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2021年 おもしろ ナルシスト 本当のこと

自称人気者のウザさ – 面白い大学生のリアルな会話


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「自分が愛されキャラだと勘違いしてるよな」
「全く空気読まねえし、普通におとなしくしててもウザい存在感なのに」

水道橋駅近くの、とあるインド料理店で食事をしていた際に聞こえてきた、すぐ近くに座っていた大学生風の青年二人の会話である。

他人の会話など本来興味がないが、すぐ近くで盛り上がり、声が比較的大きいので嫌が上にもその会話が耳に入ってきたのだ。

話していたのは彼らの学校にいる同級生のある女の子について。

論点は異性としての魅力ではなく、その痛々しい言動と暑苦しい存在感のようだが、観察対象としては相当面白いらしく、大笑いしながらその観察報告で盛り上がっている。

「“ね、ね、私って可愛いでしょ?”アピールが半端ねえし」
自分が好かれてると思ってる嫌われ者はタチが悪いよ

大学生にもなって情けない。

そんなにさわやかに他人の陰口を叩くんじゃない。

ウザいだの、嫌われ者だの同級生をこき下ろすなど実にレベルが低い。

そんな大学生による高校生レベルの話はハタから聞いていると、結構面白いのでちょっと聞いてみた。

その青年たちに煙たがられている女生徒、A子はそのズレっぷりがかなり目立って、学校で嘲笑の対象になっている。

彼らに言わせると本人はクラスのセンター的存在のつもりらしく、クラスの飲み会とか旅行とかに自分が誘われないと怒るという。

また、クラスでも華のある女の子グループである「一軍女子(最近ではそんな言い方するのか!)」たちとつるみたがるが、

傍目から見て彼女たちの中でA子は明らかに浮いているし、当の一軍女子たちからは距離を置かれているばかりか、「勝手に友達だと思われて困っている」ともこぼされている始末。

かなり勘違いした子のようだ。

こう言われている以上A子の容貌もある程度察しはつく。

あまり人口に膾炙したルックスではないってことだ。

だが、きっとA子は自分も華のある女性になりたくてなりたくてたまらないんだろう。

その辺の事情もふまえて、君たちもそれくらいでディスるのをやめたらどうか?

しかし彼らの話を聞いてると、そのA子は相手によって対応をガラリと変えるらしく、ルックスのいい相手には猫なで声を出すくせに、ネクラそうだったり地味な相手にはつっけんどんな態度を取り、「キモイ」だの「近寄りたくないだの」陰口を叩くというのだ。

ちょっと憎たらしくなってきた。

私も同じようなのを何人か知ってるからな。

青年たちも私も料理を食べ終わったが容赦ない口撃は続き、私も聞き耳を立て続ける。

「そういやこの前、傑作なこと言ってたぞ」

「何々?どんなこと言ってたの?」

「“私、どんだけ食べても太らない”ってさ」

「あいつ、もうすでにデブじゃねえか!!」

なかなか面白い末期症状じゃないか。

「あと、最近しゃべり方変え始めてるだろ。わざと舌足らずな言葉遣いしたりして、何か不思議系気取ってんのかな?」

「あいつの場合、不思議系じゃなくて不気味系にしか見えねえよ!
「自分は童顔だとも言ってたしな」
「童顔っていうか、ジャック・マーって感じだろ」
アリババ創業者ジャック・マー(馬雲)

彼らはしばらくA子の話で盛り上がって、料理の後に運ばれてきたドリンクを飲み終わった後もしばらくいろいろ言ってたが、他は何を話したか忘れた。

私も飽きてきたので、彼らが出る前に店を出た。

あんな話で盛り上がるとは、大学生のレベルも知れたもんだ。

あの青年たちも、A子も。

でも、私の大学時代もあんな程度だったな。

こんなおっさんになっても聞き耳立ててたんだから、私もレベルが低い。

道理で日本がこんな有様になるはずである。

彼らはどこの大学なんだろう?

水道橋ってことは近くに東大があるが、まさか東大生じゃないだろうな?

だとすればいよいよ日本が危ない。

ひたすら名も知れぬ三流大学の学生であることを祈る。

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高校デビューした少年 – O農業高校とK田の変容の物語


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高等学校の中には、素行不良な生徒の占める割合が異様に高い学校がある。

約三十年前の1990年代のことなので現在はどうか知らないが、私の郷里の県立O農業高校がまさにその典型だった。

大学進学率は一ケタどころか小数点第二位で測定不能、その反面で退学率が二ケタ台で出席番号がしょっちゅう若くなるという凄まじさ。

反社会人予備校か出入り自由の少年院としか考えられない環境の高校で、中学時代はおとなしかった生徒も入学すると悪くなり、悪かった生徒はより悪くなる。

真面目な生徒だと無事にそこでの学校生活を送れないからだろう。

逆教育機関と言っても過言でない学校、それがO農業高校だった。

そんな悪名高きO農業高校に、私の出身中学からも何人かの同級生が進学したが、その多くが見事に同校の校風に染まってヤンキー化。

その中には中学時代によくつるんでいたK田もいた。

K田の高校デビュー

中学時代のK田は真面目というか気弱な生徒で、学業成績も破滅的だった。

中学卒業後の進路を聞かれた時に「高校進学」と答えたら、周囲から「爆弾発言」とからかわれたくらいだから、小学校低学年程度の学力を有しているか日本生まれのヒト科でありさえすれば入学できるとまで言われていたO農業高校しかなかったようだ。

そんなK田と私は同じく気弱で、腕力に劣るスクールカーストの底辺に位置することからそこそこウマが合い、中学では一緒であることが多かった。

卒業後、私は一応進学校の県立O西高校に進学したが、それとは対極のO農業高校に入ったK田とは家が比較的近所ということもあって中学時代の関係は続いた。

K田に異変が生じ始めたのは高校に入学してほどなくだった。

やはり入った高校がO農業高校だったからだろう。

彼は坊主頭だったが、心なしか剃り込みを入れているような気がしてきたし、眉毛の形も以前とは違う。

そして会うたびにその剃り込みは深くなり、眉毛も細くなってゆき、変形ズボンを穿いた本格的なヤンキーに変身するのに夏休みまでかからなかった。

外見にリンクして言動も変化。

「どけや、くそガキども!」と声を荒げて小学生を蹴散らすし、タバコを吸うようになったし(銘柄は「エコー」)、私に対する態度も変わってきた。

極悪校O農業高校の生徒であることをなぜか誇りとし、進学率のそこそこ高い普通科高校の生徒を十把一絡げにシャバ僧とバカにし始めていたからだろうか。

K田の口調はだんだんガラが悪くなり、「ジュース買ってこい」だの「タバコ買ってこい」だの私をパシリ扱い。

この時点で友人関係を解消してもよかったが、私自身まだ高校でつるむ友人に乏しかった頃だったために、彼との付き合いはしばらく続いた。

ヤンキーと言えば格好だけではだめで、ある程度ケンカっ早くなければならないことくらい私でも知っている。

彼もいっぱしのヤンキーを気取っていたから、私にO農業高校の恐ろしさを語り、よく学校の内外で誰かとモメたことを自慢するのが好きだった。

そして、私にも「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかんぞ」だの「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」などと忠告。

おそらく覚えたばかりのケンカのやり方や人の殴り方を頼んでもいないのによく教授してくれた。

こっちは誰かを殴ったりしたら退学になりかねない進学校の高校生なのだ。
はっきり言って余計なお世話であった。

K田の試練~生意気な中学生に対して~

そんなK田のヤンキーとしての資質を問われる出来事が私の目の前で起きたのは、その年の夏休み後くらいの休日だった。

その日、私とK田は自転車に乗って中学時代の友達の家に遊びに行った帰り道、前から歩いてくる我々の出身中学の在校生二人に出くわした。

直接面識はないが、二人とも知っている顔だ。

私の二歳下の弟と同学年の、確か名前はT島とS本で、我々が在学中に一年生だったからその時は中学二年生。

部活帰りらしく中学校の体操着姿のため、悪そうな見かけはしていなかったが、どちらも体格が良くて見るからに強そうだった。

それもそのはず、二人とも柔道部に入っていた記憶がある。

高校一年生の我々が自転車で彼らに近づいた時、中学二年生のT島とS本の顔は我々の方、特にK田に向いているような気がした。

そして通り過ぎた後もこちらを見続けている。

ガンをつけているという程ではないが、ニヤニヤしながらバカにしたような顔でだ。

「なんやあいつら?」とK田は自転車を漕ぎつつ、後ろを振り返りながらイラつき始めた。

T島とS本は相変わらずこちらを見ながらヘラヘラして、挑発しているとしか思えない態度である。

K田は二人を睨みながら「やったろか中坊ども!」とうなり始めた。

ケンカする気なのか?相手は中学生とはいえこちらよりガタイが大きい。

しかもあいつら柔道部だぞ。

私はそう懸念したが、K田の怒りはもう制御不能だった。

「てめえらやんのか!?コラ!!」

K田が中学生二人に向けて怒声を発した。

しかしそれは、

彼らから100メートル以上の距離に達してからだった。

そして前を向くと、そのまま自転車を漕いで遠ざかって行った。

時々後ろを振り返りながら、心なしかスピードを上げて。

振り向いて見てみると、遠くのT島は大笑いし、S本は「来てみろよ」とばかりに手招きしていた。

確かK田は「気に食わん奴がおったらぶん殴ったらなあかん」とか「ケンカにガタイも人数も関係あらへん、根性や!」とか私に言ってたはずだ。

そういうのは範で示さなきゃ説得力がないと思うが。

「あいつら殺したる」と、彼らの姿が見えなくなった安全圏でいきり立つK田のヤンキーとしての資質に私の中で疑念が生じ始めた。

それからさすがにバツが悪くなったのか、ケンカについて講釈を垂れなくなったK田だが、彼の本当の試練はその後日にあった。

K田の最後~本物の不良少年に対して~

中学生たちとの一件から一か月ほど後、私とK田はゲームセンターでゲームをしていた。

ケンカの自慢話はしなくなったとはいえ、K田は相変わらず横柄な態度で私に接しており、高校でまともな友達ができ始めた私は彼との関係の解消を考慮し始めていた頃だ。

我々はゲーム機に隣り合って座り、それぞれのゲームに興じていた。

私はゲームセンター版「ゼビウス」を、右隣のK田は「エコー」をくわえて「スターソルジャー」をプレイし、時々ゲーム機の右隅に置いた灰皿に灰を落としていた。

その日の私は絶好調で高得点を重ねて初めてのエリアに突入。

これからが肝心という最中だった。

横からK田が私をつつき「おいおい、あのさ」と話しかけてきた。

その声はいつものガラの悪い命令口調ではなくやたら切迫した弱々しい感じだった。

「何?」私はゲームに熱中してたので顔を上げずに聞き返した。

「あそこにいる奴なんだけど、こっち見てへんか?」

「え?どこの?」

「あの『アフターバーナー』のトコにおる金髪の奴」

そう言われてから、顔を上げて戦闘機ゲーム「アフターバーナー」の方を見たら、いた!確かに金髪のリーゼントでスカジャンを着た少年がこっちを見ている!

