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夢の国で起きた悲劇 ~ディズニーリゾートで心中した一家~

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1983年4月15日にオープン以来40年、「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界…」を理念として、大人も子供も楽しませてきた東京ディズニーランド。

そんな夢の国のすぐ近くで、今から30年以上前に、あまりにも悲惨な出来事が起きていた。

時は1989年(平成元年)12月2日、同園から目と鼻の先のオフィシャルホテルでもあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルで、一家心中事件が起きたのだ。

この心中した一家の中には、11歳と6歳の幼い兄弟も混じっていた。

誰もが幸福でいられるはずの場所で、なぜ彼らはこんな悲しい結末を自ら迎えなければならなかったのだろうか?

心中した一家

1989年(平成元年)12月2日午前1時10分、ディズニーランドの目と鼻の先にあり、オフィシャルホテルにも指定されているシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの北側の中庭に、複数人が倒れているのを宿泊客が発見。

倒れていたのは子供も含む男女四人で、すでに死亡していた。

ホテルのいずれかの部屋から飛び降りたらしい。

両親と思しき中年の男女はジャンパー姿で、子供二人はオーバーコート姿だったという。

やがて彼らは、このホテルの10階に宿泊していた家族であり、岐阜県不破郡垂井町から来た会社員の中林昭さん(仮名・39歳)、妻の美彩さん(仮名・35歳)、長男の弘樹君(仮名・11歳)と次男の啓二君(仮名・6歳)の家族だと判明する。

一家は11月26日から同ホテルに滞在しており、宿泊していた部屋には四通の遺書が残されていたことから、心中したと見て間違いはない。

その遺書は、中林家の一人一人がそれぞれ書いたものだった。

まず、父親の昭さんは自分の実家や上司にあてて、『お世話になりました。妻が心臓病でよくならず、不安感がつのっていました。その結果、死を選ぶことになりました…』

母親の美彩さんは自身の父親に、『私の体は悪くなるばかりで、生きていても長生きできないだろうと思います。夫と弘樹と三人で話し合い、死を選び、旅に出ることになりました。今日でこの旅も終わりです』と記していた。

長男の弘樹君も、彼にとっては祖父である美彩さんの父親に遺書を書いていた。

『おじいちゃん。これまでの11年間、どうもありがとうございました。楽しいことがたくさんありました。お父さん、お母さんが苦しんでいるのを見て、僕は決めました』

幼稚園児だった啓二君は、遺書のかわりに祖父の似顔絵を残していた。

遺書から分かるように、中林一家が心中する原因となったのは、母親である美彩さんの病気であったようだ。

美彩さんはこの10年前より糖尿病を患い、しょっちゅう起こる発作に苦しめられていた。

家族仲の円満だった中林家の大黒柱の昭さんは、たびたび会社を早退して妻の看護にあたっていたし、長男の弘樹君も午後5時には帰宅して、家の手伝いをしたり病院へ薬を取りに行ったりしていたという。

だが、美彩さんの病状は日に日に悪化し、病魔に苦しむ美彩さんと介護に追われる一家は、疲弊して限界に達していたと思われる。

そして、前途を悲観した中林一家は、10月18日にこの苦しみに自ら終止符を打つ決意を固め、自宅からそろって姿を消す。

その前日、幼稚園に次男の啓二君を迎えにやってきた昭さんは、「一週間ほど旅行に連れて行きます」と職員に話していた。

弘樹君の小学校の担任にも、同じようなことを言っていたらしいが、一週間たっても登校してこないのを不審に思った担任が、中林一家の近所に住む子供たちの祖父である美彩さんの実父に連絡。

祖父は、一家の暮らす県営住宅へ行ったが家はもぬけの殻で、郵便通帳が一冊残されており、口座から300万円が引き出されていた。

最後に思い出を残そうと、二度と帰ることのない永遠の家族旅行に出たのだ。

慌てた祖父は、最寄りの警察署に連絡して捜索願を出した。

その後、不意に一度長男の弘樹君から電話があったという。

しかし彼は「元気だから」と話していたものの、どこにいるかは言わなかった。

彼らが悲しき不帰の旅のエピローグとしてディズニーランドを選び、シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルにチェックインした11月26日までの足取りは分かっていない。

そして、一家が命を絶った12月2日は美彩さんが「今日でこの旅も終わりです」と遺書に記したように、同ホテルをチェックアウトする予定の日だった。

無力だったディズニーの魔法

一家が落ちた場所は玉砂利が敷き詰められた中庭であり、それがクッションとなったらしく四人とも驚くほどきれいな死に顔だったと、現場を見た宿泊客の一人は涙ぐんで証言している。

彼らの遺体は4日に浦安市で火葬され、親族によって岐阜へ帰った。

一家が泊まっていた部屋には、遺書の他にランド内で買ったと思われる大きなミッキーマウスのぬいぐるみやおもちゃも残されていた。

さらに、数冊の預金通帳と数十万円の現金。

ホテル代と迷惑料を清算したつもりだったんだろうか?

心中の場所に選んでしまった上に、宿泊費を踏み倒す気はなかったのだろう。

彼らなりの心遣いだったとすれば胸が痛む。

何より、この世の見納めと各地を漫遊してから最後にディズニーランドを楽しんだ後、どんな気持ちでこの最後の瞬間を一家そろって迎えたのかと思うと、心が張り裂けそうになる。

自殺はいけない。

ましてや、幼い子供まで巻き込んで心中するなんて考えられない。

そう言うのは簡単だ。

誰が好き好んで一家心中などするものか。

こんな手段でしか終わらせることができなかったほどの苦しみと悲しみを、この一家は味わい続け、それが限界に達してしまったのだろう。

ディズニーランドについて書かれたある本で、借金苦で心中を図る前の最後の思い出にとやって来たある一家が、ランド内で子供たちが楽しんでいる姿を見るうちに思いとどまり、「生きてもう一度やり直そう」と決心したエピソードが紹介されている。

ウソか誠か知らぬが、それを「ディズニーの魔法だ」などとその本では絶賛していたが、中林一家にその魔法は効かなかった。

そんな程度のものでは救えないほど、彼らの苦悩と絶望は大きかったのだ。

だったとしても、こんな悲しい手段を取らなくても、よかったじゃないかと思わずにはいられない。

我々にできるのはこの世で苦悶したぶん、向こうの世界で報われていて欲しいと願うことだけだ。

しかし、多くの宗教では自殺した者の魂は死後も救われず、天国に行けないと説いている。

それが本当だったら神は何と非情なのかと、この一家の一件に関しては思う。

死を選ばなければ解決できない苦しみも、世の中にはあるのがわからないのか。

天罰上等で言わせてもらう。

神よ、もし存在するならよく聞け。

この一家の魂だけは何が何でも救え。

彼らは、貴様が気まぐれで与えた試練に殺されたんだ。

責任を取れ!

出典元―岐阜新聞、朝日新聞、女性セブン

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2004年、足立区牛丼店の恐怖:クレーマー殺人事件

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殺人事件の中には、被害者に一切同情できないものがごくまれにある。

被害者と加害者は「元加害者」と「元被害者」の関係、すなわち被害者が生前に殺されても仕方がないほどのことを加害者に行った結果、反撃もしくは報復されて死に至ったケースのことだ。

本ブログで取り上げる牛丼店の店長が執拗にクレームをつけてきた男を殺した事件、俗にいう『足立区牛丼店クレーマー殺人』は、まさにその典型たる事件とされ、現在に至るまで致し方なく凶行を行ってしまった加害者への同情と自業自得で、地獄に送られた被害者への侮蔑を以って語られる事件である。

真面目な青年

この事件の犯人となる市田武司(仮名・26歳)は、不動産事業や飲食店事業などを手掛ける企業の社員であり、2004年の事件当時、その傘下の大手牛丼チェーンのフランチャイズ店の店長だった。

