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犬鳴峠リンチ焼殺事件 ~超凶悪少年犯罪~

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1988年(昭和63年)12月7日、福岡県粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネル近くの路上で未成年による、世にもおぞましい殺人事件が起きた。

4人の少年が車欲しさに、持ち主の20歳の青年を車ごと拉致、凄まじい暴行を加えたあげく、ガソリンで焼き殺した犬鳴峠焼殺事件である。

時代が昭和から平成に移りつつあった80年代末期は、未成年による犯罪が一挙に凶悪化した時期でもあり、同年2月には、名古屋市で未成年らによるアベック殺人事件が起き、東京都綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人は、この年11月から翌年1月にかけて行われた犯行であった。

だが本稿の犬鳴峠焼殺事件は、今なお悪名高き上記二件の犯罪と比べても、何の落ち度もない弱者を身勝手な理由で狙った点では共通しているし、殺害に至る過程の残忍さにおいて、勝るとも劣らない悪質さだったと断言できる。

ネット界隈では知る人ぞ知る事件であるが、本稿では当時の報道を基にして、できる限り忠実かつ詳細にこの許しがたき凶行を取り上げる。

なお、地名などの固有名詞を除き、被害者名・加害者名共に仮名とし(実名を推測できてしまうかもしれないが)、実際にはなかったかもしれないがあったと考えられる会話や挙動、犯人や被害者たちの行動に関する筆者の主観的意見も、一部含まれている点はご容赦願いたい。

死体発見

死体発見時の現場検証(当時の新聞より)

1988年12月7日正午、福岡県粕屋郡久山町の県道福岡-直方線の新犬鳴トンネル入り口から旧県道を1kmほど奥に入った路上で、通行人が焼死体を発見し、福岡東署に通報。

焼死体は二十歳くらいの男性で、身長170cmほどのやせ型で長髪、焼け残った衣類から、緑色のジャンパーを着ていたとみられ、下はジーパンに紺色のズックを履き、靴下は白色。

火に包まれながら倒れていた場所まで走った形跡があるため、現場で焼死したものとみられ、死後数時間程度と推定された。

自殺と他殺の両面で捜査を開始した福岡東署と福岡県警捜査一課だったが、自殺とするには、あまりにも不可解な点が目立った。

まず、男性の頭頂部には石のようなものにぶつかったと思われる五か所の傷(最大で長さ約8cm)があり、倒れていた男性の頭からは大量の血が路上に流れ、ガードレールの一部にも、その血しぶきと思われる血痕が付着していたが、その傷がいつどのようにしてできたかが分からないこと。

そして路上を転げ回った跡がある上に、司法解剖で気管支内からススが検出されたことから現場で焼死したのは間違いないが、右足の靴が見当たらず、その右足の靴下が、歩き回ったように汚れて破れていたこと。

何よりも、死体から漂う臭いからガソリンをかぶって火をつけたはずだが、焼身自殺ならば死体の近くに容器やライター、マッチが見当たらないのはいかにも不自然であり、なおかつ、財布や免許証なども見つからなかった。

〇捜査と犯人の逮捕

翌12月8日午後、焼死体の身元は、福岡県田川郡方城町の工員・梅川光さん(20歳、仮名)と判明する。

被害者の梅川光さん(当時の新聞より)

梅川さんは、母親(45歳)と祖母(72歳)との3人暮らし。

6日朝に、母親をマイカーの軽乗用車で通勤先まで送ってから、そのまま自身の勤務する同県田川市内のスチール製造工場に出勤、同日午後5時半ごろ、その車で退社してから、行方を絶っていた。

翌7日夜、一向に帰ってこない息子を案ずる母親がテレビで焼死体発見のニュースを知って、「ウチの息子では」と警察に届け出たため、鑑識が死体の指紋を鑑定した結果、梅川さんのものと一致したのだ。

そして、8日の夕方には、死体発見現場から約22km離れた田川市後藤寺の路上で、梅川さんの乗っていた軽乗用車が見つかると、いよいよ他殺の線が濃厚になってきた。

現場で容器やライター、マッチが見当たらない以外にも、

  1. 梅川さんの車が発見されたのは自宅とは反対方向。
  2. 梅川さんはいつも寄り道せずにまっすぐ自宅に帰る。
  3. そもそも自殺の動機がない。

などの新たな疑問点が、浮上したからである。

また、発見された車の助手席と後部のトランクからは、梅川さんのものと思われる血痕があり、さらには、別の人物のものとみられる赤みがかった髪の毛、たばこの吸い殻二種類と複数の指紋を検出。

発見された車(当時の新聞より)

死体発見現場付近の聞き込みでも重要な証言があった。

焼死体が見つかった現場近くで7日の午前中、若い男3人が梅川さんのものと同じような軽乗用車に乗っているのを農作業中の主婦らが目撃していたのだ。

これらの物証や証言などから、福岡県警捜査一課と福岡東、田川両署は、12月9日午前、殺人事件と断定。

福岡東、田川両署に合同捜査本部を設置して、本格的な捜査に乗り出した。

しかし、被害者の車が発見され、車内に指紋という決定的な証拠が残っている以上、犯人の逮捕に時間はかからなかった。

その指紋の持ち主と思われる者を1人ずつ任意同行により事情聴取した結果、その日のうちに、梅川さんを拉致して殺害したとあっさりと認めたのだ。

犯行に関わったのは5人で、全て未成年。

うち主犯格とみられる犯人は、被害者の梅川さんと顔見知りだった。

そして、調べを進めるうちに判明した犯行の動機と詳細たるや、あまりの身勝手さと残虐ぶりに、捜査員をあ然とさせるものであった。

犯行の経緯

逮捕されたのは、行商手伝い(おそらく暴力団関連)の大隅雅司(19歳、仮名)を中心として、窃盗や恐喝を繰り返す16歳から19歳までの不良少年グループの5人。

多子貧困の荒廃した家庭で育った大隅は、中学時代から非行を重ねて14回の補導歴と逮捕歴を持ち、強盗致傷や恐喝で、三回も少年院に入れられたことがある筋金入りだった。

今回の事件が発覚した際も田川署で、「まさかあいつでは」と名前が浮かんだほど、署員の間では悪名がとどろいていたくらいである。

そんな大隅が、この事件を起こすきっかけとなったのは車だった。

彼は車を持っていなかったが、車を買う必要は感じていなかったらしい。

なぜなら身近で車を持っている人間がいると、脅しては奪い取ること(“シャクる”などと称していた)を常習としており、次々と乗り換えていたからだ。

被害者も報復を恐れて通報しなかったっため、そのままま、かり通っていた。

梅川さんが彼らに連れ去られることになる6日夕方も、前日知り合いの少年を脅して奪った車を乗り回していた。

同乗していたのは、後に事件の共犯の1人となり、大隅とつるんで悪さを重ねてきた安藤薫(19歳、仮名)である。

まんまと車をせしめることに成功した2人だが、今乗っている車には不満だった。

彼らは、その日の夜、ある女子中学生とデートする約束をしていたのだが(19歳にもなって恥ずかしい奴らだ)、その車は軽トラで、デートには不向きなことこの上なかったからである。