90年代初頭の地方都市O市で、未成年で金髪にしているのはグレ方が半端じゃない奴とみなされていた。

実際その金髪少年は相当悪そうで、目つきのヤバさもかなりなものだ。

グレたばかりのK田とは貫禄が違いすぎる。

そんなのがこっちを睨んでいたから私も思わず目を伏せた。

もうゲームどころじゃない。

横のK田も目を伏せており、「なあ、どうしよう?どうしよう?」とこちらを向いたその顔は今にも泣き出しそうだった。

そんなの私に振られても困る!完全に気弱だった中学生時代のK田に戻っている。

「あ、ヤバイこっち来た!」
顔を上げると、その金髪がタバコを吸いながらこちらに近寄ってくるのが見えた。

再び目を伏せてから隣のK田を見ると、彼はより深く顔を伏せて目をきつく閉じ、膝をがくがく震わせていた。

「おい、オメーよぉ」

その声で顔を上げると金髪はK田のゲーム機の右横まで来て、彼の座っているゲーム機を蹴った。

顔を伏せていたK田がビクッとする。

次にタバコの煙をK田の顔に吹きかけた後、おびえるK田の髪をつかんで顔を上げさせ、「オメー見かけん顔やな、どこのモンや?」と凄み始めた。

金髪は前歯が二本欠けていた。

「あの、あの、O農業高校です」と震えながら答えるK田に、「農業ふぜいがナニ偉そうにしとるんじゃ」と言い放つ。

この金髪の本格的不良少年には極悪校O農業高校のブランドも通じない。

「それとよ、オメーさっきからえれぇ調子こいとりゃせんか?おう?」

「いや、そんな…。別に調子こいてないで…、アチイッ!!

金髪に火のついたタバコを顔に押し付けられたK田が悲鳴を上げる。


「ま、ちょっと話あるからツラ貸せや」

そう言うと髪を引っ張ってK田を無理やり立たせた金髪は私を睨んで、「そっちのゴミは失せろ」と出口に向けて顎をしゃくった。

否も応もあるわけがない。

私は一目散にゲームセンターから退散した。

自転車置き場に置いた自分の自転車のカギを、手が震えてうまく外せない私の耳に「オラ!来いや!」という金髪の怒声と、「すいません!」「勘弁してください!」というK田の叫び声が入ってきた。

それが、ヤンキー少年としてのK田を見た最後だった。

K田のその後

その日以降彼からの連絡がなくなり、見殺しにした私もあえて連絡しようとしなかったが、とりあえず殺されてはいなかった。

何週間かした後で学校帰りのK田と不意にばったり出くわしたのだ。

彼は中学時代と同じ丸坊主で眉毛も剃っておらず、学ランも変形ではなくなって普通の高校生の姿になっていたが、私から目をそらしてそそくさと立ち去った。

私との関係は終了したが、奴はすっかり更生したようだ。

いや、ヤンキー生命を絶たれたのではないだろうか?

あの金髪にヤンキーをやるのが嫌になるくらい怖い目にあわされたに違いない。

あの時のK田の、あのおびえ方を目の当たりにした私はそう感じた。

ヤンキー少年、少なくともK田のような中途半端な即席タイプを、形がどうあれ更生させるのは善良な人である必要はないのかもしれない。

悪いことをすることがどれだけ間違っているかを教えるより、どれだけ怖いことかを分からせた方が効果的なのだ。

それを分からせられるのは本当に悪い奴しかいない。

あの金髪のような本物も使いようによっては、O農業高校のような極悪校の生徒を少しはまじめな学生に近づけることができるのではないだろうか。 

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あわやローン地獄~カーシェアリング投資被害未遂~


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世の中うまい話などそうそうあるわけがない。

知恵も労力も使わず、リスクもなしに金など稼げないのだ。

そう分かっていても、楽して安全に稼げることをうたうスキームは次々出現するし、それを真に受けて地獄を見る者は後を絶たない。

2020年11月20日に東京地裁に破産を申請し、破産手続きの開始決定を受けたSERIAS(セリアス)社によって大きな負債を背負わされて途方に暮れる人々もその類ではないだろうか。

同社とその関連企業は2018年4月より東京で「スカイカーシェア」というサービス名でカーシェア事業を展開。

「高級車はシェアする時代」などと宣伝して、メルセデスベンツ、BMW、アウディ、レクサスなどの高級車を最安24時間6800円とレンタカーより安い料金設定でユーザーを集め、月単位の貸し出しもしていた。

その高級車は今回被害者となった個人投資家に購入させたもので、その投資家が買った高級車を同社が預かって、個人間カーシェアとして貸し出していたのだ。

投資家たちは、

「家を買って賃貸に出す不動産投資の自動車版」、
「レンタカーの『わ』ナンバーではない高級車はシェアの需要がある」

と、車を貸し出して運用に回せば利益を得られるというSERIAS社のうたい文句を信じて出資。

彼らは同社のグループ会社や提携先の中古車販売会社から1台数百万円の高級車を7年ローンで買うことになるが、

毎月のローン代金や保険料、駐車場代などは全て同社から投資家の口座に入金され、

数日後にその代金がローン会社や保険会社へ支払われる(口座やクレジットカードから引き落とし)ため、一切金銭の負担がないという説明を受けていた。

こうして一見するとノーリスクに見える上に、

  • 契約時に車両代金の1割(サービスが始まった当初は一律34万円)が支払われる。
  • 毎月1万円(場合によってシェア利用された料金の5%)の配当。
  • 7年後には期間満了時に100万円(2年契約のケースもあり)が支払われる。

という投資家にとっていいことづくめの条件であり、更には他の投資家を紹介して契約に至ると10万円かそれ以上の紹介料が支払われたため、集まった投資家は600名を超えた。

だが、ローンや維持費を肩代わりしてもらえて、あまつさえ配当が支払われるのはSERIAS社の事業の健全な継続が前提である。

同社は大阪にも進出するなど事業の拡大を順調に見せかけていたが、翌2019年には早くも高金利での1.2億円の資金調達を強いられるなど資金繰りが悪化。

2020年8月にはコロナ禍を理由に「翌9月に2か月分まとめて払う」ことを条件として投資家へのローン代や配当を停止したが、10月には事業そのものを停止。

上述のとおり11月20日に破産が決定した。

SERIAS社の負債は判明分だけで4億円を超えるが、負債を背負ったのは投資家も同じであった。

ローンを肩代わりしてくれるSERIAS社はもう存在しなくなったからだ。

投資家のほとんどは他に自動車ローンがなく、信用情報も真っ白な20代から30代の若者たちであったが、当然年収は年齢に相応して高級車とは無縁の水準に過ぎなかった。

そんな彼らにとっては数百万を超えるローンは荷が重すぎ、自己破産を考えている者も少なくない。

「うまい話を信じる方が悪い」

と世間には彼ら投資家を批判する声が多いが、私はあえてそう思わない、というか思う資格がない。

なぜなら、

私は一歩間違えたらその600名のうちの一人になっていたかもしれないからだ。

2018年6月某日、SERIAS社との遭遇

私が「スカイカーシェア」を知ったのは知人の副業マニアで実業家気取りの会社員K江の紹介だ。

ちょうどSERIAS社が同事業を始めたばかりのころである。

その前年、私は仮想通貨にはまったが、年明けに暴落(これもK江の紹介)。

投入した資金は大したことがなかったので損失もさほどではなかったが、株式以上に暴騰し、黙っていても自分の資産が増えていく仮想通貨取引の快感が忘れられず、「元手ゼロで金が入ってくる話がある」というK江の誘いにホイホイ乗ってしまった。

もっとも、乗り気だったのはK江の方で、今から思えば彼も紹介料がもらえるからだったと思われる。

話を聞いたその日のうちに、彼を通じてLINEでSERIAS社の担当者にアポイントを取り付け、後日池袋で詳しい話を聞くことになった。

そして当日、待ち合わせは池袋駅東口に近い某家電量販店の前。

そこへSERIAS社の担当者と称する人物が見るからに値が張りそうな外車で乗り付けてきた(車に詳しくないので車種はわからない)。

担当者はM田という人物で、SERIAS社破綻後に分かったことだがグループ会社のうちの一つの代表を務めていたようだ。

にこやかな笑みを浮かべ、しゃべり口も柔らかな四十代の人物だったが、何となくまともな仕事をしていたら経験することのないような修羅場もくぐってきたような凄みも感じた。

要するに少々グレーンゾーンの人間っぽい。
実際にもらったM田氏の名刺

私はM田氏の車に乗せてもらって近くの駐車場まで移動し、そこのすぐ近くのコーヒーショップで「スカイカーシェア」のカーシェアリング投資の話を聞いた。

M田氏は一連の説明の中で高級車を自分名義で買うことになるが、ローンはじめ駐車場代や保険料などの費用はSERIAS社持ちだからこちらの負担はゼロであると強調し、毎月の配当も当然保証すると断言した。

怪しい。はっきり言って怪しい。

そんなうまい話などあるものか。

それが本当だとしても、もしSERIAS社が破綻したらローンはこっちに降りかかるだろう。

それにこれって「かぼちゃの馬車」と似てなくないか?

