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身勝手な夢が奪った命:2011年鹿沼市のクレーン車事故


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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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正義感が引き起こした悲劇:1989年、片瀬江ノ島駅前暴走事件


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かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

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2000年の暴力ブティック:ヨコハマソウルシティの真実

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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「万引き」「金無し」「見るだけ」「ひやかし」

上記の方は、入店を固くお断りします。

今から二十年以上前、横浜市元町に以上のような注意書きを記した紙を入口に貼って、営業していた店が実在した。

その名は、ヨコハマソウルシティ

そりゃあ、買う気もないのに店に来て何も買わずに帰っていく奴は、店の側からしたら好ましくないのは理解できるが、こうもはっきり書かれると、感じがバチクソ悪い。

たいていの人は、かように不遜な注意書きを見せられたら、入る気は失せるだろう。

だが、中には「そんなバカな」と高をくくるか見落として入ってしまい、「万引き」はともかく「見るだけ」で帰ってしまおうとする人もいた。

そして、そういった不注意な人々は、ヨコハマソウルシティが一般常識の通じる店ではないことを思い知り、同店どころか元町に行く気が終生起きなくなるくらいの思いをさせられることになった。

なぜなら、このヨコハマソウルシティは、暴力バーのブティック版、「暴力ブティック」だったからだ。

冷やかし客への過酷な仕置き

2000年11月17日、横浜の元町ショッピングストリートを訪れた村上園美(仮名・26歳)は、一軒のブティックに入った。

その店の入り口には、店名である「ヨコハマソウルシティ」のアルファベット表記の下に注意書きらしき貼り紙が貼られていたが、彼女の目は、ガラス越しの店内にある商品にあったようだ。

だからと言って、お目当てのモノがあったわけではない。

とにかく、これは、と思えるようなモノがあれば買おうというノリであり、なければ次の店に行けばよい。

ひととおり見て回って、なかなかいい感じと思えるコートを見つけた。

一応手に取って他のモノを物色するが、この店にはなさそうだ。

このコートも最初はいい感じだと思ったが、やっぱり買うのはやめとこう。

「試着してみますか?」

店主と思しき中年の男が話しかけてきた。

「すいません。やめときます」

悪いけど買う気はない。

元の場所に戻して次の店に行こう、と思っていたから、サバサバした感じで断った。

しかし、その店主の男の態度が次の瞬間に急変する。

「あ?試着しねえだと!?どういうことだ!オイ!」

いきなり怒声を張り上げ、園美を罵倒し始めたのだ。

え?何で何で?どうしてこんなこと言ってくるの?

まさか、店の人間からこんな態度を取られるとは予想だにしていなかった園美は凍り付いた。

「あ、いや、えっと…あんまり好みじゃなかったから…」

「表の貼り紙に書いてあんだろ!買う気がねえのに入ってくるたあ、ナメてんのか!?コラ!!」

「ごめんなさい」

大の男に大声で罵声を浴びせられ、園美はショックのあまり頭が真っ白になっていたが、この男が純粋にこの店の商品を買わないことにキレていることは分かった。

「じゃあ、これください…」

園美は一番安い小物を買って許してもらおうとしたが、男の怒りは収まらない。

「そんなもんで、お茶濁してんじゃねえ!てめえがさっきべたべた触ったコート買えよ!」

「いくらですか…?」

「42000円だよ!」

「そんなお金持ってません…」

男は、より激高した。

「金も持ってねえのにウチの店入りやがったのか!!土下座しろ!!ボケえ!!!」

「え…」

「しろっつってんだろ!!オラあ!!!」

あまりの剣幕に、すっかりおびえ切っていた園美は、へたり込むように土下座した。

ばかりか、男は店内でタバコを吸い始め、彼女をなじりながら吸い殻を投げつけることまでした。

園美は所持金3000円を取り上げられ、次の一週間後に残金を支払うことを約束させられた後でやっと解放されたが、この世のものとは思えないほどの言葉の暴力を加えられて、ズタボロにされた彼女は悔し泣きをしながら、その足で交番に駆け込んだ。

土下座の強制は、刑法的には義務のないことを命令したりする行為、強要罪であるから、立派な犯罪に当たる。

園美は被害届を神奈川県警加賀町署に提出し、同署は12月7日店主である石黒成(本名・38歳)を恐喝の疑いで逮捕した。

六年間のさばり続けたヨコハマソウルシティ

ヨコハマソウルシティは、事件の六年前の1995年に開店した当初から、何かと問題を起こしてきた店だったようだ。

商品を買わなかったばっかりに、園美のように土下座させられたり、肩を突き飛ばされたり、買うまで入口に施錠されて出してもらえなかったりしたなどの苦情が、元町の商店会や交番に数多く寄せられていたのである。

商店会は、たびたび改善を申し入れていたのだが、石黒は「これがうちの営業方針だ」と言い張って、聞く耳を持たなかったという。

また、被害にあうのは冷やかし客だけではない。

事件の起こる二か月前の9月には、店舗の前に配送のトラックを停めた男性に「店の前の道路もオレのもんなんだよ」とか「オレの店は1時間1万円売る店だから1万円分買え」などと、Tシャツ3枚を無理やり買わせて、1万1000円を恐喝していたのだ。

ちなみに、その店の前の道は市道であり、トラックが停まっていた時間に店のシャッターは閉まっていた。

こういうことが重なって石黒はとうとう逮捕されたが、取り調べにあたった警官によると、この男は人格的に大いに問題があったらしい。

彼は、事情聴取を受けている際にたびたび激高して大声を張り上げて、反抗的な態度を取ったかと思えば、ほどなくして、人が変わったように猫なで声を出すなど、感情の起伏が激しすぎる面が目立ったという。

何らかの人格障害があったと思われる。

ヨコハマソウルシティは店主が逮捕された後、残った女性の店員が営業を継続。

しかし、この店員もかなりの強者で、あるテレビ局が取材したところ、

「うちは、こういう方針でやっていますから」と悪びれもせずに言い放ったという。

もっとも全国的に、この店の危険性が知られた以上、営業を継続することは困難だったようで、翌年2001年の春には同店は閉店。

同年9月、恐喝、暴行罪に問われた石黒には、横浜地裁により懲役2年6月、執行猶予5年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。

出典元―朝日新聞、日刊スポーツ

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1997年、小牧市の悲劇:日系ブラジル人少年の集団暴行殺人


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1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

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おぞましき闘争:1977年・浦和車両放火事件の真実


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日本国内での共産主義革命を目指して暴力的な闘争を展開する集団である過激派、警察が言うところの極左暴力集団は、昭和三十年代初頭(1950年代後半)ごろから、日本共産党から除名、もしくは離党した者たちを中心に結成された。

彼らは、学生運動が盛んだった1960年代から70年代にかけて、鉄パイプや火炎びんを用いた危険な街頭闘争を行う他、基地、皇室及び成田空港建設等に反対し、市民の安全を脅かすような手製爆弾やロケット砲を打ち込む「ゲリラ」事件を頻発させてきた。

だが、このゆがんだ理想に燃える集団は一枚岩ではなく、成立の過程や路線の違いによって分裂や結成を繰り返して多数のセクトが存在し、主なもので革マル派(正式名称:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)、中核派(正式名称:革命的共産主義者同盟全国委員会)、革労協(正式名称:革命的労働者協会)がある。

そして、それらの組織は共産主義という白昼夢を常に見ている者たちのご多分に漏れず結成当初から互いに敵対しており、内ゲバと呼ばれる抗争を繰り返した。

時には電車内で合戦

当初は集団で旗竿、角材等を使用して殴り合うという正々堂々としたものだったが、次第に相手方の活動家の住所や行動パターンを入念に調査して、自宅や路上において一人でいるところを集団で襲うという平成の某半グレ組織のようなスタイルが主流になる。

使うのは鉄パイプやアイスピック、ハンマー、斧などの凶器。

もちろん目的は半殺し、「半分殺す」ではなく「半永久的に殺す」の略である。

襲われた者は死ぬか、一命を取り留めたとしても、身体に重い障害が残るまで滅多打ちにされた。

襲撃で壊されたアジト

やった方は「反革命分子生命に革命的ピリオドをうった」などと誇らしく犯行声明を出すし、やられた者が属する組織は「白色テロ部隊を総殲滅せよ!」とか宣言して、同じような報復を行うという泥沼の復讐合戦が、1970年代中盤には各過激派間で繰り返されるようになる。

彼らは本来の社会を変えるための運動ではなく、もはや同床異夢の組織への攻撃に力を注ぐようになっていったのだ。

そんな陰惨な事件がいったん沈静化し始めていた昭和52年(1977年)2月11日、茨城県取手市の路上で、主要な過激派組織の一つである革労協の書記長・笠原正義(別名:中原一)が、鉄パイプを持った集団に襲われて撲殺される事件が起きた。

笠原を殺したのは、同じくメジャーな過激派である革マル派。

これまで、革労協と内ゲバ殺人などの抗争を繰り広げてきた敵対組織である。

革マル派にとっては、抗争相手の主要幹部のタマを取った大戦果であり、同派は自分たちが発行する2月21日付の機関紙「解放」で、事実上の犯行声明を出して誇らしげに喧伝した。

だが、革労協もやられっぱなしではない。

直ちに報復を公言し、より陰険で残忍な倍返しを計画・準備していた。

1977年4月15日埼玉県浦和市

革労協書記長・笠原正義が殺されてから約二か月後の4月15日夜に事件は起こる。

同日午後9時5分、埼玉県戸田市の印刷工場「こだま印刷」から、一台の異様な外観をしたワゴン車が発進した。

その車は、フロントガラスの部分を鉄板や金網で囲んで、他組織の攻撃に耐えうるように魔改造された革マル派の自家製装甲ワゴン車である。

このころは、どの組織も集団行動を行うなど襲撃に備えるようになっていたようだ。

「こだま印刷」は革マル派の息のかかった印刷工場で、同派の機関紙「解放」を印刷しているからカタギの会社ではなく、笠原が殺された事件でも警察の捜索を受けていた。

印刷された機関紙か何かを積んで、どこかへ運ぼうとしていたんだろうか?

