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2021年 世界史 戦争もの 歴史

ブラジルの第二次世界大戦 – ブラジルと第二次世界大戦の重要な役割


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第二次世界大戦において、ブラジルは連合国の一員として枢軸国と戦っている。

1942年半ばから終戦まで海軍と空軍が大西洋での対潜水艦戦に参加した他、ラテンアメリカの国としては唯一、ブラジル遠征軍(FEB)と呼ばれる部隊をヨーロッパのイタリア戦線に派遣しているのだ。

この遠征軍はブラジル陸軍と空軍によって編成された歩兵師団であり、交代要員も含め約25900人の兵員で構成されていた。

ブラジル遠征軍はイタリア戦線で1944年9月から1945年5月までほぼ8ヶ月の間、ドイツ軍がイタリア半島中部に設けた防衛線の一つであるゴシック・ラインで戦い、948人が戦死したが、1945年の最終攻勢でブラジル遠征軍は二人の将官を含む枢軸軍の20573人を捕虜にするなど連合軍の作戦に少なからぬ貢献をした。

対枢軸国宣戦布告前

ブラジルは第一次世界大戦において、1917年から1918年まで連合国側に加わり、主に海軍による対Uボート戦を戦ったが、第二次世界大戦においても連合国側に立って参戦することは当初予定されていなかった。

当時のブラジル連邦共和国大統領ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは議会を解散させて、ファシズム色の濃い全体主義的な独裁政治を行っていたため、枢軸国と親和性が高かったおかげでもある。

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス

よって、第一次世界大戦開戦時のように1939年の時点でブラジルは中立の地位を維持し、連合国と枢軸国の両方と通商を行っていた。

しかし、戦争が激しくなるつれて枢軸国との交易はほとんど不可能となる。

アメリカがブラジルの中立を許さず、連合国側に引き込むための圧力を交えた外交的、経済的攻勢を強めたからでもあった。

アメリカは南米への枢軸国の影響を最小限に抑え、大西洋での連合国側の海上輸送に対する脅威に備えようとしていたのだ。

アメリカはブラジルを自らの陣営に引き入れるための見返りも同時に用意していた。

1942年の初め、アメリカはブラジルの鉄鋼産業の形成を援助することを約束(後にブラジル最大の製鉄会社ナシオナル製鉄が誕生するきっかけとなった)。

それによりブラジルは自国内に米軍の航空基地を設置することを認める。

基地はバイーア州、ペルナンブーコ州、リオグランデ・ド・ノルテ州に設けられ、リオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市には米海軍の哨戒飛行隊52の一部が駐留。

さらに、対日通商破壊のためのタスクフォースがブラジルで設立されて、ブラジルとアメリカの合同防衛委員会も創設され、両国の軍事関係が強化されるようになる。

この連合国との協力関係の進展により、ブラジル政府は1942年1月28日にリオで開催された汎アメリカ会議で、ドイツ、日本、イタリアとの外交関係を断ち切る決定を発表した。

しかし、手痛いしっぺ返しが待っていた。

枢軸国側に敵対行為とみなされ、1942年1月末から7月にかけてまだ正式に連合国側に加わってもいないにもかかわらず、ドイツ軍のUボートにより自国の商船が攻撃されることになったのだ。

1942年8月には2日間で5隻ものブラジル船がUボートの一隻であるU-507の攻撃で沈没し、600人以上が死亡した。

8月15日、サルバドールからレシフェに向かっていたバエペンジ号が19:12に魚雷を受け、215人の乗客と55人の乗組員が死亡。

21:03に、U-507がアララカラ号に魚雷を発射、乗っていた142人のうち、131人が死亡。

2度目の攻撃から7時間後、U-507はアニバル・ベネヴォロ号を攻撃。

83人の乗客全員が死亡し、71人の乗組員のうちの4人だけが生き残った。

8月17日、ブラジル南東部の港湾都市ヴィトーリア市沖合で、イタギバ号が10時45分に被害を受け、死者数は36人。

その後、サルバドールからサントスに向かうもう一隻のブラジル船アララ号はイタギバ号を救助しようとしたところを攻撃され、同船は20人の死者を出す。

これらの被害を目の当たりにブラジル世論は激高、開戦の機運が国内で高まった。

ヴァルガス政権は戦争を望んでいなかったが、リオデジャネイロなどの都市部では中立政策に抗議する動きがドイツ系ブラジル人への攻撃という形で現れる。

こうして世論の開戦への要求が高まったため、ブラジル政府は1942年8月22日ドイツとイタリアに宣戦布告を行った(日本への宣戦布告は1945年6月)。

翌年の1943年1月28日と29日にはリオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市で、ヴァルガス大統領は合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト大統領と会談。

