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2022年 オラオラ系 ならず者 事件 悲劇 本当のこと

キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌


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最近、いい歳こいた中高年がキレやすくなっているようだ。

キレると言えば、血気盛んな若者というイメージだったが、今では分別がついてしかるべき年代のおっさんやじいさんが駅や公共の窓口などで些細なことから暴言を吐いたり大声を出したりすることが多くなってきているらしい。

また、暴言にとどまらず直接手を出してしまうケースも多い。

社会環境の変化とか、老化により感情のブレーキが利かなくなってきたからとか専門家がいろいろ論じているが、情けないことには変わりがない。

精神的に未熟で怖いもの知らずな若者が暴れる方が、まだ健全な社会であるような気がするのは私だけだろうか。

どちらにせよ、どんなことがあっても中高年の男性が公衆の面前で自分勝手な理由からキレるのは断じてあってはならないと私は断ずる。

それはハタ目から見て、見苦しいからだけではない。

キレた相手によっては、とんでもない目に遭うからである。

私自身もかように見苦しくキレまくる中高年に出くわしたことがあるのだが、これからお話しするその男の場合、キレた彼にキレた者の出現により、公開処刑されてしまったのだ。

オラつく五十男

あれはまだ、コロナが流行する前の朝の通勤ラッシュ時。

最寄り駅のO線K駅から各駅停車に乗って、通勤快速に乗り換えようと二駅先のS駅で降り、ホームで電車を待つ客の列に並んでいた際のことだ。

S駅に通勤快速がやって、来てドアが開いて乗っていた客が降り、私も含めて入れ替わりで待っていた客が乗り込もうとしたとたん、電車の中から突然、大きな怒声が響いてきた。

「オラ!まだ降りる人間がいるんだよ!!」

大声で吠えたのは、背が高い五十代前後の男である。

特にガラの悪そうな感じではなく、背広にネクタイ姿の普通のサラリーマン風だったが、そのオラつき方は、ヤカラそのものだった。

「どけよ!!」とか「目障りなんだよ!」とか威嚇しながら、いらだった様子で、満員の車内の乗客や乗り込もうとしていたホームの乗客を強引に押し分けて出てくるのだ。

運悪く彼の進路に立っていた弱そうな中年男性は「邪魔だボケ!」と怒鳴られてどかされていた。

何なのだこいつは?いい歳のくせに、大声出してチンピラ気取りおって。

朝っぱらから気分が悪い奴だ。

電車から降りることに成功した五十男だが、その機嫌は収まらない。

「どけっつってんだろ!!」

と、今度はホームから電車に乗り込もうとしていた客の一人である男性に、勢いよく肩をぶつけた。

周りの客は道を開けたのに、その男性だけは、自分の前に立ったまま譲ろうとしなかったからだ。

ぶつけられた勢いで、半身をのけぞらせたのは若い男。

五十男を振り返った顔を一瞬見た感じでは、大学生風の大人しそうな風貌であった。

だが、次の瞬間にその若い男が示した反応は、嫌な気分になった我々通勤客を、今度は凍り付かせることになる。

公開処刑の開始

「待ちやがれ、このボケ!!!」

肩をぶつけられた若者が五十男より大きな声で、何より周囲を震え上がらせる凄絶な怒声を発したかと思うと、不機嫌そうに立ち去ろうとする五十男の襟を、後ろからつかんで一気に倒した。

さらにホームに倒された五十男のネクタイをつかみ、なおかつ膝を腹に乗せて完全に動きを制すると、もう片方の腕に体重を乗せた感じで、首に押し付ける。

「何だテメー!」

不意討ちを食らった五十男も、負けじと若者の胸倉を下からつかんで抵抗を試みていたが、威勢がよかったのはここまでだった。

抑え込まれた上に、首に押し付けた腕にさらに体重を乗せられ、「ぐぐぐ」とかうめき声を出して、苦悶の表情を浮かべる。

五十がらみとはいえ、身長が高くてそれなりに体力もありそうな男を、ここまで一方的に制するとはかなりの強者だ。

だが、厄介なことに、この若者はかなりの危険人物でもあった。

「ナメてんのか?相手選べよコラ!!」とか、

「死にてえなら、やってやんぞ!オイ!」とか、

五十男を抑え込みながら、はるかに年齢が上の男を、かなりドスのきいた声で脅すのだ。

いかにも、こういうことを何度もやってきたような手慣れた感じでもある。

五十男も、ケンカを売った相手を間違えたのに気付き始めたらしい。

若者の圧倒的な腕力と迫力を前に抵抗できなくなって、されるがままになりつつある。

しかし、素直に屈服するのはプライドが許さなかったようだ。

「仕事行くんだよ…、放せよ…」

素直に謝ればいいものを、泣きが入り始めたのをごまかそうとしている。

苦しそうな顔と漏らした言葉の調子からは、もうさっきの威勢の良さは微塵もない。

ここまでだったら、年甲斐もなくオラついた男が若きホンモノに退治された痛快な出来事を目撃したとして、気分よく職場に行けただろう。

だが、違った。

ゴン!!

五十男が苦し紛れの言葉を吐き終わるや、若者はその顔面に渾身の頭突きをかましたのだ。

こちらにまで、音が聞こえるくらいの勢いで。

「ぶぶ~!」

とか言って、鼻に打撃をもろにくらったらしい五十男は、顔を押さえた。

その手の間から、みるみる血があふれ出す。

「傷害だぁ…、傷害事件だぞぉぉ~~」

顔を押さえながら声を裏返らせて、もう完全に泣きが入ったみたいだ。

いくら傍若無人な態度で他人を不愉快にした相手とはいえ、若者もこれはやりすぎだろう。

周りの乗客はもちろん見ているだけで、駅員もオロオロして止めに入ろうとはしない。

私も、その一人であったことを告白するが。

「ケンカしてえんだろ?なあ?オイ!聞いてんだろ!!」

一方の若者は、なおもネチネチと脅し続ける。

もうすでにソロのオヤジ狩り。

ハイエナがライオンにやられているようなもんでもあり、嫌な食物連鎖でもある。

私はこのままずっと見ていようかとも思ったが、仕事に遅れそうだし、あの若者が今度は私に「何見てんだ」とか絡んできたらたまらないので、次の電車に乗った。

電車に乗り込む際、後ろから、

「あん?ゴラァ!!オイッ!!」

と、若者が五十男をいびり続ける声が耳に入ってくる。

ドアが閉まって電車が発車しても、ホーム上の客も車内の客もみんなそちらの方向を見ていたからまだまだ続いているようだった。

ヤバい光景を見てしまった。

あの五十男も元々気が短いんだろうが、本当にヤバい奴と渡り合うのは、未経験だったはずだ。

ホンモノを相手にしてしまい、あっという間に制圧されて、ねちっこくシバかれ続けて、明らかにビビッていたからな。

あんなことをされた以上、心的外傷ストレス障害まっしぐらで、もう公衆の面前で怒声を張り上げることは、終生できんだろう。

というか、もうS駅で降りることも、電車に乗ること自体が怖くなってしまったんじゃないか?

同情する気は全くないが。

中高年は若い男にケンカ売っちゃだめだ、とも心底思った。

若い男は若い女ほど可愛らしい存在ではない。

こちらを圧倒する体力があって、その気になれば、こちらを素手で殺せるはずだからな。

そして何より、世の中高年の紳士諸君もどんなにイラついても年甲斐もなくオラつくのは、やめた方がよいだろう。

「うるせえオヤジだ」とかムカついて、突っかかって来る若者もいるかもしれないから。

あのS駅での事件が、その後どうなったかは知らない。

最初の方は嫌な気分になった後で面白いことになったけど、最後の方でドン引きしたが。

何より、大勢の人の前で男廃業させられた五十男に合掌。

助ける気が全然起きなくて、誠に申し訳ない。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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2022年 事件 事件簿 北米

ノースハリウッド銀行強事件(North Hollywood shootout)


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1997年2月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッドが戦場と化した。

この地のバンク・オブ・アメリカ・ノースハリウッド支店に押し入った二人組の銀行強盗と駆け付けた警官隊との間で、大規模な銃撃戦が発生したのだ。

犯罪者と警官との銃撃戦は、銃犯罪が横行する合衆国において珍しくないのは知られているところだが、この銀行強盗はただ者ではなかった。

犯歴を重ねたプロの強盗であるだけでなく、全身を自家製防弾着で包み、違法に改造された複数の自動火器と豊富な弾薬で重武装していたからだ。

犯人たちは全自動で銃を乱射し、拳銃やショットガンで応戦する警官隊を圧倒。

この模様は、テレビによって全米にも大々的に生中継され、約44分間続いたこの銃撃戦は犯人二人が死亡して幕を閉じたが、警官12人と市民8人が負傷。

発射された弾丸は、双方合わせて約2000発という合衆国の犯罪史上でも最大級の銃撃戦となった。

犯人と事件に至るまでの経緯

この事件の犯人は、ラリー・ユージン・フィリップスJr.とエミール・デクバル・マタサレヌである。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.(以下、フィリップス)は1970年9月20日生まれ、既婚者で二児の父。

幼少時より母親に射撃場に連れていかれたために銃に親しんで育ち、成人してからは不動産のセールスマンをしていたが、1989年ころから不動産詐欺や窃盗などの犯罪行為に手を染めていた。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.

エミール・デクバル・マタサレヌ(以下、マタサレヌ)は、1966年7月19日にルーマニアで生まれた。

母親は精神病院を経営していたが、幼少時に入院している患者に襲われて負傷。

それが原因かは不明だが、粗暴な性格になっていったらしい。

しかし成長後は、電気技師の資格を取って自営業を営むなどまっとうな道を歩んではいたが、その事業はあまりうまくいかなかったようだ。

エミール・デクバル・マタサレヌ

そんな二人が出会ったのは1989年、ロサンゼルスのゴールドジム。

両人とも体を鍛えるのが趣味で、銃器が好きだったこともあって意気投合したらしい。

だが、この出会いは両人以外にとっては、あまり好ましいものではなかった。

むしろ最悪、後につるんで武装強盗を重ねるようになっていったからである。

1993年7月20日、フィリップスとマタサレヌは、コロラド州リトルトンで現金輸送車を強奪。

同年10月29日、スピード違反で検挙された際に車内から、銃器と大量の実弾などが見つかったことで逮捕されるが、100日間の服役と3年間の保護観察で済んだ。

逮捕されても全く反省する気のない二人は、1995年6月14日、ロサンゼルスのウィネトカで再び現金輸送車を襲撃、この際は警備員1名を殺害し、もう1名に重傷を負わせる。

1996年5月には同じくロサンゼルスで二回にわたり銀行強盗を行い、150万ドルを強奪した。

実際の犯行の模様

これらの犯行により、ノースハリウッドの事件前までには、二人とも危険極まりない凶悪犯として警察にマークされるようになる。

そして、これほどの犯行を行って大金をせしめたにも関わらず、彼らは満足しなかった。

さらなるあぶく銭を得ようと、次なる悪事の準備を開始する。

犯行に向けた準備

次なるターゲットとしたのは、ロサンゼルス市のバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店だ。

この銀行はハイウェイにも近く、逃走しやすい場所にあった。

二人は数か月にわたる入念な下見と偵察と並行して、稼いだ金を元手に、犯行に使う武器弾薬や装備の調達に動く。

そして、用意した武装はハンパではない。

中国北方工業公司(ノリンコ)製の56式自動小銃S型(AK-47III型のコピー)が二丁に、同じく中国製の56式自動小銃S-1型、ブッシュマスターXM15、HK91といずれも自動火器であり、56式自動小銃S-1型とXM15は違法改造を施して、全自動射撃が可能になっていた。

56式自動小銃
ブッシュマスターXM15
HK91
ベレッタ92FS

フィリップスは、それ以外にもベレッタ92FSピストルを装備する。

彼らには犯歴があったため、いくらアメリカでも、こんなシロモノを銃砲店で堂々購入できないが、どっぷり裏社会の住人である二人ならば、闇市場で手に入れるのはたやすいことだった。

買い集めた弾薬も膨大で約3300発、それもパトカーも貫通する被覆鋼弾(フルメタルジャケット)だ。

しかも弾丸を装填するマガジンとして、56式自動小銃用に75発入りドラムマガジンを、XM15用には100発入りドラムマガジンを準備した。

攻撃だけではなく防御にも凝っている。

銃撃されることも想定して、ケプラー製の防弾性能IIIAの防弾チョッキを縫い合わせて胴体だけでなく、肩や手足をも防護できる手製の全身防弾着を作り上げていた。

ちなみに、IIIAの防弾チョッキは9ミリ弾だけでなく、44マグナム弾をも防ぐことができる。

両人が付けていた自家製防弾着
両人が付けていた自家製防弾着

行き先が戦場だったとしても、この装備はやりすぎなくらいであったが、実際の現場では大いに威力を発揮することになる。

もちろん、犯行に使った車や武器を焼却して証拠を隠滅するために、ガソリンを準備することも忘れない。

そして、決行日は2月28日とした。

この日は給料日が近いために客で混雑し、銀行側のセキュリティーにも余裕がないと踏んでいたからだ。

こうして、プロの犯罪者だったとしても入念すぎるほどの準備をした彼らは、その決行の日を迎えた。

同時に、それは彼らの命日にもなるのだが。

銀行襲撃

バンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店

1997年2月28日、午前9時17分。

全身防弾着に身を包んで重武装したフィリップスとマタサレヌが白いシボレーに乗って、営業時間になったばかりのバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店に現れた。