装甲ワゴン車は「こだま印刷」を出てから、県道浦和―浜崎線に入って蕨市の方面に向かっていた。

乗っていたのは革マル派政治局員の藤原隆義(36歳)、この車の持ち主で、こだま印刷庶務課課長の関口誠司(35歳)、革マル派学生の金沢大学の伊東亘(23歳)と岐阜大学の伊藤修(24歳)の計4名の活動家である。

一行の乗った車は県道を進み、浦和市(現さいたま市南区)に入った午後9時10分。

異変が突如彼らの進路前方で起こる。

突然一台の4トントラックが、道沿いの空き地から装甲ワゴン車の前に飛び出し、行く手を阻んだのだ。

ワゴン車は急ブレーキを踏んで停止したが、すぐさま後ろからホロ付きの2トントラックとマイクロバスがやってきて、挟み撃ちにするように停止する。

敵対組織の攻撃だ!

一行のうちの一人の関口は、昨年にも同じように車の前後をトラックなどで挟まれる襲撃を受けたことがあるが、その時は幸いにも逃げることができた。

だが、運がそれでつきてしまっていたか、今回の襲撃者は前回の連中ほどマヌケではなかったようだ。

関口ら革マル派の車は、4トントラックを迂回して逃走しようと斜め前に動き出したが、後ろからホロ付き2トントラックに繰り返し追突されて動きを止められてしまう。

やがて、トラックの中からレインコートのようなものを着てヘルメットをかぶり、ツルハシや鉄パイプを持った5人の集団が下りてきた。

集団は完全に身動きが取れないワゴン車を囲んで凶器で叩き始める。

打撃でドアの部分が変形してフロントガラスも割られたが、ガラスの部分には鉄板が嵌め込まれているから心配はない。

こういう襲撃に備えての装備なのだ。

しかし、前方を見るためののぞき窓は開けられており、外の連中はガラスが割られて開いたその部分から、何やら液体を注ぎ始めた。

それは、まごうことなきガソリン。

彼らが襲撃された場所は工場が密集する地域であり、この時間にも残業などで残っている工員がいた。

彼は、仕事中に車を叩くような大きな物音が聞こえ、何事かと外に出たところ事件の一部始終を目撃する。

また、その音の後にクラクションが鳴らされ始めたという。

襲撃を受けた革マル派たちは、これから自分たちが何をされるか気づき、なりふり構わず助けを呼ぼうとしていたのだ。

が、襲撃者たちは悪魔だった。

ガソリンを注ぎ終わると発煙筒を焚くや、それをワゴン車の下に投げ込む。

車内にたっぷり注ぎ込まれ、路面にも広がったガソリンは一瞬にして発火、ワゴン車はあっという間に火に包まれた。

「助けて!助けて!助けてえええええええ!!!」

燃え上がった車の中からは、この世のものとは思えない、狂ったような叫び声が聞こえ、車のクラクションが断末魔の悲鳴がごとく鳴り響く。

窓の部分には鉄板が張られているし、ドアはツルハシなどの打撃でゆがんでカギが壊されて中から開かず、外に出ることのできない革マル派の活動家たちは、車内で生きながら焼かれ続け、のたうち回る。

ワゴン車に火がつけられたのを目のあたりにした近所の工場の工員は消火器を持って消火に向かったが、ガソリンの火力の前に、そんなものは役に立たなかった。

襲撃者たちはトラック二台を放置して、残りのマイクロバスに乗ってすでに立ち去っている。

結局、火は通報によって駆け付けた消防隊によって消し止められるまで燃え続け、車内の四人は全員焼死。

一人は運転席でうつぶせの姿で、助手席のもう一人は後部座席にもたれかかるように、残る二人は後部座席の床にうずくまるように炭化していた。

勝ち誇る革労協

焼け焦げた装甲ワゴン車の運転席

犯人たちは犯行後、マイクロバスから乗用車に乗り換えていたとみられる。

途中、その乗用車はタクシーと接触事故を起こしながら、不審な車と見て追跡してきたパトカーをまんまと振り切って、逃走に成功した。

現場に残された二台のトラックはいずれも盗難車で、元のナンバープレートに偽装されたナンバープレートを張り付けており、この犯行が計画的で入念に準備されたものであることは間違いない。

また、現場から6kmほど離れた土手に、犯行に使ったツルハシやかぶっていたヘルメットが遺棄されていたのが、後日発見されている。

翌16日朝、「こだま印刷」の社員5人と同社の顧問弁護士が、焼死した四人が安置されている浦和警察署を訪れて遺体を確認したが、誰が誰なのか判別が不可能なほど完全に炭化していた。

そして、革マル派は同日夕方に本部である「解放社」で記者会見を行い、死亡した四名の氏名を発表。

ここで、事件の三日前の4月12日に「解放社」へ「笠原の報復をやる」という革労協と思われる者からの予告電話があったことも明らかにした。

その一方で、この事件を「警察権力による謀略」などと、反権力革命バカ集団らしい声明も出している。

もう一方のバカ集団であり、警察も当初から実行犯とにらんでいた革労協もすぐさま声明を出した。

4月17日、千葉県成田市の三里塚第一公園で三里塚芝山連合空港反対同盟により開催された集会で、15日の4人焼殺を行ったことを認めるビラを配布したのだ。

まだ成田闘争と称する成田空港建設に反対する運動がたけなわだったこの時代、革労協はこの運動に大きくかかわっていた。

そして警察同様、最初から焼殺事件が革労協の仕業だと分かっていた革マル派も動く。

三里塚第一公園の集会へ向かう道である京葉道路に重油やクギを撒き、さらに乗用車やタンクローリーを道のど真ん中に放置して通行を妨害(むろん盗難車)。

道路わきに横断幕を掲げ、そこには「4・15謀略襲撃―四名焼殺弾劾 革マル派」と書かれていた。

4月15日の事件の腹いせである。

京葉道路を使うのは集会参加者だけではないはずで、一般の通行車両にとっては、とんでもない迷惑行為だが、テロ集団の革マル派にとっては知ったこっちゃない。

なお、革労協は翌月5月に自分たちの発行する機関紙(革マル派の機関紙と名前は同じで「解放」)で、この事件について以下のように発表した。

「わが革労協―プロレタリア統一戦線の革命的戦士は4月15日午後9時10分、反革命印刷所「こだま印刷」から出た反革命装甲車輌を的確に補足し、革マル「政治組織局員」藤原隆義、「こだま印刷」指導者関口誠司、金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修に革命的テロルを叩き込み、車輌もろとも完全に打倒した。

この偉大な闘いは2・11反革命、わが革命党の最高指導部同志中原(笠原正義の別名)暗殺に対するプロレタリア革命党の鉄の回答である。

(中略)

わが部隊は2・11反革命への煮えたぎる憎しみに燃え、猛然と突撃し、前面フロントガラスをたたきわり、それに対して天井からおろした防御板でふせごうとした革マル「政治組織局員」藤原隆義、反革命印刷所指導者関口誠司、防衛隊員であり、反革命「全学連」特行である伊東亘、伊藤修計4名の反革命分子に革命的テロルを炸裂させた。

わが戦士達は、埼玉全県、首都各県、都県境橋全域にわたる権力の戒厳令をあらゆる手段を駆使して突破し、全員帰還した。

この闘いこそ、2・11反革命、わが革命的労働者協会総務委員会書記局員であり、偉大な共産主義者である、同志中原暗殺に対する煮えたぎる怒りと憎しみを、鉄の組織性と計画性、戦闘遂行における大胆さとして絞りあげ、階級的革命的原則にのっとったすさまじい革命的テロルとして革マルの頭上に炸裂させたものである(以下略)

「反革命装甲車輌」、「車輌もろとも完全に打倒」、「この偉大な闘い」、「革命的テロル」…。

文面から分かるとおり、見事に罪の意識がない。

他にもこの犯行を「2・11復讐戦」とか「4・15戦闘」とか呼んだりして、単なる凶悪殺人を武勇伝として自画自賛するとはさすがである。

どうやったらこんな思考回路になるのか。

ある意味でありえない日本語力であると同時に滑稽極まりないが、もし心底本気でそう考えていたのなら、この時代にバカだった者たちの本物ぶりは半端ではない。

その後の内ゲバ事件

浦和車両放火内ゲバ殺人事件は、革労協が自分たちの犯行だと宣言したにも関わらず、実行犯の逮捕に至っていない。

この昭和52年(1977年)時点での警視庁の発表によると、過激派(極左暴力集団)の内ゲバ事件による死者は、昭和44年(1969年)以来、この浦和の内ゲバ殺人事件での死者4名を合わせて52人目であったという。

だが、これは終わりではなかった。

革マルと革労協、中核派などの過激派は陰惨な内ゲバ殺人を断続的に犯し続ける。

何とそれは2004年まで続き、無意味で非生産的な活動に人生を売り渡した活動家たちは、50代後半か60代の白髪交じりになっても無益な争いに明け暮れ、死者は合計100名に達した。

ちなみに拙ブログの主人公である革労協は、後に主流派と非主流派に分裂し、さらにまたその後で主流派が二つに別れ、「内内ゲバ」とも呼べる抗争を起こしているから、本当に救いようがない連中だ。

頭の中が真っ赤な左翼バカたちが殺し合うのは構わない。

しかし、彼らは危険極まりない「ゲリラ」事件を起こす以外に、他組織の活動家と誤認して、無関係な一般人を死傷させたりもしている。

それに対しては「誤爆」と称して、謝罪すらしていない。

まだ暴力団抗争の方が、すがすがしく思えるのは筆者だけだろうか?

