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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第四話


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第四話 弄ばれる命

自殺を図った須弥代

須弥代を連れた犯行グループは24日午前11時に近藤と合流、拉致していたカップルのうち男の方は殺し、残った女も今日中に殺すことを告げる。

襲撃の実行犯の一人で、昭善殺害の現場にはいなかった高志にも電話をかけて、この日の22時に落ち合うことを約束させた。

殺害を二人にも手伝わせるはずだったのだが、現役暴力団員の近藤は組の用事があることを理由に「後は任したでな」などと離脱してしまう。

また俺らに丸投げで逃げやがったな!

小島は、近藤の重ね重ねの無責任ぶりに腹が立った。

小島たちは、この時点でまだ須弥代に昭善を殺したことを伝えていないし、須弥代自身も殺すつもりであることも本人に伝えていない。

しかし、須弥代はとっくに彼氏がこの世にいないことに気づいていたし、自分も殺されるであろうことにも感づいていた。

そして、それを望んでいた。

一行が喫茶店などを経て、一昨日カップル狩りをした金城ふ頭に寄った時のこと。

徳丸に見張られてフラフラと外に出た須弥代が、叫び声を上げて突然海に向かって走り出したのだ。

海に飛び込むつもりである。

「お前、ナニしとんだて!!」

ここで死なれるのはかなりまずい、死体が発見されないように真夜中に、どこかで殺して埋めるつもりなのに。

取り押さえて車の中に押し込んだ。

「お兄ちゃん殺したでしょ!?わたし、もう生きていけないいい!!!」

「家帰したったって言っとるが!」

見え透いたウソをここでも言い張ったが、すでに昭善の死を確信していた須弥代は、悲嘆のあまり後追い自殺を図ろうとしていたのだ。

しかし、このあまりに悲しい行動は、人をいたぶるのが大好きな極悪少年少女たちのサディズムの炎に油を注いでしまった。

「私たち、本当に愛し合っていたんです」アピールもカンにさわったし、悲しみに打ちひしがれて泣きわめいている姿を見て、もっともっといじめてやりたくなってきたのだ。

悲しみを踏みにじる悪魔たち

小島たちのたまり場

その後、小島たちはグループのたまり場にしていたアパートに転ずるや、失意のどん底に打ちひしがれる須弥代をリンチ。

「ナニ勝手なことしとんだて!バカ女!!」「死にたいなら殺したる殺したる!」「“お兄ちゃんお兄ちゃん”やかましいじゃい!」「オラ!泣いてんじゃねえ!すんげれぇムカつくわ!」

男には強烈なパンチや蹴りを見舞われて吹っ飛び、女には髪の毛をつかまれて、口汚くののしられながら顔をはたかれて踏みつけられる。

事件後、階下の住民はこの時にドスーンと大きく響く物音を何度か聞いたと証言しており、孤立無援の須弥代に、かなり情け容赦のない暴力が振るわれていたようだ。

さらには、ここで雄獣の徳丸がまたも須弥代をレイプ。

どうせ殺すんだから、こんなやつ何やってもいいと小島はじめ他の奴らも考えていたらしく、筒井も同性が蹂躙されているにもかかわらず「好きだねえ」などと笑っている。

人生最後の日にも関わらず、須弥代は尊厳を踏みにじられ、痛めつけられ続けた。

同日22時ごろ、小島たちは徹底的にいじめ抜いた須弥代を連れてたまり場を出発し、22時40分には高志と合流。

そこで小島は昭善をすでに殺害したことを話し、車のトランクに入った死体も見せた。

「え!?マジ?あの野郎、ホントに殺ってまったんか!?…ホントや、死んどる」

「女の方も殺らなかんでよ。あとはどこでやって、どこに埋めるかなんだわ」

小島と徳丸に高志も加えた男3人で、殺害場所と埋める場所の話し合いが始まった。

車の中には、生きる気力を失ったほどやつれはてた須弥代が龍造寺と筒井に見張られて乗っている。

「富士の樹海とか…、あかん、遠い。明日朝早いから事務所行かなかんで」

「三重の山奥にせんか?オレ、あそこよう知っとるんだわ」

小島の言う三重の山奥とは、現在三重県伊賀市の山林のことである。

彼は、そのあたりに土地勘があったのだ。

「ほんならそこにしよか」

徳丸と高志はその案に同意し、23時10分ごろに高志も加えた一行は三重県に向けて出発。

須弥代にとって、絶望のドライブが始まった。

死者の尊厳などお構いなしの鬼たち

死体を埋めた場所

目的の場所に着いたのは、翌25日の午前2時ごろ。

それは、車一台がやっと通れるほどの林道を進んだ先にあり、両脇はうっそうと茂る山林。

須弥代はタオルで目隠しをされており、小島ら男3人は外に出て、道から7メートルほど奥に入った場所で懐中電灯を照らしながら、死体を埋めるための穴を掘り始める。

そのころ、車中に待機していた龍造寺は、「なんか最後にしてほしいことあったら言やーて」と須弥代に聞いた。

もうここまで来た以上、生かして帰すつもりがないことを隠す必要はないのだ。

すると、「お兄ちゃんの顔が見たいです。お兄ちゃんと一緒に埋めてください」と、弱々しく悲しい答えが返って来た。

金城ふ頭で海に飛び込もうとしたくらいだから、とっくに覚悟を決めていたのである。

「あっそ」「もうええて、そういうの」と、不良少女二人は冷淡だったが。

一時間後、大人の男女を十分埋められるだけの穴かできた。

作業を終わって車まで戻って来た徳丸は須弥代に「最後の飯だで、食べや」と、途中で買った握り飯と缶ジュースを渡す。

徳丸は三回も須弥代を犯したことから分かるとおり、自分勝手にもお気に入りにしていたらしい。

ここへ来るまでの車中でも、自分の膝の上にのせていたりしていた。

嫌らしさがふんだんに混じったやさしさである。

それに対して、須弥代は「私と一緒に埋めてください。天国でお兄ちゃんと食べます」と涙ながらに答え、改めて「お兄ちゃんの顔を見せてください」とお願いしてきた。

「見せたれ」

鬼の小島は、鼻白みながらも徳丸に車のトランクを開けさせて昭善の死体を懐中電灯で照らすと、目隠しを外されて、それを見た須弥代は死体にすがりついて泣き始めた。

昭善の死体はまだ縛られたままだったので、須弥代がそれをほどこうとしていたが、「勝手なことすなて!」と無情にも阻止されてしまう。

午前3時ごろ、小島は厳寒にもかかわらず、須弥代を裸にして再びタオルで目隠し、掘った穴の前に座らせた。

この時、須弥代はずっと無抵抗でされるがままだった彼女らしからぬことを、犯人たちに言っている。

「どうしてこんなひどいことするんですか?警察に捕まらないと思っているんですか?」これは、きっと非道な犯人たちへ発した彼女なりに精一杯の抗議だったんだろう。

そして「やるなら、ひとおもいにやってください」と言った。

暴虐の限りを尽くされた結果、命乞いするほどの生きる気力は、もう残っていなかったようだ。

小島と徳丸は昭善の時と同じように、焼き切っておいたビニールひもを須弥代の首に二重に巻き付け、高志に懐中電灯で照らさせて互いに引っ張る。

須弥代は「やるならひとおもいに」と言っていたが、望み通りにはいかなかった。

ビニールひもが外れるなどのハプニングがあったりして、苦しむ時間は昭善より長引くことになる。

しかも、一回殺人をクリアしている小島と徳丸はすでに慣れてしまっており、「がぁぁぁぁ~げぇぇぇぇ~」と、若い女性が発しているとは思えないほどグロテスクなうめき声を上げて苦しむ須弥代の首を絞め続けながら、「綱引きだぜ」と笑みすら浮かべて前回同様ふざけはじめ、高志にも「お前もやってみろや」とか言って余裕ですらあった。

殺人を一回犯して度胸がついたらしく、ただでさえ悪い奴らが余計に悪くなってしまっていたのである。

結局30分もかかって須弥代は死んだ。

殺してしまった後も、犯行グループの悪ノリは止まらない。

誰が言い出したかは分からないが、穴に須弥代の死体を生前の願いどおり昭善の死体とともに入れた後、カップルの死体なんだからと、お互い抱き合っているような状態にしたのだ。

二人とも理不尽に命を奪われて、なおも弄ばれたのである。

もはや、人間として扱わなくてもよいほどの鬼畜である。

「お兄ちゃんと一緒に埋めてもらえてよかったな」「もう天国着いたかな?」「ハメ合ってるように埋めれば、よかったんちゃう?」「ハハハ!悪い女やな~」などと、ふざけたことを言い合い、全く悪びれていない。

午前3時30分、死体を埋め終わって落ち葉などをかけ、現場に遺留品が残っていないことを確かめた悪魔たちは現場を離れた。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第三話


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第三話 まず、昭善が殺された

意地の張り合いで決められた殺害計画

2月23日7時30分頃、犯行グループ6人は愛知県海部郡弥富町のドライブイン「オートステーション」に到着、朝食を兼ねて改めて今後について話し合うことにした。

須弥代は小島の車から近藤の車に移され、徳丸が二人を見張る。

話し合いと言っても出席者はシンナーのやりすぎで頭の溶けた者ばかりだし、場を取り仕切る頭の悪い小島からとんでもない案がしょっぱなから出ていた。

「やっぱ男は殺って、女は売り飛ばすしかないて」

空き地での話し合いの時に誰かが冗談半分で言った最悪のプランであるが、驚くべきことに話はその方向で進む。

また、風俗店に売り飛ばせなかった場合は須弥代にも死んでもらうことまでが決められる。

小島は逮捕された後の裁判で、ここでの話し合いでは本気ではなく口だけで言い出したことだったと言い訳をしているが、カップルの処理については誰も「殺すのはだめだ」と言い出すことなく、勢いのまま殺害の方向で固まりつつあった。

この集団、実は事件のつい先日知り合ってつるむようになった者もいたりして関係性は希薄で、互いに相手の腹を探り合うようなところがあった。

ましてや不良なんだから他の奴らに気弱な所は見せられず、常に虚勢を張り続けなければならなかったのである。

店を出た5人は、見張りをしていた徳丸に二人を殺すことにしたと伝えたが、徳丸もあっさり了承した。

これも小島と同じく公判中に徳丸が述べたことだが、この時は本当にやるとは思っていなかったようだ。

つまりこの日の朝の時点において、殺害することは口だけか本気か曖昧なままであったようだが、その本気度はその日のうちに一気に高まって実行に移されることになる。

店を出ると6人は須弥代を再び小島の車に乗せて、2台の車に分乗して移動。

途中で高志だけが帰宅することになり、自宅近くで車を降りた。

無神経な行動

5人になった犯行グループは引き続き二人を連れ回し、9時40分頃に休憩のために「ホテルロペ」に入った。

近藤は、車を借りたに上役に車を傷つけてしまったことを報告しに向かったために、グループは小島・徳丸・龍造寺・筒井の4人となる。

ホテルロペ

この4人は、無神経にも拉致した昭善と須弥代を連れて堂々ホテルに入り、夕方17時ごろまで二部屋に分かれて過ごすことになるのだが、当然ながら同ホテルの従業員に怪しまれていた。

だいたい、こんな目つきの悪い連中の存在自体怪しいのに、その中に顔をこわばらせた男女がおり、しかも顔に殴られたような痕があるからである。

不審を抱いた従業員だったが、すぐに通報しようとはしなかった一方で、彼らが乗ってきたグロリア(小島の車)のナンバーをメモしていた。

後にホテル側がそのメモを警察に提供したことによって、事件の犯人検挙につながることになるのだが、もし、この時に通報していれば殺人事件は未然に防げていたかもしれない。

グループのうち小島と筒井は同じ部屋で、徳丸と龍造寺は別の部屋で昭善と須弥代を見張っていたが、同室で徳丸がまたしても須弥代を彼氏の目の前でレイプしたというから、とんでもない野郎だ。

