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嫌老青年の主張 ~現代の高齢者は敬われる資格がない~

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私は、某大手運送会社のY運輸で働いていたことは、当ブログで何度も言及している。

アルバイト時代も含めれば、十年以上も勤務してしまった。

まあ正直言って、社会には必要な仕事の一つなのかもしれないが、荷物を仕分けたりするような単純な作業で誰もやりたがらない夜勤だったせいもあるのか、浮世離れした人間が多かった気がする。

勤務していた十年の間に、実に多くの怪人物に出くわしてしまったものだ。

そして、今回ご紹介する加賀雅文も、間違いなくその範疇に入るであろう理由は、極端な屁理屈で理論武装された主義主張と行動原理を有していたからである。

見かけによらない男

加賀は、私と同い年の同学年で、2003年(平成15年)だったその当時28歳。

何年かある大手企業でサラリーマンをやっていたらしいが、その会社を辞めてから、アルバイトとしてY運輸に入ってきた。

パッと見、礼儀正しく、おとなしそうな男である。

働き始めのころは、特に問題を起こすこともなく勤務していたから、あまり目立った印象はない。

しかし、それは二週間ほどで変わることになる。

加賀は、いつも大きな荷物を仕分ける係をやっていたのだが、その日は腰が痛くなったとか言って、一番肉体的負担の軽いベルトコンベアから流れてくる荷物を引き入れる係をやろうとしていた。

我々の部署の班長である新井は放任主義で、人員の配置については、その多くをアルバイト同士の暗黙の了解や話し合いで決めさせている。

そんなこともあって、そこはいつも東野という五十代のおっさんがやることになっていた場所であったが、この日は遅れて来るらしいので空きができていたのだ。

作業が始まって一時間後、東野が出勤して来た。

東野は遅れてきたくせに、いつもの楽な場所をやろうと、そこで作業している加賀に「オイ、交替交替」とか言って、自分に替わらせようとしていた。

このおっさんは、いつもこうだ。

「俺は腰が悪いんだ」とか言って、一番楽なその場所に別の誰かがいると、必ず譲らせようとする。

だが、加賀はその場所を離れようとしない。

東野に何か言われて答えている様子だったが、それが穏やかではない雰囲気に発展していっているのが、遠目からも分かった。

やがて「あ?俺だって腰が痛えんだよ!」とかいう加賀の言葉が聞こえてきて、東野がまた何か言うと、

「今日くらいいいだろ?!」とか「いっつも楽なトコばっかりやってんじゃねーか!!」とか「ふざけんな!同じ給料だぞ!!」とか怒鳴り始めた。

あの大人しそうな加賀とは思えない剣幕で、ドスもかなり効いており、普段偉そうな東野もその迫力に、「いや、その、だからさ…」とか言っててタジタジだ。

さらには、

「体が動かねえなら、いっそのこと家で死んでろ!!!」

とまで言い放った。

やがて班長の新井が飛んできて間に入ったのだが、結局、新参者の加賀は古株の東野に楽な場所を譲らされ、一番きつい元の場所に強制送還されてしまった。

加賀がいなくなると、東野は「なんだあのヤローは?ふざけやがって!」とか、急に威勢がよくなって悪態をつき始めていたが、おさまらない加賀の方は、「年取ってるからって、そりゃおかしいじゃないですか!」とか「不公平ですよ!!」とか、大声で新井に抗議し続けているのが聞こえてきた。

ヒトは見かけによらない、あんな気が荒い奴だとは思わなかった。

私も気を付けよう。

嫌老有理

新人のくせに、曲がりなりにもベテランの東野に反抗するという騒動を起こしたにもかかわらず、加賀はその後も何食わぬ顔で出勤し続け、次の月になるころには職場になじんできた。

また、歳が同じということもあって、私とはよく口を利くようになる。

だが、態度はちっとも穏やかにはならない。

東野に吠えてからしばらくたったある日の作業中には、須藤という東野と同じくらいの年輩のおっさんに対して、「コラ!国民年金払ってやらんぞ!!」とか、ワケの分からんことを怒鳴っていた。

聞けば、大声を出した理由は、須藤が重い荷物の仕分けを「若い人に任せます」とか言って、加賀に押し付けようとしたからだという。

だとしても、ひと回り以上年長の人に、あんな言い方はよくないだろうに。

しかし、加賀は相変わらず「あのオヤジがふざけたこと言うからだ」と聞く耳を持たなかった。

話すようになってすぐに気づいたが、この男はかなり年寄りがお嫌いらしい。

「なんで役に立たんジジババと俺らが同じ給料なんだ」

と、口癖のように言っていたし、なぜか私のことを自分の理解者だと判断したらしく、休憩時間だけでなく帰りの電車の中でも、年長者に関する歪んだ自説を主張し続けていた。

帰り道が途中まで一緒だったので、私は帰りによく捕まって、それを聞かされ続けることになる。

何でも、彼に言わせれば、現代日本の年長者は尊重するに値しないのだそうだ。

加賀によると、まず年長者が年少者から尊重される前提は、多数派の若年人口に対して圧倒的少数派であることだという。

少子高齢化が進み、年長者が多数派になりつつある昨今では、今後ますますこの前提が成り立たなくなる。

そして第二に、年長者の存在意義としては、その豊富な社会経験や知識を有していることだが、それらは昨今の目まぐるしく変化する現代の産業・社会構造の前には、モノの役に立たないことが多いし、その変化についていけないではないか。

つまり存在意義がないばかりか、足手まといですらある。

我々現役世代は、従来の常識も教えも全く通用せず、より複雑でより暗くなる一方の未来に立ち向かわなければならない。

なおかつ、悠々自適を決めこむ多くの高齢者を養うための国民年金を払いながらだ。

彼らのような恵まれた引退後の生活は、絶望的なのにも関わらず。

どちらがどちらを尊重するべきなんだろう?

というようなことを帰りの山手線の電車内で話す時、

28歳の加賀は、いつも優先席にどっかりと座っていた。

本来、そこに座ることができる高齢者が来ても譲る気配は一切なく、恨めしそうにこちらを見てきたら「シッシッ」と追っ払うしぐさをする始末。

優先席には、いつも優先的に座っているのだそうだ。

私はさすがに立っていたが。

さらに、加賀は子供のころから年長者に言われると腹が立って仕方がない言葉があるという。

それは「これからの日本は大変だ」である。

「ろくでもない将来を押し付けられてるみたいじゃねえか!あとは知らねえよ、ってことだろ!?」

あともうひとつ、「今の若い者は恵まれている」と言った年寄りに対しては、殺意を抑えきれないらしい。

「俺たちは、あいつらみたくボーっとした時代を生きてねえんだ、ふざけんな!!」ともよく言っていた。

その二点については、私も確かに理解できなくもないが、電車内でしゃべっているうちにエキサイトしてきたらしく、声が大きくなるのだけは勘弁してくれ。

こちらを振り向く人もチラホラいるんだから。

だが、そんな加賀でも尊重する世代があって、それは第二次世界大戦(加賀は、大東亜戦争と呼んでいた)に従軍した経験のある人たちだ。

結構、右寄りの男でもある。

ただし、尊重すべきは直接戦地に行って戦った経験のある人たちのみに限られ、空襲で逃げ回っていただけの非戦闘員だった連中は認めないとか言ってて、そこは加賀らしい暴論だ。

同時に最も嫌う世代があって、それは戦後の1940年年代後半のベビーブームに生まれた団塊の世代(この当時はまだ50代後半だったが)である。

「アイツらがいるから、日本がおかしくなってきたんだよ!」

どうも、加賀が前の会社を辞めた理由は、団塊世代の上司たちが原因のようだ。

無能で働かず、「もう歳だから」という理由で、こちらにきつい仕事は押し付けてくるは、理不尽な要求はしてくるは、挙句の果てには責任まで押し付けてくるは。

「俺の若い時はこうだった」とか過去の成功体験にしがみついたワケのわからん根性論を振り回し、エクセルやワードも覚えようともしない。

尊敬できる人間は誰一人いやしない、目前に迫った退職までダラダラのんびり過ごすことを決め込んでいるとしか思えなかった。

そのくせ、肩書や給料だけは一丁前に高い!

それに我慢がならなくなり、そのうちの一人を会社で張り倒してしまって退職。

今のアルバイト生活に至ったらしい。

加賀は、そんな生産性の低い奴らが法律に守られてクビにもならず、その役立たずに牛耳られた日本企業は体力を奪われ、結果として国力は衰退して行くのだと主張。

さらに、あと何年もしたら退職した大量の楽隠居が野に放たれ、その後、何十年も福祉に国庫が食われ続けて破滅的状況を招くことになると警鐘を鳴らした。

また、団塊世代が若いころ安保闘争やなんやで好き勝手暴れ、社会の主流となってからは、我が国を間違った方向に導いておきながら逃げ切るのも許せないといきり立つ。

「あのまま、あいつら団塊世代を生かしといたら、日本はまずいぜ!今のうちに半分くらい殺処分するべきだ!!」

いくら個人的な恨みがあるからってそりゃ言い過ぎだろが。

しかも電車の中でそんな大声で。

こいつは右翼どころか、ファシストだ。いや、紅衛兵に近いのかもしれん。

それに、私の両親もお前が言うところの団塊の世代だぞ。

お前は私の両親も殺す気か?