決行の前に二人は、精神を落ち着かせるために鎮痛剤を服用。

手袋に縫い付けた腕時計を8分間が経過したら、アラームが鳴るように設定した。

これは、犯行を8分以内に終わらせるためである。

彼らは事前に警察無線を盗聴し、通報により警察が駆け付けるまでに、最低でも8分かかることを突き止めていたのだ。

準備は万端、あとは決行あるのみ。

フィリップスとマタサレヌは、覆面をかぶり56式自動小銃を構えて、正面玄関から堂々行内に侵入する。

だが、外では彼らにとって、極めて不運なことが起こっていた。

偶然にもパトロール中のパトカーが近くを通りかかり、車内の警官が、銀行に入っていく彼らを目撃していたのである。

覆面をかぶって自動小銃を持った二人が、融資の相談や預金の引き出しに訪れた客であるはずはない。

警官は、無線で大至急の応援を要請する。

一方、そうとは気づかない二人は、銀行内で手際よく犯行を行っていた。

マタサレヌは56式を全自動で天井に向けてぶっぱなし、フィリップスは、”This is a fucking hold up!”と吠え、客や行員に銃を向けて脅し上げる。

フィリップスはさらに、ロビーと出納係のいるスペースとの防弾通用門を56式の一連射で破壊すると中に侵入、アシスタントマネージャーを脅して、金庫の扉を開けさせるのに成功した。

犯行の模様

しかし、実際にあった金は、予想していた75万ドルに遠く及ばない303305ドル。

現金の配送スケジュールが変更されて、まだ届いていなかったのだ。

フィリップスは、腹立ちまぎれに金庫に向けて56式を連射して蜂の巣にする。

埋め合わせにATMから金を奪おうとしたが、これもうまくいかない。

だが、たった303305ドルでも、ないよりはマシだ。

アシスタントマネージャーに現金を持参してきたバッグに詰めさせると、人質となっていた客や行員約40名を金庫室に閉じ込めて撤収を開始する。

セットしていたアラームが鳴った午前9時25分ごろ、フィリップスがノースハリウッド支店の北側から、マタサレヌはが南側出入口を出た。

しかし、そこで彼らは唖然とすることになる。

最初に発見した警官の応援要請によりパトカーがすでに十数台到着し、50名余りの警官がこちらに銃を構えていたからだ。

並みの強盗だったら、ここで「万事休す」であったことだろう。

だが彼らは違った。

大銃撃戦

こちらに銃を向ける警官たちに向けて、フィリップスの56式が火を吹いた。

発砲するフィリップス

弾は被覆鋼弾で、パトカーを貫通して警官たちを負傷させる。

警官隊も応戦したが、こちらはベレッタ92Fやスミス&ウェッソン等の拳銃やイサカ37といった散弾銃。

いくら大勢いても軍用の突撃銃である56式の敵ではなく、弾幕を張られて、顔を出すこともできない。

75発入りのドラムマガジンなので、銃撃はなかなか途切れないのだ。

フィリップスはこの時、地上の警官だけではなく上空を旋回する警察のヘリコプターをも銃撃した。

この銃撃で警官7人と、巻き添えで民間人が3人負傷する。

死者が出なかったのは、弾丸が被覆鋼弾なので、通常の弾丸のように人体内で変形して止まることはなく貫通したからだと言われる。

パトカーや警官の配置及び銃撃戦の見取り図

フィリップスは一旦銀行内に戻った後、マタサレヌと合流。

金を持って退散しようとしたが、札束の中に特殊なインクを飛散させて紙幣を証拠品化する防犯装置が密かに仕込まれており、金が台無しになっていたのに気づく。

せっかく苦労して手に入れたのに!

これで癇癪を起したのだろうか、金を放棄して外へ出た二人は、立ちはだかるパトカーに向けて56式をぶっ放した。

フィリップスとマタサレヌ

警官隊も発砲したが、拳銃や散弾銃は遠距離射撃での精度が低かった上に、二人とも全身防弾着を着用しているので、いくら命中させても倒れやしない。

防弾性能IIIAだと、9ミリ弾や散弾を十分防ぐことができるからだ。

警官が数発撃つと、彼らはその数倍以上撃ち返してくる有様で、完全に火力で圧倒されていた。

武装での不利を悟った警官隊のうち数名が、劣勢を挽回すべく、近所の銃砲店から軍用火器の調達に走ったが、これは結果的に事件の解決に間に合うことはなかった。

次々応援に駆け付ける警察を見たマタサレヌは、逃走に移ろうと、駐車場に停めた自分たちの車に向かう。

銃撃を続けていたフィリップスだったが、この時警官の放った弾丸が、56式の機関部に命中して壊れてしまった。

 

その直後、頃合いよくマタサレヌの乗る車が近くに来たので、車のトランクから予備に持ってきたHK91に換えて銃撃を再開するが、これも被弾により破壊されたため、もう一丁の56式を取り出す。

フィリップスはマタサレヌに車をゆっくり運転させ、それを遮蔽物にして銃撃を始めた。

この頃には、現場にはテレビ局のレポーターやスタッフも駆け付けてきて、アメリカでも前代未聞のこの銃撃戦をレポートし始めており、上空のへリは犯人から銃撃を加えられながらも、その模様を撮影している。

二人は、そのまま一緒に逃走するのは危険と判断したのだろうか、やがてフィリップスは徒歩で、マタサレヌは車で、それぞれ分かれて逃走を図り始めた。

犯人の最後

銃撃しながら逃げるフィリップス

徒歩のフィリップスは56式を乱射しながら逃走を続け、追撃する警官隊も銃撃を浴びせる。

彼は全身を覆う特製防弾着を着てきたが、全くダメージがなかったわけではない。

テレビ中継された映像から、たびたび被弾したと思われる際に、痛みを感じているようなそぶりを見せているのが分かるからだ。

また、完全に弾丸を防ぐわけでもなかった。

この時警官の撃った9ミリ弾が右肩の防弾着と防弾着を縫い合わせた部分に命中して負傷、左手首にも弾丸を食らう。

悪いことに、56式も弾詰まりを起こして作動しなくなった。

フィリップスは56式を捨てて、予備に持ってきたベレッタを取り出して反撃を試みるが、これでは威力が弱すぎる。

弾も次から次へと命中するし、ベレッタの残りの弾数もあとわずかとなってきた。

今度こそ終わりである。

だが、彼は降伏を選ばなかった。

右手を撃たれて一旦落とした拳銃を拾うと、それをあごの下に当てるや引き金を引いて自分の頭を撃ち抜き、崩れ落ちた。

逮捕されるより死を選んだのだ。

一方のマタサレヌは乗っている車のタイヤを撃ち抜かれており、ちょうど対面からやってきたピックアップトラックを奪おうとしていた。

うまいことに、ピックアップトラックの運転手は逃げ出したので、マタサレヌはそこへ武器と弾薬を移し替える。

しかし、運転席に座って発車しようとしたが、エンジンがかからない。

トラックの運転手は逃げる際に、エンジンが動かなくなるキルスイッチを作動させていたからだ。

さらに、そこへパトカーがやってきた。

今度は一般の警官ではなく、特殊部隊のSWAT隊員が乗っている。

装備もAR-15なので火力で負けはしない。

SWATから銃撃されたマタサレヌは、急いでピックアップトラックを降りると、それまで乗っていたシボレーのフロント部分に回って、ブッシュマスターXM15で反撃。

フロントガラス越しに全自動でXM15をぶっ放し、至近距離での自動火器同士の銃撃戦となる。

SWATとマタサレヌの銃撃戦
SWATとマタサレヌの銃撃戦

しかし、SWAT隊員の一人が車の下からマタサレヌの足めがけてAR-15を撃ち、これが防弾チョッキで保護されていない足に複数発命中。

これには、さすがのマタサレヌも戦意を喪失し、銃を捨てて手を挙げた。

拘束されたマタサレヌ

こうして、約44分間続いた銃撃戦はようやく幕を閉じたが、救急車の到着が遅れたためにマタサレヌは足の銃創からの出血多量で死亡してしまった。

その後

この事件では、犯人以外に死者こそ出なかったものの、警官12人と市民8人も負傷。

犯人側が1100発以上、警官側が650発以上発砲するという戦場のような規模の銃撃戦となった。

合衆国の犯罪史上でも他に類を見ないほどのすさまじさであったため、社会にかなりのインパクトを与えたようだ。

その後、事件を元にした映画も何本か作られている。

ちなみに、事件が起こる二年前にロバート・デニーロ、アル・パチーノが共演した映画『ヒート』において、自動火器で武装した銀行強盗が拳銃やショットガンを装備した警官隊を圧倒するシーンがあったが、まさにそれのリアル版となってしまった感がある。

事実、後の捜索で彼らのアジトから『ヒート』のビデオテープが見つかったというから、ある程度参考にしていた可能性は高い。

もちろん合衆国各地の警察にも影響を与えた。

ノースハリウッドの事件で火力が不足したばかりに、ここまでの規模になってしまった教訓から、警官の装備の見直しが図られたのだ。

以降、各パトロール隊にはAR-15セミオートマチックライフルを装備した隊員、パトロールライフルオフィサー(PRO)が加わるようになった。

そして現在、カリフォルニア州ロサンゼルスのハイランドパークにあるロサンゼルス警察博物館には、二人の犯人の等身大のマネキンに実際に付けていた防弾着を着せ、同じく装備していた武器や乗ってきたシボレー、弾痕の残るパトカーなどが展示されて、事件の詳細を生々しく今に伝えている。

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同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後 2


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資産ゼロ・無年金で東南アジア某国の現地妻の実家に転がり込んだ東野氏。

ほぼ無一文だったからか、着いて早々過酷な現実に直面したらしく、日本にいたころ働いていた職場での知り合いや知り合いではない人にまで、金の無心の電話をかけまくっていたが、現実が過酷なのはこちら日本でも同じだった。

頼んだ相手も金欠か薄情だったし、本人の職場での素行と電話での頼み方も災いして金を融通してくれる聖人は少なく、ほどなくして連絡が途絶えた。

働いていた運送会社で「死亡説」が流れ始め、一か月ほど経過して誰も話題にもしなくなったころ、単身現地へ行って東野氏の安否を確かめようという勇者が現れた。

会社の契約社員の柴田馨である。

元バックパッカーの柴田

柴田は、当時の私よりちょっと年下の30代前半で、元バックパッカーだ。

契約社員になる前は、アルバイトでためた金を使って主に東南アジア方面を放浪していたし、契約社員になってからも、年に数回海外へ行っている。

東野が旅立った某国にも何度か行っており、それが縁で、東野とも付き合いが深かった。

アルバイトだった頃には、彼が転がり込んだ妻の実家へも一緒に行って、何泊かしたことがある。

それだけ付き合いがあったんだから、東野にも金を貸しただろうし、一番心配しているのかと思いきや、「こっちも金がない」とか言って一銭も貸していないらしい。

それについて「なんで俺が貸さなきゃいけねーわけ?」と、こともなげに言っていたから薄情な男である。

そんな柴田が東野を訪ねる気になったのは、有給を使って某国に旅行するつもりだったからであり、ついでにどうしているか見てこようと思ったからだという。

金を貸してやらなかったくせに会いに行こうとは、頭も情も軽いのと同時に、強心臓の持ち主でもある。

東野がキリギリスだったら、この男はさしずめゴキブリだろうというのは言い過ぎだろうか?