そんな彼らの視界に入ったのは、勤務先から帰宅する梅川さんの乗るダイハツの「ミラ」だった。

当時の若者に人気があった軽乗用車である。

「あの車やったら、格好つくっちゃけどね」

と考えた大隅だが、赤信号で止まったその「ミラ」の運転席に座っているのが、幼い時から顔見知りの梅川さんだと分かると、途端に一計を案じた。

「あいつのば使うったい」

大隅は安藤を促して、軽トラを路肩に停車させて降り、信号待ちしている梅川さんの乗る「ミラ」に近寄った。

返す気があったか否かは別として、そんな場所でいきなり車を借りようとする神経もなかなかのものだが、欲しいものがあれば、脅して奪うことを繰り返している彼らに躊躇はない。

それに、大隅は梅川さんのことをよく知っていた。

子供のころから年上とはいえ極端に気が弱く、嫌とは絶対言えない性格をしていたのだ。

「よー、光やない。ちょっとドアば開けんか」

などと言って強引に車に乗り込むと、臆面もなく凄みすら効かせて、要件を切り出した。

「俺らこれから女(おなご)と会うことになっとーとたい。ばってん軽トラしかなかけん、格好つかんっちゃん。だけん、オメーの車(俺らに)貸しちゃらんや」

「断るわけはない」と踏んでいた大隅だったが、梅川さんの反応は予想外なもので、逮捕後以下のようなことを繰り返し言っていたと供述した。

「ばあちゃんに叱られるけん」

梅川さんは母親と祖母の3人暮らし。

ビルマ戦線で夫を亡くした祖母は、女手一つで行商をしながら、梅川さんの母となる娘を育て上げたが、その母は、梅川さんをもうけた後離婚。

しかし、彼女も祖母譲りのしっかり者で、梅川さんを同じく女手一つで立派に育てた。

そんなつつましく懸命に生きてきた一家の一粒種である梅川さんは、軽度の知的障害があったらしく、極度に内向的で人見知りであったため、少々将来を心配されていた。

だが、彼は工業高校を卒業後に、スチール製造工場に無事就職。

行く末を案じていた孫の就職を祖母は非常に喜び、母と共に決して多くはない貯えを大幅に切り崩して、就職祝いとして軽自動車「ミラ」を買い与えた。

そんな祖母と母の思いを梅川さんも、十分知っていたのであろう。

その車を、小さなころから悪ガキで、今は輪をかけて悪くなった大隅に、おいそれと貸すわけにいかない。

返してくれない可能性が高いからだ。

その思いがあったからこそ、出た言葉だった。

あるいは、梅川さんなりの遠回しの拒絶だったのかもしれない。

だが、札付きの不良である大隅たちに、その思いが通じるわけがなかった。

「あ?貸すとか貸さんとか?どっちや、ああ?!」

「えと、えと、ばあちゃんに…」

「ナメとうとか!バカ!」

短絡的な大隅は、中途半端な返答にイラつくあまり、梅川さんを殴りつけた。

「よか歳ばして、ばあちゃんばあちゃんて、ガキみたいなことばっか言いくさりやがって!」

一度キレたら、もう止まらない。

さっさと車を手に入れて女に会いに行きたいがばかりに完全に頭に血が上っていた。

安藤も加わって、助手席に移らせた梅川さんを殴る殴る。

暴行はかなり激しく、梅川さんは流血。

助手席の血痕はこの時に付着したようだ。

それまで乗っていた軽トラを放置したまま、新たな車を乗っ取った大隅たちは、持ち主の梅川さんを車内で乱暴しながら、向かった先は、田川市に住む配下の1人である沢村誠一(16歳、仮名)の家。

これから始まるデートの間、邪魔な梅川さんを監禁しておくためだ。

監禁した後、どうするつもりだったのか?

その場の思い付きだけで行動する彼らに大した考えはなかったのであろう。

同じく配下の坂本剛史(16歳、仮名)も呼びつけて沢村とともに見張りをさせ、その間に、自分たちは梅川さんから奪った車で、のうのうとデートに向かった。

おっかない先輩の大隅の命令だ。

断るわけにいかない沢村と坂本は、当初、おびえる梅川さんをいびるなど忠実に勤めを果たしていたが、大きな失態を犯してしまう。

夜中になっても帰ってこない先輩たちを待ち呆けるあまり眠ってしまったのだ。

手ひどい暴力を振るわれた上に、新たに加わった見るからに悪そうな2人に睨まれ続けて、縮み上がっていた梅川さんだが、夜中の午前二時、見張りが完全に寝入ったのを見て、思い切った行動に出る。

逃走を図ったのだ。

しかし、運が悪かった。

ほどなくしてデートを終えた大隅と安藤が、梅川さんの車に乗って帰ってきたのだ。

大隅は激怒した。

梅川さんを逃がしてしまったマヌケ2人に雷を落とし、帰ってきた際に車に同乗していたもう1人の配下の小島幹太(17歳、仮名)も加えて、追跡を開始する。

どこへ逃げたか、全く見当がつかないわけではなかった。

大隅は梅川さんの家を知っていたし、梅川さんが性格上見知らぬ他人の民家に駆け込んだり、通りがかりの車に助けを求めないであろうことも、見つからないように暗い場所を選んで逃げることをしないであろうことも、予測していた。

果たして大隅の読み通り、監禁場所から2km先の通りを、自分の家に向かって逃走する梅川さんを発見。

執拗に追い掛け回して捕らえた。

せっかくのいい気分だったのに、手を煩わされたと逆ギレしていたのか、それとも女子中学生とのデートの首尾が思わしくなくて、イラついていたのか。

大隅たちの身勝手な怒りは相当なものだった。

「ナメたマネしくさりやがって!オラ!オラ!オラア!!」

梅川さんへの暴力は拉致した当初よりさらに凄惨なものになり、顔面パンチが止まらない。

顔が完全に変形し、血だらけになっても手は緩めなかった。

キレたらヤバイことは不良にとって美徳である。

皆も残虐さをアピールするのはここぞとばかりにこぞって無抵抗の弱者を痛めつけた。

そして、どこまでも感情のおもむくまま場当たり的に行動する大隅は、腫れあがった顔からとめどなく血を流してうめく梅川さんを見てとんでもないことを言い出した。

「警察にチクられんごと、殺しんしゃい!」

犯歴を重ねて少年院に何度も入っている大隅は、警察で手荒な取り調べを受けたり、少年院で不自由な生活を強いられることの不快感が、骨身にしみていた。

ここまでやったら逮捕されて、四度目の少年院へ送られるのは間違いがなく、そんなことにならないよう、口を封じておこうというのだ。

だからと言って、傷害罪で訴えられるのを避けるために被害者を殺してバレれば、より重い刑が科されるに決まっているのだが、そこまで考える気はなかったらしい。

大隅は激情的で悪辣な上に人並外れて低能だったからだ。

他の者たちも同じで、誰も止めようとはしなかった。

ボロボロになった梅川さんを、彼から奪った車のトランクに押し込み、安藤はじめ配下の小島と坂本を同乗させて、まだ暗い12月の早朝、福岡県京都郡苅田町の岸壁へ向かった。