しかし加賀も、「俺の両親だってどちらとも昭和23年生まれでどんぴしゃり団塊だ」とさらりと答えた。

だったら、まずはお前が率先して自分の両親を…、

というブーメランはさすがの私も返すことはできなかったが。

これから高齢者になる者の心構え

「でもさ、上の世代の働きで今の日本があるわけだろ?」などと私が言おうものなら、

「じゃあ、これから先はどうなんだ?今までの功績があるからって、これからは足を引っ張ってもいいってか?」

「だいたい、あいつら一番いい時に生まれただけじゃねえか。あいつらが偉いわけじゃねえ!」

「本当に偉いのは、これからどんどんやばくなる日本で生きなきゃいけねえ俺たちだろ!」

と、数倍の反論が返って来た。

ムチャクチャとはいえ、加賀が年寄りに冷たいのには彼なりの理由があるようだが、一つ重要なことを忘れてる。

それは、「我々も年をとる」ということだ。

爺さんになってから、若い世代に冷たくされたらどう思うんだ?

対する加賀は顔色を変えることなく、「間違いなくされるに決まっているだろう!」と断言。

それどころか、今の若い奴ほど年寄りに親切じゃないはずで、「いつまで生きてるんだ」と、迫害を受けるだろうとも予測していた。

自分たちが高齢者になったら下の世代からゴミ扱いされると達観しているようなのだ。

そして、

「どうせ親切にされないなら、俺たちだって親切にする必要はない」

と力説し、

「罰を受けるなら、好いことやって受けるより、悪いことやって受けた方がマシだ!」

と唸り出したところで、我々の乗る山の手線は新宿駅に到達した。

運がいい。

私はここで降りて小田急線へ、奴はこのまま乗って大塚までだ。

今日は、とりあえずこれ以上とち狂った話を聞かずに済みそうである。

とは言え、考えてみれば加賀の予測どおり、我々が高齢者になった時は、下の世代からの冷遇という過酷な余生が待っていることは間違いなさそうで、彼はそれを覚悟の上であることは何となく理解できる。

暴論とはいえ、少なくとも一本筋は通っているような気がした。

だが、それは私の誤解であったことが、後日すぐに分かることになる。

その日、私はY運輸に出勤してタイムカードを押してから現場に向かうと、人だかりができて騒がしくなっていた。

時々怒声が聞こえるから、誰かがモメているらしい。

「誰と誰がもめてんだ?」と思って近寄ってみたら、もめてる片方はあの加賀ではないか!

今度の相手は、夜10時までの夕勤アルバイトの高校生風の若者で、意外と腕力のある加賀は、若者の胸倉をつかんで押し倒している。

そして例のごとく、ドスを効かせて大声でこう凄んでいた。

「コラ!!ガキのくせにさっきのナメた口のきき方は何だ!?俺が年上だと知ってて言いやがったのか!!」

年長者を尊重する必要はないとか言っときながら、年少者に軽んじられるのは我慢がならないらしい。

単なるならず者であった。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)


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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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新幹線の食堂車での思い出 =終生忘れ得ぬこの無念


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かつて東海道・山陽新幹線の「ひかり」には食堂車があった。

覚えている方も多いことだろう。

この食堂車は1974年、博多駅開業目前に登場して以来、最盛期には全ての「ひかり」に編成されて営業をしていたが、後に新幹線のスピードアップにより、乗車時間が短縮されたと同時に利用率が低下。

これを踏まえたJR各社が不要と判断した結果、2000年に営業を終了した。

この新幹線の食堂車をリアルに見たことがある人の中で、一度はそこで食事をしてみたいと思った方も多いはずだ。

まだ食堂車が全ての0系新幹線の「ひかり」にあったころに小学生だった私もその一人である。

そしてある日、その夢の食堂車で食事するチャンスに恵まれた。

だが、それは2022年の現在になっても忘れられない、無念極まる思い出となった。

あこがれの食堂車

岡山県に母方の伯母一家が住んでおり、盆暮れには新幹線に乗って私の住む岐阜県の祖父母の家に帰省していた。

そして岡山に帰る際、祖父母と私の家はよく新幹線の岐阜羽島駅のホームまで見送りに行ったものだが、たびたび食堂車を伴った「ひかり」によく出くわした。

私が小学生だった時代の新幹線はだいたい0系であり、食堂車は後に登場する100系新幹線に連結された電車二階建ての168形ではなく、36形食堂車である。

36形食堂車
168形食堂車

「ひかり」が岐阜羽島駅に入ってきて停車し、食堂車が通り過ぎると、何とも言えないいい匂いがしたものだ。

特急列車が好きだった当時の私にとっては問答無用であこがれの車両である。

是が非でもそこで食事をしたいと、しょっちゅう両親にせがんでいた。

しかし、夫婦そろって出不精な両親は、たまにしか行かない家族旅行も100キロ圏内だったし、いつも車を利用していたために食堂車どころか新幹線にもなかなか乗れなかった。

子供心に「大人になってからにしよう」と半ばあきらめかけてもいたが、持続的な強い願いは時に運命をも動かす。

食堂車で食事ができる絶好のチャンスが訪れたのである。

夢の食堂車

新幹線の食堂車

それは小学校四年生の春休み、今から37年前の1985年のことだ。

いつも岡山から岐阜に来るだけだった伯母一家が、「たまにはうちに遊びに来て」と誘ってくれたため、私の一家は重い腰を上げて岡山まで新幹線「ひかり」で行くことになったのである。

岐阜羽島駅から岡山駅までは300km以上の距離があり、当時の「ひかり」でも二時間はかかる。

食堂車を利用する時間は十分あるではないか。

両親はあまり乗り気じゃなかったが、だだをこねまくって、当日は食堂車に行くことを約束させることに成功した。

ようやく夢がかなう!

私は伯母の家に行って従兄妹たちに会うよりずっと食堂車の方が楽しみだった。

岡山に向かうその日、岐阜羽島駅までの道中では、二歳年下の弟と、食堂車で何を食おうかそればかり話をしていたものである。

このころから何かと気が合わない弟だったが、食堂車は奴にとっても楽しみだったのだ。

新幹線「ひかり」の自由席に乗ったのは昼前だったから、ちょうど昼食時には食堂車だ。

この日は休日だったはずだったが意外と空いており、我々一家は新幹線の端の方の自由席に席を四人分確保することに成功。

だが、もう居ても立っても居られない私たち兄弟は、席にどっかりと腰を降ろしてゆったりしようとする両親を食堂車へせかした。

真ん中くらいに存在する食堂車は昼時とあって混んでいるかもしれないと思っていたが、自由席同様空いていた。

食堂のスペース手前の方にメニューがあったが、私はとりあえずカレーを食べると決めていたので、そのまま席にまで直行。

弟も付いてきて、まだメニューを見ている両親より先に着席した。

メニュー

席にもメニューがあり、やっぱりカレーじゃなくて他のにしようかなどと考えたりしていた。

食堂車の飯はどんなもんなんだろう!?

たとえまずかったとしても、恨み言は言うまい。

我が家では外食自体が珍しく、近所のラーメン屋に行くことだけでも一大イベントであったが、私にとっては食堂車での食事は、他のどんな店での外食にも勝る慶事だった。

新幹線の食堂車で飯を食うこと自体に、意義があるからだ。

ああ、もう待ちきれない。

だが、それにしても…。

親父とおっ母がなかなか席に来やしない。

何やってるんだ?

まだ入り口近くのメニューを見て、何ごとか話し合っている。

ウエイトレスのおばさんが我々の席に注文を聞きに近づいてきた時、母親が「ちょっと、ちょっと」と声を出して、我々兄弟を呼んだのが聞こえた。

「ねえ、早う来てや」と私は催促したが、父も母も「こっちにこい」と手招きしているのが目に入った。

何だよ、いったい。

多少イラつきながら両親の元に向かった我々兄弟は、父の口から告げられた一言により、有頂天の極みから奈落の底へ突き落とされた。

冷酷な両親

「昼飯やけどな、岡山駅で食べることにしたで」

はあ!?

「ここで食べたっておいしゅうないて」と母親も助け船を出す。

「いや、ここで食べようよ!」

「岡山の方がずっとおいしいトコいっぱいあるで」

「そうや。こういうトコは高いばっかでおいしくないに決まっとる」

だまされないぞ!!

ここまで来といて、そりゃないだろ!

