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2021年 世界史 戦争もの 歴史

エチオピア軍の朝鮮戦争 ~エチオピア最強部隊・カグニュー大隊~

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1950年6月25日、朝鮮半島の南北統一をもくろむ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が事実上の国境となっていた38度線を超えて南の大韓民国(韓国)に侵攻。

1953年7月27日まで丸々三年続くことになる朝鮮戦争が始まった。

6月27日に開催された国連安保理では、この北朝鮮の南侵を侵略と認定。

7月7日、北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国防衛のため、加盟国にその軍事力と支援を提供するよう求め、アメリカを中心とする国連軍の出動が決定された。

この国連軍には、北朝鮮の後ろ盾であり言わずと知れた黒幕のソ連や中国(この当時は国連に加盟していなかった)はもちろん参加しておらず、アメリカをはじめとする西側陣営の諸国が中心となった16か国で構成されていたが、その中には、遠くアフリカ大陸から参戦したエチオピア軍も加わっていた。

規模ではアメリカ軍32万人に遠く及ばない1200人程度の大隊の派遣であり、アメリカ軍の指揮下での戦闘参加である。

しかし、ただ国連軍に名を連ねていただけの影の薄い存在では、決してなかった。

なぜならその“カグニュー大隊”と呼ばれたエチオピア軍は、北朝鮮軍や中国軍(抗美援朝義勇軍)と戦闘で、対等以上に渡り合ったからである。

カグニュー大隊の派遣

当時エチオピアを統治していたエチオピア帝国皇帝のハイレ・セラシエは、国連の要請を受けると部隊の派兵を快諾した。

第二次大戦中イタリア軍に自国を侵略されたハイレ・セラシエは、集団安全保障という考え方の信奉者であったからである。

そして、派遣される部隊は主に皇帝直属の親衛隊から選ばれた大隊規模で、指揮官や将校も第二次世界大戦を経験した筋金入りで組織された。

その大隊は、ハイレ・セラシエ皇帝の父で19世紀末に起きた第一次エチオピア戦争の英雄でもあるラス・マコネンの乗馬の名にちなんで、“カグニュー”大隊と呼ばれるようになる。

カグニュー大隊は、派遣前に朝鮮半島の地形に似た山岳地帯で八か月の訓練を受けると、買開戦翌年の1951年4月12日に、当時フランスの植民地だった隣国のジプチから、第一陣1122名が海路極東に向けて出発。

5月6日、釜山に到着すると米国製の装備を受け取って、さらに六週間にわたる訓練を受けてから米軍第7歩兵師団の指揮下に加わり、共産軍との一進一退の攻防が続く38度線近くの最前線に配置された。

カグニュー大隊の戦闘

カグニュー大隊は1951年8月12日、現在の韓国江原道華川群の赤根山での作戦を皮切りに、米軍の下で共産軍相手の戦闘を開始した。

それから間もない10月の三角丘の戦い(鐵原郡)において、夜間戦闘で目覚ましい働きにより頭角を現し、米軍将兵を瞠目させるようになる。

それもそのはず、彼らはエチオピア軍の最精鋭部隊である皇帝の親衛隊隊員。

エチオピア国内において卓越した頭脳、精神力、肉体を有した者の中から選抜された本物の戦士たちだったからだ。

そんな“男の中の男”たちで構成されたカグニュー大隊の戦場でのモットーは“勝利か死か”。

米軍から貸与されたM1ガーランドやM1カービンを使いこなし、500メートル以内での命中率は抜群で、迫りくる共産軍の兵士を片っ端から射殺。

白兵戦も上等で、人数にモノを言わせて雲霞のごとく押し寄せてくる中国軍にも銃剣で立ち向かって返り討ちにしたのだ。

朝鮮戦争の休戦まで同大隊は三回入れ替わったが、その間 “鉄の三角地”での戦いや1953年の“ポークチョップヒル”の戦いまで激戦を戦い抜き、どの戦闘でも共産軍相手に後退することはなかった。

1953年5月の戦いでは、共産軍の一個大隊を壊滅させ、大韓民国政府から勲章を授与される栄誉に浴する。

そして、1953年の7月27日に休戦協定が結ばれるまで、戦場に留まり続けた。

カグニュー大隊は、この戦争で延べ6037人が派遣され121人の戦死者と536人の戦傷者を出したが、特筆すべきは、共産軍の捕虜になった者が一人もいなかったことである。

また、戦死者の死体を戦場に置き去りには、決してしなかったという。

この勇敢さと戦闘力を、指揮下に置いていた米軍も、大いに認めていた。

米国はこの戦争で「敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを示した」兵士に対して授与される最高の勲章、シルバースターを9個、それに次ぐ「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に授与されるブロンズスターメダルを18個、エチオピアの戦士たちに贈ったのだ。

シルバースターは、本来自国の兵隊である米兵にしか授与されないものなので、いかに彼らの評価が高かったかが分かるであろう。

戦後

休戦後もエチオピアからの派兵は続き、国連軍の一部として第4、第5カグニュー大隊が入れ替わりで韓国内に駐留した。

余談ではあるが、ローマと東京オリンピックのマラソンで二大会連続金メダルを獲得したアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊出身でカグニュー大隊の一員として朝鮮に派遣されおり、釜山到着後休戦になったため、駐留軍に加わることもなく帰国している。

このように、朝鮮半島で命をかけて戦った彼らだが、その功労に報いるべきエチオピア帝国は、長く続かなかった。

皇帝のハイレ・セラシエは外交では、活躍したが内政では失政が続いたために国内では不満が溜まり、1974年のエチオピア革命で廃位された上に翌年殺害されてしまい、帝国が滅んだからだ。

エチオピアの新たな支配者となったメンギスツ率いる社会主義軍事政権は当然、前政権で特権的地位にあった皇帝の親衛隊隊員たちを快く思うはずがない。

その後の人生を手厚く保証されるはずだった元隊員たちの多くが殺されないまでも冷遇され、みじめな境遇に落ちぶれることになってしまった。

だが、その一方で韓国は彼らへの感謝の念を忘れていなかった。

第二次大戦前における日本の所業を捏造してまで追求し、ベトナム戦争時での自国軍の戦争犯罪には知らんぷりするが、国家存亡の危機にアフリカからはるばる救いの手を差し伸べたエチオピアに対しては違ったのだ。

カグニュー大隊の記念碑や記念館を建立し、1996年にはカグニュー大隊の生き残りの兵士たちへの給付金の支給を決定。

多くが貧困に落ちぶれた元隊員の子弟たちの中でも成績の優秀な青年を学費免除で韓国に留学させたりするなど、目に見える形で報いようとしているのだ。

朝鮮戦争が休戦になってから、60数年となった現代。

かつてはるか遠くの朝鮮半島で戦ったカグニュー大隊の隊員たちは老境に達し、200人余りとなった彼らは時々戦友たちと旧交を温めながら故国で余生を送っている。

そのうちの一人はこう語った。

「皇帝陛下の御命令は、“韓国の自由と平和を守れ”だった。しかし一つ目の“自由”は守ったが、二つ目の“平和”は守れなかった。あの戦争は休戦したのであって終戦ではなく、未だに韓国と北朝鮮に分かれて緊張状態が続いているからだ。せめて死ぬ前に統一された朝鮮を見たい」

出典元-百度百科、ウィキペディア英語版

わかりやすい朝鮮戦争 民族を分断させた悲劇の構図 (光人社NF文庫)

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ゴア併合 ~1961年・印ポ小戦争~

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1961年12月18日、1510年以来ポルトガル領となっていたインド西海岸のゴアにインド軍が侵攻。

陸海空3万人以上による攻撃で駐留するポルトガル植民地軍を圧倒して降伏させ、力づくで451年続いたポルトガル統治にピリオドを打ち自国の領土に編入した。

当事国であるインドはこの軍事行動をヴィジャエ(勝利)作戦と称して自国の領土を奪還した正当な措置と主張し、もう一方のポルトガルはゴア侵略(Invasão de Goa)と呼んで反発。

このインドの武力行使については国際的に賛否両論が巻き起こり、両国はそれ以来1974年まで断交状態が続いた。

前史

ゴアは1510年、ポルトガル人アフォンソ・デ・アルブケルケに占領されて以来、400年以上にわたってポルトガルに支配され、他にもダマン(正式併合1539年)、ディーウ(1535年併合)が英国から独立した1947年の時点でもポルトガル領インドとして存在していた。

当時のこの三か所のポルトガル領インドの総面積は約4000平方キロ、総人口は637591人。

そのうち61%がヒンズー教徒で、ポルトガルの植民地であった影響で36.7%がキリスト教徒(もちろんカトリック)、イスラム教徒は2.2%のみであった。

すでに大航海時代の黄金期ははるか昔の話となり、主要な産業は農業であったが、1940年代から鉄やマンガンが採掘されるようになって砿業が盛んになりつつあった。

しかし第二次世界大戦前、英国の植民地であったインド本土が独立運動を展開していたのと同様に、ゴアにおいてもポルトガルの統治に反対する動きが起こっていた。

T.B.クーニャ

その先駆者となったのはフランスで教育を受けたゴアのエンジニア、T.B.クーニャであり、1928年ゴア会議派委員会を創設し、ゴアのポルトガルからの解放を呼びかけた。

同時期、英国に対して独立運動を行っていた本土のインド人の指導者たちラージェーンドラ・プラサードやジャワハルラール・ネルー、スバス・チャンドラ・ボースなどもこのゴア会議派委員会に賛同する意思を表明。

1938年にはクーニャらは当時インド国民会議派議長だったスバス・チャンドラ・ボースと会見し、ボースの提案の下、ムンバイにゴア会議派委員会の支部が設けられてクーニャが議長となった。

そして第二次世界大戦を経た1947年、英国から独立したインドはポルトガルにも自国の領土の返還を要求する。

だが、当時独裁政治を行っていたアントニオ・サラザール率いるポルトガル政府は植民地帝国としての権威にしがみつき、これを拒否した。

植民地を有することによってかろうじて大国としてのメンツを守っていたポルトガルは、ゴアの独立が他の植民地での独立闘争に波及することで植民地帝国が崩壊することを恐れていたのだ。

アントニオ・サラザール

そしてゴアの植民地当局は公共の場所での集会を禁止し、解放運動の参加者を逮捕するなど力で抑え込む措置に出た。

これに対し、ゴア人たちの植民地政府への抗議行動は主にガンジー式の非暴力によるものであったが、ゴア自由党やゴア統一戦線のように武装蜂起する集団も出現するようになる。

これらの武装集団の構成員はゴア以外のインド人が大部分で、第二次大戦中は英印軍に参加して実戦を経験していた者が多かったため、大戦中は中立を守っていたポルトガルの植民地軍を大いに苦しめた。

インド政府もゴア自由党などの武装抵抗組織に武器を援助したり、インド領内での活動を認めたばかりか、ゴアへの道路や水道、電話線を封鎖。

ポルトガル植民地政府に圧力を加え始めた。

ゴアをめぐるインド-ポルトガルの外交交渉

1950年2月27日、インド政府は改めてポルトガル政府にゴアを含めた他のポルトガル領インドの今後についての話し合いを要求したが、ポルトガルはインド亜大陸における領土は植民地ではなくポルトガル本土であるという姿勢を崩さず、話し合いを拒否。