後にヨーロッパ戦線に派兵されることになるブラジル遠征軍の創設が決定された。

南大西洋での戦い

ブラジル海軍駆逐艦マラニャン

第二次世界大戦に参戦したブラジル海軍の戦場は主に大西洋であった。

ブラジル海軍の主な任務は連合国の一員として、中部大西洋と南大西洋間を航行する船舶の安全を確保することであり、単独で、または連合軍と連携して614の船団を護衛。

ドイツの潜水艦との戦いで、ブラジル艦は爆雷や機雷で攻撃を行った。

ドイツ側の記録によると、ブラジル軍から合計66回の攻撃を受けたという。

ブラジル軍は少なからぬ戦果も挙げており、ブラジル沿岸ではイタリア軍の潜水艦アルキメデ、ドイツ軍のU-128、U-161、U-164、U-199、U-507、U-513、U-590、U-591、U-598、U-604、U-666の合計12隻の潜水艦を破壊。

一方のブラジルは、大戦中に枢軸国の攻撃で36隻の船が沈められて1600人近くが死亡。

その中には商船員470人と海軍兵士570人が含まれ、それ以外には事故で350人が死亡した。

ブラジル海軍自体が失った水上艦艇は三隻であったが、1944年7月20日にU-861によって撃沈された兵員輸送船のバイタル・デ・オリベイラ以外は事故によるものである。

ブラジル海軍駆逐艦マルシリオ・ジアス

ブラジル遠征軍の編成準備

ブラジルが枢軸国に宣戦布告した直後、ヨーロッパへの遠征部隊を編成するための国民動員が始まった。

しかし当時のブラジルは伝統的に孤立主義的な外交政策を取る国であり、農村での文盲率も高く、あらゆるインフラが未整備で、戦争のための物資も人材も欠いていた。

さらに、ブラジルは軍事独裁政権で、1941年まではナチスに同情的ですらあり、軍人の多くはナチスの敗北は国内の民主主義運動に拍車をかけることになると信じていたこともあって、自発的に連合国側に立つことには躊躇していたのが実際のところであった。

この政府の消極的な態度に対して、ブラジルマスコミ界の大物であるアシス・シャトーブリアンは、ラテンアメリカの志願兵で構成される遠征軍師団の創設のために、在ブラジルの合衆国政府関係者と交渉。

この部隊はシャトーブリアンが出資して、訓練はアメリカ軍が担当し、指揮はブラジルの将軍にとらせる計画だった。

しかしこれは、1943年初頭にブラジル政府によって縮小された。

参戦してから約2年後、ブラジルは正式にヨーロッパ戦線に部隊を派遣するが、そこまで派兵が遅れたのは遠征軍の規模や派遣先などの面でアメリカ政府との意見の食い違いもあったからである。

また、ブラジル政府は当初10万人規模での編成を考えていたが、その四分の一の約25000人での派遣となった。

ブラジル遠征軍の司令官はマスカレンハス・デ・モライス将軍(後の元帥)が任命され、その戦闘部隊はゼノビオ・ダ・コスタ将軍が指揮する第6連隊戦闘団に加えて、リオデジャネイロに駐屯する第1連隊戦闘団や、サン・ジョアン・デル・レイからの部隊から編成された。

約5,000人の兵士を有する各連隊戦闘団(現代の旅団に相当する規模)は3つの大隊に分けられ、大隊は4つの中隊からなり、むろんこれには後方支援のための人員や砲兵、工兵なども含まれている。

ブラジル空軍の飛行隊は、地中海方面の連合軍戦術空軍の指揮下に置かれた。

ブラジル遠征軍のイタリア上陸

1944年7月2日、先発隊として第6連隊戦闘団の5000名の兵士が米海軍の艦艇に乗ってブラジルを出発、7月16日にイタリアに到着した。

ナポリに上陸してからブラジル兵たちはアメリカ第45任務部隊に加わるために待機していたが、必要な装備や武器もなく、兵舎すらなかったため、ドックでの待機を強いられてしまう。