いや、両人ともどちらも兼ねているのだろう。

とはいえ、柴田もさすがに、何の連絡もせずに訪問するほど無神経ではなかったらしく、東野からかかってきていた番号に、何度か電話していたようだ。

しかし、くだんの金の無心電話がピタリと止んで以降、電話に出ることも折り返しも一切なかったという。

「ちょっとただゴトじゃねえぞ、こりゃ」

出発前の職場で話した時は、そう言いつつ口元はニヤついており、怖いモノ見たさ満々の様子だった。

だが、本当に怖い思いをすることになるとは、この時彼も気づいていなかった。

東野の妻の実家にて

東野の妻の実家は某国の首都の近郊ではあるが、やや辺鄙な半農村半住宅地といった感じの場所にある。

柴田は一度しか行ったことはないが、その場所をよく覚えていた。

また、「俺がいるときに訪ねて来いよ」と東野から住所の写しももらっていたから、某国に到着した柴田はホテルにチェックインした後、すぐにタクシーでその家に向かったようだ。

家のイメージ

いかにも東南アジアの民家といった感じの、さほどボロくもこぎれいでもない二階建ての家である。

柴田が東野と一緒に訪れて泊まった当時、その家は、奥さんとその両親、兄弟の他に結婚した兄の一家が暮らす大所帯であったようだ。

奥さんは東野よりだいぶ年下だが、当時からそんなに若くはなく、もう30代後半くらいになっているはずの中年女性。

にこやかな笑みを浮かべて食事の準備やらなにやら、柴田と家の主人気取りでふんぞり返っていた東野に、かいがいしく尽くしてくれていた印象がある。

彼女は日本で働いた経験があったらしく、片言の日本語を話した。

柴田がタクシーを降りてその家に着くと、以前訪れた時と変わらぬたたずまいであった。

(さて東野さんはどうしているのやら)

何の連絡もできずいきなり訪ねる形になってしまったが、東野はむろんのこと、奥さんもこの家の人間も自分のことは覚えてくれているから大丈夫だろうと思っていた。

家の入口は開けっ放しだったので、中に誰かいるだろうかとのぞき込もうとした時、道の向こうから見覚えのある女性がこちらにやって来るのが目に入った。

あれは間違いない、東野の奥さんだ。

「オー、久しぶり!」

柴田は、現地の言葉は一切分からないので、日本語で声をかけた。

奥さんは、日本語が分かるはずだから問題ないだろうと。

だが、彼女は明らかに柴田の姿を認めた感じだったが、何の返答もなく、無表情のまま家の入口に向かおうとした。

東野と一緒に泊まった時に、いつも見せてくれてたような笑顔は一切見せない。

「おいおい、俺だよ。柴田だよ。忘れたの?」

柴田はめげずに日本語で訊ねたが、奥さんは知らないとでもいうように、無言で手を振ってプイっとそっぽを向いた。

完全に「あんた誰?」どころか「アッチ行け」扱いである。

どういうことだ?

その冷たい態度の意味が解らなかったが、それよりも、ここに来た目的は東野の消息だ。

「ねえ、東野さんいる?ここに来たでしょ?」

本題を聞かせると奥さんはこちらを見て、相変わらずにこりともせずに語気鋭く言った。

「イナイ!」

「え?でも、こっち来たって言ってたよ?」

「キテナイ!」

「ねえ、どこ行ったの?」

「シラナイ!!」

柴田はしつこく食い下がって東野の行方を尋ねたが、彼女は「イナイ」「キテナイ」「シラナイ」の三つを繰り返すばかりで取り合ってくれず、家の中に入ると、ドアをぴしゃりと閉めてしまった。

ノックしてみても、中からは相変わらず三つの「ナイ」が繰り返されるばかり。

どういうことだ?

ここには、そもそも来てないのか?それとも、やっぱり追い出されたのか?

奥さんの豹変した態度には釈然としなかったが、もうここにはいないと考えてよさそうだった。

まあいい、もう帰るか。

もともとそこまで東野のことを心配していないし、面白半分だったから長居するつもりはなく、タクシーの運ちゃんには片言の英語と筆談で、一時間後にまた来てくれと頼んでおいた。

まだ時間はあるが、運ちゃんとの待ち合わせ場所まで行こうと思ったところ、近くの木陰に座り込んで、こちらを見ている少年たちが目に入った。

小学生くらいか中学生くらいか分からん微妙な年恰好の者たちだったが、一連の様子を見ていたらしく、ニヤニヤ笑っている。

こいつら何か知ってるかな?

知ってるわけないかもしれないが、どうせ暇つぶしだ。聞いてみよう。

そう思って彼らに近づいた柴田は、帰国後、この某国に二度と足を踏み入れる気がなくなったほどの衝撃を、その後に受けることになる。

垣間見えた真相

子供達イメージ

聞いてみるといっても、柴田はこの国の言葉は分からないし、英語も片言以下、小僧たちだって日本語が分かるはずがないし、英語も期待できそうにない。

柴田はそういう時のために、海外へはいつもスケッチブックを持参し、図や絵を描いて相手に見せることによって、意思疎通を図ってきた。

「ハロー」

そう挨拶して、東南アジアの人間らしく一見屈託ない笑顔を見せる少年たちに近づいた柴田は、毎回海外でやっているように、取り出したスケッチブックに東野の似顔絵を描きだした。

名前を言ってもわからないだろうから、似顔絵を見せれば、何とかなると思ったのだ。

幸いなことに、東野は小太りでメガネをかけて側頭部だけを残したつるっぱげ、という特徴的で描きやすい容貌をしていたから、絵心の特にない柴田でも簡単だった。

しかもそんな容貌は、この東南アジアの片田舎ではあまりお目にかからないから、分かりやすいだろう。

「この人、知ってる?」と、ササっと描いた似顔絵を見せて、日本語で訊ねる。

似顔絵

少年たちが、その絵に顔を近づけて見たとたんだった。

一同から大爆笑が起こったのだ。

もうおかしくて仕方がないという感じで、笑い転げる者もいる。

ナニナニ?そんなに俺の絵ウケた?

一瞬そう思ったが、彼らは柴田の意図を理解していたらしい。

笑いながらその絵を指さした後、奥さんの家を指さした。

どうやら柴田の似顔絵の人物を知っており、あの家に“いる”か“いた”かを知らせてくれているようだ。

「まだ、いるのか?」

と聞こうと思ったら、少年たちの一人が笑いながら、柴田の描いた東野の絵の方を指さした後、頭を抱えてうずくまると、叫び始めた。

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」

次に一番背の高いガキが家の方を指さしてから、履いていたサンダルを脱いで、うずくまったガキの頭を連打するようなそぶりを見せ、

もう一人は蹴りを入れたり、ゲンコツをかますマネを始める。

現地語で罵るような口調を交えて、笑いながらだ。

え?ナニそれ?意味分から…、イヤ!待てよ!?

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」→「止めてくれー止めてくれー!痛た!痛た!」じゃないのか?

これって、東野さんはつまり…。

凍り付いた柴田だったが、すぐさまより凍り付くことになる。

頭を抱えてうずくまっていたガキが自分の首を両手で絞めると、舌を出して「エ、エ、エ、エ」と声を出し苦しむ顔をし始め、やがて「ガクッ」とこと切れた演技をしたのだ。

まさか!!!

そしてとどめとして、

先ほどのサンダルのガキが、やや遠くのジャングルを指さして、手を枕に眠るようなしぐさをしたではないか!

それらの演技の間も、他のガキどもは終始笑い転げていた。

何があったか分かりすぎる!これが本当なら相当ヤバイ。

相変わらず笑みを浮かべるガキどもの笑顔が、この上なく邪悪に見えてきた。

ここにいてはまずい!早く帰ろう!!

逃避行

「〇×▽〇××◇!!!」

柴田が少年たちに別れを告げて退散しようとした時、いきなり少年たちの後方から、甲高い現地語の怒声が響いてきた。

東野の奥さんが怒りの表情で家から出てきて、少年たちに詰め寄ってきたのだ。

同じく中年男性と20代くらいの男も後に続いていた。

若い方は知らないが、中年男は、たしか奥さんの兄弟か何かだ。

余計なことしゃべるなとでも言っているのだろうか?柴田の方を指さしたりして少年たちを怒鳴りつけ、突き飛ばし始める。

少年たちもおばさんが相手だから、笑いながら何か言い返していたが、中年男が大声で怒鳴り、若い男がこぶしを振り上げて殴るマネをすると一斉に逃げ散った。

ガキどもを蹴散らすと、今度は柴田に矛先を向け始めた。

「アナタ、ナゼいる!?ナンでキク!?ワタシ、シラナイいった!!」

奥さんは接続詞と助詞を省いた日本語をまくし立て、阿修羅の剣幕だ。

彼女も怖いが、よりやばいのは後ろの男たちだ。

奥さんと一緒に臨戦態勢で、こちらに近寄って来るではないか!

奥さんは歩み寄りながら「アナタ、ばか!ワタシいった!アナタ、ワルイよ!!」と罵り続ける。

「分かってるよ分かってるよ、もう帰るから!帰るから!!」

そう言って後、ずさりする柴田に対して彼女が言い放った言葉は、いままで生きてきた中で最もゾッとする一言となり、今も耳に残っていると、後に語ることになる。

「アナタ、カエれない」

その言葉が何を意味するか、この状況では、分かりすぎるほど分かった。

柴田は脱兎のごとく、その場からの逃走を図った。

走り出すと、後ろから男二人が大声を出して追いかけてくる気配を感じた。

ヤバイヤバイ!捕まったら終わりだ!!

生きるために、ありったけの力で走り続ける。

幸いだったのは、柴田は荷物をホテルに置いて手ぶらで来ていたことと、スニーカーを履いていたことで、なおかつ、彼は100メートルを11秒台で走れる比較的俊足の持ち主だったこと。

一方の奥さん側は全員サンダルだったので、どうしても走るのが遅くなったことである。

さらに幸運なことに、とりあえず逃げた先はタクシーとの待ち合わせ場所だったのだが、約束の時間よりだいぶ早いにもかかわらずそのタクシーが待っていてくれたことだ。

運転手は中で居眠りしていたが。

必死の柴田は運転手を「ウェイクアップ!ウェイクアップ!ゴーゴー!!」とたたき起こして急いで出発させた時、彼らの姿は見えなくなっていた。

あきらめたらしい、助かったと、この時は思った。

だが、違ったようだ。

ホテルに向かって走り出したタクシーの中で、まだ震えが止まらないながらもほっとしていた柴田は、後方からしつこく鳴らされるクラクションが気になった。

そのクラクションはどうやらバイクのものらしく、だんだん近づいてきている。

「うるせえな」と思って、窓の外を見た彼は仰天した。

何と奥さんたち三人が、ホンダの『スーパーカブ』に乗って追いかけてきたのだ!

足で追いつけないと分かるや、賢明にもバイクを使った追跡に切り替えたらしい。

中年男が運転し、後ろに奥さん、若い男の順番で三人乗りしており、

奥さんの手にはトンカチ、若い男の手には長い棒が握られ(それを何に使う気だ!?)、クラクションを鳴らしながら、何ごとかわめいている。

これにはさすがに、タクシーの運ちゃんもただならぬ事態を把握したらしく、柴田に言われるまでもなくスピードを上げてくれた。

50ccのスーパーカブでは追いつけるはずもなく、タクシーはぐんぐん彼らを引き離して、やがて街中に到達。柴田は生還することに成功した。

もっとも、ホテル到着後にタクシーの運ちゃんは、危ないところを助けてやったからと恩着せがましく運賃100ドルを請求し、柴田も泣く泣く支払うことになったのだが。

彼は東野と自分が遭遇した一件を警察に訴えようとも思ったが、某国の警察は当てにならないだろうから、敢えてしなかった。

第一あれ以降、怖くて街に出る気もなくなってしまい、近くに食事に行く以外は、三泊四日の某国滞在はほぼホテル内だったのだ。

いつもなら、あっという間に終わって名残惜しく日本に帰国していたが、この時は本当に長く感じ、出国して飛行機が離陸した際はほっとしたという。

帰国後

「とんでもねえ目に遭った。もう、あそこには行きたくねえよ」

帰国した柴田はそれらの話を職場でした時、顔をこわばらせていつものヘラヘラ顔を一切見せなかった。

経済発展著しいと日本で報道される某国だったが、あんなことがまかりとおっているとは、発展途上国どころか20世紀すら迎えていないとまで話していた。

以上の話が実話なら、実にゾッとする。

柴田はホラ吹きなところがあって、話を十倍にも二十倍にもする癖があったが、帰国して以降、私がその会社を辞めるまでの六年の間に、あれほど好きだった東南アジア旅行に一回も行かなかったんだから、ほぼ事実なんだろう。

そして、東野から永久に金の無心の電話が来ないのも、会えなくなったのも確実なようだ。

彼は移住前、「俺はあの国の土になる」と周囲に言っていたというが、それは予想より、かなり早く実現してしまったらしい。

我々のうち誰かが助けてやってたら、こうはならなかったんでは?