同時に、それらの地がポルトガル領に編入された時にインド共和国は存在しなかったことを理由に、インドに帰属すべき歴史的な根拠がないと主張した。

ポルトガルは1949年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、これも強気の背景となっていた。

この政府間軍事同盟は加盟国の域内が攻撃された場合に、集団的自衛権を行使し共同で対処することができるからだ。

ポルトガルの強硬な態度にインドも対抗措置として1953年6月11日リスボンから外交使節を引き上げさせた。

1954年になるとインドはポルトガルへの嫌がらせをよりグレードアップさせる。

ゴアの住民のインド本土入境にビザの申請を義務付けたのだ。

これによりゴア以外のポルトガル領であるダマンやディーウとの相互の往来にも支障をきたすようになった。

同年7月22日から8月2日の間には武装集団がゴアとは別のポルトガル領インドであるダドラとナガル・ハヴェーリーのポルトガル軍守備隊を攻撃するなどゲリラ攻撃も続く。

そして翌年の1955年8月15日、事件が勃発する。

この日非武装のインド人活動家3000から5000人が抗議活動のため六ケ所からゴアに侵入しようとしていたのだが、それをポルトガル当局が武力で制圧したため30人ほどの死者を出す大惨事となったのだ。

この事態は本土のインド人の反ポルトガル感情を激化させ、同年9月1日にインド政府はゴアの領事館を閉鎖、武装抵抗組織を支援するだけでなく軍による武力行使をもちらつかせるようになった。

一方のポルトガル政府内ではゴアの帰趨を現地の住民投票により決める案も検討されたが同国の国防相や外相の反対により立ち消えとなる。

また、英国による調停や国連の介入を要請するなど外交チャンネルを通じた解決を模索。

その結果駐インド米国大使がインド政府に平和的な解決を要求するなど国際的にも関心が高まってきてはいたが、当時インドとは友好的な関係だった中華人民共和国などは当然のごとくインドを支持する声明を発表。

インドの国防相と国連大使は「武力解決も辞さじ」ともとれるような声明を出し、強硬な態度をエスカレートさせていた。

そして1961年11月24日、決定的な事態が発生する。

インドの客船サバルマティ号がポルトガル領アンジェディバ島の付近でポルトガル軍から銃撃を受けて2名の死傷者を出したのだ。

ポルトガル側は同船が自国領であるアンジェディバ島を攻撃するための武装集団を乗せていると疑ったためだったが、完全にインド側に軍事行動を起こさせる口実を与えてしまった。

インド首相ジャワハルラール・ネルー

12月10日、ポルトガルへの軍事行動を支持する世論に背を押されたインド首相のネルーはメディアに「ゴアがこれからもポルトガルの統治下に置かれ続けることはあり得ない」と最後通告ともとれる発言を行う。

米国はこれが国連安保理に侵略行為として提出されたら今後いかなる支援もしないとインドに警告したが、武力衝突は秒読みとなっていった。

インド軍の侵攻準備

ゴア奪還のためにインド政府は陸海空3万人以上の部隊を編成していた。

むろんサバルマティ号が銃撃されるずっと以前からであったことは言うまでもない。

まず陸軍が南部軍管区の歩兵第17師団と第50空挺旅団が中心となり、飛び地のダマン攻撃にはマラーティー軽歩兵大隊、ディーウ攻撃にはラージプート第20大隊とマドラス第4大隊が割り当てられていた。

空軍も航空支援に当たることになり、インド西部軍管区空軍司令官の指揮の下、20機のキャンベラ爆撃機や6機のバンパイア戦闘機をはじめとした計42機がポルトガル側の空軍基地攻撃を行う。

インド海軍はラージプート級駆逐艦のラージプート、ククリ級フリゲート艦のキンパルをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、フリゲート艦8隻、掃海艇4隻の堂々たる陣容で、これに加えて介入を試みる第三国ににらみを利かせる目的も兼ねて軽空母のヴィクラント(初代。現在同名のインド軍空母は二代目)までが参加することになった。

ちなみにこのヴィクラントは後の第三次印パ戦争でパキスタン軍相手に機動戦を行うなどの大暴れをすることになる。

インド海軍軽空母ヴィクラント

ポルトガル軍の迎撃準備

12月14日、インド軍の侵攻を予期していたポルトガルの独裁者サラザール首相はゴアの総督兼現地ポルトガル軍の最高司令官マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバに断固死守を厳命する。

ゴア総督マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバ

そうは言っても、陸海空至れり尽くせりで準備万端のインド軍に対し現地のポルトガル軍は兵力でも装備でも劣り、約3300人のヨーロッパ系の兵士と900人の現地人兵、他に約2000人の警官が動員できる全てであり、なおかつ訓練が不足していた。

艦艇もフリゲート艦1隻と巡視艇3隻、その他徴用した商船しかなく、それをゴア、ダマン及びディーウの防衛に振り分けなければならないなど明らかな劣勢であった。

そしてポルトガル軍の戦術はモーミューガオ港を死守することで、インド軍の侵攻を遅らせるために開戦と同時に橋梁を爆破し、幹線道路に地雷を埋設する手はずだったが、必要な地雷も爆薬も不足していた。

インド軍は事前にポルトガル軍がF86セイバー戦闘機を有した飛行中隊を有していると考えていたが、実際には輸送機が2機と2個高射砲中隊を保有するに過ぎず、彼我の戦力差は陸海空いずれも絶望的ですらあった。

増援をしようにも軍需物資を積んだ輸送機の領空通過を周辺国に拒否されたばかりか、同じ北大西洋条約機構加盟国であり身内であるはずの英国にまで支援を断られ、事実上ゴアは孤立無援となっていた。

開戦前の時点でポルトガルは敗北していたのだ。

12月9日、ゴアに立ち寄ったポルトガルのリスボン行きの船によるポルトガル系の民間人の本国への退避が始まったが、これはゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバの独断での退避許可であって、何とポルトガル本国の政府は民間人の退避を認めないように総督に命令していた。

この民間人の避難は一回で終えることはできず、インド軍の空襲が始まるまで続けられることになる。

ヴィジャエ(勝利)作戦の開始

12月1日からインドはゴアへの小規模な偵察を行い、12月18日、海上でゴア攻撃の火ぶたが切られた。

同日午前4時、ポルトガル海軍の巡視艇ベガがディーウ付近の海域でインド海軍の巡洋艦ニューデリーに遭遇、攻撃を受けて基地に撤退。

これが事実上のインド軍によるゴア武力奪還作戦・ヴィジャエ(勝利)作戦の始まりだったが、この期に及んでもポルトガル側には開戦したという認識はなかったようだ。

インド軍の空襲

キャンベラ爆撃機

ポルトガル海軍の巡視艇が攻撃された同日の12月18日、インド軍空軍の爆撃が始まり、本格的な武力衝突の火ぶたが切って落とされた。

12機のインド空軍の英国製キャンベラ爆撃機がまず攻撃したのはゴアの空の玄関口ダボリム飛行場。

爆撃で滑走路を破壊すると、その1時間後には8機のキャンベラ爆撃機が再度空襲を行ってポルトガル空軍の輸送機を1機破壊した。

インド空軍は無線局にも攻撃を行い、この時ようやくポルトガル軍の高射砲が迎撃を始めたがもはや効果的な反撃はできそうになく、数時間後にはダマンやディーウも航空攻撃を受けることになる。

海上での戦い

インド海軍軽巡洋艦マイソール

18日14時25分には飛び地のアンジェディバ島にインド海軍の陸戦隊が上陸してポルトガルの守備隊と交戦。

一旦インド軍は撃退されたが、その後海軍の軽巡洋艦マイソールやフリゲート艦トリシュルによる艦砲射撃が島に加えられ、翌19日の14時にポルトガル軍は降伏した。

この地での戦闘ではインド側に7人の戦死者と19人の負傷者が出た。

ゴア本土のモーミューガオ港では小規模な海戦も起こる。

同港に立ちはだかるポルトガルのフリゲート艦アフォンソは、フリゲート艦ベトワをはじめとした3隻のインド艦艇相手に400発近くの砲弾を発射するなど奮戦。

しかし衆寡敵せず、艦橋を破壊されるなどの深刻なダメージを受けたために艦の放棄の命令が下され、乗組員によって座礁させられた。

フリゲート艦アフォンソ

ゴアでの地上作戦

18日早朝、インド軍第50空挺旅団が三つに分かれて侵攻を開始した。

東を進むのは第2マラーティ空挺連隊でポーンダーからゴアの中心に侵入。

中央は第1パンジャブ空挺連隊であり、バナスタリムに向けて進撃。

西へは第2シーク軽歩兵連隊が進み、朝6時30分インドとゴアの境界線を越えて侵入。

抵抗らしい抵抗も受けずにポルトガル領ゴアの中心地パナジに迫ったが、次の命令を待つために手前500メートルで停止する。

翌19日7時30分、改めて攻撃の命令を受けて二個中隊がパナジに侵攻したがまたも抵抗を受けることなく占領に成功、現地の住民から解放軍として迎えられた。

北部と東北方面戦線

18日、北部ではインド第63歩兵旅団が左右二つの縦隊に分かれてゴアに侵攻、右の縦隊は第2ビハール連隊、左の縦隊は第3シーク連隊で構成されていた。

両連隊とも抵抗を受けることなく進撃したが、河川に架かる橋をポルトガル軍に破壊されていたので遅滞を余儀なくされる。

しかし翌日、胸まで水につかりながら第3シーク連隊は河川を強行突破して同日正午にはゴアの行政の中心であるマーガオに到達。

そこからゴアの主要港のモーミューガオ港に向かったが、途中でポルトガル軍の強烈な反撃に遭遇する。

しかしこの頑強なポルトガル軍(約500名)も後から加わったインド軍の第2ビハール連隊の火力に押されて劣勢となり、最終的には降伏した。

そのマーガオ以南の地域ではインド軍の第4ラージプート中隊のように地雷原に誘い込まれた部隊もあったが、最重要防御地域であるために激戦が予想されたモーミューガオ港への進撃は同港を守るポルトガル軍が一発も発砲することなく降伏したことで幕を閉じる。

