が乗っており、彼らの態度を見続けていた中村氏は、後に新聞記事で『空港での賑々しい記者会見で英雄気取りの態度に、軽蔑の思いで唾の一つでもかけたくなったものである』と憤激。

『パキスタン政府の面目を実質上潰し、日本の恥をふりまいて、意気揚々と帰国した』とまで罵倒している。

中村哲氏

さらに、記者会見での『これからも川下りを続けるか?』という質問に対して、天然ボケと受け取られるような言葉を吐いて世間を完全に敵に回す。

『どこが悪かったかを、しばらく考えて決断したい』などと、人によっては「これにめげずに冒険を続ける」とも解釈できる発言をしてしまったのだ。

それによって、彼らはさまざまなバッシングを受けることになってしまった。

悪気があってやったわけではないのは事実だろうが、計画性のなさと、見通しが甘すぎたのも事実である。

20歳くらいの年代ならば、このような経験と思慮のなさゆえに失敗することは十分ありうるが、彼らはそれを海外でやってしまい、結果的に国際的な大騒動に発展してしまったのだ。

誰にでもある若さゆえの過ちの代償は、人によって、或いは場合や状況によっては、とてつもなく大きなものとなりうる。

バッシングを受けた日々は、ダコイトに監禁されることには及ばないだろうが、耐え難い苦痛だったことだろう。

やがて月日は流れて、世間の早大生たちへの怒りも冷めてゆき、彼らも誰にも知られることなく卒業して社会に出た。

事件が全く語られなくなった現在、誘拐された早大生の一人だった大浜修一は、フリーランスのカメラマンとなって活躍している。

卒業後は某出版社に就職し、専属のカメラマンを経てから独立したらしい。

自分たちを叩いたマスコミの世界に、果敢に入っていったのである。

若き頃にパキスタンでは大失敗したが、少なくとも彼は、日本国内において冒険を続けていたといえるのではなかろうか。

出典元―読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、週刊文春

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90年デンバー、日本人大学生襲撃事件:白人至上主義者の暴力

本記事に登場する氏名は、一部を除き、全て仮名です。


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1990年10月7日深夜、アメリカ合衆国コロラド州デンバー市のダートマス公園。

六人の日本人大学生が現地の若者四人に襲撃され、暴行を加えられた上に金品を奪われる事件が起きた。

当時の日本はバブル期真っただ中。

日本経済は最盛期であり、有り余る金と強い円を背景に、人も企業も海外に進出していた時代である。

同時に、安全な日本と同じ感覚でふるまって犯罪者の恰好の餌食になる邦人が後を絶たず、危機管理の意識の低さが指摘されてもいた。

この災難に遭った六人の若者も、その無自覚な日本人の典型例であることは間違いがなく、彼らのケースは「こうなってはならない」という悪い見本として、その後しばらく語られることになってしまった。

日本人ばかりのアメリカの大学

帝京ロレットハイツ大学(現コロラドハイツ大学)

襲われた日本人大学生たちは、同デンバー市のサウス・フェデラル・ブルーバードにある帝京ロレットハイツ大学の学生たちである。

帝京ロレットハイツ大学とは、その名のとおり日本の私立大学である帝京大学の系列であり、もともと経営難で破産したカソリック系の学校を受け継いだリージス大学から、前年の1989年に買収したものであった。

「国際化」が叫ばれ始めた80年代後半から日本の私立大学の米国進出が相次いでおり、帝京大学もその波に乗ったのだ。

同大学はこれ以後、デンバーの同校と合わせてアメリカに系列の大学を五校も開校させることになるのだが、この帝京ロレットハイツ大学は、他の四校とはやや違った点があった。