少なくとも暴力団は、一般人を誤って殺した場合は謝罪している。

また、結構早い段階で手打ちになったりして、ズルズル何十年も抗争を続けたりはしない。

それと比べると、過激派同士の抗争は実に醜く、陰険だ。

なお、これはあくまで筆者の経験だが、平和主義だの平等だの反差別だの左翼的思考を持って、それを公言する者には一定の傾向がある気がする。

それは、自分の意見は絶対的に善であり、それ以外の考えを許さないことだ。

彼らは現実を無視した理想を濁った眼を鈍く輝かせて語り、それにちょっとでもツッコミを入れる者を、人でなしとばかりに非難してくることが多い。

そういった思考回路が先鋭化した者たちで構成されたのが、過激派なのだろう。

自分たちの行動は正しく、それによって生じた結果は、どんなものでも当然のことかやむをえないことだと堂々開き直る。

また、同じ左翼思想を持っていても、違う考え方を持っている者に対してはより非寛容になるのは、内ゲバ殺人の数を見れば明らかだ。

なぜ、このような連中を今も野放しにしておくのか?

公安が監視をしているといっても、まだ堂々拠点を構えて活動している。

しょせん人権を重視しすぎるあまり、肝の座った取り締まりができない我が国だからこそイキれる集団であり、現在では多数の死に損ないたちと少数だが極左思想という重い脳障害を若くして患う者たちで構成されているにすぎないが、過去に起こしてきた所業を考えれば目障り極まりない。

とっとと我が国から消滅しろ!

出典元―毎日新聞、朝日新聞、警察白書、Wikipedia

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日本中を揺るがした虚言:92年のオーストラリア花嫁失踪騒動

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男を惑わせて振り回すような悪い女を「魔性の女」とか、「小悪魔」とかいう言葉で形容する場合がある。

どちらも悪い意味のはずだが、「魔性の女」は何となく悪魔的な魅力を持つ上に知謀にも長けていそうな感じがして、この言葉を使われた女に対しては、多分に賞賛が含まれていると個人的には思う。

「小悪魔」の方は「魔性の女」とかより格下だが、ずるい反面で男を引き付けるだけの魅力を持っているイメージがあるから、必ずしも全面的に否定する意味ではない気がする。

今から30年以上前の1992年12月に、ハネムーン先のオーストラリアで「誘拐された」と愚にもつかない虚言を吐いて行方をくらまし、新郎や身内はじめ日豪両国の多くの関係者に迷惑をかけた女、拙ブログで取り上げる日高美穂子(仮名・25歳)はどちらだろう?

間違いなくどちらでもない。

甘ったれたバカ、そしてクソだ。

ハネムーン中に失踪した新婦

1992年(平成4年)12月7日、オーストラリアのシドニー市の観光名所ロックス近くで、日本人の榎本敦夫(仮名・29歳)はやきもきしていた。

彼は待ち合わせをしていたのだが、約束の時間になっても相手がいっこうに現れないのだ。

敦夫が待ち合わせをしていたのは、ただの相手ではない。

それは、新妻となる日高美穂子(仮名・25歳)である。

二人は、それまで二時間ほど、別々に市内を散策していた。

大阪府在住の敦夫と美穂子はテニスクラブで知り合い、一年半の交際を経て11月28日に挙式を挙げ、翌29日にハネムーン旅行に出発。

旅行先として選んだここオーストラリアは、当時の日本人に人気で、二人はゴールドコースト、ハミルトン島などの王道のコースを巡って12月6日にシドニーに入っていた。

ハネムーン中の美穂子

彼らは入籍前に結婚式を挙げたため、美穂子の性は変わっていない。

入籍は、明日8日に日本に帰国した後にすることになっていた。

だとしても、戸籍上はまだ夫婦ではないとはいえ、事実上の新婚である。

いつも一緒にいるはずのハネムーン旅行なのに別行動をとったのは、二人が午後1時ごろ、シドニーの免税店で買い物をしていたところ、美穂子が「もう最終日なんやから、自分らで自由にシドニーを回らへん?」と提案したからだ。

そして落ち合うのは、二時間後の午後3時半と約束していた。

敦夫は、待ち合わせに選んだ場所に時間通り到着していたが、彼女は、その約束の午後3時半を過ぎても影も形も見えない。

オーストラリアはアメリカなどと違って比較的治安の良い国だが、それでも海外で姿を消したとなると不安になる。

もしかしてホテルでは?とも考えて宿泊先のホテルに戻ったが、そこにもいない。

部屋の中で美穂子の帰りを待っていたが、戻ってこないばかりか連絡すらなかった。

午後8時、心配でたまらなくなった敦夫は、シドニーの日本領事館に連絡する。

領事館は、館員をホテルに派遣して事情を聴くや、ただ事ではないと判断して、シドニー警察に協力を依頼した。

不可解な失踪

敦夫の待機する部屋の電話が鳴ったのは、午後11時ごろ。

かけてきたのは、何と美穂子からだ。

「美穂子か!?お前ナニしとるん?どこ行っとんのや?」

あわてて電話に出た敦夫に、美穂子はあまりにも不可解なことを伝えてきた。

「ウチ、車で連れてかれてもうてな、ここ、どこかわからへんのや。オーストラリアの人に助けてもろたんやけどな。でも自分で帰れるから捜さんといて」

そう言うや、電話が切れたのだ。

「車で連れていかれた」、それは誘拐ということではないか?

でも、「自分で帰れるから探さないでくれ」とは、どういうことだ?

疑問点はいろいろあるが、事件に巻き込まれたにおいがする。

新婚旅行中に自分から失踪するのはありえない、とこの時は考えられた。

それに美穂子は、それまで何回も海外旅行に行っていたが、日本人のご多分に漏れず英語はからっきしだし、所持金も少ない。

「単に迷子になっただけではないか?」と考えていたシドニー警察も、7日夜の怪電話から何の連絡もないことから、事件性が高いと判断。

8日には、誘拐事件として公開捜査に乗り出す。

情報提供を呼びかける敦夫

敦夫も地元シドニーのテレビ番組に出演し、美穂子の写真をカメラに示しながら「妻は誘拐されたと考えています。見かけた方は、警察にお知らせください」と沈痛な表情で、情報提供を呼び掛けた。

だが、誘拐事件のわりには身代金の要求などもなく、事件に関する情報も、ほとんどないために捜査は難航する。

日本国内の騒動と意外な結末

この一件は、9日の時点でオーストラリア国内ばかりか「花嫁失踪事件」として日本国内で報道され、国民の知るところとなっていた。

この92年当時は、同年春にパキスタンでカヌー下りをしていた早大生が誘拐されたり、パナマでシチズンの日本人社員が誘拐されて殺害されたり、日本人が海外で誘拐される事件が頻発しており、「また起きたか」という印象が持たれてもいた。

日本のマスコミは、「美人花嫁失踪」などの釣り文句付きで連日報道。

現地の捜査の状況や美穂子の身を案ずる両親や兄弟の模様を逐一伝えており、彼女の母などは「なぜ敦夫さんはずっと一緒にいてくれなかったのか?」などと、新郎を非難する始末だった。

そんな折、三日目の10日に事件が、ますます不可解な方向に脱線する。

ホテルに待機している敦夫に、美穂子から再び連絡が来たのだ。

その電話で彼女は、「今ゴールドコーストにいる」と話していた。

だがその後は、またしても連絡が途絶える。

生きていることは分かったが、シドニーからゴールドコーストまでは800kmほど離れており、美穂子がなぜそんなところにいるのか?という疑問の声が関係者の間で上がった。

どういうことだ?本当に誘拐されたのか?

一方のシドニー警察による捜査には、進展があった。

警察は、二人が泊っていたホテルの部屋から美穂子のものと思われるメモを発見。

そのメモには、あるモーテルの名前と電話番号、住所が書かれていたのだ。

誘拐事件として捜査する反面、その線に疑問も抱いていた警察は、そのメモに書かれたモーテルのオーナーである日系人女性に連絡して、事情を聴いたうえで協力を要請。

そのオーナー女性は警察に、日本人女性が一人で宿泊しており、チェックイン日時は12月7日だと話した。

ちょうど、美穂子が行方をくらました日だ。

しかも、それは一か月前から予約されており、予約の電話をかけてきたのはミナミノと名乗る男。

滞在予定は一か月で、その女性が来る前に着替えなのか、荷物も日本から送られていた。

チェックインした際の署名は「ミナミノ・メグミ」だった。

警察から連絡を受けてからオーナー女性はさらに、そのミナミノ・メグミのいる部屋を訪ねて「日高美穂子さんですね?」と確認したが、断固否定されたと知らせてきた。

本人であると判断した警察は、11日午前3時ごろモーテルを訪れて、その部屋にいた日高美穂子と思われるミナミノ・メグミに確認を取ったところ、女は激しく否定。

ばかりか、部屋にあったパスポートやキャッシュカードを窓から投げ捨てて、身元が分からないようにしようとすらしたが、無駄な抵抗だった。

日高美穂子本人以外の何者でもないことは明白であり、彼女も観念して、警察に確保されるしかなかった。

この時、美穂子は失踪前には長かった髪をセミロングに切って、伊達メガネをかけて変装していたらしい。

また、オーナー女性が訪ねてきたことから、捜索の手が近くなっていることを察していたようで、追っ手をかく乱するためか「メルボルンに行く」というメモが用意されていた。

そして、ハネムーン中は、ずっとはめていたエンゲージリングは外され、テーブルの上に置かれていたという。

会見で明らかになった失踪のあきれた理由

誘拐は、完全に美穂子の狂言だった。

ちなみに、美穂子の滞在していたモーテルは、敦夫と泊まっていたホテルから、10㎞ほどしか離れていない。

彼女は失踪している間、ほとんど外出せずに、部屋に引きこもっていたようだ。

愚かな日本女により、完全に振り回されたシドニー警察だったが、「旅行客の保護にベストを尽くしただけで、捜査費用は一切請求しない」と、太っ腹で大人の対応をした。

だが、二人はマスコミを通じての説明責任を果たさなければならない。

現地時間の11日午後7時、彼らは宿泊していたホテルで日豪両国の記者会見に臨んだが、事情を知った敦夫はぶ然とし、張本人の美穂子は緊張のためにガクブルであり、互いに顔を合わせようとせず、美穂子は記者の質問に対しての答えも、ボソボソとして支離滅裂だった。