19日20時30分、ゴアでの戦闘は終わった。

ダマン攻撃

18日払暁、ゴアよりはるか北方のアラビア海に面した飛び地であるダマンを攻撃したのはインド軍のマラーティ第1軽歩兵連隊である。

17時までにマラーティ第1軽歩兵連隊はほぼ無血でダマンの大部分を占拠。

600名のポルトガル軍守備隊は戦意を喪失して飛行場に逃げ込んだが、翌日そこを包囲されると投降した。

ディーウ攻撃

同じく18日の早朝ダマン西方のディーウにインド軍第20ラージプート大隊の二個中隊が西北方向から侵入した。

しかしダマンと異なり、この地を守るポルトガル軍は戦意旺盛で死に物狂いの抵抗を見せたために進撃が阻まれる。

インド軍も航空機による支援爆撃などで対抗したが戦闘は続いた。

翌日まで徹底抗戦を続けたポルトガル軍だったが弾薬が底をついたため、降伏を余儀なくされた。

このディーウでの戦闘でインド軍は4人が戦死して14人が負傷、ポルトガル軍は10人が戦死して2人が負傷していた。

19日午後にはディーウ近くの沖に浮かぶ島パニー・コータもインド軍マドラス大隊に占拠された。

ポルトガルの降伏

19日の夜までにゴアの大部分はインド軍に占領され、残りはゴア西海岸の都市ヴァスコ・ダ・ガマに2000人余りのポルトガル軍兵士が立てこもっているに過ぎなかった。

だが、この期に及んでもポルトガル本国の命令は強気かつ非情で、それは「ゴアを破壊しつくせ」という焦土作戦の実行だった。

ポルトガル総督ヴァッサロ・エ・シルバが「インド軍は自軍の数倍以上で弾薬も食料も欠乏している」と本国に実情を報告したにもかかわらずである。

22時30分、万策尽きたと判断した総督は本国の指令に反して降伏を選択。

総督自らが降伏文書に署名してポルトガルの451年にわたるゴア統治は幕を下ろした。

この軍事行動でのインド側の戦死者は22人、ポルトガル側は30人であったが、もし総督が本国の命令に忠実であったならばより多くの犠牲が出ていたことは間違いない。

降伏後ゴアを離れるアフリカ系ポルトガル軍兵士

その後

降伏した4668名のポルトガル兵は捕虜となったが、翌1962年5月にその大部分は釈放された。

だが、独断で降伏を選んだゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバは帰国後に軍法会議にかけられ、マデイラ諸島に流されてしまった。

まごうことなき敗戦であり、この事実はポルトガル国民を打ちのめした。

その年のクリスマスは異様に沈んだムードの下迎えられ、あたかも国中が喪に服しているようだったという。

ポルトガル政府はこのインド軍によるゴア併合を侵略と非難、インドとの外交関係を断交したばかりか、その後ラジオ放送を通じてゴア市民にインドへの抵抗を呼び掛けることすらした。

何ら支援しなかったとはいえポルトガルを支持する米国、英国も国連で非難決議案を出したが、ソ連に拒否権を発動されてしまった。

開戦前からインド寄りだった中華人民共和国(この当時は台湾の中華民国が常任理事国だった)もこの軍事行動を支持したが、この翌年にインドと国境紛争を起こすことになる。

ポルトガルがインドとの外交関係を復活させたのは、1974年に起きたカーネーション革命以後のことである。

サラザール亡き後の独裁政権を倒したポルトガル新政権は侵略されたとしてきたゴアをはじめとした旧自国領のインドの主権を認め、外交関係を修復させたのだ。

ちなみに犠牲を最小限に抑えたが、前政権に背いた決断をしたために流刑に処された元ゴア総督のヴァッサロ・エ・シルバも名誉を回復、1985年に天寿を全うした。

現在のゴアはパナジを首府とするゴア州となり、観光業を主産業に鉱業も盛んなインドでも裕福な州の一つとなった。

インドに復帰してすでに半世紀となったが、ポルトガル時代のキリスト教建築とわずかになったポルトガル語話者が植民地時代をしのばせている。

出典元―ウィキペディア&百度百科

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歴史オタクをうならせる歴史学の大巨人

教養番組『英雄たちの選択』で見る磯田道史の凄味

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磯田道史という歴史学者がいる。

岡山県出身の1970年生まれ、

東京歯科大学客員准教授、静岡文化芸術大学文化政策学部准教授などを歴任し、現在、国際日本文化研究センター准教授。

著作は『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』『天災から日本史を読みなおす』『感染症の日本史』など多数あり、

『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は第2回新潮ドキュメント賞を受賞し、2010年には『武士の家計簿』のタイトルで映画化までされている。

2018年(平成30年)3月16日には「明治150年」を記念して平成天皇・皇后へ進講。

歴史関連のテレビ番組にもコメンテーターや司会として多数出演しており、NHK BSプレミアムで放送されている教養番組『英雄たちの選択』では司会を務めている。

このように歴史学者として華麗な経歴と実績を有し、各方面で大活躍している磯田氏だが、学者となる前の経歴を見るとまさに歴史家になるために生きてきたような人物だということが分かる。

磯田氏の家系は備前岡山藩の支藩である備中鴨方藩重臣に連なり、古文書が数多く残されていたという家庭環境だったために幼少の頃から歴史好きになった。

氏と同じく幼少の時から歴史好きになった者は私を含め少なくないが、氏の研究方法はそのころから他の未来の歴史好きとは一線を画していた。

何と小学生時代、近隣市町村の石仏から拓本を取って回るのが趣味だったのだ。

小学生とは思えない渋すぎる趣味である。

「子供のまま大人になった人」という言い方があるが、氏の場合は「子供の頃からオッサンだった人」も兼ねていると言った方が正しいであろう。

だが、そのおかげで同級生の女子に「オジン」の烙印を押されてしまい、それがトラウマになったようだが。

中学生になると古文書に興味を持つようになり、高校時代には『近世古文書解読辞典』を使って古文書の解読を始める。

私をはじめ幼少より歴史オタクになった者の多くは、大河ドラマか『学習まんが日本の歴史』などのマンガから歴史研究を始めており、中学や高校からようやく活字の歴史書を読み始めることが多いが、氏はこの時点で筋金入りだったのだ。

大学は当然のことながら史学を選択し、京都府立大学文学部史学科に入る。

史跡や古文書の多い京都ならば研究を行いやすいとも考えたようだが、同大に大学院がなかったことから大学の授業を受けながら受験勉強、翌年慶應義塾大学文学部史学科に入学した。

慶應義塾大学では、学内の図書館の膨大な文書の閲覧に熱中するあまり卒倒して救急車で運ばれたことがあるほど研究に専念。

同大学を卒業し、2002年(平成14年)同大学院文学研究科博士課程を修了、論文「近世大名家臣団の社会構造」で博士となった。

そんなバックボーンを持っている磯田氏であるから、自らが司会を務める教養番組『英雄たちの選択』で見せる歴史分野に関しての博覧強記ぶりは目を見張る。

日本史におけるどの時代のどの人物、どの事件や時代背景に対してもそれなりの知識と見解を持っているからだが、磯田氏に限らず博士号を有するような学者ならばそうであっても不思議ではないのかもしれない。

だが、氏の瞠目すべき点はそういった碩学ぶりだけでは決してない。

各時代の様々な事柄や現象を、現代的に分かり易く且つ絶妙な表現で視聴者に伝えることこそが真骨頂なのだ。

例えば、以下のごとくである。

武士はハイコスト。一回雇ったら終身雇用どころか子々孫々までの永代雇用となる。
幕末、松下村塾の塾生たちは塾長である松陰の死の作品化を大いに行い、維新につなげた。
(御三家の一つの)尾張藩は徳川内野党。

何という分かり易さだろう。

そして歴史的事実や事物、そして歴史的人物とその業績や行動をマクロ・ミクロ両方の視点で分析して、その意義や後世への影響について自らの見解を語る時などはよりトークが冴えわたる。

徳川家康は人生訓の見本市のような人。彼を見ていたら人生における逆境をどう乗り越えてゆくべきか大いに学べる。
鑑真の開いた唐招提寺は唐の文化や生活を見せるショールーム、中国へのあこがれを日本人に伝えた。思想面では「自分たちも救われてよい権利」を民に根付かせた。
鹿鳴館は西洋を恐れからあこがれの対象に変えた。
(大阪冬・夏の陣で活躍した)真田信繁(幸村)を見てみれば分かるように、有能な人を不遇に置くと恐ろしい結果が待っているというのが私の歴史観だ。
豊臣秀吉を漢字一文字で表すならば「尽」。自分の権威を日本全国津々浦々まで及ぼし尽くし、贅を尽くし、反抗する者は殺し尽くす。

氏は番組の中では常に笑っているような顔で朗らかな口調だが、時として史実を交えながら語るこれまでの通説とは違った独自の視点や仮説は確かな合理性と説得力に裏打ちされた衝撃性を有しており、年季の入った歴史好きでも自らの歴史観をひっくり返される。

明治の外交はなぜ強力だったか?
それは幕末まで続いていた幕藩体制の下、国内外交で鍛えられていたからだ。
徳川家康は戦乱の予防制度として、世が乱れないための安全装置を幾十も施した。結果それは今日に至るまで長く機能したが、変化を求められる現代においてはそれが足かせとなっているのではないか。
天草四郎は(島原の乱に)勝っている可能性がある。
乱以後もキリシタン禁制は続いたが隠れキリシタンは多く存続し、たとえ発覚しても「宗門心得違い」と判断されて役人に見て見ぬふりをされるなど、乱以前のような大規模な弾圧はなくなった。
また百姓一揆が起こっても火縄銃をいきなり水平射撃しないなどの自主規制がなされるようになった。
つまり、キリシタン及び百姓・幕府及び大名双方にやりすぎて相手を怒らせたら大変なことになるという暗黙の了解ができ、目に見えない平和憲法が形成された。

特に天草四郎について、これまで島原の乱といえば幕府軍による一方的な殺戮戦となり、一揆の完全鎮圧で終わったという見解しかなかった私は、氏の仮説を聞いて電撃に撃たれたような感覚がした

新しい視点から質感を有した面で歴史をとらえ、それを的確に伝えることができる磯田氏の見解の突出ぶりを感じたのだ。

歴史はデータの羅列ではない。

西暦何年にどの戦いが起こったか、誰が何を行ったかなどを断片的に知識で知っているだけなのは点でしかない。

それを過去何千年前から現代までをほぼ暗記したとしても、それは線でしかないのだ。

歴史的事件の発生の前にはそれに至る政治的、文化的又は環境的な時代背景や前史があり、

同様にその事件による後の世への影響もあり、それにより新しい社会ができ、

また新たな事件発生のきっかけともなり、その繰り返しによって現代の社会が形成されている。

それを理解してこそ、初めて歴史を面でとらえることができる。

それこそが歴史研究なのだ。

各時代の出来事や事象は有機的に現代へとつながり、今日がある。

島原の乱も、関ケ原の戦いも、応仁の乱も、鎌倉幕府成立も、平安京遷都も、大化の改新も、どれが欠けても今日の日本社会はない。

歴史を研究するということはなぜ今日があるのかを解き明かすことである。

同時に、未来を探求する学問でもある。

先人たちはぎりぎりの選択を行い、ある者は勝利して栄え、ある者は敗れて消え去った。

その原因と背景、その後時代へ与えたプラスマイナスの効果を探れば、将来へ向けてどの方向へ舵を切るべきか極限の選択を迫られた時のケーススタディとすることもできるのだ。

