カテゴリー
2023年 不良 事件 平成 悲劇 本当のこと 江ノ島 無念

正義感が引き起こした悲劇:1989年、片瀬江ノ島駅前暴走事件


にほんブログ村

かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 オラオラ系 カツアゲ ならず者 本当のこと 横浜

2000年の暴力ブティック:ヨコハマソウルシティの真実

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

「万引き」「金無し」「見るだけ」「ひやかし」

上記の方は、入店を固くお断りします。

今から二十年以上前、横浜市元町に以上のような注意書きを記した紙を入口に貼って、営業していた店が実在した。

その名は、ヨコハマソウルシティ

そりゃあ、買う気もないのに店に来て何も買わずに帰っていく奴は、店の側からしたら好ましくないのは理解できるが、こうもはっきり書かれると、感じがバチクソ悪い。

たいていの人は、かように不遜な注意書きを見せられたら、入る気は失せるだろう。

だが、中には「そんなバカな」と高をくくるか見落として入ってしまい、「万引き」はともかく「見るだけ」で帰ってしまおうとする人もいた。

そして、そういった不注意な人々は、ヨコハマソウルシティが一般常識の通じる店ではないことを思い知り、同店どころか元町に行く気が終生起きなくなるくらいの思いをさせられることになった。

なぜなら、このヨコハマソウルシティは、暴力バーのブティック版、「暴力ブティック」だったからだ。

冷やかし客への過酷な仕置き

2000年11月17日、横浜の元町ショッピングストリートを訪れた村上園美(仮名・26歳)は、一軒のブティックに入った。

その店の入り口には、店名である「ヨコハマソウルシティ」のアルファベット表記の下に注意書きらしき貼り紙が貼られていたが、彼女の目は、ガラス越しの店内にある商品にあったようだ。

だからと言って、お目当てのモノがあったわけではない。

とにかく、これは、と思えるようなモノがあれば買おうというノリであり、なければ次の店に行けばよい。

ひととおり見て回って、なかなかいい感じと思えるコートを見つけた。

一応手に取って他のモノを物色するが、この店にはなさそうだ。

このコートも最初はいい感じだと思ったが、やっぱり買うのはやめとこう。

「試着してみますか?」

店主と思しき中年の男が話しかけてきた。

「すいません。やめときます」

悪いけど買う気はない。

元の場所に戻して次の店に行こう、と思っていたから、サバサバした感じで断った。

しかし、その店主の男の態度が次の瞬間に急変する。

「あ?試着しねえだと!?どういうことだ!オイ!」

いきなり怒声を張り上げ、園美を罵倒し始めたのだ。

え?何で何で?どうしてこんなこと言ってくるの?

まさか、店の人間からこんな態度を取られるとは予想だにしていなかった園美は凍り付いた。

「あ、いや、えっと…あんまり好みじゃなかったから…」

「表の貼り紙に書いてあんだろ!買う気がねえのに入ってくるたあ、ナメてんのか!?コラ!!」

「ごめんなさい」

大の男に大声で罵声を浴びせられ、園美はショックのあまり頭が真っ白になっていたが、この男が純粋にこの店の商品を買わないことにキレていることは分かった。

「じゃあ、これください…」

園美は一番安い小物を買って許してもらおうとしたが、男の怒りは収まらない。

「そんなもんで、お茶濁してんじゃねえ!てめえがさっきべたべた触ったコート買えよ!」

「いくらですか…?」

「42000円だよ!」

「そんなお金持ってません…」

男は、より激高した。

「金も持ってねえのにウチの店入りやがったのか!!土下座しろ!!ボケえ!!!」

「え…」

「しろっつってんだろ!!オラあ!!!」

あまりの剣幕に、すっかりおびえ切っていた園美は、へたり込むように土下座した。

ばかりか、男は店内でタバコを吸い始め、彼女をなじりながら吸い殻を投げつけることまでした。

園美は所持金3000円を取り上げられ、次の一週間後に残金を支払うことを約束させられた後でやっと解放されたが、この世のものとは思えないほどの言葉の暴力を加えられて、ズタボロにされた彼女は悔し泣きをしながら、その足で交番に駆け込んだ。

土下座の強制は、刑法的には義務のないことを命令したりする行為、強要罪であるから、立派な犯罪に当たる。

園美は被害届を神奈川県警加賀町署に提出し、同署は12月7日店主である石黒成(本名・38歳)を恐喝の疑いで逮捕した。

六年間のさばり続けたヨコハマソウルシティ

ヨコハマソウルシティは、事件の六年前の1995年に開店した当初から、何かと問題を起こしてきた店だったようだ。

商品を買わなかったばっかりに、園美のように土下座させられたり、肩を突き飛ばされたり、買うまで入口に施錠されて出してもらえなかったりしたなどの苦情が、元町の商店会や交番に数多く寄せられていたのである。

商店会は、たびたび改善を申し入れていたのだが、石黒は「これがうちの営業方針だ」と言い張って、聞く耳を持たなかったという。

また、被害にあうのは冷やかし客だけではない。

事件の起こる二か月前の9月には、店舗の前に配送のトラックを停めた男性に「店の前の道路もオレのもんなんだよ」とか「オレの店は1時間1万円売る店だから1万円分買え」などと、Tシャツ3枚を無理やり買わせて、1万1000円を恐喝していたのだ。

ちなみに、その店の前の道は市道であり、トラックが停まっていた時間に店のシャッターは閉まっていた。

こういうことが重なって石黒はとうとう逮捕されたが、取り調べにあたった警官によると、この男は人格的に大いに問題があったらしい。

彼は、事情聴取を受けている際にたびたび激高して大声を張り上げて、反抗的な態度を取ったかと思えば、ほどなくして、人が変わったように猫なで声を出すなど、感情の起伏が激しすぎる面が目立ったという。

何らかの人格障害があったと思われる。

ヨコハマソウルシティは店主が逮捕された後、残った女性の店員が営業を継続。

しかし、この店員もかなりの強者で、あるテレビ局が取材したところ、

「うちは、こういう方針でやっていますから」と悪びれもせずに言い放ったという。

もっとも全国的に、この店の危険性が知られた以上、営業を継続することは困難だったようで、翌年2001年の春には同店は閉店。

同年9月、恐喝、暴行罪に問われた石黒には、横浜地裁により懲役2年6月、執行猶予5年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。

出典元―朝日新聞、日刊スポーツ

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 ならず者 不良 事件 事件簿 小牧 悲劇 本当のこと

1997年、小牧市の悲劇:日系ブラジル人少年の集団暴行殺人


にほんブログ村

1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

posted with カエレバ

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 事件 昭和 本当のこと 浦和

おぞましき闘争:1977年・浦和車両放火事件の真実


にほんブログ村

日本国内での共産主義革命を目指して暴力的な闘争を展開する集団である過激派、警察が言うところの極左暴力集団は、昭和三十年代初頭(1950年代後半)ごろから、日本共産党から除名、もしくは離党した者たちを中心に結成された。

彼らは、学生運動が盛んだった1960年代から70年代にかけて、鉄パイプや火炎びんを用いた危険な街頭闘争を行う他、基地、皇室及び成田空港建設等に反対し、市民の安全を脅かすような手製爆弾やロケット砲を打ち込む「ゲリラ」事件を頻発させてきた。

