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子供の願いが奇跡を生む瞬間 – ザ・パチンコ看板


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小学生低学年だった頃、学校にほど近い国道沿いにパチンコ店があった。

名前は『ザ・パチンコ ○○閣』

夕方、暗くなり始めると『ザ・パチンコ ○○閣』とド派手なネオン看板を輝かせ、国道を行き交う車に存在をアピールしていた。

私の通っていた小学校の児童たちの多くは当然『○○閣』の存在を知っていたが、夜になると輝き出すその看板に対して、みんな秘かな願望を抱いていた。

『ザ・パチンコ…』の「パ」の字消えたら面白いだろうな、と。

実にレベルの低い、子供じみた願望であったが、小学生は子供なんだから仕方がない。

同時に子供ながら「そんなうまくいくわけはない」ことは分かっていた。

いくら何でも世の中そうそう願ったりかなったりになることはあり得ないことくらい、人として生まれて7、8年生きれば十分達観できるのだ。

だが、その後「願ったりかなったり」がドンピシャリで実現してしまうことも時にはあるのが世の中だと知ることになる。

それは私が小学校二年生時の10月末、土曜日の夕方だった。

当時の私は、毎週土曜日に親に車で送り迎えしてもらってスイミングスクールに通っていたが、夕方となる帰り道はいつも『○○閣』のある国道。

輝く『ザ・パチンコ ○○閣』のネオン看板を横目に見ながらの帰宅となり、通りかかるたびに「パの字消えろ」「パの字消えろ」と念じていたものだ。

そしてついにその日、純粋で無垢だが限りなく呪いに近い子供の祈りが、超自然的な何者かによってかなえられたがごとく具現化していた。

見事に消えてくれていたのである。
『ザ・パチンコ ○○閣』の「パ」の字だけが!

世の中捨てたものじゃないと子供ながら感激した。

切なる願いがここまで思った通りにかなってくれたことが信じられず、私は生まれて初めて神を身近に感じたくらいだ。

それにしても。

ずっと何度も実現した時のビジュアルを想像してはニヤニヤしていたが、

いざ現実に目の当たりにすると「パ」の字が消えた「ザ・パチンコ」のネオン看板は予想以上に壮観だった。

「パチンコ」からよりによって「パ」の字が消えただけでも十分絵になるのに、その前に「ザ」と強調されているその看板のインパクトは絶大の極み。

日本語を母国語とする者ならば目に焼き付いて離れなくならざるを得ない破壊力を有したスペクタクルだったのだ。

ダイレクトに「ザ・ チ〇コ」とまばゆいネオンで大真面目に自己主張している看板は、一字分暗くなっているはずなのに普段より輝いて見えたのは私だけだろうか?

それは小学校二年生の幼く未熟な笑いのツボを突き破り、なおかつピストンさせたかのごとく激しく刺激した。

「あははははは!!ザ・チ〇コだ!ザ・チ〇コだ!!」

子供だった私は車内で狂ったように笑い転げた。

だが神は恩恵だけではなく、代償として天罰も用意していたようだ。

私を乗せた車を運転していたのは母親。

同じくその絶景を目の当たりにしていたが、私とは感じ方が著しく相違した。

成人女性である彼女は、その圧巻のお下劣看板とそれを見てバカ笑いする息子を好意的に見る感性は持っていなかったのだ。

「何がおかしいの!?アホか!!」

と大声で一喝されてしまった。

おまけに母親はこの日かなり機嫌が悪かった。

決して安くはないレッスン料を払って通わせているスイミングスクールでは、背泳ぎからバタフライまで様々な泳法を教えている。

だが、当時から不器用で覚えの悪かった私はなかなか泳法をマスターできず、この日も月末恒例の背泳ぎコースの修了テストで不合格。

もう一か月背泳ぎコースを履修することが決定したため、母はお冠だったのだ。

「何回不合格すれば気が済むの!?後から入ったN島くんやS司くんはもうクロール習ってるのに、いつまでもアンタは背泳ぎばっかり!悔しくないの!?」

先ほどのバカ笑いで母の堪忍袋の緒が切れたらしく、他の子と比べて出来の悪い私をなじり始めた。

ママ友の息子がいずれも自分の息子を易々抜いていたことを知って、ずっと悔しく思っていたらしい。

それから家までの帰り道どころか家に到着してからも母の怒りは収まらずエスカレート。

車の中で「あんなくだらんモノ見て笑うな」だの「勉強も習字もそろばんもいい加減」だの、私にビンタまで食らわしながら延々説教は続く。

「パ」の字が消えてくれた喜びが一挙にしぼんで泣きべそすらかき始めた私は、おかげでこんなひどい目に遭っているという逆恨みの感情が芽生えた。

月曜日に学校に行くと、クラスでは『○○閣』のパの字消失事件の話で持ちきりになっており、「ザ・チ〇コ」「ザ・チ〇コ」とみんな大爆笑していた。

私以外のクラスメイトも結構レベルが低いが、それがリアルな小学校低学年なのだよ、その当時のウチの母親よ。

しかし母親にこっぴどく怒られた記憶が生々しい私には、そのきっかけを作った『○○閣』の話は不愉快極まりなく、話の輪の中に加わることはなかった。

通常、ネオン看板の「ザ・パチンコ」の部分から絶対に消えてはいけない一文字が消えたんだから、『○○閣』もこのまま放置しておくはずがない。

だが、翌日も翌々日もそのままだったことを近所に住むクラスメイトが証言したため、数日間『○○閣』ネタでクラスが沸き返ることになる。

その週末、例のごとくスイミングスクールからの帰りの車の中から見たら、驚くことに『○○閣』は先週と同じく「パ」の字が消えたまま営業を続けていた。

近所の住民も行政も何をしていたんだろうか?

少なからぬ未成年や児童も目の当たりにしているであろうにもかかわらず、「ザ・チ〇コ」と恥ずかしげもなく燦然と輝き続けていたのだ。

「もうわかったから、ええっちゅうねん」

その日も私を乗せた車を運転してたのは母親で、笑うとまた怒られるだろう。

だいたいこっちは先週怒られたのは『○○閣』のせいだと思っていたし、いくらツボをついたネタも延々やり続けられると引く。

もうさすがにクラスでも話題にはならなくなっていたし。

次の週末も同様にスイミングスクールに行った私は、迎えに来てくれた母親の車に乗って同じ道を家に向かって走っていた。

その帰り道で、何だかわからないが違和感を感じた。

心なしかいつもより国道が暗い気がするのだ。

そう思ったのは、いつもなら光り輝く『○○閣』のネオン看板が見えてくるはずの地点まで来た時である。

みるみる『○○閣』のある場所に近づくに至り、その理由がはっきりわかってきた。

あのギラギラしたネオン看板はパの字ばかりか全体が消え、店も明かりを消していた。

『ザ・パチンコ ○○閣』は閉業していたのだ。

パの字が消えたままだったのは、どうせ閉店するからだったのか。

翌週月曜日の学校では『○○閣』閉店についてはさほど話題にならず、そっけなく「『○○閣』つぶれたらしい」「みたいだな」くらいの会話がちらほら聞こえた程度である。

皆完全に関心を失って、「まだその話してるのかよ」という反応を示す者もいた。

一方の私は、何だか罪悪感のような感情を覚え始めていた。

「パ」の字が消えてくれと願うがあまり、店そのものまで消してしまったような気がしていたからだ。

同時にこうも考えた。

願っていたのは私だけか?他のみんなだって願ってたじゃないか。

私だけが悪いわけじゃない!と。

その考えに沿えば、子供たち一人一人が願い続けた一つ一つの思いは他愛もない小さなものだったが、その同じ思いが結集した結果「パ」の字だけでなく店そのものを消し去ってしまうほどの巨大なエネルギーになっていったと解釈すべきだろう。

だがもしそうだったとしたら、そのエネルギーは『○○閣』を倒産に追い込んだだけでは済まなかったようだ。

その後『○○閣』の建物はほどなくして解体され、跡地にはすぐさまガソリンスタンドが建ったが、私が中学生になる前に閉店。

次いでレンタルビデオ店、リサイクル店、ファーストフード店、ラーメン店などが開店しては次々閉店して行った。

現在はレンタルビデオ店開店の時に建て替えられ、最後にラーメン店に改装されて閉店した十年近く前の姿のままで廃墟となっている。

交通量の多い国道沿いで、決して商業的に立地条件が悪いわけではなさそうなのにも関わらずだ。

それが証拠に対面の回転すし店や、両隣のカラオケ店とファミレスは長らく営業を続けているし、『○○閣』自体閉業するまで長い歴史を持っていた。

「子供たちの願い」が転化した「呪い」は『○○閣』だけにはとどまらず、その土地そのものに今でも渦巻いているのかもしれない。

そう、罪悪感を少々覚えながら考えるのは私だけだろうか?