どうやら両親は、新幹線の食事の高額さにビビったらしいことが当時の私にもわかった。

だが、家計に致命的な打撃を与えるほどではないはずだ。

「食堂車がどういうもんか分かったやろ?だから、もうええやん」

ごまかしているつもりか!入っただけで満足できるわけないだろ!

「ここで食べたい!ここで食べる!!」

「あかんあかん。もう席戻ろか」

両親は抗議する我々兄弟を無情にも力づくで食堂車から退去させ始めた。

小二の弟は大声で泣き出し、小学校四年生の私も泣き出した。

私はせめて食堂車の隣のビュッフェで食べさせてくれと懇願したが、岡山で昼食を食べるという両親の決意は変わらない。

自由席に戻る途中、幼児並みに泣きわめいて駄々をこねた我々小学生の兄弟だったが、

「しつこい!」

「母ちゃんのいうことが聞けへんのか!」

と逆ギレした両親にゲンコツをかまされ、抗議活動は鎮圧されてしまった。

こうして忸怩たる思いのまま岡山駅に到着して、我々一家が昼食に入ったのは、

駅の立ち食いソバ。

食堂車の代替に全く及ばないではないか!

しかし、「文句を言ったらまたゲンコツだぞ」オーラを出す両親にはこれ以上文句は言えず、我々の意向も聞かず一方的に注文されたかけそばをすすらざるを得なかった。

私はこの年齢になるまで、あの時以上にひもじい気持ちでかけそばを食べたことはない。

そんなことがあったから、伯母の家に到着して従兄妹たちに会っても楽しくなかった。

そこに一泊して、次の帰りも新幹線だったが、今度乗ったのは食堂車のない「こだま」。

おまけに行きと違って、客がぎっしりで自由席は空いてやしない。

立ちっぱなしの道中で、両親は

「食堂車はまた今度にしようや」

とかふてくされる我々に言い聞かせていたが、

その「また今度」が永遠に来ることはなかった。

その時、両親は絶対に叶えてくれないに決まっているから、大人になったら絶対に食堂車で食おうと固く決意していたが、その決意を忘れて大人になって、思い出した時には新幹線の食堂車は、廃止されていた。

感謝は感謝、無念は無念

「なあ、何で小四の時、新幹線の食堂車で飯食わしてくれへなんだんや?」

2021年の年末、実家に帰省した際に両親に訊ねた。

この時ばかりではない、小学校時代から高校卒業後に実家を出て今に至るまで、数百回は言っている。

だが、いつも答えは同じだ。

「はあ?そんなことあったかいな?」

「覚えとらんて、そんな昔のコト」

ウソだ。

最初にそれを聞いたのは小五の夏休みだったが、半年前のことを忘れているはずがないのに同じようなことを言っていた。

「俺やったら、ウチの子に食わせたで」

妻子を伴って帰省していた私の弟も口をはさんだ。

「昔のことは忘れた」とよく言う奴だが、あの時の無念は忘れてはいないらしい。

それでも両親は忘れてしまったようなことを言い、なかったことにしようとしている。

両親にはこれまでさんざん苦労をかけさせた自覚はあるし、そこそこ感謝もしている。

だが、あの件だけはいまだに許せない。

一年に一回はあの時の夢を見る。

新幹線「ひかり」の36形食堂車の席に座ってさあ食事しよう、という夢だ。

私自身はまだ子供だったり、もう今の歳になっていたり、親が来なかったり、ウエイトレスが来なかったりいろいろなバージョンを見たが、いつも共通しているのは料理にありつけないことだ。

どんなにうまいものを腹いっぱい食べて苦痛なほど満腹になったとしても、あの時口に入るはずだった料理を出されたら食べるだろう。

あのたった一食の喪失感は30年以上たった今でも忘れられない。

「どうでもええことばっか、いつまでもよう覚えとるな」

「昔っからホンマぐちゃぐちゃしつこいな、アンタは」

年老いた両親には、なんら罪の意識がないようだ。

大人げないのは承知だが、この件を風化させる気はない。

今後も言い続けるし、両親を看取る時は、

「苦労かけてすまんかった。でもあの時食堂車で飯食わしてくれなかったのはいかんだろう」

と一応言うつもりだ。

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2022年 ならず者 事件 事件簿 悲劇 昭和

同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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2022年 おもしろ 中二病 人類防衛 悲劇 本当のこと 無念

我が中二病 ~人類防衛の大義に燃えた思春期~


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中二病なる言葉がある。

なんでも、「思春期に特徴的な空想や価値観、過剰な自意識やそれに基づく言動を揶揄する俗語」であるらしい。

それが大体中学校の二年生くらいで発症することが多いから、こう呼ばれているようだ。

そういえば私が中学生の頃も、グレ出す奴は、大体二年生からだった気がする。

反抗期もこれくらいの時期から本格化するみたいだし。

また、この年代はかなり多感な時期らしいから、自我が目覚めて荒れ狂うあまり、かなり恥ずかしい言動をしてしまいがちなようだ。

そして、身内以外の他者の影響も受けやすい。

私もそういえばその時期、その中二病に近い症状を患った記憶がある。

ただし、私は問題行動を起こさなかったし、校則はきっちり守る真面目な生徒だった。

先生や親に怒られるのが怖かったし、第一そんなことしたら他の生徒にシメられるのは当時からわかりきっていたからな。

私の場合はそういった人様の鼻につく症状ではなく、主に精神面及び思想面で発症したのだ。

もっとも、その影響は言動にきっちり表れていたから、中二病マンマであったが。

私の発症した中二病とは何か?

それは、異星人の地球侵略を本気で心配していたことだ。

思春期にありがちな異性への関心や将来への不安そっちのけで、私の中学校生活の後半は、異星人の侵略におびえる毎日だった。

きっかけは、金曜ロードショーで放映されたアメリカの異星人侵略モノのテレビドラマV』を見たこと、そして愛読していた漫画『ドラゴンボール』に戦闘民族サイヤ人が登場してきたことだったと思う。

元々心霊やUFOなど超常現象に興味があり、薄々異星人への脅威は感じていた。

だがその脅威は、それらの作品との出会いが思春期に達した当時の私の精神状態と不適切に相互作用して、多感な頭の中で爆発的に増大したのだ。

とどめは、日本テレビで放送された『矢追純一UFO現地取材シリーズ』

まだ1980年代後半で、当時騒がれていたノストラダムスの大予言「1999年の7の月、人類は滅ぶ」とは、異星人の侵略だろうと確信した。

私はその圧倒的な脅威におびえるあまり、熱心に家庭や学校でその危険性を説き、身近な人々をまず啓蒙しようと努めた。

だが、無理解な両親は「もうすぐ受験だろ」と突き放し、学校ではいつもつるんでいた友達に距離を置かれ、「面白い奴がいる」と私を迫害する同級生が増加しただけだった。

誰も理解を示してくれなかったが、私は三年生になると心機一転して、自分ひとりだけでも異星人に立ち向かおうと決意、独自に戦闘訓練を開始した。

まず、攻めてくる異星人は『矢追純一UFO現地取材シリーズ』で主に取り上げられているリトル・グレイという種族だと断定。

そのリトル・グレイと戦うためにまずは格闘術の訓練として、二歳年下で中学校一年生の弟を異星人に見立て、組手の相手とした。

なぜ中学一年生の弟だったかというと、そのリトル・グレイという種族は身長140センチくらいで、当時の弟の身長とほぼ同じであり、まさに練習相手としてうってつけと考えたからだ。

私は「異星人の侵略に対する抵抗のため」という大義を弟に説き、練習相手となるよう命じたが、当時から兄である私を小バカにしていた弟は断固拒否。

それを自分さえよければいいという勝手な考えとみなした私が、組手訓練を強行すると弟は激しく抵抗し、二階の子供部屋で大乱闘に発展した。

弟も本気になってくれたので有意義な訓練になったが、一階で仕事をしていた父親が上がってきて「うるさい」と怒鳴られ、「お前が悪い」と私だけがシメられた。

こうして格闘術の訓練はできなくなったが、やはり異星人との戦いのキモとなるのは対空戦闘であろう。

異星人と言えば円盤、きっと主に円盤に乗って攻撃してくるはずだ。

そこで私は、対空戦闘の訓練に専心することにした。

本物の銃は将来的に狩猟免許を取得してから購入するとして、私はまず、保有していたエアーガンでの射撃訓練を開始する。

標的は、家の畑に飛んでくる蝶。

円盤のように不規則な動きをするため、ふさわしい標的だろう。

私は来るべき地球防衛の戦闘に備え、自宅の前の畑にやって来た蝶を片っ端から銃撃した。

しかし、蝶を狙ったBB弾は時々近所の家に飛び込んで、そこの住民に命中。

「お宅の長男に狙撃されてる」と、その住民から苦情を受けた両親にまたしてもシメられ、エアーガンを取り上げられてしまった。

自宅での自主戦闘訓練を封じられた私だが、やはり独自にやるのではなく、ある程度専門的な機関に所属する必要を感じるようになった。

すなわち自衛隊だ。

ちょうど中学三年生で将来の進路をある程度目星をつけるべき時期に差し掛かっていた私は、とりあえず中学卒業後は一旦普通科高校に行くこととして、高校卒業後には自衛隊に入隊することを学校での三者面談で宣言。