7月下旬に後続の部隊が到着し、1944年9月と11月、1945年2月にも増援が到着。

その中にはブラジル陸軍の山岳歩兵部隊も加わっていた。

ブラジル遠征軍はその後、イタリアでの戦場に適した装備を取得してから、アメリカ軍による訓練を受けたが、宣戦布告から2年の間にブラジル国内で行われた準備は意味がなかったことが証明されてしまった。

ブラジル軍人の間では訓練の質ではなく、実戦こそが兵士を十分に鍛えるという意識があったせいか、ブラジル陸軍を構成していたのは即戦力にならない素人同然の兵士だったのである。

しかも、ブラジル遠征軍は当時の標準的なアメリカ歩兵師団を模倣して組織されたが、医療など兵站の面での不足が判明。

後にこれも米軍によって管理されることとなる。

そうした混乱に見舞われながらも8月、ブラジル軍部隊はナポリから北へ350km離れたタルキニアに移動し、11月にはウィリス・D・クリッテンバーガー少将率いるアメリカ第4軍団に加わった。

ちなみにブラジル軍が加わった連合軍であったが、多くの人種や国籍からなる部隊の寄せ集めだった。

アメリカ軍にはアフリカ系アメリカ人の第92歩兵師団と日系アメリカ人の第442歩兵連隊が含まれ、イギリス軍にはパレスチナ人、南アフリカ人、ローデシア人をはじめ、ニュージーランド人、カナダ人、インド人、グルカ人、アフリカ人、ユダヤ人、アラブ人、亡命者の部隊(ポーランド人、ギリシャ人、チェコ人、スロバキア人)、反ファシストのイタリア人。

フランス軍にはセネガル、モロッコ人、アルジェリア人も含まれていた。

これに対し、ドイツは連合軍内部の政治的攪乱を狙ってか、特にブラジル人を標的にビラに加えてベルリンラジオから毎日1時間の毎日ラジオ放送(ポルトガル語)を行うようになった。

イタリア戦線での戦闘

ブラジル軍がアメリカ第370連隊戦闘団と連携して行った最初の任務は偵察だったが、南フランスに上陸するドラグーン作戦のためにイタリアを去ったアメリカ第6軍団とフランス遠征隊の師団が残した空白を部分的に埋めるのに役立つ活躍を見せることになる。

ブラジル軍の第6連隊戦闘団は北イタリアを進軍して9月16日にはマッサローザを、2日後にはカマイオーレや北への進路上の他の小さな町を攻略。

次いで、ブラジル遠征軍は大きな犠牲者を出すことなくセルキオ渓谷を支配下に置く。

しかし、バルガ市周辺で最初の大規模な反撃に遭遇し、10月末にブラジル第1連隊戦闘団が到着した後、ブラジル遠征軍はトスカーナとエミリア・ロマーニャの州境にある北アペニン山脈の基地に向かい、続く数ヶ月は厳冬とドイツ軍の築いた防衛ラインの一つであるゴシック・ラインからの攻撃にさらされた。

連合軍は冬の間に山を突破することができず、特にブラジル遠征軍の左側面のアメリカ第92歩兵師団はドイツとイタリア軍による猛攻で第8インド歩兵師団の支援を必要としていた。

1945年2月末から1945年3月初めにかけての春攻勢の準備期間中、ブラジル軍とアメリカ第10山岳師団は、1944年の秋から効果的な砲撃により連合軍のボローニャへの進撃を阻んできた北アペニン山脈のドイツ軍の砲撃陣地を攻略に成功する。

そして、連合軍によるイタリア戦線での最後の攻勢が4月14日に始まり、約2000発の支援砲撃の後、ブラジル軍を含むアメリカ第4軍団はモンテーゼを奪取。

連合軍の攻勢の初日、ドイツ軍はブラジル軍がM8装甲車とシャーマン戦車を使用し、モンテーゼを奇襲しようとしていると誤解し、連合軍に対して発射した約2800発の砲弾の内1800発でブラジル軍を砲撃していた。

こうして、第4軍団のドイツの防衛線突破は決定的となった。

その後の4月21日、イギリス第8軍のポーランド師団とアメリカ第5軍の第34歩兵師団がボローニャに入城。

4月25日、ブラジル軍がパルマに、アメリカ軍がモデナとジェノヴァに到着すると同時に、イタリアのパルチザンが蜂起する。

イギリス第8軍はヴェネツィアとトリエステに向かって進軍した。

そして4月26日から始まったコッレッキオの戦闘において、ブラジル軍はターロ川流域でアメリカ第92歩兵師団によって解放されたジェノヴァとラ・スペツィアの地域から後退したドイツ・イタリア軍の反撃を待ち構えた。