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雨男の誇り – 雨雲を呼ぶ男の奇妙な旅

私は自他共に認める雨男である。

外出するとよく雨が降ることを自覚しているし、「お前が来るといつも雨だ」と知人たちによく苦情を言われる。

私の写る旅行先での記念写真はたいてい今にも降ってきそうな曇り空が背景であることが多いし、

今まで参加する予定だった数々の野外イベントを雨天中止に追い込んできた筋金入りである。

雨男の心構え

雨男であることに胸を張る気はない。

むしろ迷惑をかけていることを自覚して心苦しく思う、たまに。

それに、いつも降らせるわけではないし、わざとやってるわけじゃない。

雨男にもかかわらず、私はスズキのバイクST250を所有してツーリングを趣味にしているが、気を引き締めて行けば降らないこともないわけではない。

ただこれまでバイク仲間と集団でツーリングに行ったことが三度あったが、三度とも浮かれすぎて気が緩んだらしく大雨になった。

それについては本当に申し訳なく思い、以来ツーリングは一人で行くことにしている。

向こうも誘ってくれなくなったし。

そんな私はかなり天気予報には敏感で、降水確率が20%以上の場合は絶対にツーリングに出かけない。

経験則から、20%程度だと私が外出したとたんにその降水確率は急上昇、天候が激変することが多いからだ。

気象予報士やアメダスも気圧配置や雨雲の動きだけではなく、私の行動や予定も観測した方が良い。

しかし自慢じゃないが、天気予報が降水確率0%と予想していても雨天にしたことだってあるのだ。

雨雲を呼ぶ男~雨男の自己迷惑力~

いつも雨にしないよう気を引き締めて外出するが、我ながら天気予報に0%と言い切られるとどうしても気が緩んでしまうようなのだ。

その日新潟市までの長距離ツーリングを予定していた私は、天気予報が新潟県や北関東の降水確率0%と予測したのを真に受けて、勇んで愛馬ST250にまたがり関越自動車道を北上した。

天気予報は大当たり。

埼玉や群馬は快晴、私は関越道を快調に飛ばし続けて関越トンネルに入った。

日本第二位の長さの関越トンネルの果てしなき暗黒を抜ければ魅惑の新天地新潟県!

だが、

トンネルを抜けるとそこは雨だった。

それも土砂降り。

降水確率0%という予報だったのでは?

そう心の中で自分に、特にそう予想した予報士に対して問いかけたが、雨は止む気配がないどころかますます激しくなり、こちらは猛スピードのため雨にさらされる上半身や太ももが痛い。

行動に計画性が欠けることが多い私は、雨男にもかかわらず合羽を準備してこなかったため瞬く間にずぶぬれになった。

おまけにこらえ性のない私はこれ以上の進撃を断念。

小出インターチェンジを降りてUターンして関東に逃げ帰る羽目となり、新潟ツーリング旅行を強制終了。

さっき通り過ぎたばかりの関越トンネルに早くも戻ってきた。

だが、関越トンネルを抜けた先でも私の災難は続く。

群馬県側も雨だったのだ。

群馬の降水確率も0%という予報だったのにこの土砂降りとは納得いかないが、それ以上におかしいと思ったことがある。

前方の視界は晴れで、今走行している道路も乾いているのに大雨なのだ。

空を見上げると私の前方は雲一つない晴天だが、頭上にはどす黒い雨雲が浮かんで後方に広がっている。

今しがたまで晴れていた所に、私が巨大雨雲を引き連れてきたみたいだ。

まさに「嵐を呼ぶ男」ならぬ「雨雲を呼ぶ男」、自分の雨男ぶりを最大限可視化させたとしか思えない壮大な超自然現象だった。

振り切ってやる。

私はそのまま休憩なしで走り続けて雨雲圏内から離脱することを決断したが、偉大な大自然の嫌がらせは徹底していた。

雨雲は私の走るスピードに合わせてぴったり着いてきて、頭上に雨を降らせ続けたのだ。

群馬・埼玉県全域で私は雨を浴び続け、雨から解放されたのは東京都に入ってからだった。

練間インターのあたりに来るとカンカン照りで雨が降った様子が全くなく、

私一人だけがずぶぬれでバカみたいであった。

予報が降水確率0%でも地域やそこにいる人によっては降ることもあると理解すべきらしい。

緊急提言!雨男・雨女の国際貢献

私のような雨男は、自分にも他人にも迷惑をかけるしか能がないのだろうか。

いや、否!むしろ逆である。

我々雨男雨女が一定数いるから、日本は水資源が豊富なのだ。

少なくとも日本列島の生態系には欠かすことができない存在である。

我々を撲滅したら日本は水不足に苦しむことになろう。

雨にされてイベントをつぶされたくらいでそんなに嫌な顔をするでない!

それに私はこの能力を生かせる場が他にもあると前から考えているのだ。

それは

干ばつに悩む地域や国へ我々強力雨男・雨女を送り込めば、雨を降らせて水不足解決の一助になるのではないかということだ

世界に水資源に乏しい国や地域は多い。

そんな国にとって雨を招く我々は願ってもない貴重な存在のはずではないか。

ただしあんまり強力なのを大量に派遣すると降らせすぎて水害を招く恐れがある。

軍事利用にはもってこいだが、国際貢献には甚だ具合が悪い。

どの程度の奴を何人派遣するかなどの選定は慎重に行う必要がある。

それには全国の雨男雨女の存在を突き止めて聞き取り調査やモニタリングを行い、各々の雨を招くレベルや住所等データベースの作成が先決なのは言うまでもない。

またそのように全国の雨男雨女情報を把握すれば国内的にもメリットがある。

水害が予想される時期もしくは地域から海外の干ばつ救済を口実にして、彼ら彼女らを一時国外追放して各地を水害から守ることもできるのだ。

むろん、そのデータベースの取扱いについては要配慮個人情報に当たるはずなので、行政機関には厳重に管理していただきたい。

さもないと水害が起こった地域で村八分にされる恐れがある。

私がここで主張したいのは、雨男雨女は日本にくすぶって周りの人々に煙たがられながら、

水資源の確保に貢献していることにあぐらをかいていてはいけないということだ。

日本の雨男雨女は世界を目指すべきである!

世界が我々の助けを待っているのだ!

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地雷店に注意!まずい飲食店の実情


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飯がまずいとすぐ満腹になった気になる。

舌と消化器系がそれ以上のその食物の摂取を拒絶するからだろうか。

私が今働いている職場の周辺は飲食店が比較的多いがハズレ店の割合が多く、地雷をよく踏んだ。

それも対戦車地雷クラスの大ハズレ店が一つや二つではなかったから恐ろしい。

「毎日違う飲食店で昼飯を食う」という自らに科したその掟に忠実だったばかりに、そこで働き始めて一か月くらいは、毎日アドベンチャーを強いられていた。

牛焼肉と称しているが、明らかに牛肉ではない獣臭漂う牛焼肉定食800円、パスタが極太ソウメンか細めのうどんとしか思えない、『イタリアうどん』と言うべきミートスパゲティ、店主の創作意欲が暴走した結果、見た目も味もカオスな鉄火丼などなど。

ものすごく腹が減っているはずなのに残してしまい、空腹以上の飢餓レベルでないと完食は不可だと思えるくらいで、その日の午後の仕事のパフォーマンスにも悪影響が及ぶほどの違和感と不快感がトラウマレベルで口の中に残留した。