志望動機を聞かれたが、理由はもちろん「異星人と戦うため」だ。

「自分の将来なんだから真面目に考えろ」と両親も担任教師も激怒したが、

人類防衛の大義に燃える私の信念はいささかも揺るがなかった。

将来自衛隊に入隊することを決めていた私だったが、一方で今のままの自衛隊では、異星人にまともに立ち向かえないとも感じていた。

円盤を真っ先に迎撃するのは戦闘機だが、その自衛隊の戦闘機F-15Jは、やすやすマッハ10を超す速度で飛ぶ円盤の敵ではない。

海上自衛隊や陸上自衛隊はモノの役には立たないであろう。

ムダ死には御免だ。

だいたい憲法で縛られた自衛隊では、ソ連軍(当時はまだ健在)や中国軍相手でも持たない。

そこで私は他力本願とはいえ、地球上で最強最大の軍事力を誇る米軍に思いをはせるようになった。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。また、現実にも、そうなるであろう。

矢追純一のUFO特番でもやっていたが、米国は異星人と密約を結ぶ一方で、万が一の対決に備えて円盤を宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

米国なら、何か考えてくれているに違いない。

そしてその頃、ずっとベールに包まれていた米国の最新兵器がプレスリリースされた。

ステルス戦闘機F-117ナイトホークである。

それは後に、実は攻撃機であったことがわかるのだが、私はその従来の軍用機とは一線を画するF-117の未来的な形状を一目見て、対異星人戦用の兵器だと確信した。

これの主武器はきっとレーザーガンで、宇宙空間だって飛べるはず。

速度マッハ5くらい出してもおかしくはなさそうだし、最低でも空中静止は堅いと

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

円盤との空中戦どころか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことが分かった。

取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時には、そんなことに思いもよらず大いに失望した。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、迎撃を受けることなく爆弾を落とすだけでは、異星人の相手になりそうもない。

人類は終わりだ、と絶望した。

そんな私だったが歳を重ねていくうちに、私の中で中二病たる異星人への恐怖は徐々に消え、地球防衛の大義のために自衛隊へ入隊するという情熱もどこかへ失せていった。

同時に、あの時の自分は何と無意味で恥ずかしいことに時間と労力を費やしてしていたのか、という常識的な反省ができるようには一応なれた。

だが成人して、久しい現在でもその後遺症は残っているようである。

画期的な新兵器が開発されて出現するたびに、それは地球上の軍隊や武装勢力ではなく、異星人相手にどこまで通用するかということを、この年齢になってもついつい考えるからだ。

軍事技術に限っては、私の目線は地球上だけではなく、地球外にも向いてしまっている。

私の中二病は、まだ完治していないということだ。

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“本当のこと”こそ言ってはならぬ 3 – 床屋の失礼な一言と薄毛の悩み


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私は頭が少々薄くなっている。

それは今に始まったことではなく、十年以上前から始まったことだ。

前髪はさほど後退していないが、頭頂部が薄くなる、いわゆる O字タイプと呼ばれるハゲに属する。

フランシスコ・ザビエルの髪型に近くなるハゲ方と言えば、イメージしやすいだろう。

私もそれは十分自覚していたし、そこそこ気にはしていた。

だが、いるのである。

わざわざ面と向かって「あ、薄い」とか指摘してくるばか野郎が!

分かっているって言っているだろう?気にしていないわけがないだろうが!

こういう輩は「本当のこと」なら、何でも言っていいと思っているのだろうか?

だからと言って、ハゲは進行しこそすれ、回復させることはほぼ不可能であることくらいわかっているから、育毛剤などを使うような無駄な努力はしない。

また、無事な前髪や後ろの髪などを総動員して、ごまかそうとするようなマネもしたくない。

余計目立つからな。

よって、私の髪型は脱毛が目立ってきた十年前から丸坊主である。

もともと髪型にこだわる方ではなかったし、寝癖が立たないとかいろいろ便利だし。

坊主にしたら、頭が薄いことをわざわざ指摘してくるバカ者はいなくなるだろう、

と思ってた。

だが、まさか言ってくる奴が出てくるとは思わなかった。

しかも床屋が!

私を差別する女主人

私が散髪によく行っていた床屋は家のすぐ近所の床屋『K&Kカットクラブ(仮名)』だ。

シャンプーも顔そりもなく、カット代だけで 1200円 くらいの格安床屋である。

坊主にするだけなんだから、4000円 とか 5000円 とか払いたくないではないか。

その『K&Kカットクラブ』は、30歳前後の小太りの女性が切り盛りする小規模な店で、散髪をやっているのはいつもその女。

だがその女店主、いつも不愛想でぶっきらぼうであった。

初めてそこを利用してから、五、六年行っていたのに、いつもそんな感じだったのである。

散髪はそこしか利用していなかったのだから、私はお得意様以外の何者でもないはずだ。

もうちょっと愛想よくしてくれても良いではないか、などと考えていた私は、わがまますぎだろうか?

素が不愛想で、誰に対してもそうなのなら仕方がない。

しかし他の客に対しては明らかに態度が違うのだ!

ある子どもの客に対しては、

野崎くん、今日はどうするの?」「あ、こことここ切ればいいの?うん分かった。いつもお利口さんだねー

という感じである。

子ども相手なら仕方がないが、私の前に散髪してもらっていたある初老の客の場合などは、

へー櫛田さん凄いですね!」

いやいや、そんなたいしたことないよ

十分すごいですよ。初心者なのに大会 4位って!

などと、その初老の客の髪をチョキチョキしながらお愛想を言い、帰り際も「いつもありがとうございます」と、終始笑顔で接していた。

そして、私の番になると途端に顔つきも声色も変わって、ハイ次とつっけんどんな態度になるんだから、対応を変えているのは明確である。

もしかして、普段話しかけない私が悪い?

私は必要以上のことを話さないから、そういう交流が嫌いな人間なのだと思われているのかもしれない。

だからある日、私の方から話しかけてみたら、

いやーすぐ伸びてくるから、一か月に一回は散髪に来なきゃいけないよ

じゃ、長く伸ばせばいいじゃないですか

てな具合で瞬時に会話が終了した!

「長く伸ばせばいいじゃないですか」って、床屋がフツ―言うか?そんなこと?

そして、再び無言のまま散髪をやっている最中に他の客が来ると、

あ、小川さんいらっしゃい!今日は早いですね

と一転して愛想よく私などそっちのけだったから、

私がこういう交流を嫌う人間と考えて、気を遣っているのではなく、私との交流を嫌っているのだと悟った。

「じゃあ、そんな不愛想なところに行かなきゃいいじゃないか」と思われるかもしれないが、あいにく家の半径 1キロ圏内に格安床屋はなく、そんな思いをしたとしても、バカ高い散髪代を払うよりましだと、『K&Kカットクラブ』に通い続けることになった。

だが、それにも限度が来る日がやってくる。

床屋が客に絶対言ってはいけないヒトコト

その日、私は性懲りもなく『K&Kカットクラブ』へ散髪に行った。

このころには、女店主に対してもう別に他の客と同じような対応は期待しないし、散髪さえきちんとやってくれればよい、と割り切っていた。

どうせ喋っていても、あんまり楽しい奴でもなさそうだし。

「3 ミリ」

私の方も多少ぶっきらぼうに髪を刈る長さを伝え、女店主もいつもどおり、バリカンの設定をしてから無言で私の頭髪を刈り始めた。

だがいつもと違ったのは、この日は散髪をしている途中で私に話しかけてきたことだ。

相変わらず、愛想は悪く事務的な感じではあったが。

「お客さん、前から思っていたんですけど」

「はい?」

向こうから、必要なこと以外を話しかけてくるのは初めてだったが、

よりによって、以下のようなことを言ってくるとは思わなかった。

「髪の毛薄いですね」

「はい?!」

それを聞いて最初、今私がいるのは床屋で、それを言っているのも床屋であることが信じられなかった。

だがその後もグサグサくる事実をズバズバ指摘してきた。

「頭頂部が特に薄いから目立ちますね」

「…じゃあさ、目立たないようにカットしてよ…」

「無理ですね。スキンヘッドにしたらどうです?自分でもできますよ」

いつもぶっきらぼうで口数が少ないのに、この時だけは妙にハキハキしていた。

「あのさ…、フツー言う?そういうこと面と向かって?」

「ホントのこと言っただけです」

ふざけるな!

「ホントのこと」だからって、言っていいことと悪いことがあるだろう!?

重ね重ね床屋として、あるまじき言葉じゃないか!