市田は、同企業の系列の喫茶店で四年ほどアルバイトとして勤務。

その真面目な勤務態度から2004年6月に正社員に抜擢され、足立区の北千住にある牛丼店に配属された。

そこでも持ち前の責任感や接客態度の良さが評価されたらしく、わずか二か月後の8月に店長に昇進する。

牛丼店での勤務経験の短さもさることながら、26歳という若さでの店長就任は異例のことだったという。

市田が店長をやっていた牛丼店

こうして大抜擢された市田だったが、店長になって早々試練に見舞われる。

それは、店長就任後一か月も経たない8月下旬、市田の店に弁当を買ったという男から、一本の苦情の電話が入ったことから始まった。

その男によると、弁当を買って持ち帰ったら、それが横になっていたというのだ。

そして、その言い分と口調は、苦情というより言いがかり、クレームというより恫喝に近いものだったらしい。

あまりの剣幕に、店長である市田は謝罪したが、男の怒りは収まらない。

なんとその後、7-8回もクレームの電話をかけてきたのだ。

これは営業妨害以外の何者でもない。

いくら接客業であっても、本来ならこういった輩には強硬にして断固たる処置をとるべきであった。

だが、経験が浅い市田はやってはいけない行動に出てしまう。

何と、そのクレーマーの男の自宅に出向いてお詫びした挙句、弁当代として現金千円を渡してしまったのだ。

その現金千円は市田の自腹であったろうし、この件は自分の失態であるから当然であると、責任感の強い彼のことだから思ったことだろう。

そしてこれで解決したとばかりに、この件を本社に報告することはなかったらしい。

だが、それは大きな間違いであった。

そのクレーマー、墨田区東向島在住の保川英夫(仮名・36歳)は介護の仕事をしていたが、本性はとんでもないクズ野郎だったからだ。

保川は、その後も市田を何度か呼び出すなどして断続的にクレームをつけ続け、市田を追い込むことになる。

クレーマーに怒りの猛撃

9月11日、クレーマー保川は、何ら悪びれることなく堂々と店を訪れて弁当を注文。

この時に市田は店にいなかったが、今度も店員に対して文句をつけてきた。

「オイ!何で客に水出さねえんだよ!!」

待っている間に水を出さないことに腹を立てたようだが、そこまで怒るほどのことでもないはずだ。

しかしクレームを趣味にしているとしか思えない保川は、それでだけでは済ませなかった。

店を出た後に、またしてもクレームの電話をかけてきたのだ。

「店長出せ、店長!」

「どうなってんだよ、オメエの店はよ!」

「誠意ってもんあんのか?コラ!!」

しかも、今回は前回を上回る回数であり、それは翌日の12日まで続く。

常軌を逸した執拗さに、市田は「店の正常な運営ができない」と追い詰められたが、この期に及んでも、本社に相談をしようとしなかった。

どころか、再び自分一人で解決しようと行動に出る。

しかし、今回はまた元の木阿弥になるであろう謝罪ではなく、この問題の不可逆的且つ永久的解決を決意していた。

それは保川の殺害だ。

市田は、真面目な勤務態度と責任感の持ち主だったが、明晰な頭脳は持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

おまけに、パニックになりやすくて自制心も利かない男だったのは間違いないだろう。

9月12日午前11時ごろ、前も訪れて勝手知ったる墨田区東向島の保川のマンションを訪問した市田は、持参してきた刃物で横柄な態度で対応した保川の胸を一突き。

驚いて逃げようとする保川の背中にも刃物を突き立て、声をあげさせないように口も塞ぎつつ刺し続け、殺した。

クレーマー野郎が死んだことを確認すると、市田はそのままそそくさと立ち去った。

まさに天誅である。

保川の死体はその後、自宅に集金に来た宅配弁当店の店長に発見された。

この年、職を転々として介護職に就いたばかりだった保川は、懐具合が思わしくなかったらしい。

事件の二か月前の7月、ずうずうしくもその場で払うべき宅配の弁当代を「給料が出てから払うからツケにしてくれ」と頼んでいたが、そのまま8月を過ぎても払わずに連絡すらしていなかったのだ。

ゴキブリのような奴である。

保川は市田の店以外にも、ピザ店にクレームをつけていたことが後の調べで分かっているから、営業妨害を専門とする犯罪者と言ってもよい。それもチンケな。

だが、そんな二足歩行のゴキブリでも殺したのはまずかった。

宅配弁当店の店長からの通報を受けて事件の捜査を行っていた警察は、保川の電話の通話記録から、市田の存在を割り出す。

あの怒涛のクレーム電話のことである。

そして、事件から三か月後の12月11日、市田を殺人容疑で逮捕。

彼は保川を殺した後も逮捕されるまで、牛丼店の店長を続けていた。

事件現場の近く

その後

2005年6月23日、東京地裁は市田武司に懲役10年(求刑懲役14年)を言い渡した。

判決は、保川がしょっちゅう苦情を言ってきたことが殺害の動機につながったと指摘しながらも、「被害者に殺害されなければならないほどの落ち度はない。きわめて短絡的との非難を免れない」としたのだ。

やはりどんな事情があれ、殺人にはそれなりの判決が出る。

だが保川という男は「殺すことはなかった」かもしれないが、「殺しても構わなかった」奴ではあると個人的には思う。

日本の消費者は世界一極悪であり、接客する側が甘やかすからつけあがる輩が後を絶たないが、保川はその中でも、タチが悪い部類に入る。

そんな奴に哀悼の意を表する気はない。

どんな人間でも、死ねば仏なんて思わない。

保川のような男が殺されることもなく、その後も元気よくさまざまな店にクレームをつけ続けることがなくなったことは良いことだ。

そんな社会貢献をした市田だが、10年という時間を塀の中で失い、出所後も殺人という前科を背負って生き続けることになってしまった。

しかし、彼はまだ若い。

少々頭が悪くテンパりやすい欠点はあるが、天性の真面目さと責任感を持っているはずだから、やり直しは十分に利くだろう。

これくらいの過ちで人生を捨てることなく、立派に更生できると信ずる。

あと、この牛丼店を運営する会社だが、彼をもう一度雇ってあげてはいかがだろうか?

それも店長より上のポストで。

反社会勢力の暴力団ですら、抗争で相手を殺した組員は長い懲役を経た後に、「組のために体を張った功労者」として幹部のポストが約束されていた時代があった。

彼はまさしく店のために体を張ったではないか。

事実、この事件からしばらく、この牛丼店のその他の店舗へのクレームがなくなったというから、功労者だと断言できる。

彼を雇うことでイメージは悪くなるが、前科のある人間を雇うのは違法ではない。

全国津々浦々に展開して久しいほどの大手なんだから、それが原因で倒産するということもないではないか。

まっとうな会社だというなら、反社会勢力でもやっていること以上のことがやれるはずだ。

取り返しがつかないことをやった者でも、立ち直るチャンスを与えるという太っ腹なところを見せるべきであろう。

極論だが、真摯にそう思っている。

出典元―夕刊フジ・朝日新聞・毎日新聞

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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新幹線の食堂車での思い出 =終生忘れ得ぬこの無念


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かつて東海道・山陽新幹線の「ひかり」には食堂車があった。

覚えている方も多いことだろう。

この食堂車は1974年、博多駅開業目前に登場して以来、最盛期には全ての「ひかり」に編成されて営業をしていたが、後に新幹線のスピードアップにより、乗車時間が短縮されたと同時に利用率が低下。

これを踏まえたJR各社が不要と判断した結果、2000年に営業を終了した。

この新幹線の食堂車をリアルに見たことがある人の中で、一度はそこで食事をしてみたいと思った方も多いはずだ。

まだ食堂車が全ての0系新幹線の「ひかり」にあったころに小学生だった私もその一人である。

そしてある日、その夢の食堂車で食事するチャンスに恵まれた。

だが、それは2022年の現在になっても忘れられない、無念極まる思い出となった。

あこがれの食堂車

岡山県に母方の伯母一家が住んでおり、盆暮れには新幹線に乗って私の住む岐阜県の祖父母の家に帰省していた。

そして岡山に帰る際、祖父母と私の家はよく新幹線の岐阜羽島駅のホームまで見送りに行ったものだが、たびたび食堂車を伴った「ひかり」によく出くわした。

私が小学生だった時代の新幹線はだいたい0系であり、食堂車は後に登場する100系新幹線に連結された電車二階建ての168形ではなく、36形食堂車である。

36形食堂車
168形食堂車

「ひかり」が岐阜羽島駅に入ってきて停車し、食堂車が通り過ぎると、何とも言えないいい匂いがしたものだ。

特急列車が好きだった当時の私にとっては問答無用であこがれの車両である。

是が非でもそこで食事をしたいと、しょっちゅう両親にせがんでいた。

しかし、夫婦そろって出不精な両親は、たまにしか行かない家族旅行も100キロ圏内だったし、いつも車を利用していたために食堂車どころか新幹線にもなかなか乗れなかった。

子供心に「大人になってからにしよう」と半ばあきらめかけてもいたが、持続的な強い願いは時に運命をも動かす。

食堂車で食事ができる絶好のチャンスが訪れたのである。

夢の食堂車

新幹線の食堂車

それは小学校四年生の春休み、今から37年前の1985年のことだ。

いつも岡山から岐阜に来るだけだった伯母一家が、「たまにはうちに遊びに来て」と誘ってくれたため、私の一家は重い腰を上げて岡山まで新幹線「ひかり」で行くことになったのである。

岐阜羽島駅から岡山駅までは300km以上の距離があり、当時の「ひかり」でも二時間はかかる。

食堂車を利用する時間は十分あるではないか。

両親はあまり乗り気じゃなかったが、だだをこねまくって、当日は食堂車に行くことを約束させることに成功した。

ようやく夢がかなう!