私の神聖な昼食時間を侵した罪に時効はない。

そんな店には一生入る気がないばかりか、腹いせに同僚にもこの店はハズレだと積極的な啓蒙活動まで行っている。

昼飯がまずいと、生活までもがつらくなる。

だが、その時の私の場合はまだましと考えるべきだろう。

確かにハズレ店もあったけど、「この店また行こう」というアタリ店や「まあまあだな」という安全店も多かったし、まずい店は二度と行かなければ良いだけなのだから。

毎日決まったメニューでそれ以外選択の余地がなく、しかもことごとくまずい場合こそヤバイ。

2017年、神奈川県中郡大磯町の公立中学の学校給食が半端じゃなくまずいと生徒の間で評判になったことが報道された。

調査によると給食の残食率が全国平均の6.9%を大きく上回る平均26%で、多い時には55%。

あるクラスでは生徒31人中完食したのは1人であったらしいから凄まじい。

きっと学校生活にも暗い影を落としたはずだ。

毎日そんなもんを食わされた生徒には同情を禁じ得ないし、そんなもんを恥ずかしげもなく提供した業者はテロリストに等しく、怒りを覚える。

私が他人事ながらそう思うのは、

昔、同じ地獄を味わったことがあるからだ。

学校を出て最初に働き始めた印刷会社の社員全員の昼食は毎日配達される弁当だったが、その弁当が半端じゃなくまずかったのだ。

その会社で働いたのは二年にも満たなかったが、その弁当を完食できた記憶がない。

私はどちらかと言えば好き嫌いが激しい方であることは認めるけど、他の社員もみんなまずいと言って残してたんだから本当にまずかったはずだ。

「美味しかった」か「まずかった」か

ではなく、

「我慢できる」か「我慢できない」かの二択しかない代物

が毎日選択不可で有無を言わさず支給されてたんだからたまらない。

普通昼食というものは、「今日は何食べようか?」「今日のメニューは何か?」と楽しみなものであるべきだが、

そこでは昼になると「今日は何を食わされるのか」不安を覚えていた。

昼休みになるのがあんなに憂鬱だったのは後にも先にもあの会社で働いていた時だけだ。

その弁当代は毎月の給料から差し引かれていたが、食べてやるから金をもらいたい気分であった。

その印刷会社は社員数が80人にも満たなかったのに毎年10人近くが途中退職しており、主な取引先はほぼ官公庁相手で、毎年安定した受注があるという強みはあったのに、会社の業績は私が入社する前から右肩下がりを続けていた。

これらは昼食のまずさと無関係ではなかったはずだ。

朝礼では社長が「給料もらってるプロなんだから、仕事にはちゃんと責任を持て!」と、偉そうに小言を言っていたが、

その社長本人は皆とは違って毎日特製の仕出し弁当を食べていたんだからムカつく。

責任をこちらに押し付ける上司もいたし、給料も安かった(毎年ドラスティックに減らされていた)から気持ちよく働ける会社では全くなかったが、何よりあの弁当のまずさこそが社員のことをどう思っていたかをわかりやすく証明していたと今では思う。

人間が働いていい職場では決してなかった。

食い物の恨みは忘れられない。

こういう食べ物についての文句を言うと、

「食べ物を粗末にするな」

とか、

「世界には飢餓で苦しむ人もいるんだ」という人もいるだろう。

ごもっとも。

まずいことを理由に残した食べ物がゴミとして破棄されるのは、私も心苦しく、忍びない。

しかし同時にこう反論したくなるのだ。

その貴重な食料を、食べたくない味に調理して提供した者の責任はどうなんだ」

と。

食べる方が好き嫌いなく食べなければいけないならば、作る方もある程度の水準、せめてヒトが食用可能な味にするべきなのではないか。

違うか?

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ウソつきの懺悔 – ウソと人間関係のジレンマ


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結構ウソつきであることを正直に告白する。

別にボケているわけじゃない。

自分でも普通の人に比べてよくウソをつくし、ウソに対する罪悪感もワリと低い方だと思う。

そんな私でもついていいウソと悪いウソがあるのはわかっているつもりだ。

私がつくのはヒトを楽しませるウソや無害なウソであり、他人をハメたり、迷惑をかけるようなウソでは決してない。と思う。

かようにウソつきの仁義を重んじる私だが、先月ついたウソは我ながら不謹慎すぎて有害だったと反省している。

この2021年のご時世で、絶対についてはいけないウソをついてしまったのだ。

2021年2月某日午後11時30分頃

その日、私は自宅で酒を飲みながらアマゾンプライムビデオを観ていた。

観ていたのはドニー・イェン主演の『イップ・マン 完結』。

期待通りの面白さで酒も進み、私は至福の時を過ごしていた。

そんな極上のプライベートを楽しんでいる最中にラインメッセージが入ったのは、物語も佳境に入り、酔いも手伝ってドニー・イェンのアクションシーンの真似をし始めていた頃だった。

別にラインやフェイスブックからのメッセージ自体がお邪魔虫とは思わない。
しかし、相手が問題だった。

誰なのか分かったとたん、楽しい気分に暗雲が立ち込めてきたのだ。

送ってきたのはY田という男。

私とほぼ同世代だが、仕事では大いに世話になっている人物であり、プライベートでも時折飲む仲である。

だがこのY田、仕事では頼りになるが、さほどプライベートでは楽しい人物ではない、酒の席でもシラフでも。
むしろ面白くない、というか少々ムカつく時がある。

どう面白くないかというと、まず人の話を聞かないところである。

例えば私自身が興味のあることや最近経験したことなどでもいいが、話を振ったとしよう。

全く聞いていないのである。

露骨に興味がなさそうなそぶりをするし、返ってくる返事は

「いや興味がない」「そういったことはよく知らない」

などでたちまち私の振った話は終了する。

これは私の気のせいではないと確信している。
彼ほど私の話をさせてくれない人間は、現在交際している範囲では見当たらない。

そのくせ、自分の話はよくする。

それも、

「自分の職場の後輩のN嶋K太が恩知らずだ」
「上司のS村S治に目の敵にされている」
「取引先の担当者のS司H樹の態度が無礼だ」

とかの恨み言が大半で、実名を挙げて具体的な状況まで詳細に説明してくる。

私はN嶋K太にもS村S治にも会ったことはないわけで、そんなこと知ったこっちゃない。

私はそんな話でも「そんなN嶋みたいな奴はいかんですなあ」とか、「S村みたいなのウチにもいますよ」とか、一応反応してやっている。

共通の話題ばかりが絶対続くわけはなく、お互い知ったこっちゃない興味のない話が出たとしてもある程度反応するのが会話の礼儀だろう。

私はその礼儀は守っている方であるはずだ。

いつも飲みに誘うのはだいたいがY田の方で、「報告」と称して酒の席でそういった恨み言を一方的に話すことが多い。

あとは同じく「報告」と称して、うまくいった仕事の自慢。

ちなみにこちらも同じように「報告」すると、やっぱり興味なさそうである。

もう一つ面白くないのは彼が度を越した反差別・平等至上主義者であり、これだけ隣国が敵対国家だらけなのにもかかわらず目を輝かせて非武装中立の必要性を語る反戦バカだということだ。

例えば私が「おばちゃんには方向音痴が多い」と言ったら、

「それは女性差別じゃないの?」

と真顔で非難しやがるのだ。

めんどくさい奴だと思わないか?

他にも「あなた」や「お宅」などの二人称単数を使って呼ばれるのを嫌うなど、会話において本来なら留意する必要のないNGワードも多く、どうりで後輩やら上司に嫌われるわけである。

何年か前に飲んだ時など、奴は酔ったはずみで当時の安倍内閣が意図していた憲法改正について私に議論を吹っかけてきたことがあり(むろん彼は反安倍内閣だった)、私も酔っていたので改憲賛成どころか核保有論者だと正直に言ってやったとたん、「右翼」だの「軍国主義者」だの金切り声で私をファシスト扱い。

こんな奴と楽しく飲めるだろうか?