2018年のこの当時、サブリースによる賃料保証をうたい、上京する女性のためのシェアハウス「かぼちゃの馬車」を不動産投資用の商品としてサラリーマン投資家に販売していた株式会社スマートデイズが破綻したばかりだった。

そして、賃料の入金をストップされた多数のサラリーマン不動産投資家が大きな負債を背負わされていたことが問題となっていたことは私も知っていた。

確かに、自分名義で費用はSERIAS社持ちで高級車を購入したら最初に34万+(毎月1万×84か月)+満了時の100万、合計218万円ブラスアルファが手に入るのは魅力だが、

SERIAS社が破綻するんじゃないかと生きた心地がしない状態が7年も続くのはごめんだ。

それにホントに払ってくれるかどうかもわからん。

「まあ、ご検討ください」

M田氏はその場で契約を迫ることはせず「興味が合ったらLINEでご連絡ください」といった感じだったので、

私は「そうします」と答え、そのままM田氏とは別れた。

だが、その時点で実は結構揺れ始めていたことを告白する。
「もし紹介者のK江がやったら自分もやってみようか」

と考えてしまったりもしていたのだ。

K江は翌日早々結果を尋ねてきた。

私は「アンタはやるのか?」と聞いてみたが、彼は不動産に投資するからやるつもりはないとのこと。

そして、何となく危ない部分があって決めかねていることを話すと、「まずはやってみたら?」と無責任なことを言ってきやがった。

バカ野郎。
「まずはやってみた」結果、大損こいたらどうしてくれるんだ!

こいつは自分が損しただけでなく、自分が勧めた案件で他人が損しても「自分にとっても相手にとってもいい経験になったはず」とポジティブにとらえる奴なのだ。

でもな、毎月何もしなくても金が入ってくるのは捨てがたい…。

などと、グダグダ迷っていたら、

一週間もたたないうちに私のLINEの友だち欄からM田氏の名前が消えた。

「脈なし」とあっさり判断されたらしい。

こうして私は何もしないうちにSERIAS社から一方的に縁を切られた。

そして2年後

2020年11月20日、SERIAS社が東京地裁により破産手続きの開始決定を受け、莫大なローンを抱える羽目になった投資家が続出したのは上述のとおりである。

そのニュースを聞いた時、たった2年前のことなのにすっかり忘れていて、「そういや似たような話、身近で聞いたな」と思って調べてみたらまさにそれそのものだったので背筋が凍った。

また、続く報道によりSERIAS社が様々な不正行為を行っていたことも明らかになった。

まず同社のうたうカーシェアリングだが、投資家名義とはいえ事業者が預かって管理している以上、法的にはレンタカーでカーシェアリングの定義からは外れるという。

そして投資家に高級車のローンを組ませるにあたって、年収を水増しして申告させていたこと。

本当は350万円くらいしか年収がない人に600万と偽って記載させたりしていたわけだが、ローン会社も不動産と違って自動車のローンの審査は甘く、そのまままかり通っていた。

この大甘の審査の下、配当が倍になるとSERIAS社にそそのかされて複数台購入して、後により大きな負債を背負うことになった投資家もいたようだ。

更に高級車のオーナーとなっていた投資家たちは自分の車を確認しようと(ローンがある以上、所有者はローン会社となるのですぐ取り戻すことはできない)、SERIAS社の所有していた高級車が停めてある埼玉県の駐車場に向かったのだが、500万だの600万だののローンを組まされた自分の車は査定額が100万から300万円のものが多かった。

投資家たちは法外な値段でボロ車を買わされていたのだ。

もっとも、これは車に詳しい人間だったらローンを組まされる前に気づいていただろう。

投資家たちの多くは車の知識に乏しく、実際に自分名義となった車を見た者も多くはなかったのだ。

私も車のことはよくわからなかったから、だからこそやらなくてよかったのだと本当に思う。

だが自分の車が実は安物だったとしても、まともな状態で見つかった人はまだ幸運だったと言えよう。

車を見つけられても事故で大破していたり、まだ未納で自分の車が存在しない人までいたからだ。

なお、よりヤバいことにSERIAS社が破綻した後も貸し出されている車があり、その利用者を調べて連絡してみると暴力団組員。

車の購入やレンタカーを利用できない「反社」、即ち暴力団員が少なからずこのサービスを利用していたことが判明したのだ。

よって、それらの利用者に返還を求めても当然のらりくらりと逃げられたり、逆にすごまれたりする始末で、しかも彼らが踏み倒した違反料金やコインパーキングの支払いもその車のオーナーとなっている投資家に請求が来る事例があるなど踏んだり蹴ったりだ。

SERIAS社について、その代表は反社会勢力と関係の深い人物であるともされ、ハナッから破綻前提のスキームでこの事業をやっていた可能性もあるなど、まだ明らかになっていない闇の部分も多く、その解明が待たれる。

他の詐欺案件と同じく、被害者となっている投資家に金が戻ってくる可能性はほぼなく、ローンも免除されることもなさそうだ。

危ないところであった。

私もあわやこれら被害者の仲間入りをするところだったじゃないか。

ノーリスクの話は信じちゃいけないし、知識のない分野で勝負してはいけない。

それなりの知識と経験の裏打ちによってリスクに立ち向かう者のみが金を稼ぐ資格があると考えるべきだろう。

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「恩の無銭飲食」と「恩の高利貸し」~悪玉人間たち~


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かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め。

他者にかけた恩は水に流して忘れるべきだ。

一方他者から受けた恩は心の石に刻みこんで忘れてはならないのだ。

恩を仇で返すなんて人としてあるまじきことだし、かけた恩の見返りを求めるのはあさましい限りである。

だがそう理解できるのは、「恩」の概念を正しく、少なくとも世間の標準に近いレベルで解釈できる人間だけである。

世の中には「恩」の概念と定義が世間一般とは大きく異なるか、存在しないとしか思えない輩、「恩知らず」が少なからず存在する。

受けた恩を水に流す奴

普通何かをしてもらったら、その相手に感謝して何かを返そうとするもので、

それを仇で返すのはむろんのこと、

間違ってもすかさず次の頼みごとはできないはずだ。

だが確実にそういうことをする奴、受けた恩をきれいに記憶から消す奴がいる

俗に言う頼みごとの多い奴のことを指し、口癖は「頼みがある」

普通ならば頼みを聞いてくれた相手に感謝して、何かの機会にお返ししようと考えるのが常識だが、

こういう奴の場合、頼みを聞いてくれた相手を「便利なアイテム」として記憶するようだ。

一応「ありがとう」とか「このことは忘れない」とか感謝してるようなことは言うが、

それは感謝ではなく「お前は使える」「今後も俺に尽くせ」と解釈すべきだとしか思えない。

そのくせこちらの頼み事はにべもなく却下する!

「恩の無銭飲食」もしくは「恩の万引き」をする百害あって一利なき癌細胞か悪霊のような奴だと言えよう。

もはや同じ価値観を有する人類とは思えない。

かけた恩を取り立てる奴

確かに他人に何かをしてあげて、何も見返りがなかったら「そりゃないだろ」と思いたくもなる。

だが、露骨に見返りを求めたら、それは相手方にとって「恩」ではなくなる。

別の意味において「受けた恩を水に流す奴」の逆で、他人にかけた恩をいつまでも忘れず、あまつさえ取り立てようとする輩も世の中にいる。

分かりやすく言えば恩着せがましい奴のことだ。

こういうタイプに限ってやってくれたことは大したことではないか、こちらが頼んでもいないことで、

それに見合わない過大な恩返しを要求してくるのだ。

自分のかけた恩と相手が感じるべき恩、そして返すべきお礼を勝手に数値化して査定、しかもそれを水増ししており、

「恩」を債権とみなして利子までつけ、なおかつ高利である。
そして、「俺はこれをやってやったんだから、お前はあれをやるべきだ」と“抵当権”まで具体的に設定している場合もある。

だからこちらが完済(恩返し)したと思っても、まだ残債が残っているとみなして延々恩返しを要求してくるのだ。

私はこういう輩のことを「恩の高利貸し」、もしくは「恩の闇金」と呼んでいる。

ひょっとしたら債権ではなく、株式を取得したと考えてそれをたてに取る「恩の総会屋」「恩のクレーマー株主」と呼ぶべきなのかもしれないが、

ダニか寄生虫のような奴であることには変わりはない。

精神の自己免疫力をつけよ

俗にいう「恩知らず」は恩を仇で返す者を指すようだが、

以上二つのタイプもまた恩の概念を正しく理解していない点では「恩知らず」にカテゴライズされるべきだと思う。

人として生きる上で、冒頭の「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」を旨にすべきなのはもちろん、

これら「恩の無銭飲食」や「恩の高利貸し」をする「恩知らず」になってはいけないのは言うまでもないだろう。

そして何より、無銭飲食」や「高利貸し」をさせないようにすることも重要なのだ。

人間関係も自然環境と同じ、善玉ばかりではない。

かような悪玉が存在し、それはウイルスや雑菌に似て意外と身近に潜んでいる。

健康的な人間関係を維持して社会生活を送るには身体の健康と同じく、精神の自己免疫力や抗体を持つ必要もあるのだ。

「ウチで無銭飲食か万引きしたら覚悟しておけ」「取り立てられるなら取り立ててみろ」というオーラと気迫こそがその精神の自己免疫力や抗体にあたり、二足歩行するがん細胞や寄生虫を近寄らせないのだ。

そういった人間が「かけた情けを水に流し、受けた恩を石に刻め」ば、彼もしくは彼女はもはや人間関係において何も恐れるものはないであろう。

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地球破壊兵器? – 反物質兵器の可能性と危険性


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反物質兵器とはエネルギーや推進剤又は爆発物にもなり得る、けた外れのパワーあるいは破壊力を有する兵器であって、SFなどのフィクションの世界でたびたび登場する。

しかし現実の世界においてもそれを実現させようという試みがすでに始まっている。

米国は冷戦の時代にはすでにその壊滅的な破壊力に着目し、軍事利用のための反物質関連の研究を助成してきた。

反物質は物質と衝突させると質量が100%エネルギー(高エネルギーのガンマ線)に変換できるため、その軍事的な利用価値は極めて高いからだ。

ちなみに、核融合反応を利用する水素爆弾はおよそ0.7%の質量エネルギー変換をしているに過ぎないことから、反物質を軍事利用した場合の威力がご想像いただけるであろう。

核兵器よりはるかに危険になりうるかもしれないこの兵器、果たして現状ではどれほど研究が進んでいるのだろうか?