その歴史学の面白さを、氏が司会を務める『英雄たちの選択』は存分に視聴者に伝えていると思う。

同番組では歴史的事件やその当事者たちが決断を下すに及んだ背景や心理状態を、氏をはじめとした歴史学の専門家以外にも、脳科学、政治学、哲学、経済学、交渉術のエキスパートたちがそれぞれの分野の専門的見地から分析して多角的な意見を述べている。

そしてそれらの意見をまとめて、あまり一般的ではない歴史的事実やユーモアを交え、かつ将来我々が取るべき進路をも見据えた磯田氏の解説や意見はやはり確かな説得力を有した斬新性が際立っており、教科書や大河ドラマでは決して味わえない歴史学の醍醐味が実感できるだろう。

この番組での氏の主張には歴史マニア歴三十数年の私も脱帽し、改めて歴史研究の楽しさに気づかされた。

歴史をあまり知らない方にも歴史をある程度好きな方にも、私は自信を持って教養番組『英雄たちの選択』と、司会を務める磯田道史という傑出した歴史家の著作をお勧めしたい。

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2021年 世界史 戦争もの 歴史

ラテンアメリカ諸国の第二次世界大戦

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人類史上最大の戦争、第二次世界大戦。

当時の独立国の61か国のほとんどが参戦し、主に米国、ソ連、イギリス、フランス、オランダ、中華民国などの連合国側と、ドイツ、日本、イタリアなどの枢軸国側が1939年から1945年まで世界中で総力戦を戦った。

主な戦場となったのは欧州や北アフリカ、太平洋やアジア全域であったが、インド洋や中東も戦場となり、さらには大西洋、カリブ海でも連合国と枢軸国の戦闘が行われた。

むろんカリブ海真っ只中や南太西洋に面して位置するラテンアメリカ諸国も好むと好まざるとにかかわらず、それぞれの思惑を抱えながらも戦争に関わり、結果として大部分の地域で経済的、政治的、軍事的に多大な影響を受けた一大転換点となった。

米国の対ラテンアメリカ諸国政策

当初ラテンアメリカ諸国は中立を保とうとしていたが、参戦国、特にその地域を自国の裏庭とみなしていた連合国側の米国はそれを許さず、硬軟織り交ぜて自らの陣営に引き込む政策をとった。

それはまずメディアを使ったプロパガンダ戦略による干渉から始まる。

1940年、米国の名門ロックフェラー一族出身で、のちに副大統領となるネルソン・ロックフェラーはフランクリン・D・ルーズベルト大統領にラテンアメリカにおけるナチスの影響力に対する懸念を表明する。

開戦初頭は枢軸国優勢で、ラテンアメリカ諸国の独裁者や政治団体の中にはファシズムを支持する風潮が存在したためだ。

米州問題調整官時代のネルソン・ロックフェラー

それを受けてルーズベルト大統領はロックフェラーを米州問題調整局(OCIAA)の新しい米州問題調整官(CIAA)に任命。
彼はCBSラジオネットワークのエドモンド・A・チェスターと協力して、マスメディアを使って西半球の国々との間の関係を強化し、ナチスの影響力の排除を図るようになる。

ロックフェラーは当時最新鋭のメディアであったラジオ放送や映画を使い、反ファシストのプロパガンダをラテンアメリカ全土で行った。

このプロパガンダ戦は結果的に連合国側の圧勝となる。

こうしたプロパガンダは米国の圧力を伴った影響を直接受けていたメキシコなどでは反発を招いたが、メキシコは戦争において貴重な味方となり、米国在住の25万人のメキシコ人が米国軍に入隊。
また、アステカ・イーグルス(アギラス・アステカ)として知られる志願兵300人からなる飛行隊を太平洋の対日戦線に派遣した。

アステカ・イーグルス

こうしたラテンアメリカ諸国を連合国陣営に引き入れる政策は、ドイツの影響力を容認するアルゼンチンを除いて政治的に大成功となったのだ。

プロパガンダ以外にも、経済支援と開発のために多額の金額も割り当てられた。

更に1941年3月22日、米国政府はラテンアメリカ諸国を含めた連合国に対して軍事基地と西半球防衛への参加と引き換えに、軍需品やその他の援助を行うためのレンドリース法を制定。

当然、戦争の混乱真っただ中のイギリスやヨーロッパ諸国とその植民地が援助の大半を受け取ったが、ラテンアメリカ諸国も約4億ドルの軍需物資を得た。

ラテンアメリカ諸国の中でもブラジルは南米大陸の北東に国土を有し、主戦場の一つの北アフリカから近いという戦略的に重要な地点であった地理的関係から、米国との間で融資と軍事援助を提供するという条約が締結され、軍需物資を送るための拠点を米国に提供し、同時に枢軸国からの通商破壊の脅威を受けやすいことが予想されたためラテンアメリカ諸国への支援の四分の三を受け取る。

その後、ブラジルはヨーロッパ戦線に部隊を派遣した唯一のラテンアメリカの国となり、同国の海軍は大西洋の対潜水艦作戦でも重要な役割を果たすことになる。

イタリア戦線でのブラジル軍

キューバもカリブ海や南大西洋でドイツのUボートや巡洋艦との小規模な戦闘を行うなど米国に協力。

他にエクアドルはガラパゴスの空軍基地の建設と引き換えに、コロンビアとドミニカ共和国の両国はパナマ運河とカリブ海のシーレーン防衛への参加と引き換えに軍隊を近代化するためのレンドリースの恩恵を受けた。

一方、レンドリースはラテンアメリカ諸国間のパワーバランスを変え、「古いライバル関係を再燃させた」面もあったようだ。

ペルーとエクアドルのように世界大戦真っただ中の1941年に世界情勢そっちのけで戦争を行うなど、ラテンアメリカ諸国は一枚岩ではなかったのだ。

他にも、チリは枢軸国軍の攻撃ではなくボリビアとペルーがレンドリースによって得た兵器を使って、自国が19世紀の戦争で両国から勝ち取った領土を取り戻そうとすることを懸念していたし、アルゼンチンは以前からのライバル国ブラジルが米国の兵器をレンドリースによって得ていたために脅威を感じていた。

また、米国は戦争継続のための軍需物資獲得のためにも手を打った。

ラテンアメリカ諸国は特定の製品や資源を高めの価格で輸出することができるようにはなったが、1941年12月7日の日本の真珠湾攻撃の後、ラテンアメリカの大部分の国は枢軸国との国交を断絶あるいは宣戦布告したため、多くの国(ドミニカ共和国、メキシコ、チリ、ペルー、アルゼンチン、ベネズエラなど)は貿易を米国一国に依存する結果となる。

この戦時需要によってラテンアメリカでは消費財などが不足する問題が発生。

物資もそれを運ぶ船舶も軍需品を米国に供給することが優先されたため、燃料も食料も価格が高騰するなどのインフレも起こった。

とはいえラテンアメリカ諸国のほとんどは米国の側に立つことで援助を受けるなど、戦争を有利に利用した側面もあったようだ。

米国に戦略的に重要とみなされなかったペルーのようにさほど恩恵を受けなかった国もあったが、パナマは船の交通量の増大によって経済が活性化、プエルトリコではアルコール産業が活況を呈し、石油資源が豊富なメキシコとベネズエラは石油価格上昇の恩恵を受けた。

メキシコはこの機に乗じて、米国やヨーロッパの石油会社と有利な条件での契約を迫ったりもした。

第二次世界大戦は良しくも悪しくも大規模な近代化と大きな経済的後押しを参加したラテンアメリカ諸国にもたらしたのだ。

ラテンアメリカ諸国での枢軸側の活動

戦前のナチスは様々なラテンアメリカ諸国との経済関係が平等であることを保証するため、厳格な二国間貿易協定を通じて経済的浸透を拡大。

ブラジル、メキシコ、グアテマラ、コスタリカ、ドミニカ共和国はいずれもドイツと貿易協定を結んでいた。

例えばブラジルのドイツとの貿易は、ヒトラーが政権を握った1933年から戦争が始まる前年の1938年の間に倍増。
しかし、1939年9月の開戦によって枢軸国の船舶は商業目的で大西洋を横断することができなくなり、ラテンアメリカとドイツ・イタリア間の貿易は停止してしまう。

一部のラテンアメリカの国は打撃を受け、その代替の貿易相手国は米国のみとなった。

第二次世界大戦の初頭、ドイツ系やイタリア系移民が多く、その影響力も大きかったために枢軸国寄りだったアルゼンチンやチリはもちろん、ラテンアメリカ諸国には強力な一体感と目的感を国民にもたらすファシズムに感銘を受けた独裁者や政治団体も存在した。

例えばドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ大統領はヒトラーのスタイルと軍国主義的な集会を賞賛し、グアテマラとエルサルバドルの独裁者も同様の見解を持っていたようだ。

ブラジルの政治団体であったブラジル統合主義運動はムッソリーニの崇拝者だった。

ブラジル統合主義運動

それを最大限活用しようと枢軸国のスパイ活動やプロパガンダ活動が行われるようになる。

枢軸国の移民も多かったことから、スパイ活動はさほど困難ではなかった。

例えばコロンビアには1941年の時点で約4,000人のドイツ人移民がおり、多くは航空輸送業界に関わっていたため、米国は彼らがスパイ活動に従事しているか、パナマ運河に対する攻撃のために民間航空機を爆撃機に改装する計画を立てていることを懸念していた。その結果、米国政府はコロンビアに移民の監視と抑留を迫ったり、場合によっては米国に引き渡すよう圧力をかけた。

他のラテンアメリカ諸国でも同様だったが、メキシコとブラジルは枢軸国のスパイ活動の封じ込めについて米国に協力的だった。

一方、チリとアルゼンチンは枢軸国のエージェントの活動を許していたため、米国との不和の原因となった。

ドイツはラテンアメリカの主要国のすべてでスパイネットワークを運営しており、アルゼンチンを舞台にコードネーム『ボリバル作戦』と称し、中立国のスペインの船まで使った諜報活動を行っていた。

アルゼンチンやチリは1944年初頭にようやく自国で活動する枢軸側のエージェントを取り締まったが、ドイツ側の活動の一部は1945年5月の欧州戦線の終結まで続いた。

ソ連との関係

ドイツのソ連侵攻後、ラテンアメリカ諸国は労働組合などを通じてソ連への支援と援助を行った。

キューバは赤軍に40,000本の葉巻を送り、1942年10月に南米初の外交関係を持った。

戦争は結果的にソ連との外交的雪解けとなり、1945年までにコロンビア、チリ、アルゼンチンを含む11のラテンアメリカ諸国がモスクワとの関係を正常化した。

ユダヤ人を救ったエルサルバドル総領事

駐スイスのエルサルバドル総領事ホセ・カステラノス・コントレラスは、迫害から逃れようとしているユダヤ人にエルサルバドルのパスポートを提供して25000人を救ったが、この事実はあまり知られていない。

ホセ・カステラノス・コントレラス

出典元―ウィキペディア英語版

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ブラジルの第二次世界大戦

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第二次世界大戦において、ブラジルは連合国の一員として枢軸国と戦っている。