それは、建物と土地は揃っていたが、肝心の教授や教員、清掃や事務担当の職員などもおらず、何より、元からそこに通っている在学生がいなかったことだ。

そこで、買収の翌1990年に開校して、新入生の受け入れを始めたのだが、何と帝京大学はその新入生を全て日本国内から募集し、その数は374名にものぼった。

そして、この学生たちの多くは、アメリカの大学に来たからと言って、英語力も目的意識も高い者たちではなかった。

帝京大学を受験した受験生の中で、第二志望として、同じ帝京大学系列の同ロレットハイツ大学を希望するかという試験中に回ってきた書類に〇をつけた結果、ここへ入学することになった者がかなりいたのだ。

つまり、そういった新入生は、第一志望がこのロレットハイツ大学というわけではなく、日本国内の帝京大学に落ちた結果、アメリカまで来ることになったということである。

中には、そこしか合格できなかった者もいたようだ。

しかも、同校の教授陣やスタッフはアメリカ人とはいえ学生は日本人ばかりと、まるで日本国内の大学であるかのようであり、彼らも、日本にいるかのようにふるまうようになった。

もちろん、友達はみな日本人で、いつも話しているのは日本語である。

彼らが現地入りしたのは4月で、9月の本入学まで時間があり、それまで他の州へ研修に出かけたりと、みっちり英語のトレーニングを受けさせられていた。

しかし、元々のレベルがたいしたことなく、周りが日本人ばかりの環境では、どの程度向上したか推して知るべしであろう。

事実、本入学から学校での授業は全て英語だったが、学生たちのほとんどは、その内容を理解できなかったという。

どう考えても、アメリカの大学に来た意味がほとんどない。

もっとも、学校の外は完全にアメリカの街であり、ずっと学内や寮に閉じこもっているわけにもいかない学生たちは、最低限街に出る必要はあった。

だがこのデンバー市は、アメリカの中でも治安がかなり良い街であり、開校前にも地元住民たちによる露骨な反対運動なども起きておらず、街に金を落としてくれると、同市は帝京大学の進出を表向きは歓迎していた。

おかげで、彼ら日本人学生も街中で、受験から解き放たれた解放感をたいして危険な思いをすることなく、味わうことはできたようである。

しかし、この1990年は、国内経済が低調だったアメリカの不動産や企業などを日本企業が買いあさっていたこともあって、アメリカ人の間でやっかみ半分の「ジャパンバッシング」が起こっていた時代だった。

ジャパンバッシング

この一見友好的で平穏そうなアメリカ中西部の街にも、金にモノを言わせて大挙してやって来た日本人たちに反感を募らせ、それを行動に移す者たちはいたのだ。

帝京ロレットハイツ大学は、その年の開校早々、学校の敷地内に「ジャップス・ゴーホーム」と書かれたダイナマイトに似せた発煙筒が投げ込まれたり、学生の中には、白人の若者に怒鳴られたり、モノを投げつけられたりの嫌がらせを受ける者も出はじめた。

正式な授業が始まって間もない9月30日には、不用意にも深夜に外出した日本人学生二人が殴られて所持品を奪われる事件が起きているが、これは表沙汰にならなかったこともあって、他の日本人学生たちの危機意識を高めることにはならなかった。

そして翌月の10月7日深夜、これらノー天気な日本人学生たちばかりか、日本本土の日本人まで凍り付かせる事件が起こる。

1990年10月7日、事件発生

その前の日の10月6日は日本人学生の一人、小松善幸の20歳の誕生日。

それを祝って小松の友達の高石健、永田真也らが学校の寮の一室で飲み会を開いていた。

若者たちの飲み会なので、日が変わった夜12時になっても、宴たけなわでお開きになる気配がなかったが、ここは大学の寮である。

寮には「クワイエットタイム」という、騒いではいけない時間帯が規則として設定されており、いつまでもはしゃぎ続けるわけにはいかないのだ。

そこで、まだまだ飲み足りない彼らは、大学のすぐ近くのダートマス公園で飲もうということになり、寮を次々に抜け出した。

もちろん、この行為も寮の規則に違反している。

ダートマス公園(現ロレット・ハイツ・パーク)