海に突き落とすつもりである。

苅田港の岸壁(イメージ)

大隅たちは岸壁への道中の車内でも、着いてからも、梅川さんをさんざん殴った。

それにも飽き足らず、口に火のついたタバコを放り込み、殴りすぎて手が痛くなるとクランクやナット回しを使って殴り、スペアタイアを投げつけるなど滅多打ちにし、岸壁から海中に落とそうとした。

「もうやめんね!!勘弁しちゃらんねえええ!!!」

だが、梅川さんは腫れあがった顔を、血と涙でぐちゃぐちゃにして泣き叫び、岸壁のへりにしがみついて、必死に落とされまいと抵抗。

すると今度はその手に向けてバールが打ち下ろされる。

肉がえぐれ、骨が露出して血が流れ出し、痛みのあまり意識を失ったらしく、ぐったりしたが手は離さない。

そんな、生への凄まじいばかりの執念を目の当たりにして、たじろいだ者もいた。

「もうやめにせんね?なんかかわいそうやん」

だが大隅は冷静だった。最悪な意味で。

「ばーか!オメーらも殺人未遂の共犯やけんね。捕まったらしばらく出て来(こ)れんとばい。何が何でも殺すしかなかろうもん!」

その時、海の向こうから一艘の船が、こちらの岸壁に近づいてきたのが見えた。

まずい、これを見られたら面倒なことになる。

彼らはここでの殺害を中止、ヘリにしがみついていた梅川さんを引きずり上げて車のトランクに入れ、その場を離れることにした。

だが殺害自体を断念したわけではなかった。

もはや誰もやめようと言い出す者もなく、集団はそのまま最悪の結末へと突き進む。

安藤がハンドルを握る車の中では、具体的な殺害方法と場所の検討が始まった。

「港は船とか車の来(く)っけん、いかんばい。ダムに沈むっとはどげんかいな。ここらでダムとかあったかいな?」

「力丸(りきまる)ダムとか、いいっちゃないと?」

「よか。オイ安藤、力丸ダムやけんね。」

一行は今度こそ確実に殺そうと、福岡県宮若市にある力丸ダムに向かったが、途中で中止した。

「ダムやったら死体が浮いてくるっちゃないと?」と、死体が浮いてくる可能性があると考えたためだ。

「そいなら、どげんすっと?埋(う)むっとは?あ、そうだ顔のわからんごと燃やしちゃろう」

「ガソリンやったら、バリバリ燃えるやん」

力丸ダム

逮捕後の取り調べで明らかにされたが、これらの会話はトランクに押し込められている梅川さんにも当然聞こえていた、というか聞かせていた。

後ろから、恐怖と苦痛のあまりうめきながらすすり泣く梅川さんにさらに追い打ちをかけるように、大隅は笑いながらこう言ったという。

「光、もうすぐ楽にしちゃる!」

7日朝8時、大隅らは途中で犯行に使うガソリンを購入するために、ガソリンスタンドに立ち寄る。

「バイクがガス欠になったけん、これに入れちゃらん」

そう言って、1リットルの瓶を差し出した彼らのことならよく覚えていると、従業員は後に語った。

一目で不良と分かる連中だったが、女性従業員に卑猥な言葉をかけて笑い合うなど、この時に買ったそのガソリンを使って殺人を起こすつもりである様子は、一切感じなかったらしい。

ガソリンを購入した後、車内で大隅は、殺害の役割分担を決めようと言い出した。

自分だけが罪をかぶる気はなかったし、全員をそれぞれ殺人に加担させれば、誰もおいそれと口外したりはしないだろうからだ。

「ガソリンかくる役やら、火ィ付くる役とかジャイケン(ジャンケン)で決めるけん」

「じゃあ俺、ガソリンばかくる役ばやりますけん」

ジャンケンの前に自ら志願したのは17歳の小島で、これは実際に火を付ける役を嫌ったかららしい。

「俺はティッシュに火ば…」ともう1人の配下の坂本も直接手を下す役を避ける。

結局、殺害場所の選定は運転する安藤が行い、火を付ける役は大隅自身に決まった。

死の恐怖を梅川さんにたっぷり味わわせながら、人気のない場所を探して車で走り回ること2時間。

殺す場所として選んだのは粕屋郡久山町の旧犬鳴トンネルで、そこは人通りがほとんどない山の中の旧県道であり、当時から心霊スポットとされるくらいの不気味な雰囲気を漂わせていた。

旧県道の入り口(現在は閉鎖されている)

午前10時ごろ、一行はトランクを開けて梅川さんを引きずり出すと、手はずどおり小島がガソリンを浴びせる。

「ああああああああ!!!」

その時、今まで弱々しくうめいていただけの梅川さんがとんでもない大声を上げたために小島は思わずひるんでしまった。

全身を鈍器まで使って滅多打ちにされた体のどこにそんな力があったのか、脱兎のごとく走り出して山の斜面を登って逃走。

「何逃(の)がしようとか、バカが!!捕まえんか!」

大隅たちも慌てて跡を追ったが、山の中に逃げ込んだ梅川さんの姿は完全に消えてしまった。

このまま逃げ続けていれば彼も20年というあまりにも短い生涯を無残に絶たれることなく、さらわれてさんざん暴行されたことによる肉体的精神的な後遺症は残ったとしても、2021年の現在まで生きていたかもしれない。

しかし神から与えられた絶体絶命の危機を脱する機会を一度ならず二度までも無駄にしてしまい、命運が尽きる。

「おーい光!(俺らが)悪かったけん出てこんね。もう何もせんけん、家にも帰しちゃーけん!」

この見え透いた大隅の呼びかけに対して、愚かにも山の中から姿を現し、おとなしく出てきてしまったのだ。

あるいは、この場は逃げおおせたとしても、自分の住所を知っている犯人たちに後日再び襲撃されて、よりひどい目に遭わされることを恐れていた可能性もあるが。

「バカか貴様(キサン)!終わったバイ」

大隅たち悪魔の方は、この機会を逃さなかった。

再び捕らえると、今度は逃がさないよう4人がかりで両手両足をビニールテープで縛り、口には仲間の1人から差し出させたシャツを破いて押し込む。

縛られて、さるぐつわをされた口から、必死に命乞いの言葉を発する梅川さんを道路に正座させ、残ったガソリンをかけて火のついたティッシュを投げ込んだ。

瞬間的に発火して火だるまとなった彼はのたうち回り、火で溶けた衣類やビニールテープを路上やガードレールにこびりつかせながら走り回った後に崩れ落ち、やがて動かなくなった。

焼殺現場(当時の新聞より)

