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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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『喧嘩芸・骨法』の技術と精神を知っているか?


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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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若き犯人たちの無謀な誘拐事件 – 1995年・足立区小二女児誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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吉永小百合を襲った男 ~武闘派モンスターファン~


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ある一定以上の年齢の日本人ならば、吉永小百合という人物を知らない方は圧倒的に少ないであろう。

2022年3月の現在でもキリンのCMに登場したりしているから、比較的若い世代の方でも、今まで一度はその名前を耳にしたか、テレビ画面でその姿を見たことがあるはずだ。

1945年3月13日生まれの吉永氏は、1957年に小学5年生でデビュー以来、『キューポラのある街』などの名作をはじめ、これまでに100本以上の映画に出演。

歌手としても成功をおさめ、テレビドラマやCMの出演は数知れず、2006年に紫綬褒章を受章し、10年には文化功労者にも選ばれた日本を代表する大女優である。

日本映画の全盛期だった1960年代には、まだ10代だったにも関わらず(10代だったからこそか)、所属する日活の看板女優として日本中、特に男性ファンの目をくぎ付けにしていた。

1963年、そんなまばゆいばかりに輝く銀幕のスターだった吉永氏が、自宅に侵入した熱狂的なファンに襲撃される事件が起きる。

芸能人が狂ったファンに襲われる事件は現代までたびたび発生しているが、この時吉永氏を襲った男は、そんじゃそこらのモンスターファンではなかった。

吉永小百合家への侵入者

事件が発生したのは、1963年8月9日夜9時45分のことである。

当時、吉永小百合氏は人気絶頂の映画女優でありながらもまだ18歳の高校生であり、東京都渋谷区西原某所で家族と同居の身。

その日、彼女は16歳の妹と共に自宅の二階にある自室に向かおうとしていた。

俳優業で多忙でありながら大学進学も希望していた彼女は、目前に控えた大学入学検定試験に備えて勉強をしようとしていたのだ(高校は撮影で休みがちだったため出席日数が足りなかった)。

だが自室のドアを開けた瞬間、あり得ない異常事態に遭遇することになる。

自分以外いてはならないはずの完全なプライベート空間たる部屋の洋服ダンスから、見知らぬ男が現れたのだ。

しかもその両手には、刃物ともう一つ奇妙な物体が握られているではないか!

びっくり仰天した二人は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、家族のいる一階に逃げた。

この時、吉永氏は階段から転げ落ちて軽傷を負っている。

一方の侵入者は追いかけてくることもなく、部屋にとどまっているようであった。

吉永氏から事情を聞いた父親は、すぐさま警察に通報。

駆け付けた警官六人は、吉永一家五人を退避させると、男が居座る二階に向かう。

しかし警官たちは、男が片手に刃物を持っていることを聞いており、あらかじめ危険なことは承知していたが、もう片方の手に刃物より危険なものを持っていたことは知らなかったようだ。