私は伯母の家に行って従兄妹たちに会うよりずっと食堂車の方が楽しみだった。

岡山に向かうその日、岐阜羽島駅までの道中では、二歳年下の弟と、食堂車で何を食おうかそればかり話をしていたものである。

このころから何かと気が合わない弟だったが、食堂車は奴にとっても楽しみだったのだ。

新幹線「ひかり」の自由席に乗ったのは昼前だったから、ちょうど昼食時には食堂車だ。

この日は休日だったはずだったが意外と空いており、我々一家は新幹線の端の方の自由席に席を四人分確保することに成功。

だが、もう居ても立っても居られない私たち兄弟は、席にどっかりと腰を降ろしてゆったりしようとする両親を食堂車へせかした。

真ん中くらいに存在する食堂車は昼時とあって混んでいるかもしれないと思っていたが、自由席同様空いていた。

食堂のスペース手前の方にメニューがあったが、私はとりあえずカレーを食べると決めていたので、そのまま席にまで直行。

弟も付いてきて、まだメニューを見ている両親より先に着席した。

メニュー

席にもメニューがあり、やっぱりカレーじゃなくて他のにしようかなどと考えたりしていた。

食堂車の飯はどんなもんなんだろう!?

たとえまずかったとしても、恨み言は言うまい。

我が家では外食自体が珍しく、近所のラーメン屋に行くことだけでも一大イベントであったが、私にとっては食堂車での食事は、他のどんな店での外食にも勝る慶事だった。

新幹線の食堂車で飯を食うこと自体に、意義があるからだ。

ああ、もう待ちきれない。

だが、それにしても…。

親父とおっ母がなかなか席に来やしない。

何やってるんだ?

まだ入り口近くのメニューを見て、何ごとか話し合っている。

ウエイトレスのおばさんが我々の席に注文を聞きに近づいてきた時、母親が「ちょっと、ちょっと」と声を出して、我々兄弟を呼んだのが聞こえた。

「ねえ、早う来てや」と私は催促したが、父も母も「こっちにこい」と手招きしているのが目に入った。

何だよ、いったい。

多少イラつきながら両親の元に向かった我々兄弟は、父の口から告げられた一言により、有頂天の極みから奈落の底へ突き落とされた。

冷酷な両親

「昼飯やけどな、岡山駅で食べることにしたで」

はあ!?

「ここで食べたっておいしゅうないて」と母親も助け船を出す。

「いや、ここで食べようよ!」

「岡山の方がずっとおいしいトコいっぱいあるで」

「そうや。こういうトコは高いばっかでおいしくないに決まっとる」

だまされないぞ!!

ここまで来といて、そりゃないだろ!

どうやら両親は、新幹線の食事の高額さにビビったらしいことが当時の私にもわかった。

だが、家計に致命的な打撃を与えるほどではないはずだ。

「食堂車がどういうもんか分かったやろ?だから、もうええやん」

ごまかしているつもりか!入っただけで満足できるわけないだろ!

「ここで食べたい!ここで食べる!!」

「あかんあかん。もう席戻ろか」

両親は抗議する我々兄弟を無情にも力づくで食堂車から退去させ始めた。

小二の弟は大声で泣き出し、小学校四年生の私も泣き出した。

私はせめて食堂車の隣のビュッフェで食べさせてくれと懇願したが、岡山で昼食を食べるという両親の決意は変わらない。

自由席に戻る途中、幼児並みに泣きわめいて駄々をこねた我々小学生の兄弟だったが、

「しつこい!」

「母ちゃんのいうことが聞けへんのか!」

と逆ギレした両親にゲンコツをかまされ、抗議活動は鎮圧されてしまった。

こうして忸怩たる思いのまま岡山駅に到着して、我々一家が昼食に入ったのは、

駅の立ち食いソバ。

食堂車の代替に全く及ばないではないか!

しかし、「文句を言ったらまたゲンコツだぞ」オーラを出す両親にはこれ以上文句は言えず、我々の意向も聞かず一方的に注文されたかけそばをすすらざるを得なかった。

私はこの年齢になるまで、あの時以上にひもじい気持ちでかけそばを食べたことはない。

そんなことがあったから、伯母の家に到着して従兄妹たちに会っても楽しくなかった。

そこに一泊して、次の帰りも新幹線だったが、今度乗ったのは食堂車のない「こだま」。

おまけに行きと違って、客がぎっしりで自由席は空いてやしない。

立ちっぱなしの道中で、両親は

「食堂車はまた今度にしようや」

とかふてくされる我々に言い聞かせていたが、

その「また今度」が永遠に来ることはなかった。

その時、両親は絶対に叶えてくれないに決まっているから、大人になったら絶対に食堂車で食おうと固く決意していたが、その決意を忘れて大人になって、思い出した時には新幹線の食堂車は、廃止されていた。

感謝は感謝、無念は無念

「なあ、何で小四の時、新幹線の食堂車で飯食わしてくれへなんだんや?」

2021年の年末、実家に帰省した際に両親に訊ねた。

この時ばかりではない、小学校時代から高校卒業後に実家を出て今に至るまで、数百回は言っている。

だが、いつも答えは同じだ。

「はあ?そんなことあったかいな?」

「覚えとらんて、そんな昔のコト」

ウソだ。

最初にそれを聞いたのは小五の夏休みだったが、半年前のことを忘れているはずがないのに同じようなことを言っていた。

「俺やったら、ウチの子に食わせたで」

妻子を伴って帰省していた私の弟も口をはさんだ。

「昔のことは忘れた」とよく言う奴だが、あの時の無念は忘れてはいないらしい。

それでも両親は忘れてしまったようなことを言い、なかったことにしようとしている。

両親にはこれまでさんざん苦労をかけさせた自覚はあるし、そこそこ感謝もしている。

だが、あの件だけはいまだに許せない。

一年に一回はあの時の夢を見る。

新幹線「ひかり」の36形食堂車の席に座ってさあ食事しよう、という夢だ。

私自身はまだ子供だったり、もう今の歳になっていたり、親が来なかったり、ウエイトレスが来なかったりいろいろなバージョンを見たが、いつも共通しているのは料理にありつけないことだ。

どんなにうまいものを腹いっぱい食べて苦痛なほど満腹になったとしても、あの時口に入るはずだった料理を出されたら食べるだろう。

あのたった一食の喪失感は30年以上たった今でも忘れられない。

「どうでもええことばっか、いつまでもよう覚えとるな」

「昔っからホンマぐちゃぐちゃしつこいな、アンタは」

年老いた両親には、なんら罪の意識がないようだ。

大人げないのは承知だが、この件を風化させる気はない。

今後も言い続けるし、両親を看取る時は、

「苦労かけてすまんかった。でもあの時食堂車で飯食わしてくれなかったのはいかんだろう」

と一応言うつもりだ。

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我が中二病 ~人類防衛の大義に燃えた思春期~


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中二病なる言葉がある。

なんでも、「思春期に特徴的な空想や価値観、過剰な自意識やそれに基づく言動を揶揄する俗語」であるらしい。

それが大体中学校の二年生くらいで発症することが多いから、こう呼ばれているようだ。

そういえば私が中学生の頃も、グレ出す奴は、大体二年生からだった気がする。

反抗期もこれくらいの時期から本格化するみたいだし。

また、この年代はかなり多感な時期らしいから、自我が目覚めて荒れ狂うあまり、かなり恥ずかしい言動をしてしまいがちなようだ。

そして、身内以外の他者の影響も受けやすい。

私もそういえばその時期、その中二病に近い症状を患った記憶がある。

ただし、私は問題行動を起こさなかったし、校則はきっちり守る真面目な生徒だった。

先生や親に怒られるのが怖かったし、第一そんなことしたら他の生徒にシメられるのは当時からわかりきっていたからな。

私の場合はそういった人様の鼻につく症状ではなく、主に精神面及び思想面で発症したのだ。

もっとも、その影響は言動にきっちり表れていたから、中二病マンマであったが。

私の発症した中二病とは何か?