歯医者に「口が臭い」と言われた気分である。

眼医者に「目つきが気に食わない」と言われたらどう思う!?

しかも普段話しかけても塩対応しかしないくせに、こういうムカつくことだけズバズバ言うんじゃない!!

もうウチに来なくていい、と言っているに等しい破壊力を有した暴言である。

私は終生『K&Kカットクラブ』に行かないことを決意した。

幸いなことに、ほどなくして同価格の格安床屋が近所に開業。

私は、そこに散髪に行くようになった。

そこは理容師が複数いるし、不愛想が目に付くような者もおらず、『K&Kカットクラブ』のような不愉快に見舞われたことはない。今のところは。

しかし、そうなってから、もう四年ほどになるが、あれだけ私を不愉快にした『K&Kカットクラブ』が、いまだに健在であることには納得がいかない。

「悪は不滅」というこの世の不条理が、私の近所では体現されているのだ。

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2021年 おもしろ ナルシスト 悲劇 本当のこと 無念 言ってはならぬ

“本当のこと”こそ言ってはならぬ 2 – 本当のことが引き起こす悲劇


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全編はこちら

大学時代のバイト仲間であった土屋恵一は、全くモテない田吾作顔のくせにイケメンぶるナルシスト。

カノジョがどうしても欲しいと焦る彼は、しょちゅうコンパに顔を出していたがうまくいかなかったらしく、自分で声をかけて合コンを開催するようになる。

そして、その合コンにはいつも私を誘ってくれていた。

だがその合コン、土屋が呼んだ私以外の男性参加者が明らかにキワモノぞろいであり、自分よりはるかに低いメンツを厳選していたのは見え見えである。

そして、ウケを狙うためか、そのキワモノを拙いトークと暑苦しいテンションでいじっては相手を怒らせ、その場をシラケさせたりしていた。

やがて、回を重ねるうちに、この私自身もキワモノの一人とみなされている可能性が高いことが分かってきた。

そんな第四回目の土屋恵一主催の合コンでの出来事、私は彼に関してふと気づいたことを口にした結果、彼を大激怒させてしまうことになる。

その一言は、その後二度とコンパに呼ばれなくなった結果から考えて、決して触れてはならない「本当のこと」だったようだ。

ズレまくりトーク全開

その最後となった合コンは、いつもどおりチェーン店の居酒屋で開かれた。

参加者は男三人に対して女も三人。

女性陣は左目の下に大きめの泣きボクロがある女、茶髪でボブカットの大福顔、ポニーテルのメガネっ娘であり、全員初顔。

土屋の大学のサークルのメンバーの紹介だったと記憶している。

まあ強いて言うなら可もなく不可もなく、ぶっちゃけあんまりパッとしない子たちである。

一方の男側は土屋と私以外に今回も強烈なのが連れてこられていた。

ぼさぼさ頭で小汚い格好の、明らかに何日も風呂に入っていなさそうな浮浪者級の悪臭を放つ無精男だ。

どうやって知り合ったかも知らんし、いつもながら、自分を映えさせるためとはいえやりすぎだろう。

私はこいつの隣には座りたくなかったのだが、土屋は「お前こっちね」と、さりげなく自分とそいつの間に私を座らせたために、私は至近距離で悪臭に鼻を刺激され続けることになった。

無精男は本物のホームレスなんじゃないか?と思わせるほどのレベルの男で、

あっという間に居酒屋のお通しを平らげると、私が手を付けようとしないお通しを「もらっていい?」と聞いてくる始末。

声を聴いたのはその時が最初で最後で、口臭もそれなりのものだった。

そして、次々運ばれてくるビールやら食べ物やらを、無言ですする様は昆虫のようであった。

いつもながら対面の女の子たちは楽しくなさそうで、時々漂ってくる無精男の悪臭に顔をしかめたりしている。

土屋も例のごとく、容赦ない男性陣の出席者いじりを始めたのだが、なぜかそのターゲットは無精男に比べて明らかに突っこみようがないはずの私だった。

その内容も「こいつ毎日三回オ〇ニーすんだぜ」とか「俺の知っている中で唯一、人糞の味を知る男」などと根も葉もないことで、

女性相手に、しかも飲食店ではふさわしくないことこの上ない。

土屋は口下手な上に空気が読めず、TPOを一切わきまえない奴なのだ。

「そんなわけねえだろ!」

「ホントのことじゃねえか」

「違えよ!」

確かに一日に三回もしたことがないわけではないが毎日ではないし、ウ〇コ食ったのは土屋の明らかな創作だ。

それなのに、女三人のうちの真ん中の泣きボクロなどは自分の顔を棚に上げて、性犯罪者を見るような目で私を見始めた。

反面、土屋の対面のボブカット大福は「ウ〇コってどんな味するんですか?」などと、なぜか興味しんしんだったが。

土屋は他人をいじる一方で、自分の美点を喧伝することも忘れない。

奴が自慢げに、これまでのコンパでよく語っていたのは、自分は体脂肪率が少なくて筋肉質な体つきをしていること。

これに関し、キモキャラ扱いされて不機嫌なまま酒を飲み続けていた私は、いつも思っていることがあった。

それは「筋肉質じゃなくて、単に貧弱なだけなんじゃないのか?」ということだ。

奴がいつも言っているような“ホントのこと”だったが、私はもともとずけずけ本当のことでも言わない方だし、貧弱な体格については私も似たようなものだったので、それについて指摘したことはない。

しかし、そんな自慢をしても、いつもはスルーされて盛り上がらない土屋主催の合コンだったが、この時の女の子たちは違った。

「へー、どんな感じなの?」「見たい見たい」と一転して食いついてきたのだ。

すると奴はすかさず「しょーがねえな」とか言つつ、待ってましたとばかりに、上半身を脱ぎ始めた。

勢いあまって、下半身も脱ぎかねない勢いでTシャツも脱いだ。

やがて彼が筋肉質だと思い込んでいる、薄い胸板に脂肪も薄いが筋肉も薄いうっすらと六つに分かれただけの腹筋と肋骨が目立つ、痛々しいまでの貧弱な肉体が現れ、奴は自分の体をうつむいて確認した後、「どう?」とばかりにさりげないポーズを決めた。

だが、土屋はこの時まで思わなかったようだ。

この日参加した女の子たちがいつもと違っていた点は食いつきがいい以外にもあったことを。

彼同様、言わなくてもいい「本当のこと」をズケズケと言う女たちだったのだ。

正直な女たち

「細っ!!」

「ショボ!!」

「弱そう!!」

自称「引き締まった筋肉質の体」を目の当たりにした女たちの感想は、容赦なかった。

自信満々で披露した土屋の表情がこわばる。

だが、彼女たちの口撃はまだまだ続く。

ポニーテールメガネは「なんかソマリア難民かアウシュビッツの囚人みたい」などと笑い、

ボブカット大福などは「私なら勝てる」と挑戦的である。

三人とも酒を飲んでおり、その勢いもあって言いたい放題だ。

土屋はプライドを木っ端みじんにされたらしく、ややムッとした表情を浮かべたが、

「アツ子、柔道初段だもんねー」という泣きボクロの一言で顔をひきつらせる。

どうりでアツ子ことボブカット大福は、体の横幅がやたら広いわけだ。

こいつだけは怒らせてはダメだ。私も気を付けよう。

「こいつは、もっと貧弱なんだぜー」

と、土屋は私を指さして嘲笑の矛先を自分からそらせようと苦しい試みをしたが、

「ハイハイ分かったから、早く服着て」と、軽くあしらわれていた。

ホント、どこまでもみっともない奴だ。

その後、強引に何ごともなかったかのように話題を変えた土屋と酔いが回り始めた女の子たちとの間で徐々に会話が盛り上がり始めたが、さっきのこともあって主導権を女側に握られたらしい。

土屋の狙いとは違う形で盛り上がり始めた。

それは

「土屋くんってピアス似合わないね」

とか、

「今日の土屋くんの服って何のコスプレ?演歌歌手みたい」

とか、

「ねえ、もしかして自分のことカッコいいと思ってる?」

とかの嫌らしい指摘であり、大笑いしているのは女たちばかりで、土屋は笑みを引きつらせて、だんだん口数が減り始めている。

そろいもそろって口が悪い上に、結構弁が立つ女の子たちだったから、余計なことを言うとこちらもコテンパンにされそうなので私は黙って聞いていたのだが、ええかっこしいの土屋が追い込まれつつある姿は面白い。

一方の無精男はさっきから一言も発っすることなく、時々漂ってくる悪臭だけで存在を主張、また何か注文するらしく、メニューを見ている。

やがて、話題は今付き合っている相手がいるのかいないか、という合コンの核心部分に入ってきた。

そこでわかったのは、泣きボクロとポニーテールメガネはいないようだが、意外なことにボブカット大福アツ子は、現在付き合っている彼氏がいるらしい。

私にも話が振られたので「いるように見えんだろう」と答えといた。

私はええかっこしいではないからな。

だが、「こいつ、いたことねーんだよ」という土屋による横からのツッコミにはカチンと来た。

言わなくていい「ホントのこと」ばっか言うんじゃない。お前だってだろ!