愚劣極まりない犯行後の犯人たち

梅川さんが息絶えた後、犯人たちは、とどめとばかりに石か鈍器のようなものを頭に叩きつけており、頭の傷はこの時できたものと判明した。

ネットでは、この傷からの失血死という情報もあるが、当時の報道を見る限り死因は焼死である。

大隅たちは梅川さんを焼き殺した後、すぐに車で現場を離れたようだが、また五分後に戻ってきて車内から動かなくなっているか否かを確認。

それを三回も繰り返していた。

犯人たちは、さらなる証拠隠滅のため、奪った財布から免許証を取り出して焼き、同じく梅川さんの時計も投棄。

かように用心に用心を重ねたつもりの大隅たちだが、その後の行動が、あまりにもずさんだった。

一旦、監禁場所の家に戻ると、殺人には加わらずそのまま家にいた沢村も加えて、5人で隣町の飯塚市へ梅山さんの車で飲みに出かけ、戻ってくると、自分たちの指紋や被害者の血痕などの物証だらけの車にカギをかけ、田川市後藤寺の路上に駐車していたのだ。

逮捕後の供述によるとまた使うつもりだったらしい。

押収された梅川さんの車(当時の新聞より)

後に、その物的証拠が決め手となって逮捕に至るわけだから、犯罪者としても三流だったとしか言いようがない。

おまけに、大隅は生活保護を受ける母親と暮らす自宅に戻った際、近所の人に「警察来(き)とらんよね?人ば焼き殺してしもうたけんくさ」と、にわかには信じがたい言葉を吐いている。

被害者遺族たちの悲憤

被害者の葬儀(当時の新聞より)

生前の梅川さんは、その内向的でおとなしすぎる性格から、友達付き合いもあまりなく、仕事が終わるとまっすぐ家に帰っていた。

また、給料の10万円のうち7万円を家に入れ、よく車で祖母や母を買い物に連れて行く、近所でも評判の孝行息子だったという。

親子三代でつつましく暮らす梅川家における、かけがえのない宝だった。

その宝、たった1人の子供をあり得ないほどむごたらしい方法で奪われた遺族の悲しみが、尋常ではなかったのは言うまでもない。

9日に密葬が行われた後の自宅では、母の裕美さん(45歳、仮名)と祖母の房江さん(75歳、仮名)が奥の部屋にこもったままで、涙で目を真っ赤にはらし、親族の慰めにも無言でうなずくだけだったという。

叔父の健さん(50歳、仮名)は怒りをこらえながらマスコミの取材に答えてこう言った。

「ただ悔しいとしか言いようがない。犯人に対して何もできないし、耐えるしかないのか。許されるなら、同じことを犯人に対してしてやりたい」

反省なき鬼畜たちのその後

主犯の大隅は、姉に付き添われて田川署に出頭してきた時はぶるぶる震えており、9日の夕食、10日の朝食とも一口しか手を付けず「光のことを思うと食欲が出らん」などと言った。

他の少年たちも「かわいそうなことをした」と後悔の言葉を漏らすようになっていた。

しかしそれは最初だけだったようだ。

犯人たちは開き直ったのか、これが素だったのか次第に何の反省もない態度を取り始める。

朝昼晩の食事は全て平らげ、外部から差し入れられたカップラーメンも完食。

取り調べでもあっけらかんと笑みすら浮かべて犯行についての供述をした。

殺害には加わっていないことを理由に「俺は見張りしてただけやろうもん。なして捕まらんといかんと」と言い張る沢村も問題だったが、焼殺の実行犯たちの中には「あいつが車ば貸さんかったけん、やったったい」とすら口にした者もいた。

主犯格の大隅である。

大隅はさらに「俺は何年の刑になると?」と、自分が未成年であることを理由に大した刑にはならないとタカをくくってすらいた。

だが、甘かった。

その後の一審判決で無期懲役が下されるや「重すぎる」と控訴。

1991年3月8日、福岡地裁で開かれた裁判では控訴を棄却されて二審でも無期懲役が確定した。

成育歴が劣悪だっただのの言い訳や、拘置所で被害者の冥福を祈って読経をしたりのこれ見よがしの行為では、情状酌量は認められず、

『犯行は他に類例を見ないほど残虐。被告はその中心的な役割を果たしており責任は重い』

と判断されたのだ。

しかし、事実上の副主犯格の安藤薫には、5年以上10年以下、その他の従犯の小島幹太と坂本剛史には、4年以上8年以下の懲役であったのは果たして妥当であったのか?

あれほどの凶悪犯罪を行った大隅は、2021年の現在でも服役していると思われる一方、他の3人のうち出所後、地元の広域暴力団に加入して幹部にまでなった者がおり、今でも「あの時の犯人は俺だ」と犯行を自慢しているという、ウソか誠か知れぬ情報がネットでは出回っている。

しかし、あながちウソとも思えない。

あんなことをしでかした奴らだから暴力団に加入してもおかしくないし、そこしか行き場はなかっただろうからだ。

凶悪犯罪を平気で犯すような奴らは、基本的に反省することがないと考えるべきである。

必ず「あれは仕方なくやったんだ」とか「もう償いは十分したはずだ」とかの言い訳を、自分の中で確立するものだし、逆に武勇伝として誇らしく吹聴したりして、再び犯罪に手を染める輩が多いことは女子高生コンクリ殺人の犯人たちのその後が、証明している。

凶悪犯を反省させる必要はない。

だが一線を踏み越えたことへの後悔だけは、十分にさせる必要がある。

司法は更生よりも、危険極まりない人物を、社会から隔離するか無力化することに重点を置くべきだと思うのは、筆者だけではないはずだ。

死体発見現場にたむけられた花(当時の新聞より)

出典元―西日本新聞・朝日新聞西部版・『うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件』(草思社)

かげろうの家 女子高生監禁殺人事件 (追跡ルポルタージュ シリーズ「少年たちの未来」2) 犯人直撃「1988名古屋アベック殺人」少年少女たちのそれから―新潮45eBooklet 事件編10 うちの子が、なぜ!―女子高生コンクリート詰め殺人事件

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エチオピア軍の朝鮮戦争 ~エチオピア最強部隊・カグニュー大隊~

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1950年6月25日、朝鮮半島の南北統一をもくろむ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が事実上の国境となっていた38度線を超えて南の大韓民国(韓国)に侵攻。

1953年7月27日まで丸々三年続くことになる朝鮮戦争が始まった。

6月27日に開催された国連安保理では、この北朝鮮の南侵を侵略と認定。

7月7日、北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国防衛のため、加盟国にその軍事力と支援を提供するよう求め、アメリカを中心とする国連軍の出動が決定された。

この国連軍には、北朝鮮の後ろ盾であり言わずと知れた黒幕のソ連や中国(この当時は国連に加盟していなかった)はもちろん参加しておらず、アメリカをはじめとする西側陣営の諸国が中心となった16か国で構成されていたが、その中には、遠くアフリカ大陸から参戦したエチオピア軍も加わっていた。

規模ではアメリカ軍32万人に遠く及ばない1200人程度の大隊の派遣であり、アメリカ軍の指揮下での戦闘参加である。

しかし、ただ国連軍に名を連ねていただけの影の薄い存在では、決してなかった。

なぜならその“カグニュー大隊”と呼ばれたエチオピア軍は、北朝鮮軍や中国軍(抗美援朝義勇軍)と戦闘で、対等以上に渡り合ったからである。

カグニュー大隊の派遣

当時エチオピアを統治していたエチオピア帝国皇帝のハイレ・セラシエは、国連の要請を受けると部隊の派兵を快諾した。

第二次大戦中イタリア軍に自国を侵略されたハイレ・セラシエは、集団安全保障という考え方の信奉者であったからである。

そして、派遣される部隊は主に皇帝直属の親衛隊から選ばれた大隊規模で、指揮官や将校も第二次世界大戦を経験した筋金入りで組織された。

その大隊は、ハイレ・セラシエ皇帝の父で19世紀末に起きた第一次エチオピア戦争の英雄でもあるラス・マコネンの乗馬の名にちなんで、“カグニュー”大隊と呼ばれるようになる。