それは、異星人の地球侵略を本気で心配していたことだ。

思春期にありがちな異性への関心や将来への不安そっちのけで、私の中学校生活の後半は、異星人の侵略におびえる毎日だった。

きっかけは、金曜ロードショーで放映されたアメリカの異星人侵略モノのテレビドラマV』を見たこと、そして愛読していた漫画『ドラゴンボール』に戦闘民族サイヤ人が登場してきたことだったと思う。

元々心霊やUFOなど超常現象に興味があり、薄々異星人への脅威は感じていた。

だがその脅威は、それらの作品との出会いが思春期に達した当時の私の精神状態と不適切に相互作用して、多感な頭の中で爆発的に増大したのだ。

とどめは、日本テレビで放送された『矢追純一UFO現地取材シリーズ』

まだ1980年代後半で、当時騒がれていたノストラダムスの大予言「1999年の7の月、人類は滅ぶ」とは、異星人の侵略だろうと確信した。

私はその圧倒的な脅威におびえるあまり、熱心に家庭や学校でその危険性を説き、身近な人々をまず啓蒙しようと努めた。

だが、無理解な両親は「もうすぐ受験だろ」と突き放し、学校ではいつもつるんでいた友達に距離を置かれ、「面白い奴がいる」と私を迫害する同級生が増加しただけだった。

誰も理解を示してくれなかったが、私は三年生になると心機一転して、自分ひとりだけでも異星人に立ち向かおうと決意、独自に戦闘訓練を開始した。

まず、攻めてくる異星人は『矢追純一UFO現地取材シリーズ』で主に取り上げられているリトル・グレイという種族だと断定。

そのリトル・グレイと戦うためにまずは格闘術の訓練として、二歳年下で中学校一年生の弟を異星人に見立て、組手の相手とした。

なぜ中学一年生の弟だったかというと、そのリトル・グレイという種族は身長140センチくらいで、当時の弟の身長とほぼ同じであり、まさに練習相手としてうってつけと考えたからだ。

私は「異星人の侵略に対する抵抗のため」という大義を弟に説き、練習相手となるよう命じたが、当時から兄である私を小バカにしていた弟は断固拒否。

それを自分さえよければいいという勝手な考えとみなした私が、組手訓練を強行すると弟は激しく抵抗し、二階の子供部屋で大乱闘に発展した。

弟も本気になってくれたので有意義な訓練になったが、一階で仕事をしていた父親が上がってきて「うるさい」と怒鳴られ、「お前が悪い」と私だけがシメられた。

こうして格闘術の訓練はできなくなったが、やはり異星人との戦いのキモとなるのは対空戦闘であろう。

異星人と言えば円盤、きっと主に円盤に乗って攻撃してくるはずだ。

そこで私は、対空戦闘の訓練に専心することにした。

本物の銃は将来的に狩猟免許を取得してから購入するとして、私はまず、保有していたエアーガンでの射撃訓練を開始する。

標的は、家の畑に飛んでくる蝶。

円盤のように不規則な動きをするため、ふさわしい標的だろう。

私は来るべき地球防衛の戦闘に備え、自宅の前の畑にやって来た蝶を片っ端から銃撃した。

しかし、蝶を狙ったBB弾は時々近所の家に飛び込んで、そこの住民に命中。

「お宅の長男に狙撃されてる」と、その住民から苦情を受けた両親にまたしてもシメられ、エアーガンを取り上げられてしまった。

自宅での自主戦闘訓練を封じられた私だが、やはり独自にやるのではなく、ある程度専門的な機関に所属する必要を感じるようになった。

すなわち自衛隊だ。

ちょうど中学三年生で将来の進路をある程度目星をつけるべき時期に差し掛かっていた私は、とりあえず中学卒業後は一旦普通科高校に行くこととして、高校卒業後には自衛隊に入隊することを学校での三者面談で宣言。

志望動機を聞かれたが、理由はもちろん「異星人と戦うため」だ。

「自分の将来なんだから真面目に考えろ」と両親も担任教師も激怒したが、

人類防衛の大義に燃える私の信念はいささかも揺るがなかった。

将来自衛隊に入隊することを決めていた私だったが、一方で今のままの自衛隊では、異星人にまともに立ち向かえないとも感じていた。

円盤を真っ先に迎撃するのは戦闘機だが、その自衛隊の戦闘機F-15Jは、やすやすマッハ10を超す速度で飛ぶ円盤の敵ではない。

海上自衛隊や陸上自衛隊はモノの役には立たないであろう。

ムダ死には御免だ。

だいたい憲法で縛られた自衛隊では、ソ連軍(当時はまだ健在)や中国軍相手でも持たない。

そこで私は他力本願とはいえ、地球上で最強最大の軍事力を誇る米軍に思いをはせるようになった。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。また、現実にも、そうなるであろう。

矢追純一のUFO特番でもやっていたが、米国は異星人と密約を結ぶ一方で、万が一の対決に備えて円盤を宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

米国なら、何か考えてくれているに違いない。

そしてその頃、ずっとベールに包まれていた米国の最新兵器がプレスリリースされた。

ステルス戦闘機F-117ナイトホークである。

それは後に、実は攻撃機であったことがわかるのだが、私はその従来の軍用機とは一線を画するF-117の未来的な形状を一目見て、対異星人戦用の兵器だと確信した。

これの主武器はきっとレーザーガンで、宇宙空間だって飛べるはず。

速度マッハ5くらい出してもおかしくはなさそうだし、最低でも空中静止は堅いと

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

円盤との空中戦どころか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことが分かった。

取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時には、そんなことに思いもよらず大いに失望した。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、迎撃を受けることなく爆弾を落とすだけでは、異星人の相手になりそうもない。

人類は終わりだ、と絶望した。

そんな私だったが歳を重ねていくうちに、私の中で中二病たる異星人への恐怖は徐々に消え、地球防衛の大義のために自衛隊へ入隊するという情熱もどこかへ失せていった。

同時に、あの時の自分は何と無意味で恥ずかしいことに時間と労力を費やしてしていたのか、という常識的な反省ができるようには一応なれた。

だが成人して、久しい現在でもその後遺症は残っているようである。

画期的な新兵器が開発されて出現するたびに、それは地球上の軍隊や武装勢力ではなく、異星人相手にどこまで通用するかということを、この年齢になってもついつい考えるからだ。

軍事技術に限っては、私の目線は地球上だけではなく、地球外にも向いてしまっている。

私の中二病は、まだ完治していないということだ。

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“本当のこと”こそ言ってはならぬ 3 – 床屋の失礼な一言と薄毛の悩み


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私は頭が少々薄くなっている。

それは今に始まったことではなく、十年以上前から始まったことだ。

前髪はさほど後退していないが、頭頂部が薄くなる、いわゆる O字タイプと呼ばれるハゲに属する。

フランシスコ・ザビエルの髪型に近くなるハゲ方と言えば、イメージしやすいだろう。

私もそれは十分自覚していたし、そこそこ気にはしていた。

だが、いるのである。

わざわざ面と向かって「あ、薄い」とか指摘してくるばか野郎が!

分かっているって言っているだろう?気にしていないわけがないだろうが!

こういう輩は「本当のこと」なら、何でも言っていいと思っているのだろうか?

だからと言って、ハゲは進行しこそすれ、回復させることはほぼ不可能であることくらいわかっているから、育毛剤などを使うような無駄な努力はしない。

また、無事な前髪や後ろの髪などを総動員して、ごまかそうとするようなマネもしたくない。

余計目立つからな。

よって、私の髪型は脱毛が目立ってきた十年前から丸坊主である。

もともと髪型にこだわる方ではなかったし、寝癖が立たないとかいろいろ便利だし。

坊主にしたら、頭が薄いことをわざわざ指摘してくるバカ者はいなくなるだろう、

と思ってた。

だが、まさか言ってくる奴が出てくるとは思わなかった。

しかも床屋が!