彼ら日本人学生たちにとって、誰かの誕生日などは適当な居酒屋もカラオケボックスもないデンバー市では、恰好の憂さ晴らしだったのだろう。

規則を破って公園に集まったのは、30人近くにも上った。

学生たちは、園内の街灯の下に集まって「二次会」を始めた。

バンドをやっている高石の仲間の永田が、持参してきたギターで演奏を始め、酔いが回っていた学生たちも、カラオケ替わりに歌い出す。

デンバー市が、いくらアメリカでも治安の良い街とはいえ、真夜中の公園で飲み会とは無警戒極まりない。

しかし、学生たちは以前にも、他の学生の誕生日を祝って深夜のダートマス公園でこのように騒いだことがあり、今回が初めてではなかった。

しばらく飲んだり歌ったりのどんちゃん騒ぎをしていたが、高原都市デンバーの夜は10月初旬でも冷える。

やがて、大勢いた学生たちも一人二人と寮に引き上げ、残ったのは、今回の飲み会の主役である小松善幸、その友人の高石健、永田真也、矢萩芳樹、前原健吾、久木田恵一の六人のみとなった。

彼らは朝まで騒ぐつもりだったようだが、六人になってほどなくして、自分たちのすぐ近くに人が来ていることに気づく。

寮からの新たな参加者ではない。

現地の白人の若者たちで、全部で四人いる。

そのうち一人の長髪で2m近くの長身の男が口笛を吹くと、彼らは、小松たちを囲むような配置を取った。

その様子から、お友達になりに来たのとは逆であることが明らかであり、おまけに手にバットを持っている。

そのバットの用途は、状況から考えて容易に察しがつく。

相手は自分たちより少人数だったが、どいつもこいつも自分たちより強そうな白人の男たちを前に、肝っ玉の小さい日本人学生たちは震えあがった。

日本の街中で、ヤンキーに絡まれるよりずっと怖い。

「Show me your fukking ID!!」

やがて、そのうち一人の口ひげを生やした男が、IDを見せるように高飛車に命令してきた。

「アイドントハーブアイディー、ビコウズ…えと、えと…」

寮からそのまま出てきたので、IDなど持っているわけがない。

最初、その招かれざる客が公園の警備の人間か何かだと思った学生もいたようだが、続けて白人の一人が金を要求するようなことを言ってきたのを聞くや、誰もがこれはおかしいことに気づく。

彼らの貧弱な英語力でも、これがカツアゲそのものの脅しであることはわかったのだ。

「なあ、これやばいんちゃう?もうずらかろうや…」

六人のうち、矢萩が高石にボソボソとささやいたが、すでに遅い。

もう完全に囲まれてしまっていたのだ。

「Lay down!!」

次に、男たちは腹ばいになれと命令し、永田の持っていたギターを取り上げて破壊した。

呆然と突っ立っていた日本人のうち、前原が長髪の男につかまれて、もう一人の白人に、バットで太ももをはたかれて倒れ込む。

本格的な暴力に震えあがった根性なし六人は、一斉に言いなりになった。

腹ばいになった直後、まず最初に思わず顔をあげた永田がバットで頭を殴られ、それを合図に、他の者たちに対しても仕置きが始まった。

頭を殴り、思わず手で頭を覆うと、すかさずガラ空きの脇腹にバットがジャストミート。

起き上がろうとしようものなら背中に渾身の打撃を加えられ、かと言っておとなしく腹ばいになっていても、連続的にバットの一撃が降ってくるなど、小癪で無慈悲な攻撃が加えられた。