二階に踏み込もうと階段を上がっていた時、犯人が現れて階段上で仁王立ちするや、その謎の物体をこちらに向けたかと思うと、耳をつんざく破裂音。

先頭の警官が崩れ落ちた。

男が持っていたのは手製のピストルだったのだ。

籠城戦

撃たれた警官は、あごに弾を食らっており、全治二か月の重傷であった。

かなり危険な暴漢と判断した警官隊は、階下にとどまって応援を要請。

やがて、最寄りの代々木署だけではなく、防弾チョッキやヘルメットで身を固めた機動隊員らも駆けつけ、総勢300人近くが吉永家を包囲した。

周りは一般の住宅が立ち並んでいるため、警官の静止にもかかわらず、物見高い付近の住民たちが出てきて現場は騒然となっていた。

警官隊は、吉永氏の部屋に引きこもった犯人に向かい拡声器で投降を呼びかける一方、決死隊の五人がはしごで二階に上がり、犯人のいる部屋の向かいの日本間に陣取る。

また、階下からもピストルを構えた警官が階段を上がって犯人に迫り、ドアを挟んで対峙した。

「武器を捨てて出てこい!さもないと撃つぞ!」

「そんなおもちゃの銃で何ができるんだ!」

警官隊は犯人に向けて怒鳴ったが、

「試してみっか!?まだ弾は持ってんだぜ!!」

と怒鳴り返され、部屋の中からもう一発、発砲音が響いた。

かなり好戦的な犯人である。

強行突入もやむなしと判断した警官隊は催涙弾の準備が整えたが、にらみ合いが続いて40分ほど経過した午後10時20分ごろ。

部屋のドアのガラス部分が中から突然割られ、ピストルと思しき物体と刃物が投げ出された。

逃げられないと観念したのだろう。

男が投降したのだ。

すかさず警官隊は部屋に突入し、犯人の確保に成功した。

犯人の目的

逮捕されたのは、都内に住む旋盤工の渡辺健次(26歳)。

未成年のころにも強盗未遂事件を起こし、少年鑑別所に送られた経歴を持っていた。

渡辺健次

確保された時に手に傷を負っていたが、これは警官隊との押し問答の最中に手製ピストルを暴発させたのと、投降の際にガラスを割った時に負ったものである。

職場の上司の話によると、渡辺は勤務態度が不真面目であり、犯行に使ったピストルや弾丸も仕事中に作ったものらしい。

犯行に使用したものを含めてピストルは5丁も製作、単発式で孔径は7ミリであり、逮捕時にはまだ13発も弾丸を所有していた。

渡辺の自家製ピストル

渡辺は当初「有名人の家なら金があるだろうと思って忍び込んだ」と供述していたが、その後、吉永小百合の大ファンであり、最初から吉永氏を目的としていたことが判明する。

それはアパートの部屋の壁に切り抜かれた吉永小百合のグラビアがベタベタ貼られ、それは職場の旋盤にも貼っていたほどだ。

やがて写真やスクリーンだけでは飽き足らなくなり、雑誌で住所を知るや実物に会いに行こうと、何度も自宅周辺に出没していたことが分かる。

ちなみに吉永氏の父親の話によると、このような図々しいファンは珍しくなく、自宅付近を不審者がうろつくのは珍しくなかったようだ。

だが、渡辺がそんじゃそこらの不審者と違ったのは、ピストルまで作って自宅に侵入した以外にも、よりおぞましい目的を持っていたことである。

渡辺は、吉永家侵入時にピストルや刃物以外にも数本束ねた針と墨汁を持参して来ており、その用途たるや、

「小百合ちゃんの手か足に俺の名前を入れ墨しようと思った」だったのだ。

未遂に終わったとはいえ、後に国民的大スターとなる人物に自分の名前をネーミングしようとは、とんでもない野郎である。

国宝の法隆寺や清水寺に落書きをするのに等しい犯罪行為といっても過言ではない。

もし本当に実行されてしまったならば、吉永氏は女優として再起不能となっていたことであろう。

ばかりか、自分を襲った男の名前を否応なく目にし続けて、歯ぎしりしながら一生を送ることになったはずだ。

危うく難を逃れた吉永氏だったが、この一件で重大な精神的ショックを受けてしばらく立ち直ることができず、受ける予定だった大学入学検定試験も欠席。

高校も留年する羽目になってしまった。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌 2 – 中高年のキレる心理と対策


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最近いい歳こいた中高年がキレやすくなっているみたいだ。

そして、彼らがキレる相手というのは、駅の駅員とか店の店員が多いようである。

向こうは立場上逆らってきたりすることはなく、こちらは言いたい放題言えるはずだと、そのトチ狂った頭でタカをくくっているんだろう。

だが、平謝りする店員ばかりではないようだ。

今回お話しするのは、そういった例外に出くわしてしまった不幸な愚か者についてである。

某牛丼店での出来事

私は現在テレワークの身の上であり、自宅で仕事している。

昼食は時々外食で、12時から13時を避けて14時くらいに行く。

あんまり混んでいない時間を狙っているのだ。

その日、私が入ったのは某牛丼チェーン店。

同店は、一か月に二、三回くらいは利用している。

その店での注文は、入り口近くのタッチパネル式の券売機で食券を購入して、提供口まで持って行くというセルフサービス方式だ。

そしてその出来事は、客が私一人しかいない店内で私が食事している時、食券の券売機の前で始まった。

新たにやって来た客で、声の感じから60代くらいの男が、比較的大きな声を出し始めたのだ。

「おい!おーい!おーい!!」

どうやら店員を呼んでいるらしいが、少々横柄な感じである。

厨房には若い男の店員が一人しかいないようで、呼び続ける60男に対して、やや一呼吸遅れた感じで向かった。

「はい?」

一応、ここまでは店員として普通の対応だったし、それまでの一連の出来事に対して、私もあまりたいして気に留めることもなく飯を食い続けていた。

だが、この60男はかなり勘違いした男だった。

その店員に向かって、

「呼ばれたら返事しろ!」

と高飛車なモノ言いをするのだ。

さらに

「モタモタするな!さっさと来い!」

とも続ける。

何を勘違いしてるんだ、この男は?