小島も小島で、当初の計画どおり大まじめに須弥代を売り飛ばそうとヤクザ関係者に電話していた。

考えてみれば、何の罪もない女性を暴行・拉致したうえに、風俗店に売り飛ばそうという発想自体無法極まりないが、この極悪なもくろみは不首尾に終わる。

そんな悪いことは、さすがのヤクザもできなかったのではない。

警察に見つかることは明白だったし、三下ヤクザのまま組を脱退していた小島を信用する者などいなかったからである。

だからといって、幸いなことではなかった。

小島に「須弥代も殺す」というプラン2の実行を決意させたからだ。

しかし、即実行というわけにはいかないし、それをこれから殺す本人たちに知られるわけにもいかない。

17時ごろホテルを出てから犯行の痕跡を隠すために洗車場で車を洗った後、拉致した二人には「帰したるで、おとなしゅうしとけ」と言いつけ、昭善の方に車の修理代を支払うという誓約書を書かせるなど、いずれ自分たちは解放されると思いこませていた。

そして解決案は、より着実に二人の殺害に向かっていく。

23時過ぎに小島たちは近藤と再び合流して今後について話し合ったが、小島は近藤と二人きりになると「もう殺ってまうつもりけど、いつやろう?」と迫っていた。

近藤は所用により龍造寺といったんその場を離れ、犯行グループが再び集合したのは24日午前2時半ごろ、場所は港区にある『すかいらーく 熱田一番店(現ガスト)』。

すかいらーく 熱田一番店(現ガスト)

昭善と須弥代は暴行・拉致されてからほぼ丸一日連れ回されて、体力的にも精神的にも限界に近付いている。

そんな二人に小島は「いつ帰れるか近藤と話し合ってから決めるだでよ、ちょっと待っとれ」と、あと少しで解放という希望を持たせていた。

しかし、この『すかいらーく 熱田一番店』で最終的に二人とも殺害すること、その方法と埋める場所が決定されることになるのだ。

一旦解放されていた二人

昭善と須弥代の方は、手ひどい暴行を加えられて打ちひしがれていたが、まさか殺されることはないと考えていたのは間違いない。

そして、犯人の小島たちも殺害という最終決定を下す前に一度彼らを解放しているのだ。

拉致した側にとっても連れ歩くのは疲れるし、本当に殺すのもリスクがある。

というか、行き当たりばったりな小島と近藤は、早くこの状況を終わらせられるなら、生かしておこうが殺してしまおうがどっちでもよいと考えていた節があった。

だが、もちろん警察に行かないよう脅しを交えて、くぎを刺したのは言うまでもない。

「車の修理代はチャラにしたるけどよ、お前らの住所はもう知っとるだでな。マッポにタレこんだら…分かっとるよな?なぁ?」

「分かってますよ!分かってますよ!ホントしませんよ!もう、行ってもいいですよね?」

やっと解放された昭善と須弥代は深夜の『すかいらーく』を出て道路を横断し、歩道を歩いて遠ざかっていく。

彼らを解放するという決定は首謀者格の小島と近藤が下したものだったが、ここで事情を知らない者たちが騒ぎ出した。

「ええんですか?警察に言うんとちゃいます?ヤバくないです?」

女の龍造寺にまで異議を唱えられた小島は、またも下の者たちにナメられたくないという虚栄心を発動させる。

優柔不断な反面、ハッタリだけは一丁前にかましたがる奴なのだ。

「やっぱ帰すのやめとこ。連れ戻せ、徳丸!」と、二人を連れ戻すよう徳丸に命じてしまった。

そして、連れ戻した後は決まっている。

当初、冗談で口に出し、もう引っ込みがつかなくなった決断を実行するのみだ。

解放されたとはいえ、凄まじい犯罪被害に遭って心身共に傷ついた昭善と須弥代は、とぼとぼ歩いて遠ざかっていたらしく、徳丸にすぐに追いつかれる。

「おい戻れ、帰るのはもうちょっと待っとれ」

彼らは、本当ならこの時に全速力で逃走するべきだったが、徳丸の命令に素直に従ってしまう。

さんざん暴行を加えてきた小島たちへの恐怖心から、一日で心が壊され、反抗できなくなっていたと思われる。

しかし、二人の命運はここで尽きた。

近藤は事件の解決案の話し合いに来ていたにも関わらず、不用心にも事件と関係のない知人たちを連れてきており、事情を知られないように彼らを乗せて帰ってもらおうと車で離脱。

やるだけやって、後の面倒ごとは押し付けられた気が大いにした小島は舌打ちしたが、自分たちがやるしかない。

3時ごろになって徳丸・龍造寺・筒井と共に昭善と須弥代を自分の車に乗せて『すかいらーく』を出発。

行先は、愛知県愛知郡長久手町大字長湫字卯塚25番地(現:長久手市卯塚)にある「卯塚公園墓地」。二人を処刑する場所だ。

昭善の殺害

卯塚公園墓地

同墓地は、小島がかつて所属していた弘道会の本家の墓があり、その清掃作業に組員であったころは駆り出されたことがある。

彼らは、途中で自分たちが根城にしているアパートに寄って、死体を埋めるためのスコップを積み込み、深夜スーパーでは殺害に使うロープも買って午前4時半に墓地に到着した。

あれ?帰してくれるんじゃないの?どういうこと?

墓地に向かうまでの間に昭善と須弥代も、さすがに、これはおかしいと気づいたはずである。

帰してもらえると思っていたら、こんな時間に人気のあるはずのない墓地に連れてこられて、おまけに外では小島たちがさっき買ったロープをライターで焼き切っているではないか。

「どういうことですか?どういうことです?ちょっとちょっと!ナニするんですか!?」

小島に何事か命じられた徳丸が昭善を車から降ろすと、半分に焼き切ったロープで両手を縛りはじめ、口にもガムテープが貼り付けられる。

そして、犯人たちは怯える昭善に対して「今からどうなるかわかっとるだろ」と言い放つ。

そう、それは焼き切ったロープのもう片方で絞殺するつもりなのだ。

「そんな!帰してくれるって言ったじゃないですか!やめてくださいよ!!殺さないでくださいよ!!!」

「アレはウソなんだ。さあ来いよ」

小島と徳丸は、ガムテープを貼られた口から必死に命乞いをする昭善を車から少し離れた場所まで引っ立てて正座させると、先ほどのロープを二重に首に巻きつけて、それぞれロープの両端を持つ。

「やめてください!ホントやめてください!やめぇっ…ぐえええぇぇぇっっ」

両方から、綱引きのようにロープが引っ張られ絞められた。

「げげげげっ、げえぇぇえぇぇぇ~!ゔげええぇえっえっえっゔゔぅぅ…ゔゔぅぅう~」

渾身の力で絞められ続けて、この世のものとは思えない断末魔の声を出し続ける昭善。

さすがの小島と徳丸も聞いていられない声で、多少ひるみ始めただったが、やめるわけにはいかない。

どころかここでも虚勢を張って、なかなか死ねない昭善を笑いながら「このタバコ吸い終わるまで引っ張るでよ」と、二人はタバコを吸いつつ絞め続ける。

鼻やガムテープの隙間から血や吐しゃ物を流し、苦しみぬいた昭善が絶命したのは約20分後。

二人は、本当に死んだかどうか蹴ったりして確かめている。

その時、龍造寺と筒井の女二人は車内に残って目と口にガムテープを貼られた須弥代を見張りつつ、離れた場所で男二人が昭善を絞殺する様子を見ていたが、須弥代は目隠しされながらも、何やら最悪なことが起きていることに気づいていた。

「お兄ちゃん(昭善のこと)、お兄ちゃんはどこですか?どこですか!?」

「話しとるだけだがや、うっさいて!」

「何もしてないですよね?お兄ちゃんに何もしてないですよね!?」

「やかましいわ!もうしゃべるなて!」

須弥代の不安の声をうっとうしく感じた女二人は声を出させないようにするため、口にガムテープをさらに貼り重ねる。

本来、次はすぐさま須弥代の番になるはずだった。

しかし、それはなかった。

極悪な小島と徳丸にとってもこれが初めての殺人であり、命を奪われる際に昭善が出した凄絶なうめき声にビビッたからだ。

あれはもう一回聞きたい声ではない。

そして昭善を殺した後、二人は死体と犯行に使用したロープ、スコップをグロリアのトランクに積み込んだのだが、その際に出た物音に須弥代は、何かを感じ取っていたようである。

「あの、何を入れてるんですか」と塞がれた口で尋ね、小島と徳丸が車に乗り込むと「お兄ちゃんはどこですか?」と気が気でない様子になり始めていたのだ。

「もう降ろしたったて」

徳丸は見え透いたウソを言ったが、須弥代はとっくに気がついていた。

最愛の彼氏が、もうこの世にいないことを。

とっくに日が変わって早朝となった、この1988年2月24日。

この日は、須弥代の二十年の人生で最も悲しく絶望的で、そして最後の一日となる。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第二話


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第二話 大高緑地公園事件

噴水族

1988年2月23日早朝、名古屋市中区栄のセントラルパークに、小島茂夫(19歳)、徳丸信久(17歳)、高志健一(20歳)、近藤浩之(19歳)、龍造寺リエ(17歳)、筒井良枝(17歳)の 6人が集まり談笑していた。

6人とも、いかにも暴走族風の見かけをし、シンナーの入った袋を持って吸引している者もいる。

「あいつらも、車もボコボコにしたった。あんなとこで、いちゃくでやわ」

「へへへ!あそこまで女の前でやられたら、男終わりだで」

「あの女、輪姦したりゃよかったな。他の車来たでかんわ」

「うわ!トレーナーに血ぃついとるが!こんなん着て歩けんが!!」

スポーツの試合の後の選手たちのように誇らしげに語っているのは、先ほどやったカツアゲの自慢話だ。

そう、こいつらは、先ほど金城ふ頭でカップルを襲った張本人たち。

1988年当時、ここセントラルパークに集っては、シンナー吸引にふけっていた通称「噴水族」と呼ばれた不良少年たちのかたわれである。

しかし、彼らは中途半端なワルではない。

小島と徳丸は現在こそ鳶の仕事をしているが、元々は山口組弘道会傘下の薗田組の組員であり、唯一成人の高志は現役の同組組員、近藤は同じ弘道会傘下の高山組の組員で、女の龍造寺もヤクザの情婦だし、小島の彼女である筒井も暴力団事務所に出入りしていた。

そんな彼らが金城ふ頭に向かうきっかけとなったのは、昨晩いつものようにシンナーを吸いにセントラルパークに集ったところ、小島が「今からバッカン行くでよ」と言い出したことからだ。

「バッカン」とは彼らの間だけで通用する言葉で、カップルを狙って恐喝するカップル狩りを意味する。

デートスポットである金城ふ頭での「バッカン」は彼らが始めたことではなく、他の「噴水族」の不良も以前からやっており、前年の9月には、複数のカップルを恐喝していた不良少年のグループが検挙されていた。