こうした備えによって枢軸軍はフォルノボ付近で包囲され、戦闘の後に降伏。

4月28日にドイツ軍の第148歩兵師団全員、第90軽アフリカ師団、イタリア軍の第1ベルサリエリ師団の一部を含む13000人以上がブラジル軍の捕虜になった。

これは結果的にブラジル軍の大殊勲となる。

ドイツ軍はアメリカ第5軍に反撃するために、ブラジル軍の捕虜になった第148歩兵師団をリグーリアのドイツ・イタリア軍と合流させようとしていたために思わぬ打撃となったのだ。

ドイツはすでにカゼルタで休戦交渉を行っており、降伏条件を有利に進めるためにも手痛い反撃を連合国軍に与える必要があった。

その中でも第5軍は航空支援もままならず、まとまりを欠いて進撃しており、絶好の攻撃目標であったのだ。

第148歩兵師団が丸ごと降伏したことはこれらの計画がご破算になったことを意味し、続くアドルフ・ヒトラーの死とソ連軍のベルリン攻略の知らせが追い討ちとなってイタリアのドイツ軍は無条件降伏以外の選択肢は残されていなかった。

最後の進撃でブラジル軍はトリノに到着、5月2日にスーザの国境でフランス軍と合流。同じ日、イタリアでの戦闘終結が発表された。

ブラジル空軍の活躍

一方の空軍では、ドイツに宣戦布告した翌年の1943年12月18日にネロ・モウラ中佐を指揮官とする第1戦闘飛行隊(1oGAVCA)が結成されている。

同飛行隊には48人のパイロットを含む350人の人員が所属、赤(A)、黄(B)、青(C)、緑(D)の4つの飛行小隊に分けられていた。

訓練も装備も不十分だったブラジル遠征軍の陸軍部隊とは異なり、第1戦闘飛行隊にはPBY-5A カタリナ飛行艇を指揮してブラジル沖でドイツ軍潜水艦U-199を撃沈したアルベルト・M・トーレスはじめ、ブラジル空軍の精鋭パイロットが所属していた。

飛行隊はパナマの米軍基地で戦闘訓練を受け、1944年5月より、パナマ運河地帯の防空作戦に参加。

6月からは搭乗機をアメリカ製のP-47 Dサンダーボルトに交換した。

1944年9月19日、第1戦闘飛行隊はイタリアに向けて出発し、10月6日にリヴォルノに到着。

パイロットは必要最小限の人員であったため交代の予定はなく、アメリカ陸軍航空隊の第350戦闘機隊に配属された。

ブラジル空軍第1戦闘飛行隊の戦地での初飛行は1944年10月31日だったが、それから二週間も経たない11月11日、乗機としていたFABサンダーボルトの国籍マークをブラジル空軍のものに変え、戦術呼出符号「Jambock」として、

イタリアのタルクイーニアの基地から初めてブラジル軍単独の作戦任務を開始。

その後、第1戦闘飛行隊はアメリカ第5軍の支援として、偵察と航空阻止攻撃の任務を行った。

そして4月22日、第1戦闘飛行隊はこのヨーロッパ戦線において最もめざましい働きをすることになる。

地上攻撃のために飛行隊は午前8時30分から5分間隔で離陸、マントバ南部の武装偵察任務を開始。

その日の終わりまでに44の作戦を遂行し、戦車を含む80台以上のドイツ軍車両を破壊したのだ。

後年、この飛行隊の奮戦をたたえ、ブラジルでは4月22日をブラジル空軍の記念日としたほどである。

第1戦闘飛行隊は1944年11月11日から1945年5月6日まで445の作戦を行い、合計2546回の飛行と5465時間の飛行時間を記録。

1304台の車両、13両の鉄道貨車、8両の装甲車、25箇所の鉄道橋と高速道路橋、31箇所の燃料タンクと弾薬庫を破壊した。

戦術航空軍団の司令部もブラジル第1戦闘飛行隊の戦果を称賛したが、それまでに3人が訓練で、5人が対空砲火で死亡。

8人が撃墜されて死亡するか捕虜になるなど損害も決して少なくはなかった。

戦後

ヨーロッパでの戦役が終わった後、ブラジル軍はピアチェンツァ、ロディ、アレッサンドリアの各州で占領軍として駐留。

1945年6月初旬、ブラジル政府は遠征軍の解散を命じ、1945年半ばに帰国した。

ブラジルの第二次世界大戦への参戦は第一次世界大戦の時よりも大規模であり、連合軍への貢献は主に南大西洋での対潜水艦戦であったが、ヨーロッパ戦線に地上軍を派遣したことで政治的により目覚ましいものとなった。