まず、どうして失踪したかについて美穂子は、

「一か月前、結婚することに不安を覚え、成田離婚になったらどうしようと考え、知り合いに相談したら現地のモーテル(発見されたモーテル)を紹介してくれました」

と答え、着替えまで送って一か月ほど滞在するつもりだったのは、

「ゆっくり考える時間が欲しかった」

とボケた。

また、記者会見で美穂子は

「計画的にやったわけではない」

ともボケたが、一か月前からそんな準備していたというのは、十分計画的である。

その知り合いが、くだんのモーテルに予約電話をかけてきたミナミノらしいが、では、そのミナミノとはどういう知り合いなのか?かなり親しくなければ、ここまでやってくれそうにないが、という質問には、

「前の会社の上司で、昔、海外旅行した際もお世話になって…」

と答えたが、具体的な関係については口を濁す。

男女の関係であった可能性が高い、過去形もしくは現在進行形の。

後者だったとしたら、失踪前から敦夫を裏切っていたということである。

ちなみに「ミナミノ」は騒動になっている最中も心配して、何度か美穂子に電話しており、この失踪劇の共犯であったとみなされても仕方がない。

10日に、敦夫に「ゴールドコーストにいる」と電話したのは、「日豪双方のマスコミに報道されて騒動になっていることをテレビで知り、警察ざたになるのが怖くて、じっとしているのに耐えられなくなったから」「彼に勝手なことをしていると思われたくなかった」と、立て続けに天然ボケをカマす。

すでに勝手なことをしているではないか!

そして、「12日には警察に出頭するつもりだった」とも語ったが、ここまでの騒動を引き起こしておいた後では、あまりに嘘くさい。

美穂子の答えは、終始論理が完全に破綻しているように聞こえるが、要するに好きでもない敦夫という男と結婚するのが嫌で、かと言ってきっぱり別れを切り出す勇気もなく、ズルズルとハネムーンまで来てしまったということだ。

そのくせ「誘拐された」などと、大胆な大ボラを吹いて現実逃避し、とんでもなく大きな迷惑をかけている。

一方の強烈に裏切られていた新郎の敦夫は、記者の「結婚に対して不安を持っていることは美穂子から聞かなかったのか?」という質問に対して「相談されてはいた」と答え、「では、それが失踪の原因ではないかと思わなかったのか?」と聞かれると「その時は本当に誘拐されたと思った」とし、「自分が嫌いでいなくなったと信じたくなかった」と言った。

最愛の女性を、信じたかったということだろう。

だが、「今後の結婚生活はどうなるのか」という核心に触れた質問に対しては、斜め上を行く答えを返す。

「あほやと思われるかもしれへんけど…帰国したら針のムシロでしょうが、これからも二人で一緒にやっていきます」

と、予定どおり入籍することを宣言したのだ。

絶対に別れるだろうと予想していた報道陣も、これには唖然としていた。

美穂子もナメクジのようにすすり泣きながら、「敦夫さんのことが大好き、好きです。ずっと一緒にいたいと思っています」と答えて、その場の記者たちを凍り付かせた。

帰国後

日本で会見する敦夫と美穂子

帰国して大阪空港に降り立った二人は、そこでも記者会見を行い、またしても別れる気がないことを表明して、世にも奇妙な純愛劇を世間にさらす。

しかし、敦夫は会見中に泣き始めた美穂子が「敦夫さんごめんなさい」と、洟水を垂れながら甘えるように頭を自分の肩に傾けようとすると、手でそれを押し返した。

結婚生活を続ける意思は示したものの、この裏切りは、とても全面的に許せるものではなかったのだ。

そして、この寛容バカの男も、翌日にはその決心を変える。

敦夫の身内や知人は、このまま入籍することに納得せず、ワイドショーなどのビデオを見せたりして日本国内で、どのように報道されているかを知らせたのだ。

この騒動の全貌をようやく知った敦夫はワナワナと震え、この女と今後も連れ添うことが、いかに破滅的かを悟る。

美穂子の側にすぐさまそれを伝え、順調に離婚することとなった。

当たり前だ。

特に敦夫の母は、息子がハメられたと怒り心頭であった。

そもそも、母親の美穂子に対する印象はハネムーン旅行に行く前から最悪で、息子に「本当にこの人でいいの?」と尋ねていたくらいである。

それは、結納や結婚式で美穂子と四回会っているが、ヌボーとして一度も笑顔を見せておらず、感じがあまりにも悪かったからだ。

敦夫は、ふだんから女遊びには無縁な堅物で、そのおかげで女を見る目がなく、美穂子のような陰キャなうえに、バカで自分勝手な女に引っかかってしまったと見ることもできる。

彼は大阪空港での記者会見で「今後の取材は一切お断りします」ときっぱりマスコミにくぎを刺していたが、現代以上にモラルのなかったこの時代のマスコミは、言いなりにならなかった。

狂言誘拐だとわかった後は、さすがに二人の実名は出さなくなったが、第三の男である「ミナミノ」氏の正体を探ろうとするなど、しばらく、この騒動に関する面白半分の取材は続けられ、

バラエティー番組でも明石家さんまなどが記者会見を茶化すパロディーネタを披露するなど、完全に笑いものにされる。

ネクラな美穂子は帰国後姿をくらましてしまい、会社を無断欠勤し続けていたという。

いい面の皮だった敦夫も、最愛の女性がゴミだったことに落胆するあまり立ち直ることができず、勤めていた会社を辞めてしまったようだ。

その後の二人については、30年以上たった現在では知るよしもない。

美穂子はどうなっていようが知ったこっちゃないが、せめて敦夫の方は、まっとうな人生を歩んでいて欲しいものだ。

出典元―日刊スポーツ、週刊現代、週刊ポスト、FOCUS

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新潟六日町のトンネル事件:恋愛に狂った暴力団員の極限の嫉妬

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2000年(平成12年)5月22日午前5時ごろ、民家もまばらな新潟県魚沼群六日町の農道を歩いていた近所の住民の女性(72歳)の前に、ただごとでない様子の少年が現れた。

十代後半くらいのその少年は裸足で、全身ずぶ濡れとなってぶるぶる震えており、女性を見つけるなり「警察を呼んでほしい」と懇願するのだ。

そして、その理由は耳を疑うものだった。

何と男二人に灯油をかけられて、火をつけられそうになったから逃げてきたというのである。

しかも、もう一人一緒にいた友達は逃げることができず、焼き殺されたかもしれないと言うではないか。

それが証拠に、ずぶ濡れの彼の体からは、灯油かガソリンのような刺激臭が漂っていた。

その後、女性の家からの通報により、新潟県警六日町署の署員が出動。

少年が火をつけられそうになったという六日町舞台のわらび野トンネルに駆け付けたところ、トンネル内で焼け焦げた焼死体を発見。

それは、焼き殺されたかもしれないと言われていた少年、千村健太(仮名・16歳)の変わり果てた姿だった。

事件の経緯

千村健太(仮名)

事件は前日の5月21日の午後11時ごろ、殺されることになる千村健太と、助かった方の宇田川弘明(仮名・16歳)が、ある人物から「遊びに行こう」と呼び出しを受けたことから始まる。