小島たちの中には、このグループの人間と付き合いのあった者がおり、「バッカン」の手口をよく知っていたのだ。

実際にやるのは今回が初めてだったからか、最初に襲ったパルサーには警察署に逃げ込まれて失敗したが、二回目のカムリは捕まえることに成功。

昨年捕まったグループより危険であることを自認する彼らは、一回目の失敗のうっぷんを晴らすように張り切って、男も女も車もボコボコにしてしまった。

こうして奪った現金は86000円、他にも龍造寺と筒井が女から腕時計とトレーナーを奪っている。

一回のカツアゲとしては大戦果と言えるが、小島はまだ満足していなかった。

もう早朝なのに、あと二回くらいやろうと言い出している。

彼らの中には分け前をもらって帰りたがっている者もいたが、6人で割ったら大した金にならないからだ。

「金城ふ頭、また行くでよ。さっきみたいにやりゃええて」

「金城ふ頭はかんて。最初にやったった奴が通報しとるかもしれんて。」

「ほんなら大高緑地は?あそこなら、カップルおるんと違う?」

「おお、ええな。大高緑地行こまい!」

大高緑地公園も金城ふ頭同様、週末にはカップルの車が押し寄せるデートスポットとなっていたのだ。

こうして次の狩場は決まり、一行は二台の車に分乗して十数キロ先にある名古屋市緑区の大高緑地公園に向かう。

そのころ、大高緑地公園第一駐車場に一台のトヨタ・チェイサーが入ってきて駐車していた。

中に乗っていたのは野村昭善(19歳)と末松須弥代(20歳)。

付き合い始めてぼちぼち経った何回目かのデートを楽しむ彼らは、数十分後に自分たちを襲う悲劇的な運命を、まだ知らなかった。

獲物をロックオンした野獣たち

1988年2月23日未明、名古屋市緑区にある大高緑地公園の公園入口ロータリーに小島の運転するグロリアと、近藤の運転するクラウンが到着。

車を降りた6人は、獲物となるカップルを探索するために暗闇の公園内に入ってゆく。

公園の第一駐車場は平日の早朝とあってがらんとしていたが、一台の白い車が停まっているのが確認できた。

トヨタ・チェイサーだ。

まずは近藤が立ちションを装って偵察に向かうと、チェイサーにはエンジンがかかっており、中にカップルとみられる男女が乗っているのが視認できた。

「よっしゃ、よっしゃ!おったぞ!おったぞ!あそこのチェイサーに乗っとる奴だで」

小島たちが潜む所に戻って来た近藤は、喜色満面で報告。

「こんなド平日のこんな時間までいちゃついとる奴は、お仕置きせなかんて!ほんならやったろか!」

もうすでに三回目なので手慣れたもので、6人は手はずどおり車のナンバーに段ボールを貼り付けたりの準備を手際よく行い、トランクから木刀などの得物を取り出して車に乗り込んだ。

野獣たちにロックオンされたチェイサーの中にいたのは、野村昭善(19歳)と末松須弥代(20歳)。

二人とも、愛知県大府市内にある同じ理容店で働く理容師カップルである。

昭善は床屋を営む家庭の出身で、中学を卒業してから理容師の世界にいたから、すでにいっぱしの理容師、将来は実家の店を継ぐつもりであり、父のために備品を自分の給料を出して購入するなど孝行息子でもあった。

一方の須弥代は、定時制高校を卒業後に理容師を志していたからまだ見習いであり、同い年ながら、すでにいっぱしの理容師として働いていたから昭善は輝いて見え(昭善は早生まれで須弥代と学年は同じだったようだ)、なおかつ、彼のさわやかで人に好かれやすいキャラにも魅かれたのだろう、自然と好意を持って同じ店で働く同僚以上の関係になっていたのだ。

須弥代も親思いで、両親のために貯金をする孝行娘である。

そんな彼らは、将来昭善の実家の店を二人で支えようと共に理容師修行に励んでいたのだから、滅多にいないほど健全なカップルであろう。

両家の親たちも反対する理由がなく、その交際は双方から歓迎されていたほどだ。

この前の日、須弥代は父親のチェイサーを借りて昭善を拾ったようだが、ハンドルは彼氏である昭善が握っている。

なお、須弥代は店の仕事が終わった後で、同僚には今晩は昭善とデートに行くと告げていたものの、父親にはなぜか「女友達の所に行く」と言っていたが、これは後ろめたいからではなく、照れ隠しだったのだろうか?

その事情は、間もなく永遠に確かめることができなくなる。

それは、小島と近藤が運転する車が駐車場に入って近づいてきたと思ったら、チェイサーの後方左右に停車したことから始まった。

動きを封じられた後、特攻隊長気取りの徳丸が木刀片手に車を降りて「オラァ、出てこいや!!」と、こちらに向かって雄叫びを上げたため、昭善と須弥代の二人だけの甘い世界は破られる。

二人とも、異変に気付くのが遅すぎた。

ずっと自分たちの世界に浸っていたのもあるが、後ろ向きに駐車していたので、後方から向かってくる二台がおかしな動きをしているのが分からなかったのである。

駐車場に他の車が入って来たのには気づいていただろうが、いきなり自分たちの車の所に向かってきて後ろ左右に停まり、中から暴走族風の若者たちが鉄パイプや木刀片手に怒声を上げて降りてきて、一気に至福の静寂から奈落の底に落とされた。

どう考えても、こちらに危害を加える気満々の者たちに囲まれ、二人がびっくり仰天したのは言うまでもない。

この時、運転席にいた昭善は慌てて逃走を図ろうとチェイサーをバックさせた。

だが、パニックになるあまり、昭善はより最悪の結果を招く事態を引き起こしてしまう。

この車は、須弥代の父親の車で乗り慣れていない上に、後方は逃げられないように小島と近藤の車が停まっているのである。

昭善のチェイサーは、車体を襲撃者の乗って来た車二台にぶつけてしまったのだ。

「オレの車にナニしてくれとるんだ!!コラアァァー!!!!」

外からは不良の怒りの咆哮が響き、木刀や鉄パイプで車体がより強く叩かれ、ガラスにひびが入る。

その大きな声と音、予想される今後を前、に二人の心臓は凍り付いた。

荒れ狂う逆ギレ

自分たちの車を傷つけられて、小島たちは激怒した。

近藤にいたっては、おっかない組の上役から借りた車なのである。

「オラ!降りてこいてボケ!殺したろか!!!」

不良たちはチェイサーを完全に包囲して、車体を鉄パイプや木刀で乱打してフロントガラスを割る。

もうだめだ、逃げられない。

観念した昭善はおっかなびっくり車を降りたが、頭に木刀が打ち下ろされ、腹や腕を突かれ、拳で顔を殴られる。

「すいません!すいません!勘弁してください!」

流血する頭を押さえて昭善は懇願したが、車を壊された不良たちの怒りが、これで収まるわけがない。

「てめえ、俺らの車どうしてくれるんじゃ!!オラ!!」と、自分たちが悪いにもかかわらず、昭善の顔にパンチを叩き込み続け、所持金の11000円を奪った上に、チェイサーも腹いせとばかりに鉄パイプで破壊する。

そして、女である須弥代の方を担当するのは、今回も龍造寺と筒井の不良少女二人だ。

「はよ降りてこいや!ボケ!」と、助手席で泣きべそをかいておびえ切っている須弥代の髪をつかんで外に引っ張り出す。

金城ふ頭同様に二人は木刀で須弥代を殴打し、ハイヒールを履いた足で足蹴にするなどしたが、今回はより陰惨な仕置きを始めた。

「オラ!服脱げて!」と上半身裸にしたのだ。

これを見た男たちは、黙っていられない。

「この女犯ってまおうぜ!」と近藤が提案し、女である筒井も「こんな糞女犯ってまえ!」とけしかける。

須弥代は襲撃現場から少し離れた場所まで連れていかれ、そこで徳丸と近藤、高志に輪姦された。

小島だけは情婦である筒井の目の前で参加するわけにはいかなかったが。

昭善にとっては、自分の女の前で泣きを入れても叩きのめされ続けたばかりか、目の前で彼女を蹂躙されるという男にとって最悪の屈辱を味わわされた。

もっとも、6人もの不良相手に自分の女を守り切れる男など滅多にいないだろう。

不良たちは現金ばかりかチェイサーの備品、須弥代のアクセサリーなども奪い、今まで幸福だった者たちに地獄を見せるというカップル狩りの醍醐味を堪能し尽くしてはいたが、自分の車を壊されたことを理由にした暴走はまだまだ続く。

レイプを終えた徳丸たちは上半身裸の須弥代を連れて駐車場に戻って来たが、今度は龍造寺と筒井が女として再起不能になった須弥代を全裸にしてヌードリンチを始めたのだ。

極悪少女二人はシンナー(彼らの多くはシンナーを吸っていた)を須弥代の陰部に注ぎ、髪の毛をライターで焼き、タバコの火を背中や胸に押し付ける。

「熱い!熱い!熱い!あづいいい~!!やめてくださいいいい!!!」

須弥代は泣きながら哀願したが、女の涙は女には通用しないことが多い。

特に龍造寺と筒井のような奴には逆効果だった。

「泣きゃええっちゅうもんちゃうぞ!!」「ぶりっ子するなて!ムカつくわ!!」と、余計に暴行に拍車がかかる。

無抵抗の須弥代の体にタバコの火を押し付け、髪を引っ張り回し、足蹴にし続け、男たちも血だらけになった昭善を正座させて殴り蹴り続ける一方で、より楽しそうな須弥代へのリンチにも参加した。

昭善と須弥代への暴行は午前6時まで続いたが、そろそろ明るくなってきて人が入ってくるかもしれない時刻である。

そろそろ退散の時間だ。

だが、両人とも長時間の苛烈な暴行により、金城ふ頭で被害に遭ったカップル以上にひどいケガを負わされていた。

このまま置いておいたら、間違いなく通報される。

不良たちはズタボロにされた二人をひとまず連れて行くことにし、昭善を近藤の車の後部座席に、須弥代を小島の車の後部座席に押し込んで現場を離れた。

手ひどい暴行で呆然自失の二人をそれぞれ乗せた二台の車は、港区の空き地まで行って停まり、小島と徳丸、近藤が車を降りて今後について話し合う。

だが、この時点で彼らが一番心配していたのは、近藤が組の上役から借りた車を傷つけられたことだった。

暴力団幹部ともあろう者が、自分の車を傷つけられて怒らないはずはない。

小島は、組にいた時に兄貴分の車を傷つけ、さんざんヤキを入れられた苦い経験がある。

拉致した二人について「やりすぎちまった。どうする」と話題に出はしたが、この時点では二の次だったのだ。

そんなどうでもよいことに関して、誰かがハッタリ交じりに「男は殺して女は風俗にでも売り飛ばそう」などと言い出したが、それは当初軽口と言った本人も含めて誰もが受け止めていた。

この時までは。

その軽口はその後誰も撤回することなく、なし崩し的に決定事項となり、事件がより最悪の結末を迎えるであろうことを、彼ら自身も気づいていなかった。

続く

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列島を凍り付かせた未成年1988年・名古屋アベック事件 – 第一話


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第一話 事件の始まり

1988年(昭和63年)2月に発生した名古屋アベック殺人事件は、同年11月から翌1月にかけて起きた女子高生コンクリ詰め殺人と双璧をなす悪名の高さで、令和の現代にいたっても語り継がれる少年犯罪である。

当時の日本では、未成年者らによる犯罪が激増して社会問題になってはいたが、この事件の凶悪さと犯行理由の理不尽さはそれまでに起きた少年犯罪を大きく凌駕して全国にショックを与えた。

その当時、中学生だった筆者はその衝撃を体感しており、犯人たちの鬼畜ぶりに怒りを爆発させたものだ。

本稿では、犯行を行った6人の人でなしたちを絶対超えてはならない一線を大きく踏み越えた悪魔たちとみなし、そのような所業を犯すにいたるまでの生育環境や境遇の劣悪さに関しては一切考慮しない。

そんなものが理由になったならば、誰だって殺人を犯してもいいはずだからだ。

たとえ若さゆえの過ちであったとしても、犯していい過ちでは決してなく、昔のことだからと忘れていいものでもない。

凶悪なカップル狩り

1980年代後半の日本では未成年による犯罪が激増、かつ凶悪化していた。

どんな時代でも一定数の若者がグレて悪さをするものだが、母数となる若者の絶対数が多くて少子高齢化が遠い未来の話だった時代なので、その数は令和の現代よりもはるかに多く、その悪質さにおいても令和に勝るとも劣らなかったのだ。

1988年2月23日の東海地方の地方紙『中日新聞』夕刊にも、そんな悪質極まりない未成年者によると思われる犯罪の発生が報道されていた。

同日深夜の名古屋市港区の金城ふ頭、車に乗ってデートに来ていたカップルが複数の不良少年少女に襲われて暴行され、金品を奪われたのだ。

金城ふ頭は、当時から夜景を楽しむデートスポットとして名古屋では有名であり、多くのカップルが車に乗ってデートしに来ていたのだが、彼らを狙った犯罪者もたびたび出現しており、この前年の9月には、こうしたカップル狩りを繰り返していた不良少年グループが検挙されていたが、捕食者がいなくなったわけではなかったのである。