客だからって、その態度はないだろう。

しかし次に、その店員が取った対応は全く普通のものではなかった。

少なくとも、この日本において私の知る限り、カタギの飲食店において、客に対する態度では全くなかったのだ。

チンピラ店員

「あん!?」

文句を付けられたその若い店員が発した第一声である。

聞き間違いではない。

とっさに出てしまったというより、ケンカ上等な男がいちゃもんを付けてきた相手に発するような「あん?」なのだ。

その後に「なんか文句あんのか?」と続いてもおかしくない感じの。

60男は、店員にあるまじき反応にカチンときたのだろう、

「“あん?”とはなんだ!」

と怒り出した。しかし店員は全く動じない。

そして次に続いた対応で、さっきの「あん?」という挑戦的な応答が、確信犯的なものであったことが明白となる。

「だから、ナンか用かよ?」

「お前なあ!その口のきき方は…!」

「用があんだろ?サッサと言えよ」

信じられない。

クレーマーが相手とはいえ、完全に店員の対応ではない。

多少声を荒げ、ぶれることのない毅然とした凄みまで効かせている。

「お前などに頭は下げんぞ」という確固たる意志と「これ以上文句つけるとただじゃおかんぞ」という気迫を60男も感じたんだろう。

「この券売機、全然動かんぞ…」

と、さっきより気勢をそがれた感じで用件を言い始めたのだが、店員の態度は変わらなかった。

「どこ押したんだよ?」

「ここだよ、ここ」

「そこじゃねー、ここだよ!“注文”って書いてあんだろがよ」

「わかりにくいんだよ…」

「頭使えよ、ボケ」

もう一度言うが、これは客と店員の会話である。

しかもこの店は、全国展開している大手なのだ。

後ろ姿だったが、店員は片手をポケットに突っ込み、頭を多少傾けて、60男の方をにらみ続けているような剣呑な感じがした。

舌打ちを交えたりして、完全にチンピラそのものの態度だ。

文句をつけた店員の思わぬ反応にひるみ始めていた60男だったが、「頭使えよ、ボケ」には頭に来たらしい。

「何だと!もういっぺん言ってみろ!」とまた元気になって大きな声を出したが、店員の方は「だから、頭使えって。ボケェ」と冷静に挑発。

完全にケンカなら買う、という態度なのだ。

ここに至って、これ以上食ってかかるとヤバイことが、さすがの60男にもわかり始めたようである。

「こんなトコ二度と来ねえからな!」

と捨て台詞を吐いて、店から出て行った。

完全に60男の敗北である。

「オウ、来んな来んな!とっとと消えろ!!」

店員は尻尾を巻いて去って行く60男に対して、追い打ちの罵声を浴びせる。

外の通行人にも聞こえるくらいの声で。

「ったくよ。偉そうにしてんじゃねえ」

と、その後、舌打ちをしながら厨房に戻っていった。

何となく、私にも聞かせてるような気がしたのは思い過ごしだろうか。

なんちゅう店だ。

長年利用してきたが、こんな店員が雇われていたとは。

この店で、絶対にクレームをつけてはいけない。

てか、今後の利用は見合わせようか。

さっきの60男こそ、一番問題であったのは言うまでもないが。

キレる中高年につける薬

この出来事で、私なりに一つ気づいたことがある。

それは、

キレる中高年は、相手にキレ返されると弱いのではないのか?