よって今回も寝たことにして、既読にならないようラインを敢えて開かず見て見ぬふりを決めこみ、イップ・マンを見ながら、“空気敵”相手に大技をくらわしていた。

が、

まさか電話をかけてくるとは思わなかった。

それも携帯ではなくイエ電の方。

意地でも話をしたいようだ。

出るしかないのかよ、めんどうくさいな。

素晴らしい夜のひと時を強制終了された気分であった。

「もしもし」

私はさっきまで見えない敵と戦っていたので、多少息を切らせながら電話に出た。

「悪いね、起こした?でもさ、どうしても話したいことがあってさ」

気持ち悪い男である。こんな夜中に大の男にそんなこと言われて気持ちがいいわけがない。

実は前からY田はゲイではないかとも疑っている。しゃべり方もそれっぽいし。

「いや実はさ、今日N嶋にさ…。どうしたの?息荒いよ」

私は年甲斐もなく“ひとり組手”してたからまだ呼吸が荒かったようだ。
しかも結構飲んでいた。

そして、その酔った頭で「何とか切り上げれないだろうか?」と私は考え始めてしまっていた。

「どうしたの?具合悪いの?」

Y田はいつものオネエ言葉で訊ねてきた。

そうだ仮病を使おうか。

病気で寝てたことにすりゃあ、奴も長話してこんだろう。

「いやあ、実はその今日病院行ってきまして、検査したんですけど…」

言い訳しても仕方ないが、私の頭はこの時泥酔の一歩手前の状態だったのだ。

だが、その思考回路で考えた仮病であったとしても、

そして、たとえ相手が誰であったとしても、なっていい仮病と悪い仮病があったと今では反省している。

「え、検査って…。まさか」

「気を付けてたんですけどね…、陽性だったんです。コロナの

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高校デビューした少年 – O農業高校とK田の変容の物語


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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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あわやローン地獄~カーシェアリング投資被害未遂~


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世の中うまい話などそうそうあるわけがない。

知恵も労力も使わず、リスクもなしに金など稼げないのだ。

そう分かっていても、楽して安全に稼げることをうたうスキームは次々出現するし、それを真に受けて地獄を見る者は後を絶たない。

2020年11月20日に東京地裁に破産を申請し、破産手続きの開始決定を受けたSERIAS(セリアス)社によって大きな負債を背負わされて途方に暮れる人々もその類ではないだろうか。

同社とその関連企業は2018年4月より東京で「スカイカーシェア」というサービス名でカーシェア事業を展開。

「高級車はシェアする時代」などと宣伝して、メルセデスベンツ、BMW、アウディ、レクサスなどの高級車を最安24時間6800円とレンタカーより安い料金設定でユーザーを集め、月単位の貸し出しもしていた。

その高級車は今回被害者となった個人投資家に購入させたもので、その投資家が買った高級車を同社が預かって、個人間カーシェアとして貸し出していたのだ。

投資家たちは、

「家を買って賃貸に出す不動産投資の自動車版」、
「レンタカーの『わ』ナンバーではない高級車はシェアの需要がある」

と、車を貸し出して運用に回せば利益を得られるというSERIAS社のうたい文句を信じて出資。

彼らは同社のグループ会社や提携先の中古車販売会社から1台数百万円の高級車を7年ローンで買うことになるが、

毎月のローン代金や保険料、駐車場代などは全て同社から投資家の口座に入金され、

数日後にその代金がローン会社や保険会社へ支払われる(口座やクレジットカードから引き落とし)ため、一切金銭の負担がないという説明を受けていた。

こうして一見するとノーリスクに見える上に、

  • 契約時に車両代金の1割(サービスが始まった当初は一律34万円)が支払われる。
  • 毎月1万円(場合によってシェア利用された料金の5%)の配当。
  • 7年後には期間満了時に100万円(2年契約のケースもあり)が支払われる。

という投資家にとっていいことづくめの条件であり、更には他の投資家を紹介して契約に至ると10万円かそれ以上の紹介料が支払われたため、集まった投資家は600名を超えた。

だが、ローンや維持費を肩代わりしてもらえて、あまつさえ配当が支払われるのはSERIAS社の事業の健全な継続が前提である。

同社は大阪にも進出するなど事業の拡大を順調に見せかけていたが、翌2019年には早くも高金利での1.2億円の資金調達を強いられるなど資金繰りが悪化。

2020年8月にはコロナ禍を理由に「翌9月に2か月分まとめて払う」ことを条件として投資家へのローン代や配当を停止したが、10月には事業そのものを停止。

上述のとおり11月20日に破産が決定した。

SERIAS社の負債は判明分だけで4億円を超えるが、負債を背負ったのは投資家も同じであった。

ローンを肩代わりしてくれるSERIAS社はもう存在しなくなったからだ。

投資家のほとんどは他に自動車ローンがなく、信用情報も真っ白な20代から30代の若者たちであったが、当然年収は年齢に相応して高級車とは無縁の水準に過ぎなかった。

そんな彼らにとっては数百万を超えるローンは荷が重すぎ、自己破産を考えている者も少なくない。

「うまい話を信じる方が悪い」

と世間には彼ら投資家を批判する声が多いが、私はあえてそう思わない、というか思う資格がない。

なぜなら、

私は一歩間違えたらその600名のうちの一人になっていたかもしれないからだ。

2018年6月某日、SERIAS社との遭遇

私が「スカイカーシェア」を知ったのは知人の副業マニアで実業家気取りの会社員K江の紹介だ。

ちょうどSERIAS社が同事業を始めたばかりのころである。

その前年、私は仮想通貨にはまったが、年明けに暴落(これもK江の紹介)。

投入した資金は大したことがなかったので損失もさほどではなかったが、株式以上に暴騰し、黙っていても自分の資産が増えていく仮想通貨取引の快感が忘れられず、「元手ゼロで金が入ってくる話がある」というK江の誘いにホイホイ乗ってしまった。

もっとも、乗り気だったのはK江の方で、今から思えば彼も紹介料がもらえるからだったと思われる。

話を聞いたその日のうちに、彼を通じてLINEでSERIAS社の担当者にアポイントを取り付け、後日池袋で詳しい話を聞くことになった。

そして当日、待ち合わせは池袋駅東口に近い某家電量販店の前。

そこへSERIAS社の担当者と称する人物が見るからに値が張りそうな外車で乗り付けてきた(車に詳しくないので車種はわからない)。

担当者はM田という人物で、SERIAS社破綻後に分かったことだがグループ会社のうちの一つの代表を務めていたようだ。

にこやかな笑みを浮かべ、しゃべり口も柔らかな四十代の人物だったが、何となくまともな仕事をしていたら経験することのないような修羅場もくぐってきたような凄みも感じた。

要するに少々グレーンゾーンの人間っぽい。
実際にもらったM田氏の名刺

私はM田氏の車に乗せてもらって近くの駐車場まで移動し、そこのすぐ近くのコーヒーショップで「スカイカーシェア」のカーシェアリング投資の話を聞いた。

M田氏は一連の説明の中で高級車を自分名義で買うことになるが、ローンはじめ駐車場代や保険料などの費用はSERIAS社持ちだからこちらの負担はゼロであると強調し、毎月の配当も当然保証すると断言した。

怪しい。はっきり言って怪しい。

そんなうまい話などあるものか。

それが本当だとしても、もしSERIAS社が破綻したらローンはこっちに降りかかるだろう。

それにこれって「かぼちゃの馬車」と似てなくないか?

2018年のこの当時、サブリースによる賃料保証をうたい、上京する女性のためのシェアハウス「かぼちゃの馬車」を不動産投資用の商品としてサラリーマン投資家に販売していた株式会社スマートデイズが破綻したばかりだった。

そして、賃料の入金をストップされた多数のサラリーマン不動産投資家が大きな負債を背負わされていたことが問題となっていたことは私も知っていた。

確かに、自分名義で費用はSERIAS社持ちで高級車を購入したら最初に34万+(毎月1万×84か月)+満了時の100万、合計218万円ブラスアルファが手に入るのは魅力だが、

SERIAS社が破綻するんじゃないかと生きた心地がしない状態が7年も続くのはごめんだ。

それにホントに払ってくれるかどうかもわからん。

「まあ、ご検討ください」

M田氏はその場で契約を迫ることはせず「興味が合ったらLINEでご連絡ください」といった感じだったので、

私は「そうします」と答え、そのままM田氏とは別れた。

だが、その時点で実は結構揺れ始めていたことを告白する。
「もし紹介者のK江がやったら自分もやってみようか」

と考えてしまったりもしていたのだ。

K江は翌日早々結果を尋ねてきた。

私は「アンタはやるのか?」と聞いてみたが、彼は不動産に投資するからやるつもりはないとのこと。

そして、何となく危ない部分があって決めかねていることを話すと、「まずはやってみたら?」と無責任なことを言ってきやがった。

バカ野郎。
「まずはやってみた」結果、大損こいたらどうしてくれるんだ!