反物質とは?

我々の周りの物質はいずれも原子からなるのはご存じのとおりだ。
どの原子も電荷を持たない中性子とプラスの電荷を有する陽子からなる原子核と、その周りでスピンするマイナスの電荷を有する電子から構成される。
水素や炭素、酸素などの種類の違いは原子核を構成している中性子と陽子、それに対応した電子の数の違いによる。
つまり物質とは全て陽子・中性子・電子から成り立っている。

一方の反物質とは、我々の知る物質に対して質量とスピンが全く同じだが、構成する素粒子の電荷などが全く逆の性質を持つ反粒子によって組成される。
例えば、電子はマイナスの電荷を持つが、反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。
中性子と反中性子は電荷を持たないが、中性子はクォーク、反中性子は反クォークから構成されている。
反物質の原子核は外側を反電子たる陽電子に覆われ、反陽子と反中性子からなる「マイナスの原子核」であり、 こうした反粒子からなる物質が反物質と呼ばれるのだ。

反物質とは、宇宙の主要部分を構成する一般的な物質が「鏡面反転」された、反対の性質を持っている。

それを例えて言うと、鏡に映る自分が現実に目の前に現れたならば、その目の前の鏡の中の自分は左右が逆である以外は自分と同じ「反自分」と呼ぶのと同じなのだ。

この反物質は自然界にはほとんど存在しないが、その存在は1928年に物理学者のポール・ディラックによって予言され、20世紀を通じて研究が進んで、1995年には欧州原子核研究機構(CERN)とドイツの研究チームが反陽子蓄積リングによって陽電子と反陽子からなる9個の「反水素」の生成に成功。

この反水素は一億分の三秒で反陽子と反電子に分かれてしまったが、人類はすでに反物質を作り出すことができるのだ。

対消滅の効果

そして反物質は人類が発見した中で最も強力なエネルギー源であり、爆発物となり得る。

物質と反物質が衝突すると対消滅という現象を起こし、光子又は中間子となって巨大なエネルギーとなって放出されるからだ。

アインシュタインの相対性理論で有名な質量とエネルギーの関係を示す等式E=mc2によると、反物質は微量でも驚くほど大きなエネルギーを生成することができ、 100%の効率で放射状にエネルギーを放出する。

米国のランド研究所による反物質実験の報告書によると、1グラムの反物質と1グラムの物質が衝突して対消滅すると、放出されるエネルギーは5×107キロワット/時(約6メガワット/年)に達するという。

それは同じ質量での中性子とウラン235原子核の核分裂反応の約1054倍であり、セシウム原子核の核融合反応の約266倍のエネルギーに相当する。

したがって、反物質はエネルギー問題を決定的に解決する「エネルギー革命」を実現することができ、亜光速ロケットの推進燃料に利用することも不可能ではない。

だが反面、反物質を兵器として使用した場合には上記のとおり原子爆弾の1064倍、水素爆弾の266倍の超ド級の大量破壊兵器となる。

そして、その軍事利用に向けた研究はすでに始まっているのだ。

軍事利用

反物質の軍事的な利用方法は主に以下四つである。

第一に超高速ミサイルの推進燃料。

第二に宇宙軌道上の軍事ステーション、その他の分野での超小型・超軽量エネルギー発生器。

第三に水素爆弾を起爆するための「核トリガー」。

第四に任意に調整可能な反物質爆弾である。

米国を主とした西側の核保有国は、第四の反物質を弾薬として使用する反物質兵器に関心を持っているらしく1983年より、米国のランド研究所での実現可能性研究を開始しているという。

研究によると、100万分の1グラムの反陽子と陽子が対消滅(爆発)後に放出するエネルギーは37.8キログラムのTNT爆発物に相当する。

1グラムの反物質は約4万トンのTNT爆発物に相当し、これは広島に投下された原子爆弾のエネルギーとほぼ同じである。

また、数マイクログラムの反物質は、熱核反応のトリガーとして、あるいは強力なX線バーストまたはγレーザーを励起することができる。

反物質の量を調整することによって、威力も用途も変えることができるのだ。

米国国防総省は2008年9月、コードネーム「反物質特別攻撃2008」というコンピューターシミュレーション演習を行った。

その内容とは以下のものである。

201X年、一名の工作員が某極東大国の首都に反物質時限爆弾を持って潜入、首都中心部の同国軍参謀本部ビル近くの公衆トイレに反物質時限爆弾を設置する。

撤退後にその爆弾が爆発すると、同国軍参謀本部の建物と関連施設は跡形もなく灰燼に帰すが、その工作員が運んだ反物質はたった5000万分の1グラムである。

その後、反物質パルス爆弾が同国の電力・通信ネットワーク関連施設の上空で爆発、その瞬間から、同国の軍事・社会活動は完全に麻痺する。

演習の後、米国国防省の将軍は「反物質爆弾は数グラムで地球を破壊する」と驚嘆した。

西側ではかような性能を有する反物質兵器を第四世代の核兵器に分類している反面、恐ろしいことに「通常兵器」として通常の戦争や地域紛争で使用可能とみなしているらしいのだ。

反物質兵器の利点は、エネルギー密度が高く、起爆が容易であり、原子爆弾のように核分裂反応に必要な臨界量のために体積を減少させることができないことはなく、水素爆弾のように核融合反応に必要な高温を得るために原子爆弾による起爆もいらないなど数多い。

そして何より反物質爆弾が従来の核爆弾と大きく異なる利点は、水素爆弾と同等の破壊力を持ちながら爆発時に電磁波のみを発生させ、核放射を発生させないことである。

生物や植物を放射能で汚染しないため「きれいな水素爆弾」だからというのが「通常兵器」とみなしている理由だ。

その一方で、プリンストン大学高等研究所の歴史家で科学者のジョージ・ダイソンは、「クリーン」な反物質兵器は「汚い」核兵器より恐ろしいと指摘する。

実戦に投入される可能性がより高いからだ。

もしアメリカが反物質兵器を開発すれば、核兵器のような放射能汚染の心配がない分通常兵器として扱われ、米軍は戦場でより傍若無人になるだろう。

だが、幸いにもそれは今すぐではないようだ。

反物質兵器開発の前に、反物質自体の生成にはまだ越えなければならない技術的障壁があるからだ。

技術的難点

反物質兵器開発への最大の障害は、反物質の生産と貯蔵にある。

天然資源として埋蔵されているわけではなく、実用に十分な量の反物質を安価に生産する方法がまだないのだ。

既存の技術では、高価で大規模な粒子加速器を必要とし、大都市の総電力に相当するエネルギーを投入して、ようやく非常に少量の反物質が得られるか否かである。

現在最大の粒子加速器を使用するCERN(欧州原子核研究機構)でさえ、1グラムの反物質を生産するのに40億年かかる。

現代の科学技術では1000億分の1グラムの反物質を生産するのに60億ドルの費用が必要ともされる。

反物質の保存についても問題がある。

巨大な設備を必要とする強力な電磁界ではなく、ボトルに詰め込むなど小さなスペースに十分な量の反物質を保存する方法がまだないのだ。

また、物質と反物質が衝突することで起こる対消滅のメカニズム自体にも本質的な解明がなされているわけではなく、さらなる研究が待たれる。

仮に開発に成功したとしても、反物質爆弾の備蓄は技術的に難しいものになるだろう。

通常の核兵器であっても保管や安全性の確保が容易ではないのだ。

ましてや反物質は普通の物質ではなく、強力な磁場エネルギーによって閉じ込め続けなければならない。

この強力で断続的な磁場エネルギーは、より高度で信頼性の高い設備だけでなく、維持するための巨大な電気エネルギーも必要となる。

したがって、反物質爆弾の運用は容易ではない。

そして反物質爆弾の安全性の確保も問題となるはずだ。

巨大な技術的リスクがあり、一旦制御不能になると他国を攻撃する前に自国が消滅する。

反物質爆弾はTNT爆薬相当で1kgから1兆トンまで威力を調節することができるが、 地球自体をも破壊できるため、より大きな人類滅亡への脅威が一つ加わることを意味する。

近年の進展

反物質爆弾の開発にはまだほど遠いが、反物質に関する研究は21世紀になってからも着々と成果を挙げている。

2002年 欧州原子核研究機構で日本を含む国際共同研究実験グループが、5万個ほどの反水素の大量生成に成功。

2008年10月、米軍関連の研究者が100万分の1グラムの反物質を生成するコストを10億ドルから1憶ドルに削減する方法を発見。

2010年11月 欧州原子核研究機構で日本を含む国際共同研究実験グループが、反水素原子38個を磁気瓶に閉じ込めることに成功(反水素原子の存続時間は0.2秒間)。

2011年4月、米ブルックヘブン研究所(BNL)の実験により、これまでで最も重い反物質である「反ヘリウム原子核」が合成された。

10億回の金原子核の衝突によって生じた5000億個の荷電粒子の軌跡を調べたところ、その中で18個が、反ヘリウム原子核と思われる軌跡であった。

これ以上重い反原子核は生成確率が非常に低いため、現時点で人類が手にすることの出来る最も重い反物質である。

2011年6月、欧州原子核研究機構で日本の理化学研究所や東京大学含む日米欧などの国際共同研究実験グループが、反水素原子を1000秒以上閉じ込めることに7回成功。

2017年11月には、雷によって空気中で反物質が生成され、対消滅を起こしている事が報道された。
対消滅ガンマ線を検出した事が証拠とされる。

2020年3月、欧州原子核研究機構(CERN)は水素の反物質の双子である「反水素」を従来より長く閉じ込める方法を発見した。

反物質爆弾と我が国

反物質の研究が今後大いに進展して大量生産や備蓄ができるようになれば、有限で環境を汚染する化石燃料や危険な原子力に頼らなくてもより効果的な発電が可能となり、エネルギー問題はほぼ解決されるかもしれない。