ということだ。

考えてみれば、体力も気力も弱っているはずの中高年が、若い者との真正面からの対決に耐えられるはずがない。

手を出されなくても、出されるかもしれない気迫で向かって来られたら、身の危険を感じて素直にひるむはずだ。

またそんなことされたら、次キレそうになった場面があったとしても、二の足を踏むであろう。

二度と過ちを犯させないためには、反省させるよりも恐ろしい思いをさせる方が、簡単かつ効果的であるのは間違いない。

だから、もしお若いあなたの周りで、もしくはあなたに対して理不尽にキレてくる中高年がいたら、

彼らにちょっと怖い思いをしてもらって、気安くキレるとどうなるか教えて差し上げてもいいんじゃないだろうか?

人間いくつになっても勉強は必要、学びに遅すぎることはない。

彼らのためにも、何より社会のためにも。

ただしケガさせたり、死なれたりしない程度に。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌


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最近、いい歳こいた中高年がキレやすくなっているようだ。

キレると言えば、血気盛んな若者というイメージだったが、今では分別がついてしかるべき年代のおっさんやじいさんが駅や公共の窓口などで些細なことから暴言を吐いたり大声を出したりすることが多くなってきているらしい。

また、暴言にとどまらず直接手を出してしまうケースも多い。

社会環境の変化とか、老化により感情のブレーキが利かなくなってきたからとか専門家がいろいろ論じているが、情けないことには変わりがない。

精神的に未熟で怖いもの知らずな若者が暴れる方が、まだ健全な社会であるような気がするのは私だけだろうか。

どちらにせよ、どんなことがあっても中高年の男性が公衆の面前で自分勝手な理由からキレるのは断じてあってはならないと私は断ずる。

それはハタ目から見て、見苦しいからだけではない。

キレた相手によっては、とんでもない目に遭うからである。

私自身もかように見苦しくキレまくる中高年に出くわしたことがあるのだが、これからお話しするその男の場合、キレた彼にキレた者の出現により、公開処刑されてしまったのだ。

オラつく五十男

あれはまだ、コロナが流行する前の朝の通勤ラッシュ時。

最寄り駅のO線K駅から各駅停車に乗って、通勤快速に乗り換えようと二駅先のS駅で降り、ホームで電車を待つ客の列に並んでいた際のことだ。

S駅に通勤快速がやって、来てドアが開いて乗っていた客が降り、私も含めて入れ替わりで待っていた客が乗り込もうとしたとたん、電車の中から突然、大きな怒声が響いてきた。

「オラ!まだ降りる人間がいるんだよ!!」

大声で吠えたのは、背が高い五十代前後の男である。

特にガラの悪そうな感じではなく、背広にネクタイ姿の普通のサラリーマン風だったが、そのオラつき方は、ヤカラそのものだった。

「どけよ!!」とか「目障りなんだよ!」とか威嚇しながら、いらだった様子で、満員の車内の乗客や乗り込もうとしていたホームの乗客を強引に押し分けて出てくるのだ。

運悪く彼の進路に立っていた弱そうな中年男性は「邪魔だボケ!」と怒鳴られてどかされていた。

何なのだこいつは?いい歳のくせに、大声出してチンピラ気取りおって。

朝っぱらから気分が悪い奴だ。

電車から降りることに成功した五十男だが、その機嫌は収まらない。

「どけっつってんだろ!!」

と、今度はホームから電車に乗り込もうとしていた客の一人である男性に、勢いよく肩をぶつけた。

周りの客は道を開けたのに、その男性だけは、自分の前に立ったまま譲ろうとしなかったからだ。

ぶつけられた勢いで、半身をのけぞらせたのは若い男。

五十男を振り返った顔を一瞬見た感じでは、大学生風の大人しそうな風貌であった。

だが、次の瞬間にその若い男が示した反応は、嫌な気分になった我々通勤客を、今度は凍り付かせることになる。

公開処刑の開始

「待ちやがれ、このボケ!!!」

肩をぶつけられた若者が五十男より大きな声で、何より周囲を震え上がらせる凄絶な怒声を発したかと思うと、不機嫌そうに立ち去ろうとする五十男の襟を、後ろからつかんで一気に倒した。