私を差別する女主人

私が散髪によく行っていた床屋は家のすぐ近所の床屋『K&Kカットクラブ(仮名)』だ。

シャンプーも顔そりもなく、カット代だけで 1200円 くらいの格安床屋である。

坊主にするだけなんだから、4000円 とか 5000円 とか払いたくないではないか。

その『K&Kカットクラブ』は、30歳前後の小太りの女性が切り盛りする小規模な店で、散髪をやっているのはいつもその女。

だがその女店主、いつも不愛想でぶっきらぼうであった。

初めてそこを利用してから、五、六年行っていたのに、いつもそんな感じだったのである。

散髪はそこしか利用していなかったのだから、私はお得意様以外の何者でもないはずだ。

もうちょっと愛想よくしてくれても良いではないか、などと考えていた私は、わがまますぎだろうか?

素が不愛想で、誰に対してもそうなのなら仕方がない。

しかし他の客に対しては明らかに態度が違うのだ!

ある子どもの客に対しては、

野崎くん、今日はどうするの?」「あ、こことここ切ればいいの?うん分かった。いつもお利口さんだねー

という感じである。

子ども相手なら仕方がないが、私の前に散髪してもらっていたある初老の客の場合などは、

へー櫛田さん凄いですね!」

いやいや、そんなたいしたことないよ

十分すごいですよ。初心者なのに大会 4位って!

などと、その初老の客の髪をチョキチョキしながらお愛想を言い、帰り際も「いつもありがとうございます」と、終始笑顔で接していた。

そして、私の番になると途端に顔つきも声色も変わって、ハイ次とつっけんどんな態度になるんだから、対応を変えているのは明確である。

もしかして、普段話しかけない私が悪い?

私は必要以上のことを話さないから、そういう交流が嫌いな人間なのだと思われているのかもしれない。

だからある日、私の方から話しかけてみたら、

いやーすぐ伸びてくるから、一か月に一回は散髪に来なきゃいけないよ

じゃ、長く伸ばせばいいじゃないですか

てな具合で瞬時に会話が終了した!

「長く伸ばせばいいじゃないですか」って、床屋がフツ―言うか?そんなこと?

そして、再び無言のまま散髪をやっている最中に他の客が来ると、

あ、小川さんいらっしゃい!今日は早いですね

と一転して愛想よく私などそっちのけだったから、

私がこういう交流を嫌う人間と考えて、気を遣っているのではなく、私との交流を嫌っているのだと悟った。

「じゃあ、そんな不愛想なところに行かなきゃいいじゃないか」と思われるかもしれないが、あいにく家の半径 1キロ圏内に格安床屋はなく、そんな思いをしたとしても、バカ高い散髪代を払うよりましだと、『K&Kカットクラブ』に通い続けることになった。

だが、それにも限度が来る日がやってくる。

床屋が客に絶対言ってはいけないヒトコト

その日、私は性懲りもなく『K&Kカットクラブ』へ散髪に行った。

このころには、女店主に対してもう別に他の客と同じような対応は期待しないし、散髪さえきちんとやってくれればよい、と割り切っていた。

どうせ喋っていても、あんまり楽しい奴でもなさそうだし。

「3 ミリ」

私の方も多少ぶっきらぼうに髪を刈る長さを伝え、女店主もいつもどおり、バリカンの設定をしてから無言で私の頭髪を刈り始めた。

だがいつもと違ったのは、この日は散髪をしている途中で私に話しかけてきたことだ。

相変わらず、愛想は悪く事務的な感じではあったが。

「お客さん、前から思っていたんですけど」

「はい?」

向こうから、必要なこと以外を話しかけてくるのは初めてだったが、

よりによって、以下のようなことを言ってくるとは思わなかった。

「髪の毛薄いですね」

「はい?!」

それを聞いて最初、今私がいるのは床屋で、それを言っているのも床屋であることが信じられなかった。

だがその後もグサグサくる事実をズバズバ指摘してきた。

「頭頂部が特に薄いから目立ちますね」

「…じゃあさ、目立たないようにカットしてよ…」

「無理ですね。スキンヘッドにしたらどうです?自分でもできますよ」

いつもぶっきらぼうで口数が少ないのに、この時だけは妙にハキハキしていた。

「あのさ…、フツー言う?そういうこと面と向かって?」

「ホントのこと言っただけです」

ふざけるな!

「ホントのこと」だからって、言っていいことと悪いことがあるだろう!?

重ね重ね床屋として、あるまじき言葉じゃないか!

歯医者に「口が臭い」と言われた気分である。

眼医者に「目つきが気に食わない」と言われたらどう思う!?

しかも普段話しかけても塩対応しかしないくせに、こういうムカつくことだけズバズバ言うんじゃない!!

もうウチに来なくていい、と言っているに等しい破壊力を有した暴言である。

私は終生『K&Kカットクラブ』に行かないことを決意した。

幸いなことに、ほどなくして同価格の格安床屋が近所に開業。

私は、そこに散髪に行くようになった。

そこは理容師が複数いるし、不愛想が目に付くような者もおらず、『K&Kカットクラブ』のような不愉快に見舞われたことはない。今のところは。

しかし、そうなってから、もう四年ほどになるが、あれだけ私を不愉快にした『K&Kカットクラブ』が、いまだに健在であることには納得がいかない。

「悪は不滅」というこの世の不条理が、私の近所では体現されているのだ。

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“本当のこと”こそ言ってはならぬ 2 – 本当のことが引き起こす悲劇


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大学時代のバイト仲間であった土屋恵一は、全くモテない田吾作顔のくせにイケメンぶるナルシスト。

カノジョがどうしても欲しいと焦る彼は、しょちゅうコンパに顔を出していたがうまくいかなかったらしく、自分で声をかけて合コンを開催するようになる。

そして、その合コンにはいつも私を誘ってくれていた。

だがその合コン、土屋が呼んだ私以外の男性参加者が明らかにキワモノぞろいであり、自分よりはるかに低いメンツを厳選していたのは見え見えである。

そして、ウケを狙うためか、そのキワモノを拙いトークと暑苦しいテンションでいじっては相手を怒らせ、その場をシラケさせたりしていた。

やがて、回を重ねるうちに、この私自身もキワモノの一人とみなされている可能性が高いことが分かってきた。

そんな第四回目の土屋恵一主催の合コンでの出来事、私は彼に関してふと気づいたことを口にした結果、彼を大激怒させてしまうことになる。

その一言は、その後二度とコンパに呼ばれなくなった結果から考えて、決して触れてはならない「本当のこと」だったようだ。

ズレまくりトーク全開

その最後となった合コンは、いつもどおりチェーン店の居酒屋で開かれた。

参加者は男三人に対して女も三人。

女性陣は左目の下に大きめの泣きボクロがある女、茶髪でボブカットの大福顔、ポニーテルのメガネっ娘であり、全員初顔。

土屋の大学のサークルのメンバーの紹介だったと記憶している。

まあ強いて言うなら可もなく不可もなく、ぶっちゃけあんまりパッとしない子たちである。

一方の男側は土屋と私以外に今回も強烈なのが連れてこられていた。

ぼさぼさ頭で小汚い格好の、明らかに何日も風呂に入っていなさそうな浮浪者級の悪臭を放つ無精男だ。

どうやって知り合ったかも知らんし、いつもながら、自分を映えさせるためとはいえやりすぎだろう。

私はこいつの隣には座りたくなかったのだが、土屋は「お前こっちね」と、さりげなく自分とそいつの間に私を座らせたために、私は至近距離で悪臭に鼻を刺激され続けることになった。