カグニュー大隊は、派遣前に朝鮮半島の地形に似た山岳地帯で八か月の訓練を受けると、買開戦翌年の1951年4月12日に、当時フランスの植民地だった隣国のジプチから、第一陣1122名が海路極東に向けて出発。

5月6日、釜山に到着すると米国製の装備を受け取って、さらに六週間にわたる訓練を受けてから米軍第7歩兵師団の指揮下に加わり、共産軍との一進一退の攻防が続く38度線近くの最前線に配置された。

カグニュー大隊の戦闘

カグニュー大隊は1951年8月12日、現在の韓国江原道華川群の赤根山での作戦を皮切りに、米軍の下で共産軍相手の戦闘を開始した。

それから間もない10月の三角丘の戦い(鐵原郡)において、夜間戦闘で目覚ましい働きにより頭角を現し、米軍将兵を瞠目させるようになる。

それもそのはず、彼らはエチオピア軍の最精鋭部隊である皇帝の親衛隊隊員。

エチオピア国内において卓越した頭脳、精神力、肉体を有した者の中から選抜された本物の戦士たちだったからだ。

そんな“男の中の男”たちで構成されたカグニュー大隊の戦場でのモットーは“勝利か死か”。

米軍から貸与されたM1ガーランドやM1カービンを使いこなし、500メートル以内での命中率は抜群で、迫りくる共産軍の兵士を片っ端から射殺。

白兵戦も上等で、人数にモノを言わせて雲霞のごとく押し寄せてくる中国軍にも銃剣で立ち向かって返り討ちにしたのだ。

朝鮮戦争の休戦まで同大隊は三回入れ替わったが、その間 “鉄の三角地”での戦いや1953年の“ポークチョップヒル”の戦いまで激戦を戦い抜き、どの戦闘でも共産軍相手に後退することはなかった。

1953年5月の戦いでは、共産軍の一個大隊を壊滅させ、大韓民国政府から勲章を授与される栄誉に浴する。

そして、1953年の7月27日に休戦協定が結ばれるまで、戦場に留まり続けた。

カグニュー大隊は、この戦争で延べ6037人が派遣され121人の戦死者と536人の戦傷者を出したが、特筆すべきは、共産軍の捕虜になった者が一人もいなかったことである。

また、戦死者の死体を戦場に置き去りには、決してしなかったという。

この勇敢さと戦闘力を、指揮下に置いていた米軍も、大いに認めていた。

米国はこの戦争で「敵対する武装勢力との交戦において勇敢さを示した」兵士に対して授与される最高の勲章、シルバースターを9個、それに次ぐ「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」兵士に授与されるブロンズスターメダルを18個、エチオピアの戦士たちに贈ったのだ。

シルバースターは、本来自国の兵隊である米兵にしか授与されないものなので、いかに彼らの評価が高かったかが分かるであろう。

戦後

休戦後もエチオピアからの派兵は続き、国連軍の一部として第4、第5カグニュー大隊が入れ替わりで韓国内に駐留した。

余談ではあるが、ローマと東京オリンピックのマラソンで二大会連続金メダルを獲得したアベベ・ビキラは、皇帝親衛隊出身でカグニュー大隊の一員として朝鮮に派遣されおり、釜山到着後休戦になったため、駐留軍に加わることもなく帰国している。

このように、朝鮮半島で命をかけて戦った彼らだが、その功労に報いるべきエチオピア帝国は、長く続かなかった。

皇帝のハイレ・セラシエは外交では、活躍したが内政では失政が続いたために国内では不満が溜まり、1974年のエチオピア革命で廃位された上に翌年殺害されてしまい、帝国が滅んだからだ。

エチオピアの新たな支配者となったメンギスツ率いる社会主義軍事政権は当然、前政権で特権的地位にあった皇帝の親衛隊隊員たちを快く思うはずがない。

その後の人生を手厚く保証されるはずだった元隊員たちの多くが殺されないまでも冷遇され、みじめな境遇に落ちぶれることになってしまった。

だが、その一方で韓国は彼らへの感謝の念を忘れていなかった。

第二次大戦前における日本の所業を捏造してまで追求し、ベトナム戦争時での自国軍の戦争犯罪には知らんぷりするが、国家存亡の危機にアフリカからはるばる救いの手を差し伸べたエチオピアに対しては違ったのだ。

カグニュー大隊の記念碑や記念館を建立し、1996年にはカグニュー大隊の生き残りの兵士たちへの給付金の支給を決定。

多くが貧困に落ちぶれた元隊員の子弟たちの中でも成績の優秀な青年を学費免除で韓国に留学させたりするなど、目に見える形で報いようとしているのだ。

朝鮮戦争が休戦になってから、60数年となった現代。

かつてはるか遠くの朝鮮半島で戦ったカグニュー大隊の隊員たちは老境に達し、200人余りとなった彼らは時々戦友たちと旧交を温めながら故国で余生を送っている。

そのうちの一人はこう語った。

「皇帝陛下の御命令は、“韓国の自由と平和を守れ”だった。しかし一つ目の“自由”は守ったが、二つ目の“平和”は守れなかった。あの戦争は休戦したのであって終戦ではなく、未だに韓国と北朝鮮に分かれて緊張状態が続いているからだ。せめて死ぬ前に統一された朝鮮を見たい」

出典元-百度百科、ウィキペディア英語版

わかりやすい朝鮮戦争 民族を分断させた悲劇の構図 (光人社NF文庫)

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汚宅でも実証!ゴキブリ駆除剤『コンバット』の破壊力

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恥ずかしながら私の家は汚い。

下の写真がその有様を写したものだが、あまりに閲覧注意なので画像を大幅に加工させていただいた(モザイクかけただけでは足りなかった)。

ゴミ屋敷ってほどじゃない(と信ずる)が、生来無精者の私は掃除を一か月に一回しかしないし、モノもちらけっぱなしであることが多い。

私の部屋を訪ねた友人は二度と来なくなるし、

部屋の中には他の家にはいない風土病のような病原菌が存在しているらしく、訪問した人間の中には原因不明の発疹やかゆみのような症状が現れた者もいる。

そんな菌類のサファリパークと言うより、保護区状態の我が家には様々な昆虫も出現し、生態系すら形成されてしまっている。

その生態系の圧倒的頂点に君臨するのは、この家の正当な支配者であるこの私だから、そういった昆虫を見かけるとテロリストとみなし、輪ゴム、キンチョール、ダニアース、ライター、丸めた雑誌などによる徹底した弾圧を行っている。

目障りだし、しょっちゅう見かける以上害虫に決まっているからだ。

もっとも、目に見えないものはもっと多いに違いないが。

それはさておき、そんな昆虫たちの中でも特に目障りなのがご存じゴキブリだ。

失敗国家の反政府ゲリラのごとく、ご多分に漏れず我が家にも出没する。

夏になると毎日、それも一日のうち何回も見かけるようになる。

『一匹いたら百匹いる説』というものがあるが、ならば私の家にはいったい何匹いるんだろう?