何度も言うが、私は物事をずけずけ言う方ではないから、そういう奴は許しがたいと思っている。

言い訳しても仕方ないが、この時自分のことを棚に上げて言いたい放題の土屋に頭に来ていた上に、酒が入っていた。

土屋を完全に怒らせ、以降連絡を絶たれることになる一言を吐くことになるのは、ほどなくしてこの後である。

ナルシスト殺しのヒトコト

「俺もカノジョ欲しーなー」

ボブカット大福アツ子に彼氏がいるという話を聞くと、土屋は誰にとはなしにそう言い始めた。

奴のこの「俺もカノジョ欲しーなー」という何気なさを装った一言なんだが、これまでの合コンやそれ以外の女子同席の飲み会ではいつも聞いている。

それも何度も言っているし、今回の合コンでもこれが一回目ではない。

「土屋くん、カノジョいないんだ」

「今はいない

「今はいない」が、「ずっといない」者の常套句なのは、世の定説だ。

事実、奴とつるむようになって一年近くになっていたが、その間にカノジョがいたように見えたことはない。

「へー、いつからいないの?」

「え、えーと二か月。あ、いや三か月くらいかな」

それを聞いた直後だった。

別に悪気はなかったと今から言ってもしょうがないが、それらの会話を聞いていて何気なく思ったことを口に出してしまったのだ。

「お前、三か月前も同じこと言ってたぞ」

「いやっ!違っ!!だからその…」と、土屋は事実なので狼狽し始めたのがわかったが、一度口に出したらこちらも止まらない。

「それと前から“俺もカノジョほしーなー”ってよく言ってるけどさ、そんなこと言ったら誰かがカノジョになってくれると期待してねえか?」

続けて言ってしまったこの言葉は、奴にとって決定的だったらしい。

「そんな意味で言ってたんじゃねえ!!!」

奴は他の客が談笑をやめてこちらを振り返り、店内が静かになるくらいの大声を出した。

女たちはびっくりしたような顔をして、無精男もポカンとこちらを見る。

「他のお客さんに迷惑です」と店員も割って入ってきた。

だが、「みっともないよ。土屋くん」と柔道初段のアツ子に低い声ですごまれると、貧弱な土屋は一転して小さい声を震わせながら「だから、そう意味で言ってたわけじゃなくてさー」などと言い訳をし始めた。

さっきの怒り方から判断して「本当のこと」だったらしい。

それも、絶対触れてはならない。

その後気を取り直してまた飲み始めた我々だったが、大声を出されて場がシラケたと女の子たちからは非難ごうごうだった。

「図星だからって、あんな大声出すことないじゃん」

「いや、図星って…、違うよ」

「私も同じこと思ってた。だいだい“カノジョ欲しーなー”って、何か下心ミエミエだし

土屋は「いやいや、それはこいつがさ」とかまた私をダシにして言い訳を試みたりしていたが、完全に悪者にされてばつが悪いことこの上なさそうだったのは言うまでもない。

奴にとってはさんざんになってしまった今回の合コンだが、お開きになって会計になった時にもまたモメた。

土屋はいつもどおり全員割り勘にしようとしたら、ポニーテールメガネと泣きボクロが「女から金とるの!?」と不当なクレームをつけてきたのだ。

押し問答の末に「そんなに大金持ってきてない」と土屋が泣きを入れた結果、

女が2000円づつ、男は4000円づつ払うことで妥協した。

支払い能力が最も問題視された無精男の方は意外と金を持っており、4000円を何も言わずポンと出したが。

「クソ女ども!二度とツラ見たくねえ!」

女たちと無精男が相次いで去ると、土屋は呪いの言葉を吐き続け、その矛先は私にも向いて再び怒鳴った。

「何なんだよ、さっきのは!!言っていいことと悪いことがあるだろうが!!」

そんなことをヌカしやがるから、私も奴のいつものセリフを言ってやった。

「ホントのこと言っただけじゃねーか」

その日以降、土屋から合コンに誘われなくなったのは前に述べたとおりである。

バイト先でも口を利かなくなって付き合いが断絶、私がそこを辞めてからは一度も会っていない。

全くどうしようもない奴だった。

付き合いをあれ以上続ける必要もなかったであろう。

ただ、私は奴との一件で思うようになったことがある。

どうもヒトは根も葉もない誹謗中傷より、認めたくない「本当のこと」を言われる方が嫌なのではないか?ということだ。

その「本当のこと」が直さなければならない、又は直すべき間違いであるならば、たとえ怒られたとしても、言うべきかもしれないが、

改善しようがなく、また指摘する必要のない「本当のこと」ならば言ってはならないはずだ

土屋は、間違いなく言う必要のない「本当のこと」を吐く者だったが、

だからと言って、私も言わなくてもいいことを言うべきではなかった、と反省すべきだったんだろうか?

別に構わんだろう、相手が相手だったし。

本当のことを言ってはいけない (角川新書)

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「ホントのこと言っただけじゃねーか!」

ムカつくことや気にしていることを言われて腹が立ち、言った相手に怒ったら、そう言い返されたことはないだろうか?

逆もあるだろう。

こちらが思っていることを、親切心或いは何気なく言ったら、相手がそうやってキレてきたことが。

もう、お分かりだろう。

「本当のこと」こそ禁句であって、一番言ってはならないことなのだ。

人間は本当のことを言われるのが一番嫌なのである。

相手が完全に間違っていて修正すべき「本当のこと」なら指摘するのは必要かもしれないが、本当のことだから言ってもいいのだと、言わなくてもいい「本当のこと」をずけずけと胸を張って指摘してはいけない。

例えば久しぶりに会った友達の頭部を見て「お前の頭、薄くなってるぞ」とか、幼い子の可愛らしさの自慢をする親に「お宅のお嬢さん、何回も見たいほど可愛くないですよ」とか、本当のことだとしても、言うべきじゃあないだろう?

かく言う私も、そういう悪意ある「本当のこと」を言われてカチンときたことが何回もあるし、逆に言ってしまって、怒られたことも多々ある。

そんな中で、絶交に至ってしまった一件もあるのだが、この件に関して私が悪いのか相手が悪いのか、どちらにもとれると自分では思うので、本稿ではそれを取り上げようと思う。

土屋恵一のコンパ

大学時代にバイトで知り合った他の学校の知人に土屋恵一という男がいたが、「本当のこと」を本当ではない場合にもよく言っていた。

あんまりパッとしない容貌な上にそんな性格だからか、彼は女に非常にモテない男で彼女はおらず、しょっちゅう合コンに参加したりしていたが、いつもうまくいかなかったようだ。

だが、彼はめげずにファッションには常に気を配り、合コンに参加し続けるだけではなく、自ら開いたりもしていたから己を知らな…いや、努力家である。

そして彼はその自ら主宰する合コンには必ず私を誘ってくれていた。

女日照りの彼が、相手側の女の子たちをどういうネットワークで見つけてくるのか分からなかったが、モテない彼に呼ばれて来るくらいだから、そのレベルも推して知るべしである。

要するにブ…いや、地味な子が多かった。

だが問題なのは、こちらの男性陣である。

面と向かって「本当のこと」は言いたくないが、20年くらい昔のことだし、文章だからぶっちゃけ言わせてもらう。

土屋と私以外に呼ばれた男たちが、毎回想像を絶するメンツだったのだ。

  • 対人恐怖症クラスにモジモジしてうつむきっぱなしの超陰キャ青年
  • 我々と歳は変わらんくらいだが、頭髪が四十路男性レベルに後退した気の毒な大学生はまだましな方
  • 体重200キロくらいありそうな超肥満児
  • 近い先祖に、地球外生命体がいるのでは?と思える容貌の宇宙人男
  • 明らかに、一週間近く同じ格好でホームレス一歩手前の悪臭を放つ無精男
  • 小学生かと見まごうばかりの身長で、ポンキッキの赤い方のような顔した小男