いや、時間の問題だった。誰も悪くない。

でも、でも…。

そういった葛藤を、私以外にも多少は抱えていた者が多かったのかもしれない。

その後、あの会社において東野を知っている人間の中で、彼のことを思い出して話題にした者は、私の記憶のかぎりではいなかったのだから。

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)

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ハメられた?ホモ痴漢で捕まったNHK職員の言い分

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だいぶ以前のことではあるが、2006年12月16日、NHK放送総局ライツ・アーカイブスセンターのアーカイブス部に勤める山之内祥徳(当時30歳、仮名)という男がJR総武線内で痴漢を行ったとして、都迷惑防止条例違反で逮捕された。

NHK職員の不祥事自体は、時々報道されるから別に珍しいことではない感がある。

しかし、この山之内というNHK職員の男が犯した痴漢行為はやや特殊だった。

彼が痴漢した相手は大学生の青年、つまり男だったのだ。

しかも、この事件の捜査関係者によると「女性と間違えて触ったわけではない」らしく、はじめから男と分かってやっていたのは間違いないため、完全無欠のホモ痴漢である。

調べによると、12月16日午後7時30分ごろ、仕事が休みだった山之内は、御茶ノ水から浅草橋間を走っていたJR総武線車内で吊革につかまって立っていた男子大学生(19歳)の尻を、後ろから約三分間にわたって触り続けたという。

当時朝のラッシュアワーと違って、車内はさほど混んでいない状態だったから、大胆不敵である。

しかし、あまりにも露骨な犯行であったため相手の大学生に取り押さえられてしまい、浅草橋駅の駅員に突き出されて御用となった。

山之内は取り調べに対して容疑を素直に認め、「不眠症で薬を飲んでいて、頭がボーとしていた」と供述したが、そんなものが言い訳になるわけはない。

この事件はすぐさま明るみに出て新聞各社に報道された結果、彼はNHKという鉄板の職場を追われた。

一見自業自得で救いようがないように見えるこのNHK職員によるホモ痴漢事件だが、背後にはちょっとした闇が存在していた。

それは後日、某スポーツ紙の取材に加害者の山之内自身が応じたことにより、以下のとおり明らかにされた。

被害者の大学生の正体と真相

この痴漢被害に遭った被害者の大学生だが、ただ者ではない。

それは、アメリカンフットボールをやっていたという身長180cm体重120kgの巨漢であったことだ(ラグビーだったという報道もある)。

そして、もっとただ者とは言い難かったかったのは、

デブ専のゲイ雑誌のモデルをしており、その筋では知られた存在だったことである。

山之内本人が言うには、どっぷりその筋の人間である彼は、相手の大学生に出くわして何者であるかすぐに気づいた。

山之内は、生で見るその圧巻の“グラマー”さにそそられるあまり、思わず大胆にも“アプローチ”をかけてしまったのだ。

睡眠薬を飲んでいてほぼ酩酊状態だったことも、そのスケベ心(?)の暴走を助長した。

とはいえ、相手がそんな雑誌のモデルだからといって、無断で尻を触るのは犯罪行為以外の何者でもなく、許されるものではない。

後に取り押さえて突き出した以上、その大学生も不快に感じていたのだろう。

しかしあくまで山之内の言い分なのだが、いきなり取り押さえられることなく、そのまま三分間と比較的長時間犯行を継続することができたのには理由があった。

その大学生は、山之内に触られるや拒絶するどころか、何と尻をグイグイ突き出して挑発。

“アプローチ”に対して濃厚かつ熱烈に返答し続けたらしいのだ。

「おお!こ、これはイケる!」

この時、山之内はあこがれの相手からの思わぬ好感触に興奮して、さらにアプローチに力がこもった。

御茶ノ水駅から浅草橋駅までのその三分間は、睡眠薬の効果も手伝って、さぞかし夢心地であったことだろう。

しかし、その短く美しい夢は浅草駅到着とともに覚まされ、長い現実の悪夢が始まることになる。

「てめえ何しやがんだ!!」

駅に到着するや否や大学生が突然豹変、尻をなでまわしていた山之内の腕をつかんでねじ上げたのだ。

体重100kgを超す巨漢だから力も半端ではない。

「え、ええ!?」

「降りろ!この変態野郎!!」

何ごとかといぶかしむ乗客の好奇の視線を浴び、何が何だか理解が追い付かない山之内は、大学生に罵られながら羽交い絞めにされて電車から引きずり出され、駅員室に引っ立てられた。

踏んだり蹴ったりの山之内

山之内は、相手もその気になっていたように見えたからこっちも触り続けたんだと主張したが、後の祭りだった。

触ったのは事実なので、言い逃れのしようがないのだ。

そして大学生は、精神的苦痛を感じたと主張して譲らず、告訴すると脅してきた。

それはまずい。

痴漢の被害者に告訴されれば、たとえ相手が男であっても、有罪は必至。

そうなれば、今のNHK職員というおいしい身分を失うのは間違いない。

それを見越したのか、大学生の方は示談金を払えば告訴しないとしてきたが、提示してきた金額は数百万円と法外なものだった。

ずいぶんお高くとまった尻である。

しかし、山之内は職を失いたくないばかりに、泣く泣くその金を支払わざるを得なかった。

だが結果として、この事件はあっという間に露見して、翌々日には、マスコミ各社に報道されてしまう。

山之内はNHKで立場を失い、退職を余儀なくされた。

「はめられた!最初からそのつもりだったんだ!」

そう記者にまくしたてていた彼だが、相手側の悪意を立証することは不可能である。

高額の金をふんだくられた上に、ホモ痴漢として全国に名前をさらされて、職まで追われたんだから、まさに踏んだり蹴ったりだ。

“悪女”の手口は、男だって使えるのである。

“魔性の男”のハニートラップに引っかかった山之内は、反省はしていないようだったが、後悔は十分すぎるほどしていることだろう。

世界には、どんな片隅にも危険な罠が潜んでいるようだ。

当時の新聞記事
NHKは迷惑系放送局① 集金人は悪質テクニシャン

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後


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海外で生活に困窮している日本人のことを「困窮邦人」というらしい。

これら困窮邦人が最も多いのはフィリピンであり、日本国内のフィリピンパブなどの女性に入れあげた挙句、一緒に暮らそうと後を追いかけたはいいが、金が尽きたとたん、相手の女性やその家族に放り出されてホームレスになってしまうなどの例が、跡を絶たないという。

またタイなどの国々でも、退職金や年金を生活資金として移住した結果、現地の物価が上昇してしまい、手持ちの金では生活が立ち行かなくなった者もいるし、同じく資金が尽きたバックパッカーが、ホームレスに転落することもある。

私の身近にもそんな手合いがいた。

だが、その男は困窮しているどころではなかった。

もっと困ったことになってしまったようなのだ。

二足歩行するキリギリス

私が昔働いていた運送会社のアルバイトの中に、東野という50代後半のおっさんがいた。

その運送会社のアルバイトの雇用条件は日雇いの形式で、二か月継続して働いたら、次の一か月は勤務できないというものだったが、東野氏はその一か月の間は別の仕事をすることなく、次の二か月間のアルバイトの雇用契約をすると、東南アジアの某国に行って過ごしていた。

昔からその国に何度も行っていた彼には現地にひと回り以上年下の妻がおり、その妻の家でやっかいになっていたらしい。

運送会社の給料は雀の涙であったが、発展途上国である某国の物価は日本と比べて段違いに安かったために、現地妻の生活費を援助することもできたし、ホテル代がかからないぶん、滞在費に困ることもなかった。

そんな彼は日本では、家賃4万円そこそこの風呂なしアパートに住み、国民年金も払ったことはなかったし、資産と呼べるものもなかったようだ。

キリギリスな彼は、そんな金があったらパチンコや競馬に行くか、東南アジアに行ってしまっていたからである。

東野氏は、仕事もお気楽で自分勝手。

文句は多いし、いつも率先して肉体的負担の少ない部署ばかりやっていた。

そして、他の人間がその部署につこうものなら「交代だ!」と言って譲らせる始末である。

体力の衰えた50代後半ではあるが、他のアルバイトは、同じ給料できついところをやっている。

反発は当然あったが、彼は腰が痛いと班長に訴えて、その楽な部署に居座り続けた。

また、腰が悪い証拠として、いつも通院している病院の診断書を持参して来ており、いざとなったら、それを水戸黄門の印籠がごとく提示してたんだからずるい男である。

だからあまりよく思っていない人間は少なくなかった。

やがて年月は過ぎ、東野氏が運送会社を去ならければなくなる日が近づいてきた。

彼は御年64歳となっており、会社では、アルバイトは65歳以上になると再契約の対象外となって、働くことができない決まりになっていたのだ。

もっとも、アルバイト以外に労働者を派遣してきていた人材派遣の会社に登録すれば、アルバイトとしてではなく派遣労働者としてなら働くことができるが、東野氏はもう辞めるという。

では他の仕事を探すのかと思いきや、そうでもないらしい。

無年金の彼は本来働き続けなければならないはずなのだが。

驚くべきことに、

「俺はもう歳だから、後はもう働かずにのんびり暮らすよ」

などと、余裕をぶっこいていた。

無年金だろ?

生活保護をもらう気なんだろうか。

だが、彼の老後の設計はそれと同じくらい世の中をナメていた。

「女房の実家のやっかいになる」

東野氏の海外移住とほどなくしてその後

誰が無収入の居候を快く受け入れてくれるものか。

親切なのは、金を運んできてくれたうちだけだろう?

職場の誰もがそう言っていた。

東野氏と親しい須藤という人がいて、その須藤さんは彼より少し年下くらいだから、「そんなに甘くないんじゃないの?」と面と向かって忠告してたらしいが、東野氏は某国の妻の家に転がり込む気満々だったという。

そして最後の勤務が終わった帰り際、「いつでも遊びに来てくれよ」なんて周りに言ったりして、全く悲観している感じはなかった。

須藤さんによると退職してから数日後、彼は意気揚々と某国に旅立っていったようだ。

部屋を解約するなどかなり前から準備をしていたらしい。

それから、半月も経っていない頃だった。

須藤さんの携帯に、早速東野から国際電話があった。

要件は「金を貸してくれ」である。

案の定だ。そして早や!

だから言わんこっちゃない。

東野は、金が必要な理由を濁していたらしいが、言われなくても容易に察しは付く。

文無しを理由に女房の実家から追い出されたか、シメられているに決まっている。

第一、貸してくれと言っているが、

東野は日本にいたころから金を借りたら借りっぱなし、おごってもらったらおごってもらいっぱなしだったから、返すアテと返す気のどちらもないであろう。

それも10万円という、彼が返済できるはずのない金額を指定してきたらしいから、あきれたもんだ。

須藤さんだって金がないから、値切りに値切って1万円を送ってやることにしたという。

送ってやったこと自体驚きだが。

しかし着金後ほどなくして、須藤さんのところに電話がかかってきて、

「この前10万と言ったのに、1万円しか送られていない!あと9万大至急送ってくれ!」

とほざかれたに至って、さすがの温厚というかお人よしの須藤さんも、ブチ切れて連絡を絶ってしまったらしい。

自分の都合よく記憶を作り換えようとするんだから完全に末期症状である。

だが、その末期症状はさらに深刻化していったらしく、須藤さん以外の職場でよく話していた人間ばかりか電話番号を知っている人間にまで、片っ端から金の無心電話をし始めた。

あんまりよく思われていなかった彼のことだから、いったいどのくらいの人間が救いの手を差し伸べたか、推して知るべしの感があったが。

東野とあまり深く付き合わなくて本当に良かった。電話番号を知られていたら、援助をねだられていたことだろう。

などと安心していたのもつかの間だった。

なぜかほとんど面識がなく、電話番号を知らないはずの私のところにも東野から連絡がきたのだ。

キリギリスの断末魔

登録のない番号だったし、携帯でも日本の固定電話でもなさそうな配列の番号だったが、どこからだろうと思って出たら東野だった。

もちろん要件は、金の無心である。

「あの、どうして僕の番号知ってるんですか?」

金の話をする前に、どうしても確かめておきたいことだったのでそれを尋ねたら、

「お前なら貸してくれるからって、電話番号教えてくれた奴がいた」

誰だか知らないが、ふざけたことしやがって!

そんなに私はいい人、いや、バカそうに見えるのか?

「なんでそんなに金が要るんです?」

分かり切ってはいたが、一応聞いてみた。もちろん貸す気はないが。

「暴風雨で家の屋根が壊れちまってさ、早く修理したいんだよ」

嘘に決まっているが、そこは敢えてスルーすることにした。

「いくらくらい必要ですか?」

「気持ちだけでいいよ。たくさんなら助かるが」

「じゃあ1000円くらいで」

「バカにしてんのか!?足りるわけねえだろ!」

そっちこそバカにしているのか?