しかし、こうしてブラジル遠征軍を送り出したヴァルガス政権であったが、この年の10月に軍部のクーデターにより大統領が失脚、崩壊してしまった。

ブラジル遠征軍の戦死者は北イタリアのピストイアに埋葬されていたが、後にリオデジャネイロの霊廟に移送された。

出典元―ウィキペディア英語版

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日本の仏師:仏師・円空が刻んだ祈りと芸術の軌跡

プロフェッショナルとは何ぞや?

その道の専門家にして、その分野の技術と知識、経験を生かすことによって報酬を得ている者を指すというのが一般的なところだろうか?

私は憚りながらそれにもう一つ定義を加えたいと思う。

それは「その分野において自分でも頑張ればできるようになると一般人に決して思わせない、神々しいまでの圧倒的技量を有した者」ということだ。

だからこそ、一般人はプロフェッショナルに敬意を払って少なくない報酬を払うのだ。

また、そうあるべきだと思う。

江戸時代前期、円空という僧侶がいた。

円空はその出生地の岐阜県内では特に有名な人物で、名前の通り僧侶だが同時に仏師でもあり、「円空仏」と呼ばれる独特の作風の仏像を多数彫ったことで知られている。

円空の彫った仏像の特徴は簡素化されたデザインで、その素朴でゴツゴツとした野性味に溢れた刀法でありながら、見る者を思わずほっこりさせる微笑をたたえていることだ。

遊行僧として北海道から畿内に渡る範囲を行脚し、その生涯で約12万体の仏像を彫ったとされる円空の作品「円空仏」は、出身地の岐阜県と隣の愛知県を中心に全国各地に約5300体以上現存している。

岐阜県を中心に、その温かみのある個性的な作風は今でも根強い人気があり、円空の作風をまねた円空彫りで仏像を制作する「円空会」のような団体もいくつか存在する。

岐阜県で生まれ育ち、幼いころからことあるごとに「円空仏」を目にしていた私は東京在住の現在、「円空仏」を見ると郷愁に駆られる。

そして同時に、かねてよりこんな不埒な思いを抱いていたことを告白する。

「この程度なら俺でも彫れそうだ」

あまりにも不遜すぎて岐阜県では禁句ですらあるが、公然の秘密というやつだろう。

同じ思いを抱いた者は円空の生前から2020年の現代まで通算で最低数十万人はいたはずだ。

確かに円空の彫る仏像は独特でえもいわれぬ優しい笑みをたたえているとかなんとか評価されているが、ぱっと見で彫り方が大雑把すぎるのだ。

はっきり言って素人っぽい

本気出せばできる気がしてしまうのだ。

ピカソとかゴッホはその気になれば素人には真似できない写実的な絵が描けるが、円空がその気になった作品を見たことがない。 生涯で12万体仏像を彫ったんならもっと上達しろよ、と言いたくなる私は罰当たりが過ぎるだろうか?

とにかく数を彫ることが目的で出来栄えには責任を負わなかったとしか思えず、そんな円空を、私は密かに「日本史上最も高名な粗製乱造者」と呼んだこともある。

私自身が前衛的な美術作品より写実的かつ迫真に迫った作品を好む傾向があるからかもしれないが、芸術作品はその発想力や表現力の前に、それを具現化するための技量も重要だと思う。

ミケランジェロとかのルネッサンス時代の巨匠なら仏像を作らせてもそれなりのものを作っただろうが、「円空のビーナス」や「円空彫りのダビデ像」はヨーロッパ文明への冒涜でしかない有様になるであろう。

もっとも、円空が仏像を彫る目的は「困っている人々を救う」ことであり、それらの人々のよりどころとなるような仏像を各地で彫り続けていたようだ。

より多くの人を救うにはたくさん彫らなければならず、そんなに時間をかけてこだわっている場合ではなかった事情もあった。

だが、彫ってもらった人々の中には「うわ、下手っ!」とか思った辛辣な恩知らずも結構いたと思う。

先ほどのプロフェッショナルの話に戻るが、私の定義から言えばやはり円空は仏師の分野において生涯アマチュアだったと断定せざるを得ない。

だいたい円空会なる円空の作風を真似ようとする人々の団体が複数存在すること自体、円空の仏師としての技量の程度を物語っているのではなかろうか?