1942年半ばから終戦まで海軍と空軍が大西洋での対潜水艦戦に参加した他、ラテンアメリカの国としては唯一、ブラジル遠征軍(FEB)と呼ばれる部隊をヨーロッパのイタリア戦線に派遣しているのだ。

この遠征軍はブラジル陸軍と空軍によって編成された歩兵師団であり、交代要員も含め約25900人の兵員で構成されていた。

ブラジル遠征軍はイタリア戦線で1944年9月から1945年5月までほぼ8ヶ月の間、ドイツ軍がイタリア半島中部に設けた防衛線の一つであるゴシック・ラインで戦い、948人が戦死したが、1945年の最終攻勢でブラジル遠征軍は二人の将官を含む枢軸軍の20573人を捕虜にするなど連合軍の作戦に少なからぬ貢献をした。

対枢軸国宣戦布告前

ブラジルは第一次世界大戦において、1917年から1918年まで連合国側に加わり、主に海軍による対Uボート戦を戦ったが、第二次世界大戦においても連合国側に立って参戦することは当初予定されていなかった。

当時のブラジル連邦共和国大統領ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは議会を解散させて、ファシズム色の濃い全体主義的な独裁政治を行っていたため、枢軸国と親和性が高かったおかげでもある。

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス

よって、第一次世界大戦開戦時のように1939年の時点でブラジルは中立の地位を維持し、連合国と枢軸国の両方と通商を行っていた。

しかし、戦争が激しくなるつれて枢軸国との交易はほとんど不可能となる。

アメリカがブラジルの中立を許さず、連合国側に引き込むための圧力を交えた外交的、経済的攻勢を強めたからでもあった。

アメリカは南米への枢軸国の影響を最小限に抑え、大西洋での連合国側の海上輸送に対する脅威に備えようとしていたのだ。

アメリカはブラジルを自らの陣営に引き入れるための見返りも同時に用意していた。

1942年の初め、アメリカはブラジルの鉄鋼産業の形成を援助することを約束(後にブラジル最大の製鉄会社ナシオナル製鉄が誕生するきっかけとなった)。

それによりブラジルは自国内に米軍の航空基地を設置することを認める。

基地はバイーア州、ペルナンブーコ州、リオグランデ・ド・ノルテ州に設けられ、リオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市には米海軍の哨戒飛行隊52の一部が駐留。

さらに、対日通商破壊のためのタスクフォースがブラジルで設立されて、ブラジルとアメリカの合同防衛委員会も創設され、両国の軍事関係が強化されるようになる。

この連合国との協力関係の進展により、ブラジル政府は1942年1月28日にリオで開催された汎アメリカ会議で、ドイツ、日本、イタリアとの外交関係を断ち切る決定を発表した。

しかし、手痛いしっぺ返しが待っていた。

枢軸国側に敵対行為とみなされ、1942年1月末から7月にかけてまだ正式に連合国側に加わってもいないにもかかわらず、ドイツ軍のUボートにより自国の商船が攻撃されることになったのだ。

1942年8月には2日間で5隻ものブラジル船がUボートの一隻であるU-507の攻撃で沈没し、600人以上が死亡した。

8月15日、サルバドールからレシフェに向かっていたバエペンジ号が19:12に魚雷を受け、215人の乗客と55人の乗組員が死亡。

21:03に、U-507がアララカラ号に魚雷を発射、乗っていた142人のうち、131人が死亡。

2度目の攻撃から7時間後、U-507はアニバル・ベネヴォロ号を攻撃。

83人の乗客全員が死亡し、71人の乗組員のうちの4人だけが生き残った。

8月17日、ブラジル南東部の港湾都市ヴィトーリア市沖合で、イタギバ号が10時45分に被害を受け、死者数は36人。

その後、サルバドールからサントスに向かうもう一隻のブラジル船アララ号はイタギバ号を救助しようとしたところを攻撃され、同船は20人の死者を出す。

これらの被害を目の当たりにブラジル世論は激高、開戦の機運が国内で高まった。

ヴァルガス政権は戦争を望んでいなかったが、リオデジャネイロなどの都市部では中立政策に抗議する動きがドイツ系ブラジル人への攻撃という形で現れる。

こうして世論の開戦への要求が高まったため、ブラジル政府は1942年8月22日ドイツとイタリアに宣戦布告を行った(日本への宣戦布告は1945年6月)。

翌年の1943年1月28日と29日にはリオグランデ・ド・ノルテ州のナタール市で、ヴァルガス大統領は合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト大統領と会談。

後にヨーロッパ戦線に派兵されることになるブラジル遠征軍の創設が決定された。

南大西洋での戦い

ブラジル海軍駆逐艦マラニャン

第二次世界大戦に参戦したブラジル海軍の戦場は主に大西洋であった。

ブラジル海軍の主な任務は連合国の一員として、中部大西洋と南大西洋間を航行する船舶の安全を確保することであり、単独で、または連合軍と連携して614の船団を護衛。

ドイツの潜水艦との戦いで、ブラジル艦は爆雷や機雷で攻撃を行った。

ドイツ側の記録によると、ブラジル軍から合計66回の攻撃を受けたという。

ブラジル軍は少なからぬ戦果も挙げており、ブラジル沿岸ではイタリア軍の潜水艦アルキメデ、ドイツ軍のU-128、U-161、U-164、U-199、U-507、U-513、U-590、U-591、U-598、U-604、U-666の合計12隻の潜水艦を破壊。

一方のブラジルは、大戦中に枢軸国の攻撃で36隻の船が沈められて1600人近くが死亡。

その中には商船員470人と海軍兵士570人が含まれ、それ以外には事故で350人が死亡した。

ブラジル海軍自体が失った水上艦艇は三隻であったが、1944年7月20日にU-861によって撃沈された兵員輸送船のバイタル・デ・オリベイラ以外は事故によるものである。

ブラジル海軍駆逐艦マルシリオ・ジアス

ブラジル遠征軍の編成準備

ブラジルが枢軸国に宣戦布告した直後、ヨーロッパへの遠征部隊を編成するための国民動員が始まった。

しかし当時のブラジルは伝統的に孤立主義的な外交政策を取る国であり、農村での文盲率も高く、あらゆるインフラが未整備で、戦争のための物資も人材も欠いていた。

さらに、ブラジルは軍事独裁政権で、1941年まではナチスに同情的ですらあり、軍人の多くはナチスの敗北は国内の民主主義運動に拍車をかけることになると信じていたこともあって、自発的に連合国側に立つことには躊躇していたのが実際のところであった。

この政府の消極的な態度に対して、ブラジルマスコミ界の大物であるアシス・シャトーブリアンは、ラテンアメリカの志願兵で構成される遠征軍師団の創設のために、在ブラジルの合衆国政府関係者と交渉。

この部隊はシャトーブリアンが出資して、訓練はアメリカ軍が担当し、指揮はブラジルの将軍にとらせる計画だった。

しかしこれは、1943年初頭にブラジル政府によって縮小された。

参戦してから約2年後、ブラジルは正式にヨーロッパ戦線に部隊を派遣するが、そこまで派兵が遅れたのは遠征軍の規模や派遣先などの面でアメリカ政府との意見の食い違いもあったからである。

また、ブラジル政府は当初10万人規模での編成を考えていたが、その四分の一の約25000人での派遣となった。

ブラジル遠征軍の司令官はマスカレンハス・デ・モライス将軍(後の元帥)が任命され、その戦闘部隊はゼノビオ・ダ・コスタ将軍が指揮する第6連隊戦闘団に加えて、リオデジャネイロに駐屯する第1連隊戦闘団や、サン・ジョアン・デル・レイからの部隊から編成された。

約5,000人の兵士を有する各連隊戦闘団(現代の旅団に相当する規模)は3つの大隊に分けられ、大隊は4つの中隊からなり、むろんこれには後方支援のための人員や砲兵、工兵なども含まれている。

ブラジル空軍の飛行隊は、地中海方面の連合軍戦術空軍の指揮下に置かれた。

ブラジル遠征軍のイタリア上陸

1944年7月2日、先発隊として第6連隊戦闘団の5000名の兵士が米海軍の艦艇に乗ってブラジルを出発、7月16日にイタリアに到着した。

ナポリに上陸してからブラジル兵たちはアメリカ第45任務部隊に加わるために待機していたが、必要な装備や武器もなく、兵舎すらなかったため、ドックでの待機を強いられてしまう。

7月下旬に後続の部隊が到着し、1944年9月と11月、1945年2月にも増援が到着。

その中にはブラジル陸軍の山岳歩兵部隊も加わっていた。

ブラジル遠征軍はその後、イタリアでの戦場に適した装備を取得してから、アメリカ軍による訓練を受けたが、宣戦布告から2年の間にブラジル国内で行われた準備は意味がなかったことが証明されてしまった。

ブラジル軍人の間では訓練の質ではなく、実戦こそが兵士を十分に鍛えるという意識があったせいか、ブラジル陸軍を構成していたのは即戦力にならない素人同然の兵士だったのである。

しかも、ブラジル遠征軍は当時の標準的なアメリカ歩兵師団を模倣して組織されたが、医療など兵站の面での不足が判明。

後にこれも米軍によって管理されることとなる。

そうした混乱に見舞われながらも8月、ブラジル軍部隊はナポリから北へ350km離れたタルキニアに移動し、11月にはウィリス・D・クリッテンバーガー少将率いるアメリカ第4軍団に加わった。

ちなみにブラジル軍が加わった連合軍であったが、多くの人種や国籍からなる部隊の寄せ集めだった。

アメリカ軍にはアフリカ系アメリカ人の第92歩兵師団と日系アメリカ人の第442歩兵連隊が含まれ、イギリス軍にはパレスチナ人、南アフリカ人、ローデシア人をはじめ、ニュージーランド人、カナダ人、インド人、グルカ人、アフリカ人、ユダヤ人、アラブ人、亡命者の部隊(ポーランド人、ギリシャ人、チェコ人、スロバキア人)、反ファシストのイタリア人。

フランス軍にはセネガル、モロッコ人、アルジェリア人も含まれていた。

これに対し、ドイツは連合軍内部の政治的攪乱を狙ってか、特にブラジル人を標的にビラに加えてベルリンラジオから毎日1時間の毎日ラジオ放送(ポルトガル語)を行うようになった。

イタリア戦線での戦闘

ブラジル軍がアメリカ第370連隊戦闘団と連携して行った最初の任務は偵察だったが、南フランスに上陸するドラグーン作戦のためにイタリアを去ったアメリカ第6軍団とフランス遠征隊の師団が残した空白を部分的に埋めるのに役立つ活躍を見せることになる。

ブラジル軍の第6連隊戦闘団は北イタリアを進軍して9月16日にはマッサローザを、2日後にはカマイオーレや北への進路上の他の小さな町を攻略。

次いで、ブラジル遠征軍は大きな犠牲者を出すことなくセルキオ渓谷を支配下に置く。

しかし、バルガ市周辺で最初の大規模な反撃に遭遇し、10月末にブラジル第1連隊戦闘団が到着した後、ブラジル遠征軍はトスカーナとエミリア・ロマーニャの州境にある北アペニン山脈の基地に向かい、続く数ヶ月は厳冬とドイツ軍の築いた防衛ラインの一つであるゴシック・ラインからの攻撃にさらされた。