「気持ちだけでいい」って言ったじゃないか。それになんだ、その言い方。

付き合いはあまりなくても、前から大人気ないおっさんだと知っていたが、相当テンパっているらしく、余計タチが悪くなっていた。

「せめて5万くらい貸してくれよ!知らない仲じゃないだろ?」

このおっさんは、完全に頭がおかしい。元々、ほぼ知らない仲じゃないか。

さらによりおかしいことに、その後、東野は一方的に送金先である某国の銀行名と口座番号などを告げ、

「詳しいことは須藤に聞けば分かるから、大至急頼むぞ!」

と、これまた一方的に吠えて電話が切られた。

誰が貸してなどやるものか。

ほとんど話したこともない人間相手に、あんな口調で図々しい要求ができるとは、人間技ではない。

言うまでもなく、もう連絡がこないように、この番号を着信拒否にした。

その後、私と同じく電話番号を登録していなかった職場の班長である新井のところにも電話が来たことを、新井本人から聞いた。

新井相手にいたっては、「元部下が困っているのに見て見ぬふりするのか?」とか「キャバクラや競馬行く金あるんだから、貸してくれたっていいじゃねえか」とまでほざき、さらに、私をはじめ自分に救いの手を差し伸べなかった者たちの悪口を連ねた後、「助けてくれなかったら必ず化けて出てやる」と実効性のない脅しまでしてきたという。

「終わってるな、あの人。もうかかわりたくねえよ」と、新井はうんざりしていた。

そんな職場を騒がせた東野からの金の無心電話もしばらくしてからピタリと止んだ。

誰も助けてくれなかっただろうし、さすがにあきらめたんだろう。

国際電話だから、電話代もバカにならないはずだし。

連絡がなくなったことについて、

「埋められたからじゃねえの?」と、冗談めかして言う者もいたが。

しかし、その時は誰も思わなかった。

冗談ではなく、本当にそうなっている可能性が高いことを。

つづく

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)

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奪われた修学旅行2=宿で同級生に屈辱を強いられた修学旅行生


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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

修学旅行の第一日目早々、もっとも楽しみにしていたディズニーランドで他校の不良少年たちにカツアゲされて金を巻き上げられた私は、放心状態でランド内を歩き回っていた。

集合時間までまだ時間があったが、ショックのあまりとてもじゃないが、他のアトラクションを楽しもうという気にはなれない。

そして、もうランド内にいたくなかった。

私は、集合場所であるバス駐車場に向かおうと出口を目指した。

誰でもいいから自分の学校、O市立北中学校の面々に早く会いたかった。

たった一人で他の学校のおっかない奴らに囲まれて恐ろしい目に遭わされたばかりで、その恐怖が生々しく残っていた私は、見知った顔と一緒になれば、多少安心できるような気がしたからだ。

何より、さっきの不良たちもまだその辺にいるかもしれず、それが一番怖かった。

だが、カツアゲされたことだけは、絶対に黙っておこうと、心に決めていた。

私にだって、プライドはある。

恰好悪すぎるし、教師や親、同級生に何やかやと思い出したくないことを聞かれたりして、面倒なことになるのはわかりきっていたからだ。

踏んだり蹴ったり

「コラ!オメーどこ行っとったー!!」

出口目指してとぼとぼ歩いていた私の後ろから、甲高い怒声が飛んできた。

私が本来一緒に行動しなければいけなかった班の長・岡睦子だ。

班員の大西康太や芝谷清美も一緒にいる。

さっきまで自分の学校の面子に会ってほっとしたいと思っていたが、実際に会ったのがよりによってこいつらだと、気分が滅入ってしまった。

そんな私の気も知らないで、岡は鬼の形相で、なおも私に罵声を浴びせてくる。

「勝手にどっか行くなて先生に言われとったがや!もういっぺんどっか行ってみい!先生に言いつけたるだでな!」

「わかったて、もうどっこも行かへんて…」

女子とはいえ柔道部所属で170センチ近い長身、横幅もそれなりにある大女の岡は、さっきのヤンキーに負けず劣らす迫力がある。

一方で、中学三年生男子のわりにまだ身長が150センチ程度で貧相な体格だった当時の私は思わずひるんで、岡に服従した。

しかし、何で再び脅されねばならんのか。

もうバスに戻りたかったのに、岡たちはまだ、ランド内から出ようとせず、私を引っ張りまわした。

それも、お土産を買うとか言って、ショップのはしごだ。

岡も芝谷も、ああ見えて一応女子なので、買い物にかける時間が異様に長く、ショップに入るとなかなか出てこない。

有り金全部とられて何も買えない私には、苦痛極まりない時間であるが、班を離れるなと厳命されているので、外でおとなしく待っていた。

男子の大西は早くも買い物を済ませたらしく、商品の入った袋を両手に外へ出てきて「女ども長げえな、早よ済ませろて」とぶつぶつ言っている。

私もお土産を買う必要があるが、もう金は一銭もない。

それにひきかえ、大西はお菓子だのディズニーのキャラクターグッズだのずいぶんいろいろ買っている。うらやましい限りだ。

「えらいぎょうさん買ったな、金もう無いんちゃうか?」

ムカつくので、少々皮肉っぽいことを言ってやったら、大西は自慢げに答えた。

「俺まだ1万円以上残っとるんだわ」

何?1万円だと?今回の修学旅行では持ってくるお小遣いは、学校側から7千円までというレギュレーションがかかっており、私はそれを律義に守っていた。

だが、大西はそれを大幅に超える金額を持参してきていたということだ。

畜生、私も律義に7千円枠を守るんじゃなかった。いや、それならそれでさっきのカツアゲで全部とられていただろうが。

「そりゃそうと、おめえは何も買わんのかて?」

「いや、俺は…」

カツアゲされて金がないとは、口が裂けても言えない。

そうだ、大西から金を借りられないだろうか?こいつとはあまり話したことがないが、金を落としてしまったとか事情を話せば、千円くらい都合つけてくれるかもしれない。

何だかんだ言っても同じクラスだし、同じ班なんだ。

「あのさ、俺、財布落としてまってよ…金ないんだわ」

「アホやな」

「そいでさ、千円でええから…貸してくれへんか?」

「嫌や」

にべもなかった。1万以上持ってるなら千円くらいよいではないか!

「頼むて。何も買えへんのだわ」

「嫌やて、何で俺が貸さなあかんのだ?おめえが悪いんだがや、知るかて」

普段交流があまりないとはいえ、大西の野郎は想像以上に冷たい奴だった。頼むんじゃなかった。

結局、ぎりぎりまで女子の買い物に付き合わされたが、集合時間前にはディズニーランドのゲートを出て、我々は時間通りバスの停まっている集合地点までたどり着いた。

他の面々は皆充実した時間を過ごせたらしく、買ってきたお土産片手に、あそこがよかったとか、あのアトラクションが最高だったとか盛り上がっている。

「もう一回行きたい」とか話し合っており、「もう永久に行くものか」と唇をかんでいるのは私だけのようだ。

そんな一人で悲嘆にくれる私に、更なる追い打ちがかけられた。

「おい!お前、単独行動したらしいな!」

私のクラスの担任教師、矢田谷が、私をいきなり大声で怒鳴りつけてきたのだ。

話に花を咲かせている生徒たちの話が止まり、好奇の視線がこちらに注がれる。

どうやら岡から私が班行動をしなかったことを聞いたらしく、完全に怒りモードだ。

この矢田谷は陰険な性格の体育教師で、一年生の時からずっと体育の授業はこいつの担当だったが、私のような運動神経の鈍い生徒を目の敵にして人間扱いしない傾向があり、これまでも、何かと厳しい態度に出てくることが多かった。

そんな馬鹿が不幸にも私のクラス担任になっていたのだ。

「いや、俺だけじゃないですよ、俺以外にも勝手に班を離れた人間は他にも…」

「先生は今、お前に言っとるんだ!言い訳するな!!」

クラス一同の前で、ねちねちと怒鳴られた。

なぜ私ばかり?私以外にも班行動しなかった者はいたのに!

私は再び涙目になった。

神も仏もないのか。どうして立て続けに、嫌な目に遭い続けなければならないのか?

私は今晩の宿に向かうバス内で、わが身の不運に打ちひしがれていた。

通路を挟んで斜め向かい席では、元々一緒に行動しようと思っていた中基と難波がまだディズニーランドの話を続けている。

彼らは一緒に行動してたようだ、私を置いてけぼりにして…。

そして頼むから「カリブの海賊」の話はやめて欲しい、こっちはリアルな賊にやられたばかりで心の傷がちくちくするのだ。

「おい、お前どうかしたんか?」

私の横にクラスメイトの小阪雄二が来た。

一番後ろの席に座っていたのに私のいる真ん中の席まで来るとは、どうやら私が落ち込み続けている様子に気付いていたらしい。

だが、私は十分すぎるほど知っている。こいつは私の身を案じているのではなく、その逆であることを。

それが証拠にニヤニヤと何かを期待しているようないつものムカつく顔をしている。

二年生から同じクラスの小阪は他人の災難、特に私の災難を見て、その後の経過観察をするのを生きがいにしているとしか思えない奴だ。

私が今回のようにこっぴどく先生に怒られたり、誰かに殴られたりした後などは真っ先に近寄ってきて、実に幸福そうな顔で「今の気分はどうだ?」だの「あれをやられた時どう思った?」などと蒸し返してきたりと、ヒトの傷に塩を塗りたくるクズ野郎なのだ。

「別に何でもないて!」

「何やと、心配したっとんのによ!」

嘘つけ!ヒトが怒鳴られて落ち込んでいる顔を拝みに来てるのはわかってるんだ!

しかし、奴の関心は別のところにあった。

「お前、財布落として金ないって?」

「何で知っとるんだ?関係ないがや!」

大西の野郎がしゃべりやがったんだな!

隣に座る大西は小阪と以前から仲が良く、私を見て口角を吊り上げている。

同じ班なので、バスの席も近くにされていた。前の座席には岡と芝谷も座っている。

「お前、ホントはカツアゲされたやろ?」

「!!」

「おお、こいつえらい深刻な顔しとったでな。ビクビクしとったしよ」

大西も加わってきた。気付いていたのか?

「ナニ?ナニ?おめえカツアゲされとったの?」

前の席の岡と芝谷までもが、興味津々とばかりに身を乗り出してくる。

やばい、ばれてる!ここはシラを切りとおさねばならない!

カツアゲされたことがみんなに知られて、いいことなど一つもない。

修学旅行でカツアゲされた奴として、卒業してからも伝説として語り継がれるのは必定。

それに、こいつらを喜ばせる話題を提供するのは、最高にシャクだ!

被害に遭った後、被害者が更に好奇の視線にさらされるなんて、まるでセカンドなんとかそのものじゃないか!

「されとらんて!落としたんだって!」

「ホントのこと言えや。おーいみんな!こいつカツアゲされたってよ」

「されてないっちゅうねん!」

「先生に知らせたろか?ふふふ」

小阪らの尋問及び慰め風口撃は、バスが今晩の宿に到着するまで続いた。

修学旅行生の宿での悪夢

我々O市立北中学校一行の修学旅行第一日目の宿泊地は、東京都文京区にある「鳳明館」。長い歴史を持ち、全国からやってくる修学旅行生御用達の宿だ。

なるほど、かなり昔に建てられたと思しき重厚な外観と内装をしている。

カツアゲに遭っていなければ、私も中学生ながら感慨にふけることができたであろう。

鳳明館

実はこの宿に関して、旅行前からちょっとした懸念材料があった。

ぶっちゃけた話、私は普段の学校生活で嫌な思いをさせられていた。

それも、冗談で済むレベルではない。

トイレで小便中にパンツごとズボンを下ろされたり、渾身の力で浣腸かまされたりのかなり不愉快になるレベル、即ち低強度のいじめに遭っていた。

その主たる加害者である池本和康が、同じ部屋なのだ!

おまけに、小阪や今日最高に嫌な奴だとわかった大西も同室で、あとの二人も悪ノリしそうな奴らであるため、一緒に一つ屋根の下で夜を明かすのは、危険と言わざるを得ない。

部屋割りはこちらの意思とは関係なく、旅行前に担任教師の矢田谷とクラス委員によって一方的に決められており、その面子が同室であることを知った時は、そこはかとない悪意を感じざるを得ず、私は密かに抗議したが、陰険な矢田谷の「もう決まったことだ」という鶴の一声で神聖不可侵の確定事項となっていた。

もっとも、その宿に到着した頃、私の精神状態はカツアゲの衝撃でショック状態が続いていたため、旅行前に感じた部屋に関する懸念については、部分的に麻痺していた。

同じ部屋の面子のことなどもうどうでもよい。今日出くわした災難に比べればどうってことないと。

ちなみに、夕飯を宴会場のような大きな座敷で食べた後は入浴の時間だったが、私はあえて入らなかった。

いたずらされるに決まっているからだ。

実際、二年生の時の林間学校では、やられていた。

同じ部屋の連中が風呂に入ってさっぱりして帰って来た時、私はもうすでに敷かれていた布団に入っていた。

今日はもう疲れた、もう寝よう。明日になれば少しは今日のことを忘れられるだろうと信じて。

しかし、私はこの時全く気付いていなかった。

本日の悲劇第二幕の開幕時間が始まろうとしていたことを。

とっとと寝ようと思ってたが、消灯時間になっても眠れやしない。

小阪や池本、大西及びあとの二人も寝ようとせずに、電気をつけたまま、ジュースやスナックの袋片手に話を続けていたからだ。

「やっぱ、前田のケツが一番ええわ」

「ええなー、池本は前田と同じ班やろ?うちのはブスばっかだでよ」

「小阪ンとこはまだええがな、うちは岡と芝谷だで。あれんた女のうちに入らへんて」

話題はもっぱらクラスの女子の話で、言いたい放題、時々下品な笑い声を立てる。

女子に関してなら私も多少興味があったので、目をつぶりながらも聞き耳を立てていたが。

しかし彼らはほどなくして、私の話を始めやがった。

「ところで、あいつカツアゲされとるよな、絶対」

「ほうやて、泣いた後みたいな顔しとったもん」

いい加減しつこい奴らだ。

だが私に関する話題は続く。

「そらそうと、あいつ今日風呂入って来なんだな。せっかくあいつで遊んだろう思うとったのに」

やっぱり池本は何かするつもりだったんだ。風呂に入らなくて正解だ。

「あいつってムケとるのかな?」

大西がここで、突然嫌なことを言い出した。

「なわけないやろうが、毛も生えてへんて。俺、林間学校で見たもん」

小阪の野郎!言うなよ!

つい前年の林間学校の風呂場で、小阪は私の素朴な下半身を散々からかってくれたものだ。

彼らの会話がどんどん不快な方向に発展しつつあった。カツアゲのことを蒸し返されるのもムカつくが、私の下半身の話も相当嫌だ!