だが、このゆがんだ理想に燃える集団は一枚岩ではなく、成立の過程や路線の違いによって分裂や結成を繰り返して多数のセクトが存在し、主なもので革マル派(正式名称:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)、中核派(正式名称:革命的共産主義者同盟全国委員会)、革労協(正式名称:革命的労働者協会)がある。

そして、それらの組織は共産主義という白昼夢を常に見ている者たちのご多分に漏れず結成当初から互いに敵対しており、内ゲバと呼ばれる抗争を繰り返した。

時には電車内で合戦

当初は集団で旗竿、角材等を使用して殴り合うという正々堂々としたものだったが、次第に相手方の活動家の住所や行動パターンを入念に調査して、自宅や路上において一人でいるところを集団で襲うという平成の某半グレ組織のようなスタイルが主流になる。

使うのは鉄パイプやアイスピック、ハンマー、斧などの凶器。

もちろん目的は半殺し、「半分殺す」ではなく「半永久的に殺す」の略である。

襲われた者は死ぬか、一命を取り留めたとしても、身体に重い障害が残るまで滅多打ちにされた。

襲撃で壊されたアジト

やった方は「反革命分子生命に革命的ピリオドをうった」などと誇らしく犯行声明を出すし、やられた者が属する組織は「白色テロ部隊を総殲滅せよ!」とか宣言して、同じような報復を行うという泥沼の復讐合戦が、1970年代中盤には各過激派間で繰り返されるようになる。

彼らは本来の社会を変えるための運動ではなく、もはや同床異夢の組織への攻撃に力を注ぐようになっていったのだ。

そんな陰惨な事件がいったん沈静化し始めていた昭和52年(1977年)2月11日、茨城県取手市の路上で、主要な過激派組織の一つである革労協の書記長・笠原正義(別名:中原一)が、鉄パイプを持った集団に襲われて撲殺される事件が起きた。

笠原を殺したのは、同じくメジャーな過激派である革マル派。

これまで、革労協と内ゲバ殺人などの抗争を繰り広げてきた敵対組織である。

革マル派にとっては、抗争相手の主要幹部のタマを取った大戦果であり、同派は自分たちが発行する2月21日付の機関紙「解放」で、事実上の犯行声明を出して誇らしげに喧伝した。

だが、革労協もやられっぱなしではない。

直ちに報復を公言し、より陰険で残忍な倍返しを計画・準備していた。

1977年4月15日埼玉県浦和市

革労協書記長・笠原正義が殺されてから約二か月後の4月15日夜に事件は起こる。

同日午後9時5分、埼玉県戸田市の印刷工場「こだま印刷」から、一台の異様な外観をしたワゴン車が発進した。

その車は、フロントガラスの部分を鉄板や金網で囲んで、他組織の攻撃に耐えうるように魔改造された革マル派の自家製装甲ワゴン車である。

このころは、どの組織も集団行動を行うなど襲撃に備えるようになっていたようだ。

「こだま印刷」は革マル派の息のかかった印刷工場で、同派の機関紙「解放」を印刷しているからカタギの会社ではなく、笠原が殺された事件でも警察の捜索を受けていた。

印刷された機関紙か何かを積んで、どこかへ運ぼうとしていたんだろうか?

装甲ワゴン車は「こだま印刷」を出てから、県道浦和―浜崎線に入って蕨市の方面に向かっていた。

乗っていたのは革マル派政治局員の藤原隆義(36歳)、この車の持ち主で、こだま印刷庶務課課長の関口誠司(35歳)、革マル派学生の金沢大学の伊東亘(23歳)と岐阜大学の伊藤修(24歳)の計4名の活動家である。

一行の乗った車は県道を進み、浦和市(現さいたま市南区)に入った午後9時10分。

異変が突如彼らの進路前方で起こる。

突然一台の4トントラックが、道沿いの空き地から装甲ワゴン車の前に飛び出し、行く手を阻んだのだ。

ワゴン車は急ブレーキを踏んで停止したが、すぐさま後ろからホロ付きの2トントラックとマイクロバスがやってきて、挟み撃ちにするように停止する。

敵対組織の攻撃だ!

一行のうちの一人の関口は、昨年にも同じように車の前後をトラックなどで挟まれる襲撃を受けたことがあるが、その時は幸いにも逃げることができた。

だが、運がそれでつきてしまっていたか、今回の襲撃者は前回の連中ほどマヌケではなかったようだ。

関口ら革マル派の車は、4トントラックを迂回して逃走しようと斜め前に動き出したが、後ろからホロ付き2トントラックに繰り返し追突されて動きを止められてしまう。

やがて、トラックの中からレインコートのようなものを着てヘルメットをかぶり、ツルハシや鉄パイプを持った5人の集団が下りてきた。

集団は完全に身動きが取れないワゴン車を囲んで凶器で叩き始める。

打撃でドアの部分が変形してフロントガラスも割られたが、ガラスの部分には鉄板が嵌め込まれているから心配はない。

こういう襲撃に備えての装備なのだ。

しかし、前方を見るためののぞき窓は開けられており、外の連中はガラスが割られて開いたその部分から、何やら液体を注ぎ始めた。

それは、まごうことなきガソリン。

彼らが襲撃された場所は工場が密集する地域であり、この時間にも残業などで残っている工員がいた。

彼は、仕事中に車を叩くような大きな物音が聞こえ、何事かと外に出たところ事件の一部始終を目撃する。

また、その音の後にクラクションが鳴らされ始めたという。

襲撃を受けた革マル派たちは、これから自分たちが何をされるか気づき、なりふり構わず助けを呼ぼうとしていたのだ。

が、襲撃者たちは悪魔だった。

ガソリンを注ぎ終わると発煙筒を焚くや、それをワゴン車の下に投げ込む。

車内にたっぷり注ぎ込まれ、路面にも広がったガソリンは一瞬にして発火、ワゴン車はあっという間に火に包まれた。

「助けて!助けて!助けてえええええええ!!!」

燃え上がった車の中からは、この世のものとは思えない、狂ったような叫び声が聞こえ、車のクラクションが断末魔の悲鳴がごとく鳴り響く。

窓の部分には鉄板が張られているし、ドアはツルハシなどの打撃でゆがんでカギが壊されて中から開かず、外に出ることのできない革マル派の活動家たちは、車内で生きながら焼かれ続け、のたうち回る。

ワゴン車に火がつけられたのを目のあたりにした近所の工場の工員は消火器を持って消火に向かったが、ガソリンの火力の前に、そんなものは役に立たなかった。

襲撃者たちはトラック二台を放置して、残りのマイクロバスに乗ってすでに立ち去っている。

結局、火は通報によって駆け付けた消防隊によって消し止められるまで燃え続け、車内の四人は全員焼死。

一人は運転席でうつぶせの姿で、助手席のもう一人は後部座席にもたれかかるように、残る二人は後部座席の床にうずくまるように炭化していた。

勝ち誇る革労協

焼け焦げた装甲ワゴン車の運転席

犯人たちは犯行後、マイクロバスから乗用車に乗り換えていたとみられる。

途中、その乗用車はタクシーと接触事故を起こしながら、不審な車と見て追跡してきたパトカーをまんまと振り切って、逃走に成功した。

現場に残された二台のトラックはいずれも盗難車で、元のナンバープレートに偽装されたナンバープレートを張り付けており、この犯行が計画的で入念に準備されたものであることは間違いない。