さらにホームに倒された五十男のネクタイをつかみ、なおかつ膝を腹に乗せて完全に動きを制すると、もう片方の腕に体重を乗せた感じで、首に押し付ける。

「何だテメー!」

不意討ちを食らった五十男も、負けじと若者の胸倉を下からつかんで抵抗を試みていたが、威勢がよかったのはここまでだった。

抑え込まれた上に、首に押し付けた腕にさらに体重を乗せられ、「ぐぐぐ」とかうめき声を出して、苦悶の表情を浮かべる。

五十がらみとはいえ、身長が高くてそれなりに体力もありそうな男を、ここまで一方的に制するとはかなりの強者だ。

だが、厄介なことに、この若者はかなりの危険人物でもあった。

「ナメてんのか?相手選べよコラ!!」とか、

「死にてえなら、やってやんぞ!オイ!」とか、

五十男を抑え込みながら、はるかに年齢が上の男を、かなりドスのきいた声で脅すのだ。

いかにも、こういうことを何度もやってきたような手慣れた感じでもある。

五十男も、ケンカを売った相手を間違えたのに気付き始めたらしい。

若者の圧倒的な腕力と迫力を前に抵抗できなくなって、されるがままになりつつある。

しかし、素直に屈服するのはプライドが許さなかったようだ。

「仕事行くんだよ…、放せよ…」

素直に謝ればいいものを、泣きが入り始めたのをごまかそうとしている。

苦しそうな顔と漏らした言葉の調子からは、もうさっきの威勢の良さは微塵もない。

ここまでだったら、年甲斐もなくオラついた男が若きホンモノに退治された痛快な出来事を目撃したとして、気分よく職場に行けただろう。

だが、違った。

ゴン!!

五十男が苦し紛れの言葉を吐き終わるや、若者はその顔面に渾身の頭突きをかましたのだ。

こちらにまで、音が聞こえるくらいの勢いで。

「ぶぶ~!」

とか言って、鼻に打撃をもろにくらったらしい五十男は、顔を押さえた。

その手の間から、みるみる血があふれ出す。

「傷害だぁ…、傷害事件だぞぉぉ~~」

顔を押さえながら声を裏返らせて、もう完全に泣きが入ったみたいだ。

いくら傍若無人な態度で他人を不愉快にした相手とはいえ、若者もこれはやりすぎだろう。

周りの乗客はもちろん見ているだけで、駅員もオロオロして止めに入ろうとはしない。

私も、その一人であったことを告白するが。

「ケンカしてえんだろ?なあ?オイ!聞いてんだろ!!」

一方の若者は、なおもネチネチと脅し続ける。

もうすでにソロのオヤジ狩り。

ハイエナがライオンにやられているようなもんでもあり、嫌な食物連鎖でもある。

私はこのままずっと見ていようかとも思ったが、仕事に遅れそうだし、あの若者が今度は私に「何見てんだ」とか絡んできたらたまらないので、次の電車に乗った。

電車に乗り込む際、後ろから、

「あん?ゴラァ!!オイッ!!」

と、若者が五十男をいびり続ける声が耳に入ってくる。

ドアが閉まって電車が発車しても、ホーム上の客も車内の客もみんなそちらの方向を見ていたからまだまだ続いているようだった。

ヤバい光景を見てしまった。

あの五十男も元々気が短いんだろうが、本当にヤバい奴と渡り合うのは、未経験だったはずだ。

ホンモノを相手にしてしまい、あっという間に制圧されて、ねちっこくシバかれ続けて、明らかにビビッていたからな。

あんなことをされた以上、心的外傷ストレス障害まっしぐらで、もう公衆の面前で怒声を張り上げることは、終生できんだろう。

というか、もうS駅で降りることも、電車に乗ること自体が怖くなってしまったんじゃないか?

同情する気は全くないが。

中高年は若い男にケンカ売っちゃだめだ、とも心底思った。

若い男は若い女ほど可愛らしい存在ではない。

こちらを圧倒する体力があって、その気になれば、こちらを素手で殺せるはずだからな。

そして何より、世の中高年の紳士諸君もどんなにイラついても年甲斐もなくオラつくのは、やめた方がよいだろう。

「うるせえオヤジだ」とかムカついて、突っかかって来る若者もいるかもしれないから。

あのS駅での事件が、その後どうなったかは知らない。

最初の方は嫌な気分になった後で面白いことになったけど、最後の方でドン引きしたが。

何より、大勢の人の前で男廃業させられた五十男に合掌。

助ける気が全然起きなくて、誠に申し訳ない。

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