亜光速ロケットの燃料とすることも夢ではない。

しかし反物質がエネルギー源として実用化されるようになった未来には、反物質爆弾も必ず開発に成功し、現実にある脅威として存在しているはずだ。

人類とはそういうものだ。

核兵器の恐ろしさを認識しながらも、開発研究を続けたように。

我が国は唯一の被爆国として、核兵器の廃絶を願っている。

しかし、核兵器は決してなくならないし、なくなるはずがない。

かような大量破壊兵器を、どの国も持っていなかったら自国は持とうとするし、

他国が持っていたら、なおさら強力なものをより多く持とうとする。それが人情だ、国際標準の。

その核兵器を廃絶させるのは無理にしても新たに開発するのを断念させ、あわよくば削減せしめるのは、核兵器を陳腐化させるほどのより効率的で破壊的な兵器の出現こそが現実的だと思わざるを得ない。
すなわち、反物質爆弾である。

我が国こそ、反物質爆弾を開発すべきである。

核戦争の悲劇はまず我が国で繰り返させないことから始めよう。

米国による核の抑止力以上の、自前で問答無用の抑止力を保有するのだ。

非核三原則や憲法第九条にはない圧倒的な凄みで仮想敵国ににらみを利かせ、平和を維持するだろう。

日本の国際的な地位も否応なしに上がる。

我が国がやらなくても、きっと他の国が開発する。

その国によっては取り返しのつかないことになるだろう。

他国が持つより我が国が持った方がはるかにましなはずだ。

国家百年の大計のためにも、反物質爆弾の開発と保有にまい進すべきである。

出典元―百度百科及びWikipedia

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クリスマスバカ屋敷 – S村家のクリスマスイルミネーション

「メリークリスマス」

私が終生口にしないであろう言葉だ。

私がそれを言い出したならば、私の体が何者かに乗っ取っられたか、脳に重大な損傷を被ったものと考えて欲しい。

私にとって12月24日や25日は、単なる12月24日と25日以外の何者でもない。

世間ではイブだのクリスマスだのと、それらの日が来る一か月以上も前から騒いでいるが、断固私には関係がないのだ。

もっとも、小学校の頃まではこの時期になると何の疑問も持たずにクリスマスケーキだ、プレゼントだ、とはしゃいでいた。

だが小学校四年生の12月、母親が「今年から我が家にサンタは来ない」と宣言。

理由は父がサンタとモメたからだという。

それ以来我が家にサンタは来なくなり、クリスマスツリーも飾らなくなった。

当時からどう考えてもクリスマスプレゼントでの出費を抑えたい母にハメられたとしか思えなかったが、小学校六年の頃には「そもそもなぜキリシタンが少ない日本にクリスマスが必要なんだろう?」とも冷静に考える母の願いどおりの子供になっていた。

臨済宗妙心寺派信徒の我が家を含め、キリシタン以外の大半の日本人には全く関係がない習慣ではないかと。

だいたい、キリスト教は異教徒をも感服させ得る宗教なんだろうか?

歴史オタクの私は歴史を研究してゆくにつれ、世界史上キリスト教会がどんなことをやらかしてきたか分かってきて、もう無条件にありがたがることができなくなった。

それ自体は素晴らしい教えかもしれないが、あまりにも人類に都合よく利用され続け、血に染まりきっていると感じざるを得ないのだ。

キリシタンがクリスマスを祝うのは当然だし、私に口を出す権利は全くない。

だがキリシタンでもない日本人が、商業主義に毒されたとはいえここまではしゃぐのは実に滑稽ではないだろうか。

そんな思想を小学生の時から持っていた私が大学生の頃のことだ。

この日本原理主義者である私を激しくあ然とさせる屋敷が下宿先近くに存在した。

その屋敷、S村邸は広い敷地に重厚な純和風建築の家屋と見事な回遊式日本庭園を有した、まさに屋敷と呼ぶにふさわしい堂々たる風格を備えていた。

住人は60代の初老の夫妻で、その屋敷に住まうに足る貫禄と品格の持ち主に見えた。

だが、12月になるやその屋敷と住人の高貴な佇まいを完全にぶち壊す有様に変貌する。

クリスマスのイルミネーションで、家屋から庭からギンギラギンに飾り立てるからだ。

あの上流階級然とした趣の夫妻のどちらがやっているかは分からないが、とても同じ人たちのしわざとは思えない。

普段は入園料が取れるほど趣味の良い日本庭園に整えられているのだが(塀が意外に低いので敷地内がよく見えた)、ズレまくったデコレーションがその景観を完全に殺しているのだ。

よく整えられた庭木をすべてクリスマスツリーに改造し、LEDのイルミネーションでぐるぐる巻きの灯篭の上には同じくイルミネーションで緊縛されたサンタ。

同じくLEDの電飾が光る母屋の黒壁をよじ登るのはモチーフライトのサンタの大軍、瓦屋根の上にはトナカイの群れ。

立派な造りの玄関の前には門松がごとくごついクリスマスツリーが置かれ、その脇には巨大なスノーマンが仁王立ちだ。

レイアウト的に見て明らかに何かがおかしく、大きく調和を乱しており、その惨状は派手と言うより悪趣味と言った方がふさわしいカオスぶり。

しかもその照度は某遊園地のエレクトリカルパレードを超越して、パチンコ屋かラスベガスのレベルに達する。

真夜中まで点灯し続けている時もあって、明らかにその一帯の住民の睡眠を妨害しており、その前に自分たちもよくこれで眠れるなと感心するくらいであった。

私は一年生から同じ下宿で暮らしていたが、S村家は毎年12月になると性懲りもなく同じことをしていた。

この凶悪な自己満足に対して、近所の住民は何も苦情を言わなかったのだろうか?

私が大学五年生の夏(留年した)、そんなS村家で不幸があった。

誰かが亡くなったらしく、葬式が行われていたのだ。

12月は奇特で近所迷惑なイルミネーションで家を飾り立てるくせに、葬式はいたってまともだった。

ていうか「あれほど派手にデコレートするからには、さぞかし敬虔なキリシタンなんだろうな」と以前から信じていたが、葬式はコテコテの仏式。

家の塀を黒白幕で囲い、家の中からはコテコテ木魚の音が聞こえて来る。

そういえば毎年12月25日以降屋敷からクリスマスのイルミネーションが撤去されたとたん、玄関にごつい正月飾りや門松が何食わぬ顔で出現してたものだ。

屋敷の規模にふさわしく、参列者も外の花輪も多い大がかりな葬式だったから、慶弔事は決して手抜きしない家のようだ。

後で下宿の大家から聞いたが、亡くなったのはこの家の主人の方らしい。

S村家とは何の交流もないが、ご愁傷様である。

人死なば皆仏、「クリスマスはあんだけやりすぎるくせして葬式は坊さん呼ぶのか」とか心で毒づくのも控えて、一応私も日本人だからそばを通り過ぎながら心の中で合掌しよう。

同時に、こうも思った。

「今年はさすがにイルミネーションやらんだろう」と。 もし主人の方が主犯だったら本人は死んだわけだし、夫婦が共謀してたか夫人の方が主導してたとしてもやるわけがなかろう、日本人ならば身内が死んだのにそんな罰当たりはできるはずがない。

だが、甘かった。

その年の冬

追悼と言わんがばかりに一段と凶暴にド派手なイルミネーションがS村家を覆っていたのだ。

同時に、毎年のイルミネーションは残されたS村夫人のしわざだったことを確信した。

喪に服すべきではないのか?

ある日、私はたまたま近くを夕方に通りかかった時に、相変わらずイタいS村家のイルミネーションにあきれ果てたまなざしを向けてそう思っていた。

「いかがです?きれいでしょう?」

いきなり、後ろから声をかけられてギョッとした。

声をかけてきたのは初老の女性、未亡人となったS村夫人だ。

罰当たりの張本人である。

この見るに堪えないイルミネーションの作者本人は自分の作品にご満悦らしく、私に話しかけた後も満足げにギラギラ光る屋敷を見渡している。

傑作だと、本気で思っている顔だった。

この人の感性と視覚は人類一般とは違う種のものに属すると思わざるを得ない。

だが、「ウケ狙ってんのか?このなんちゃってキリシタンが!」というような本音を、いざ本人に面と向かって言えるわけがない。

どころか反射的に「いやあ、毎年見事ですね」と心にもないことを言ってしまい口が腐りそうになったが、その見え見えの社交辞令に対してS村夫人は耳を疑う返答をした。

「皆さんそうおっしゃってくださるんですよ」

冗談だろ?真実を言える人間は近所にいないのか?

それから夫人は褒められて得意になったのか、このデコレーションについて語り始めた。

何でも自分は幼少から欧米の文化習慣へのあこがれが強く、純洋風の暮らしをしてみたいと思っていたが、亡くなった主人のこだわりで自宅もこのような純和風の造りになってしまったという。 それを主人は申し訳なく思ったのか、代わりに12月だけは好きに家を飾らせてくれるよようになったらしく、夫人の暴走が始まった。

そして自身が目指すテーマがあるらしく、それは極上の「和洋折衷」だと真顔で力説。

そういう経緯でこの「洋」が「和」の息の根を完全に止めた異次元空間が出現したのか、とも言い出せない私は我慢して夫人の電波話を拝聴し続ける。

最初は家の中だけにしていたが、だんだんと庭や屋根も飾るようになり、今ではこんなに「華やかでゴージャス」になったんだそうである。

毎年自分が設計した家や庭の実際の飾りつけや撤去は業者を雇ってやらせているとのことで、どうりで毎年突然イルミネーションが出現して、25日以降突然消えるわけだ。

だが、語っているうちに

「私の趣味に理解を示してくれた主人に報いるためにも、今年は一段ときらびやかにしたんです」

と夫人は涙ぐみ始めたりして、私はどう反応すればよかったのだろうか。

また、独立して家を出た息子や娘はそろって「みっともないからいい加減にしてくれ」と言ってるらしく、一応子供は真人間に育ってるみたいなので少し安心したりもした。

しかし、子供たちに反対されていても「私は決してやめませんよ」と断言。

「学生さんのように楽しみにしてくださる方がいらっしゃる限り続けます」

と、私に向かい目を輝かせて決意表明されるにおよんで同好の理解者と認識されたことが分かり、甚だ遺憾である。

「もう来年のレイアウトも考え始めているんですよ」とも語り、私もさっさと帰るべきなのに迂闊にも色々質問を発してしまったりして、イルミネーション談義の泥沼にはまり込む。

どうもS村夫人は天然爆裂のキャラのようでいて、話す相手に本音とは違う心にもないことを言わせる話術とオーラの持ち主らしい。

最後に

「来年はもっと素敵にしますから、楽しみにしてくださいね」

と解放してくれたが、私は「来年卒業です」と言いそびれて

「すごく期待してます」

と答えてしまい、崩壊寸前の自身の信念に自らとどめを刺してしまった。

翌年、幸いにも無事大学を卒業できて下宿を引き払ったため、名物S村家の名物のイルミネーションを拝まされることはなくなった。

だが、12月になると今でもあののS村家のカオスなイルミネーションが目に浮かぶ。

あんだけケバケバしかったんだから嫌でも目に焼き付いてしまっている。

とは言え、実際に話したS村夫人は不思議系でシュールな人だったが、イルミネーションのセンスの悪さと独りよがりな芸術家肌ぶりを除けば人柄の良い人物ではあった。

あのキャラを思えば、度を超えて勘違いしたイルミネーションも今となっては懐かしい。

二十年以上前の90年代後半のことだが、まだお元気だろうか?