また、現場から6kmほど離れた土手に、犯行に使ったツルハシやかぶっていたヘルメットが遺棄されていたのが、後日発見されている。

翌16日朝、「こだま印刷」の社員5人と同社の顧問弁護士が、焼死した四人が安置されている浦和警察署を訪れて遺体を確認したが、誰が誰なのか判別が不可能なほど完全に炭化していた。

そして、革マル派は同日夕方に本部である「解放社」で記者会見を行い、死亡した四名の氏名を発表。

ここで、事件の三日前の4月12日に「解放社」へ「笠原の報復をやる」という革労協と思われる者からの予告電話があったことも明らかにした。

その一方で、この事件を「警察権力による謀略」などと、反権力革命バカ集団らしい声明も出している。

もう一方のバカ集団であり、警察も当初から実行犯とにらんでいた革労協もすぐさま声明を出した。

4月17日、千葉県成田市の三里塚第一公園で三里塚芝山連合空港反対同盟により開催された集会で、15日の4人焼殺を行ったことを認めるビラを配布したのだ。

まだ成田闘争と称する成田空港建設に反対する運動がたけなわだったこの時代、革労協はこの運動に大きくかかわっていた。

そして警察同様、最初から焼殺事件が革労協の仕業だと分かっていた革マル派も動く。

三里塚第一公園の集会へ向かう道である京葉道路に重油やクギを撒き、さらに乗用車やタンクローリーを道のど真ん中に放置して通行を妨害(むろん盗難車)。

道路わきに横断幕を掲げ、そこには「4・15謀略襲撃―四名焼殺弾劾 革マル派」と書かれていた。

4月15日の事件の腹いせである。

京葉道路を使うのは集会参加者だけではないはずで、一般の通行車両にとっては、とんでもない迷惑行為だが、テロ集団の革マル派にとっては知ったこっちゃない。

なお、革労協は翌月5月に自分たちの発行する機関紙(革マル派の機関紙と名前は同じで「解放」)で、この事件について以下のように発表した。

「わが革労協―プロレタリア統一戦線の革命的戦士は4月15日午後9時10分、反革命印刷所「こだま印刷」から出た反革命装甲車輌を的確に補足し、革マル「政治組織局員」藤原隆義、「こだま印刷」指導者関口誠司、金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修に革命的テロルを叩き込み、車輌もろとも完全に打倒した。

この偉大な闘いは2・11反革命、わが革命党の最高指導部同志中原(笠原正義の別名)暗殺に対するプロレタリア革命党の鉄の回答である。

(中略)

わが部隊は2・11反革命への煮えたぎる憎しみに燃え、猛然と突撃し、前面フロントガラスをたたきわり、それに対して天井からおろした防御板でふせごうとした革マル「政治組織局員」藤原隆義、反革命印刷所指導者関口誠司、防衛隊員であり、反革命「全学連」特行である伊東亘、伊藤修計4名の反革命分子に革命的テロルを炸裂させた。

わが戦士達は、埼玉全県、首都各県、都県境橋全域にわたる権力の戒厳令をあらゆる手段を駆使して突破し、全員帰還した。

この闘いこそ、2・11反革命、わが革命的労働者協会総務委員会書記局員であり、偉大な共産主義者である、同志中原暗殺に対する煮えたぎる怒りと憎しみを、鉄の組織性と計画性、戦闘遂行における大胆さとして絞りあげ、階級的革命的原則にのっとったすさまじい革命的テロルとして革マルの頭上に炸裂させたものである(以下略)

「反革命装甲車輌」、「車輌もろとも完全に打倒」、「この偉大な闘い」、「革命的テロル」…。

文面から分かるとおり、見事に罪の意識がない。

他にもこの犯行を「2・11復讐戦」とか「4・15戦闘」とか呼んだりして、単なる凶悪殺人を武勇伝として自画自賛するとはさすがである。

どうやったらこんな思考回路になるのか。

ある意味でありえない日本語力であると同時に滑稽極まりないが、もし心底本気でそう考えていたのなら、この時代にバカだった者たちの本物ぶりは半端ではない。

その後の内ゲバ事件

浦和車両放火内ゲバ殺人事件は、革労協が自分たちの犯行だと宣言したにも関わらず、実行犯の逮捕に至っていない。

この昭和52年(1977年)時点での警視庁の発表によると、過激派(極左暴力集団)の内ゲバ事件による死者は、昭和44年(1969年)以来、この浦和の内ゲバ殺人事件での死者4名を合わせて52人目であったという。

だが、これは終わりではなかった。

革マルと革労協、中核派などの過激派は陰惨な内ゲバ殺人を断続的に犯し続ける。

何とそれは2004年まで続き、無意味で非生産的な活動に人生を売り渡した活動家たちは、50代後半か60代の白髪交じりになっても無益な争いに明け暮れ、死者は合計100名に達した。

ちなみに拙ブログの主人公である革労協は、後に主流派と非主流派に分裂し、さらにまたその後で主流派が二つに別れ、「内内ゲバ」とも呼べる抗争を起こしているから、本当に救いようがない連中だ。

頭の中が真っ赤な左翼バカたちが殺し合うのは構わない。

しかし、彼らは危険極まりない「ゲリラ」事件を起こす以外に、他組織の活動家と誤認して、無関係な一般人を死傷させたりもしている。

それに対しては「誤爆」と称して、謝罪すらしていない。

まだ暴力団抗争の方が、すがすがしく思えるのは筆者だけだろうか?

少なくとも暴力団は、一般人を誤って殺した場合は謝罪している。

また、結構早い段階で手打ちになったりして、ズルズル何十年も抗争を続けたりはしない。

それと比べると、過激派同士の抗争は実に醜く、陰険だ。

なお、これはあくまで筆者の経験だが、平和主義だの平等だの反差別だの左翼的思考を持って、それを公言する者には一定の傾向がある気がする。

それは、自分の意見は絶対的に善であり、それ以外の考えを許さないことだ。

彼らは現実を無視した理想を濁った眼を鈍く輝かせて語り、それにちょっとでもツッコミを入れる者を、人でなしとばかりに非難してくることが多い。

そういった思考回路が先鋭化した者たちで構成されたのが、過激派なのだろう。

自分たちの行動は正しく、それによって生じた結果は、どんなものでも当然のことかやむをえないことだと堂々開き直る。

また、同じ左翼思想を持っていても、違う考え方を持っている者に対してはより非寛容になるのは、内ゲバ殺人の数を見れば明らかだ。

なぜ、このような連中を今も野放しにしておくのか?

公安が監視をしているといっても、まだ堂々拠点を構えて活動している。

しょせん人権を重視しすぎるあまり、肝の座った取り締まりができない我が国だからこそイキれる集団であり、現在では多数の死に損ないたちと少数だが極左思想という重い脳障害を若くして患う者たちで構成されているにすぎないが、過去に起こしてきた所業を考えれば目障り極まりない。

とっとと我が国から消滅しろ!