無精男は本物のホームレスなんじゃないか?と思わせるほどのレベルの男で、

あっという間に居酒屋のお通しを平らげると、私が手を付けようとしないお通しを「もらっていい?」と聞いてくる始末。

声を聴いたのはその時が最初で最後で、口臭もそれなりのものだった。

そして、次々運ばれてくるビールやら食べ物やらを、無言ですする様は昆虫のようであった。

いつもながら対面の女の子たちは楽しくなさそうで、時々漂ってくる無精男の悪臭に顔をしかめたりしている。

土屋も例のごとく、容赦ない男性陣の出席者いじりを始めたのだが、なぜかそのターゲットは無精男に比べて明らかに突っこみようがないはずの私だった。

その内容も「こいつ毎日三回オ〇ニーすんだぜ」とか「俺の知っている中で唯一、人糞の味を知る男」などと根も葉もないことで、

女性相手に、しかも飲食店ではふさわしくないことこの上ない。

土屋は口下手な上に空気が読めず、TPOを一切わきまえない奴なのだ。

「そんなわけねえだろ!」

「ホントのことじゃねえか」

「違えよ!」

確かに一日に三回もしたことがないわけではないが毎日ではないし、ウ〇コ食ったのは土屋の明らかな創作だ。

それなのに、女三人のうちの真ん中の泣きボクロなどは自分の顔を棚に上げて、性犯罪者を見るような目で私を見始めた。

反面、土屋の対面のボブカット大福は「ウ〇コってどんな味するんですか?」などと、なぜか興味しんしんだったが。

土屋は他人をいじる一方で、自分の美点を喧伝することも忘れない。

奴が自慢げに、これまでのコンパでよく語っていたのは、自分は体脂肪率が少なくて筋肉質な体つきをしていること。

これに関し、キモキャラ扱いされて不機嫌なまま酒を飲み続けていた私は、いつも思っていることがあった。

それは「筋肉質じゃなくて、単に貧弱なだけなんじゃないのか?」ということだ。

奴がいつも言っているような“ホントのこと”だったが、私はもともとずけずけ本当のことでも言わない方だし、貧弱な体格については私も似たようなものだったので、それについて指摘したことはない。

しかし、そんな自慢をしても、いつもはスルーされて盛り上がらない土屋主催の合コンだったが、この時の女の子たちは違った。

「へー、どんな感じなの?」「見たい見たい」と一転して食いついてきたのだ。

すると奴はすかさず「しょーがねえな」とか言つつ、待ってましたとばかりに、上半身を脱ぎ始めた。

勢いあまって、下半身も脱ぎかねない勢いでTシャツも脱いだ。

やがて彼が筋肉質だと思い込んでいる、薄い胸板に脂肪も薄いが筋肉も薄いうっすらと六つに分かれただけの腹筋と肋骨が目立つ、痛々しいまでの貧弱な肉体が現れ、奴は自分の体をうつむいて確認した後、「どう?」とばかりにさりげないポーズを決めた。

だが、土屋はこの時まで思わなかったようだ。

この日参加した女の子たちがいつもと違っていた点は食いつきがいい以外にもあったことを。

彼同様、言わなくてもいい「本当のこと」をズケズケと言う女たちだったのだ。

正直な女たち

「細っ!!」

「ショボ!!」

「弱そう!!」

自称「引き締まった筋肉質の体」を目の当たりにした女たちの感想は、容赦なかった。

自信満々で披露した土屋の表情がこわばる。

だが、彼女たちの口撃はまだまだ続く。

ポニーテールメガネは「なんかソマリア難民かアウシュビッツの囚人みたい」などと笑い、

ボブカット大福などは「私なら勝てる」と挑戦的である。

三人とも酒を飲んでおり、その勢いもあって言いたい放題だ。

土屋はプライドを木っ端みじんにされたらしく、ややムッとした表情を浮かべたが、

「アツ子、柔道初段だもんねー」という泣きボクロの一言で顔をひきつらせる。

どうりでアツ子ことボブカット大福は、体の横幅がやたら広いわけだ。

こいつだけは怒らせてはダメだ。私も気を付けよう。

「こいつは、もっと貧弱なんだぜー」

と、土屋は私を指さして嘲笑の矛先を自分からそらせようと苦しい試みをしたが、

「ハイハイ分かったから、早く服着て」と、軽くあしらわれていた。

ホント、どこまでもみっともない奴だ。

その後、強引に何ごともなかったかのように話題を変えた土屋と酔いが回り始めた女の子たちとの間で徐々に会話が盛り上がり始めたが、さっきのこともあって主導権を女側に握られたらしい。

土屋の狙いとは違う形で盛り上がり始めた。

それは

「土屋くんってピアス似合わないね」

とか、

「今日の土屋くんの服って何のコスプレ?演歌歌手みたい」

とか、

「ねえ、もしかして自分のことカッコいいと思ってる?」

とかの嫌らしい指摘であり、大笑いしているのは女たちばかりで、土屋は笑みを引きつらせて、だんだん口数が減り始めている。

そろいもそろって口が悪い上に、結構弁が立つ女の子たちだったから、余計なことを言うとこちらもコテンパンにされそうなので私は黙って聞いていたのだが、ええかっこしいの土屋が追い込まれつつある姿は面白い。

一方の無精男はさっきから一言も発っすることなく、時々漂ってくる悪臭だけで存在を主張、また何か注文するらしく、メニューを見ている。

やがて、話題は今付き合っている相手がいるのかいないか、という合コンの核心部分に入ってきた。

そこでわかったのは、泣きボクロとポニーテールメガネはいないようだが、意外なことにボブカット大福アツ子は、現在付き合っている彼氏がいるらしい。

私にも話が振られたので「いるように見えんだろう」と答えといた。

私はええかっこしいではないからな。

だが、「こいつ、いたことねーんだよ」という土屋による横からのツッコミにはカチンと来た。

言わなくていい「ホントのこと」ばっか言うんじゃない。お前だってだろ!

何度も言うが、私は物事をずけずけ言う方ではないから、そういう奴は許しがたいと思っている。

言い訳しても仕方ないが、この時自分のことを棚に上げて言いたい放題の土屋に頭に来ていた上に、酒が入っていた。

土屋を完全に怒らせ、以降連絡を絶たれることになる一言を吐くことになるのは、ほどなくしてこの後である。

ナルシスト殺しのヒトコト

「俺もカノジョ欲しーなー」

ボブカット大福アツ子に彼氏がいるという話を聞くと、土屋は誰にとはなしにそう言い始めた。

奴のこの「俺もカノジョ欲しーなー」という何気なさを装った一言なんだが、これまでの合コンやそれ以外の女子同席の飲み会ではいつも聞いている。

それも何度も言っているし、今回の合コンでもこれが一回目ではない。

「土屋くん、カノジョいないんだ」

「今はいない

「今はいない」が、「ずっといない」者の常套句なのは、世の定説だ。

事実、奴とつるむようになって一年近くになっていたが、その間にカノジョがいたように見えたことはない。

「へー、いつからいないの?」

「え、えーと二か月。あ、いや三か月くらいかな」

それを聞いた直後だった。

別に悪気はなかったと今から言ってもしょうがないが、それらの会話を聞いていて何気なく思ったことを口に出してしまったのだ。

「お前、三か月前も同じこと言ってたぞ」

「いやっ!違っ!!だからその…」と、土屋は事実なので狼狽し始めたのがわかったが、一度口に出したらこちらも止まらない。

「それと前から“俺もカノジョほしーなー”ってよく言ってるけどさ、そんなこと言ったら誰かがカノジョになってくれると期待してねえか?」

続けて言ってしまったこの言葉は、奴にとって決定的だったらしい。

「そんな意味で言ってたんじゃねえ!!!」

奴は他の客が談笑をやめてこちらを振り返り、店内が静かになるくらいの大声を出した。

女たちはびっくりしたような顔をして、無精男もポカンとこちらを見る。

「他のお客さんに迷惑です」と店員も割って入ってきた。

だが、「みっともないよ。土屋くん」と柔道初段のアツ子に低い声ですごまれると、貧弱な土屋は一転して小さい声を震わせながら「だから、そう意味で言ってたわけじゃなくてさー」などと言い訳をし始めた。