こいつは自分が損しただけでなく、自分が勧めた案件で他人が損しても「自分にとっても相手にとってもいい経験になったはず」とポジティブにとらえる奴なのだ。

でもな、毎月何もしなくても金が入ってくるのは捨てがたい…。

などと、グダグダ迷っていたら、

一週間もたたないうちに私のLINEの友だち欄からM田氏の名前が消えた。

「脈なし」とあっさり判断されたらしい。

こうして私は何もしないうちにSERIAS社から一方的に縁を切られた。

そして2年後

2020年11月20日、SERIAS社が東京地裁により破産手続きの開始決定を受け、莫大なローンを抱える羽目になった投資家が続出したのは上述のとおりである。

そのニュースを聞いた時、たった2年前のことなのにすっかり忘れていて、「そういや似たような話、身近で聞いたな」と思って調べてみたらまさにそれそのものだったので背筋が凍った。

また、続く報道によりSERIAS社が様々な不正行為を行っていたことも明らかになった。

まず同社のうたうカーシェアリングだが、投資家名義とはいえ事業者が預かって管理している以上、法的にはレンタカーでカーシェアリングの定義からは外れるという。

そして投資家に高級車のローンを組ませるにあたって、年収を水増しして申告させていたこと。

本当は350万円くらいしか年収がない人に600万と偽って記載させたりしていたわけだが、ローン会社も不動産と違って自動車のローンの審査は甘く、そのまままかり通っていた。

この大甘の審査の下、配当が倍になるとSERIAS社にそそのかされて複数台購入して、後により大きな負債を背負うことになった投資家もいたようだ。

更に高級車のオーナーとなっていた投資家たちは自分の車を確認しようと(ローンがある以上、所有者はローン会社となるのですぐ取り戻すことはできない)、SERIAS社の所有していた高級車が停めてある埼玉県の駐車場に向かったのだが、500万だの600万だののローンを組まされた自分の車は査定額が100万から300万円のものが多かった。

投資家たちは法外な値段でボロ車を買わされていたのだ。

もっとも、これは車に詳しい人間だったらローンを組まされる前に気づいていただろう。

投資家たちの多くは車の知識に乏しく、実際に自分名義となった車を見た者も多くはなかったのだ。

私も車のことはよくわからなかったから、だからこそやらなくてよかったのだと本当に思う。

だが自分の車が実は安物だったとしても、まともな状態で見つかった人はまだ幸運だったと言えよう。

車を見つけられても事故で大破していたり、まだ未納で自分の車が存在しない人までいたからだ。

なお、よりヤバいことにSERIAS社が破綻した後も貸し出されている車があり、その利用者を調べて連絡してみると暴力団組員。

車の購入やレンタカーを利用できない「反社」、即ち暴力団員が少なからずこのサービスを利用していたことが判明したのだ。

よって、それらの利用者に返還を求めても当然のらりくらりと逃げられたり、逆にすごまれたりする始末で、しかも彼らが踏み倒した違反料金やコインパーキングの支払いもその車のオーナーとなっている投資家に請求が来る事例があるなど踏んだり蹴ったりだ。

SERIAS社について、その代表は反社会勢力と関係の深い人物であるともされ、ハナッから破綻前提のスキームでこの事業をやっていた可能性もあるなど、まだ明らかになっていない闇の部分も多く、その解明が待たれる。

他の詐欺案件と同じく、被害者となっている投資家に金が戻ってくる可能性はほぼなく、ローンも免除されることもなさそうだ。

危ないところであった。

私もあわやこれら被害者の仲間入りをするところだったじゃないか。

ノーリスクの話は信じちゃいけないし、知識のない分野で勝負してはいけない。

それなりの知識と経験の裏打ちによってリスクに立ち向かう者のみが金を稼ぐ資格があると考えるべきだろう。

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「恩の無銭飲食」と「恩の高利貸し」~悪玉人間たち~


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かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。

他者にかけた恩は水に流して忘れるべきだ。

一方他者から受けた恩は心の石に刻みこんで忘れてはならないのだ。

恩を仇で返すなんて人としてあるまじきことだし、かけた恩の見返りを求めるのはあさましい限りである。

だがそう理解できるのは、「恩」の概念を正しく、少なくとも世間の標準に近いレベルで解釈できる人間だけである。

世の中には「恩」の概念と定義が世間一般とは大きく異なるか、存在しないとしか思えない輩、「恩知らず」が少なからず存在する。

受けた恩を水に流す奴

普通何かをしてもらったら、その相手に感謝して何かを返そうとするもので、

それを仇で返すのはむろんのこと、

間違ってもすかさず次の頼みごとはできないはずだ。

だが確実にそういうことをする奴、受けた恩をきれいに記憶から消す奴がいる

俗に言う頼みごとの多い奴のことを指し、口癖は「頼みがある」

普通ならば頼みを聞いてくれた相手に感謝して、何かの機会にお返ししようと考えるのが常識だが、

こういう奴の場合、頼みを聞いてくれた相手を「便利なアイテム」として記憶するようだ。

一応「ありがとう」とか「このことは忘れない」とか感謝してるようなことは言うが、

それは感謝ではなく「お前は使える」「今後も俺に尽くせ」と解釈すべきだとしか思えない。

そのくせこちらの頼み事はにべもなく却下する!

「恩の無銭飲食」もしくは「恩の万引き」をする百害あって一利なき癌細胞か悪霊のような奴だと言えよう。

もはや同じ価値観を有する人類とは思えない。

かけた恩を取り立てる奴

確かに他人に何かをしてあげて、何も見返りがなかったら「そりゃないだろ」と思いたくもなる。

だが、露骨に見返りを求めたら、それは相手方にとって「恩」ではなくなる。

別の意味において「受けた恩を水に流す奴」の逆で、他人にかけた恩をいつまでも忘れず、あまつさえ取り立てようとする輩も世の中にいる。

分かりやすく言えば恩着せがましい奴のことだ。

こういうタイプに限ってやってくれたことは大したことではないか、こちらが頼んでもいないことで、

それに見合わない過大な恩返しを要求してくるのだ。

自分のかけた恩と相手が感じるべき恩、そして返すべきお礼を勝手に数値化して査定、しかもそれを水増ししており、

「恩」を債権とみなして利子までつけ、なおかつ高利である。
そして、「俺はこれをやってやったんだから、お前はあれをやるべきだ」と“抵当権”まで具体的に設定している場合もある。

だからこちらが完済(恩返し)したと思っても、まだ残債が残っているとみなして延々恩返しを要求してくるのだ。

私はこういう輩のことを「恩の高利貸し」、もしくは「恩の闇金」と呼んでいる。

ひょっとしたら債権ではなく、株式を取得したと考えてそれをたてに取る「恩の総会屋」「恩のクレーマー株主」と呼ぶべきなのかもしれないが、

ダニか寄生虫のような奴であることには変わりはない。

精神の自己免疫力をつけよ

俗にいう「恩知らず」は恩を仇で返す者を指すようだが、

以上二つのタイプもまた恩の概念を正しく理解していない点では「恩知らず」にカテゴライズされるべきだと思う。

人として生きる上で、冒頭の「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」を旨にすべきなのはもちろん、

これら「恩の無銭飲食」や「恩の高利貸し」をする「恩知らず」になってはいけないのは言うまでもないだろう。

そして何より、無銭飲食」や「高利貸し」をさせないようにすることも重要なのだ。

人間関係も自然環境と同じ、善玉ばかりではない。

かような悪玉が存在し、それはウイルスや雑菌に似て意外と身近に潜んでいる。

健康的な人間関係を維持して社会生活を送るには身体の健康と同じく、精神の自己免疫力や抗体を持つ必要もあるのだ。

「ウチで無銭飲食か万引きしたら覚悟しておけ」「取り立てられるなら取り立ててみろ」というオーラと気迫こそがその精神の自己免疫力や抗体にあたり、二足歩行するがん細胞や寄生虫を近寄らせないのだ。