出典元―毎日新聞、朝日新聞、警察白書、Wikipedia

posted with カエレバ

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 オーストラリア おもしろ 事件簿 平成 本当のこと 誘拐

日本中を揺るがした虚言:92年のオーストラリア花嫁失踪騒動

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

男を惑わせて振り回すような悪い女を「魔性の女」とか、「小悪魔」とかいう言葉で形容する場合がある。

どちらも悪い意味のはずだが、「魔性の女」は何となく悪魔的な魅力を持つ上に知謀にも長けていそうな感じがして、この言葉を使われた女に対しては、多分に賞賛が含まれていると個人的には思う。

「小悪魔」の方は「魔性の女」とかより格下だが、ずるい反面で男を引き付けるだけの魅力を持っているイメージがあるから、必ずしも全面的に否定する意味ではない気がする。

今から30年以上前の1992年12月に、ハネムーン先のオーストラリアで「誘拐された」と愚にもつかない虚言を吐いて行方をくらまし、新郎や身内はじめ日豪両国の多くの関係者に迷惑をかけた女、拙ブログで取り上げる日高美穂子(仮名・25歳)はどちらだろう?

間違いなくどちらでもない。

甘ったれたバカ、そしてクソだ。

ハネムーン中に失踪した新婦

1992年(平成4年)12月7日、オーストラリアのシドニー市の観光名所ロックス近くで、日本人の榎本敦夫(仮名・29歳)はやきもきしていた。

彼は待ち合わせをしていたのだが、約束の時間になっても相手がいっこうに現れないのだ。

敦夫が待ち合わせをしていたのは、ただの相手ではない。

それは、新妻となる日高美穂子(仮名・25歳)である。

二人は、それまで二時間ほど、別々に市内を散策していた。

大阪府在住の敦夫と美穂子はテニスクラブで知り合い、一年半の交際を経て11月28日に挙式を挙げ、翌29日にハネムーン旅行に出発。

旅行先として選んだここオーストラリアは、当時の日本人に人気で、二人はゴールドコースト、ハミルトン島などの王道のコースを巡って12月6日にシドニーに入っていた。

ハネムーン中の美穂子

彼らは入籍前に結婚式を挙げたため、美穂子の性は変わっていない。

入籍は、明日8日に日本に帰国した後にすることになっていた。

だとしても、戸籍上はまだ夫婦ではないとはいえ、事実上の新婚である。

いつも一緒にいるはずのハネムーン旅行なのに別行動をとったのは、二人が午後1時ごろ、シドニーの免税店で買い物をしていたところ、美穂子が「もう最終日なんやから、自分らで自由にシドニーを回らへん?」と提案したからだ。

そして落ち合うのは、二時間後の午後3時半と約束していた。

敦夫は、待ち合わせに選んだ場所に時間通り到着していたが、彼女は、その約束の午後3時半を過ぎても影も形も見えない。

オーストラリアはアメリカなどと違って比較的治安の良い国だが、それでも海外で姿を消したとなると不安になる。

もしかしてホテルでは?とも考えて宿泊先のホテルに戻ったが、そこにもいない。

部屋の中で美穂子の帰りを待っていたが、戻ってこないばかりか連絡すらなかった。

午後8時、心配でたまらなくなった敦夫は、シドニーの日本領事館に連絡する。

領事館は、館員をホテルに派遣して事情を聴くや、ただ事ではないと判断して、シドニー警察に協力を依頼した。

不可解な失踪

敦夫の待機する部屋の電話が鳴ったのは、午後11時ごろ。

かけてきたのは、何と美穂子からだ。

「美穂子か!?お前ナニしとるん?どこ行っとんのや?」

あわてて電話に出た敦夫に、美穂子はあまりにも不可解なことを伝えてきた。

「ウチ、車で連れてかれてもうてな、ここ、どこかわからへんのや。オーストラリアの人に助けてもろたんやけどな。でも自分で帰れるから捜さんといて」

そう言うや、電話が切れたのだ。

「車で連れていかれた」、それは誘拐ということではないか?

でも、「自分で帰れるから探さないでくれ」とは、どういうことだ?

疑問点はいろいろあるが、事件に巻き込まれたにおいがする。

新婚旅行中に自分から失踪するのはありえない、とこの時は考えられた。

それに美穂子は、それまで何回も海外旅行に行っていたが、日本人のご多分に漏れず英語はからっきしだし、所持金も少ない。

「単に迷子になっただけではないか?」と考えていたシドニー警察も、7日夜の怪電話から何の連絡もないことから、事件性が高いと判断。

8日には、誘拐事件として公開捜査に乗り出す。

情報提供を呼びかける敦夫

敦夫も地元シドニーのテレビ番組に出演し、美穂子の写真をカメラに示しながら「妻は誘拐されたと考えています。見かけた方は、警察にお知らせください」と沈痛な表情で、情報提供を呼び掛けた。

だが、誘拐事件のわりには身代金の要求などもなく、事件に関する情報も、ほとんどないために捜査は難航する。

日本国内の騒動と意外な結末

この一件は、9日の時点でオーストラリア国内ばかりか「花嫁失踪事件」として日本国内で報道され、国民の知るところとなっていた。

この92年当時は、同年春にパキスタンでカヌー下りをしていた早大生が誘拐されたり、パナマでシチズンの日本人社員が誘拐されて殺害されたり、日本人が海外で誘拐される事件が頻発しており、「また起きたか」という印象が持たれてもいた。

日本のマスコミは、「美人花嫁失踪」などの釣り文句付きで連日報道。

現地の捜査の状況や美穂子の身を案ずる両親や兄弟の模様を逐一伝えており、彼女の母などは「なぜ敦夫さんはずっと一緒にいてくれなかったのか?」などと、新郎を非難する始末だった。

そんな折、三日目の10日に事件が、ますます不可解な方向に脱線する。

ホテルに待機している敦夫に、美穂子から再び連絡が来たのだ。

その電話で彼女は、「今ゴールドコーストにいる」と話していた。

だがその後は、またしても連絡が途絶える。

生きていることは分かったが、シドニーからゴールドコーストまでは800kmほど離れており、美穂子がなぜそんなところにいるのか?という疑問の声が関係者の間で上がった。

どういうことだ?本当に誘拐されたのか?