報道によると同日2時30分ごろ、まず名古屋港82番岸壁上に車を停めてデートしていた専門学校生カップルが襲撃された。

カップルの乗る車をいきなり二台の車が挟み込むようにして停車、暴走族風の6人の少年少女たちが木刀片手に降りてきて「コラ!降りて来いて!」と車体を叩いたのだ。

身の危険を感じた専門学校生は車を発進させ、襲撃者たちの投げた木刀で、後部窓ガラスを割られながらも逃走。

不良たちの乗る二台の車も追いかけてきたが、このカップルは幸運にも、約5キロ先の港警察署小碓派出所に逃げ込んだために襲撃者たちの車は姿を消したが、彼らが感じた恐怖はかなりのものであったはずだ。

だが、次に襲われたカップルは不運だった。

逃げられなかったのだ。

最初の襲撃から一時間後の3時30分ごろ、最初の襲撃が行われた岸壁から約250 m離れた81番岸壁上に停車していたトヨタ車のカップルは、退路を絶たれて捕まってしまった。

犯人たちは、前回の失敗を繰り返さなかったのである。

フロントガラスを割られて乗っていた会社員の男性(25歳)は車外に引きずり出され、4人の不良に木刀や警棒で嫌というほど殴られたが、犯人たちは当時の不良が吸引していたシンナーの臭いをぷんぷんさせ、ラリっていたから余計歯止めが効かない。

男性は「死を覚悟した」と後に証言したほどの暴行を加えられて現金86000円を奪われた。

金城ふ頭で襲われたカップルの車

男性の彼女(19歳)も無事ではない。

一味の中の2名の不良少女に「てめえも降りろて!」と髪をつかまれて引きずり降ろされて「汚ったねえツラして泣くなて!よけいムカつくがや!!」「ブスのくせにええ服着とるな。似合わんだでウチらによこせや!!」と罵倒されながら、木刀で殴られ、足で蹴られ踏みつけられたのだ。

「やめてくださ…げぼっ!ごめんなさい!ごめんな…ぐえぇぇぇ!ううぅぅう~痛い痛い痛いよぉお…がっ!!いったあああああい!!!」

泣いても哀願しても、容赦ない暴行は止まらない。

自身も執拗な暴行を受けていた男性だったが、乱暴されて苦しむ彼女が目に入ったんだろう。

自分を囲む不良の輪から抜け出し、「もうやめろて!」と不良少女を突き飛ばして女性の体に覆いかぶさった。

身を挺して彼女を守るためだ。

「てめえ、オレの女にナニ手エ出しとるんだて!!」

「かっこつけると死ぬぞ!コラア!!」

彼女に手を出されて我慢ができないのは少年たちも同じで、自分たちが悪いにもかかわらず、男性への暴行はより激しくなる。

女性も腕時計とデートのために着てきた高価なトレーナーを奪われたうえに殴られ蹴られ続け、暴行は他の車のヘッドライトがこちらに近づいてくるのが見えるまで続き、車もめちゃくちゃに破壊された。

被害に遭った二人は報道では全治一週間の軽傷とされているが、それは実際に目の当たりにすれば、しばらく表を歩けないくらいひどい有様であり、文字通りボコボコにされていて、しばらく家から出てこなかったという。

何より心に大きな傷を負ったのは間違いなく、この二人は今でもその時の恐怖と苦痛を忘れてはいないはずだ。

2月23日時点での夕刊の報道では、この二件の卑劣なカップル狩りだけが報道されていたが、実は二件目の犯行の直後により重大な事件が起こされていたことは報じられていない。

その事件こそ、日本社会を震撼させることになる名古屋アベック殺人であるが、発覚するのはその二日後である。

そして、事件はこの日に進行中だった。

拉致された理容師カップル

金城ふ頭でのカップル狩り(当時はアベックという言い方がまだ一般的だったが)の事件のようにカップルを襲う事件は過去にも起こっていたが、今回の事件は木刀で車や乗っていたカップルを滅多打ちにするなど、以前のものと比べてその凶悪さが注目を浴びた。

しかし、世間に与えた衝撃は当初それほどでもなかった。

第一、それまでの事件でも今回の事件でも被害者たちは手ひどく暴行されて金品を奪われていても、命までは奪われていないからだ。

だが、二日後の2月25日の報道で、この事件の犯人が想像以上に悪質である可能性が浮上する。

金城ふ頭から少し離れた場所で、同じ犯人と思われる者たちによってより凶悪な第三のカップル襲撃事件が起こされ、被害者が拉致されたと思われることが報じられたのだ。

23日の夕刊にはまだ掲載されていなかったことだが、金城ふ頭のカップルたちが襲われた23日の午前8時半頃、10キロ離れた名古屋市緑区の県営大高緑地公園第一駐車場にフロントガラスやヘッドライトが割られ、車体がボコボコにへこんだトヨタのチェイサーが放置されているのを通行人が発見して緑署に通報。

同署の捜査で車内からは血痕が残っていることが分かり、車の外には血の付いたブラジャーや空になった財布、ハンドバックが散乱していた。

また、近所の住民から朝6時ごろ、何かを叩くような音と男女の怒鳴り声が聞こえたという証言もあり、何らかの犯罪が行われたのは明白である。

しかし、肝心の被害者については行方が分からず、拉致された可能性が早くも出ていた。

犯人が金城ふ頭でカップルを狩った者たちと同一犯と考えられたのは、車の窓ガラスを割るなど手口が似ていたことと、大高緑地公園までは車で20分もかからない距離であったこと。

そして、金城ふ頭で襲われた被害者の目撃証言で犯人グループは、白いクラウンと茶色のセドリック、もしくはグロリアに乗っており、放置されていたチェイサーのバンパーに別の車がぶつかった痕があって、そこに残った塗膜片を鑑識で調べたところ別の車のものであり、車は茶色のグロリアかセドリックと考えられるという結果が出ていたからだ。

被害者の身元判明

大高緑地公園で見つかった車

やがて、拉致されたと思われる男女は理容師の野村昭善(19歳)と同じ店で理容師見習いとして働く末松須弥代(20歳)と判明。

放置されていたチェイサーは須弥代の父親所有のものであり、22日の夜に仕事から帰ると「友達のところへ行く」と言ってからチェイサーに乗って出かけて行ったきり帰らず、翌24日に家族から捜索願が出されており、須弥代の彼氏である昭善も22日の夜以降行方が分からなくなって、同じく捜索願が出されていた。

襲われたのは、この二人である可能性しか考えられない。

2月25日、この大高緑地公園での事件を捜査する緑署は、金城ふ頭事件の犯人と同一犯と断定し、金城ふ頭事件を捜査する名古屋水上署と合同捜査本部を設置した。

カップルを襲撃してカツアゲすること自体が悪質極まりないが、なおかつ被害者を拉致して、その行方が分からないことから報道関係者も注目し、翌日以降も犯人の目撃情報やその正体を推定する記事などが中日新聞に掲載される。

そして、事件発生から二日も経っていたんだから、被害者の身内や関係者は居ても立っても居られなかっただろう。

だが、まさか生きていないことはないだろうと思われていた。

犯人は極めて悪辣な不良少年たちのようだが、いくら何でも何の落ち度もないカップルをさらって殺すなんてありえない。

昭善と須弥代が務めていた理容店は二人が生存していると信じ、身代金目的で誘拐されている可能性まで考えて現金まで用意していたくらいだ。

しかし、その「まさか」が起きていた。

二日後に一連の強盗事件の容疑で逮捕されることになる少年少女たちは、すでに両人を殺して埋めていたのだ。

続く

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封じられた秘密 ~少年の過ちとその償い~


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橋本健一は、今年26歳になった。

だが、心はO市立北中学校三年七組の生徒のままだ。

彼は三年生の夏休み前に登校拒否になり、そのまま十年以上ニート生活を送って来た。

登校拒否の原因はいじめ。

いじめを受けるようになったきっかけは、当時のクラスメイトの前田瞳が大いに関係している。

中学校時代の橋本の片思いの相手だ。

だが、橋本は瞳を恨んではいない。

むしろ、悪いことをしたと今でも悔やんでいる。

クラスの人間ばかりか、他のクラスの者からも二度と学校へ行く気がなくなったほどのいじめを受けたことは確かだが、やられても仕方がないことをしてしまった。

それは、魔がさしたとしても許されざることだったと反省している。

思えば11年前の5月10日木曜日三時間目の英語の授業。

「体調が悪い」と教師に告げて教室を出て行った瞳を見た当時の橋本は、トイレに行ったのだと確信。

日頃から瞳の入浴や排泄を想像してはオナニーをしていた橋本は、のぞきたいという衝動を抑えきれない余り実行に移してしまった。

彼女が出て行った直後に、自分も「気分が悪い」とか言って教室を出て、予想通り女子トイレに入って行く瞳の後ろ姿を遠目から確認すると橋本も間を置いて女子トイレに入り、彼女が入ったに違いない個室の隣の個室の壁と床の隙間から、片思いの相手の排便を拝む。

まず目に入ったのは丸い尻。

二つに分かれた何の変哲もない尻だが、あの瞳の尻も二つに割れていることに、妙な安心感と感慨を感じて拝見していたのもつかの間。

その直後、圧巻のスペクタクルが始まる。

ぶぶっ、ぶうぅうう~、ぶりっぶりぶりぶり…ぶり!

音消しの水を流していたにも関わらず、丸い尻から大音響の屁が響いた直後に盛大にひり出される糞、ほどなくして漂ってきた鼻が曲がりそうな糞臭に、橋本の思春期の股間は決壊。

ズボンとパンツをはいたまま盛大に射精した。

その情景は目に焼き付いて離れず、悪いことをしたと思いつつも、26歳になった今でも橋本の重要なズリネタになり続けているくらいだ。

このまま教室に無事戻っていれば完全犯罪、いや、思春期の後ろめたくも素晴らしい思い出で済んでいたことだろう。

だが、こののぞきが、その後に続く大きな代償を払うことにつながってしまったのは、瞳がケツを拭いている間に女子トイレから脱出しようとしたところを、校内巡回中の体育教師に見つかってしまったからだ。

その体育教師も気のきかない奴で「お前のぞいてただろう!」とその場において大声で問い詰めるものだから、その後、トイレから出てきた瞳に自分の脱糞がのぞかれていたことと、その犯人が橋本であることを気づかせてしまった。

その場で泣き崩れた瞳は、ショックのあまり、その日以来しばらく学校に来なくなってしまったみたいだ。

「みたいだ」というのは、それから一か月くらい後に、橋本も学校に行けなくなったからである。

トイレをのぞいたことでその日の放課後、体育教師や橋本の担任教師、生徒指導の教師にこっぴどく叱られて親にまで知らされて、家でも怒られる羽目になったが、これは大したことではなかった。

教師たちは、生徒に知られないようにしてくれていたみたいだが、泣きながら教室に戻って行った瞳が、仲のいい友達に打ち明けたのが伝わってしまったらしい。

橋本のやったことは、次の日には三年七組の生徒たちに知られており、ここから本物の地獄が始まる。

まず始まったのはシカトだった。

それまで仲の良かった者まで、橋本が話しかけても露骨に無視するし、女子生徒などは性犯罪者を見る目つきで敵意のこもった視線を向けてくる。

さらに、学校の不良グループに体育館の裏に呼び出されて殴られた。

橋本を殴った不良は。学年一の美少女の瞳に気があったらしく、正義の鉄拳とばかりに張り切って「変態野郎!」とか「のぞき魔」とか罵声を浴びせつつタコ殴りにしてきた。

クラスの者たちも、それを機に積極的に攻撃してくるようになり、机に花は置かれるわ教科書は破かれるわ、男子にはいきなり小突かれ蹴られるようになり、女子には集団でズボンとパンツを脱がされる屈辱を味わわされるなど、正真正銘のいじめに遭うようになる。

それまで、和気あいあいとした居心地のいいクラスだったので、この豹変ぶりに橋本は愕然とした。

始めから一体感があって団結した雰囲気があったが、こういう場合はより団結するようだ。

橋本ののぞきは、クラスを超えて伝わっていたらしく休み時間に廊下に出ると、他のクラスの連中から「性犯罪者!」と罵声が飛んだり、モノが投げつけられたし、橋本をボコった不良も出くわすたびにパンチをくらわせて「テメー登校拒否するか自殺しろよ」とまで脅してきたから、クラス八分どころか学年八分になっていた。

担任に訴えても「お前が招いたことじゃないか」と言って聞いてくれやしない。

どころか、のぞきをやった一件について、高校受験で重要になる内申書に書かざるをえないことまで宣告してきた。

もう限界だ、そして終わりだ。

高校受験を控えた学年だったが、橋本は夏休みになるのを待たずに学校に行かなくなった。

二学期になっても三学期になっても行かなかった。

卒業式にも出なかった。

もちろん高校受験をすることはなく、橋本の両親は登校拒否した当初やそれからの数年は、死に物狂いで息子を社会復帰させようとしたが、とっくにあきらめたのか、何年も前から今後について何も言ってこなくなっている。

よって26歳の今になっても、ズルズルとニート生活を送ってきた。

いじめは、たしかにつらかった。

あれ以来、学校に行くのが怖くなってしまった。

でも、いじめを招いたのは、のぞきをやった自分であるのは間違いない。

思春期真っただ中だった瞳は一番恥ずかしい姿を見られて、深く傷ついたはずだ。

もう11年たったけど、現在の彼女はどう思っているんだろう?