そういった人間が「かけた情けを水に流し、受けた恩を石に刻め」ば、彼もしくは彼女はもはや人間関係において何も恐れるものはないであろう。

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2020年鎌倉の旅 – 図書館の本を弁償した日帰り鎌倉旅

うっかりコーヒーをこぼして、図書館で借りた本を汚してしまった。

返却日、その本を図書館の返却箱に黙って入れてシレーっと帰ろうとしたが、職員に見破られて逃走を阻止され、弁償する羽目に。

『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』、1650円なり。

ちょっと汚しただけなのに、あんまりだ。

本屋で買うと高くつきそうなのでアマゾンで探したが新品しかなく、結局本屋で購入して図書館に持って行った。

私の手元に汚してしまった『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』が残った。

自分が悪いとはいえ、結構シャクである。

この元は断固取らなければならない、せっかくだからこの本をフル活用するべきだ。

そういうわけで、私は汚染された『大人の遠足BOOK』に記載の神奈川県鎌倉市を目指して、自宅の東京都から250㏄のバイクを走らせている。 私は位置情報ゲーム『ケータイ国盗り合戦』のヘビーユーザーだ。

鎌倉には、まだ未制圧の地域が多いからちょうどよい、とも自己暗示をかけて。

鎌倉はご存じ名所旧跡の宝庫だが、あまりじっくり見たことがない。

いい印象がないからだ。

最初に鎌倉を訪れたのは、中学校三年生の修学旅行の第二日目。

中学の修学旅行と言えば、楽しいことだらけの一生の思い出になるはずで、小学校六年生の時から楽しみにしていた。

だが、三年間待ちに待った修学旅行の初日、最初の目的地『東京ディズニーランド』で、他校の不良中学生に因縁を付けられ恐喝された。

それだけでもかなりの悲劇なのに、その日の宿で同じ部屋の奴らにパンツを脱がされてカイボウされるわ、翌日の国会議事堂見学では同じクラスのヤンキーに肩がぶつかっただけでどつかれたのに、担任は知らんぷりするわで、踏んだり蹴ったり。

そんな立て続けの災難のショックによる放心状態で、鎌倉の街を歩き回った記憶があるから、楽しい思い出になるわけがない。

だが、今やもう四半世紀以上も過去の話で「怨念の半減期」は、はるか前に過ぎているから、こうして鎌倉の街に落ち着いて来ることができる。

だが、ちょっと本を汚しただけなのに、冷酷に弁償を請求してきた図書館職員への「逆恨みの半減期」は、まだ先の話なので、道中頭をよぎりっぱなしだった。

私が住む町から鎌倉までは地味に遠く、到着したのは正午過ぎ。

最初の見学地は、13世紀建立の円覚寺だ。

と言っても、あまり綿密に計画も立てずに旅行する私の常で、たまたま最初に目についたのが円覚寺だったということである。

だが、円覚寺はバイクで来る人お断りらしく、駐車場はあっても、バイク駐輪場はない。

よって路肩に駐輪せざるを得なかった。

「駐禁とられたらどうしよう」とか「近所の元気者に壊されてたらどうしよう」とかの不安を抱えながら、競歩のように境内を歩き回っての見学を強いられた。

次の目的地、建長寺は円覚寺からほど近い場所にあり、しかもバイクを停めてもよい駐輪場を備えた懐の広い寺院だ。

やっと落ち着いて見学できる。

建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山、1253年)の創建で開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆であるため、総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物は大陸的に中軸上に並ぶ伽藍配置をしている。

その中でも三門・仏殿・法堂は重要文化財であり、他に国の史跡及び名勝に指定されている建長寺の方丈庭園は禅宗庭園独特の趣が…。

もう帰ってもいいだろうか?

私は位置情報ゲームにはまっているし旅行も結構好きだが、生来外出するとすぐ帰りたくなる性格で、こうしてはるばるやって来て名所旧跡を前にしても、心は自分の家にある。

寝床から1000メートル以上離れると、ストレスを感じるのだ。

だから遠くの博物館でも遺跡でも到着しただけで満足し、いつもサッと見てサッと出て来てしまう。

そして帰ったら帰ったで「なぜもっとじっくり見なかった?」と、死ぬほど後悔している。

今回も歴史は繰り返した。

異例の早さで建長寺の見学を終わると、次の目的地とした報国寺は一応無理やり行ったが、鎌倉は他にも見どころがあるにもかかわらず、自宅への望郷の念にもう堪えられなくなっていた。

『ケータイ国盗り合戦』のエリアもあまり攻略できなかったが、もういいだろう。

さっさと飯食って帰ろう。

せっかく鎌倉来たんだから鎌倉らしいものを食べるべきだが、鎌倉の飲食店はどれもやや高めなのにひるんで、帰り道で適当に何か食べることにした。

鎌倉から国道1号に入り、その沿線の某ラーメン店に入る。

しかし入った店は「まずい」「出てくるのが遅い」「少ない」「高い」の四冠王で、「店内が汚い」「店員の態度も横柄」というタイトルまで保持した極悪店。

昼飯時を過ぎて客が少なかったのに、何で出てくるのに二十分もかかって、『昔ながらの醤油ラーメン』一杯900円なのだ?値段だけは未来志向か?

後味が悪いモノ食わされて高い金とられ、時間までロス、おまけにその後、道に迷った。

余計イラつきながら帰りを急いでいたら、後ろからサイレンの音。

「はい、そこの多摩ナンバー○○-○○のバイク停まりなさい」

白バイだった。

一時停止違反で点数二点引かれて、罰金6000円なり!

さんざんな日帰り旅行だ。

思えば、コーヒーで汚した本を弁償させられたのがシャクで、どうせならその本を思いっきり活用しようと思って出かけたんだよな。

その挙句、貴重な時間を使って罰金取られて、損害が倍増しだ。

でも一方で、今回は修学旅行の時に見れなかった建長寺や報国寺も見ることができた。

それに、あまりエリアは攻略できなかったが今まで未踏だった神奈川県三浦・湘南地方にも進出できた。

悪いことばかりじゃないじゃないか。

そう冷静になって、よーく考えてみた。

しかし冷静になればなるほど、どう考えてもプラスマイナスで言ったら、明らかなマイナスだったという結論しか導き出せない。

得られたはずのプラスが得られず、避けられたはずのマイナスも余計に被っている。

だからやっぱり、

出かけなきゃよかった!!

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相談を殺す者たち – 悩み相談での失敗エピソードと教訓


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悩みごとや困ったことがあって人に相談したはいいが、解決にならないどころかその相談相手の言うことに腹が立ったり、却って悩みがより深刻になったりしたことはないだろうか?

そりゃ、確かに悩みを抱えた人間の相手をするのはめんどくさい。

でも、せっかくこっちが苦しい胸の内を吐露しているのに、ボケたような返答をされたり、余計にガチャガチャにされたりすると腹が立たないか?

今まで何人もそういう奴に出くわしてきた。

みみっちい性格の私は、時々思い出してはムカッと来る時があって、今日はどうしても我慢ができないので、特にタチが悪かった奴を告発してやる。

●ケースその1―中学の同級生・K原Y之―

こいつは、二十年以上経った今でも本当に頭にくる。

K原は中学の同級生で、お互い別々の大学に入学してからもよくつるんでいた男である。

中学時代から、自分に興味がない話は明らかにスルーしていることが多かった気がしていたが、長年の付き合いだからと心を許して悩みを打ち明けてしまった私も愚かだった。

あれは私が前から狙っていた後輩の女子生徒にコクって、けんもほろろに断られたことを、居酒屋で一緒に飲んだ際に愚痴った時だった。

私の愚痴がまだ終わらないうちに、K原は「オレが今付き合っている彼女なんだけどさ…」といきなり自分の彼女のことを語り始めた。

最初、自分の場合どうやって付き合うようになって、その経験から私の場合ならどうすればよかったかを分析しようとしてくれてるのかと思った。

だが、その彼女と普段どこへ遊びに行くかとか、自分にベタ惚れだのセックスの相性はサイコーだの、いつまでたってもおのろけ話が終わらない。

そして、いつの間にか元カノについて話がおよび、更にその前の彼女やらナンパして食った女も含めて、今まで二十人以上経験したとか、聞き流すのがだんだん限度になり始めた直後で、「まあそんな感じ」と結んだ。

話聞いてたか?私のさっきの相談は一体どこ行った?