白人の襲撃者たちは、暴行しながら学生たちのポケットを探ったりして、財布やら金目の物を盗ってゆく。

小松は、指にはめていた指輪を先ほど口笛を吹いた長髪の大男に要求されたために、あわてて抜こうとしていたが、まごつき、イラついた長髪野郎に顔を蹴り上げられた。

しかしこの時、四人で六人の相手をしていた襲撃者たちにスキができる。

それを見ていたのか、高石が起き上がるや、公園の外へ向けて走り出す。

さらに、白人たちがそれに気を取られたのに乗じて、矢萩、永田、久木田が逃げ出し、一呼吸遅れて、小松と前原もそれに続いた。

白人たちも追いかけてきたが、てんでバラバラの方向に逃げる日本人学生の誰を優先的に追跡するかまごついたらしく、誰一人捕捉することができない。

逃走中に小松は公園を抜けて通りに出たところ、停車しているパトカーの存在に気づく。

中には警官が乗っており、何か書類を書いている。

助けを求めようと、パトカーのボンネットをたたいたら警官が出てきたが、何と警官は小松を捕まえようとしてきた。

不審者だと思ったようだ。

だが、小松には状況を説明できるような英語力はなく、公園を指さしてとっさに出たのは「向こう!向こう!」という日本語だった。

アメリカで半年間、何をやっていたのだろうか。

その後、小松は一瞬あっけにとられた警官をも振り切って寮に駆け込むことに成功したが、殴られた頭からは流血していた。

他の高石たち五人の学生も、ケガを負いながら逃走に成功していたが、彼らはこの件が表沙汰になることを恐れ、警察に通報することなく部屋に閉じこもる。

アメリカでは、法律で21歳以上でないと酒が飲めず、彼らは皆現役か一浪だったために、その年齢に達している者はいなかったからだ。

また、寮の規則を破って真夜中に公園に行っていたことも具合が悪い。

だが、逃げた小松を追って寮内に入ってきた警官たちに詰問されて、隠し通すことは不可能になる。

ともあれ、全員が負傷していたので、その夜は救急車で病院に運ばれた。

その後

バットまで使った暴行を加えられた彼らだったが、幸いにも頭部裂傷や打撲を負ってはいても命に別状はなく、骨折などの重傷者もなかった。

だが、この事件は被害者の思惑とは裏腹に大いに表沙汰になってしまい、日本国内でも報道されてしまう。

この事件は、当初から日本人に反感を持つアメリカ人によるヘイトクライムではないかと日本国内では予想されており、アメリカの暗部の恐ろしさを、国内の日本人に大いに知らしめた。

同時に、真夜中の公園に出かけて騒いでいた日本人学生の軽率さにも非難の声が上がる。

その声は、特にアメリカ在住の日本人や日系人からのものが大きかった。

さらには学生たちだけでなく、アメリカ国内に開校した学校に日本人だけを受け入れたおかげで反発を招いたとして、帝京大学を批判する人も少なくはなかった。

一方、現地のデンバー市警も、この事件はヘイトクライムである可能性があるとして捜査を開始。

その結果、一か月後の11月にロレットハイツ大学の近所に住むジェームス・クロース(実名・当時18歳)、ハワード・クロース(実名・当時17歳)、デリック・ニース(実名・当時15歳)、トム・スティーブンス(実名・当時20歳)を、事件に関係したとして逮捕した。

これらの犯人のうち、ハワード・クロースは主犯のジェームスの弟で、同じくこの事件の犯人であるデリック・ニースとともに、直前の9月30日に起こったロレッタハイツ大学の日本人学生の暴行にも関与しており、9月の事件の捜査で容疑者として浮かび上がった結果、この事件にも関わっていたことが判明して、犯人全員が御用となったようだ。

犯人たちは不良少年グループであり、日本人学生を暴行する直前には、駐車していた車を破壊している。

そして、ジェームスとハワードの兄弟は、白人至上主義者との関わりを周囲に吹聴し、普段から公然と日本人のことを「ジャップ」と呼んで嫌悪していた人種差別主義者でもあった。

日本の報道では、彼らが白人至上主義の秘密結社であるKKK(クー・クラックス・クラン)の関係者の可能性を指摘していたが、実際はスキンヘッズなどの団体の名刺をもらってはいても、有色人種襲撃などの目立った武勇伝を持っていないジェームスたちは、当の白人至上主義者から軽んじられていたらしい。