一度に二、三匹いたのを見たこともあるから考えたくもない。

部屋をマメに掃除する気はあまり起きないくせに、ゴキブリと共存する気は全くない私は、8月のある日とうとう我慢できなくなり、部屋の平和を脅かす者たちに怒りの一撃を加えようと薬局に走った。

私が最初に買おうと思った兵器は『ゴキブリホイホイ』なのだが、見当たらなかった。

その代わり目について購入したのは、設置容器型のゴキブリ駆除剤『コンバット』なるものだ。

KINCHO コンバット ゴキブリ駆除剤 スマート容器 20個入 1年いなくなる [防除用医薬部外品]

なんでも、ベイト剤という駆除剤が入った設置容器をゴキブリの生息場所や通り道に置いておくと、吸引作用があるその容器の中にゴキブリが入ってベイト剤を食べ、その毒性作用で巣に戻ったところで死亡するのだという。

のみならず、体内にその毒性成分が残っているのでその死骸を食べた他のゴキブリや幼虫も死ぬため、巣ごと殲滅できるという名前に違わぬシロモノだ。

もっとも、そんな説明を読んだからじゃなく値段が600円くらいと手ごろだったから買ったのであって、以上のことを知ったのは、家に持って帰ってからである。

本商品『コンバット』はベイト剤が入った設置容器が四つ入っている。

その容器には底面に固定テープがついているため、ゴキブリが通るであろう壁や角に垂直にくっつけることができる。

文字の書かれた紙

中程度の精度で自動的に生成された説明

6畳当たり一個か二個設置が目安らしいが、私は一番ゴキブリを見かける台所に集中的に置いた。

ぶっちゃけ商品の説明がごとく本当に一網打尽できるとは思っておらず、見かけるのが少なくなるだろうくらいしか期待していなかったのだ。

だが、効果は予想以上だった。

早くも設置した翌日から見かけなくなったのだ、ゴキブリを!

正確には8月の初めころに設置して10月初旬の現在までに、10回未満しか見かけていない。

そんだけ見かけたらダメじゃないかって?

しかしそれまで毎日見かけ、一日10回以上目撃したことすらある我が家の以前の惨状から比べれば、効果は絶大と評価すべきではなかろうか。

私の家のような汚染度の高い家でもこの威力なのだ。

この『コンバット』の効果は一年であり、また来年の8月になったら買い替えて交換しなければならないようだが十分である。

このゴキブリ駆除剤『コンバット』の導入という果敢な行動により、私を毎年悩ませてきたゴキブリ問題が解決したと言っても過言ではないのだ。

だが、その前にそもそもゴキブリが出ないように、家をマメに掃除するという行動の方は残念ながらまだ起きていない。

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ゴア併合 ~1961年・印ポ小戦争~

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1961年12月18日、1510年以来ポルトガル領となっていたインド西海岸のゴアにインド軍が侵攻。

陸海空3万人以上による攻撃で駐留するポルトガル植民地軍を圧倒して降伏させ、力づくで451年続いたポルトガル統治にピリオドを打ち自国の領土に編入した。

当事国であるインドはこの軍事行動をヴィジャエ(勝利)作戦と称して自国の領土を奪還した正当な措置と主張し、もう一方のポルトガルはゴア侵略(Invasão de Goa)と呼んで反発。

このインドの武力行使については国際的に賛否両論が巻き起こり、両国はそれ以来1974年まで断交状態が続いた。

前史

ゴアは1510年、ポルトガル人アフォンソ・デ・アルブケルケに占領されて以来、400年以上にわたってポルトガルに支配され、他にもダマン(正式併合1539年)、ディーウ(1535年併合)が英国から独立した1947年の時点でもポルトガル領インドとして存在していた。

当時のこの三か所のポルトガル領インドの総面積は約4000平方キロ、総人口は637591人。

そのうち61%がヒンズー教徒で、ポルトガルの植民地であった影響で36.7%がキリスト教徒(もちろんカトリック)、イスラム教徒は2.2%のみであった。

すでに大航海時代の黄金期ははるか昔の話となり、主要な産業は農業であったが、1940年代から鉄やマンガンが採掘されるようになって砿業が盛んになりつつあった。

しかし第二次世界大戦前、英国の植民地であったインド本土が独立運動を展開していたのと同様に、ゴアにおいてもポルトガルの統治に反対する動きが起こっていた。

T.B.クーニャ

その先駆者となったのはフランスで教育を受けたゴアのエンジニア、T.B.クーニャであり、1928年ゴア会議派委員会を創設し、ゴアのポルトガルからの解放を呼びかけた。

同時期、英国に対して独立運動を行っていた本土のインド人の指導者たちラージェーンドラ・プラサードやジャワハルラール・ネルー、スバス・チャンドラ・ボースなどもこのゴア会議派委員会に賛同する意思を表明。

1938年にはクーニャらは当時インド国民会議派議長だったスバス・チャンドラ・ボースと会見し、ボースの提案の下、ムンバイにゴア会議派委員会の支部が設けられてクーニャが議長となった。

そして第二次世界大戦を経た1947年、英国から独立したインドはポルトガルにも自国の領土の返還を要求する。

だが、当時独裁政治を行っていたアントニオ・サラザール率いるポルトガル政府は植民地帝国としての権威にしがみつき、これを拒否した。

植民地を有することによってかろうじて大国としてのメンツを守っていたポルトガルは、ゴアの独立が他の植民地での独立闘争に波及することで植民地帝国が崩壊することを恐れていたのだ。

アントニオ・サラザール

そしてゴアの植民地当局は公共の場所での集会を禁止し、解放運動の参加者を逮捕するなど力で抑え込む措置に出た。

これに対し、ゴア人たちの植民地政府への抗議行動は主にガンジー式の非暴力によるものであったが、ゴア自由党やゴア統一戦線のように武装蜂起する集団も出現するようになる。

これらの武装集団の構成員はゴア以外のインド人が大部分で、第二次大戦中は英印軍に参加して実戦を経験していた者が多かったため、大戦中は中立を守っていたポルトガルの植民地軍を大いに苦しめた。

インド政府もゴア自由党などの武装抵抗組織に武器を援助したり、インド領内での活動を認めたばかりか、ゴアへの道路や水道、電話線を封鎖。

ポルトガル植民地政府に圧力を加え始めた。

ゴアをめぐるインド-ポルトガルの外交交渉

1950年2月27日、インド政府は改めてポルトガル政府にゴアを含めた他のポルトガル領インドの今後についての話し合いを要求したが、ポルトガルはインド亜大陸における領土は植民地ではなくポルトガル本土であるという姿勢を崩さず、話し合いを拒否。