「そんな感じ」で話は終わったようだが、今の話はどう私のためになったんだ?

相談を自慢で返してくるとは思わなかった。

そん時は他にも人がいたので怒りを奇跡的に我慢したが、本当に腹が立ったのは就職活動の時だ。

当時は就職氷河期真っただ中で、私は八月になっても内定をもらえず焦っていた。

そして、よりによって私は再びK原を相談相手にしてしまった。

その日、我々二人は居酒屋に入り、酒席で私は自分の苦境を打ち明けた。

私:「Nネットワークもダメだったし、この前受けたS工業も今日不合格の通知が来た、もう後がない。どうしよう?夏休みなのにまだ休めない」

K原:「俺はPアプリケーション株式会社の内定もらってたけど、W製作所に行くことに決めた。すごくない?夏休みは彼女と韓国に行く」

分かってて言ってんのか?

こいつはひょっとしたら、相談を受けた場合のあるべき対応、はたまた相談という概念自体が脳内に存在しないのだろうか?

長年の付き合いだが、こいつと私の脳内のOSは、ここまで異なるものだったのだろうか?

「あのなあ、そういう話じゃなくて、俺は今…」

「それよりさ、相談に乗ってやってんだから、今日はお前のおごりだからな」

一応相談だということは分っていたらしい。

結論、こいつは私にケンカを売ってる。

その後、私が吼えたため、居酒屋の他の客が静まり、店員が割って入ってくるほど場が険悪になった。

この一件でK原とは断交し、それ以来、連絡は取っていない。当然だろう。

K原は極端な例の一つだったが、相談にならないバカは世の中にまだまだ存在した。

●ケースその2―以前の会社の上司・S山T三―

こいつは最悪。

ケースその1のK原より悪質だ。

S山は私がやっとの思いで内定を取って、最初に勤めた印刷会社の上司である。

「俺は仕事に厳しい人間だ」と、胸を張ってパワハラをしてくる男だった。

身も心もブタそのもので、大した技量もないくせに仕事人風を吹かせ、態度だけは人間国宝。

口ずっぱく「一を聞いて十を知れ」「仕事は目で覚えろ」と、テレパシー受信能力の習得を強制して、ロクに指導もせずに業務を私に押し付け、失敗すると私の責任。

そんな仕事の上でも人間的にも全く尊敬できるところのないS山に、私はそもそも自発的に悩みを相談したことはない。

ではなぜケースとして取り上げたかというと、親見になってることをアピールしたいのか「困っていることがあったら言ってみろ」と、こちらが悩んでいることを白状させたり、困っているであろうことを、相談してもいないのに返答してきたりしたからだ。

しかも、その返答がムカつく!

「なぜ怒られるかわかるか?怒られることをするお前が悪いからだ」
「わからないわからないじゃない。わからなきゃダメだ!」
「お前の悩みなど大したことはない。世の中お前より苦しい人間などそこら中にいる」

そもそも、相談に対する答えになっていない。

それと、「世の中、お前より苦しい人間などそこら中にいる」ってどういうことだ?

じゃあ何か?脱臼した人に、骨折した人はもっと痛いから我慢しろとでも言うのか?父親を亡くした人に、両親亡くした人に比べれば大したことないとでも言うのか?

そして最後に「それじゃあこの先お先真っ暗だぞ、どうすんだお前?まあ知らないけどね」などと結んできたりして、「まあ知らないけどね」なら、いちいち偉そうに言ってくるな!という感じであった。

厳しいことを言ってるつもりだったようだが、こちらとしては相談に答えてやってる風のこき下ろしでしかなく、無理やり悩みを言わされた上に、奈落の底に落とされたとしか思えなかった。

そもそもあの会社での私の悩みは、S山の存在自体だったのだ。

●ケースその3―私の実父―

私の実の父親だから、そりゃあ親見なのは当たり前だし、私のことを考えてくれてるのもわかる。

だが、悩みを相談することによって救われるか救われないかは別問題だ。

この人の良くない点は、相手の話どころか、自分自身が何を話しているかも理解していないのではないか?ということである。

私の話を聞いていないわけではないはずだが、脳内で間違って解釈しているらしく、てんで頓珍漢な返答をしてくるのだ。

タイプ的にはケースその1のK原Y之に近いが、その返答の長ったらしさと内容のカオスぶりが比べ物にならない。

小学校五年の時に、足が遅くてクラスでバカにされてることを相談したら、なぜ「孟母三遷の教え」の話が出てきて、そろばん塾へ通えという結論に至るのか?
高校二年の時に原付免許を取りたいと相談したら、いつの間にか、三角関数の講義と野口英世の偉人伝が始まって、「これからの世界情勢は厳しい」という展開になったのはなぜだろう?

普段から多芸多趣味を誇り、博識を気取っていたからタチが悪い。

自分の息子のことだから真剣だったらしく、話も異様に長かった。

虫歯が痛むから歯医者に行ったはずなのに胃カメラ飲まされ、「水虫があります」と診断されて、目薬を処方されたような気分になる。

小学生の時からこんな調子で、私は大学入学前の時点で、この人に重要な相談をしてはいけないことを悟っていた。

ちなみに恐ろしいことに、この人物の職業は中学校教師であった。

理科担当だったが、あの調子でちゃんと授業になってたんだろうか?

まさか、理科の授業で「ファラデーの法則」を説明してる最中に、「大宝律令」や「徒然草」の話を始めたりしてたんじゃないだろうな。 それか、返答に困る相談をうやむやにして、こちらから取り下げさせる戦術だったのかもしれない。

他にもいろいろと相談してはいけなかった相手に出くわしてきたが、反面教師以外の何者でもない彼らからは、学べることがある。

それは、

悩みや相談は「黙って聞け」

ということだ。

そして

「あまり偉そうにペラペラアドバイスするな」

だ。

他人に悩みを打ち明けられたり、相談を持ちかけられるということは、解決策を求められているというより、ただ聞いて共感してもらいたいという場合もあるのではないだろうか?

それを何とかしてやりたいと思うあまり、何らかのアドバイスを長々としたとしても、それが相手にとって救いとなるとは限らない。

むしろ逆効果であることが多い気がする。

また、そうやって相談されると無意識に自分が偉くなったような気になってしまい、ついつい上から目線で偉そうなことや余計なことを言いたくなってしまうのかもしれない。

そういうマネはあまりにもみっともない。

私は相談してくる人間の話を黙って聞き、話させることによって相手の気分を晴らすというスタンスを取っている。

そして解決策が道理的にも個人的にも明らかだと確信できる事柄に対してのみ、手短に返答することにしている。

卑怯かもしれないが。

だから先日、職場の新入のA川に「彼女がいても、昔から他の女にもついつい手を出しちゃって、今は四股になっちゃって困ってるんですよ」という自慢風相談を我慢して聞いてやった後は、明確かつ手短かに返答した。

「去勢しろ。そうすればもう困らない」

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自分の名前と戦う子供たち – 同級生のキラキラネーム体験談


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心愛(ここあ)、空流(くうる)、姫星(きてぃ)、本気(まじ)などなど。

おそらく平成を迎えた頃からだと思うが、自分の子供に日本人らしくないばかりか常識から外れた名前、いわゆるキラキラネームを付ける親が目立ってきた。

私の職場の同僚であるO川秀定もその一人で、来月生まれる予定の息子には「都夢」と名付けるつもりだと嬉々として宣言してしまっている。

A川も含めて、こういう親たちは自分の子供がどんなふうに育つように願っているのだろうか?