「なあ、そうだよな!あれ?おーい。もう寝とるのか?」

どうしてヒトの下半身にそこまで興味があるのかこの変態どもは!誰が返事などしてやるものか。こっちはもう寝たいんだ!

私は断固相手にせず、タヌキ寝入り堅持の所存だったが、池本の恐ろしい一言で考えを変えざるを得なかった。

「ほんなら、いっぺん見たろうや!」

何?!それはだめだ!私の下半身は、その林間学校の時から変わらないのだ!

「おもろそうやな」「脱がしたろう」他の奴らも大喜びで賛同し、一同そろって私のところに近づいてくる。

私は思わず布団にくるまり、防御態勢を取った。

「何や、起きとるがやこいつ。おい、出てこいて」

「やめろ!」

五人がかりで布団を引きはがされた後、肥満体の池本に乗っかられ、上半身を固められた。

「おら、脱げ脱げ」と他の奴が私のズボンに手をかける。

「やめろ!やめろて!!やめろてえええ!!!」

私は半狂乱になって抵抗し、声を限りに叫ぶが、彼らの悪ノリは止まらない。

畜生!何でこんな目に!

前から思っていたが、うちの両親はどうして反撃可能な攻撃力を有した肉体に生んでくれなかった!

五体満足の健康体な程度でいいわけないだろ!

私がなぜか両親を逆恨みし始めながら、凌辱されようとしていたその時だ。

ドカン!!

入口の戸が乱暴に開けられる音が室内に響き渡り、その音で一同の動きが止まった。

そして、怒気露わに入ってきた人物を見て全員凍り付いた。

「やかましいんじゃい!!」

その人物はスリッパのまま室内に上がり込むなり凄味満点の声で怒鳴った。

我がO市立北中学校で一番恐れられる男、四組の二井川正敏だ!

やや染めた髪に剃り込みを入れた頭と細く剃った眉毛という、私をカツアゲした連中と同じく、いかにもヤンキーな外見の二井川は、見かけだけではなく、これまで学校の内外で数々の問題行動を起こしてきた『実績』を持つ本物のワル。

池本や小阪のような小悪党とは貫禄が違う。

「何時やと思っとるんじゃい?ナメとんのか!コラ!!」

そう凄んで、足元にあった誰かのカバンを蹴飛ばし、一同を睨み回すと、池本や小阪、大西らも顔色を失った。

もう私にいたずらしている場合ではない。

どいつもこいつも「ご、ごめん」「すまない、ホント」と、しどろもどろになって謝罪し始めている。

ざまあみろ!池本も小阪も震え上がってやがる。さすが二井川くんだ!

普段は他のヤンキー生徒と共に我が物顔で校内をのし歩き、気に入らないことがあると誰彼構わず殴りつけたりする無法者だが、二井川くんがいてくれて本当によかった。

災難続きのこの日の最後に、やっとご降臨なされた救い主のごとく後光すらさして見えた。

この時までは…。

「さっき一番でかい声で“やめろやめろ”って叫んどったんはどいつや!!」

え?そこ?夜中に騒ぐ池本たちに頭に来て、怒鳴り込んで来たんじゃないの?

「あ…ああ、それならこいつ」

池本も小阪も私を指さした。二井川の三白眼がこちらを睨む。

「おめえか、やかましい声でわめきおって!コラァ!」

二井川は私の胸ぐらをつかんで無理やり引き立てた。

「え、いや、だってそれは…」

大声出したのは、こいつらがいたずらしてきたからじゃないか!おかしいだろ!何で私なのだ?そんなのあんまりだ!!

「ちょっと表へ出んか…、お?こいつ何でズボン下げとるんや?」

「ああ、それならさっき、こいつのフルチン見たろう思ってさ、脱がしとったんだわ」

矛先が自分には向かないと分かった池本が喜色満面で答えると、二井川からご神託が下った。

「そやったら、お前。お詫びとして、ここでオ〇らんかい

「え…いや、何で…!」

「やらんかい!!」

魂を凍り付かせるような凄絶な一喝で私は固まってしまった。

「おい、おめーら!こいつを脱がせい!」

「よっしゃあ!」

凍り付いた私は、二井川からお墨付きをもらって大喜びの池本たちに衣服をはぎ取られた。

終わった、私の修学旅行は一日目で終わってしまった。

飛び入り参加した二井川を加えた一同の大爆笑を浴び、当時放送されていた深夜番組『11PM』のオープニング曲を歌わされながらオ〇ニー(当時はつい数か月前に覚えたばかり)を披露する私の中で、修学旅行を明日から楽しもうという気力は完全に消失していった。

絶頂に達した後は、カツアゲされたショックも矢田谷に怒鳴られたことなど諸々の不快感も吹き飛んだ。

明日からの国会議事堂も鎌倉も、あと二日もある修学旅行自体もうどうでもよくなった。

私の中学生活も、私の今後の人生までも…。

そんな気がしていた。

おまけに次の日、国会議事堂見学の時に昨日のショックでふらふら歩いていた傷心の私は、二井川の仲間で同じくヤンキー生徒の柿田武史に「目ざわりなんじゃい!」と後ろから蹴りを入れられた。

谷田谷の野郎は、担任なのに知らんぷり。

それもかなり不愉快な経験だったが、その他のことについて、昨日までのことで頭がいっぱいとなっていた当時の私が、二日目からの修学旅行をどう過ごしたか、あまり覚えてはいない。

初日にさんざん私で遊んだ池本たちは、二日目の晩にはもうちょっかいをかけてこなかったが、彼らと私との間で時空のゆがみが生じていたことだけは確かだ。

「ああー帰りたくねえな」と彼らはぼやき、「まだ帰れないのか」と私は思っていた。

失われた修学旅行

修学旅行が終わって日常が始まった。

ディズニーランドでカツアゲされたことは明るみにならなかったが、あの第一日目の宿「鳳明館」で私が強制された醜態は池本たちが自慢げに言いふらしたことにより、私は卒業するまでクラスの笑い者にされた。

修学旅行で起きたことは、もちろん親にも話さなかったし、高校進学後の三年間、誰にも話せなかった。

時間というものはどんな嫌な記憶でもある程度は消してくれるものらしいが、私の場合、三年間では半減すらしなかったからだ。

高校時代に中学の卒業式の日に配られた卒業アルバムを開いたことがあったが、中に修学旅行の思い出の写真ページがあり、二日目の国会議事堂前で撮ったクラスの集合写真に写る私自身が、あまりにもしょっぱい顔をしているので、見ていられなかった。

卒業文集の方も読んでみたら、池本と小阪がいけしゃあしゃあと修学旅行の思い出を書いていたのには、思わずカッとなった。

池本の思い出にいたっては題名が『仲間と過ごした鳳明館の夜』だ。

私にとって悪夢だった修学旅行にとどめを刺した第一日目の宿の思い出を、主犯の一人である池本は、かゆくなるほど詩情豊かに書いてやがった。

そこには私も二井川も登場せず、ディズニーランドの思い出や将来について、小阪や大西らと部屋で語り明かしたことになっている。

「僕はこの夜のことを一生忘れない」と結んだところまで読み終えた時、私はまだ少年法で保護される年齢だったため、他の高校に進学した池本の殺害を本気で検討した。

そうは言っても、時間の経過による不適切な記憶の希釈作用が私にも働くのはそれこそ時間の問題だったようだ。

大学に進学した頃には他人に話せるようになっていたし、何十年もたった今では『失われた修学旅行』などと笑って話せるまでになっている。

もっとも、未だに中学校の同窓会には一度も参加したことがないし、どんなことがあっても東京ディズニーランドにだけは行く気がせず、ミッキーマウスを見ただけで殴りたくなるが。

しかし、今となってはあの修学旅行であれらの出来事があったからこそ、今の私があるのかもしれない。

どんなに調子が良くても「好事魔多し」を肝に銘じ、有頂天になって我を忘れることがないように自分を戒め、慎重さを堅持することこそ肝要としてきた。

今まで大きな災難もなく過ごせてきたのはそのおかげだと、今の自分には十分言い聞かせられる。

中学の卒業アルバムを今開いてみると、三年二組の担任だった矢田谷、宿で私をいたぶった池本、小阪、大西たち、そして四組の二井川の顔写真は、コンパスやシャープペンシルで何度もめった刺しにされて原型を留めていない。

中学卒業後の高校時代の自分がやったことに、思わず苦笑してしまう。

これではどんな顔をしていたか、写真だけでは思い出すことはできないが、しばらくすると中学校時代が部分的にリプレイされ、徐々にだが彼らの顔が頭に浮かんでくる気がする。

そして、私をディズニーランドで恐喝したあの他校のヤンキーたち一人一人も。

時が過ぎて、はるか昔になってしまえばどんな出来事もセピア色。

三十年後の今では中学時代のほろ苦くもいい思い出に…。

いや!そんなわけあるか!

やっぱり2021年の今でもあいつらムカつくぞ!!

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奪われた修学旅行 = カツアゲされた修学旅行生


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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

中学校生活で最高のイベントといえば、修学旅行を挙げる人は少なくないだろう。

私はその中学校の修学旅行を、気が早すぎることに、まだ小学校六年生の頃から楽しみにしていた。

小学校での修学旅行先は京都・奈良であり、一泊二日とあっという間であったが、11歳だった私には、旅行先での瞬間瞬間が非常に充実しており、それまでの人生で最良の二日間だった。

旅行先の宿でクラスメイトたちと過ごした一夜は、家族旅行では味わうことができない鮮烈な体験であったことを、今でも覚えている。

当時の私

旅行から帰った後の私は、修学旅行ロスとも言うべき症状に襲われ、配られた思い出の写真を見ながら、もう二度と来ることのないその瞬間を脳内でリプレイしようと努めては、タメ息をついていたくらいだ。

同時に、私は中学校の修学旅行に思いをはせるようになった。

同級生のうち、中学生以上の兄や姉がいる者から聞いたところ、中学の修学旅行は二泊三日だという。

たった一泊二日の小学校の修学旅行でも、あれだけ楽しかったのだ。単純計算で、倍以上の楽しさになるだろうと確信していた。

しかし、その時は全く予想していなかった。

その中学の修学旅行が、これまでの人生で最もひどい目に遭った体験の一つとなり、「好事魔多し」という鉄の教訓を、私に生涯刻み込むことになるであろうことを。

待ちに待ったその日

中学に入学した時から、私の心は二年後の修学旅行にあった。

早く三年生になって、修学旅行当日を迎えたかったものだ。

そんな私の期待を、いやがうえにもさらに高めた知らせを耳にした。

私が入学した年、三年生の修学旅行の行き先は関東方面で変わらなかったが、第一日目の目的地が、何とあの東京ディズニーランドになったというのだ。

ディズニーランド

私の期待は、一年生の時点で早くも暴騰した。

これはきっと最高の思い出になるに違いないと確信し、いよいよ三年生になるのが待ち遠しくなった。

そして、短いような長いような中学校生活も二年が過ぎ、晴れて中学校三年生となった1989年の5月20日、私は夢にまで見た修学旅行初日を迎えた。

それまでの中学校生活はこの日のためだったと言っても、過言ではない。

前日、修学旅行へ持参するお菓子を、学校で定められた千円の範囲内でいかに好適な組み合わせで購入すればよいかと、スーパーでじっくりと選んでいたために、帰宅が遅くなったものだ。

きっと明日から始まる三日間は、人生で最も幸福な時間となり、終生忘れることなく、何度も思い出すことになるだろう。

私はその日、そう信じて疑わなかった。

そして迎えた修学旅行当日は、私の通うO市立北中学校に集合し、バスに乗って東海道新幹線の駅へ。

そこからは新幹線に乗って、最初の目的地・東京へは一直線だ。

新幹線の中では、クラスの皆はお菓子を食べたり、トランプをやったり、意味もなく動き回ったり、私を含めた三年二組全員は、これから始まる輝かしい時間に誰もが胸躍らせ、車内に期待が充満していた。

新幹線はあっという間に愛知県を越えて静岡県に入った。

浜名湖を超えて天竜川を過ぎて、富士山の雄姿を拝みながら、そのまま一路東に向かい、普段の退屈な学校生活とは全く異なる得難い極上の非日常を味わいながら、三島、熱海、小田原、そして新横浜に到達。

やがて多摩川を越えて東京都に達すると、今まで見たこともない大都会に入ったことを実感した。

ビルの大きさや市街地の質が自分たちの知っている最も大きな街、名古屋市を凌駕しているのだ。

テレビでしか見たことがない東京を実際に目の当たりにした我々は圧倒された。

東京駅に到着すると、そこからはバスに乗って最初の目的地、東京ディズニーランドに向かう。

車中では、私を含めたクラスメイトたち誰もが旅の疲れなどみじんも見せず、これからが本番だと興奮していた。

ディズニーランドへの道中は、窓の外がいかにも東京という光景の連続に目を奪われ続けたため、あっという間に到着してしまった印象がある。

昼食は外の景色を見ながら移動中のバスの中で摂り、待ちに待った約束の地に到達したのは正午過ぎ。

広大なディズニーランドの駐車場でバスを降りて一刻も早くランド内に突撃したかった我々だが、いったん集合させられ、学年主任の教師である宮崎利親から、長ったらしい注意事項を聞かされた。

宮崎が、いつもの論理破綻した冗長な説明において何度も強調したのは、班行動厳守。

所属する班を離れて班員以外の人間と、又は単独で行動してはならないということだ。

そうは言っても、私は自分の所属する班に不満だった。

なぜなら、班長の岡睦子は、私の好みからは程遠い容貌の上に、気が短く口うるさい女。

もう一人の女子、芝谷清美はクラスのカーストで底辺に位置するネクラな不可触民的女子。

男子の大西康太とは、同じクラスになったのは小学校から通算して初めてだし、少々気が合わないところもあって、普段からあまり話す仲ではない。

こんな奴らと一緒でどう楽しめと?