同時に、それらの地がポルトガル領に編入された時にインド共和国は存在しなかったことを理由に、インドに帰属すべき歴史的な根拠がないと主張した。

ポルトガルは1949年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、これも強気の背景となっていた。

この政府間軍事同盟は加盟国の域内が攻撃された場合に、集団的自衛権を行使し共同で対処することができるからだ。

ポルトガルの強硬な態度にインドも対抗措置として1953年6月11日リスボンから外交使節を引き上げさせた。

1954年になるとインドはポルトガルへの嫌がらせをよりグレードアップさせる。

ゴアの住民のインド本土入境にビザの申請を義務付けたのだ。

これによりゴア以外のポルトガル領であるダマンやディーウとの相互の往来にも支障をきたすようになった。

同年7月22日から8月2日の間には武装集団がゴアとは別のポルトガル領インドであるダドラとナガル・ハヴェーリーのポルトガル軍守備隊を攻撃するなどゲリラ攻撃も続く。

そして翌年の1955年8月15日、事件が勃発する。

この日非武装のインド人活動家3000から5000人が抗議活動のため六ケ所からゴアに侵入しようとしていたのだが、それをポルトガル当局が武力で制圧したため30人ほどの死者を出す大惨事となったのだ。

この事態は本土のインド人の反ポルトガル感情を激化させ、同年9月1日にインド政府はゴアの領事館を閉鎖、武装抵抗組織を支援するだけでなく軍による武力行使をもちらつかせるようになった。

一方のポルトガル政府内ではゴアの帰趨を現地の住民投票により決める案も検討されたが同国の国防相や外相の反対により立ち消えとなる。

また、英国による調停や国連の介入を要請するなど外交チャンネルを通じた解決を模索。

その結果駐インド米国大使がインド政府に平和的な解決を要求するなど国際的にも関心が高まってきてはいたが、当時インドとは友好的な関係だった中華人民共和国などは当然のごとくインドを支持する声明を発表。

インドの国防相と国連大使は「武力解決も辞さじ」ともとれるような声明を出し、強硬な態度をエスカレートさせていた。

そして1961年11月24日、決定的な事態が発生する。

インドの客船サバルマティ号がポルトガル領アンジェディバ島の付近でポルトガル軍から銃撃を受けて2名の死傷者を出したのだ。

ポルトガル側は同船が自国領であるアンジェディバ島を攻撃するための武装集団を乗せていると疑ったためだったが、完全にインド側に軍事行動を起こさせる口実を与えてしまった。

インド首相ジャワハルラール・ネルー

12月10日、ポルトガルへの軍事行動を支持する世論に背を押されたインド首相のネルーはメディアに「ゴアがこれからもポルトガルの統治下に置かれ続けることはあり得ない」と最後通告ともとれる発言を行う。

米国はこれが国連安保理に侵略行為として提出されたら今後いかなる支援もしないとインドに警告したが、武力衝突は秒読みとなっていった。

インド軍の侵攻準備

ゴア奪還のためにインド政府は陸海空3万人以上の部隊を編成していた。

むろんサバルマティ号が銃撃されるずっと以前からであったことは言うまでもない。

まず陸軍が南部軍管区の歩兵第17師団と第50空挺旅団が中心となり、飛び地のダマン攻撃にはマラーティー軽歩兵大隊、ディーウ攻撃にはラージプート第20大隊とマドラス第4大隊が割り当てられていた。

空軍も航空支援に当たることになり、インド西部軍管区空軍司令官の指揮の下、20機のキャンベラ爆撃機や6機のバンパイア戦闘機をはじめとした計42機がポルトガル側の空軍基地攻撃を行う。

インド海軍はラージプート級駆逐艦のラージプート、ククリ級フリゲート艦のキンパルをはじめ巡洋艦2隻、駆逐艦1隻、フリゲート艦8隻、掃海艇4隻の堂々たる陣容で、これに加えて介入を試みる第三国ににらみを利かせる目的も兼ねて軽空母のヴィクラント(初代。現在同名のインド軍空母は二代目)までが参加することになった。

ちなみにこのヴィクラントは後の第三次印パ戦争でパキスタン軍相手に機動戦を行うなどの大暴れをすることになる。

インド海軍軽空母ヴィクラント

ポルトガル軍の迎撃準備

12月14日、インド軍の侵攻を予期していたポルトガルの独裁者サラザール首相はゴアの総督兼現地ポルトガル軍の最高司令官マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバに断固死守を厳命する。

ゴア総督マヌエル・アントニオ・ヴァッサロ・エ・シルバ

そうは言っても、陸海空至れり尽くせりで準備万端のインド軍に対し現地のポルトガル軍は兵力でも装備でも劣り、約3300人のヨーロッパ系の兵士と900人の現地人兵、他に約2000人の警官が動員できる全てであり、なおかつ訓練が不足していた。

艦艇もフリゲート艦1隻と巡視艇3隻、その他徴用した商船しかなく、それをゴア、ダマン及びディーウの防衛に振り分けなければならないなど明らかな劣勢であった。

そしてポルトガル軍の戦術はモーミューガオ港を死守することで、インド軍の侵攻を遅らせるために開戦と同時に橋梁を爆破し、幹線道路に地雷を埋設する手はずだったが、必要な地雷も爆薬も不足していた。

インド軍は事前にポルトガル軍がF86セイバー戦闘機を有した飛行中隊を有していると考えていたが、実際には輸送機が2機と2個高射砲中隊を保有するに過ぎず、彼我の戦力差は陸海空いずれも絶望的ですらあった。

増援をしようにも軍需物資を積んだ輸送機の領空通過を周辺国に拒否されたばかりか、同じ北大西洋条約機構加盟国であり身内であるはずの英国にまで支援を断られ、事実上ゴアは孤立無援となっていた。

開戦前の時点でポルトガルは敗北していたのだ。

12月9日、ゴアに立ち寄ったポルトガルのリスボン行きの船によるポルトガル系の民間人の本国への退避が始まったが、これはゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバの独断での退避許可であって、何とポルトガル本国の政府は民間人の退避を認めないように総督に命令していた。

この民間人の避難は一回で終えることはできず、インド軍の空襲が始まるまで続けられることになる。

ヴィジャエ(勝利)作戦の開始

12月1日からインドはゴアへの小規模な偵察を行い、12月18日、海上でゴア攻撃の火ぶたが切られた。

同日午前4時、ポルトガル海軍の巡視艇ベガがディーウ付近の海域でインド海軍の巡洋艦ニューデリーに遭遇、攻撃を受けて基地に撤退。

これが事実上のインド軍によるゴア武力奪還作戦・ヴィジャエ(勝利)作戦の始まりだったが、この期に及んでもポルトガル側には開戦したという認識はなかったようだ。

インド軍の空襲

キャンベラ爆撃機

ポルトガル海軍の巡視艇が攻撃された同日の12月18日、インド軍空軍の爆撃が始まり、本格的な武力衝突の火ぶたが切って落とされた。

12機のインド空軍の英国製キャンベラ爆撃機がまず攻撃したのはゴアの空の玄関口ダボリム飛行場。

爆撃で滑走路を破壊すると、その1時間後には8機のキャンベラ爆撃機が再度空襲を行ってポルトガル空軍の輸送機を1機破壊した。

インド空軍は無線局にも攻撃を行い、この時ようやくポルトガル軍の高射砲が迎撃を始めたがもはや効果的な反撃はできそうになく、数時間後にはダマンやディーウも航空攻撃を受けることになる。