そんな名前を付けられるなんて、実に不憫な子だと切実に思う。

私はそんな変わった名前を付けられて成長した人間をリアルに知っているからだ。

1975年(昭和50年代)生まれの私の世代にも、現在ほど多くはないが珍妙な名前を背負わされた者がいた。

彼らはその時代において圧倒的少数派、いや異端派ですらある名前ゆえに、いやが応にも目立ち、いわれなき不愉快を感じていたのだ。

高校時代の同級生

高校に入学した時、同じクラスになった同級生は、名前が林五だった。

B原リンゴである。

漢字も読みも正統派の名前が99%超だった昭和49年や50年生まれの同級生の中で、さすがにリンゴという名前の響きは目立つ。

そして、

本人は相当気にしていた。

今でも覚えているが、クラスで最初のホームルームで自己紹介をやった時、林五は「○○中学出身のH原です」と下の名前を名乗らなかった。

なのに、空気の読めない担任は「下の名前は?これ何て読むの?リンゴ?」と心無い問いを発したため、林五は「…リンゴですよ!」と、憮然として答えたものだ。

さらにその後、より心無いクラスメイトたちが大爆笑したため、林五は正にリンゴみたく怒りで顔を赤くして「笑ってんじゃねえ!」と大声を出した。

どうやら両親が『ビートルズ』のリンゴ・スターの大ファンで、身内の反対を押し切って名付けたらしい。

リンゴという名前を付けるなら付けるで、「凛悟」とか「麟吾」とか、画数が多くてそれなりに教養を感じさせる秀麗な漢字でカバーすべきなのに、安易に「林五」である。

これじゃあ小作人の五男みたいじゃないか。

響きだけを優先させたのは見え見えで、他人事ながら教養の程度が分かり易い実に愚かな親である。

ちなみに林五には妹がいて、こちらはB原恵美となぜか正統派の日本人名、兄との落差が際立っている。

林五は大柄で恵まれた体格の持ち主のうえに性格が荒く(ラグビー部に所属していた)、同じ中学出身者によると、小学校の頃から自分の名前をちょっとでもからかう人間は問答無用で制圧してきたらしい。

そして両親をかなり憎悪しており、「親を殺しちゃいけない理由がわからねえ」が口癖。

そんな危険人物は「林五」と呼ばれると瞬時に顔色を変えるため、1年の時、彼を下の名前で呼ぶどころか「リンゴ」という単語自体が禁句となってしまった。

私など「アップル」と言っただけで、林五に胸倉をつかまれたことがある。

浅はかな命名をしたばっかりに息子の根性をひねくれさせ、他人に脅威を与える人間にして社会に放った林五の両親の罪は重い。

中学時代の同級生

林五は性格こそ歪んでいたが、周囲の偏見を沈黙させる能力を有していたからまだましだったかもしれないが。

私が入学した高校には同じ学年にもう一人変わった名前の持ち主がおり、こちらは女子生徒だ。

その名はC西エレナ

漢字ですらない、ダイレクトにカタカナの横文字ネームである。

エレナの存在は、入学当初から主に男子生徒の間で話題になっていた。

ハーフか?それとも外人さん?

気にならずにはいられない名前ではないか!

入学後ほどなくして、エレナが在籍するクラスには、彼女の顔を一目見ようと他のクラスばかりか上級生の男子が殺到したらしい。

私のいたクラスの生徒たちも例外ではなく、はるか遠くの教室まで、勝手に幻想を抱きながら「エレナ詣で」に出かけて行った。

だが、彼らはがっかりしながら戻ってきた。

実物はあまりにも名前との乖離が激しかったからだ。

実際のエレナ本人はスタイルも顔も典型的な日本人、チンチクリンでずんぐりむっくり体型をした大福顔で、ハーフどころか帰国子女でもない。

戦前の農村あたりによくいたタイプの佇まいで、スカートよりモンペが似合いそうなくらい地味な女の子だった。

名前も「和子」とか「敏子」どころか、「お七」や「お駒」あたりが妥当ですらある。

その容貌に対してエレナという名前は、遺伝子学的に著しく不適切だった。
彼女の両親は「エレナ」という洋風の名前を付けさえすれば、成長の過程で突然変異が起こるとでも思ったんだろうか?

その暴挙に対して、責任を追及したい気分だった。

本人の責任では決してないが、それが当時、エレナを初めて見た時の私の偽らざる印象である。

その後、3年生になって、私はエレナと同じクラスになった。

直接話したことはあまりなかったが、ある時期の席替えでエレナの席が私の前になったことがあり、休み時間になると時々エレナの友達たちがおしゃべりをしに来るようになった。

その会話から、エレナは仲間内で「レナ」と呼ばれていることを知った。

また、名前には似合わないが容貌にふさわしく古典が得意で英語を苦手としており、信仰する宗教は仏教の臨済宗妙心寺派、好物はあんころ餅と草餅だとのこと。

趣味嗜好は典型的どころか、鎖国していた江戸時代の町人の娘レベルの日本人ぶりだ。

ある日のおしゃべりで、友達の一人がエレナの名前のことを口にしたのが耳に入った。

「レナの名前ってさ、すごくきれいだよね」

「やめてよ~、全然気に入ってないんだから」

「外人さんみたいでいいじゃん」

その顔のどこがエレナだ、とかしょっちゅう言われるんだよ?私のせいじゃないのに!」

やはりエレナも自分の名前を気にしていた。

その後の会話で、どうやら母親の方が独断で命名したらしいことが分かった。

何でも、昔からあこがれていた外国人スーパーモデルの名前が「エレナ・何とかコフ」で、それが由来だという。

タチの悪い母親だ。

「そんなんで自分の娘の名前決めるなっての!自分と、自分の旦那の顔見りゃどうなるか想像つくだろうが!まともな名前つけろよ、ウチのバカ親!!」

エレナもしゃべっているうちに興奮してきたらしく、毒説を吐きまくっていた。

その後、エレナの愚母をこの目で拝む機会が訪れた。

進路指導のための三者面談で私と母親が面談を待っていた時、私たちの次の順番がエレナ母娘だったため、廊下で一緒に待つことになったのだ。

エレナ母は、娘をそのままエイジング処理したらこうなる、というぐらいそっくりで、ずんぐりしたドングリ体型なんぞ同じ型でハメたように一致する。

遺伝形質に対して挑戦的な命名を娘に強行した張本人は教育熱心でもあり、待っている最中、進路に関して学業成績の悪いエレナに、あれこれ小言を言っているのが聞こえた。

そんな母親に対し、エレナは「もう分かってるっての!」「しつこいよ、ホント!」と終始いらだち反抗的に応答していた。

思春期という事情もあるだろうが、親子仲が良好ではなさそうだった。

そんなこんなで高校を卒業したが、その後、林五にもエレナにも会ってないから彼らがどういう人生を歩んだかは分からない。

その名前について、今はどう思っているかも知らない。

変な名前やキラキラネームを付けられた子供全てがそうなるとは限らないだろうが、思春期の彼らを見た限りでは自分の名前を気に入っていた様子はなく、そのおかげで大きな悩みを抱えていた。

そういった悩みは一過性のもので、成長の糧になることもあるんだろうか?

だが、一生のうち必ず味わわなければならない悩みでもないだろう。

できることならば、そんな無用な苦しみは味わわせるべきではないはずだ。

親の願望を子供の名前に託すのはいいが、思わずからかいたくなる名前になっていないかよく考えよう。

だから、A川秀定くんよ。

今度生まれる子供に「都夢」って名前つけるのやめた方がいいぞ。

君にも林五やエレナの話をしただろう?

戦国大名みたいな自分の名前が悩みだったからって、トムって名前つけられた息子はそれとは別種で、より深刻な悩みを持つかもしれないんだからな。

え?「都夢」はトムじゃなくて、ドムって読むのか。

いや、そりゃあ目立つだろうけど、人気者とは限らんよ。

それに自分の願いは、林五やエレナの親ほどチャラくないだって?

じゃあ、どうチャラくないってんだ?

何々?ほうほう。

なるほど、

『機動戦士ガンダム』のジオン軍のモビルスーツである『ドム』のような強い男になって欲しいという願いを込めてこの名前に…。
よけいタチ悪りィわ!!

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