一方のシドニー警察による捜査には、進展があった。

警察は、二人が泊っていたホテルの部屋から美穂子のものと思われるメモを発見。

そのメモには、あるモーテルの名前と電話番号、住所が書かれていたのだ。

誘拐事件として捜査する反面、その線に疑問も抱いていた警察は、そのメモに書かれたモーテルのオーナーである日系人女性に連絡して、事情を聴いたうえで協力を要請。

そのオーナー女性は警察に、日本人女性が一人で宿泊しており、チェックイン日時は12月7日だと話した。

ちょうど、美穂子が行方をくらました日だ。

しかも、それは一か月前から予約されており、予約の電話をかけてきたのはミナミノと名乗る男。

滞在予定は一か月で、その女性が来る前に着替えなのか、荷物も日本から送られていた。

チェックインした際の署名は「ミナミノ・メグミ」だった。

警察から連絡を受けてからオーナー女性はさらに、そのミナミノ・メグミのいる部屋を訪ねて「日高美穂子さんですね?」と確認したが、断固否定されたと知らせてきた。

本人であると判断した警察は、11日午前3時ごろモーテルを訪れて、その部屋にいた日高美穂子と思われるミナミノ・メグミに確認を取ったところ、女は激しく否定。

ばかりか、部屋にあったパスポートやキャッシュカードを窓から投げ捨てて、身元が分からないようにしようとすらしたが、無駄な抵抗だった。

日高美穂子本人以外の何者でもないことは明白であり、彼女も観念して、警察に確保されるしかなかった。

この時、美穂子は失踪前には長かった髪をセミロングに切って、伊達メガネをかけて変装していたらしい。

また、オーナー女性が訪ねてきたことから、捜索の手が近くなっていることを察していたようで、追っ手をかく乱するためか「メルボルンに行く」というメモが用意されていた。

そして、ハネムーン中は、ずっとはめていたエンゲージリングは外され、テーブルの上に置かれていたという。

会見で明らかになった失踪のあきれた理由

誘拐は、完全に美穂子の狂言だった。

ちなみに、美穂子の滞在していたモーテルは、敦夫と泊まっていたホテルから、10㎞ほどしか離れていない。

彼女は失踪している間、ほとんど外出せずに、部屋に引きこもっていたようだ。

愚かな日本女により、完全に振り回されたシドニー警察だったが、「旅行客の保護にベストを尽くしただけで、捜査費用は一切請求しない」と、太っ腹で大人の対応をした。

だが、二人はマスコミを通じての説明責任を果たさなければならない。

現地時間の11日午後7時、彼らは宿泊していたホテルで日豪両国の記者会見に臨んだが、事情を知った敦夫はぶ然とし、張本人の美穂子は緊張のためにガクブルであり、互いに顔を合わせようとせず、美穂子は記者の質問に対しての答えも、ボソボソとして支離滅裂だった。

まず、どうして失踪したかについて美穂子は、

「一か月前、結婚することに不安を覚え、成田離婚になったらどうしようと考え、知り合いに相談したら現地のモーテル(発見されたモーテル)を紹介してくれました」

と答え、着替えまで送って一か月ほど滞在するつもりだったのは、

「ゆっくり考える時間が欲しかった」

とボケた。

また、記者会見で美穂子は

「計画的にやったわけではない」

ともボケたが、一か月前からそんな準備していたというのは、十分計画的である。

その知り合いが、くだんのモーテルに予約電話をかけてきたミナミノらしいが、では、そのミナミノとはどういう知り合いなのか?かなり親しくなければ、ここまでやってくれそうにないが、という質問には、

「前の会社の上司で、昔、海外旅行した際もお世話になって…」

と答えたが、具体的な関係については口を濁す。

男女の関係であった可能性が高い、過去形もしくは現在進行形の。

後者だったとしたら、失踪前から敦夫を裏切っていたということである。

ちなみに「ミナミノ」は騒動になっている最中も心配して、何度か美穂子に電話しており、この失踪劇の共犯であったとみなされても仕方がない。

10日に、敦夫に「ゴールドコーストにいる」と電話したのは、「日豪双方のマスコミに報道されて騒動になっていることをテレビで知り、警察ざたになるのが怖くて、じっとしているのに耐えられなくなったから」「彼に勝手なことをしていると思われたくなかった」と、立て続けに天然ボケをカマす。

すでに勝手なことをしているではないか!

そして、「12日には警察に出頭するつもりだった」とも語ったが、ここまでの騒動を引き起こしておいた後では、あまりに嘘くさい。

美穂子の答えは、終始論理が完全に破綻しているように聞こえるが、要するに好きでもない敦夫という男と結婚するのが嫌で、かと言ってきっぱり別れを切り出す勇気もなく、ズルズルとハネムーンまで来てしまったということだ。

そのくせ「誘拐された」などと、大胆な大ボラを吹いて現実逃避し、とんでもなく大きな迷惑をかけている。

一方の強烈に裏切られていた新郎の敦夫は、記者の「結婚に対して不安を持っていることは美穂子から聞かなかったのか?」という質問に対して「相談されてはいた」と答え、「では、それが失踪の原因ではないかと思わなかったのか?」と聞かれると「その時は本当に誘拐されたと思った」とし、「自分が嫌いでいなくなったと信じたくなかった」と言った。

最愛の女性を、信じたかったということだろう。

だが、「今後の結婚生活はどうなるのか」という核心に触れた質問に対しては、斜め上を行く答えを返す。

「あほやと思われるかもしれへんけど…帰国したら針のムシロでしょうが、これからも二人で一緒にやっていきます」

と、予定どおり入籍することを宣言したのだ。

絶対に別れるだろうと予想していた報道陣も、これには唖然としていた。

美穂子もナメクジのようにすすり泣きながら、「敦夫さんのことが大好き、好きです。ずっと一緒にいたいと思っています」と答えて、その場の記者たちを凍り付かせた。

帰国後

日本で会見する敦夫と美穂子

帰国して大阪空港に降り立った二人は、そこでも記者会見を行い、またしても別れる気がないことを表明して、世にも奇妙な純愛劇を世間にさらす。

しかし、敦夫は会見中に泣き始めた美穂子が「敦夫さんごめんなさい」と、洟水を垂れながら甘えるように頭を自分の肩に傾けようとすると、手でそれを押し返した。

結婚生活を続ける意思は示したものの、この裏切りは、とても全面的に許せるものではなかったのだ。

そして、この寛容バカの男も、翌日にはその決心を変える。

敦夫の身内や知人は、このまま入籍することに納得せず、ワイドショーなどのビデオを見せたりして日本国内で、どのように報道されているかを知らせたのだ。

この騒動の全貌をようやく知った敦夫はワナワナと震え、この女と今後も連れ添うことが、いかに破滅的かを悟る。

美穂子の側にすぐさまそれを伝え、順調に離婚することとなった。

当たり前だ。

特に敦夫の母は、息子がハメられたと怒り心頭であった。

そもそも、母親の美穂子に対する印象はハネムーン旅行に行く前から最悪で、息子に「本当にこの人でいいの?」と尋ねていたくらいである。

それは、結納や結婚式で美穂子と四回会っているが、ヌボーとして一度も笑顔を見せておらず、感じがあまりにも悪かったからだ。

敦夫は、ふだんから女遊びには無縁な堅物で、そのおかげで女を見る目がなく、美穂子のような陰キャなうえに、バカで自分勝手な女に引っかかってしまったと見ることもできる。

彼は大阪空港での記者会見で「今後の取材は一切お断りします」ときっぱりマスコミにくぎを刺していたが、現代以上にモラルのなかったこの時代のマスコミは、言いなりにならなかった。

狂言誘拐だとわかった後は、さすがに二人の実名は出さなくなったが、第三の男である「ミナミノ」氏の正体を探ろうとするなど、しばらく、この騒動に関する面白半分の取材は続けられ、

バラエティー番組でも明石家さんまなどが記者会見を茶化すパロディーネタを披露するなど、完全に笑いものにされる。

ネクラな美穂子は帰国後姿をくらましてしまい、会社を無断欠勤し続けていたという。

いい面の皮だった敦夫も、最愛の女性がゴミだったことに落胆するあまり立ち直ることができず、勤めていた会社を辞めてしまったようだ。

その後の二人については、30年以上たった現在では知るよしもない。

美穂子はどうなっていようが知ったこっちゃないが、せめて敦夫の方は、まっとうな人生を歩んでいて欲しいものだ。

出典元―日刊スポーツ、週刊現代、週刊ポスト、FOCUS

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 中国 中国語 事件簿 平成 本当のこと 西安

2003年、西安の留学生事件:寸劇が引き起こした騒動

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

2003年10月30日、中華人民共和国陝西省西安市にある西北大学外国語学院で、前日の29日に開催された演芸会『第三届外语文化节(第三回外語文化祭)』に出演した日本人留学生三人の寸劇をきっかけとして、同大学の学生たちを中心とした反日デモが発生した。

デモは、西安市内の他の大学の学生たちも合流してより激化。

学生たちは、留学生が暮らす留学生楼を取り囲んだばかりか、内部に乱入して、器物を破壊したり日本人留学生を殴るなど暴徒化し、ついには、西安の中心部で市民まで加わって、日本料理店を襲うなどの反日暴動に発展した。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

ここまでの騒動の発端となった日本人留学生の行った寸劇は、何が問題だったんだろう?