願わくば、会って謝りたい。

そう思いつつも、例のごとく11年前の瞳の排便を脳内でリプレイしてのオナニーを自宅のトイレで済ませた橋本は、ため息をついた。

11年間考えてきたのは、そればかりである。

トイレから出てゲームでもしようと自分の部屋に戻る前、玄関からサンダルを履いて外に出て郵便受けをのぞいた。

両親は共働きで家にいないので日中は橋本一人なのだが、郵便受けから郵便物をとってくるのが、彼のこの家での唯一の仕事となっていたのである。

郵便物はほぼ父か母宛で、橋本宛のものはほとんど何か商品やサービスを宣伝するダイレクトメールだったのだが、この日は違った。

数枚あった郵便物中に往復はがきがあり、その文面を見て橋本はハッとなる。

それは「O市立北中学校三年七組平成24年度卒業生同窓会」のお知らせだったのだ。

忘れもしない一学期に満たない期間しかいなかったあの三年七組のことだ。

そこには季節のあいさつに続いて、会場の居酒屋の場所や受付・開宴時間などの案内があったのだが、その横の返事の送り先を見た橋本は、何年も感じたことのなかったうれしい驚きを感じざるを得なかった。

この十年以上の間、何度この三文字の人名が頭に浮かんだことだろう。

何度会って謝りたいと思ったことだろう。

でも許してくれなかったら、と思うとこちらから連絡をすることができなかった。

学校へ行かなくなってから同級生の誰とも連絡をとっていなかったから、瞳がその後どうなっているかは分からなかったが、こうして同窓会の連絡窓口になっているのだから、学校に復帰して無事卒業したようだ。

そして、同窓会に招いてくれている以上、自分のことを許してくれているのではないだろうか。

あの過ちは人生における一番大きな忘れ物だったが、その忘れ物が向こうから帰って来たような気分である。

今度こそ、あの時のことを正式に謝ろう。

そうすれば、このニート生活も終わりにして、やり直すことができそうな気がした。

同窓会の会場は市内だし、いつもヒマだから、何日の何時だって行ける。

こんなにうれしいことは、あの中学三年生の五月以来全くない。

もちろん参加するつもりだ。

橋本は、喜び勇んで出席の返事を書こうと往復はがきを裏返す。

そして返信面を見た結果、今の瞳が橋本のことをどう思っているかを大いに悟ることになる。

瞳は橋本を許していなかった。

「様」と「ご出席」の部分を塗りつぶし、「ご欠席」に〇が幾重も書かれている所に、女の恨みの深さを感じる。

同窓会のお知らせを出さないだけならともかく、わざわざ同窓会への出席を断固拒絶する意思表示を示してきたのだ。

橋本は完全に打ちのめされた。

それはもう何もする気は起きず、社会復帰どころか生きる気力すら失われたような気がしたほどだった。

ちょうど同じころ、同じく26歳になっていた瞳は、勤務先で仕事中にもかかわらず我ながら陰険極まりない往復はがきを憎っくき相手に出し、それを見たあの変態野郎がどんな顔をしているか想像しながら邪悪な笑みをこぼしていた。

下痢便しているところをのぞかれた屈辱は、あと三十年くらいたっても忘れられそうにない。

高校大学と順調に進学して卒業した後、IT企業に勤めているが、中学三年以来ずっと今のように仕事の最中であっても時々思い出してしまい気分が悪くなる。

橋本の野郎は、一年の時から自分をチラチラ見てきやがったキモい奴だ。

三年で同じクラスになってしまい、しかも隣の席にされてしまった。

恐る恐る話しかけてきたから、その勇気に免じて嫌々口をきいてやったのに、あんなことしやがって!

当時はシ、ョックのあまり学校に一時期行けなくなり、心配する同級生からの電話やメールに対して「橋本の顔は一生見たくない」と返答し続けていたら、クラスのみんなばかりか、不良グループまでもが一丸となって橋本を追い出してくれた。

学校に復帰できたのは彼らのおかげだ。

だが、あれによって自分の人生は狂わされたと思っている。

二度と和式トイレに入れなくなったし、橋本を恨み続けた結果なのか顔立ちも陰湿なものになってしまったらしい。

高校・大学でも中学校時代ほど、ちやほやされなくなった。

就職活動でも悪い印象を持たれたようで、希望していた仕事に就けず、ようやく入れたのは今働いているブラック企業。

パワハラと激務のストレスで甘いものを爆食したおかげで体重は70㎏に迫る勢いだし、彼氏もできやしない。

全部橋本のせいだ。

今回中学の同窓会の連絡係になったことを機に、何年も温めていた嫌がらせをしてやったが、こんなもんじゃ済まさない。

そう思っていた最中、さらに陰険で破滅的な第二段の報復が頭に浮かんだ瞳は、26歳という年齢にしては老けて丸くなった顔を醜くゆがませてニヤリと笑った。

今度こそとどめを刺してやる!

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JAL516便事故とペットの悲劇

航空業界の非情な現実


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2024年は新年早々災いで始まった。

1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

そして翌2日夕方には、全国のお茶の間に、東京羽田空港の滑走路で火災が発生している衝撃的な映像が流される。

当初、二か所で火炎が上がっていることだけが報道されて、なぜその火災が起こったかは分からなかったが、ほどなくして新千歳空港発の日本航空(以下JAL)516便のA350-900と海上保安庁羽田航空基地所属の航空機(MA722)が、羽田空港のC滑走路で衝突したことが報じられ、その後、事故の瞬間の映像も公開された。

原因は、本ブログ執筆中の1月6日時点で調査中であるが、この事故で海上保安庁のMA722は大破・炎上して乗員5名が死亡、1名が重傷を負う大惨事となったことが、その日のうちに発表される。

ちなみに同機は、前日に発生した能登半島地震の被災地に救援物資を運ぼうとしていた。

一方のJAL516便は、炎にからみつかれながら滑走路からずれて停止し、駆け付けた消防隊の決死の消火活動むなしく機体がみるみる炎に包まれる模様がテレビ画面に映され、さらに犠牲者が出ているのではと危惧されたが、516便のクルーの適切な処置で、乗員乗客は全員無事脱出に成功。

旅客機の側に死者が出なかったのは、不幸中の幸いであったと全国の視聴者が安堵した。

だが、この516便では人命こそ失われなかったものの、それ以外で失われた命があったことが後に判明する。

貨物室に預けられていた乗客のペットの命だ。

なぜ助けられなかったのか?

516便に徐々に火が回り、全焼していくさまを観ていた視聴者の中には「貨物室に預けられていたペットはいなかったのだろうか?」と懸念した人も少なからずいたようだが、その懸念は翌日的中する。

事故の翌3日にJALが乗客から、預かっていた犬一匹と猫一匹が、そのまま焼け死んだことが発表されたのだ。

彼らは、火が回る機内に取り残されて見捨てられたのである。

この悲劇を受けて、SNS上でタレントなどの著名人を中心に「ペットも客室に入れてあげるべきだ」「生きている命をモノとして扱うことが解せない」という意見が上がった。

例えば、フリーアナウンサーの笠井信輔氏は自身のインスタグラムを更新して、この事故で愛猫を失った乗客の慟哭のコメントを紹介。

自らも猫を飼っている笠井氏は、他人事と思えず落涙したと述べ、ペットを客室に同乗させることができる海外の航空会社を例に出して、限定的な条件を定めた上で日本でも検討できないかと訴え、犬や猫を飼う人々から大いなる賛同を得た。

また、3日以降二日間で“貨物扱い”禁止を求める署名も1.6万人を超えたことから、この問題への関心は高まっているようだ。

だが、もちろん反論もある。

「犬や猫が苦手どころか、アレルギーの人もいる」

「緊急事態になったら、人命第一なのは仕方がない」

「そもそも、飛行機に乗せることは犬や猫にとって大きなストレスになるはずだから、ペットホテルに預けるべき」

上記のような、もっともな意見もあって論争が巻き起こった。

そうは言っても、犬や猫も人間と同じ命。

暗い貨物室に押し込めて、緊急事態となったら見捨てざるを得ないのは、忍びないというのも事実だ。

笠井氏が言うように、客室へペットを持ち込める海外の航空会社も現実に存在し、日本国内でも「スターフライヤー」という中堅航空会社が、今年1月15日から小型の犬や猫を客室内に持ち込めるサービスを国内の全便において開始する予定である。

だが、いざ事故が起きても、一緒に避難できるわけではないようだ。

非情な現状

そもそも、今回の事故のように乗客が緊急脱出する際、手近にあるからといって手荷物を持って脱出することはできない。

それには理由がある。

手荷物は、通路をふさいだりして他の客の脱出の妨げになる可能性があり、脱出用のスライドを傷つけて空気が抜けた場合に、後から来る客が脱出できなくなりかねないからだ。

これはJALに限ったことではなく、どの航空会社でも規則でそう定めている。

そして、ペットを客室内に持ち込める海外の航空会社も、ペットを「手荷物」に分類している。

つまり、盲導犬などの特例は除くものの、緊急事態においては機内に置き去りにせざるを得ないのが、航空業界の世界的な常識なのだ。

ペットを客室内に持ち込めるサービスを開始する「スターフライヤー」も同様で、「緊急脱出が必要になった場合は、ペットを機内に残して脱出してください」と公式ホームページ内で明記し、サービス利用の際には、ペットの死傷に関して責任を問わない同意書に署名する必要があるという。

たしかに、家族同様のペットを置き去りにして逃げなければならない悲しみは動物を飼っていない人間にも理解できる。

恐怖や苦痛を感じるのはペットも人間と同じだから、「何とかならなかったのか」とも思いたくなるだろう。

しかし、他の大勢の乗客の脱出の支障になりかねないのは事実であって、これを変えることは難しいのが現状となっている。

JALの行ったペットを見捨てさせる緊急避難は、間違ってはいなかったと見るのが正しいのだ。

とは言え、さまざまな意見が交差しているが、前述の笠井氏も述べているとおり、変える努力をしてもいいのではないかと本ブログの著者は思う。

何事も「現状では仕方ないからあきらめる」では、この先の進歩や改善を放棄することになるのでないだろうか。

一寸の虫にも五分の魂。

長いこと連れ添ったペットならなおさらだ。

この悲劇が、航空会社が緊急時のペットの避難について検討をする契機となることを願いたい。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、ライブドアニュース

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昭和と集団就職:夢と現実の狭間 – 金の卵たちの苦悩


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「集団就職」という雇用の形態が、かつての日本にはあった。