また、同じ仏師でも運慶などはその作品のフィギュアがネットなどで販売されてるのに、私の探したところ円空仏のフィギュアは見当たらない。

運慶とかの作品を真似しようとする気が一般人に起きることはめったにないが、円空仏は自分で作れそうだもの。

つまりアマチュアにナメられている。

もう手遅れかもしれないが、円空会内外の武闘派円空愛好者が私を殺しに来るかもしれないので、円空の仏師としてのレベルについてディスるのはこれくらいにしておこう。

そうは言っても、そもそも私は円空の功績を貶めるつもりは全くない。

彼は仏師である前に宗教家たる僧侶であり、衆生を救うということこそ本分だった。

史実に残る通り円空はそれを実行にうつし、諸国を行脚して仏像を彫り続けたというその行為自体はまさに素人には真似できないことであるはずだ。

そして江戸時代前期のアマチュアレベルの仏像が三百年以上後でも5300体以上現存していることこそ、彼の宗教家としてのレベル、つまり徳の高さを物語っているのではないだろうか。

実際の彼自身は決しておろそかにできない人物であって、その人物が彫った仏像だから無下にはできないと思った人が相当数いなかったら、とっくに薪にされていたはずだからだ。

また、円空の彫った仏像はその人柄が出ていて、円空仏を見るたびに人々は円空を思い出したことだろう。

また円空に会ったことがない我々でも、何となく人となりが分かるようような気がしてこないだろうか?

きっと「いい人」とかいうレベルじゃなくて、仏様に近いかそのものの人物だったんではないかと。

円空彫りを真似ることはできても、生き方まで真似できる人はそうそういない。

円空は仏師としてはアマチュアだったが、僧侶としては疑うことなく最高のプロフェッショナルだったのだ。

今回、ご紹介しました円空についての書籍は、以下のリンクからご購入頂けます。

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レオタード愛好紳士たちへ

この記事は、日本語で作成し、機械翻訳で外国に訳しています。


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昭和の時代、こんな窃盗事件があった。

昭和X年某月某日、某高等学校の女子新体操部の部室から数万円相当のレオタード数着が盗まれた。

後日、窃盗事件として捜査していた警察は、県内に住む25歳の無職の男Aをこの事件の犯人として逮捕。

同時にAが某高校から盗んだレオタードを押収した。

Aが逮捕されたきっかけは、ある住民からの通報だった。

その住民は、道路わきに駐車した車に乗っていたAを見たとたん「変な人がいる」と警察に連絡したのだが、それはAが車内でレオタードに着替えていたからだ。

駆けつけた警察官に不審者として職務質問されたAは、「何をしているのか」「このレオタードの入手先は」と問い詰められ、自分の犯行を認めざるを得なかった。

着用していたレオタードが、盗難届けの出されていたもの以外の何者でもなかったから、ごまかすことができなかったのだ。

こうしてレオタード泥棒は御用となり、盗まれていたレオタードも正当な持ち主である新体操部員に返還されて事件は解決した。

だが、彼女たちが戻ってきたレオタードをためらうことなく再び着ることができたかどうかまでは報道されていない。(出典―VOW 宝島社)

レオタードは見ていて確かに魅力的だが(私も結構好きだ)、盗難はいかん。

新体操部員たちは決して安くはないレオタードを盗まれ、汚染されてしまった。

犯人のAも、報道の規制が緩かった昭和の時代にこんなことをやらかしたがために新聞で実名をさらされ、人生を棒に振ったはずだ。

最初に断っておくが、完全な加害者であるAを擁護するつもりは毛頭ない。

だが、もしAが平成から令和の時代に生きていたのならば、ひょっとしたらこんな犯行を犯すことはなかったのではないだろうかとも思うのだ。

昭和という、今から思えば多様性を社会が認めたがらなかった時代だからこそ、彼は道を外したのではないか?