彼らを呼び出したのは、矢内彰浩(仮名・32歳)という人物。

前月の4月下旬まで、千村と宇田川が働いていたラーメン店の店主であった。

彼ら二人が迎えに来た矢内の車に乗り込んだのは、日が変わった22日午前2時ごろ。

こんな夜中に「遊びに行こう」と誘われて、喜んで行く人間はあまりいない。

しかも、相手は前に働いていた職場の雇い主ではるかに年長、真夜中に呼び出されて遊ぶには、面白くないことこの上ない相手だ。

だが、二人とも断るわけにはいかなかった。

彼らに電話したのは矢内だったが、本当に用があって呼び出したのは、亀井俊彦(仮名・32歳)という男である。

ラーメン店の客として来ていたから顔なじみであったが、亀井がどういう人物であるかを、二人ともよく知っていたのだ。

亀井は暴力団組員であり、なおかつ地元では数々の暴力事件を起こしてきた悪名高き乱暴者。

前の年には、歩行者をひき逃げして逮捕されたが、それは単なるひき逃げ事故ではなかった。

その事故の際に、自分の車にぶつかった歩行者に腹を立てた亀井は、車を繰り返し前進後退させて三回も轢いて、そのまま立ち去ったという正真正銘の犯罪だったのだ。

亀井はその事件で逮捕されて、先月まで刑務所に服役して出てきたばかりであり、そんな危険な男の呼び出しを断ったら、何をされるかわからない。

そもそも、彼らがアルバイトをしていたラーメン店自体、堅気の店ではなかった。

店を直接切り盛りする店長の矢内は堅気だったが、オーナーは片岸祐一(仮名・34歳)という暴力団組員であり、亀井の兄貴分。

おまけに、ラーメン屋で働いていた千村は店員としてだけではなく、ヤクザである片岸の「若い衆見習い」ということにされていたらしい。

それに千村はこの時、自分が呼び出されたのが、なぜなのか気づいていた。

なおかつ、自分がタダでは済まないであろうことも。

彼には身に覚えがあった。

絶対にやってはいけないあることをして、それがバレたのだ。

だからと言って、逃げるわけにはいかない。

そうしたら余計厄介なことになることくらい、ヤクザの「若い衆見習い」にされていた彼なら嫌というほどわかる。

案の定、車内の亀井は、千村が乗り込んだ時から明らかに不機嫌であり、車が発進してほどなくして、いきなり暴力を振るってきた。

「このガキ、ナメたことしやがって!コラあ!!おらあ!!!」

ただでさえ危険な男は、酒をしこたま飲んで来たらしく、余計狂暴になっていた。

「宇田川ぁ、テメーも知ってたんだろ?なぁ!!」

「いえ、あの、その…ぶっ!!」

宇田川も殴られた。

宇田川が呼び出されたのは、ツレの千村がやらかした「やってはいけないこと」を知っていたにもかかわらず、報告しなかったからなのだ。

やらかした本人である千村の次に、罪が重いとみなされていた。

怒りの矛先が向けられたのは、二人の少年だけではない。

「停まんじゃねえよ!!飛ばせボケぇ!」

赤信号で車を停止させた、矢内も殴られた。

彼は普段から、ヤクザの片岸や亀井に奴隷扱いされていたのだ。

やがて、車は事件現場となる六日町の工業団地に到着すると、ほどなくして、一台の白い車がやってきた。

四人は車を降りてその車に近づき、亀井が「これに乗れ」と他の三人に命じた。

「お前ら逃げろ」

ある程度事情を知っていた矢内は、小声で二人の少年に言って自分は逃げたが、二人ともモタモタして逃げられず、白い車に乗せられてしまう。

その車を運転していたのは、加藤夏樹(仮名・28歳)という暴力団員ではないが、亀井の舎弟気取りの男だ。

車内で亀井は千村と宇田川を交互に殴りつつ、加藤の運転する車は、だんだん明るくなってきた午前四時ごろ、わらび野トンネルに到着。

車から降ろされた二人は、トンネルの中で正座させられた。

わらび野トンネル

「テメーら、これからどうなるかわかるか?アン?!」

そう言うと亀井は、加藤の車からポリタンクを取り出すや、正座させられている二人に、その中に入っていた液体をぶっかけた。

手下の加藤に、あらかじめ用意させて車に積んでいた灯油だ。

やがて、ライターを取り出して、それを加藤に渡すと、「夏樹、燃やしちまえ」と命じた。

大物ぶって、自分で手を下す気はないのだ。

加藤は、どちらかというと肝っ玉の座らない根性なしだったが、だからこそ、おっかない亀井には絶対服従な男。

本当にライターを近づけてきた。

脅しじゃない、本気で焼き殺す気だ。

逃げ出そうと立ち上がる二人。

宇田川は、前述のとおり逃げおおせたが、千村は間に合わなかった。

加藤のライターで火をつけられた千村は、火だるまになり、叫び声を上げて走り回ったあげく、トンネル内に倒れ込み絶命した。

事件現場

千村が犯してしまった過ち

事件が発生して翌々日の5月24日午前1時ごろ、実行犯の一人の加藤が六日町署に自首してきた。

加藤は堅気のくせに普段から「亀井さんのためなら何でもやります」などと公言してヤクザ気取りだったが、本性は気弱。

人を焼き殺してしまった事実を、受け入れることができなかったのだ。

そして、事実上の主犯である亀井は犯行後に逃走していたが、翌月6月9日に出頭して逮捕された。

だが、彼らは実行犯にすぎない。

亀井は顔見知りとはいえ直接の恨みはないし、加藤に至っては初対面。

実は亀井たちの背後には、犯行を指示した本物の主犯がいた。

その人物とは亀井の兄貴分であり、千村たちが働いていたラーメン店のオーナーである片岸祐一である。

彼こそが、千村の犯した行為に激怒していたのだ。

事件発覚当時から、犯行を指示したのは片岸ではないかと事情を知る関係者の間ではささやかれていた。

捜査を担当する六日町署もそれを知って、片岸の行方を追い始める。

片岸は、亀井同様事件後に行方をくらませていたが、7月7日になって、ようやく殺人容疑で逮捕された。

片岸は逮捕当時容疑を否認していたが、千村に危害を加えるように亀井に命じたことは認めた。

そして、彼が舎弟を使って制裁を加えようとした理由、それは、ある女性をめぐってのものだ。

その女性の名は、大熊径子(仮名)。

片岸がオーナーを務めるラーメン店で、アルバイトをしていた当時19歳の少女である。

彼女は、事件の起こるちょうど一年前の1999年(平成11年)5月ころの高校在学中から働き始めていた。

径子は、地元では有名な企業の社長の娘である。

片岸は、当時所属していた暴力団の組員になる前は、その会社で働いていたことがあるし、ラーメン店の開業に際して保証人になってもらったりしていたために、その社長に恩義を感じていた。

そんな恩人のお嬢さんを預かっていたうえに、その社長夫妻からはヘタな男を近づかせないように、特に依頼をされてもいたらしい。

なにせ、径子は近所でも評判の美少女だったからだ。

片岸は社長夫妻の頼みを律儀に聞き、彼女が自動車学校に通い始めた頃には、送り迎えまでしていた。

だが、その年の11月に千村がアルバイトとして雇われてしばらくしてから、ややこしいことになる。

翌年の3月ころから、径子が千村と交際するようになったのだ。

それも、ぞっこんだったのは径子の方であった。

千村は高校に行っておらず、自身の「若い衆見習い」をさせているから、社長夫妻が言うところの娘に近づかせてはいけない男のカテゴリーに入る。

事実、この交際が4月末に社長夫妻の耳に入るや、夫人は片岸に別れさせるように依頼してきたという。

そして、このティーンエイジャーの交際を、夫人以上に快く思わない者がいた。

当の片岸本人である。

片岸は、径子の父親が経営する会社で働いていたころ、まだ幼児だった径子をかわいがっていたが、彼女が美女に成長した今は魅力的な異性として、熱視線を注ぐようになってしまっていたのだ。

意識するだけでなく行動にも移し、プレゼントを渡して告白めいたことまでしでかした。

片岸は離婚したばかりでもあったから、何としても径子をモノにしようとしていたらしい。

しかし、幼いころはなついていたとはいえ、片岸はヤクザのうえに、19歳の彼女から見たら完全におじさんの34歳。

明らかに10年以上遅い。

身の程知らずにも、ほどがあるだろう。

径子は遠回しな言い方でやんわりと断ったが、こんな勘違い野郎がオーナーの店で、気持ちよく働けるわけがない。

ほどなくして、彼女は年下の彼氏である千村、その友達の宇田川と相前後して、店を辞めてしまった。

社長夫人から依頼を受けてほどない5月2日、片岸はもうすでにラーメン屋を辞めてしまった千村を呼び出して「今回は見逃すが、次はないぞ」という脅し文句とともに、径子との交際を辞めるよう迫った。

夫人に頼まれていることを理由にしていたが、本当は、こんなガキごときに自分が付き合いたい女を取られたことに、腹わたが煮えくり返っていたことを、とりあえずこの場では隠す。

一方の径子に対しても「このまま付き合い続けたら、千村は殺されるぞ」というメールまで送ったりしたため、ただ事ではないと感じた径子も千村も、別れることをこの時は了承する。

だが、そんなことまでしても、燃え上がっている最中の十代のカップルを止めることはできなかったようだ。

二日後には、二人とも連絡を取り合うようになり、千村の身を案じた径子は、一人暮らししている自分のアパートや友達の家に、千村をかくまったりして交際は続く。

しかし、いつまでも隠し通すことはできなかった。

事件発生直前の5月21日、娘がまだ千村と交際を続けていることが、社長夫人にバレてしまう。

夫人は、その日のうちにそのことを電話で片岸に伝え、「まだ付き合ってるみたい」と愚痴った。

5月2日の最後通告は守られなかったのだ。

ヤクザとしてのメンツは完全につぶされたと、片岸は激怒した。

その矛先はもちろん「若い衆見習い」の千村である。

だいたい、こんな奴が自分の狙っていた女と付き合い続けているのは許しがたい。

ナメたガキからは、きっちりケジメを取ってやる。

しかし、だからと言って、自分で手を下す気はない。

社長夫人からの電話の後、片岸は、別の人間に電話をかけた。

それは、彼の舎弟であり暴力装置、この事件の実行犯となる亀井俊彦だ。

亀井は、暴走族だったころから片岸の世話になっており、自分の体に片岸の名前を入れ墨するほど心酔しているくらいだから、命じれば、いくらでも体を張ってくれる都合のよい奴である。

「千村のガキがよ、また社長の娘にちょっかい出してやがった。しめちまえ」

片岸はこの時、そう電話で亀井に指示したと、後に供述している。

「殺せ」ではなく、あくまで「痛めつけるだけでいい」と言ったのだ、ということだ。

だが片岸も亀井もヤクザである。

彼らの世界において、上の者は本当の目的を隠して、具体的に指示することなく、それを匂わせるような言い方で指示することがあるし、下の者は、その意図を正確に察しなければならない場合があるものだ。