ご存じの方も少なからずいらっしゃることであろうが、一般的には高度成長の時代に盛んに行われた、地方の中卒者らが大都市の企業や店舗などへ集団で就職することを指す。

「金の卵」とも呼ばれた彼らは年端もいかぬ年齢で親元を離れ、故郷から遠く離れた都会の職場でホームシックに苛まれながら厳しい労働に耐え、ある者は後にその会社の中核となったり、またある者は起業して経営者となったりと、日本の発展を支える存在となっていったことはもはや伝説と言ってもよいだろう。

だが、伝説に謳われているように職場で懸命に働いた努力が報われて成功した者たちばかりではなかった。

中には厳しい環境に耐えられずに離職してしまった者もいたが、そもそも、その職場環境自体が人間の生存に適さない、すなわち超ブラック企業だった場合も多かったのだ。

本ブログでは『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された記事から、こうした悪辣な企業の餌食になって夢も希望もつぶされて故郷に逃げ帰った少年たちを例にとり、集団就職の暗部をご紹介しよう。

祝福されて地獄へ送り込まれた少年たち

1959年(昭和34年)3月25日午前9時、群馬県高崎市市役所前から、七台のバスが出発した。

それぞれのバスに乗っているのは、つい先日中学校を卒業したばかりの少年少女たち約240名、職安や教員ほか同市の関係者らに盛大に祝福されて集団就職のために東京へ出発する「金の卵」たちである。

バスの外では彼らの親たちも駆けつけ、寂しさと感慨の入り混じったまなざしで、我が子の早めの巣立ちを見送っていた。

まだ十代半ばの少年少女たちは、涙をにじませて窓の外の親兄弟たちに手を振り、親元や故郷を離れる心細さやこれから始まる新たな生活への大いなる不安とかすかな希望を胸に一路大都会東京へ向かう。

若者たちを乗せたバスは国道17号線を南下し、およそ100㎞先の東京都千代田区にある九段会館に到着したのは正午過ぎ。

ここ九段会館では、在京の群馬県出身の有力者による「受入式」という大げさな式典が行われ、彼らは地元群馬県選出の自民党幹事長・福田赳夫(後の第67代内閣総理大臣)などお偉方の長ったらしい祝辞を聞かされた後、それぞれの就職先の責任者らに連れられて東京各地に散って行くことになる。

このように大仰に送り出された「金の卵」たちの中に阿部慎(仮名)、江田紘孝(仮名)、松林宜秀(仮名)という三人の少年が含まれていた。

彼らは他の者たち同様、ついこないだ中学の卒業式を終えたばかりで、就職先は高千穂ランプ(仮名)という自転車や自動車のランプ及び関連部品を製造する従業員数180名あまりの中小企業だ。

新しい職場へ行くことは何度転職を経験していたとしても期待より不安が勝るものだが、15歳かそこらで社会へ放り込まれることになる安倍たちにとってはなおさらである。

そうは言っても、大きな安心材料もあった。

それは出身中学こそ違えど同じ群馬県出身で、これから同じ職場へ向かう“戦友”が17人もいたことだ。

また、彼らには他にもこれからの新生活に期待を持たせる要素もあったようである。

阿部慎は地元高崎の職安で高千穂ランプの社員寮には当時まだ広く普及していなかったテレビがあると聞かされており、仕事終わりには、毎日実家にはないテレビが見れるであろうことを楽しみにしていた。

また、家を出る際に母親がいなりずしを持たせようとしてくれたが、昼食くらい出してくれるだろうと思って持ってこなかったという。

江田紘孝は、野球を見るのもやるのも大好きだ。

安倍と同じく地元の職安で高千穂ランプの社長と面談した際に「野球が好きだ」と言ったところ、社長はにこやかに「そうか、君は野球が好きか。じゃあ、仕事に慣れてきたら、みんなで野球大会をやろう」と言ってくれたらしい。

「社会人になっても野球ができる!」と、その時江田はうれしくてうれしくて仕方がなくなり、これから始まる社会人生活も悪くないだろうと信じていた。

松林宜秀は比較的向学心が旺盛で、家が貧しい農家でなかったならば高校に進学していたはずの少年である。

彼は姉に買ってもらったノート十冊と万年筆を持参し、通信教育を受けるための会費も払い込んでいた。

仕事の傍ら勉強するつもりだったのだ。

しかし、彼らのほんの些細な希望は入社早々ことごとく裏切られるばかりか、絶望のどん底に叩き込まれることになる。

情報が限られていたうえに社会経験が未熟な中学生だったから仕方のない話だが、知っていたのならば従業員数180人の会社に群馬県出身の新入社員だけで17人というのが何を意味するのか気づくべきだった。

高千穂ランプはパワハラや長時間労働が横行するブラック企業だらけだった昭和30年代においても、その漆黒さがトップクラスの超ブラック企業だったのだ。

時間も金もむさぼられる金の卵たち

高千穂ランプの作業場兼寮

少年たちが社会人生活をスタートさせることになる高千穂ランプは東京都東部の江東区にあった。

安倍は初日となるその日のうちに、高千穂ランプの工場の二階にある「第一寮」と呼ばれる社員寮に入居したのだが、第一日目から嫌な予感を感じることになる。

その部屋は日当たりが悪くて暗く、背の低い安倍でも手を伸ばせば手が届くくらい天井が低いのだ。

また、その部屋は八畳ほどの広さしかないのだが、入居者は安倍とそれ以外の新入社員七人。

一人あたり一畳しかスペースがなく、楽しみにしていたテレビもない。

「受入式」でも会社からも昼食すら出なかったし、この住環境を前に少々嫌な気分になったが、その日は一つ屋根の下で同じ年頃の少年たちばかりということで修学旅行のようなノリになり、荷解きをしながらワイワイ言っているうちに、そんな気分は消えていった。

しかし、翌日になって少年たちは超ブラック企業の洗礼を本格的に受けることになる。

第二日目となったその日、他の者たちと一緒にさっそく工場に投入された安倍は、コンベアの上でヘッドライトを組み立てる作業を任された。

それは新人でもすぐできるようになる簡単な作業であったが、初めてやる作業なんだから、もう一度やり方を確認してからやるべきだ。

高千穂ランプの作業場

そう思った慎重な性格の阿部が職長と呼ばれるこの現場の責任者である中年男に作業のやり方を改めて聞いた時、社会に出てまだ二日目の彼にとって信じられない反応が返って来た。

「説明してやったろ?二回も聞くんじゃねえ!!だいたい仕事ってのはな、見て覚えるモンなんだよ!!!」

と、とんでもない大声で怒鳴られたのだ。

確認しようとしただけなのに、何でこんな剣幕で怒られなければならないのか。

安倍は一挙に委縮した。

どの時代のどの職場にもいるが、「仕事は見て覚えろ」と言う奴は新人に指導することを面倒くさがっているだけであることが多い。

この職長は、まさにそんな手合いであったようだ。

そして、こいつは怠慢で気が短いだけでなく陰険な奴でもあった。

「こんなのバカでもできる仕事だけどよ、オメーは初めてなんだからこれやれ」と、

もう一人の新人である松林にランプ磨きを横柄に命じたのだが、さっき安倍を怒鳴った剣幕を見て縮みあがっていた松林は緊張のあまり手を滑らせてランプに指紋をつけてしまう。

すると「このボケ!そんなこともできねえのか!!」と罵声を浴びせたばかりか、

「おい!オメーら!!このバカみてーにボケーっと仕事してんじゃねえぞ!」などと、他の人間に聞かせるように松林を吊し上げるのだ。

新入社員たちは一挙に凍り付いた。

こんな横暴な奴が上司で、気持ちよく働けるわけがない。

さらに高千穂ランプは、労働環境や待遇も負けず劣らず劣悪だった。

会社の始業時間は午前8時ということになっていたが、実際は午前7時から開始であり、その一時間分の時間外手当はつかない。

そして残業は午後10時くらいになることもあり、休日にいたっては月二回。

寮で出される食事も貧相かつ劣悪で、米は異臭漂う三級品。

おかずは、朝は菜っ葉と味噌汁、昼はカブの煮つけとつくだ煮、夕は漬け物だけで魚がつくことすら滅多にない。

極めつけは一月の給料が5500円だったが、そこから寮の食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代や寮費などを差っ引かれると手取りは1000円しか残らないことが先輩からの話で判明した。

タコ部屋顔負けの搾取である。

一週間にもなると「こんなトコ辞めたい」が彼らの合言葉になったというのも無理はない。

そして翌4月になって、早々それを実行に移した者が現れた。

仕事の傍ら勉強しようとしていた松林だ。

横暴な職長や奴隷労働そのものの職場環境には、もちろん我慢ができない。

何より、勉強して知識をつけ、金をためて独立しようともくろんでいた松林は、高千穂ランプの長時間労働と薄給ではそれが半世紀くらい後にならないかぎり不可能であることに気づいたのだ。

4月2日、彼は「実家に相談しに行く」と仲間たちに告げて寮を出て行ってしまった。

松林の離脱がトリガーとなり、翌3日にはテレビを毎日見れるという約束を反故にされた安倍と野球をする時間もないことに不満の江田、そして他数名の少年たちが早朝に寮から脱走する。

故郷へ向かう列車が出る上野駅で「雇い主に黙って出てきたんじゃないか?」と警官に呼び止められて補導されはしたが、ひどい職場環境であったことなどを説明した結果、会社に戻されることなく群馬に逃げ帰ることに成功した。

無責任で薄情な大人たち

当時の『週刊明星』の記者は少年たちに取材したばかりではなく、高千穂ランプや送り出した群馬県の関係者にも話を聞いている。

まず張本人の超ブラック企業「高千穂ランプ」常務・石黒勉(仮名)は取材に対しこう語った。

「中小企業は労働基準法どうりやってたら経営が成り立たないんだよ。だいたい、そんなきついことやらせてないはずだよ。何で逃げたかわかんないね。職長がおっかなかったとか言ってるみたいだけど、あの人は職人気質なんだから仕方ないだろう」

すがすがしいほど奴隷労働をさせていたという意識も反省もない。

石黒という奴は、ブラック企業の役員どころか、限りなく奴隷商人に近い思考回路の持ち主であると言わざるを得ない。

そして、安倍の中学三年生時のクラス担任だった瑞田由紀子(仮名)は、

「一生その会社でコツコツやるという意識がない子が最近は多いですね。理想と現実が合わないとすぐやめてしまう」

もう卒業してしまったら、教え子ではないとばかりに他人事だ。

昔の教師もこんな手合いはいたようである。

もう一人の当事者で、安倍たちに高千穂ランプを紹介した職業安定所職業課長の幸迫義則(仮名)は、

「高千穂ランプは定着率が悪くってね。毎年三分の一はすぐやめて、こっちに帰ってきちゃうんだよ。あそこは管理がなってないんじゃないかな」

定着率が悪いことや管理がなっていないのを知っていて紹介したということだ。

紹介して送り出しさえすればよいという考え方で、その後は知ったこっちゃないと言っていると理解すべきだろう。

『週刊明星』によると、高千穂ランプでひどい目に遭った安倍たち以外にも、

「雇い主の子供に殴られているのに、その雇い主である両親は黙って見ていて止めようともしない」

「御用聞きに行った客先で待たされて、帰ってきたら「帰ってくるのが遅え!」と怒鳴られた」

「雇い主の主人と妻が夫婦喧嘩し、八つ当たりされた」

などなど雇われ先で理不尽な目に遭わされた少年少女は少なくなく、記事が掲載された昭和34年の4月8日の時点で、職場から故郷に逃げ帰ろうとして上野駅で保護された者が32名もいたことが報告されている。

単に根気がなかっただけの者もいたんだろうが、就職ガチャで大ハズレを引いてしまった不幸な者も多かったはずだ。

もっとも、高度経済成長中とはいえ、まだ貧しかった当時の日本は、他人をそこまで思いやるほど余裕のある社会ではなかったとも考えられる。

また「金の卵」とかいいつつも、少子高齢化になって久しい現代の日本と違って、若者は吐いて捨てるほどいたから、代わりはいくらでもいたと多くの職場では考えていたのではないか。