連合軍は冬の間に山を突破することができず、特にブラジル遠征軍の左側面のアメリカ第92歩兵師団はドイツとイタリア軍による猛攻で第8インド歩兵師団の支援を必要としていた。

1945年2月末から1945年3月初めにかけての春攻勢の準備期間中、ブラジル軍とアメリカ第10山岳師団は、1944年の秋から効果的な砲撃により連合軍のボローニャへの進撃を阻んできた北アペニン山脈のドイツ軍の砲撃陣地を攻略に成功する。

そして、連合軍によるイタリア戦線での最後の攻勢が4月14日に始まり、約2000発の支援砲撃の後、ブラジル軍を含むアメリカ第4軍団はモンテーゼを奪取。

連合軍の攻勢の初日、ドイツ軍はブラジル軍がM8装甲車とシャーマン戦車を使用し、モンテーゼを奇襲しようとしていると誤解し、連合軍に対して発射した約2800発の砲弾の内1800発でブラジル軍を砲撃していた。

こうして、第4軍団のドイツの防衛線突破は決定的となった。

その後の4月21日、イギリス第8軍のポーランド師団とアメリカ第5軍の第34歩兵師団がボローニャに入城。

4月25日、ブラジル軍がパルマに、アメリカ軍がモデナとジェノヴァに到着すると同時に、イタリアのパルチザンが蜂起する。

イギリス第8軍はヴェネツィアとトリエステに向かって進軍した。

そして4月26日から始まったコッレッキオの戦闘において、ブラジル軍はターロ川流域でアメリカ第92歩兵師団によって解放されたジェノヴァとラ・スペツィアの地域から後退したドイツ・イタリア軍の反撃を待ち構えた。

こうした備えによって枢軸軍はフォルノボ付近で包囲され、戦闘の後に降伏。

4月28日にドイツ軍の第148歩兵師団全員、第90軽アフリカ師団、イタリア軍の第1ベルサリエリ師団の一部を含む13000人以上がブラジル軍の捕虜になった。

これは結果的にブラジル軍の大殊勲となる。

ドイツ軍はアメリカ第5軍に反撃するために、ブラジル軍の捕虜になった第148歩兵師団をリグーリアのドイツ・イタリア軍と合流させようとしていたために思わぬ打撃となったのだ。

ドイツはすでにカゼルタで休戦交渉を行っており、降伏条件を有利に進めるためにも手痛い反撃を連合国軍に与える必要があった。

その中でも第5軍は航空支援もままならず、まとまりを欠いて進撃しており、絶好の攻撃目標であったのだ。

第148歩兵師団が丸ごと降伏したことはこれらの計画がご破算になったことを意味し、続くアドルフ・ヒトラーの死とソ連軍のベルリン攻略の知らせが追い討ちとなってイタリアのドイツ軍は無条件降伏以外の選択肢は残されていなかった。

最後の進撃でブラジル軍はトリノに到着、5月2日にスーザの国境でフランス軍と合流。同じ日、イタリアでの戦闘終結が発表された。

ブラジル空軍の活躍

一方の空軍では、ドイツに宣戦布告した翌年の1943年12月18日にネロ・モウラ中佐を指揮官とする第1戦闘飛行隊(1oGAVCA)が結成されている。

同飛行隊には48人のパイロットを含む350人の人員が所属、赤(A)、黄(B)、青(C)、緑(D)の4つの飛行小隊に分けられていた。

訓練も装備も不十分だったブラジル遠征軍の陸軍部隊とは異なり、第1戦闘飛行隊にはPBY-5A カタリナ飛行艇を指揮してブラジル沖でドイツ軍潜水艦U-199を撃沈したアルベルト・M・トーレスはじめ、ブラジル空軍の精鋭パイロットが所属していた。

飛行隊はパナマの米軍基地で戦闘訓練を受け、1944年5月より、パナマ運河地帯の防空作戦に参加。

6月からは搭乗機をアメリカ製のP-47 Dサンダーボルトに交換した。

1944年9月19日、第1戦闘飛行隊はイタリアに向けて出発し、10月6日にリヴォルノに到着。

パイロットは必要最小限の人員であったため交代の予定はなく、アメリカ陸軍航空隊の第350戦闘機隊に配属された。

ブラジル空軍第1戦闘飛行隊の戦地での初飛行は1944年10月31日だったが、それから二週間も経たない11月11日、乗機としていたFABサンダーボルトの国籍マークをブラジル空軍のものに変え、戦術呼出符号「Jambock」として、

イタリアのタルクイーニアの基地から初めてブラジル軍単独の作戦任務を開始。

その後、第1戦闘飛行隊はアメリカ第5軍の支援として、偵察と航空阻止攻撃の任務を行った。

そして4月22日、第1戦闘飛行隊はこのヨーロッパ戦線において最もめざましい働きをすることになる。

地上攻撃のために飛行隊は午前8時30分から5分間隔で離陸、マントバ南部の武装偵察任務を開始。

その日の終わりまでに44の作戦を遂行し、戦車を含む80台以上のドイツ軍車両を破壊したのだ。

後年、この飛行隊の奮戦をたたえ、ブラジルでは4月22日をブラジル空軍の記念日としたほどである。

第1戦闘飛行隊は1944年11月11日から1945年5月6日まで445の作戦を行い、合計2546回の飛行と5465時間の飛行時間を記録。

1304台の車両、13両の鉄道貨車、8両の装甲車、25箇所の鉄道橋と高速道路橋、31箇所の燃料タンクと弾薬庫を破壊した。

戦術航空軍団の司令部もブラジル第1戦闘飛行隊の戦果を称賛したが、それまでに3人が訓練で、5人が対空砲火で死亡。

8人が撃墜されて死亡するか捕虜になるなど損害も決して少なくはなかった。

戦後

ヨーロッパでの戦役が終わった後、ブラジル軍はピアチェンツァ、ロディ、アレッサンドリアの各州で占領軍として駐留。

1945年6月初旬、ブラジル政府は遠征軍の解散を命じ、1945年半ばに帰国した。

ブラジルの第二次世界大戦への参戦は第一次世界大戦の時よりも大規模であり、連合軍への貢献は主に南大西洋での対潜水艦戦であったが、ヨーロッパ戦線に地上軍を派遣したことで政治的により目覚ましいものとなった。

しかし、こうしてブラジル遠征軍を送り出したヴァルガス政権であったが、この年の10月に軍部のクーデターにより大統領が失脚、崩壊してしまった。

ブラジル遠征軍の戦死者は北イタリアのピストイアに埋葬されていたが、後にリオデジャネイロの霊廟に移送された。

出典元―ウィキペディア英語版

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知られざるイスラエルマフィア

長年続くパレスチナ紛争によりきな臭いイメージがある反面、近年ではスタートアップ企業が毎年1000社以上も設立されるイノベーション国家として注目されるイスラエル。

そんな頭脳立国にも犯罪組織、イスラエルマフィアは存在する。

本稿で取り上げるイスラエルマフィア(ヘブライ語:מאפיה ישראלית、「イスラエルの組織犯罪」の意)とは主にイスラエルで活動するイスラエル人の犯罪組織であって、アメリカで組織されたユダヤ系アメリカ人のマフィアではない。

イスラエルマフィアの現状

イスラエル国内では主なもので16団体のマフィア組織が活動し、そのうち6団体はマグレブ(北アフリカ諸国)系ユダヤ人の組織で、3団体がアラブ人の組織である。

現在それらの組織のボスや構成員の多くは殺害されたか服役しているとされるが、残党が犯罪行為を続けており、壊滅に至ってはいない。

知られているのはアバージル一家、アバットブル一家、アルペロン一家、ドムラーニ一家、シラジ一家、アミール・モルナールやゼーヴ・ローゼンスタインが率いるシンジケートであり、彼らの裏ビジネスはイスラエル内外での違法カジノ、自動車窃盗、売春、人身売買、資金洗浄、みかじめ料の徴収、ゆすり、殺人 、闇金融、麻薬売買と多岐にわたる。

マフィアに詳しいイスラエルの元警視総監デビッド・コーエン氏によると、イスラエルのマフィア組織は表経済や地方自治体にまで浸透しており、2010年にはリクード党のクネセト(イスラエルの立法府)議員としてマフィアの身内がいる者が選出されたことが問題となった。

マフィアは大量の爆発物や銃器で重武装しており、2000年代初頭に発生したアバージル一家とゼーヴ・ローゼンスタイン一派との抗争では爆弾まで使われて幹部が殺害されただけでなく、無関係の市民も巻き添えになっている。

イスラエル警察はマフィア対策にIakhbalという特別部隊を組織して、これらのマフィア組織を取り締まっている。

2008年、テルアビブで起きた車爆弾爆発事件、アルペロン一家のボスが殺された

イスラエル国内のマフィア

北アフリカおよび中東系ユダヤマフィア

イスラエル建国後、北アフリカや中東各地からもユダヤ人が移住してきたが、同じユダヤ人でありながら同国で主流派を占めるヨーロッパ系ユダヤ人から差別され、彼らの多くは貧民区での暮らしを余儀なくされるようになった。

やがてそこからエジプトやモロッコなどの北アフリカ系ユダヤ人たちによるマフィア組織が台頭する。

これらモロッコ系ユダヤ人のイスラエルマフィアは主に麻薬取引をシノギにしており、ヨーロッパと米国に活動範囲を広げている。

イスラエルではそれらモロッコ系ユダヤ人のマフィア組織としてアバージル一家、アバットブル一家、ドムラーニ一家が特に有名であり、他にエジプト系ユダヤ人のアルペロン一家、イラン系ユダヤ人のシラジ一家が活動している。

中でもモロッコ系のアバージル一家は麻薬から殺人まで犯罪ならば何でもござれで、前述の一般市民をも巻き込んだ抗争や米国への大規模な麻薬密輸で悪名が高く、国内ではアバットブル一家やアルペロン一家、米国ではメキシコマフィアやその他さまざまなギャングと対立するなど武闘派ぶりが際立っている。

彼らはイスラエル警察に指名手配されると先祖が暮らした地であるモロッコに逃亡することが多い。

逮捕されたアバージル一家ボスのイツィク・アバージル(中央)、2011年1月12日

パレスチナマフィア

パレスチナ人(アラブ系イスラエル人)のマフィア組織も存在する。

ハマスやアル・アクサ殉教者旅団のように曲がりなりにも主目的を反イスラエル武力闘争に掲げている組織とは違い、こちらは純粋に闇の経済活動に特化している。

パレスチナ人が大多数を占める都市ではこれらのマフィアが暗躍しており、イスラエル中部の街タイベに拠点を置くアブデルカデル一家はしばしばユダヤ人犯罪者とも結託し、恐喝、麻薬および武器密売、詐欺、マネーロンダリングに関与している。