まだご存命で、変わらず屋敷をS村夫人ワールドにしていたならちょっとうれしい、わざわざ見に行く気は全くないけど。

もしお亡くなりになられていたならば、来世は誰憚ることなくクリスマスではしゃげるアメリカあたりの敬虔なキリスト教徒の上流家庭に輪廻転生できることを願っている。

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2020年鎌倉の旅 – 図書館の本を弁償した日帰り鎌倉旅

うっかりコーヒーをこぼして、図書館で借りた本を汚してしまった。

返却日、その本を図書館の返却箱に黙って入れてシレーっと帰ろうとしたが、職員に見破られて逃走を阻止され、弁償する羽目に。

『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』、1650円なり。

ちょっと汚しただけなのに、あんまりだ。

本屋で買うと高くつきそうなのでアマゾンで探したが新品しかなく、結局本屋で購入して図書館に持って行った。

私の手元に汚してしまった『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』が残った。

自分が悪いとはいえ、結構シャクである。

この元は断固取らなければならない、せっかくだからこの本をフル活用するべきだ。

そういうわけで、私は汚染された『大人の遠足BOOK』に記載の神奈川県鎌倉市を目指して、自宅の東京都から250㏄のバイクを走らせている。 私は位置情報ゲーム『ケータイ国盗り合戦』のヘビーユーザーだ。

鎌倉には、まだ未制圧の地域が多いからちょうどよい、とも自己暗示をかけて。

鎌倉はご存じ名所旧跡の宝庫だが、あまりじっくり見たことがない。

いい印象がないからだ。

最初に鎌倉を訪れたのは、中学校三年生の修学旅行の第二日目。

中学の修学旅行と言えば、楽しいことだらけの一生の思い出になるはずで、小学校六年生の時から楽しみにしていた。

だが、三年間待ちに待った修学旅行の初日、最初の目的地『東京ディズニーランド』で、他校の不良中学生に因縁を付けられ恐喝された。

それだけでもかなりの悲劇なのに、その日の宿で同じ部屋の奴らにパンツを脱がされてカイボウされるわ、翌日の国会議事堂見学では同じクラスのヤンキーに肩がぶつかっただけでどつかれたのに、担任は知らんぷりするわで、踏んだり蹴ったり。

そんな立て続けの災難のショックによる放心状態で、鎌倉の街を歩き回った記憶があるから、楽しい思い出になるわけがない。

だが、今やもう四半世紀以上も過去の話で「怨念の半減期」は、はるか前に過ぎているから、こうして鎌倉の街に落ち着いて来ることができる。

だが、ちょっと本を汚しただけなのに、冷酷に弁償を請求してきた図書館職員への「逆恨みの半減期」は、まだ先の話なので、道中頭をよぎりっぱなしだった。

私が住む町から鎌倉までは地味に遠く、到着したのは正午過ぎ。

最初の見学地は、13世紀建立の円覚寺だ。

と言っても、あまり綿密に計画も立てずに旅行する私の常で、たまたま最初に目についたのが円覚寺だったということである。

だが、円覚寺はバイクで来る人お断りらしく、駐車場はあっても、バイク駐輪場はない。

よって路肩に駐輪せざるを得なかった。

「駐禁とられたらどうしよう」とか「近所の元気者に壊されてたらどうしよう」とかの不安を抱えながら、競歩のように境内を歩き回っての見学を強いられた。

次の目的地、建長寺は円覚寺からほど近い場所にあり、しかもバイクを停めてもよい駐輪場を備えた懐の広い寺院だ。

やっと落ち着いて見学できる。

建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山、1253年)の創建で開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆であるため、総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物は大陸的に中軸上に並ぶ伽藍配置をしている。

その中でも三門・仏殿・法堂は重要文化財であり、他に国の史跡及び名勝に指定されている建長寺の方丈庭園は禅宗庭園独特の趣が…。

もう帰ってもいいだろうか?

私は位置情報ゲームにはまっているし旅行も結構好きだが、生来外出するとすぐ帰りたくなる性格で、こうしてはるばるやって来て名所旧跡を前にしても、心は自分の家にある。

寝床から1000メートル以上離れると、ストレスを感じるのだ。

だから遠くの博物館でも遺跡でも到着しただけで満足し、いつもサッと見てサッと出て来てしまう。

そして帰ったら帰ったで「なぜもっとじっくり見なかった?」と、死ぬほど後悔している。

今回も歴史は繰り返した。

異例の早さで建長寺の見学を終わると、次の目的地とした報国寺は一応無理やり行ったが、鎌倉は他にも見どころがあるにもかかわらず、自宅への望郷の念にもう堪えられなくなっていた。

『ケータイ国盗り合戦』のエリアもあまり攻略できなかったが、もういいだろう。

さっさと飯食って帰ろう。

せっかく鎌倉来たんだから鎌倉らしいものを食べるべきだが、鎌倉の飲食店はどれもやや高めなのにひるんで、帰り道で適当に何か食べることにした。

鎌倉から国道1号に入り、その沿線の某ラーメン店に入る。

しかし入った店は「まずい」「出てくるのが遅い」「少ない」「高い」の四冠王で、「店内が汚い」「店員の態度も横柄」というタイトルまで保持した極悪店。

昼飯時を過ぎて客が少なかったのに、何で出てくるのに二十分もかかって、『昔ながらの醤油ラーメン』一杯900円なのだ?値段だけは未来志向か?

後味が悪いモノ食わされて高い金とられ、時間までロス、おまけにその後、道に迷った。

余計イラつきながら帰りを急いでいたら、後ろからサイレンの音。

「はい、そこの多摩ナンバー○○-○○のバイク停まりなさい」

白バイだった。

一時停止違反で点数二点引かれて、罰金6000円なり!

さんざんな日帰り旅行だ。

思えば、コーヒーで汚した本を弁償させられたのがシャクで、どうせならその本を思いっきり活用しようと思って出かけたんだよな。

その挙句、貴重な時間を使って罰金取られて、損害が倍増しだ。

でも一方で、今回は修学旅行の時に見れなかった建長寺や報国寺も見ることができた。

それに、あまりエリアは攻略できなかったが今まで未踏だった神奈川県三浦・湘南地方にも進出できた。

悪いことばかりじゃないじゃないか。

そう冷静になって、よーく考えてみた。

しかし冷静になればなるほど、どう考えてもプラスマイナスで言ったら、明らかなマイナスだったという結論しか導き出せない。

得られたはずのプラスが得られず、避けられたはずのマイナスも余計に被っている。

だからやっぱり、

出かけなきゃよかった!!

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相談を殺す者たち – 悩み相談での失敗エピソードと教訓


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悩みごとや困ったことがあって人に相談したはいいが、解決にならないどころかその相談相手の言うことに腹が立ったり、却って悩みがより深刻になったりしたことはないだろうか?

そりゃ、確かに悩みを抱えた人間の相手をするのはめんどくさい。

でも、せっかくこっちが苦しい胸の内を吐露しているのに、ボケたような返答をされたり、余計にガチャガチャにされたりすると腹が立たないか?

今まで何人もそういう奴に出くわしてきた。

みみっちい性格の私は、時々思い出してはムカッと来る時があって、今日はどうしても我慢ができないので、特にタチが悪かった奴を告発してやる。

●ケースその1―中学の同級生・K原Y之―

こいつは、二十年以上経った今でも本当に頭にくる。

K原は中学の同級生で、お互い別々の大学に入学してからもよくつるんでいた男である。

中学時代から、自分に興味がない話は明らかにスルーしていることが多かった気がしていたが、長年の付き合いだからと心を許して悩みを打ち明けてしまった私も愚かだった。

あれは私が前から狙っていた後輩の女子生徒にコクって、けんもほろろに断られたことを、居酒屋で一緒に飲んだ際に愚痴った時だった。

私の愚痴がまだ終わらないうちに、K原は「オレが今付き合っている彼女なんだけどさ…」といきなり自分の彼女のことを語り始めた。

最初、自分の場合どうやって付き合うようになって、その経験から私の場合ならどうすればよかったかを分析しようとしてくれてるのかと思った。

だが、その彼女と普段どこへ遊びに行くかとか、自分にベタ惚れだのセックスの相性はサイコーだの、いつまでたってもおのろけ話が終わらない。

そして、いつの間にか元カノについて話がおよび、更にその前の彼女やらナンパして食った女も含めて、今まで二十人以上経験したとか、聞き流すのがだんだん限度になり始めた直後で、「まあそんな感じ」と結んだ。

話聞いてたか?私のさっきの相談は一体どこ行った?

「そんな感じ」で話は終わったようだが、今の話はどう私のためになったんだ?