だがいずれにせよ、多感な十代中盤で社会に出たとたんに最悪の職場に出くわしてしまった安倍たちは、その後の人生に深刻な悪影響が出たはずだ。

本ブログの筆者の体験から言って、社会に出たばかりの時の経験は、後々の社会人人生に大きく影響する。

社会人一年生の時点でひどい会社に入ったり、ひどい上司にパワハラを受けてすぐやめてしまった経験は、言い方は悪いが強姦されたに等しい災難で、働くこと自体怖くなってしまう。

集団就職で入った都会の勤め先から逃げた少年少女たちの中には、その悪夢から一生を棒に振るほどの精神的ダメージを負った者もいたのではないだろうか。

群馬へ逃げ帰った安倍は、暗い目で記者にこうも言ったという。

「東京の人間はウソつきだ」

2023年の現在、もう八十近い年齢になっているはずの彼が、いずれかの時点で立ち直ってやり直し、今は安らかな老後を送っていることを願わずにはいられない。

出典元―週刊明星

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裏切りの代償:中野区中国人留学生殺害事件(江歌案)


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2016年11月3日深夜、東京都中野区中野のアパートで法政大学の大学院に通う中国人女子留学生・江歌(ジャンガ―・24歳)が、刃物でめった突きにされて刺殺された。

現場には、江歌と同居する同じ中国人女子留学生の劉鑫(リュウシン・24歳)がおり、無事だった彼女が警察に証言したところによると、犯人は見知らぬ男だったという。

当初、この事件は被害者が中国人であったからか、日本では新聞で小さく報道されるにとどまる扱いだった。

その一方の中国では、事件で一人っ子である江歌を殺された母・江秋蓮(ジャンチウィエン)の悲憤が報道されると多くの同情を誘い、駐日中国大使館も警視庁に事件の早期解決を要請するよう動き出す。

そしてその後、事件発生直後に劉鑫が述べた「犯人は見知らぬ男だった」という証言が嘘であって、実際は劉鑫の元カレの中国人留学生・陳世峰(チェンシーフォン・25歳)であったこと、犯行時にとった行動が最初の証言とは全く異なっていたことがわかり、さらには母・江秋蓮に対する冷淡かつ不誠実な対応によって、中国中から怒りの声が上がる事態に発展した。

異国で出会った同じ学校の同級生

劉鑫(リュウシン)

劉鑫は、1992年に中華人民共和国山東省青島市で生まれた。

両親は農民だったが、商品作物の販売に成功した農家であって、結構な金を持っていたために、幼少期から何不自由なく暮らしてきたようだ。

そのせいか、少々わがままなところがあったが、才覚ある両親の血はしっかり受け継いでおり、人に好かれやすく嫌われにくいという、おいしいキャラの持ち主であったらしい。

学校に通っていた頃は、誰もが悩む人間関係でうまく立ち回り、恋愛にもおおらかで、彼氏をとっかえひっかえしたりの華やかな青春も経験した。

2014年に、地元の泰山学院(4年生大学)の日本語学科を卒業した後、お目当ての仕事が見つからずにプラプラしていた劉鑫を心配した両親の勧めで日本に留学。

もともと日本語が専攻ではあったが、より実践的な日本語を習得すべく、当初は他の留学生と同じく、日本語学校に通うようになった。

その日本語学校で、劉鑫は同じ中国人女子留学生と知り合う。

後に命を奪われることになる江歌である。

江歌(ジャンガ―)

中国人の留学生なんてそこら中にいるのだが、江歌は特別だった。

彼女は自分と同じ山東省青島市出身で、それも互いの実家の距離は約10㎞という近さであって、なおかつ実は同じ中学校出身だったのだ。

生徒数が多かったので顔を知らない者がウヨウヨいたし、江歌も地味な子だから全然気づかなかった。

江歌は母一人子一人の家庭で育った苦労人で、母を楽させてあげたいという気概を持って、あこがれていた日本にやって来たらしい。

気ままに育ってきた劉鑫とは境遇が違っていたが、異国の空の下で同国人、それも同郷かつ同じ中学校の同級生という奇跡的なよしみから、二人は問答無用で親友になった。

これは、後に江歌の方にとっては破滅的な出会いとなるのだが、この時点では両人とも知る由もない。

災いのきっかけ

2016年4月、日本語学校を卒業した劉鑫は大東文化大学の大学院生となり、江歌は法政大学大学院に入学。

本格的な留学生活がスタートした。

そして劉鑫は大東文化大学で、江歌にとって第二の破滅的な出会いをする。

後に、江歌を殺害することになる陳世峰との出会いだ。

陳世峰は、自分より一つ上の25歳で陝西省出身(生まれは寧夏回族自治区)。

日本語がうまくて知的であり、研究発表する際などに見せるクールな立ち振る舞いに、入学したばかりの劉鑫の目はくぎ付けになって、たちまち「女」をうずかせた。

陳世峰(チェンシーフォン)

発情した劉鑫のアプローチに、優等生だがウブなところのあった陳世峰は一挙に陥落。

同年6月には、早くも板橋区高島平で同棲生活を始めた。

しかし、劉鑫は恋愛では百戦錬磨で意中の男を落とすことには長けていたかもしれないが、関係を維持することは苦手だったようだ。

また、交際する前に男を見る目も養われていなかった。

学校であれほどかっこよく見えた陳世峰だったが、一緒に暮らし始めてすぐに、彼がクールというより陰キャで、陰険なキモ男であったことに気づいたのだ。

そのくせ、ちょっとでもわがままを言うとすぐにキレる。

同棲生活開始早々、痴話ゲンカが絶えなくなり、こらえ性のない劉鑫は8月後半に別れを一方的に宣言して家出した。

たった三か月弱の交際だったが、嫌いになった男と我慢して付き合う必要はない。

さっさとポイだ。

これまでの恋愛でもそうしてきたから、今回もそうするだけである。

ただ、今回困ったことは、ヘボチン野郎の陳世峰と同棲するために住居を引き払っていたから、住む所がなくなってしまっていたことだ。

だがぬかりはない。

立ちまわるのがうまく、抜け目のない劉鑫は、この時すでに同郷の友達・江歌に連絡をとって事情を話し、彼女の部屋を間借りすることを承諾させていたのだ。

劉鑫は、他人に自分の無理難題を承知させることに長けており、しかも江歌は困っている人間の頼みを断れない性格だったからイチコロだった。

江歌のアパート

もっとも、この時期は母の江秋蓮が日本に来ていたために、江歌の部屋には入れない。

その間は、自分のバイト先のオーナーに泣きついて、バイト仲間の部屋に住まわせてもらっていたというから、かなりの強者だ。

やがて母親が帰国すると、劉鑫は首尾よく江歌宅に転がり込んで住居問題を解決させた。

しかし、より困った大問題が残っていた。

劉鑫の中ではとっくに元カレとなった陳世峰だったが、陳世峰の方はそう思っていなかったことだ。

さっぱりあきらめるという言葉が辞書にないこの男は、自分が運命の相手と思い込んだ女を、学業そっちのけで追いかけ始める。

毒闺蜜

劉鑫と江歌

中国語には、闺蜜(クイミー)という言葉がある。

この魅惑的な字面が意味するところは「女性の同性の親友」、「(女性にとっての)親密な女友達」だ。

同郷のよしみで、元彼氏から逃げてきた劉鑫をかくまった江歌は、まさに「闺蜜の鏡」と言えよう。

だが、劉鑫の方は紛れもなく悪い闺蜜、「毒闺蜜」だった。

下手したら江歌のことを親友ではなく、自分の都合よく動いてくれる便利なアイテムだと思っていた可能性がある。

居候させてもらっているのに、まるで自分の家のようにふるまうようになり、彼女といると息がつまり始めた江歌の方は、コーヒー屋に行って勉強するようになるなど「庇を貸して母屋を盗られた」状態になっていた。

劉鑫の方は、陳世峰から逃れてまんまと江歌にかくまってもらえたわけだが、大安心というわけではない。

ずっと部屋の中にいるわけにもいかず、外へ出たとたん陳世峰にまとわりつかれるようになっていたのだ。

別れた後も、同じ学校だから顔を合わすに決まっている大学院に劉鑫が通い続けていたのかどうか、報道では明らかにされていないが、江歌と同居しながらバイトには行っており、陳世峰にそのバイト先をつきとめられていたのである。

そして11月2日、江歌の家もストーカー野郎にバレた。

その日の午後、江歌は外にいて劉鑫が一人で部屋にいた時に、陳世峰が押しかけて来たのである。

それまでのストーカー行為で、すっかり精神的に参っていた劉鑫は、迷わず江歌に電話でこちらに来てくれるように頼んだ。

助けを求められた江歌は、当然ながら警察に通報しようと提案したが、劉鑫は何とこれを拒否する。

警察が入ると余計に面倒なことになると考えたようだが、これまで江歌にさんざん面倒をかけているという自分の立場を全く分かっていない。

いくらストーカーと化した元カレにおびえ切っていたとはいえ、都合が良すぎであろう。

親友ならば、どんなに迷惑かけてもよいと考えていたのだろうか。

それでも、義侠心に厚い江歌は親友の求めに応じて部屋に駆け付け、すっかり危険な状態になりつつあった陳世峰と対峙する。

そして、自分一人ではないと安心して部屋から出てきた劉鑫も交えて談判になったが、相手の事情などお構いなしに、よりを戻そうとしか考えていないストーカー野郎と話し合いになるわけがない。

ほぼ押し問答となった話し合いは、劉鑫がバイトへ、江歌が大学院へ行く時間になったことでタイムアップとなって物別れとなり、三人はそれぞれ行くべき場所や帰るべき場所に向かうことになった。

いったん穏便に収まったように見えるが、実はこの時点で陳世峰は、すでに暴発寸前だった可能性がある。

これより以前のことであるが、ストーカー行為に辟易としていた劉鑫が、浅智慧をひねり出して、彼氏ができたと思わせればあきらめてくれるだろうと考え、バイト仲間の男に頼み込んで新しい彼氏のふりをしてもらい、付きまとう陳世峰に見せつけたことがあったようなのだ。

事の真偽は分からないが、もしこれが本当だったとしたら、未練がましくてみみっちい陳世峰のことだから、「他の男のモノになるくらいなら殺してやる」と決意したことは大いに考えられる。

また、後に分かったことだったが、江歌は母親の江秋蓮が日本に来た時に、劉鑫のことを話していた。

その際に、劉鑫が彼氏から逃げてきたことや一緒に住まわせてあげようと考えていることを娘の江歌から聞いた母親は、「そういう人と関わらない方がいいよ」と娘を諭していたというが、結局、この人生経験豊かな母の忠告を、人が良すぎる娘は守らなかった。

結果、母の懸念は最悪の形で的中することになる。

江歌と母の江秋蓮

親友に見殺しにされて絶たれた夢

アルバイトに向かった劉鑫だったが、いったんはあきらめて帰ったと思われた陳世峰が、後をつけてきたことに気づく。

なおかつ劉鑫のスマートフォンに「オレの所に戻らねえなら、お前のヌード写真をネットにばらまくぞ」というメールを送って脅迫までしてきた(劉鑫は、なぜブロックしていなかったのだろう?)。