逮捕されたジャルシ一家のハッサム・ジャルシ

同じくイスラエル中部の街ラムラのパレスチナマフィアのジャルシ一家は、イスラエルで最も恐れられるマフィア組織の一つである。

パレスチナマフィアは米国でも活動が確認されており、ムーサ・アリヤンを中心とする犯罪組織はニューヨークでヘロインの密輸をシノギにしていた。

ロシア系ユダヤマフィア

イスラエルのロシア系ユダヤ人のマフィアは、1989年から始まったロシア系ユダヤ人の大量移民に伴ってやって来た。

ロシア系ユダヤマフィアのボスであるセミオン・モギレヴィッチなどはイスラエル市民権を獲得し、後にマネーロンダリングを主なシノギにするようになる。

彼らが目をつけたのイスラエルの銀行システムであり、同システムはアリーヤー(世界各国のユダヤ人のイスラエルへの移住)とそれに伴う資本の移動を奨励する仕組みになっていたが、それをマネーロンダリングに悪用したのだ。

世界的な金融規制緩和の傾向により、イスラエルもまた資本の移動を緩和することを目的とした法律を制定したが、マネーロンダリング防止のための法律が欠如していたため、不当に得られた利益を易々と洗浄することができた。

2005年のイスラエル警察の推定では、ソ連崩壊から15年間で50億ドルから100億ドルがマネーロンダリングされたとされる。

ロシア系ユダヤマフィアのボス、セミオン・モギレヴィッチ

他にロシアやウクライナ出身のユダヤ人犯罪者たちはニューヨークやマイアミへのロシア系ユダヤ人の大規模移住に伴い米国にも拠点を築き、さらにはベルリンやアントワープなどのヨーロッパの都市にもネットワークを広げた。

マラト・バラグラ(左)とエフセイ・アグロン(右)

アメリカで活動したロシア系ユダヤ人のギャングとしては、マラト・バラグラ、エフセイ・アグロンが有名であり、彼らはゆすり、売春、麻薬密売、強要、ガソリン詐取、殺人に関わっていた。

グルジア系ユダヤマフィア

ロシア系ユダヤ人同様、イスラエルに移住したグルジア系ユダヤ人もマフィア組織を結成しており、アントワープなど西ヨーロッパにも勢力を伸ばしている。

アントワープではグルジア系ユダヤマフィア・メリホフ一家が有名で、この組織は偽造、詐欺、マネーロンダリング、麻薬・武器密売、売春、強盗などの犯罪行為を行っていた。

海外でのイスラエルマフィアの暗躍

米国での犯罪

1980年代、ニューヨークにジョニー・アティアスが率いる「イスラエルマフィア」と呼ばれる犯罪シンジケートが出現、ニューヨーク・マンハッタンの宝飾店街で被害金額400万ドルという史上最大の金強盗をやってのけ、400万ドル以上の金を強奪した。

しかし、ボスのアティアスが1990年1月に殺害されると、この「イスラエルマフィア」は崩壊に向かう。

ロン・ゴネンら数人のメンバーが情報提供者となったため、同年9月には残党が当局に逮捕されて壊滅した。

その後、イスラエル人の犯罪組織はエクスタシー密売で米国を騒がせるようになる。

2000年、米国税関の当局者は議会で「数十億ドル相当のエクスタシー取引が、イスラエルの犯罪組織によって製品製造から国際的な密売の段階になるまで制御されている」と指摘してイスラエルマフィアの猛威に警鐘を鳴らした。

サミー・グラヴァーノ

伝えられるところではニューヨーク・マフィアの五大ファミリーの一つ、ガンビーノ一家の元アンダーボスであるサミー・グラヴァーノが仕切っていたアリゾナ州の麻薬組織にエクスタシーを供給していたのはニューヨークに拠点を置くイスラエル人イラン・ザルガーであり、彼は1999年5月から2000年5月にかけて総額700万ドル相当のエクスタシー100万錠以上を卸していた。

後にイラン・ザルガーはアリゾナ州とニューヨークで3年間にわたり組織的に約400万錠のエクスタシーを密売した容疑で逮捕された。

別のイスラエル人オデッド・トゥイトは最大級のエクスタシー密輸組織のボスと言われており、彼はパリ、ブリュッセル、フランクフルトからニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルスに何百万錠ものエクスタシーを密輸した容疑で2001年5月に逮捕された。

悪名を馳せるアバージル一家やゼーヴ・ローゼンスタインのシンジケートなどもイスラエル国内に拠点を置きながら、米国でのエクスタシー密売に関与し続けていたがそれはいつまでも続かなかった。

2006年にローゼンスタインはイスラエルで逮捕され、後に米国に引き渡される。

彼はフロリダ州連邦裁判所でエクスタシー薬を密売した容疑を認め、懲役12年の判決を受けてイスラエルで服役した。

ゼーヴ・ローゼンスタイン

2011年1月にはアバージル一家ボスのイツィク・アバージルとその弟メイル・アバージル、その他3人の容疑者もイスラエル国内で逮捕されて米国に引き渡された。

メイル・アバージル

被告に対する連邦起訴状に申し立てられたのは殺人、巨額の横領、マネーロンダリング、ゆすり、ロサンゼルスでの組織的で大規模なエクスタシー密売であり、同起訴状は計32件、77ページにも及んだ。

メキシコでの犯罪

イスラエルマフィアはメキシコでも犯罪を行っている。

2019年7月24日、メキシコシティのショッピングモールのレストランでイスラエルマフィアの組員が白昼堂々イスラエル市民を殺害。

犯人は後に逮捕されたが、この事件は麻薬戦争真っ只中のメキシコ社会にも衝撃を与えた。

出典元:ウィキペディア英語版“Israeli mafia”

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円空 ~至高のアマチュア仏師~

プロフェッショナルとは何ぞや?

その道の専門家にして、その分野の技術と知識、経験を生かすことによって報酬を得ている者を指すというのが一般的なところだろうか?

私は憚りながらそれにもう一つ定義を加えたいと思う。

それは「その分野において自分でも頑張ればできるようになると一般人に決して思わせない、神々しいまでの圧倒的技量を有した者」ということだ。

だからこそ、一般人はプロフェッショナルに敬意を払って少なくない報酬を払うのだ。

また、そうあるべきだと思う。

江戸時代前期、円空という僧侶がいた。

円空はその出生地の岐阜県内では特に有名な人物で、名前の通り僧侶だが同時に仏師でもあり、「円空仏」と呼ばれる独特の作風の仏像を多数彫ったことで知られている。

円空の彫った仏像の特徴は簡素化されたデザインで、その素朴でゴツゴツとした野性味に溢れた刀法でありながら、見る者を思わずほっこりさせる微笑をたたえていることだ。

遊行僧として北海道から畿内に渡る範囲を行脚し、その生涯で約12万体の仏像を彫ったとされる円空の作品「円空仏」は、出身地の岐阜県と隣の愛知県を中心に全国各地に約5300体以上現存している。

岐阜県を中心に、その温かみのある個性的な作風は今でも根強い人気があり、円空の作風をまねた円空彫りで仏像を制作する「円空会」のような団体もいくつか存在する。

岐阜県で生まれ育ち、幼いころからことあるごとに「円空仏」を目にしていた私は東京在住の現在、「円空仏」を見ると郷愁に駆られる。

そして同時に、かねてよりこんな不埒な思いを抱いていたことを告白する。

「この程度なら俺でも彫れそうだ」

あまりにも不遜すぎて岐阜県では禁句ですらあるが、公然の秘密というやつだろう。

同じ思いを抱いた者は円空の生前から2020年の現代まで通算で最低数十万人はいたはずだ。

確かに円空の彫る仏像は独特でえもいわれぬ優しい笑みをたたえているとかなんとか評価されているが、ぱっと見で彫り方が大雑把すぎるのだ。

はっきり言って素人っぽい

本気出せばできる気がしてしまうのだ。

ピカソとかゴッホはその気になれば素人には真似できない写実的な絵が描けるが、円空がその気になった作品を見たことがない。 生涯で12万体仏像を彫ったんならもっと上達しろよ、と言いたくなる私は罰当たりが過ぎるだろうか?

とにかく数を彫ることが目的で出来栄えには責任を負わなかったとしか思えず、そんな円空を、私は密かに「日本史上最も高名な粗製乱造者」と呼んだこともある。

私自身が前衛的な美術作品より写実的かつ迫真に迫った作品を好む傾向があるからかもしれないが、芸術作品はその発想力や表現力の前に、それを具現化するための技量も重要だと思う。

ミケランジェロとかのルネッサンス時代の巨匠なら仏像を作らせてもそれなりのものを作っただろうが、「円空のビーナス」や「円空彫りのダビデ像」はヨーロッパ文明への冒涜でしかない有様になるであろう。

もっとも、円空が仏像を彫る目的は「困っている人々を救う」ことであり、それらの人々のよりどころとなるような仏像を各地で彫り続けていたようだ。

より多くの人を救うにはたくさん彫らなければならず、そんなに時間をかけてこだわっている場合ではなかった事情もあった。

だが、彫ってもらった人々の中には「うわ、下手っ!」とか思った辛辣な恩知らずも結構いたと思う。

先ほどのプロフェッショナルの話に戻るが、私の定義から言えばやはり円空は仏師の分野において生涯アマチュアだったと断定せざるを得ない。

だいたい円空会なる円空の作風を真似ようとする人々の団体が複数存在すること自体、円空の仏師としての技量の程度を物語っているのではなかろうか?

また、同じ仏師でも運慶などはその作品のフィギュアがネットなどで販売されてるのに、私の探したところ円空仏のフィギュアは見当たらない。

運慶とかの作品を真似しようとする気が一般人に起きることはめったにないが、円空仏は自分で作れそうだもの。

つまりアマチュアにナメられている。

もう手遅れかもしれないが、円空会内外の武闘派円空愛好者が私を殺しに来るかもしれないので、円空の仏師としてのレベルについてディスるのはこれくらいにしておこう。

そうは言っても、そもそも私は円空の功績を貶めるつもりは全くない。

彼は仏師である前に宗教家たる僧侶であり、衆生を救うということこそ本分だった。

史実に残る通り円空はそれを実行にうつし、諸国を行脚して仏像を彫り続けたというその行為自体はまさに素人には真似できないことであるはずだ。

そして江戸時代前期のアマチュアレベルの仏像が三百年以上後でも5300体以上現存していることこそ、彼の宗教家としてのレベル、つまり徳の高さを物語っているのではないだろうか。

実際の彼自身は決しておろそかにできない人物であって、その人物が彫った仏像だから無下にはできないと思った人が相当数いなかったら、とっくに薪にされていたはずだからだ。

また、円空の彫った仏像はその人柄が出ていて、円空仏を見るたびに人々は円空を思い出したことだろう。

また円空に会ったことがない我々でも、何となく人となりが分かるようような気がしてこないだろうか?