相談を自慢で返してくるとは思わなかった。

そん時は他にも人がいたので怒りを奇跡的に我慢したが、本当に腹が立ったのは就職活動の時だ。

当時は就職氷河期真っただ中で、私は八月になっても内定をもらえず焦っていた。

そして、よりによって私は再びK原を相談相手にしてしまった。

その日、我々二人は居酒屋に入り、酒席で私は自分の苦境を打ち明けた。

私:「Nネットワークもダメだったし、この前受けたS工業も今日不合格の通知が来た、もう後がない。どうしよう?夏休みなのにまだ休めない」

K原:「俺はPアプリケーション株式会社の内定もらってたけど、W製作所に行くことに決めた。すごくない?夏休みは彼女と韓国に行く」

分かってて言ってんのか?

こいつはひょっとしたら、相談を受けた場合のあるべき対応、はたまた相談という概念自体が脳内に存在しないのだろうか?

長年の付き合いだが、こいつと私の脳内のOSは、ここまで異なるものだったのだろうか?

「あのなあ、そういう話じゃなくて、俺は今…」

「それよりさ、相談に乗ってやってんだから、今日はお前のおごりだからな」

一応相談だということは分っていたらしい。

結論、こいつは私にケンカを売ってる。

その後、私が吼えたため、居酒屋の他の客が静まり、店員が割って入ってくるほど場が険悪になった。

この一件でK原とは断交し、それ以来、連絡は取っていない。当然だろう。

K原は極端な例の一つだったが、相談にならないバカは世の中にまだまだ存在した。

●ケースその2―以前の会社の上司・S山T三―

こいつは最悪。

ケースその1のK原より悪質だ。

S山は私がやっとの思いで内定を取って、最初に勤めた印刷会社の上司である。

「俺は仕事に厳しい人間だ」と、胸を張ってパワハラをしてくる男だった。

身も心もブタそのもので、大した技量もないくせに仕事人風を吹かせ、態度だけは人間国宝。

口ずっぱく「一を聞いて十を知れ」「仕事は目で覚えろ」と、テレパシー受信能力の習得を強制して、ロクに指導もせずに業務を私に押し付け、失敗すると私の責任。

そんな仕事の上でも人間的にも全く尊敬できるところのないS山に、私はそもそも自発的に悩みを相談したことはない。

ではなぜケースとして取り上げたかというと、親見になってることをアピールしたいのか「困っていることがあったら言ってみろ」と、こちらが悩んでいることを白状させたり、困っているであろうことを、相談してもいないのに返答してきたりしたからだ。

しかも、その返答がムカつく!

「なぜ怒られるかわかるか?怒られることをするお前が悪いからだ」
「わからないわからないじゃない。わからなきゃダメだ!」
「お前の悩みなど大したことはない。世の中お前より苦しい人間などそこら中にいる」

そもそも、相談に対する答えになっていない。

それと、「世の中、お前より苦しい人間などそこら中にいる」ってどういうことだ?

じゃあ何か?脱臼した人に、骨折した人はもっと痛いから我慢しろとでも言うのか?父親を亡くした人に、両親亡くした人に比べれば大したことないとでも言うのか?

そして最後に「それじゃあこの先お先真っ暗だぞ、どうすんだお前?まあ知らないけどね」などと結んできたりして、「まあ知らないけどね」なら、いちいち偉そうに言ってくるな!という感じであった。

厳しいことを言ってるつもりだったようだが、こちらとしては相談に答えてやってる風のこき下ろしでしかなく、無理やり悩みを言わされた上に、奈落の底に落とされたとしか思えなかった。

そもそもあの会社での私の悩みは、S山の存在自体だったのだ。

●ケースその3―私の実父―

私の実の父親だから、そりゃあ親見なのは当たり前だし、私のことを考えてくれてるのもわかる。

だが、悩みを相談することによって救われるか救われないかは別問題だ。

この人の良くない点は、相手の話どころか、自分自身が何を話しているかも理解していないのではないか?ということである。

私の話を聞いていないわけではないはずだが、脳内で間違って解釈しているらしく、てんで頓珍漢な返答をしてくるのだ。

タイプ的にはケースその1のK原Y之に近いが、その返答の長ったらしさと内容のカオスぶりが比べ物にならない。

小学校五年の時に、足が遅くてクラスでバカにされてることを相談したら、なぜ「孟母三遷の教え」の話が出てきて、そろばん塾へ通えという結論に至るのか?
高校二年の時に原付免許を取りたいと相談したら、いつの間にか、三角関数の講義と野口英世の偉人伝が始まって、「これからの世界情勢は厳しい」という展開になったのはなぜだろう?

普段から多芸多趣味を誇り、博識を気取っていたからタチが悪い。

自分の息子のことだから真剣だったらしく、話も異様に長かった。

虫歯が痛むから歯医者に行ったはずなのに胃カメラ飲まされ、「水虫があります」と診断されて、目薬を処方されたような気分になる。

小学生の時からこんな調子で、私は大学入学前の時点で、この人に重要な相談をしてはいけないことを悟っていた。

ちなみに恐ろしいことに、この人物の職業は中学校教師であった。

理科担当だったが、あの調子でちゃんと授業になってたんだろうか?

まさか、理科の授業で「ファラデーの法則」を説明してる最中に、「大宝律令」や「徒然草」の話を始めたりしてたんじゃないだろうな。 それか、返答に困る相談をうやむやにして、こちらから取り下げさせる戦術だったのかもしれない。

他にもいろいろと相談してはいけなかった相手に出くわしてきたが、反面教師以外の何者でもない彼らからは、学べることがある。

それは、

悩みや相談は「黙って聞け」

ということだ。

そして

「あまり偉そうにペラペラアドバイスするな」

だ。

他人に悩みを打ち明けられたり、相談を持ちかけられるということは、解決策を求められているというより、ただ聞いて共感してもらいたいという場合もあるのではないだろうか?

それを何とかしてやりたいと思うあまり、何らかのアドバイスを長々としたとしても、それが相手にとって救いとなるとは限らない。

むしろ逆効果であることが多い気がする。

また、そうやって相談されると無意識に自分が偉くなったような気になってしまい、ついつい上から目線で偉そうなことや余計なことを言いたくなってしまうのかもしれない。

そういうマネはあまりにもみっともない。

私は相談してくる人間の話を黙って聞き、話させることによって相手の気分を晴らすというスタンスを取っている。

そして解決策が道理的にも個人的にも明らかだと確信できる事柄に対してのみ、手短に返答することにしている。

卑怯かもしれないが。

だから先日、職場の新入のA川に「彼女がいても、昔から他の女にもついつい手を出しちゃって、今は四股になっちゃって困ってるんですよ」という自慢風相談を我慢して聞いてやった後は、明確かつ手短かに返答した。

「去勢しろ。そうすればもう困らない」

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自分の名前と戦う子供たち – 同級生のキラキラネーム体験談


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心愛(ここあ)、空流(くうる)、姫星(きてぃ)、本気(まじ)などなど。

おそらく平成を迎えた頃からだと思うが、自分の子供に日本人らしくないばかりか常識から外れた名前、いわゆるキラキラネームを付ける親が目立ってきた。

私の職場の同僚であるO川秀定もその一人で、来月生まれる予定の息子には「都夢」と名付けるつもりだと嬉々として宣言してしまっている。

A川も含めて、こういう親たちは自分の子供がどんなふうに育つように願っているのだろうか?

そんな名前を付けられるなんて、実に不憫な子だと切実に思う。

私はそんな変わった名前を付けられて成長した人間をリアルに知っているからだ。

1975年(昭和50年代)生まれの私の世代にも、現在ほど多くはないが珍妙な名前を背負わされた者がいた。

彼らはその時代において圧倒的少数派、いや異端派ですらある名前ゆえに、いやが応にも目立ち、いわれなき不愉快を感じていたのだ。

高校時代の同級生

高校に入学した時、同じクラスになった同級生は、名前が林五だった。

B原リンゴである。

漢字も読みも正統派の名前が99%超だった昭和49年や50年生まれの同級生の中で、さすがにリンゴという名前の響きは目立つ。

そして、

本人は相当気にしていた。

今でも覚えているが、クラスで最初のホームルームで自己紹介をやった時、林五は「○○中学出身のH原です」と下の名前を名乗らなかった。

なのに、空気の読めない担任は「下の名前は?これ何て読むの?リンゴ?」と心無い問いを発したため、林五は「…リンゴですよ!」と、憮然として答えたものだ。

さらにその後、より心無いクラスメイトたちが大爆笑したため、林五は正にリンゴみたく怒りで顔を赤くして「笑ってんじゃねえ!」と大声を出した。

どうやら両親が『ビートルズ』のリンゴ・スターの大ファンで、身内の反対を押し切って名付けたらしい。

リンゴという名前を付けるなら付けるで、「凛悟」とか「麟吾」とか、画数が多くてそれなりに教養を感じさせる秀麗な漢字でカバーすべきなのに、安易に「林五」である。

これじゃあ小作人の五男みたいじゃないか。

響きだけを優先させたのは見え見えで、他人事ながら教養の程度が分かり易い実に愚かな親である。

ちなみに林五には妹がいて、こちらはB原恵美となぜか正統派の日本人名、兄との落差が際立っている。

林五は大柄で恵まれた体格の持ち主のうえに性格が荒く(ラグビー部に所属していた)、同じ中学出身者によると、小学校の頃から自分の名前をちょっとでもからかう人間は問答無用で制圧してきたらしい。

そして両親をかなり憎悪しており、「親を殺しちゃいけない理由がわからねえ」が口癖。

そんな危険人物は「林五」と呼ばれると瞬時に顔色を変えるため、1年の時、彼を下の名前で呼ぶどころか「リンゴ」という単語自体が禁句となってしまった。

私など「アップル」と言っただけで、林五に胸倉をつかまれたことがある。

浅はかな命名をしたばっかりに息子の根性をひねくれさせ、他人に脅威を与える人間にして社会に放った林五の両親の罪は重い。

中学時代の同級生

林五は性格こそ歪んでいたが、周囲の偏見を沈黙させる能力を有していたからまだましだったかもしれないが。

私が入学した高校には同じ学年にもう一人変わった名前の持ち主がおり、こちらは女子生徒だ。

その名はC西エレナ

漢字ですらない、ダイレクトにカタカナの横文字ネームである。

エレナの存在は、入学当初から主に男子生徒の間で話題になっていた。

ハーフか?それとも外人さん?