私は班から離脱することを、とっくに心に決めていた。

だが、その決断が後の災難の大きな要因になることを、この時点の私はまだ知らない。

入口ゲートをくぐると、もう教師たちの統制は効かない。

班は、大体男女二人ずつの四人を基本構成としているが、わが校の制服を着た男ばかり三人や女ばかり五人、或いは男女のペア等の不自然な組み合わせが、あちこちで出現し始めた。

皆考えることは同じなのだ。

私もしない手はないではないか。

我々の班は、独裁的な班長の岡の一存で最初に「シンデレラ城」、次に「ホーンテッドマンション」に行くことになっていたが、私は移動のどさくさに紛れて離脱に成功、別行動を開始した。

本当は、同じクラスで気の合う中基伸一や難波亘と行動を共にする手はずになっていたが、あまりにも人が多すぎて、彼らがどこへ行ったか分からなくなった。

今から思えば携帯電話のない時代の悲しさだ。

そうは言っても、私は一人であることを幸いに、自由自在にアトラクションを回ることができた。

「カリブの海賊」、「ビッグサンダーマウンテン」に「空飛ぶダンボ」等々、ジェットコースター系を好む私は「スペースマウンテン」に三回も乗った。

ビッグサンダーマウンテン
スペースマウンテン

「ホーンテッドマンション」やショーなど見てても、退屈なだけだ。

「シンデレラ城」など論外、班長の岡の感性に支配された班と行動を共にしていたら、そういった退屈なアトラクションやショッピングばかり行く羽目になっていたはずで、こんなに満喫はできなかったであろう。

私は、自分の果敢な実行主義を自画自賛しつつ、自分好みのアトラクションを渡り歩き、小腹がすくとソフトクリームやポップコーンを買って小腹を満たした。

ディズニーランドの食べ物はどこも割高であったが、心配はない。お小遣いはたっぷりもらっているのだ。

しかし、調子に乗って食べ過ぎて、もよおしてきてしまった。

幸い、トイレはすぐ近くに見つかった。

この差し迫った緊急事態を回避するためにそのトイレに入ると、さすが天下のディズニーランド。床で寝ても平気なくらい清潔だ。

しかもありえないことに、私以外に人がいないのがありがたい。私は心置きなく個室の一つに飛び込んだ。

そして、修学旅行が楽しかったのはこの時までだった。

今考えても無駄だが、なぜよりによって、このトイレを選んでしまったのだろうか?

このトイレこそ、有頂天の私を奈落の底へと突き落とす悲劇の舞台となったのだから。

悪魔たちとの遭遇

ちょうど個室に入ってドアを閉めて、一安心したのと同時だった。

下卑た大声が外から聞こえたのだ。

「お、誰かウンチコーナー入ったぞ!」

誰かに入るところを見られたようである。

声からして私と同じ中学生くらいだと思われたが、その声に聞き覚えはないため、きっと他の学校の修学旅行生だろう。

しかし、ウンチコーナーだと?

私のいた中学校では大便をするということ自体がスキャンダルになるため、外にいるのが自分の学校の人間でないとみられることに一瞬ほっとしたが、それは大きな間違いだった。

「おい出て来いよ」

「ちょっと顔見せろ!」

などと言ってドアを叩いたり蹴ったりで、かなり悪質な連中なのだ。

そんなこと言ったって、こっちはもうズボンを脱いで、便座に腰掛け、大便を始めている。

だが、彼らの悪ノリは止まらない。

「余裕こいてウンコしてんじゃねえよ」

「お、中の奴、今屁ぇこいたぞ」

「おい!いつまでケツ吹いてんだ?紙使い過ぎなんだよ!」

何なのだ、こいつらは?余計なお世話ではないか!

ヒトの排泄の実況中継や批評まで始められるに至って、私のいらだちは頂点に達した。

ドンッ!!

私は「うるさい」とばかりに、内側から個室のドアを思いっきり叩いた。

音は思ったより大きく響き渡り、外の連中の茶化す声が一瞬静まり返る。

私の強気にビビったのか?

いやいや、その逆だった。

「ナニ叩いてんのオイ!」

「俺らと喧嘩してえのか?!」

「引きずり出すぞ!ボケ、コラ!!」

彼らは、先ほどよりずっと大きな声で威嚇しながら、ドアをより強く蹴飛ばし始めたのだ。

まずい、怒らせてしまった。

そして、さっきから思っていたことだが、外の奴らは悪質も悪質、ヤンキーなのではないのか?やたらとドスが利いたガラの悪い口調である。

ならば、断固出るわけにはいかないではないか!

私はパニックになりながらも、まずは外に何人いるのか確認するのが先決だと判断。

この個室にはドアと床の間に隙間があったため、私はその隙間から外を偵察することにした。

清潔だとはいえ少々抵抗があったが、手をついて、床とドアの隙間に顔を近づける。

が、相手も外の隙間から中をのぞこうとしていたらしい。

それがちょうど私が顔を近づけた場所と向かい合わせで、至近距離で私と相手の目と目が合ってしまった。

「うわ!」

「うおお!」

私も驚いたが、外の奴もかなりびっくりしたらしい。中と外で同時に驚きの声を上げて、顔をそらした。

「中にいる奴、宇宙人みてえなツラしてるぞ!」

私は、相手の顔を一瞬すぎて判断できなかったが、外の奴は私の特徴を一方的にそう表現した。

ヒトを宇宙人呼ばわりとは失礼な奴らだ。

しかし、連中の失礼さは、そんなレベルではなかった。

「君は完全に包囲された。無駄な抵抗はやめて出てきなさい」

とか、ふざけたことを言って、タバコに火をつけて、個室に投げ込んできやがった。燻り出そうという腹らしい。

水も降って来たし、借金の取り立てみたく、ドアも連打してくる。

屈してはならない!出て行ったら何されるかわからない!

何より、やられっ放しもしゃくだ。

私は降ってきた火の付いたタバコを投げ返したり、ドアを蹴飛ばし返したりと『籠城戦』を展開した。

どれだけ攻防戦が続いただろうか。まだ水も流せないし、私はズボンもパンツも下ろしたままだ。

籠城戦というより、闇金の取り立てにおびえる多重債務者の気分に近かっただろう。

そのように、ここで一生暮らす羽目になるのではないかとすら、錯覚した時だった。

外の連中とは違う感じの声が響いてきた。

「ちょっと、ちょっと、止めてください。何してるんですか?」

その声がしたとたん、外からの攻撃が止んだ。

ディズニーランドの従業員、通称『キャスト』か!?

そうだろう!いつまでもこんな無法行為を続けれるほど、日本はならず者国家ではない、止めに来てくれたんだ!

「何だよ!中の奴が俺らをナメてんだよ」

「とにかくダメ。こういうことはやめて。警察呼ぶよ」

「中の奴と話させろよ」

「ダメダメ、もういいから出て!」

外で押し問答が続いていたが、ヤンキーどもが折れたようだ。

「わかったよ、行きゃいいんだろ!くそやろーが!覚えとけよ!」と、捨て台詞を吐いて出て行く気配がするのを、ドア越しに感じた。

助かった!さすがディズニーランド、しっかりしてる!これで安心だ。

やっとズボンを穿ける。脱出できる!

恐る恐るドアを開けて外に出ると、外の世界はさっきと同じただのトイレだったが、あの極限状態から脱した後は違って見えた。

異常事態は終わり、日常世界に生還してやった、という歓喜と達成感に満たされていたからだ。

当時のトイレのイメージ

私はトイレの光景を見て、あんな感慨に浸ったことはない。また、今後もないだろう。

同時に他校の不良少年たちの攻撃に耐え抜き、敢闘したという充実感に満たされていた。

これは災難ではあったが、あの勇敢なキャストの助けもあったとはいえ、私の偉大なる勝利だと。

命の恩人たるくだんのキャストにお礼を言うべきだったが、ヤンキー共々トイレ内にはもういないから、別にいいだろう。

とにかくトイレの外に出よう。外では美しい夢の国が待っている。

だが、それは間違いだった。

奴らは出入り口で私を待っていやがったのだ。

夢の国でのひとり悪夢

「このウンコ野郎、やっと出てきやがったか」

そう言って剣呑な目つきで出入り口をふさいでいたのは、ヤンキー漫画のリアル版のような不良中学生七人。

さっきの連中であろうことは間違いないが、剃りこみ頭や染めた髪で、変形学生服を着た本格的な奴らだった。

写真はイメージです

どういうことだ?キャストに追っ払われたんじゃなかったのか?

私は一瞬キツネにつつまれたようにあ然とした。

「ダメダメ!トイレの中へ戻ってください!」

ヤンキーたちの中の一人、眉なしのデブがおどけて言ったその声も口調も、あの恩人だったはずのキャストそのもの。

「オメー、バカじゃねえの?フツーひっかかるか?」

茶髪のヤンキーの一言で、私は彼らの打った猿芝居に、見事に騙されたことを知った。

「そりゃそうとオメーよ、俺らにずいぶんナメたマネしてくれたな」

と、同じ中学生、いや同じ人類とは思えないくらい凶悪な人相のヤンキーたちが私を囲む。

恐怖のあまり穿いていたブリーフの前面が、用を足した直後にもかかわらず尿でじわじわと濡れてきたその時の感覚を、今でも覚えている。

震えあがった私は「え、俺知らないよ」と苦しい嘘をついたが、「オメ―しかいなかっただろう!」と一喝され、トイレの中に連れ込まれた。

二人くらいが、見張りのためか出口を固める。

悪夢の本番が始まった。

床に土下座させられた私は、ヤンキーどもに脅されながら小突き回され、頭を踏まれ、手数料だとかわけのわからない面目で、金を巻き上げられた。

旅行先でのカツアゲに備えて、靴下の下に紙幣を隠すなどの危機管理を行う修学旅行生もいるようだが、当時の私にとってそんなものは想定外であり、財布の中に全ての金があったために有り金全てを強奪された。

私の金を奪った後も、彼らは「殺されてえのか」だの「まだ終わったと思うなよ」などと、私の髪の毛を引っ張ったり胸ぐらをつかんだりして執拗に脅し続け、その時間は、個室に籠城していたよりも確実に長かった気がする。

生徒手帳まで奪われた私は「テメーの住所と学校はわかった。チクったら殺しに行くぞ」と脅迫された。

ヤンキーどもは「そこで正座したまま400まで数えたら出ていい」と命じ、最後に「東京に来るなんて百年早えぞ、田舎者!」と捨て台詞を吐いて、私の頭をかわるがわる小突いたり蹴りを入れてきたりして立ち去って行った。

さっきのようにまだ外にいるかもしれず、恐怖に震えるあまり、涙目の私が律義に400まで数えてから外に出た時には、日がだいぶ傾いていた。

ヤンキーたちは、自分たちの犯行が露見するのを恐れてたらしく、あまりこっぴどい暴行を加えてこなかったが、私の受けた精神的な打撃及び苦痛は甚大だった。

私はまごうことなきカツアゲに遭ったのだ。

カツアゲされた気分は、実際にやられた人間にしかわからないと、今でも断言できる。

おっかない奴に脅され、さんざん小突かれて金品を奪われる恐怖と屈辱は、笑い事では済まないくらいの災難なのだ。

しかも私の場合、ずっと楽しみにしていた修学旅行でそれが起こり、一番楽しいはずの夢の国ディズニーランドで、自分だけが悪夢の真っただ中だったから、なおさらである。

信じたくはなかったが、それは事実以外の何物でもなかった。

こんな目に遭うなんて誰が思うだろう?

はしゃぐのは、許されざる罪だとでもいうのか?

予測できなかった当時の私を誰が責められよう。

ランド内で目に入る客たちは誰も彼も楽しそうにしているため、私は余計に前を見ていられず、下ばかり見て歩いていた。

地面がさっきより暗く見えたのは、日が落ちてきたからばかりではない。

私は半泣きだったため、視界が時々グニャリとゆがむ。

私は修学旅行への期待に胸膨らませていた小学六年生からこれまでの三年近くの年月ばかりか、中学校生活そのものが崩れ去ったように感じていた。

もう、何も考えたくなかった。

こんな不幸に遭うことは、なかなかないはずだ。

これに匹敵する不愉快が、その後も立て続けに起こることは普通ありえない。

だが信じられないことに、私の災難はこれで終わらなかったのだ!

それもこの直後の、この日のうちにだ!

神が私に与えた試練?いや、天罰か。いやいや、嫌がらせとしか思えない。

試練にしては明確に害意を感じるし、ここまで罰されなければいけないことをした覚えもない。

私がどの神の機嫌を、いつどのように損ねたんだろうか?