きっと「いい人」とかいうレベルじゃなくて、仏様に近いかそのものの人物だったんではないかと。

円空彫りを真似ることはできても、生き方まで真似できる人はそうそういない。

円空は仏師としてはアマチュアだったが、僧侶としては疑うことなく最高のプロフェッショナルだったのだ。

今回、ご紹介しました円空についての書籍は、以下のリンクからご購入頂けます。

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レオタード愛好紳士たちへ

この記事は、日本語で作成し、機械翻訳で外国に訳しています。

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昭和の時代、こんな窃盗事件があった。

昭和X年某月某日、某高等学校の女子新体操部の部室から数万円相当のレオタード数着が盗まれた。

後日、窃盗事件として捜査していた警察は、県内に住む25歳の無職の男Aをこの事件の犯人として逮捕。

同時にAが某高校から盗んだレオタードを押収した。

Aが逮捕されたきっかけは、ある住民からの通報だった。

その住民は、道路わきに駐車した車に乗っていたAを見たとたん「変な人がいる」と警察に連絡したのだが、それはAが車内でレオタードに着替えていたからだ。

駆けつけた警察官に不審者として職務質問されたAは、「何をしているのか」「このレオタードの入手先は」と問い詰められ、自分の犯行を認めざるを得なかった。

着用していたレオタードが、盗難届けの出されていたもの以外の何者でもなかったから、ごまかすことができなかったのだ。

こうしてレオタード泥棒は御用となり、盗まれていたレオタードも正当な持ち主である新体操部員に返還されて事件は解決した。

だが、彼女たちが戻ってきたレオタードをためらうことなく再び着ることができたかどうかまでは報道されていない。(出典―VOW 宝島社)

レオタードは見ていて確かに魅力的だが(私も結構好きだ)、盗難はいかん。

新体操部員たちは決して安くはないレオタードを盗まれ、汚染されてしまった。

犯人のAも、報道の規制が緩かった昭和の時代にこんなことをやらかしたがために新聞で実名をさらされ、人生を棒に振ったはずだ。

最初に断っておくが、完全な加害者であるAを擁護するつもりは毛頭ない。

だが、もしAが平成から令和の時代に生きていたのならば、ひょっとしたらこんな犯行を犯すことはなかったのではないだろうかとも思うのだ。

昭和という、今から思えば多様性を社会が認めたがらなかった時代だからこそ、彼は道を外したのではないか?

それは、最近ネットでこんな商品を見つけたからだ。

商品名『FEESHOW(フィーショー)メンズレオタード』というらしい。

昨今はIiniim(アイム)などの男性用ブラジャーまでもが堂々ネットで売られているのを知って、「まさかレオタードも?」と思って調べたら本当にあったから驚きだ。

色違いのものや、半袖、光沢があるタイプもある。

この欧米人の男性モデルも、まるでスポーツウェアか背広を着ているようにさわやかである。

仕事選べよ

お前はモデルの仕事のために男廃業してるぞ、と言いたくなる。

それはさておき、こんなものがたやすく手に入る今の世だったら、Aは盗みに入ることなく健全にレオタードを嗜めたのではなかろうか?

彼は自分のプライベートスペースで、紳士的かつ情熱的にひとりファッションショーを楽しめるはずだ。

この『FEESHOWメンズレオタード』は写真から見てまごうことなきレオタードで、しかもそれなりに筋肉質な体をした男性モデルが無理なく自然体に着ている。

ということは、日本人の平均的な体格の男性ならばレオタードを痛めることなく着用できるだろう。

現実の女性用のレオタードは女性が着るために設計されたもので、

男性が着用することはむろん想定していない

男性が着ようとすれば、形状やサイズが合わず、着用は困難を極める。

仮に着用に成功したとしても、不必要で過剰な圧迫を受けて、着心地は最悪なはずだ。

それどころか、非使用対象者による不適切な使用にあたるため、レオタードの製品寿命は著しく短縮するであろう。

だが、この製品は男のためのレオタード、メンズレオタードなのだ!

見るだけでは飽き足らず、着用したいと願うレオタード紳士の願望を見事にかなえ得る逸品と言えるであろう。

昭和の時代にこれがあったならば、Aもレオタード獣の窃盗犯に墜ちることなく、救われていたかもしれない。

もっともAが着用済みのものを好む純粋な「中古品嗜好」の持ち主だったら、救いようがなかっただろうが。

最後に一言。

私もレオタードは好きだが、見る専門だ。

その主眼はレオタードを着用した新体操の女性選手そのものにある。

自身が着用したいと思ったことは一切ない。

今回ご紹介しました「Feeshow メンズレオタード」は、以下のリンクからご購入頂けます。みなさんも1着どうでしょうか?

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西成暴動 ~バブル期の日本で起きた大暴動~

今から30年前の1990年、すなわち平成2年の日本はどのようであったか?

そう、まだバブル景気真っただ中だった。

モノは飛ぶように売れ、庶民は財テクに走り、海外旅行に行ってはブランド品あさり。

就職難とも無縁で、誰もが空前の好景気を実感できた時代。

経済の凋落が著しく、失われた30年となることが決定的となりつつある現在の日本と比べると、素晴らしい時代に見えるはずだ。

だが当時を生きていた人々が皆そう思っていたわけではなかった。

特に大阪市西成区北部に位置する通称「あいりん地区」で生きていた日雇い労働者たちは。

日本人が最も幸福だったはずの1990年10月2日に、彼らは大暴動を起こした。

大阪市西成区の通称あいりん地区は釜ヶ崎という旧名でも呼ばれ、日雇い労働の斡旋所があり、労働者向けの簡易宿泊所や飲食店が軒を連ねるドヤ街である。

多くの日雇い労働者が集まるため、中には怪しい人間も交じり、暴力団事務所も多いことから治安が悪いことでも有名な地域だ。

暴動のきっかけは、このあいりん地区を管轄する西成署の刑事課の捜査員が、西成を縄張りとする暴力団から捜査情報の見返りに賄賂を受け取っていたことだった。

この当時はバブル景気真っただ中で日雇い労働者たちも仕事にあぶれることはあまりなかったが、その暴力団は日当をピンハネするなど労働者たちを食いモノにしており、一方の西成署員たちは労働者たちを普段から犯罪者扱いして邪険にしていた。

その憎むべき両者が結託していたことに労働者たちが激怒し、西成署前に押しかける。

「出てこい汚職警官!」「税金ドロボー!」

折しも夕方だったために、仕事明けの労働者たちが西成署の前に続々集まって怒声やヤジを張り上げた。

労働者たちに盾を持った署員や機動隊員が立ちはだかったが、やがて騒動はその警官隊に向かっての投石にエスカレート。

午後八時には、約500人にまで膨れ上がった労働者たちが車や道路に積み上げた自転車に火を着け、本格的な暴動に発展していった。

明けた10月3日、午前中のうちに日雇い仕事にあぶれた労働者ら数百人が集結して警官隊に向けた投石が始まり、各地から応援を得て1500人まで増員された機動隊は放水車まで使った鎮圧に乗り出す。

この当時はデモ隊との衝突が頻発した安保闘争の時代からすでに二十年が経過しており、警察側にも暴徒鎮圧のための経験が不足していため、冷静さを失った隊員たちは制圧のために過剰な暴力を行使する。

だが、暴動は一向に収まる気配はなく、いたるところで車や自転車が放火されて炎上。

道路のど真ん中で、火をつけられたプロパンガスが炎を噴き上げるなど異様な光景が西成で展開された。

暴動三日目となった10月4日。

このころから群衆の中に中学生か高校生の年代の少年が混じるようになる。

労働者の起こした暴動に便乗してひと暴れしようとやって来た不良少年たちで、彼らの出現によって西成暴動は最悪の規模に発展した。

彼らは機動隊に向かって火炎瓶を投げる一方、自動販売機や商店を破壊して略奪を始めたのだ。

この日の夜、暴動はピークに達する。

騒動は西成区ばかりか隣接する浪速区にまで拡大。

車ばかりか阪堺電軌阪堺線・南霞町停留場が放火されて全焼し、翌5日未明までにこうした放火が12件を数えるほど事態は悪化した。

四日目となった5日も小競り合いが続いたが、大阪府警は前日より1000人多い約2500人もの警官を動員して警備体制を強化。

検問や通行止めなどによって過激な行動に出る若者らと群衆を分断し、なんとか大規模な騒動を回避するのに成功した。

この日を境に西成暴動はようやく終息に向かう。

翌6日にも数十人規模の抗議活動は行われていたが、もはや投石や放火などが発生することはなくなり、西成暴動は終結した。

このあいりん地区で起きた暴動はこれが初めてではなく、この1990年の暴動の17年前にも発生しており、通算22回目の暴動だった。

しかしこの第22次西成暴動は被害の程度から、これまでに起きた中で最悪のものだったと言われている。

その後、あいりん地区では1992年(平成4年)10月に第23次、2008年(平成20年)6月にも第24次西成暴動が発生しているが、そこまでの規模には発展していない。

相変わらず日雇い労働者の集まるドヤ街ではあるが、現在では簡易宿泊所の安さに魅かれてやってくる外国人旅行者もおり、しょっちゅう暴動が起きたことから「西成ライオットエール」という危険なネーミングの地ビールまで製造・販売されている。

日雇い労働者の高齢化が進んだからか、あいりん地区から、かつてのような危険な匂いは薄れてきているようだ。

それは平成・令和と時代が移り行くうちに、昭和の毒々しさや荒々しさが失われたということでもある。

現在のあいりん地区には、平成が始まったころまでは残っていた、良くも悪しくも活力があった時代の面影はない。

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昭和カオス

『女子高生が、写真館でヌード写真を撮影させて少なからぬ金銭を受け取っており、その数は二百人余りに上ることが判った』

 貞操の価値が暴落してから久しい。

九十年代にはすでに援助交際と称して女子高校生が売春を始めていたから、ヌード写真を撮影させていたなんて「何だ、その程度か」感すらある。

しかし、これは平成や令和の世で起きたことではない。

昭和も昭和、それも昭和2年(1927年)5月の新聞報道なのだ。

昭和2年なんて、戦前どころか限りなく大正時代に近い大昔。

まだ軍部が健在で、未成年の明治生まれがいて、江戸時代生まれすらゴロゴロいた時代。

貞操観念が現代とは比べ物にならないほど堅かったはずである。

にもかかわらずヌード写真を撮影させていたのは、よりによって家柄も懐具合も立派な家庭出身で、厳格な躾を受けてきたはずの名門お嬢様学校の生徒ばかり。

そんな嫁入り前の御令嬢たちが、小遣い銭欲しさに易々と自分のヌードを他人にさらしていたのだ。

戦後、生きるために米兵に体を売っていたパンパンならともかく、食うに困らない名門のお嬢ちゃんたちが遊ぶ金欲しさでそんなことをやっていたなんて、援助交際やってた平成の女子高生とほとんど変わらない。

 今も昔も、ヒトの考えることは同じということなんだろう。

 でも ちょっとうれしくならないか?

 君子然とすました顔で写る白黒写真の中の人たちが、ヘラヘラとスマホで自撮りしている現代の我々と同じく生臭いことを考えていたことが分かると。

出典:毎日新聞社『昭和史全記録』より