気にならずにはいられない名前ではないか!

入学後ほどなくして、エレナが在籍するクラスには、彼女の顔を一目見ようと他のクラスばかりか上級生の男子が殺到したらしい。

私のいたクラスの生徒たちも例外ではなく、はるか遠くの教室まで、勝手に幻想を抱きながら「エレナ詣で」に出かけて行った。

だが、彼らはがっかりしながら戻ってきた。

実物はあまりにも名前との乖離が激しかったからだ。

実際のエレナ本人はスタイルも顔も典型的な日本人、チンチクリンでずんぐりむっくり体型をした大福顔で、ハーフどころか帰国子女でもない。

戦前の農村あたりによくいたタイプの佇まいで、スカートよりモンペが似合いそうなくらい地味な女の子だった。

名前も「和子」とか「敏子」どころか、「お七」や「お駒」あたりが妥当ですらある。

その容貌に対してエレナという名前は、遺伝子学的に著しく不適切だった。
彼女の両親は「エレナ」という洋風の名前を付けさえすれば、成長の過程で突然変異が起こるとでも思ったんだろうか?

その暴挙に対して、責任を追及したい気分だった。

本人の責任では決してないが、それが当時、エレナを初めて見た時の私の偽らざる印象である。

その後、3年生になって、私はエレナと同じクラスになった。

直接話したことはあまりなかったが、ある時期の席替えでエレナの席が私の前になったことがあり、休み時間になると時々エレナの友達たちがおしゃべりをしに来るようになった。

その会話から、エレナは仲間内で「レナ」と呼ばれていることを知った。

また、名前には似合わないが容貌にふさわしく古典が得意で英語を苦手としており、信仰する宗教は仏教の臨済宗妙心寺派、好物はあんころ餅と草餅だとのこと。

趣味嗜好は典型的どころか、鎖国していた江戸時代の町人の娘レベルの日本人ぶりだ。

ある日のおしゃべりで、友達の一人がエレナの名前のことを口にしたのが耳に入った。

「レナの名前ってさ、すごくきれいだよね」

「やめてよ~、全然気に入ってないんだから」

「外人さんみたいでいいじゃん」

その顔のどこがエレナだ、とかしょっちゅう言われるんだよ?私のせいじゃないのに!」

やはりエレナも自分の名前を気にしていた。

その後の会話で、どうやら母親の方が独断で命名したらしいことが分かった。

何でも、昔からあこがれていた外国人スーパーモデルの名前が「エレナ・何とかコフ」で、それが由来だという。

タチの悪い母親だ。

「そんなんで自分の娘の名前決めるなっての!自分と、自分の旦那の顔見りゃどうなるか想像つくだろうが!まともな名前つけろよ、ウチのバカ親!!」

エレナもしゃべっているうちに興奮してきたらしく、毒説を吐きまくっていた。

その後、エレナの愚母をこの目で拝む機会が訪れた。

進路指導のための三者面談で私と母親が面談を待っていた時、私たちの次の順番がエレナ母娘だったため、廊下で一緒に待つことになったのだ。

エレナ母は、娘をそのままエイジング処理したらこうなる、というぐらいそっくりで、ずんぐりしたドングリ体型なんぞ同じ型でハメたように一致する。

遺伝形質に対して挑戦的な命名を娘に強行した張本人は教育熱心でもあり、待っている最中、進路に関して学業成績の悪いエレナに、あれこれ小言を言っているのが聞こえた。

そんな母親に対し、エレナは「もう分かってるっての!」「しつこいよ、ホント!」と終始いらだち反抗的に応答していた。

思春期という事情もあるだろうが、親子仲が良好ではなさそうだった。

そんなこんなで高校を卒業したが、その後、林五にもエレナにも会ってないから彼らがどういう人生を歩んだかは分からない。

その名前について、今はどう思っているかも知らない。

変な名前やキラキラネームを付けられた子供全てがそうなるとは限らないだろうが、思春期の彼らを見た限りでは自分の名前を気に入っていた様子はなく、そのおかげで大きな悩みを抱えていた。

そういった悩みは一過性のもので、成長の糧になることもあるんだろうか?

だが、一生のうち必ず味わわなければならない悩みでもないだろう。

できることならば、そんな無用な苦しみは味わわせるべきではないはずだ。

親の願望を子供の名前に託すのはいいが、思わずからかいたくなる名前になっていないかよく考えよう。

だから、A川秀定くんよ。

今度生まれる子供に「都夢」って名前つけるのやめた方がいいぞ。

君にも林五やエレナの話をしただろう?

戦国大名みたいな自分の名前が悩みだったからって、トムって名前つけられた息子はそれとは別種で、より深刻な悩みを持つかもしれないんだからな。

え?「都夢」はトムじゃなくて、ドムって読むのか。

いや、そりゃあ目立つだろうけど、人気者とは限らんよ。

それに自分の願いは、林五やエレナの親ほどチャラくないだって?

じゃあ、どうチャラくないってんだ?

何々?ほうほう。

なるほど、

『機動戦士ガンダム』のジオン軍のモビルスーツである『ドム』のような強い男になって欲しいという願いを込めてこの名前に…。
よけいタチ悪りィわ!!

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元柿泥棒です – 秋の味覚:柿の魅力と私の思い出

ついこないだまで暑くてかなわなかったと思ったらもう11月、季節はもう晩秋。

実りの季節、食欲の秋である。

食欲の秋の味覚と言ったら、私は柿を真っ先に思い浮かべる。

故郷の実家で暮らしていた頃は、柿に不自由したことがなかった。

近所の蒲山さんという半兼業農家の庭に大きな柿の木が何本もあり、我が家は毎年柿をお裾分けしてもらっていたからだ。

その柿の木のうちの二本は蒲山邸の塀近くに生えており、枝が塀を越えて道路側までせり出しているため、たわわに実った柿に手を伸ばせばすぐに届く。

中学2年生の頃からシーズンにその下を通り過ぎると、いつも半自動的に私のズボンのポケットには柿が入っていた。

勝手に失敬していたからだ。

黙っていてもお裾分けしてくれるのにこんな悪事を働いていたのは、柿の熟度への私独自のこだわりからである。

柿が一番おいしいのは完熟になる直前より前、ほんのり甘く果肉が固いくらいの熟度のものであると、このころから確信していた。

それより前や後はダメだ。

人間の年代で換算すれば、高校2年生から大学1年生くらいまでが好ましい。
つまり十代後半。

私はそれぐらいが、柿の食べごろだと今でも思っている。

あのまだ固く、出し惜しみ恥じらうような甘さこそがたまらないのだ。

だからそれを過ぎた柔らかい柿は無理だし、ましてや干し柿なんて論外!

成熟した色気や美魔女なんて認めない。

あくまで柿の話だからね、柿。

18歳、私的食べごろ

ところがくだんの蒲山さんがお裾分けしてくれる柿は、私的適齢期を大きく越えているものばかりなのだ。

人間の年齢だと25歳以上くらいが平均で、三十路を超えた年増まで混じっている。

祖母や両親には好評だったが、思春期の私の食指は動かない。

20代後半、ド完熟
40代後半、過完熟で発酵中

とんでもないことをしていたと今では反省しているが、その時は「食べごろをくれない方が悪い」とばかりにシレーっと柿泥棒を働いていた。

蒲山家の柿をいただく時は、一撃必殺がマストだ。

何食わぬ顔で柿の木まで近づく間までに標的を定め、柿がたわわに実って下までしなった枝の下まで来た瞬間に手を伸ばし、両手を使って瞬時にもぐ。

気分はまるで、大戦中B29を迎撃しに向かった戦闘機「飛燕」のパイロットそのもの。

もぐのに失敗した場合はそのまま通り過ぎ、深追いはしない一撃離脱戦法を取っていた。

むろん、前後に誰かの目が光っていないか確認するのは言うまでもない。

あの時の感覚は今でも覚えており、実家に帰省して蒲山さん宅近くに行くと、いつもあの興奮が罪悪感と共によみがえる。

このように戦利品が得られたら、家に帰る前に全部食べてしまう。

証拠を隠滅し、完全犯罪を果たすためだ。

私は柿を切って食べない、どころか皮も剥かない。

そのままワイルドに皮ごと丸かじりである(さすがにヘタやタネは食べないが)。

これは多分に、我が家の習慣によるものだ。

子どもの頃から、祖母が柿をおやつに出してくれた時は、いつもそのまま出てきた。

他の果物、リンゴや梨などは律義に皮を剥いて切って出してくれるのに、柿だけは、なぜかそのままなのだ。

祖母によると、昔からこうしてたとのこと。

祖母の息子である私の父も何の疑問も持たず、そのまま柿をかじっていたし、母もそれになじんでいた、

人様のお宅で柿をごちそうになった時、リンゴや梨と同じく皮を剥いて切られて出てくると「何もそこまでしてくれなくてもいいのに」と思うくらい、私の中では常識である。

皮あっての柿なのだ、皮なしの柿など柿ではない。

私にとっての皮なしの柿は、女子高生フェチの男性にとって制服を着ていない女子高生と同…。

かなり不快な喩えをして申し訳ないが、私にとって皮のない柿がどんなものか、わかる人には十分わかっていただけたものと信ずる。

こうして私は中学校を卒業するまでバレることなく、二年連続秋になると違法な柿狩りをしていたが、それを知らないであろう蒲山さんは、毎年柿をお裾分けし続けてくれた。

高校生になってから、何てことしたんだろうと思うようになって現在に至る。

高校を卒業して大学生になった頃、蒲山家の柿の木は家の増築により残らず伐採されたため、柿のお裾分けはなくなった。

私は上京して故郷を離れたが、帰省した際には時々、お土産を蒲山家に持って行く。

罪滅ぼしのつもりなんだが、まだ中学生の頃柿を盗んでいたことは告白していない。

蒲山さん夫妻も80代のお年寄りだ。

今年こそ謝罪しよう。

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