長年一緒に過ごしてきた彼らの間に、どんな暗黙の了解や呼吸があったかは立証できないが、亀井の方は、単に殴る蹴る以上のことをする必要があると解釈した可能性があるのは、事前に灯油を準備していたことから見て間違いがない。

おまけに、電話を受けた時は酒をしこたま飲んでおり、この乱暴者は、余計に分別のつかない状態になっていた。

その後、矢内に運転させて千村たちを連れ出し、日が変わった22日の午前3時ごろ、亀井は片岸に連絡を入れている。

その時、片岸はさらに「どういうことになるか、きっちり分からせろ」と命じたという。

そして、その電話からほどない午前4時ごろ、前述のとおり千村は、六日町舞台のわらび野トンネルで焼殺という最悪の殺され方をされてしまうことになったのだ。

不条理な判決

こんな残忍な犯行を犯した連中が、社会に出てきていいはずはない。

死刑か無期懲役、あるいは社会の脅威となる可能性がほぼなくなるほどの高齢になるまで、塀の中に隔離しておくべきである。

しかし、驚くべきことにこの凶悪犯たちは、また何か別の犯罪で捕まっていなければ、現在自由の身になっているのだ。

犯行を指示した片岸だったが、逮捕後から殺人に関して「共謀はしていない」と一貫して無罪を主張し、実行犯である亀井も殺害するように頼まれてはおらず、犯行前に灯油を準備していたのは脅すためだったと供述。

灯油までかけて加藤に「燃やしちまえ」と命じてはいたが、今回も本当は脅すつもりだったと言い張った。

ちなみに亀井は、事件前の過去に相手に灯油をかけて脅す事件を起こしている。

そして下った判決は、片岸が殺人罪で懲役13年。

実行犯の亀井は懲役18年で、加藤は15年と、人を一人焼き殺した代償にしては、軽すぎるものだった。

亀井と加藤の刑は一審で確定したが、片岸は判決を不服として控訴。

その結果、2002年4月24日に東京高裁で開かれた控訴審で「暴力を加えろという指示をしたと言えるが、殺害しても構わないという未必の殺意までは認められない」という判断がなされ、一審における殺人罪での懲役13年というただでさえ軽い判決が破棄されて、傷害致死での懲役8年という判決となってしまった。

「しめろ」「わからせろ」などの電話での指示では、殺意を立証できなかったのだ。

焼き殺すつもりは本当になかったのかもしれないが、結果としてあのような犯罪を犯した割には、あまりにも軽い制裁にしか見えない。

2023年の現在、この鬼畜がごとき犯罪者たちは恐ろしいことに、もうとっくにこの事件での刑期を終えている。

彼らはまだ50代、悪さをしようと思えば、まだできる年齢だろう。

こんな悪さをしでかした奴らが、たとえ自分とは関係のない場所に住んでいたとしても、この社会にいるというだけで、そこはかとない不気味さと釈然としなさを感じざるを得ない。

再び何かの罪で捕まって、現在は長期刑真っただ中か、より願わくば、すでに死んでいて欲しいものだ。

出典―朝日新聞、週刊新潮、週刊朝日

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不良俳優大地義行の裏の顔:2003年・京都放火殺人事件


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大地義行という俳優を、ご存じの方はどれだけいらっしゃることだろうか?

もしご存じならば、その方はヤクザものの映画やVシネマが好きで、それもかなり昔からのコアなファンだと言えるだろう。

大地義行、本名平野善幸は、1964年大阪府生まれ。

さまざまな経歴を経た後、1992年より俳優活動を開始。

Vシネマを中心に出演していたようだが、1998年の『JUNK FOOD』の出演を皮切りに、2000年から2002年にかけて『新・仁義なき戦い』、『荒ぶる魂たち』、『新・仁義の墓場』に出演。

 

『新・仁義なき戦い』などのこれら三作の映画の出演者はベテラン俳優が目白押しであり、大地はほんのチョイ役の暴力団組員を演じていたにすぎなかった。

しかし、その毒々しい存在感と迫力は本職級であり、並み居る有名な役者たちに埋もれることが全くないほどのインパクトを残して「本格的不良俳優(ヤクザ俳優)」と注目を浴び、以後の活躍が大いに期待されるようになった。

だが、2002年の『新・仁義の墓場』以降に、彼の姿をスクリーンの中で見ることは不可能になってしまっている。

なぜなら殺人で逮捕され、無期懲役で服役しているからだ。

2003年1月16日の事件

2003年1月16日午後2時。京都市下京区の木造二階建ての大地の自宅から出火して、二階の一室24平方メートルが焼ける火事が発生。

そして鎮火した後の焼け跡から、女性の焼死体が発見された。

死体は、仲居手伝いの丸山珠子さん(仮名・47歳)で、大地とは内縁関係にあった女性であったが、手足を電線コードやテープのようなもので縛られた状態で焼死していたことから、京都府警は放火殺人と見て捜査を開始する。

一方の大地は、火災時に現場にいたのだが、言動がおかしかったために、駆け付けた京都府警によって取り調べを受けた結果、覚せい剤反応が出たために逮捕されてしまっていた。

彼は覚せい剤の常用者だったのだ。

その後、大地は傷害事件で執行猶予中の身でもあったことから、覚せい剤の件で1年2か月の実刑判決を受けて服役することになったのだが、捜査の方は、状況証拠から明らかに怪しい大地を有力な容疑者として進められ、同年7月30日に、殺人・現住建造物放火の疑いで再逮捕となる。

大地は、女性を縛ったのは同じく覚せい剤の常用者だった彼女が暴れたからであるとし、火事はその時、部屋で点けていたストーブから出火したもので、自身が火をつけたわけではないと主張。

しかし、火事の時に、大地は救出しようともせずに、ぼんやりとしていたという住民の証言が決定打となって、大地は犯人と断定されてしまう。

2005年3月の京都地方裁判所の判決では懲役15年(求刑無期懲役)が言い渡されたが、ここでも大地は無罪を主張したため、大阪高等裁判所の二審では「反省の態度が見られない」と一審判決を破棄され、求刑通りの無期懲役が言い渡された。

2006年の最高裁でも、上告が棄却されて無期懲役の判決が確定。

もともと転落していた彼は、さらに落ちることができる最底辺まで落ち込んでしまった。

大地義行は、2022年の現在も徳島刑務所で服役している。

近所での評判

大地義行はヤクザ俳優として評価されたが、それはどうやら演技ではなかったらしい。

普段の大地は、商品にケチをつけては金を払わなかったり、近所での工事がうるさいと怒鳴り込んだりと、居住する地域では悪名高き迷惑住民。

火災で死亡した女性以外にも関係を持っている女性がおり、痴話げんかが高じて、時々自宅前の路上で暴力をふるったりもしていた。

また、映画の撮影においても現場に遅刻することがよくあり、怒られると逆ギレするなどなかなかのトラブルメーカーだったから、高く評価された演技は素だったのだろう。

「本格的不良俳優」ならぬ、単なる「本格的不良」だったと報道するマスコミもあった。

そんな彼だから近所の住民もよく思っておらず、「女性を助けようともせず、ぼんやりと座っていただけだった」という証言までされた。

当時の大地の人となりを知るそれらの人々には、「やっていないとは思えない」と言われている始末である。

そんな彼は今でも獄中で無罪を叫び続けており、支援する弁護士も現れて再審請求の活動がなされている。

確かに支援者らの主張によると、検察の提示した証拠には矛盾が多く、女性を助けようとしなかったどころか、燃え盛る家の中に入って救出に向かおうとしていたと、当時から証言していた人間も存在しており、今後の展開によっては、無実を勝ち取って出てくることがあるかもしれない。

しかし、彼は現在57歳。

獄中で、あまりにも多くの時間を失ってしまった。

自由の身になったとしても、もう彼の姿をスクリーンで見ることはできないだろう。

たとえ、この事件はやっていなかったとしても、今までさんざん周囲に迷惑をかけてきたのだから、人を殺したと疑われても仕方なく、自業自得だという人もいるかもしれない。

しかし同時に、彼の登場シーンを改めて見てみると思うのだ。

画面の中でヤクザを演じる大地は、本物の悪党そのものの脂ぎった嫌らしさを見事に醸し出し、ベテランのコワモテ俳優相手でも、全く迫力負けをしていない。

こんな毒気は、演技や稽古で作り上げられた悪役では、絶対に出せないだろう。

やっぱり、大地義行の姿をもっと映画で見たかった。

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2004年、足立区牛丼店の恐怖:クレーマー殺人事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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殺人事件の中には、被害者に一切同情できないものがごくまれにある。

被害者と加害者は「元加害者」と「元被害者」の関係、すなわち被害者が生前に殺されても仕方がないほどのことを加害者に行った結果、反撃もしくは報復されて死に至ったケースのことだ。

本ブログで取り上げる牛丼店の店長が執拗にクレームをつけてきた男を殺した事件、俗にいう『足立区牛丼店クレーマー殺人』は、まさにその典型たる事件とされ、現在に至るまで致し方なく凶行を行ってしまった加害者への同情と自業自得で、地獄に送られた被害者への侮蔑を以って語られる事件である。

真面目な青年

この事件の犯人となる市田武司(仮名・26歳)は、不動産事業や飲食店事業などを手掛ける企業の社員であり、2004年の事件当時、その傘下の大手牛丼チェーンのフランチャイズ店の店長だった。