その神による嫌がらせ第二段の開始時刻が刻々と迫っていることに、この時の私はまだ気づかなかった。 

パート2に続く

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中学生にいじめられた29歳の男の復讐


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2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小で起きた児童殺傷事件は犠牲になった児童の数もさることながら、学校に凶器を持った不審者が乱入する学校襲撃事件としても、社会に衝撃を与えた。

この事件以後、全国の学校で部外者の学校施設内への立ち入りを規制したり、警備員を置くなどの安全対策が取られるようになり、もはや、学校は無条件に安全な場所ではないという考えが国民の間で広まった。

しかし、不審者が学校に侵入して生徒を無差別に襲うという事件は、この池田小事件が日本初ではない。

それより13年前の1988年7月15日、神奈川県平塚市のY中学校で、同様の学校襲撃事件が起きていたのをご存じだろうか?

この事件では死者こそ出なかったものの、鎌や斧を持った男が中学校に乗り込み生徒たちを無差別に攻撃して、8人を負傷させた。

犯人の男は教職員らに取り押さえられて逮捕されたが、その犯行動機たるや、あまりにもあきれたものだった。

ボブ

橋本健一(仮名)

犯人の橋本健一(仮名)は、事件のあった平塚市立Y中学校から、200メートルほど離れた団地で、両親や妹と同居していた29歳の無職。

子供のころから自閉症気味で家に閉じこもりがちだった橋本は、中学卒業後に就職したものの、一年とたたず辞めており、以降、働くこともなく実家に寄生して、ニート生活を送ってきた。

ニートとはいえ、ずっと家に閉じこもりっぱなしの引きこもりではない。

働いていない彼は毎日ヒマにまかせて、家のママチャリに乗って近所を徘徊しており、よく向かっていた先がY中学校であった。

中卒の橋本には中学校に特別な思い入れがあったと思われる。

付近をうろつくだけではなく、校内に入っていくこともあった。

そして、女子生徒がグラウンドで体育の授業を受けていようものなら、それを凝視してニヤニヤしていることもあったし、下校途中の女子生徒をつけまわしたりもした。

完全に不審者そのものである。

行動だけでなく外見も相当怪しい。

ひょろっとした150cmほどの小男で、うつろな目をしたおかっぱ頭の橋本は、見る者に異様な印象を与えた。

そんな妖怪のような成人の男を、生意気盛りの中学生たちが放っておくわけがない。

事件が起こる5年ほど前からY中学校の生徒たちは橋本をからかうようになってきた。

中学生たちが橋本に付けたあだ名は「ボブ」。

それは、彼のおかっぱ頭がボブカットのようであったことに由来する。

そして身なりも行動も怪しく、何より弱そうな見かけだった橋本へのちょっかいが「いじめ」へとエスカレートするのに、時間はかからなかった。

中学校に近づくと大声で罵声を浴びせられたり、唾を吐きかけられたり、石を投げられたり、傘で付かれたり、足蹴にされたり。

橋本は基本無抵抗だったが、時々怒って抵抗することもあった。

しかし「それはそれで面白い」と嫌がらせがグレードアップする始末で、中学生も一人ではない場合が多かったため、よってたかって殴るけるの返り討ちにされたこともあったらしい。

ならば近づかなければいいのだが、橋本はY中学校に出没することをやめなかった。

事件の前年には、中学校の運動会の最中に校内に入ってきた橋本を生徒たちが競技そっちのけで迫害、玉入れに使う玉を、数十人が一斉にぶつけた。

この時は、さすがに教師も止めに入ったようだが、悪ガキどもにとっては、きっと運動会の競技より楽しかったことだろう。

また男子だけでなく女子も面白がっていじめに参入することもあったし、小学生までもが、橋本の自転車を囲んで荷台を引っ張ったりしてからかうようになってきた。

家にいても安全ではない。

どうやって知ったか、中学生たちは橋本の住所や電話番号を知っており、自宅に石を投げ込まれたり、いたずら電話をかけられたりもした。

はたから見て自業自得の気が大いにするし、どう見ても、いじめられに行っているとしか思えない橋本だが、なぜこういう目に遭うのか理解できず、我慢ができなかったようだ。

一度Y中学校に、以下のような手紙を書いて抗議したことがあった。

「先生一同、日ごろ子供たちに嫌がらせをされ、つばを吐かれたり悪口を言われたりして困る。しっかり指導してほしい。弱い者は、いつもいじめられても黙ってがまんしていなければならないのか」

この抗議を受けて、学校側も生徒たちにある程度の指導はしたようだが、そんなことで思春期のガキどもが改心するなら、中学教師は苦労しない。

この時代のY中学校の生徒たちも同じで、いじめは相変わらず続く。

1988年(昭和63年)4月、Y中学校は新年度を迎えた。

橋本は学校に抗議した上に、旧三年生が去って新一年生が入ってきたことで、自分へのいじめはなくなると考えていたようだが、中学生を甘く見てはいけない。

在校生たちは、それまでと同じく橋本を見かけると嫌がらせをしてきたし、その悪しき伝統は、ほどなくして入学したばかりの新一年生にも、順調に受け継がれた。

そしてこの年、それまで橋本の心に蓄積されてきた怨念が飽和状態を超えて臨界点を迎えて爆発、事件に至ることになる。

臨界点

抗議したのに、自分へのいじめはなくならない。

橋本の中では、生徒たちばかりではなく、学校全体が敵に思えてきた。

溜め込める怨念には許容量というものがある。

もう我慢できない。

彼は平塚市内のスーパーなどで刃物類を買い集め始め、7月になったころには、鎌2丁、斧1丁、文化包丁や果物ナイフ6丁を揃えていた。

自分を虐げてきたY中学校の生徒たちを、片っ端から血祭りにあげる気になっていたのだ。

やるなら夏休みが始まる7月20日前にやろうと心に決めながらも、普段通りY中学校校内に入った7月13日。

「おい、ボブが来やがったぜ」

「ナニまた入ってきてんだよボブ!消えろ!!」

「またやられてえのか?コラ!」

「ボールぶつけっぞ!オイ!!」

この日グラウンドで練習をしていた野球部の部員たちだ。

卓越した運動能力を有する彼らは、同時に最も元気の良い一群でもある。

橋本の姿を認めるや、迫力満点の罵声を浴びせてきた。

野球部員たちにとっては、いつもどおりのことだし、皆もやっているから、特に大したことだとは考えていなかったであろう。

だがこの行為が、橋本に凶行の実行を決意させるトリガーとなったことを、彼らは知る由もなかった。

暴走

二日後の7月15日金曜日午前10時40分ごろ。

授業が行われているY中学校に、橋本が現れた。

いつもと違うのは、校舎にまで入り込んだことと、その手に紙袋を持っていたことである。

紙袋の中には二、三か月かけて買い集めた斧や鎌、刃物。

一昨日の決意を実行に移すためだ。

橋本が校舎に入って最初に向かったのは、校舎三階の音楽室。

歌声に交じって聞こえる声から、授業をしているのが女性教師であり、やりやすいと考えたからである。

その音楽室では、一年五組の生徒41人が合唱の練習中だったが、橋本が袋から出した鎌を片手に突然ドアを開けて入ってくると、歌うのを止めて静まり返った。

一瞬あっ気にとられていた一同だったが、橋本が無言のまま一番近くにいた男子生徒に鎌を振り下したとたん血が飛び散るや悲鳴が上がり、室内は大パニックとなった。

橋本は斧も取り出して、椅子や机を倒しながら、逃げ回る生徒に次々襲い掛かかる。

自分をいじめたことのある生徒だったかどうかは関係がない。

橋本にとって、このY中学校の生徒であるというだけで罪なのだ。

退屈だが平穏だった学校での日常は、最悪の非日常へと急変した。

この教室では、合計3人が頭や腕を切られて負傷する。

教室から逃げた生徒を追いかけて、廊下に出た橋本が次に向かったのは、一教室おいて隣接する一年四組の教室。

ここでは、最前列の入り口付近に座って国語の授業を受けていた生徒を真っ先に切りつけた。

蜂の巣をつついたような騒ぎとなった教室内部に、すかさず乱入し、無言で右手に鎌左手に斧を振り回して、生徒たちを追いかけ回す。

音楽室同様、教室は生徒たちの悲鳴に交じって、女性教師の「みんな逃げて!逃げて!!」という叫び声が、こだまする修羅場と化した。

橋本は四組で生徒3人を血祭りにあげると、より多くの生贄を求めて、上の四階に向かった。

四階でも二年生が授業を受けていたのだが、下の階から尋常ではない大声が聞こえてきたため、生徒たちが何ごとかと廊下に出てきていた。

そこへ下の階から上がってきた橋本が襲いかかり、生徒が2人やられた。

その勢いで、別の教室にも向かおうとした橋本だったが、その前に立ちはだかる者たちがようやく現れた。

Y中学校の教職員だ。

椅子を持って橋本を取り囲み、じりじりと近寄ってくる。

鎌や斧で武装しているとはいえ、複数の成人男性相手には分が悪かった。

壁の一角に追い詰められ、ナイフを出して抵抗しようとしたが、教職員の一人に組み付かれて取り押さえられた橋本は、観念して凶器を捨てた。

逮捕後

この凶行では死者こそ出なかったものの、生徒8人が負傷し、うち一人は、全治一か月の重傷であった。

負傷した生徒

教師たちに取り押さえられた橋本は、その後通報により駆け付けた平塚署の警察官に連行された。

平塚署では、刑事たちに動機などを厳しく追及されたが、橋本は犯行時と同じく無言だった。

黙秘していたのではない、しゃべれなかったのだ。

小さいころから、人と話すことが極端に少なかったために声帯が発達せず、大きな声で話すことができなかったのである。

そのため取り調べは、橋本に供述を紙に書かせるという異例の形になった。

「復しゅうした。今年と去年、一昨年にY中学の生徒に悪口を言われたり、石をぶつけられたりした…」

「冬には雪だまを投げられたり、家に石を投げられたりした。学校に『何とかしてくれ』と言ったが、何もしてくれず、無視された」

「この学校の生徒ならば誰でもよかった。殺すつもりはなく何人かやれば気が済むと思った」

橋本は筆談でそう供述した。

さらに凶器を入れていた紙袋から、Y中学校への恨み言や襲撃したことの動機などが丁寧な字で書きこまれた大学ノートも見つかる。

そこにはこう書かれていた。

「ボブ、バカなどと一日多いときで四、五十回も悪口を言われる。本当にムシャクシャする。皆殺しあるのみ」

事件後、新聞記者の取材に答えた生徒の一人は「いじめているという気持ちはなくて、遊んでいるつもりだった」と殺人犯による「殺すつもりじゃなかった」と同じような無責任な言い訳を吐いていた。

また「僕らも悪かったかもしれない」と殊勝な答えをした生徒もいた。

いずれにせよ、襲われたY中学校の生徒たちにとっては、身も凍る衝撃的な事件となったようである。

弱い者いじめによって自分に返ってくるかもしれない結果を、全校生徒が思い知らされたのだ。

事件後の現場検証

筆者の私見

私事ではあるが、Y中学校での事件が起きた当時、1975年生まれの筆者は中学二年生。

つまり、被害に遭った生徒たちと同年代であったから、この時の報道をよく覚えている。

もうおっさんに近い年齢の大人の男が、自分たちと同世代の中学生にいじめられたこと自体カッコ悪いのに、その報復に凶器を持って学校に乱入したんだから「みっともないったらありゃしない」とあきれ返ったものだ。

そして、私が通っていた中学にも、橋本のような部外者がよく校内に入り込んでいた。

「キチ」と皆に呼ばれていた知的障害のある二十代後半の男だ。

だが、「キチ」は「ボブ」のようにいじめられることはなく、わが校の生徒たちは、キチと一緒に遊ぶなど、一見友好的な関係を保っていた。

これはY中学校の生徒たちと違って、わが母校の生徒たちが善良だったからではない。

キチは怒らせると本当に危険なことで有名で、生徒たちも怖くて嫌がらせできなかっただけだからだ。

ボブがキチのように危険な側面を持っていたら、Y中学校の生徒も手を出さなかったはずである。

当時のだろうが今のだろうが、この世代のガキは変わらない。

弱い者いじめは、娯楽だと考えている。

相手がこちらにとって危険でなかったら、いつまでもやり続けるし、たいして深刻に考えることもない。

一方のやられる側は、それに慣れることはなく、怨念が積もり積もっていく。

それが限界を超えたら、あるものは自殺という「消極的な」手段をとるし、ボブのように「積極的な」手段に訴える者もいる。

起こりうるどちらか一方が起きたのだから、Y中学校の事件は、必然的に発生したものではないだろうか?

また、消極的より積極的な手段を採用した方がましだと思うが、ボブの良くないところは、いじめられる原因を自分で作った以外に、無関係の生徒に積極的な手段を行使してしまったことである。

せめて自分に嫌がらせをした張本人に向けていれば、多少は肯定的にとらえることができたかもしれないと思うのは、私だけだろうか?

出典元―読売新聞、毎日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

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