それは、最近ネットでこんな商品を見つけたからだ。

商品名『FEESHOW(フィーショー)メンズレオタード』というらしい。

昨今はIiniim(アイム)などの男性用ブラジャーまでもが堂々ネットで売られているのを知って、「まさかレオタードも?」と思って調べたら本当にあったから驚きだ。

色違いのものや、半袖、光沢があるタイプもある。

この欧米人の男性モデルも、まるでスポーツウェアか背広を着ているようにさわやかである。

仕事選べよ

お前はモデルの仕事のために男廃業してるぞ、と言いたくなる。

それはさておき、こんなものがたやすく手に入る今の世だったら、Aは盗みに入ることなく健全にレオタードを嗜めたのではなかろうか?

彼は自分のプライベートスペースで、紳士的かつ情熱的にひとりファッションショーを楽しめるはずだ。

この『FEESHOWメンズレオタード』は写真から見てまごうことなきレオタードで、しかもそれなりに筋肉質な体をした男性モデルが無理なく自然体に着ている。

ということは、日本人の平均的な体格の男性ならばレオタードを痛めることなく着用できるだろう。

現実の女性用のレオタードは女性が着るために設計されたもので、

男性が着用することはむろん想定していない

男性が着ようとすれば、形状やサイズが合わず、着用は困難を極める。

仮に着用に成功したとしても、不必要で過剰な圧迫を受けて、着心地は最悪なはずだ。

それどころか、非使用対象者による不適切な使用にあたるため、レオタードの製品寿命は著しく短縮するであろう。

だが、この製品は男のためのレオタード、メンズレオタードなのだ!

見るだけでは飽き足らず、着用したいと願うレオタード紳士の願望を見事にかなえ得る逸品と言えるであろう。

昭和の時代にこれがあったならば、Aもレオタード獣の窃盗犯に墜ちることなく、救われていたかもしれない。

もっともAが着用済みのものを好む純粋な「中古品嗜好」の持ち主だったら、救いようがなかっただろうが。

最後に一言。

私もレオタードは好きだが、見る専門だ。

その主眼はレオタードを着用した新体操の女性選手そのものにある。

自身が着用したいと思ったことは一切ない。

今回ご紹介しました「Feeshow メンズレオタード」は、以下のリンクからご購入頂けます。みなさんも1着どうでしょうか?

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西成暴動 ~バブル期の日本で起きた大暴動~

今から30年前の1990年、すなわち平成2年の日本はどのようであったか?

そう、まだバブル景気真っただ中だった。

モノは飛ぶように売れ、庶民は財テクに走り、海外旅行に行ってはブランド品あさり。

就職難とも無縁で、誰もが空前の好景気を実感できた時代。

経済の凋落が著しく、失われた30年となることが決定的となりつつある現在の日本と比べると、素晴らしい時代に見えるはずだ。

だが当時を生きていた人々が皆そう思っていたわけではなかった。

特に大阪市西成区北部に位置する通称「あいりん地区」で生きていた日雇い労働者たちは。

日本人が最も幸福だったはずの1990年10月2日に、彼らは大暴動を起こした。

大阪市西成区の通称あいりん地区は釜ヶ崎という旧名でも呼ばれ、日雇い労働の斡旋所があり、労働者向けの簡易宿泊所や飲食店が軒を連ねるドヤ街である。

多くの日雇い労働者が集まるため、中には怪しい人間も交じり、暴力団事務所も多いことから治安が悪いことでも有名な地域だ。

暴動のきっかけは、このあいりん地区を管轄する西成署の刑事課の捜査員が、西成を縄張りとする暴力団から捜査情報の見返りに賄賂を受け取っていたことだった。

この当時はバブル景気真っただ中で日雇い労働者たちも仕事にあぶれることはあまりなかったが、その暴力団は日当をピンハネするなど労働者たちを食いモノにしており、一方の西成署員たちは労働者たちを普段から犯罪者扱いして邪険にしていた。

その憎むべき両者が結託していたことに労働者たちが激怒し、西成署前に押しかける。

「出てこい汚職警官!」「税金ドロボー!」

折しも夕方だったために、仕事明けの労働者たちが西成署の前に続々集まって怒声やヤジを張り上げた。

労働者たちに盾を持った署員や機動隊員が立ちはだかったが、やがて騒動はその警官隊に向かっての投石にエスカレート。

午後八時には、約500人にまで膨れ上がった労働者たちが車や道路に積み上げた自転車に火を着け、本格的な暴動に発展していった。

明けた10月3日、午前中のうちに日雇い仕事にあぶれた労働者ら数百人が集結して警官隊に向けた投石が始まり、各地から応援を得て1500人まで増員された機動隊は放水車まで使った鎮圧に乗り出す。