さっきの怒り方から判断して「本当のこと」だったらしい。

それも、絶対触れてはならない。

その後気を取り直してまた飲み始めた我々だったが、大声を出されて場がシラケたと女の子たちからは非難ごうごうだった。

「図星だからって、あんな大声出すことないじゃん」

「いや、図星って…、違うよ」

「私も同じこと思ってた。だいだい“カノジョ欲しーなー”って、何か下心ミエミエだし

土屋は「いやいや、それはこいつがさ」とかまた私をダシにして言い訳を試みたりしていたが、完全に悪者にされてばつが悪いことこの上なさそうだったのは言うまでもない。

奴にとってはさんざんになってしまった今回の合コンだが、お開きになって会計になった時にもまたモメた。

土屋はいつもどおり全員割り勘にしようとしたら、ポニーテールメガネと泣きボクロが「女から金とるの!?」と不当なクレームをつけてきたのだ。

押し問答の末に「そんなに大金持ってきてない」と土屋が泣きを入れた結果、

女が2000円づつ、男は4000円づつ払うことで妥協した。

支払い能力が最も問題視された無精男の方は意外と金を持っており、4000円を何も言わずポンと出したが。

「クソ女ども!二度とツラ見たくねえ!」

女たちと無精男が相次いで去ると、土屋は呪いの言葉を吐き続け、その矛先は私にも向いて再び怒鳴った。

「何なんだよ、さっきのは!!言っていいことと悪いことがあるだろうが!!」

そんなことをヌカしやがるから、私も奴のいつものセリフを言ってやった。

「ホントのこと言っただけじゃねーか」

その日以降、土屋から合コンに誘われなくなったのは前に述べたとおりである。

バイト先でも口を利かなくなって付き合いが断絶、私がそこを辞めてからは一度も会っていない。

全くどうしようもない奴だった。

付き合いをあれ以上続ける必要もなかったであろう。

ただ、私は奴との一件で思うようになったことがある。

どうもヒトは根も葉もない誹謗中傷より、認めたくない「本当のこと」を言われる方が嫌なのではないか?ということだ。

その「本当のこと」が直さなければならない、又は直すべき間違いであるならば、たとえ怒られたとしても、言うべきかもしれないが、

改善しようがなく、また指摘する必要のない「本当のこと」ならば言ってはならないはずだ

土屋は、間違いなく言う必要のない「本当のこと」を吐く者だったが、

だからと言って、私も言わなくてもいいことを言うべきではなかった、と反省すべきだったんだろうか?

別に構わんだろう、相手が相手だったし。

本当のことを言ってはいけない (角川新書)

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後 2


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資産ゼロ・無年金で東南アジア某国の現地妻の実家に転がり込んだ東野氏。

ほぼ無一文だったからか、着いて早々過酷な現実に直面したらしく、日本にいたころ働いていた職場での知り合いや知り合いではない人にまで、金の無心の電話をかけまくっていたが、現実が過酷なのはこちら日本でも同じだった。

頼んだ相手も金欠か薄情だったし、本人の職場での素行と電話での頼み方も災いして金を融通してくれる聖人は少なく、ほどなくして連絡が途絶えた。

働いていた運送会社で「死亡説」が流れ始め、一か月ほど経過して誰も話題にもしなくなったころ、単身現地へ行って東野氏の安否を確かめようという勇者が現れた。

会社の契約社員の柴田馨である。

元バックパッカーの柴田

柴田は、当時の私よりちょっと年下の30代前半で、元バックパッカーだ。

契約社員になる前は、アルバイトでためた金を使って主に東南アジア方面を放浪していたし、契約社員になってからも、年に数回海外へ行っている。

東野が旅立った某国にも何度か行っており、それが縁で、東野とも付き合いが深かった。

アルバイトだった頃には、彼が転がり込んだ妻の実家へも一緒に行って、何泊かしたことがある。

それだけ付き合いがあったんだから、東野にも金を貸しただろうし、一番心配しているのかと思いきや、「こっちも金がない」とか言って一銭も貸していないらしい。

それについて「なんで俺が貸さなきゃいけねーわけ?」と、こともなげに言っていたから薄情な男である。

そんな柴田が東野を訪ねる気になったのは、有給を使って某国に旅行するつもりだったからであり、ついでにどうしているか見てこようと思ったからだという。

金を貸してやらなかったくせに会いに行こうとは、頭も情も軽いのと同時に、強心臓の持ち主でもある。

東野がキリギリスだったら、この男はさしずめゴキブリだろうというのは言い過ぎだろうか?

いや、両人ともどちらも兼ねているのだろう。

とはいえ、柴田もさすがに、何の連絡もせずに訪問するほど無神経ではなかったらしく、東野からかかってきていた番号に、何度か電話していたようだ。

しかし、くだんの金の無心電話がピタリと止んで以降、電話に出ることも折り返しも一切なかったという。

「ちょっとただゴトじゃねえぞ、こりゃ」

出発前の職場で話した時は、そう言いつつ口元はニヤついており、怖いモノ見たさ満々の様子だった。

だが、本当に怖い思いをすることになるとは、この時彼も気づいていなかった。

東野の妻の実家にて

東野の妻の実家は某国の首都の近郊ではあるが、やや辺鄙な半農村半住宅地といった感じの場所にある。

柴田は一度しか行ったことはないが、その場所をよく覚えていた。

また、「俺がいるときに訪ねて来いよ」と東野から住所の写しももらっていたから、某国に到着した柴田はホテルにチェックインした後、すぐにタクシーでその家に向かったようだ。

家のイメージ

いかにも東南アジアの民家といった感じの、さほどボロくもこぎれいでもない二階建ての家である。

柴田が東野と一緒に訪れて泊まった当時、その家は、奥さんとその両親、兄弟の他に結婚した兄の一家が暮らす大所帯であったようだ。

奥さんは東野よりだいぶ年下だが、当時からそんなに若くはなく、もう30代後半くらいになっているはずの中年女性。

にこやかな笑みを浮かべて食事の準備やらなにやら、柴田と家の主人気取りでふんぞり返っていた東野に、かいがいしく尽くしてくれていた印象がある。

彼女は日本で働いた経験があったらしく、片言の日本語を話した。

柴田がタクシーを降りてその家に着くと、以前訪れた時と変わらぬたたずまいであった。

(さて東野さんはどうしているのやら)

何の連絡もできずいきなり訪ねる形になってしまったが、東野はむろんのこと、奥さんもこの家の人間も自分のことは覚えてくれているから大丈夫だろうと思っていた。

家の入口は開けっ放しだったので、中に誰かいるだろうかとのぞき込もうとした時、道の向こうから見覚えのある女性がこちらにやって来るのが目に入った。

あれは間違いない、東野の奥さんだ。

「オー、久しぶり!」

柴田は、現地の言葉は一切分からないので、日本語で声をかけた。

奥さんは、日本語が分かるはずだから問題ないだろうと。

だが、彼女は明らかに柴田の姿を認めた感じだったが、何の返答もなく、無表情のまま家の入口に向かおうとした。

東野と一緒に泊まった時に、いつも見せてくれてたような笑顔は一切見せない。

「おいおい、俺だよ。柴田だよ。忘れたの?」

柴田はめげずに日本語で訊ねたが、奥さんは知らないとでもいうように、無言で手を振ってプイっとそっぽを向いた。

完全に「あんた誰?」どころか「アッチ行け」扱いである。

どういうことだ?

その冷たい態度の意味が解らなかったが、それよりも、ここに来た目的は東野の消息だ。

「ねえ、東野さんいる?ここに来たでしょ?」

本題を聞かせると奥さんはこちらを見て、相変わらずにこりともせずに語気鋭く言った。

「イナイ!」

「え?でも、こっち来たって言ってたよ?」

「キテナイ!」

「ねえ、どこ行ったの?」

「シラナイ!!」

柴田はしつこく食い下がって東野の行方を尋ねたが、彼女は「イナイ」「キテナイ」「シラナイ」の三つを繰り返すばかりで取り合ってくれず、家の中に入ると、ドアをぴしゃりと閉めてしまった。

ノックしてみても、中からは相変わらず三つの「ナイ」が繰り返されるばかり。

どういうことだ?

ここには、そもそも来てないのか?それとも、やっぱり追い出されたのか?

奥さんの豹変した態度には釈然としなかったが、もうここにはいないと考えてよさそうだった。

まあいい、もう帰るか。

もともとそこまで東野のことを心配していないし、面白半分だったから長居するつもりはなく、タクシーの運ちゃんには片言の英語と筆談で、一時間後にまた来てくれと頼んでおいた。

まだ時間はあるが、運ちゃんとの待ち合わせ場所まで行こうと思ったところ、近くの木陰に座り込んで、こちらを見ている少年たちが目に入った。

小学生くらいか中学生くらいか分からん微妙な年恰好の者たちだったが、一連の様子を見ていたらしく、ニヤニヤ笑っている。

こいつら何か知ってるかな?