などなど、どこで見つけてきたのか逆に感心するくらいの怪物ぞろいだったのだ。

女性陣はあまり容貌がパッとしない程度で、一応女としてカウントできたが、男性陣は、見世物小屋たるフリークショーの陣容を呈しており、

男三人とか四人とか整数の人数としてカウント不可の小数点第二位か、下手すりゃ負の数あるいは虚数ですらあった。

ヒトは見かけじゃないって言うが、限度ってもんがあるだろう。

相手の女の子たちが、ドン引きして口数が少なくなったのは言うまでもなく、コンパというよりも、たから見たら何かをしでかした後の気まずい反省会か通夜の席だった。

もちろん、土屋自身も含めてカップルが誕生する気配もなく、一回参加した女の子は、次から来なかった。

土屋のゲスイたくらみ

そんな女の子側にとって、ハメられたとしか思えないコンパを盛り上げようとしていたのは、主催者たる土屋である。

だが、それがいけない。

なぜなら、土屋はトークが下手くそだったからだ。

しかも、延々しゃべるしゃべる。

口ベタによる延々続くマシンガントークほど、聞かされる側にとってイラつくものはなく、しかも真っ先に話す内容が、男性陣の出席者いじりである。

確かに、ツッコミどころ満載の見かけをしている者ばかりだったが、自分が連れてきといて、そりゃないだろう。

おまけに、ウケを狙っているつもりのようだが、口ベタなぶん容赦なさすぎるように聞こえて笑えない。

出席者の一人である若ハゲ大学生は、頭部を気にして帽子をかぶったままだったのだが、その理由を女の子の前でバラされて「もう二度と行かないからな!」とご立腹だったし、

体重200キロ男は、「ボクサーみたくバキバキの体型になるより、こんだけブヨブヨになる方が難しいぞ」と同じくコケにされてブチ切れ、土屋の胸倉をつかんで一同を凍り付かせていた。

そんな時土屋は、「ホントのこと言っただけだろ?」と悪びれもせず言い訳するのだった。

それともう一つ。

どうも土屋に対して、鼻もちがならないことがあって、それは奴自身が露骨にイケメンぶるところである。

なんかしぐさとかしゃべり方とか、私としゃべっている時と明らかに違う。

ホスト気取りっていうか、ええかっこしいで、勘違いしていること甚だしい。

容貌が眉なしの田吾作ヅラなぶん、余計に目立つ。

奴が一度トイレに立った時、女の子同士が「カッコつけすぎなんだよアイツ」とボソボソ話し合っていたのが聞こえたこともあったから、女目線でもそうであることが裏付けられた。

私も女の子も、それはさすが「本当のこと」でも、奴と違って面と向かって言えなかったが。

男の出席者をキワモノぞろいにしてるのも、自分を際立たせるためなんじゃないのか?

あいつ自身、大したことないないのに…。

私がようやくそう思うようになったのは奴主催のコンパに呼ばれて四回目くらいの時だった。

また、もう一つ肝心なことにその時ようやく気付いた。

それは、

私自身も土屋を引き立たせるための怪物要員なのではないか

ということだ。

そして私はその席で、ある「本当のこと」を言ってナルシストの土屋を成敗してしまったことにより、彼主催の合コンに呼ばれることはなくなるのである。

つづく

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後 2


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資産ゼロ・無年金で東南アジア某国の現地妻の実家に転がり込んだ東野氏。

ほぼ無一文だったからか、着いて早々過酷な現実に直面したらしく、日本にいたころ働いていた職場での知り合いや知り合いではない人にまで、金の無心の電話をかけまくっていたが、現実が過酷なのはこちら日本でも同じだった。

頼んだ相手も金欠か薄情だったし、本人の職場での素行と電話での頼み方も災いして金を融通してくれる聖人は少なく、ほどなくして連絡が途絶えた。

働いていた運送会社で「死亡説」が流れ始め、一か月ほど経過して誰も話題にもしなくなったころ、単身現地へ行って東野氏の安否を確かめようという勇者が現れた。

会社の契約社員の柴田馨である。

元バックパッカーの柴田

柴田は、当時の私よりちょっと年下の30代前半で、元バックパッカーだ。

契約社員になる前は、アルバイトでためた金を使って主に東南アジア方面を放浪していたし、契約社員になってからも、年に数回海外へ行っている。

東野が旅立った某国にも何度か行っており、それが縁で、東野とも付き合いが深かった。

アルバイトだった頃には、彼が転がり込んだ妻の実家へも一緒に行って、何泊かしたことがある。

それだけ付き合いがあったんだから、東野にも金を貸しただろうし、一番心配しているのかと思いきや、「こっちも金がない」とか言って一銭も貸していないらしい。

それについて「なんで俺が貸さなきゃいけねーわけ?」と、こともなげに言っていたから薄情な男である。

そんな柴田が東野を訪ねる気になったのは、有給を使って某国に旅行するつもりだったからであり、ついでにどうしているか見てこようと思ったからだという。

金を貸してやらなかったくせに会いに行こうとは、頭も情も軽いのと同時に、強心臓の持ち主でもある。

東野がキリギリスだったら、この男はさしずめゴキブリだろうというのは言い過ぎだろうか?

いや、両人ともどちらも兼ねているのだろう。

とはいえ、柴田もさすがに、何の連絡もせずに訪問するほど無神経ではなかったらしく、東野からかかってきていた番号に、何度か電話していたようだ。

しかし、くだんの金の無心電話がピタリと止んで以降、電話に出ることも折り返しも一切なかったという。

「ちょっとただゴトじゃねえぞ、こりゃ」

出発前の職場で話した時は、そう言いつつ口元はニヤついており、怖いモノ見たさ満々の様子だった。

だが、本当に怖い思いをすることになるとは、この時彼も気づいていなかった。

東野の妻の実家にて

東野の妻の実家は某国の首都の近郊ではあるが、やや辺鄙な半農村半住宅地といった感じの場所にある。

柴田は一度しか行ったことはないが、その場所をよく覚えていた。

また、「俺がいるときに訪ねて来いよ」と東野から住所の写しももらっていたから、某国に到着した柴田はホテルにチェックインした後、すぐにタクシーでその家に向かったようだ。

家のイメージ

いかにも東南アジアの民家といった感じの、さほどボロくもこぎれいでもない二階建ての家である。

柴田が東野と一緒に訪れて泊まった当時、その家は、奥さんとその両親、兄弟の他に結婚した兄の一家が暮らす大所帯であったようだ。

奥さんは東野よりだいぶ年下だが、当時からそんなに若くはなく、もう30代後半くらいになっているはずの中年女性。

にこやかな笑みを浮かべて食事の準備やらなにやら、柴田と家の主人気取りでふんぞり返っていた東野に、かいがいしく尽くしてくれていた印象がある。

彼女は日本で働いた経験があったらしく、片言の日本語を話した。

柴田がタクシーを降りてその家に着くと、以前訪れた時と変わらぬたたずまいであった。

(さて東野さんはどうしているのやら)

何の連絡もできずいきなり訪ねる形になってしまったが、東野はむろんのこと、奥さんもこの家の人間も自分のことは覚えてくれているから大丈夫だろうと思っていた。

家の入口は開けっ放しだったので、中に誰かいるだろうかとのぞき込もうとした時、道の向こうから見覚えのある女性がこちらにやって来るのが目に入った。

あれは間違いない、東野の奥さんだ。

「オー、久しぶり!」

柴田は、現地の言葉は一切分からないので、日本語で声をかけた。

奥さんは、日本語が分かるはずだから問題ないだろうと。

だが、彼女は明らかに柴田の姿を認めた感じだったが、何の返答もなく、無表情のまま家の入口に向かおうとした。

東野と一緒に泊まった時に、いつも見せてくれてたような笑顔は一切見せない。

「おいおい、俺だよ。柴田だよ。忘れたの?」

柴田はめげずに日本語で訊ねたが、奥さんは知らないとでもいうように、無言で手を振ってプイっとそっぽを向いた。

完全に「あんた誰?」どころか「アッチ行け」扱いである。

どういうことだ?

その冷たい態度の意味が解らなかったが、それよりも、ここに来た目的は東野の消息だ。

「ねえ、東野さんいる?ここに来たでしょ?」

本題を聞かせると奥さんはこちらを見て、相変わらずにこりともせずに語気鋭く言った。

「イナイ!」

「え?でも、こっち来たって言ってたよ?」

「キテナイ!」

「ねえ、どこ行ったの?」

「シラナイ!!」

柴田はしつこく食い下がって東野の行方を尋ねたが、彼女は「イナイ」「キテナイ」「シラナイ」の三つを繰り返すばかりで取り合ってくれず、家の中に入ると、ドアをぴしゃりと閉めてしまった。

ノックしてみても、中からは相変わらず三つの「ナイ」が繰り返されるばかり。

どういうことだ?

ここには、そもそも来てないのか?それとも、やっぱり追い出されたのか?

奥さんの豹変した態度には釈然としなかったが、もうここにはいないと考えてよさそうだった。

まあいい、もう帰るか。

もともとそこまで東野のことを心配していないし、面白半分だったから長居するつもりはなく、タクシーの運ちゃんには片言の英語と筆談で、一時間後にまた来てくれと頼んでおいた。

まだ時間はあるが、運ちゃんとの待ち合わせ場所まで行こうと思ったところ、近くの木陰に座り込んで、こちらを見ている少年たちが目に入った。

小学生くらいか中学生くらいか分からん微妙な年恰好の者たちだったが、一連の様子を見ていたらしく、ニヤニヤ笑っている。

こいつら何か知ってるかな?