この当時はデモ隊との衝突が頻発した安保闘争の時代からすでに二十年が経過しており、警察側にも暴徒鎮圧のための経験が不足していため、冷静さを失った隊員たちは制圧のために過剰な暴力を行使する。

だが、暴動は一向に収まる気配はなく、いたるところで車や自転車が放火されて炎上。

道路のど真ん中で、火をつけられたプロパンガスが炎を噴き上げるなど異様な光景が西成で展開された。

暴動三日目となった10月4日。

このころから群衆の中に中学生か高校生の年代の少年が混じるようになる。

労働者の起こした暴動に便乗してひと暴れしようとやって来た不良少年たちで、彼らの出現によって西成暴動は最悪の規模に発展した。

彼らは機動隊に向かって火炎瓶を投げる一方、自動販売機や商店を破壊して略奪を始めたのだ。

この日の夜、暴動はピークに達する。

騒動は西成区ばかりか隣接する浪速区にまで拡大。

車ばかりか阪堺電軌阪堺線・南霞町停留場が放火されて全焼し、翌5日未明までにこうした放火が12件を数えるほど事態は悪化した。

四日目となった5日も小競り合いが続いたが、大阪府警は前日より1000人多い約2500人もの警官を動員して警備体制を強化。

検問や通行止めなどによって過激な行動に出る若者らと群衆を分断し、なんとか大規模な騒動を回避するのに成功した。

この日を境に西成暴動はようやく終息に向かう。

翌6日にも数十人規模の抗議活動は行われていたが、もはや投石や放火などが発生することはなくなり、西成暴動は終結した。

このあいりん地区で起きた暴動はこれが初めてではなく、この1990年の暴動の17年前にも発生しており、通算22回目の暴動だった。

しかしこの第22次西成暴動は被害の程度から、これまでに起きた中で最悪のものだったと言われている。

その後、あいりん地区では1992年(平成4年)10月に第23次、2008年(平成20年)6月にも第24次西成暴動が発生しているが、そこまでの規模には発展していない。

相変わらず日雇い労働者の集まるドヤ街ではあるが、現在では簡易宿泊所の安さに魅かれてやってくる外国人旅行者もおり、しょっちゅう暴動が起きたことから「西成ライオットエール」という危険なネーミングの地ビールまで製造・販売されている。

日雇い労働者の高齢化が進んだからか、あいりん地区から、かつてのような危険な匂いは薄れてきているようだ。

それは平成・令和と時代が移り行くうちに、昭和の毒々しさや荒々しさが失われたということでもある。

現在のあいりん地区には、平成が始まったころまでは残っていた、良くも悪しくも活力があった時代の面影はない。

出典―平成史全記録・毎日新聞出版平成史編集室

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昭和史に見る日本の混沌と変革の時代


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『女子高生が、写真館でヌード写真を撮影させて少なからぬ金銭を受け取っており、その数は二百人余りに上ることが判った』

 貞操の価値が暴落してから久しい。

九十年代にはすでに援助交際と称して女子高校生が売春を始めていたから、ヌード写真を撮影させていたなんて「何だ、その程度か」感すらある。

しかし、これは平成や令和の世で起きたことではない。

昭和も昭和、それも昭和2年(1927年)5月の新聞報道なのだ。

昭和2年なんて、戦前どころか限りなく大正時代に近い大昔。

まだ軍部が健在で、未成年の明治生まれがいて、江戸時代生まれすらゴロゴロいた時代。

貞操観念が現代とは比べ物にならないほど堅かったはずである。

にもかかわらずヌード写真を撮影させていたのは、よりによって家柄も懐具合も立派な家庭出身で、厳格な躾を受けてきたはずの名門お嬢様学校の生徒ばかり。

そんな嫁入り前の御令嬢たちが、小遣い銭欲しさに易々と自分のヌードを他人にさらしていたのだ。

戦後、生きるために米兵に体を売っていたパンパンならともかく、食うに困らない名門のお嬢ちゃんたちが遊ぶ金欲しさでそんなことをやっていたなんて、援助交際やってた平成の女子高生とほとんど変わらない。

 今も昔も、ヒトの考えることは同じということなんだろう。

 でも ちょっとうれしくならないか?

 君子然とすました顔で写る白黒写真の中の人たちが、ヘラヘラとスマホで自撮りしている現代の我々と同じく生臭いことを考えていたことが分かると。

出典:毎日新聞社『昭和史全記録』より