知ってるわけないかもしれないが、どうせ暇つぶしだ。聞いてみよう。

そう思って彼らに近づいた柴田は、帰国後、この某国に二度と足を踏み入れる気がなくなったほどの衝撃を、その後に受けることになる。

垣間見えた真相

子供達イメージ

聞いてみるといっても、柴田はこの国の言葉は分からないし、英語も片言以下、小僧たちだって日本語が分かるはずがないし、英語も期待できそうにない。

柴田はそういう時のために、海外へはいつもスケッチブックを持参し、図や絵を描いて相手に見せることによって、意思疎通を図ってきた。

「ハロー」

そう挨拶して、東南アジアの人間らしく一見屈託ない笑顔を見せる少年たちに近づいた柴田は、毎回海外でやっているように、取り出したスケッチブックに東野の似顔絵を描きだした。

名前を言ってもわからないだろうから、似顔絵を見せれば、何とかなると思ったのだ。

幸いなことに、東野は小太りでメガネをかけて側頭部だけを残したつるっぱげ、という特徴的で描きやすい容貌をしていたから、絵心の特にない柴田でも簡単だった。

しかもそんな容貌は、この東南アジアの片田舎ではあまりお目にかからないから、分かりやすいだろう。

「この人、知ってる?」と、ササっと描いた似顔絵を見せて、日本語で訊ねる。

似顔絵

少年たちが、その絵に顔を近づけて見たとたんだった。

一同から大爆笑が起こったのだ。

もうおかしくて仕方がないという感じで、笑い転げる者もいる。

ナニナニ?そんなに俺の絵ウケた?

一瞬そう思ったが、彼らは柴田の意図を理解していたらしい。

笑いながらその絵を指さした後、奥さんの家を指さした。

どうやら柴田の似顔絵の人物を知っており、あの家に“いる”か“いた”かを知らせてくれているようだ。

「まだ、いるのか?」

と聞こうと思ったら、少年たちの一人が笑いながら、柴田の描いた東野の絵の方を指さした後、頭を抱えてうずくまると、叫び始めた。

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」

次に一番背の高いガキが家の方を指さしてから、履いていたサンダルを脱いで、うずくまったガキの頭を連打するようなそぶりを見せ、

もう一人は蹴りを入れたり、ゲンコツをかますマネを始める。

現地語で罵るような口調を交えて、笑いながらだ。

え?ナニそれ?意味分から…、イヤ!待てよ!?

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」→「止めてくれー止めてくれー!痛た!痛た!」じゃないのか?

これって、東野さんはつまり…。

凍り付いた柴田だったが、すぐさまより凍り付くことになる。

頭を抱えてうずくまっていたガキが自分の首を両手で絞めると、舌を出して「エ、エ、エ、エ」と声を出し苦しむ顔をし始め、やがて「ガクッ」とこと切れた演技をしたのだ。

まさか!!!

そしてとどめとして、

先ほどのサンダルのガキが、やや遠くのジャングルを指さして、手を枕に眠るようなしぐさをしたではないか!

それらの演技の間も、他のガキどもは終始笑い転げていた。

何があったか分かりすぎる!これが本当なら相当ヤバイ。

相変わらず笑みを浮かべるガキどもの笑顔が、この上なく邪悪に見えてきた。

ここにいてはまずい!早く帰ろう!!

逃避行

「〇×▽〇××◇!!!」

柴田が少年たちに別れを告げて退散しようとした時、いきなり少年たちの後方から、甲高い現地語の怒声が響いてきた。

東野の奥さんが怒りの表情で家から出てきて、少年たちに詰め寄ってきたのだ。

同じく中年男性と20代くらいの男も後に続いていた。

若い方は知らないが、中年男は、たしか奥さんの兄弟か何かだ。

余計なことしゃべるなとでも言っているのだろうか?柴田の方を指さしたりして少年たちを怒鳴りつけ、突き飛ばし始める。

少年たちもおばさんが相手だから、笑いながら何か言い返していたが、中年男が大声で怒鳴り、若い男がこぶしを振り上げて殴るマネをすると一斉に逃げ散った。

ガキどもを蹴散らすと、今度は柴田に矛先を向け始めた。

「アナタ、ナゼいる!?ナンでキク!?ワタシ、シラナイいった!!」

奥さんは接続詞と助詞を省いた日本語をまくし立て、阿修羅の剣幕だ。

彼女も怖いが、よりやばいのは後ろの男たちだ。

奥さんと一緒に臨戦態勢で、こちらに近寄って来るではないか!

奥さんは歩み寄りながら「アナタ、ばか!ワタシいった!アナタ、ワルイよ!!」と罵り続ける。

「分かってるよ分かってるよ、もう帰るから!帰るから!!」

そう言って後、ずさりする柴田に対して彼女が言い放った言葉は、いままで生きてきた中で最もゾッとする一言となり、今も耳に残っていると、後に語ることになる。

「アナタ、カエれない」

その言葉が何を意味するか、この状況では、分かりすぎるほど分かった。

柴田は脱兎のごとく、その場からの逃走を図った。

走り出すと、後ろから男二人が大声を出して追いかけてくる気配を感じた。

ヤバイヤバイ!捕まったら終わりだ!!

生きるために、ありったけの力で走り続ける。

幸いだったのは、柴田は荷物をホテルに置いて手ぶらで来ていたことと、スニーカーを履いていたことで、なおかつ、彼は100メートルを11秒台で走れる比較的俊足の持ち主だったこと。

一方の奥さん側は全員サンダルだったので、どうしても走るのが遅くなったことである。

さらに幸運なことに、とりあえず逃げた先はタクシーとの待ち合わせ場所だったのだが、約束の時間よりだいぶ早いにもかかわらずそのタクシーが待っていてくれたことだ。

運転手は中で居眠りしていたが。

必死の柴田は運転手を「ウェイクアップ!ウェイクアップ!ゴーゴー!!」とたたき起こして急いで出発させた時、彼らの姿は見えなくなっていた。

あきらめたらしい、助かったと、この時は思った。

だが、違ったようだ。

ホテルに向かって走り出したタクシーの中で、まだ震えが止まらないながらもほっとしていた柴田は、後方からしつこく鳴らされるクラクションが気になった。

そのクラクションはどうやらバイクのものらしく、だんだん近づいてきている。

「うるせえな」と思って、窓の外を見た彼は仰天した。

何と奥さんたち三人が、ホンダの『スーパーカブ』に乗って追いかけてきたのだ!

足で追いつけないと分かるや、賢明にもバイクを使った追跡に切り替えたらしい。

中年男が運転し、後ろに奥さん、若い男の順番で三人乗りしており、

奥さんの手にはトンカチ、若い男の手には長い棒が握られ(それを何に使う気だ!?)、クラクションを鳴らしながら、何ごとかわめいている。

これにはさすがに、タクシーの運ちゃんもただならぬ事態を把握したらしく、柴田に言われるまでもなくスピードを上げてくれた。

50ccのスーパーカブでは追いつけるはずもなく、タクシーはぐんぐん彼らを引き離して、やがて街中に到達。柴田は生還することに成功した。

もっとも、ホテル到着後にタクシーの運ちゃんは、危ないところを助けてやったからと恩着せがましく運賃100ドルを請求し、柴田も泣く泣く支払うことになったのだが。

彼は東野と自分が遭遇した一件を警察に訴えようとも思ったが、某国の警察は当てにならないだろうから、敢えてしなかった。

第一あれ以降、怖くて街に出る気もなくなってしまい、近くに食事に行く以外は、三泊四日の某国滞在はほぼホテル内だったのだ。

いつもなら、あっという間に終わって名残惜しく日本に帰国していたが、この時は本当に長く感じ、出国して飛行機が離陸した際はほっとしたという。

帰国後

「とんでもねえ目に遭った。もう、あそこには行きたくねえよ」

帰国した柴田はそれらの話を職場でした時、顔をこわばらせていつものヘラヘラ顔を一切見せなかった。

経済発展著しいと日本で報道される某国だったが、あんなことがまかりとおっているとは、発展途上国どころか20世紀すら迎えていないとまで話していた。

以上の話が実話なら、実にゾッとする。

柴田はホラ吹きなところがあって、話を十倍にも二十倍にもする癖があったが、帰国して以降、私がその会社を辞めるまでの六年の間に、あれほど好きだった東南アジア旅行に一回も行かなかったんだから、ほぼ事実なんだろう。

そして、東野から永久に金の無心の電話が来ないのも、会えなくなったのも確実なようだ。

彼は移住前、「俺はあの国の土になる」と周囲に言っていたというが、それは予想より、かなり早く実現してしまったらしい。

我々のうち誰かが助けてやってたら、こうはならなかったんでは?

いや、時間の問題だった。誰も悪くない。

でも、でも…。

そういった葛藤を、私以外にも多少は抱えていた者が多かったのかもしれない。

その後、あの会社において東野を知っている人間の中で、彼のことを思い出して話題にした者は、私の記憶のかぎりではいなかったのだから。

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