恐怖のどん底に陥った劉鑫は、ずうずうしくも再び江歌に救援を求め、「バイトが終わってから、21時に東中野駅で待っていて欲しい」と電話。

学校が終わってから自分のバイトに行っていた江歌は了承し、退勤してから律儀にも時間通りに東中野に向かった。

だが、劉鑫の姿は見えない、どころかなかなか現れない。

まだバイトが終わっていなかったのだとしても、自分の都合で呼び出しておいて出てこないとは、とことん厚かましい女だ。

江歌はコーヒーショップに入り、この時間を利用して中国版Lineである「微信(WeChat)」で母親の江秋蓮に電話した。

一時間半ほど話をした中で、江歌は劉鑫の一件のことも話しており、何か嫌な予感がしたらしい江秋蓮は娘に、「気を付けなさいよ」と話したという。

母娘の会話は、何時間も遅刻していた劉鑫がようやく現れたことによって終了するが、これが江秋蓮にとって娘と交わした最後の会話となる。

江歌と劉鑫が中野区のアパートに到着した頃には、すでに日が変わって3日午前0時を回っていたのだが、そこで二人は凍り付いた。

陳世峰の野郎が、アパートの玄関で待ち構えていたのだ。

江歌は、すかさずスマートフォンで「不審者がいる」と警察に通報。

二人は濁った目でこちらを凝視する陳世峰の脇を、そそくさと通り抜けて部屋に向かったが、奴は後からついてくる。

部屋の前まで来た時に、江歌は「嫌がってるのわかんない!?もう警察呼んだんだからね!」と帰るように要求したが、この時の陳世峰は、先ほどとは比べものにならないくらい危険な状態になっていた。

「オメー、戻ってこいっつってんだろ!」と怒鳴って劉鑫の手をつかみ、無理やり連れ去ろうとするのだ。

そればかりではない。

「やめなよ!」と江歌が叫んで間に入るや、何と刃物を持って向かってくるではないか。

これを見た劉鑫がいち早く動く。

驚くべきことに、江歌が立ち向かっているのをいいことに、彼女の部屋の中に入ってしまったのだ。

しかも、江歌を置き去りにしてカギまで閉めた。

「テメー開けろ、おい!鑫!!コラあああああ!」

激高した陳世峰は、狂ったようにノアノブをガチャガチャ言わせ始めたが開くわけがない。その結果、逆上の極みに達した陳世峰が、さらにとんでもない行動に出た。

怒りの矛先が、あろうことか第三者である江歌の方に向き、持っていた刃物で一突きしたのだ。

一突きでは済まない。

失恋で頭がおかしくなっていた陳世峰は「オレの邪魔ばかりするお前が悪い!」とばかりに、部屋から閉め出されてしまった形の江歌を滅多突きにする。

「啊啊啊~!!!」

何か所も刺された江歌は、叫び声を上げてその場に崩れ落ち、陳世峰は逃走。

江歌の部屋に逃げ込んで鍵を閉めた劉鑫はパニックになりながらも、この間に110番を二回もしていたが、警察官が現場に到着するまで部屋の鍵を開けることはついになかった。

陳世峰がまだその場にいたならともかく、江歌を刺して逃走した後もだ。

その間に、江歌は手の施しようがない状態となってゆき、警官が到着後に病院に搬送されたが時すでに遅し。

複数個所を刺されたことにより失血死した。

育ててくれた母親に恩返ししようと、あこがれの日本にやってきて勉学に励んでいた江歌は、親友を助けたばかりに、夢半ばで命を絶たれてしまったのだ。

たった24年の生涯だった。

犯行現場

母の悲憤を逆なでする劉鑫

江歌の悲報は駐日中国大使館によって、その日のうちに中国にいる母親の江秋蓮の元に届けられた。

動顛した母は翌日には来日。

変わり果てた姿となった我が子と悲しみの対面をした。

江秋蓮はシングルマザー。

離婚した後は、たった一人の我が子である江歌を、女手一つで育て上げてきたのだ。

そのかけがえのない唯一の宝を殺された母の悲しみと怒りが、尋常でなかったのは言うまでもない。

犯人は一人しか考えられない。

江秋蓮は、娘とは生前よく話していて知っていた。

親友・劉鑫の元カレの陳世峰である。

娘は劉鑫のせいで死んだという思いを抑えつつ、江秋蓮は事件現場にいて事情を知っている彼女に、犯人の逮捕のための協力と当時の状況を教えてくれるように微信経由で頼んだ。

一人の母親としては、当然の要求である。

だが、自分だけ助かった劉鑫は「事件当時は江歌と一緒にアパートへ戻り、自分はズボンが生理で汚れていたので履き替えようと先に部屋に入り、江歌は郵便物を確認するために外にいたが、外で江歌の叫び声が聞こえた。慌てて扉を開けようとしたが開かず、ドアスコープから覗いてもよく見えなかったから、怖くなって電話で110番に通報した」と返答した。

犯人が陳世峰だと彼女にも分かっているはずなのに、まるで見知らぬ人間にやられたと言っているとしか思えない主張である。

また、彼女を置き去りにして自分だけ部屋に逃げ込んでカギまで閉めたことも、この時点では言っていなかった。

ちなみに、劉鑫が110番通報した時の録音が残っているが、彼女はここでも半泣きになって動顛しながらも、たどたどしい日本語で「そとは誰か、誰か変な人がいて」と陳世峰の名前を出していない。

名前を出したのは、11月7日に陳世峰が恐喝容疑で逮捕された二日後の9日になってからからで、この時初めて江歌を殺したのは陳世峰であることや、自分が部屋に閉じこもってカギをかけてしまったことを、警察や江秋蓮に打ち明けた。

自分のせいで江歌が殺されたことは明らかだったから、あわよくば隠し通そうとしたのである。

劉鑫は徹底的に卑劣な女だった。

たとえ自分が原因で起こったことでも、面倒になりそうだと見れば、責任から徹底的に逃げる性分なのだ。

それは、その後の行動で示される

11月11日に江歌の葬儀が行われたが、前日に出席を約束したにもかかわらず欠席。

誰のせいで死んだと思っているのか?最低限の礼儀であろう。

また江秋蓮は、11月19日に江歌の遺骨を抱いて中国へ帰国するが、それまで一度も会いに来なかったばかりか、娘の最後の状況や事件の詳細を知りたがる江秋蓮の微信にも応答しなかった。

江秋蓮からの連絡は無視

この態度を取られて、我慢ができるはずがない。

一人娘を殺されて悲嘆にくれる母親は行動に出た。

ネットで、この非情な態度を中国の世論に訴えたのだ。

すると、中国のネット民はいち早く反応した。

中国国内で「友人を見殺しにした」と、劉鑫に対する非難が巻き起こるようになったのである。

この殺人事件は、日本ではあまり取り上げられなかったが、中国では大いに関心を集めていたのだ。

やがて、日本から帰国していた劉鑫はバッシングされるようになり、たまりかねて江秋蓮に連絡をしてきた。

しかし、それは捜査や裁判に協力するという承諾ではなく、「これ以上騒ぎ立てるなら、一切協力しない」という逆ギレの応答だった。

劉鑫の心ない返信

江秋蓮は、自分の娘はこんな奴のために死んだのかと怒りに震えた。

おまけに劉鑫の両親も両親で、彼らは微信の江秋蓮のアカウントをブラックリストに載せて連絡を絶ち、一家そろって転居して雲隠れ。

後に「心ある」ユーザーによって転居先が発見されて通報されるや、江秋蓮に電話をかけて「ウチの娘にからむな!殺した奴を恨めよ!」だの「あんたの娘は短命の運命だったんだ」などと罵倒する始末。

どうりで劉鑫みたいな女が育つわけである。

当残ながら、江秋蓮も泣き寝入りはしない。

これらの微信でのやりとりや通話内容を公開して、徹底的な反撃に出た。

中国人の怒りの炎は、日本人のものより火力が大きく、高温である。

非常識な女とその両親へのバッシングは、より激しくなった。

世間からの猛烈な反発には、さすがの劉鑫も追い込まれたようだ。

某メディアの仲介で、しぶしぶ江秋蓮との面会に同意する。

しかし、2017年8月22日に二人はようやく顔を合わせることになったが、江秋蓮が許すはずもなく、和解には至らなかった。

世に憚る憎まれっ子への制裁

そもそも、一番悪いのは江歌を殺した陳世峰である。

陳世峰は、逮捕後の2016年12月14日に殺人罪で正式に起訴され、翌2017年12月11日に公判が始まったが、江歌殺害の理由を「先に部屋に逃げ込んだ劉鑫が部屋の中から江歌に刃物を渡し、それを持って立ち向かってきた江歌から刃物を取り上げようともみ合っているうちに不意に刺してしまった」とほざいて起訴内容を否認した。

江秋蓮は一人娘を殺害した挙句に、あきれたたわごとを並べる陳世峰の死刑判決を求めて来日、支援者の協力を受けて署名運動を行ったが、日本は犯罪者に甘い。

12月20日に結審した東京地方裁判所による一審判決は脅迫罪と殺人罪による懲役20年であり、陳世峰も控訴しなかったために、この軽い刑が確定した。

中国なら間違いなく死刑だったと江秋蓮は判決に不満を表していたが、まだ肝心な奴が罰を受けずに残っている。

娘が殺される原因を作っておきながら、のらりくらりと責任逃れをし続けた劉鑫だ。

劉鑫に対する訴訟も、起こさないわけにはいかない。

許しがたいことに、劉鑫は全く反省していないどころか、面会の後にも偽名を使ってネット上で江秋蓮のことを「クソババア」だの「全部金のためだ」などとののしり、あまつさえ「あたしはアンタの娘の生前の写真いっぱい持ってるよ。アンタにはやらないけどね」などと、直接メールを送ったりして挑発していたのだ。

しかもその後、このクソ女は名前を劉暖曦と変え、SNSで30万人超のフォロワーを持つインフルエンサーとして成功、広告収入やライブ配信の投げ銭などで、のうのうと人生をエンジョイしていることが判明する。

おまけに、時々事件をネタにしているというではないか。

こんなふざけた奴を、罰しないわけにはいかない。

2018年1月12日に中国へ帰国した江秋蓮は、弁護士に協力を要請して訴訟の準備を行い、2019年10月28日、劉鑫に対して生存権に関する民事訴訟を提起する。

裁判が始まったのは2020年4月15日。

この訴訟で、江秋蓮は劉鑫改め劉暖曦に、死亡した娘の死亡賠償金、葬儀費及び精神的苦痛への慰謝料合計207万610元(現在のレートで約4140万円ほど)を要求した。

一審判決は2022年1月10日に下され、裁判所は劉暖曦に対して約70万元の賠償金支払いを命じた。

要求額の三分の一だったが、江秋蓮は2022年1月19日に一審判決を受け入れて控訴しないことを表明した。

しかし、1月24日になって、あきらめの悪い劉暖曦は一審判決を不服として控訴。

青島市中級人民法院(地方裁判所)で、2月16日から審議が始まった。

とはいえ、中国の司法も言われているほど非情ではない。

むしろ許しがたい行いをした者には、きっちりしている。

2022年12月30日、青島市中級人民法院は、劉暖曦の控訴を棄却。

一審判決を維持し、なおかつ裁判にかかった費用10760元を上乗せして支払うことを命じた。

母の戦いは終わった。正義はようやく果たされたのだ。

ちなみに、劉暖曦は払わされることになる莫大な賠償金を得るために、現在の心境を語った文章をSNSで公開して投げ銭を集めており、驚くべきことに、少なからぬ金額が集まったらしい。

人口が多いと、こんな奴をフォローするばかりか、投げ銭までする変わり者が、まとまった数出てくるようだ。

もっとも、その後、劉暖曦のSNSのアカウントは反社会的であることを理由に削除されて、永久追放となってしまった。

いい気味である。

2023年8月12日、江秋蓮は支払われた賠償金を使って「江歌专项助学基金(江歌特別奨学基金)」という基金を設立した。

学生を支援するための基金である。

経済的苦境から勉学を断念せざるを得ないような若者が、江秋蓮の目には、志半ばで命を落とした娘の姿に重なっていたようだ。

江歌を助けられなかった分、彼らを息子や娘と思って助けてあげなければならない。

その思いから立ち上げたのではないだろうか。

同時に、江秋蓮は江歌がこれからも自分の心の中だけでなく、この基金が存続する限り、人々の心の中で生き続けることを願っているのだ。

出典元―小郭历史、現代ビジネス、朝日新聞

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身勝手な夢が奪った命:2011年鹿沼市のクレーン車事故


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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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正義感が引き起こした悲劇:1989年、片瀬江ノ島駅前暴走事件


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かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

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