海上での戦い

インド海軍軽巡洋艦マイソール

18日14時25分には飛び地のアンジェディバ島にインド海軍の陸戦隊が上陸してポルトガルの守備隊と交戦。

一旦インド軍は撃退されたが、その後海軍の軽巡洋艦マイソールやフリゲート艦トリシュルによる艦砲射撃が島に加えられ、翌19日の14時にポルトガル軍は降伏した。

この地での戦闘ではインド側に7人の戦死者と19人の負傷者が出た。

ゴア本土のモーミューガオ港では小規模な海戦も起こる。

同港に立ちはだかるポルトガルのフリゲート艦アフォンソは、フリゲート艦ベトワをはじめとした3隻のインド艦艇相手に400発近くの砲弾を発射するなど奮戦。

しかし衆寡敵せず、艦橋を破壊されるなどの深刻なダメージを受けたために艦の放棄の命令が下され、乗組員によって座礁させられた。

フリゲート艦アフォンソ

ゴアでの地上作戦

18日早朝、インド軍第50空挺旅団が三つに分かれて侵攻を開始した。

東を進むのは第2マラーティ空挺連隊でポーンダーからゴアの中心に侵入。

中央は第1パンジャブ空挺連隊であり、バナスタリムに向けて進撃。

西へは第2シーク軽歩兵連隊が進み、朝6時30分インドとゴアの境界線を越えて侵入。

抵抗らしい抵抗も受けずにポルトガル領ゴアの中心地パナジに迫ったが、次の命令を待つために手前500メートルで停止する。

翌19日7時30分、改めて攻撃の命令を受けて二個中隊がパナジに侵攻したがまたも抵抗を受けることなく占領に成功、現地の住民から解放軍として迎えられた。

北部と東北方面戦線

18日、北部ではインド第63歩兵旅団が左右二つの縦隊に分かれてゴアに侵攻、右の縦隊は第2ビハール連隊、左の縦隊は第3シーク連隊で構成されていた。

両連隊とも抵抗を受けることなく進撃したが、河川に架かる橋をポルトガル軍に破壊されていたので遅滞を余儀なくされる。

しかし翌日、胸まで水につかりながら第3シーク連隊は河川を強行突破して同日正午にはゴアの行政の中心であるマーガオに到達。

そこからゴアの主要港のモーミューガオ港に向かったが、途中でポルトガル軍の強烈な反撃に遭遇する。

しかしこの頑強なポルトガル軍(約500名)も後から加わったインド軍の第2ビハール連隊の火力に押されて劣勢となり、最終的には降伏した。

そのマーガオ以南の地域ではインド軍の第4ラージプート中隊のように地雷原に誘い込まれた部隊もあったが、最重要防御地域であるために激戦が予想されたモーミューガオ港への進撃は同港を守るポルトガル軍が一発も発砲することなく降伏したことで幕を閉じる。

19日20時30分、ゴアでの戦闘は終わった。

ダマン攻撃

18日払暁、ゴアよりはるか北方のアラビア海に面した飛び地であるダマンを攻撃したのはインド軍のマラーティ第1軽歩兵連隊である。

17時までにマラーティ第1軽歩兵連隊はほぼ無血でダマンの大部分を占拠。

600名のポルトガル軍守備隊は戦意を喪失して飛行場に逃げ込んだが、翌日そこを包囲されると投降した。

ディーウ攻撃

同じく18日の早朝ダマン西方のディーウにインド軍第20ラージプート大隊の二個中隊が西北方向から侵入した。

しかしダマンと異なり、この地を守るポルトガル軍は戦意旺盛で死に物狂いの抵抗を見せたために進撃が阻まれる。

インド軍も航空機による支援爆撃などで対抗したが戦闘は続いた。

翌日まで徹底抗戦を続けたポルトガル軍だったが弾薬が底をついたため、降伏を余儀なくされた。

このディーウでの戦闘でインド軍は4人が戦死して14人が負傷、ポルトガル軍は10人が戦死して2人が負傷していた。

19日午後にはディーウ近くの沖に浮かぶ島パニー・コータもインド軍マドラス大隊に占拠された。

ポルトガルの降伏

19日の夜までにゴアの大部分はインド軍に占領され、残りはゴア西海岸の都市ヴァスコ・ダ・ガマに2000人余りのポルトガル軍兵士が立てこもっているに過ぎなかった。

だが、この期に及んでもポルトガル本国の命令は強気かつ非情で、それは「ゴアを破壊しつくせ」という焦土作戦の実行だった。

ポルトガル総督ヴァッサロ・エ・シルバが「インド軍は自軍の数倍以上で弾薬も食料も欠乏している」と本国に実情を報告したにもかかわらずである。

22時30分、万策尽きたと判断した総督は本国の指令に反して降伏を選択。

総督自らが降伏文書に署名してポルトガルの451年にわたるゴア統治は幕を下ろした。

この軍事行動でのインド側の戦死者は22人、ポルトガル側は30人であったが、もし総督が本国の命令に忠実であったならばより多くの犠牲が出ていたことは間違いない。

降伏後ゴアを離れるアフリカ系ポルトガル軍兵士

その後

降伏した4668名のポルトガル兵は捕虜となったが、翌1962年5月にその大部分は釈放された。

だが、独断で降伏を選んだゴア総督ヴァッサロ・エ・シルバは帰国後に軍法会議にかけられ、マデイラ諸島に流されてしまった。

まごうことなき敗戦であり、この事実はポルトガル国民を打ちのめした。

その年のクリスマスは異様に沈んだムードの下迎えられ、あたかも国中が喪に服しているようだったという。

ポルトガル政府はこのインド軍によるゴア併合を侵略と非難、インドとの外交関係を断交したばかりか、その後ラジオ放送を通じてゴア市民にインドへの抵抗を呼び掛けることすらした。

何ら支援しなかったとはいえポルトガルを支持する米国、英国も国連で非難決議案を出したが、ソ連に拒否権を発動されてしまった。

開戦前からインド寄りだった中華人民共和国(この当時は台湾の中華民国が常任理事国だった)もこの軍事行動を支持したが、この翌年にインドと国境紛争を起こすことになる。

ポルトガルがインドとの外交関係を復活させたのは、1974年に起きたカーネーション革命以後のことである。

サラザール亡き後の独裁政権を倒したポルトガル新政権は侵略されたとしてきたゴアをはじめとした旧自国領のインドの主権を認め、外交関係を修復させたのだ。

ちなみに犠牲を最小限に抑えたが、前政権に背いた決断をしたために流刑に処された元ゴア総督のヴァッサロ・エ・シルバも名誉を回復、1985年に天寿を全うした。

現在のゴアはパナジを首府とするゴア州となり、観光業を主産業に鉱業も盛んなインドでも裕福な州の一つとなった。

インドに復帰してすでに半世紀となったが、ポルトガル時代のキリスト教建築とわずかになったポルトガル語話者が植民地時代をしのばせている。

出典元―ウィキペディア&百度百科

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