そんなジェームスらが日本人を襲ったきっかけは、全くの偶然だった。

それは、犯人グループ四人に少女二人を加えた六人が、その夜にビールを飲んだ後にドライブに出かけ、途中他のグループに喧嘩を吹っ掛けられたことから始まる。

相手は人数でかなわぬとみたらしく退散したが、彼らのむしゃくしゃは収まらず、家に帰ってバットやこん棒を車に積み込むと、誰でもいいから殴るつもりで、再び出かけたのだ。

事件の舞台となったダートマス公園の近くまで来た時、駐車していた車をうっぷん晴らしに破壊した後、彼らは園内から響く騒ぎ声を耳にした。

「あいつらをやろう」

まだまだ暴れ足りないジェームスたちの次なるターゲットは決まった。

彼らも、よくこの公園で夜中にビールを飲んだりして騒いだことがあり、「誰だか知らねえが、オレらの縄張りで勝手なことしやがって」という気持ちもあったんだろう。

公園内で騒いでいるのが何者か、まだこの時点ではわからなかったが、女たちを車に残して、四人はぶちのめす気満々でバットやこん棒を手に園内に入って行き、同暴行事件が起きることになる。

日ごろから嫌っているジャップが相手だとわかり、相手の中に抵抗してくる気合のある者がいなかったこともあって、ジェームスたちは大張り切りで、やりたい放題やってしまったのだ。

主犯のジェームスは警察の取り調べで、日本人に因縁をつけて暴行したのは、主に弟のハワードとデリックであり、自分は暴行にバットなどを使っていなかったし、自分が暴行に参加したのは、日本人に殴られたためだと主張。

しかし、このジェームスは長髪に195cmの長身という特徴があり、被害者の学生たちの証言で出てきた口笛を吹いて他のメンバーに指図したり、小松の顔を蹴り上げて指輪を奪ったりの大活躍をした、まさにその人物であったことは言い逃れようがなかった。

そして開き直ったのか、警察でのビデオ撮影付きの事情聴取ではふてぶてしい態度を取り、「ジャップ」という差別用語を何度も使い、白人至上主義者との交流をここでもほのめかした。

だが、この態度と供述で、ジェームスは墓穴を掘ったことになる。

アメリカは、人種差別がらみの犯罪には厳しい国だ。

ジェームス・クロースは、くだんのビデオでの供述の結果、翌年1991年5月の裁判において、ヘイトクライムの他、加重強盗、第二級暴行罪などで有罪になり、下された判決は何と懲役75年。

求刑の際には、自分の予想をはるかに超えた刑期だったことに動揺し、195cmという無意味に大きな体をくねらせて慟哭したという。

弟のハワード・クロースも、犯行当時17歳であったが成人と同じように裁かれ、ヘイトクライムで悪質極まりなかった犯行に積極的に加担したこともあって、兄と同じ懲役75年を下された。

デリック・ニースは、犯歴を重ねた本格的な不良少年であり、学生たちにIDを見せろと命令したり、暴行にも大いに参加していたが、15歳という年齢から少年裁判所で裁かれ、刑期はたったの2年だった。

トム・スティーブンスは、最年長の20歳だったが、犯行にはあまり関わっていなかったとみなされ、裁判で証言をすることを条件に司法取引し実刑を免れた。

一方の被害を受けた学生たちのうち、小松、高石、前原、久木田は、その後も大学に通い続けたようだが、永田と矢萩は退学して日本に帰ってしまった。

日本は事件の翌年、バブルがはじけて失われた時代が始まり、もはや我が者顔で日本人が海外をのし歩ける時代ではなくなっていったが、帝京ロレットハイツ大学はコロラドハイツ大学へと校名を変更し、帝京大学グループのうちの一校として、現在も存続している。

そして、この事件は、その後しばらく、これから海外へ出ようとする日本人に対する警鐘を鳴らすものとなった。

しかし、その警鐘は長く響かなかったか、聞こえても耳を素通りしていた者がいたようだ。

翌1991年のパキスタンを舞台に、この帝京ロレットハイツ大学の大学生を、はるかに上回る軽率さと身勝手さで、より大規模な犯罪に巻き込まれる日本人大学生が現れるのである。

続く

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