イタすぎるパフォーマンス

現在の西北大学

この騒動のきっかけとなった寸劇は、『第三届外语文化节(日本での報道時は『文芸の夕べ』と訳された)』と称する演芸会で行われた。

同演芸会は「第三」となっているように、毎年秋の深まったこの時期に開かれるようになった催しであったらしい。

その主催者は、西北大学の共青団支部。

共青団とは中国共産主義青年団の略で、中国共産党の指導の下で14歳~28歳の団員を擁する組織であり、つまりは、お堅い団体だ。

そんな堅い団体が主催する演芸会であるために、企業もスポンサーについたりして、その演目も堅く、胡弓の演奏などまじめで格調が高いもので出し物は占められていた。

2003年10月29日、西北大学の礼堂で午後7時から始まった同演芸会の観客は、ほとんどが中国人学生であったのは言うまでもないが、日本人留学生ら10人程も混じっていたようである。

そんな演芸会もたけなわとなった午後8時過ぎ、日本人の演目者が現れた。

会場となった西北大学で日本語講師をしている吉田正伸(仮名・26歳)だ。

吉田は、180cmほどもある西洋人のようなマネキンを持って登場。

彼が行ったパフォーマンスは一人二役の腹話術であり、ありていに言えば、可もなく不可もなく反発を買うようなものではなかった。

吉田の演目が終わった後も日本人で、同大学の日本人留学生の菊池宏尚(仮名・26歳)、谷内慎(仮名・22歳)、坂本春仁(仮名・21歳)の三人である。

しかし、この三人こそがいけなかった。

彼らの演目が、後の騒動のきっかけを作ることになるのだ。

まず、出てきて早々、観客たちは「!?」となった。

彼らのいでたちが異様だったからだ。

その場にいた者によると、三人ともTシャツの上に赤いブラジャー、股間に男性器のような紙コップをつけ、ダンボールで作ったロボットの被り物をかぶり、その上には「寿司」、「毛沢東」、「謝謝」、「中日友好」、「看什么?(何見ているの)」とか、何を言いたいのかわからない文字が、つらつら書いてあったという。

想像図

後で、本人である菊池たちが語ったところでは、「西安に現れた、ナーと鳴く異星人」という設定のコスチュームだったらしいが、だったとしても、意味不明すぎるしイタすぎだろう。

そして、壇上において菊池、谷内、坂本扮する三匹の宇宙人は、中国語で寸劇らしきものを始めたのだが、

「你什么名字?(あなたの名前は)」

「什么?(何?)」

「ナー!」

というやり取りが行われた後、手をつないで背中を見せて「ナーナーナー」という効果音だけの節にあわせて、不思議な踊りを始めた。

三人は背中にそれぞれ、「中国」「♡」「日本」と書いた紙を貼っており、踊りの途中でブラジャーの中からお菓子を取り出すと、観客に向かってそれを投げ始めた。

プログラムには、菊池たちの演目は「日本舞踊」とされていたようだが、そうだったとすれば前衛的すぎるし、日本文化に対する極めて重大な挑戦だろう。

会場にいた中国人学生ら観客は、どう反応すればよいかわからず、冷ややかに沈黙。

「日中友好」を表現したかったのと、下ネタに走ってウケを狙っていることは何とか理解できそうだが、会場は誰一人クスリともせず明らかに白けきっていたと、現場に居合わせた日本人留学生の一人は、後に証言した。

唯一伝わっていたのは、この寸劇もどきの芸が、お下劣極まりないということである。

赤いブラジャーと股間の紙コップは決定的すぎた。

ましてや、ここはポルノ規制に厳しい中華人民共和国真っただ中なのだ。

ほら、拾え!とばかりに、菓子を投げつけるのもいただけない。

お堅い主催者側は、これ以上の演出は見るに堪えないと判断し、この恥ずかしい演目が始まって三分後には、大学の職員らが演目の途中で舞台に上がってきて制止し、痛々しいパフォーマンスを強制終了させた。

下ネタでスベったら、目も当てられない。

何より、最初の吉田の腹話術はともかく、菊池たちの芸がふざけすぎだったのは、他のまじめな演目を見れば明らかで、バカにするなと怒られても文句は言えないだろう。

しかしこの時、観客の学生たちは確かにドン引きしてはいたが、怒り出す者が続出して騒動になったということは、なかったようである。

この盛大にズレた芸をやった三人は「ウケないばかりか退場させられた」と落ち込んでいたというが、自分たちによって、後に日本側で『西安留学生寸劇事件』、中国側で『2003年西北大学反日风波』と呼ばれる騒動に発展するとは、予想だにしていなかった。

抗日祭りの始まり

異変は、翌日の朝早々に始まった。

西北大学にやって来た日本人はじめ、各国の留学生の寮となっている留学生楼の周りを西北大学の学生たちが取り囲み、建物にポスターを貼り始めたのだ。

そのポスターに書かれていた文章には「日本猪」「倭猪」「日本杂种滚」などの明らかに日本人を罵倒する文字が混じっており、さらによく読めば、昨晩の演芸会で行われた醜態について文章で説明されている。

さらには「滚出(出ていけ)」などと結んでいたりして、穏やかでないこと極まりない。

当時の大字报(壁新聞)

昨日の菊池たちのパフォーマンスに、怒って抗議しているのだ。

そしてポスターをさらによく読むと、腹話術という無難なパフォーマンスをしただけの日本語講師・吉田も、一味の者どころか首謀者として糾弾されていた。

ちょうどその頃、そうとは知らない吉田は西北大学に出勤しようとしていたが、出くわした教え子の一人に「先生!危険だから外に出ないでください」と、真剣な顔で忠告されたという。

中国の大学は全寮制だ。

寮では昨晩から今朝にかけて、昨日の寸劇が中国をバカにしていると学生たちの間で反日機運が高まっており、抗議行動の準備をしていたらしい。

また、留学生楼だけでなく、西北大学内のあちこちに昨晩の醜態を非難する「大字报(壁新聞)」が貼られ、留学生を除く学生の多くが学内で起きつつあることが、何かを理解していた。

対応が遅かったりして、日ごろから留学生の評判が悪かった西北大学当局も、さすがにこの異常事態を静観するわけにいかず、学生たちにポスターをはがすように指導したが、学生たちは拒否。