知ってるわけないかもしれないが、どうせ暇つぶしだ。聞いてみよう。

そう思って彼らに近づいた柴田は、帰国後、この某国に二度と足を踏み入れる気がなくなったほどの衝撃を、その後に受けることになる。

垣間見えた真相

子供達イメージ

聞いてみるといっても、柴田はこの国の言葉は分からないし、英語も片言以下、小僧たちだって日本語が分かるはずがないし、英語も期待できそうにない。

柴田はそういう時のために、海外へはいつもスケッチブックを持参し、図や絵を描いて相手に見せることによって、意思疎通を図ってきた。

「ハロー」

そう挨拶して、東南アジアの人間らしく一見屈託ない笑顔を見せる少年たちに近づいた柴田は、毎回海外でやっているように、取り出したスケッチブックに東野の似顔絵を描きだした。

名前を言ってもわからないだろうから、似顔絵を見せれば、何とかなると思ったのだ。

幸いなことに、東野は小太りでメガネをかけて側頭部だけを残したつるっぱげ、という特徴的で描きやすい容貌をしていたから、絵心の特にない柴田でも簡単だった。

しかもそんな容貌は、この東南アジアの片田舎ではあまりお目にかからないから、分かりやすいだろう。

「この人、知ってる?」と、ササっと描いた似顔絵を見せて、日本語で訊ねる。

似顔絵

少年たちが、その絵に顔を近づけて見たとたんだった。

一同から大爆笑が起こったのだ。

もうおかしくて仕方がないという感じで、笑い転げる者もいる。

ナニナニ?そんなに俺の絵ウケた?

一瞬そう思ったが、彼らは柴田の意図を理解していたらしい。

笑いながらその絵を指さした後、奥さんの家を指さした。

どうやら柴田の似顔絵の人物を知っており、あの家に“いる”か“いた”かを知らせてくれているようだ。

「まだ、いるのか?」

と聞こうと思ったら、少年たちの一人が笑いながら、柴田の描いた東野の絵の方を指さした後、頭を抱えてうずくまると、叫び始めた。

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」

次に一番背の高いガキが家の方を指さしてから、履いていたサンダルを脱いで、うずくまったガキの頭を連打するようなそぶりを見せ、

もう一人は蹴りを入れたり、ゲンコツをかますマネを始める。

現地語で罵るような口調を交えて、笑いながらだ。

え?ナニそれ?意味分から…、イヤ!待てよ!?

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」→「止めてくれー止めてくれー!痛た!痛た!」じゃないのか?

これって、東野さんはつまり…。

凍り付いた柴田だったが、すぐさまより凍り付くことになる。

頭を抱えてうずくまっていたガキが自分の首を両手で絞めると、舌を出して「エ、エ、エ、エ」と声を出し苦しむ顔をし始め、やがて「ガクッ」とこと切れた演技をしたのだ。

まさか!!!

そしてとどめとして、

先ほどのサンダルのガキが、やや遠くのジャングルを指さして、手を枕に眠るようなしぐさをしたではないか!

それらの演技の間も、他のガキどもは終始笑い転げていた。

何があったか分かりすぎる!これが本当なら相当ヤバイ。

相変わらず笑みを浮かべるガキどもの笑顔が、この上なく邪悪に見えてきた。

ここにいてはまずい!早く帰ろう!!

逃避行

「〇×▽〇××◇!!!」

柴田が少年たちに別れを告げて退散しようとした時、いきなり少年たちの後方から、甲高い現地語の怒声が響いてきた。

東野の奥さんが怒りの表情で家から出てきて、少年たちに詰め寄ってきたのだ。

同じく中年男性と20代くらいの男も後に続いていた。

若い方は知らないが、中年男は、たしか奥さんの兄弟か何かだ。

余計なことしゃべるなとでも言っているのだろうか?柴田の方を指さしたりして少年たちを怒鳴りつけ、突き飛ばし始める。

少年たちもおばさんが相手だから、笑いながら何か言い返していたが、中年男が大声で怒鳴り、若い男がこぶしを振り上げて殴るマネをすると一斉に逃げ散った。

ガキどもを蹴散らすと、今度は柴田に矛先を向け始めた。

「アナタ、ナゼいる!?ナンでキク!?ワタシ、シラナイいった!!」

奥さんは接続詞と助詞を省いた日本語をまくし立て、阿修羅の剣幕だ。

彼女も怖いが、よりやばいのは後ろの男たちだ。

奥さんと一緒に臨戦態勢で、こちらに近寄って来るではないか!

奥さんは歩み寄りながら「アナタ、ばか!ワタシいった!アナタ、ワルイよ!!」と罵り続ける。

「分かってるよ分かってるよ、もう帰るから!帰るから!!」

そう言って後、ずさりする柴田に対して彼女が言い放った言葉は、いままで生きてきた中で最もゾッとする一言となり、今も耳に残っていると、後に語ることになる。

「アナタ、カエれない」

その言葉が何を意味するか、この状況では、分かりすぎるほど分かった。

柴田は脱兎のごとく、その場からの逃走を図った。

走り出すと、後ろから男二人が大声を出して追いかけてくる気配を感じた。

ヤバイヤバイ!捕まったら終わりだ!!

生きるために、ありったけの力で走り続ける。

幸いだったのは、柴田は荷物をホテルに置いて手ぶらで来ていたことと、スニーカーを履いていたことで、なおかつ、彼は100メートルを11秒台で走れる比較的俊足の持ち主だったこと。

一方の奥さん側は全員サンダルだったので、どうしても走るのが遅くなったことである。

さらに幸運なことに、とりあえず逃げた先はタクシーとの待ち合わせ場所だったのだが、約束の時間よりだいぶ早いにもかかわらずそのタクシーが待っていてくれたことだ。

運転手は中で居眠りしていたが。

必死の柴田は運転手を「ウェイクアップ!ウェイクアップ!ゴーゴー!!」とたたき起こして急いで出発させた時、彼らの姿は見えなくなっていた。

あきらめたらしい、助かったと、この時は思った。

だが、違ったようだ。

ホテルに向かって走り出したタクシーの中で、まだ震えが止まらないながらもほっとしていた柴田は、後方からしつこく鳴らされるクラクションが気になった。

そのクラクションはどうやらバイクのものらしく、だんだん近づいてきている。

「うるせえな」と思って、窓の外を見た彼は仰天した。

何と奥さんたち三人が、ホンダの『スーパーカブ』に乗って追いかけてきたのだ!

足で追いつけないと分かるや、賢明にもバイクを使った追跡に切り替えたらしい。

中年男が運転し、後ろに奥さん、若い男の順番で三人乗りしており、

奥さんの手にはトンカチ、若い男の手には長い棒が握られ(それを何に使う気だ!?)、クラクションを鳴らしながら、何ごとかわめいている。

これにはさすがに、タクシーの運ちゃんもただならぬ事態を把握したらしく、柴田に言われるまでもなくスピードを上げてくれた。

50ccのスーパーカブでは追いつけるはずもなく、タクシーはぐんぐん彼らを引き離して、やがて街中に到達。柴田は生還することに成功した。

もっとも、ホテル到着後にタクシーの運ちゃんは、危ないところを助けてやったからと恩着せがましく運賃100ドルを請求し、柴田も泣く泣く支払うことになったのだが。

彼は東野と自分が遭遇した一件を警察に訴えようとも思ったが、某国の警察は当てにならないだろうから、敢えてしなかった。

第一あれ以降、怖くて街に出る気もなくなってしまい、近くに食事に行く以外は、三泊四日の某国滞在はほぼホテル内だったのだ。

いつもなら、あっという間に終わって名残惜しく日本に帰国していたが、この時は本当に長く感じ、出国して飛行機が離陸した際はほっとしたという。

帰国後

「とんでもねえ目に遭った。もう、あそこには行きたくねえよ」

帰国した柴田はそれらの話を職場でした時、顔をこわばらせていつものヘラヘラ顔を一切見せなかった。

経済発展著しいと日本で報道される某国だったが、あんなことがまかりとおっているとは、発展途上国どころか20世紀すら迎えていないとまで話していた。

以上の話が実話なら、実にゾッとする。

柴田はホラ吹きなところがあって、話を十倍にも二十倍にもする癖があったが、帰国して以降、私がその会社を辞めるまでの六年の間に、あれほど好きだった東南アジア旅行に一回も行かなかったんだから、ほぼ事実なんだろう。

そして、東野から永久に金の無心の電話が来ないのも、会えなくなったのも確実なようだ。

彼は移住前、「俺はあの国の土になる」と周囲に言っていたというが、それは予想より、かなり早く実現してしまったらしい。

我々のうち誰かが助けてやってたら、こうはならなかったんでは?

いや、時間の問題だった。誰も悪くない。

でも、でも…。

そういった葛藤を、私以外にも多少は抱えていた者が多かったのかもしれない。

その後、あの会社において東野を知っている人間の中で、彼のことを思い出して話題にした者は、私の記憶のかぎりではいなかったのだから。

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)

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