市田は、同企業の系列の喫茶店で四年ほどアルバイトとして勤務。

その真面目な勤務態度から2004年6月に正社員に抜擢され、足立区の北千住にある牛丼店に配属された。

そこでも持ち前の責任感や接客態度の良さが評価されたらしく、わずか二か月後の8月に店長に昇進する。

牛丼店での勤務経験の短さもさることながら、26歳という若さでの店長就任は異例のことだったという。

市田が店長をやっていた牛丼店

こうして大抜擢された市田だったが、店長になって早々試練に見舞われる。

それは、店長就任後一か月も経たない8月下旬、市田の店に弁当を買ったという男から、一本の苦情の電話が入ったことから始まった。

その男によると、弁当を買って持ち帰ったら、それが横になっていたというのだ。

そして、その言い分と口調は、苦情というより言いがかり、クレームというより恫喝に近いものだったらしい。

あまりの剣幕に、店長である市田は謝罪したが、男の怒りは収まらない。

なんとその後、7-8回もクレームの電話をかけてきたのだ。

これは営業妨害以外の何者でもない。

いくら接客業であっても、本来ならこういった輩には強硬にして断固たる処置をとるべきであった。

だが、経験が浅い市田はやってはいけない行動に出てしまう。

何と、そのクレーマーの男の自宅に出向いてお詫びした挙句、弁当代として現金千円を渡してしまったのだ。

その現金千円は市田の自腹であったろうし、この件は自分の失態であるから当然であると、責任感の強い彼のことだから思ったことだろう。

そしてこれで解決したとばかりに、この件を本社に報告することはなかったらしい。

だが、それは大きな間違いであった。

そのクレーマー、墨田区東向島在住の保川英夫(仮名・36歳)は介護の仕事をしていたが、本性はとんでもないクズ野郎だったからだ。

保川は、その後も市田を何度か呼び出すなどして断続的にクレームをつけ続け、市田を追い込むことになる。

クレーマーに怒りの猛撃

9月11日、クレーマー保川は、何ら悪びれることなく堂々と店を訪れて弁当を注文。

この時に市田は店にいなかったが、今度も店員に対して文句をつけてきた。

「オイ!何で客に水出さねえんだよ!!」

待っている間に水を出さないことに腹を立てたようだが、そこまで怒るほどのことでもないはずだ。

しかしクレームを趣味にしているとしか思えない保川は、それでだけでは済ませなかった。

店を出た後に、またしてもクレームの電話をかけてきたのだ。

「店長出せ、店長!」

「どうなってんだよ、オメエの店はよ!」

「誠意ってもんあんのか?コラ!!」

しかも、今回は前回を上回る回数であり、それは翌日の12日まで続く。

常軌を逸した執拗さに、市田は「店の正常な運営ができない」と追い詰められたが、この期に及んでも、本社に相談をしようとしなかった。

どころか、再び自分一人で解決しようと行動に出る。

しかし、今回はまた元の木阿弥になるであろう謝罪ではなく、この問題の不可逆的且つ永久的解決を決意していた。

それは保川の殺害だ。

市田は、真面目な勤務態度と責任感の持ち主だったが、明晰な頭脳は持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

おまけに、パニックになりやすくて自制心も利かない男だったのは間違いないだろう。

9月12日午前11時ごろ、前も訪れて勝手知ったる墨田区東向島の保川のマンションを訪問した市田は、持参してきた刃物で横柄な態度で対応した保川の胸を一突き。

驚いて逃げようとする保川の背中にも刃物を突き立て、声をあげさせないように口も塞ぎつつ刺し続け、殺した。

クレーマー野郎が死んだことを確認すると、市田はそのままそそくさと立ち去った。

まさに天誅である。

保川の死体はその後、自宅に集金に来た宅配弁当店の店長に発見された。

この年、職を転々として介護職に就いたばかりだった保川は、懐具合が思わしくなかったらしい。

事件の二か月前の7月、ずうずうしくもその場で払うべき宅配の弁当代を「給料が出てから払うからツケにしてくれ」と頼んでいたが、そのまま8月を過ぎても払わずに連絡すらしていなかったのだ。

ゴキブリのような奴である。

保川は市田の店以外にも、ピザ店にクレームをつけていたことが後の調べで分かっているから、営業妨害を専門とする犯罪者と言ってもよい。それもチンケな。

だが、そんな二足歩行のゴキブリでも殺したのはまずかった。

宅配弁当店の店長からの通報を受けて事件の捜査を行っていた警察は、保川の電話の通話記録から、市田の存在を割り出す。

あの怒涛のクレーム電話のことである。

そして、事件から三か月後の12月11日、市田を殺人容疑で逮捕。

彼は保川を殺した後も逮捕されるまで、牛丼店の店長を続けていた。

事件現場の近く

その後

2005年6月23日、東京地裁は市田武司に懲役10年(求刑懲役14年)を言い渡した。

判決は、保川がしょっちゅう苦情を言ってきたことが殺害の動機につながったと指摘しながらも、「被害者に殺害されなければならないほどの落ち度はない。きわめて短絡的との非難を免れない」としたのだ。

やはりどんな事情があれ、殺人にはそれなりの判決が出る。

だが保川という男は「殺すことはなかった」かもしれないが、「殺しても構わなかった」奴ではあると個人的には思う。

日本の消費者は世界一極悪であり、接客する側が甘やかすからつけあがる輩が後を絶たないが、保川はその中でも、タチが悪い部類に入る。

そんな奴に哀悼の意を表する気はない。

どんな人間でも、死ねば仏なんて思わない。

保川のような男が殺されることもなく、その後も元気よくさまざまな店にクレームをつけ続けることがなくなったことは良いことだ。

そんな社会貢献をした市田だが、10年という時間を塀の中で失い、出所後も殺人という前科を背負って生き続けることになってしまった。

しかし、彼はまだ若い。

少々頭が悪くテンパりやすい欠点はあるが、天性の真面目さと責任感を持っているはずだから、やり直しは十分に利くだろう。

これくらいの過ちで人生を捨てることなく、立派に更生できると信ずる。

あと、この牛丼店を運営する会社だが、彼をもう一度雇ってあげてはいかがだろうか?

それも店長より上のポストで。

反社会勢力の暴力団ですら、抗争で相手を殺した組員は長い懲役を経た後に、「組のために体を張った功労者」として幹部のポストが約束されていた時代があった。

彼はまさしく店のために体を張ったではないか。

事実、この事件からしばらく、この牛丼店のその他の店舗へのクレームがなくなったというから、功労者だと断言できる。

彼を雇うことでイメージは悪くなるが、前科のある人間を雇うのは違法ではない。

全国津々浦々に展開して久しいほどの大手なんだから、それが原因で倒産するということもないではないか。

まっとうな会社だというなら、反社会勢力でもやっていること以上のことがやれるはずだ。

取り返しがつかないことをやった者でも、立ち直るチャンスを与えるという太っ腹なところを見せるべきであろう。

極論だが、真摯にそう思っている。

出典元―夕刊フジ・朝日新聞・毎日新聞

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1992年、奈良県天理市女子短大生誘拐事件:恐怖に怯える少女の叫び

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1992年11月30日、天理市内のとある寿司店。

金融業を営む森本正成さん(仮名・48歳)と妻の照子さん(仮名・46歳)、小学校五年生の長男の一家三人はすでに店内に入って席についていたが、一向に寿司を注文しようとせずにやきもきしていた。

注文するわけにはいかない。

この店に来るはずの森本家の長女、私立短大一年生の森本知世さん(仮名・19歳)がまだ来ないのだ。

森本家の人々は、この日は家族で食事をしようと決めており、大阪市内の短大に通う知世さんも家族とは別に、学校の帰りに店に来ることになっていた。

だが、その約束した時刻である午後7時は、もうとっくに過ぎている。

この時代に携帯電話はない。

待ち合わせに相手が現れないからといって、今どこにいるか又はいつ来るのか、相手に連絡をとることはできないのだ。

遅れるなら遅れるで、この店にいることは分かっているはずだから、店に電話があってもいいのだがそれも全くない。

「ナンで来(け)えへんのやろ?」

「なんかあったんやろか?」

来るはずの娘が姿を現さないのでは、心配でゆったりと寿司を食べていられるわけがない。

両親は悪い予感がして仕方がなかった。

そして、その予感は的中する。

脅迫電話

森本知世さん(仮名・19歳)