自分たちの行動が、愛国心によるものだとうそぶいた。

授業が始まると学生たちは講義に出席したが、昼過ぎや午後の授業が明けると再び留学生楼にやってきて、抗議のシュプレヒコールを上げる。

「给我们出来道歉(出てきて俺たちに謝れ)!」

彼らが要求するのは、昨晩の演芸会に参加した吉田と菊池たちの謝罪だ。

同じ頃、騒動を招いたのは自分たちだと分かって責任を感じていた菊池たちは、「謝りたい」と大学当局に申し出ていたが、当局の答えは「事到如今已经晚了(こうなったらもう遅い)」だった。

そして、この騒動を招いた元凶として、一方的に日本語講師の吉田の解雇と留学生の菊池、谷内、坂本の退学を発表する。

破廉恥なパフォーマンスには全く関わっていなかった吉田は完全なとばっちりだが、大学側は留学生を監督する責任があったとみなし、その不行き届きを問われたのかもしれない。

そんな発表をしても学生たちの数はますます増え、紙で作った日本国旗や日本猪(ブタ)と書かれた人形を燃やしたりと行動は過激化。

午後5時には、ヒートアップした学生の一部が留学生楼に乱入した。

留学生楼には警備員がいたが、数にモノを言わせて押し寄せる学生たちを防ぐことはできず、暴徒と化した学生たちは、「日本人狩り」を開始する。

彼らが7階建ての留学生楼の4階に殺到すると、日本語の文字を染め抜いた「のれん」を下げている部屋を発見。

日本人の部屋に違いないと判断し、ドアを蹴破って侵入すると、案の定室内でオロオロしていたのは、日本人と思しき女だ。

暴徒の一人は、その女の顔面にパンチを見舞う。

「为什么打我(なぜ殴る)?」

殴られた女子留学生は口から血を流し、半泣きになって抗議すると、

「废话!就是因为你丫的是个鬼子(決まってんだろ!てめえが日本人だからだ)!!」と吠えられた。

なだれ込んだ学生たちは、他の部屋でも室内をめちゃくちゃに荒らしまわるなど大暴れしたが、後からやって来た大学の教員たちに説得されて、この時は一旦留学生楼から退出してゆく。

しかし、これで終わりではない。

外では西安大学、西北理工大学、西安交通大学、長安大学など西北大学以外の西安市内の他校生たちが、助太刀とばかりに五星紅旗と自分たちの所属大学を記したプラカードを掲げて集まって来ていた。

「抗日祭り」に加わりに来たのである。

国家公認の敵である日本から来た奴ら相手だから、こんな面白そうなことはないのだ。

ただ単に暴れたいだけなのに、自分たちが崇高なことをしていると思い込んでいるからタチが悪い。

小癪な愛国心に燃える西北大学の学生どもは、他校生の参加を歓声で出迎えて歓迎し、学校の違いを超えた邪悪な一体感が形成されつつあった。

中には「これはやりすぎだ」と理性的な学生もいたが、大多数の威勢の良い連中は「せっかく盛り上がっているのに空気を読め」とばかりに、その者を「国賊」呼ばわりして集団でボコり始める。

そして、21世紀の義和団気取りの無法者たちによる二回目の攻撃が始まろうとしていた。

集まった学生たち

再び襲われる留学生楼

午後9時くらいになると、ようやく公安が動員され始め、時々先走って留学生楼に特攻する腕白な学生をシメて連行したりしていた。

だが、真面目に仕事をしていたとは言い難い。

留学生楼でおびえていた留学生によると、公安たちは座り込んでタバコを吸っていたりする者が目立ち、本気でこの騒動を抑えに来た感じではなかったという。

また、中途半端に中国人学生を連行したりしたので、学生たちの怒りを逆なでする結果になった。

日が変わって31日になった午前0時、再び、留学生楼が襲われた。

今度は、一回目より人数が多い。

先ほどの攻撃で殴られて顔を腫らしたままの留学生楼の警備員たちが、再び立ち向かう。

真面目に仕事をしない公安と違って、彼らは職務に忠実だったのだ。

だが、一回目同様多勢に無勢なばかりか、「中国人なのに日本人の肩を持つ裏切者」と集中攻撃されて倒され、再び建物内への乱入を許す。

この頃には、日本人女子留学生は安全のために複数名がいくつかの部屋に分かれて息をひそめ、その前に男子留学生が盾として居座る配置を取っていた。

そして、日本以外の国の留学生も、この危機を前に動く。

あるアメリカ人留学生は、自分の部屋に日本人留学生を何人もかくまい、ドアの前に立ちはだかった。

中国と同様に、反日国家である韓国からの留学生も日本人留学生を助ける。

母国で兵役を経験していたその青年は、日本人を自分の部屋に入れて、パニックを起こすことなく、ドアにバリケードを築いて防御態勢を取った。

同じ留学生のよしみである。

異国の中国に留学してひとつ屋根の下で暮らす以上、各国留学生たちは、どの国の出身だろうとみな仲間という意識を持っていたのだ。

安全を守るはずの公安が、ようやく学生たちの排除に動いたのは午前一時。

それまで、学生たちは建物内で暴れまわり、壁には穴が開けられて備品はめちゃくちゃにされ、日本人留学生一人が暴行された上に、財布と腕時計を強奪された。

荒らされた留学生楼内部

公安だけでなく、同大学の教職員も学生の排除に協力したが抵抗され、結局、この騒動で日本人留学生一人を含む28人が負傷。

中でも、身を挺して留学生を守ろうとした中国人警備員たちは、顔をボコボコに腫らしていたという。

午前三時、大学側は、安全のために日本人を含む留学生80人を警察の車両などを使って市内のホテルに移動させたが、これに対して学生たちは「何で警察は中国人を捕まえて、日本人を守るんだ」と逆ギレ。

警察車両に投石する者が現れるなど、いわれなき怒りの矛先は、警察にも向いた。

この日、西北大学だけではなく、西安市内の大学も騒動の拡大を恐れて閉鎖されたが、学生たちは、街頭に出て反日デモを開始する。

そのデモには学生だけでなく、悪ノリした一部市民たちも参加して、その数は二千人以上に膨れ上がった。

この頃には、すでに日本人留学生が卑猥な寸劇を行ったことが、市民の間に知れ渡っていたのだ。

それは、29日の夜に西北大学の演芸会で行われたことを批判するビラが、市内にばらまかれていたからである。

ビラには、日本人の芸が中国人を侮辱するものであり、それを先導したのは日本語講師だったと書かれており、作成したのは演芸会の主催者である共青団であることが明記されていた。

どうも、この騒動を煽ったのは、ふざけた芸に怒った共青団だったとみられる。

香港のマスコミもいち早く悪ノリし、三人の留学生は「見ろ、これが中国人だ」という紙を身に着けていたと報道。

インターネットの掲示板や口コミでも尾ひれがついて、日本人留学生の悪行をあげつらうデマや流言飛語がすでに飛び交い始めており、それをダイレクトに伝えたのだ。

大学生以外の市民まで加わったデモ隊は、日系のホテルの前で抗議のシュプレヒコールを上げたり、道中の日本料理店のドアを破壊することまで行った。

完全に、日本憎しの直接行動にすり替わっている。

この2003年当時の西安は、経済発展から取り残されて失業者が多く、学生も将来に希望が見いだせなかったために、イライラしていたようだ。

寸劇事件は、その格好のうっぷん晴らしの形となってしまった。

この騒動は、西北大学が日本人講師の吉田と菊池たち三名の留学生に反省文を書かせてホームページに公開した11月1日の翌日2日になって、ようやく沈静化に向かう。

寸劇に出たわけ

中国人学生たちは、やりすぎだったとはいえ、そもそもきっかけを作ったのは菊池、谷内、坂本の三人が、日本の底辺高校か Fラン大学の学芸会でやったとしても、ブーイングを浴びるであろう醜悪な寸劇をさらしたからだ。

なぜ、こんなセンスのかけらもない連中が、演芸会に出たのか?