結局知世さんは、寿司屋に現れなかった。

森本家の人々は、仕方なく三人で砂をかむような思いで寿司を食べた後、午後9時には自宅に帰っていた。

そして、9時10分ごろ自宅の電話が鳴る。

娘からのものでは?と直感した母親が急いで電話に出ると、はたして娘の知世さんからだった。

ホッとしたのもつかの間、様子がおかしい。

「お母さん」と一言発してから、泣き声しか聞こえてこないのだ。

「どうしたん?」

呼びかけても泣き続けるばかりである。

「はっきりしいや。何があったん?」

ただ事でないのは明らかだ。

まさか…。

「誘拐された」

母親の照子さんは言葉を失った。

「どこや?どこににおるんや?!」

隣でやり取りを聞いていた父親の正成さんが電話に代わった。

「どこかわからへん~」

電話の向こうで知世さんは激しく泣き始め、もう言葉にならない。

「聞こえたやろ、誘拐したったんや。」

突然男の声に変った。こいつが犯人のようだ。

犯人は立て続けに要件に入った。

「明日までに二億まわし(用意)せい!」

とんでもない野郎である。

森本さんは金融業を営んでおり、そこそこ裕福だったようだが、二億をポンと出せるほどの大金持ちではない。

「二億て…!そなあほな…。よう集められへんわ、そんな金…」

そんな事情など犯人は、お構いなしだった。

犯人「でけへんのやったら、娘死ぬだけやで!」

父親「ちょっと待ってえな、頼むわ!とりあえず500万やったらええけど」

犯人「そないなはした金いらんわ」

父親「あんた鬼か?こっちかて、すぐには無理なんや。とにかく待ってくれって」

犯人「ほうや、わしゃ鬼や。ええから明日までに、二億耳揃えてつくらんかい!」

ここで母親が受話器を取って「お金は用意しますから、何もせんといて!」と絶叫。

だが冷酷な犯人は、次は下の息子もさらうなどと脅し続ける。

言葉からして、犯人は自分たちと同じ奈良の人間、少なくとも関西の人間のようだ。

「お母さん何とかして!!」と、知世さんが電話の向こうで泣き叫ぶのを母親に聞かせた後、警察に言ったら必ず娘を殺すと言って電話が切られた。

「警察に言うな」と言わない誘拐犯はいない。

だからと言って、言われたとおりにするわけにはいかない森本夫妻は、知人の警察官を通じて奈良県警天理署に通報した。

二日目

天理署

通報により森本家に駆け付けた警察は、次の電話に備えて逆探知の準備を開始。

翌12月1日、奈良県警は天理署に「身代金目的誘拐事件捜査本部」を設置し、報道各社は人質の安全を考えて、事件解決まで報道を控える報道協定を結んだ。

そして森本夫妻は、犯人からの電話を待つ一方で、預金を解約するなどして、約2000万円の資金を集めていた。

この日の日中は犯人からの連絡は全くなく、ただ時間だけが過ぎるのを見守る状態が続く。

やがて日が沈んだ夕方6時、唐突に黒いレクサスに乗った男が、森本家を訪ねてきた。

それは、正成さんの顔見知りの石川卓己(仮名・27歳)という男である。

石川は不動産仲介業の会社を経営しており、仕事を通じてつい最近知り合ったばかりだ。

そして森本家を訪ねた要件は、ゴルフ場予約の代行の依頼だった。

のんきな男である。

こっちは愛娘をさらわれて、ゴルフどころではないのだ。

「森本はん、顔色悪いんとちゃいますか?」

などと言ってきたりして、そんなに長い付き合いでもないのになれなれしい。

かと言って娘が誘拐されているとも言えない正成さんは「今ちょっと立て込んでいるから」などとごまかして断ると、「そら、えろうすんませんでした」と、あっさりと引き下がって車に乗り込んで立ち去った。

その車には、もう一人見知らぬ若い男が乗っていた。

石川が去ってからほどない午後6時48分、犯人からの二回目の連絡が入る。

これには、母親の照子さんが対応した。

犯人「金どうなっとる?」

母親「今うちの人が集めてます」

犯人「それと、さっきの黒い車はなんや?警察やろ!?」

先ほど訪ねてきた石川を、警察官と思ったらしい。

そして、こちらを見張っていたようだ。

母親「ちゃいますよ!あれは主人の友達なんです」

犯人「約束破ったんと違うんか?コラ!」

母親「ホンマに違うんです!信じてください!」

最悪だ。

空気の読めない訪問者のおかげで、犯人は態度を硬化させてしまった。

次いで母親は「娘の声聞かせてください!」と懇願したが、電話は無情にも切られた。

通話時間は二分間で、逆探知には足りない。

しかし7時15分、犯人から再び連絡が来る。

犯人も金を手に入れたいのだ。

「お金ですけど、今、二千万あります」

今度も母親が出たが、要求金額の十分の一しかないことで犯人は「二億言うたやろ、そないなはした金いらん!」「家も車も売らんかい!」などとオラついた。

そして「さっき友達や言うとった黒い車の奴呼べや。警察とちゃうこと証明せい!」と要求。

また、二億円には遠く及ばないが二千万で妥協したらしく、「その友達に金を持たせてやな、お前んとこの親父の車に乗せい。三十分以内や」と一方的に迫って電話が切れた。

第三者を、現金の受け渡しに使おうという腹のようだ。

受け渡し場所などは、まずそれからということだろう。

だが正成さんは、犯人の言うところの友達である石川に連絡を取らなかった。

そして、三十分たった7時48分に、三度目の電話か来る。

犯人「約束守らんかい!さっきの奴早う呼べや!」

母親「ウチも行ったらあきまへんか?」

犯人「あかん!その友達たらいう奴だけや!」

犯人はやたらと石川にこだわり、一緒に行くと言い張る母親の頼みを拒絶して電話を切った。

午後10時24分、今度は知世さんの声で電話が入った。

知世「お母さん…早うして…」

母親「大丈夫。何とかしたるから、気強く持ちや」

知世「ウチもうダメ…殺される…」

母親「そないなこと言うたらあかん!なあ…もしもし?もしもし?」

今度も涙声で、かなり参っている様子である。

この日の電話はこれで最後であったが、警察は逆探知する以外にも捜査を進めており、その手は犯人に迫りつつあった。

決死の電話

12月2日になって、事件は三日目となる。

警察は、昨日夕方に森本家を訪問したレクサスの男、石川卓己の身元を洗い始めていた。

捜査関係者は唐突の訪問から、何やら怪しいにおいをかぎ取っていたし、犯人がその石川にこだわって金を運ばせようとしていることから、事件に関係している可能性が高いと見始めていたのだ。

そして、これまで泣いてばかりだった知世嬢も、この日の午後2時、思い切った行動に出る。

犯人が寝入ったスキをついて、内緒で森本家に電話してきたのだ。

知世「もしもし、お母さん?ウチ、今、内緒で電話しとんねん」

母親「ホンマに?犯人はその辺におらへん?」

知世「昼寝してはる」

母親「ほんなら、起こさんよう小声で話しいや。犯人は何人おるの?」

知世「わからへん。目隠しされとる。ずっと縛られとった」

母親「ひどいことされとらん?抵抗したらあかんよ」

知世「うん、それと、警察に言うてない?お金取れへなんだら、殺す言われとるの」

母親「大丈夫。何とかしたるから。もうちょっとの辛抱や」

知世「あ、起きたかもしれへん。切る」

こうして電話が切られたが、時間にして13分間。

知世嬢の決死の電話で森本家に張り込んでいた警察は、ついに逆探知に成功、発信源は奈良県磯城郡田原本町内であることを突き止める。

そしてその田原本町内には、石川卓己の経営する不動産会社『D開発』があった。

石川を最有力の容疑者と断定した奈良県警は、『D開発』を張り込み始める。

捜査は、大詰めを迎えようとしていた。

午後10時42分、現金の受け渡し場所を伝える犯人からの電話が入る。

今度は知世さんに電話をかけさせ、その後に犯人に替わった。

「とりあえずやな、11時15分に家を出え。親父の車でやぞ。そんで、郡山インターから…」

「もっとゆっくり言うてください。メモしとりますんで」

今度の逆探知は地点を絞り込んでいたので、どこからかけられているか完全に判明した。

場所は、まごうことなき『D開発』である。

張り込んでいた捜査員に犯人確保と人質救出の指令が下り、『D開発』に警官が突入、案の定犯人であった石川卓己を『D開発』の事務所内で逮捕した。

D開発

突入時、石川は森本家への電話をかけている最中であり、知世さんはその向かいのソファで、目隠しをされたままぐったりしていたから言い逃れはできない。

奈良県警は突入の前に、『D開発』から出てきた男を参考人として確保していたが、その男は大谷靖(仮名・20歳)という石川の会社の従業員で、共犯者でもあったことがほどなくしてわかる。

それは石川が森本家を車で訪問した際に、同乗していた男であった。

53時間ぶりに解放された知世さんは、突入した警官隊の中にいた女性警官に抱きかかえられて外に出てきたが、相当怖かったのだろう。

それまで溜めていたものを吐き出すかのように、頼もしい同性の胸で泣き続けた。

解放直後の知世さん

一方、犯人の石川は被害者宅に第三者を装って身代金を奪うという奇策を弄したが、それがかえってあだとなる形となったのだ。

犯行の手口と知世さんのその後

犯人の石川卓己と大谷靖
犯人の石川卓己と大谷靖

 

主犯である石川卓己は、もともと不動産のトップセールスマンで、会社を辞めてから『D開発』を創業。

しかし、事件の前年のバブル崩壊のあおりを受けて業績が傾き、二千万の負債を抱えて資金繰りが悪化していた。

そこで、金融業を営んで金を持っていそうな森本さんの娘を誘拐するという犯罪に手を染めてしまったのだが、森本さんに何度か借金を申し込んで断られたこともあり、その個人的な恨みも犯行の動機になった可能性が高い。

石川は従業員である大谷を引き込んで、誘拐を決行する三日前から知世さんを尾行していた。

知世さん本人によると、事件前に何度か後をつけられたり、見られたりしている気がしていたらしい。

近鉄二階堂駅

そして、事件当日の11月30日、最寄り駅の近鉄二階堂駅で、石川は白いレンタカーに乗って待ち伏せ、学校から帰ってきた知世さんを発見。

「ちょっと、お父さんのことで話がありまして、この書類をちょっと見ていただきたいんですよ」

などと声を掛けたところ、彼女は不注意にも車に乗り込んでしまった。

どう考えても、おかしいと思わなかったのだろうか?

車内に乗せてしまえば、こっちのものだ。

石川はナイフで知世さんを脅して粘着テープで後ろ手に縛りあげると、あちこち連れまわした後『D開発』に連れ込んで監禁。

脅迫電話は石川がかけ、大谷は監視役だった。

2日に、スキをついて電話をかけてきた際以降は目隠しだけだったが、それまで長時間縛られっぱなしだったため、彼女の手にはアザができていた。

知世さんは、手にアザができた以外にケガもなく無事生還したが、拉致されて縛られたうえに、命の危険にさらされて、あっけらかんとしていられるわけがない。

無神経にも、両親とともに記者会見に引っ張り出された知世さんは、終始顔を引きつらせっぱなしであったし、その後しばらくPTSDに苦しんだという。

記者会見

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