どうやら、彼らは自主的に参加したわけではなかったらしい。

この三人は同じ日本人とはいえ、普段からつるんでいるわけではなく、彼らの共通点は日本語と中国語を相互学習する西北大学の学生が同一人物であって、その学生から参加を求められたのだという。

しかも、それは当日の二日前であり、その前に自分たちが参加する演芸会が何をするものなのかということも、三人は知らなかった。

何を演ずるかも前日まで決まらず、困った彼らが、その貧弱な発想力で思いついたのが、前述の寸劇だったのだ。

実は、数年前の留学生と中国人学生合同の飲み会の余興で、日本人男子留学生がブラジャーと網タイツ姿でダンスして中国人にバカウケしたという話を聞いており、何ら考慮することなく、軽い気持ちで同じようなことをすればいいや、と思ったようである。

とはいえ、練習する時間もあまりなく、息も合わない三人に、まともな芸ができるわけはない。

首謀者にされた吉田によると、彼らは、しょっぱなから自信なさそうな様子であったようだ(ちなみに吉田は自主的に参加していた)。

案の定、惨憺たる醜態をさらしてしまい、その後はその後で、大騒動を招いてしまった。

では、出ることを強いられた彼らは、全くの被害者なんだろうか?

いや、彼らにも責任は大いにある。

恥をかくに決まっている演芸会への参加など、最初から断ればよかったのだ。

だが、彼らは中国人学生に促されるまま、出る羽目になった。

中国人の物言いは総じて、日本人に比べたら強圧的に聞こえることが多い。

「演芸会に出ませんか?」ではなく、「演芸会に出てください」と、一方的に要求しているように中国語が未熟だった菊池たちには聞こえたんだろう。

「いや、その…」とか言葉を濁していたら、「なぜ出ないんですか?」とか詰問調でたたみかけられたりして、ビビッて断れなくなってしまったのではあるまいか。

これが欧米人や韓国人だったら「我不干(やらない)!!」とはっきりNOと言ったはずだ。

それができなかった菊池たちは、典型的な日本人留学生だったともいえるが、その日本人らしさが、この騒動につながったのだ。

相手との摩擦を徹底的に避けるあまり、はっきりNOも言えない者が、海外留学などする資格はない。

これから海外留学する者は、彼らを反面教師として、最低限の自己主張をする気概と覚悟を持って赴くべきだ。

その後

この騒動は中国でも報道され、それは、日本人講師と留学生が下品で侮辱的な芸を行ったことに対して、学生たちが抗議活動を行ったというものだったが、留学生楼が荒らされて留学生らが殴られたこと、芸は中国を侮辱するものではなかったことは報道されなかった。

西北大学もこの騒動の戦犯として、吉田の解雇と三人の留学生の退学を早々に決めておきながら、日本人留学生を殴ったのは、抗議活動にまぎれこんだ社会人(中国ではゴロツキを意味する)のしわざと言い張って、学生の処分は行わなかったようだ。

暴れた学生どもはもちろん、都合のいい現地のマスコミも大学も、腹立たしいことこの上ない。

西北大学を追い出された四人は、ほどなくして強制的に帰国させられたが、殴られた女学生を含む日本人女子留学生八人も、自主退学して日本に帰った。

彼女たちは、あの騒動で受けた精神的ダメージが深刻で、これ以上西安に居続けることができなくなってしまっていたのだ。

話は変わるが、本ブログの筆者は、事件の8年前の大学生だった1995年春、この騒動の起こった西安市で、短期留学していたことがある。

だが、日本人という理由で危ない目に遭ったり、文句をつけられることはなかった。

留学していた西安外語学院の学生たちは、我々日本人に対して友好的で、日中戦争について、何らかの文句をつけてくることもなかった。

思うに、1995年時の大学生は小学校や中学校の時分に、愛国主義教育と称した反日教育を受けていない。

反日教育も以前から行われていたが、それが強化されたのは、89年の天安門事件以後だというから、まだ当時の大学生たちはさほど日本人に対して悪い感情を持っていなかったのではないだろうか。

だが、2003年は違う。

義務教育が始まったころから反日教育を受けていた世代が、大学生になっていた。

憎き敵国の奴らが自分たちの国にやってきて、自分たちの住んでいる寮より立派な留学生楼でヌクヌク暮らしているのも、普段から気に食わなかったりしたんだろう。

その考えは断固支持できないが、自分が中国人だったら理解できる気がしないでもない。

その後年になっても、2004年に中国で開かれたサッカーのアジアカップで日本チームに大ブーイングを行ったり、2005年や2010年にも反日デモが行われ、2012年には、日本政府の尖閣諸島3島の国有化をきっかけとして、反日デモ隊が暴徒化し大規模な破壊・略奪行為を行う事件が報道され、国民レベルで日本を敵視していることを、我々日本人はまざまざと見せつけられた

中国政府も中国政府で相変わらず反日教育を行って、国民に日本を敵視させ、尖閣諸島周辺に海警の大型船を送り込む嫌がらせを繰り返している。

この国は官民ともに、今後も日本に危害を加える恐れがある巨大な反日国家と言わざるを得ない。

かような国が隣国で、我が国はこのままでいいのか?

2003年の同事件をリアルタイムで目の当たりにしてから、核兵器を最低100発くらい装備していないと、国民の一人として安心できないと私は考えるようになった。

「非核三原則」なるへっぽこな方針を国是とする我が国において、私は「国賊」なんだろうが、その考えは2023年の現在も、いささか揺らいでいない。

出典元―文芸春秋、週刊新潮、朝日新聞

 

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 オラオラ系 ならず者 事件簿 平成 悲劇 本当のこと 池袋

最凶のヤクザ時代 – ナンパに潜む暴力団の影

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 おもしろ 中華料理 平成 料理 旅行 昭和 本当のこと

中華料理釜山: 30年間生き残った飲食店の謎

記事に登場する氏名、及び店名は、全て仮名です。


にほんブログ村

我が日本国には飲食店があふれている。

バブル期に比べれば減少したとはいえ、今でも67万店舗もの飲食店が各地で営業しているらしい。

だがその平均寿命は短く、開店して三年営業を続けられればいい方であり、十周年も迎えることのできない店の方が多いと聞く。

その業界の熾烈な生存競争においては、うまくて評判の良い店が生き残るとは限らない。

だがその反面、まずくて評判が最悪な店がすぐ淘汰されるとも限らない。

私の生まれ育った地方都市О市の国道沿いに店を構えていた「中華料理釜山」は、間違いなく後者に属する店だった。

このО市民の間で悪名高かった中華料理店は1970年代に開店して21世紀を過ぎて少しの間まで、不当にも、その地で30年以上の長きにわたって営業を続けたのだ。

悪に限ってのさばり続けるというこの世の不条理を体現する存在、それがこの「中華料理釜山」だった。

市民に恐れられる店

「中華料理釜山(仮名)」

まず、この店名からしてふざけている。

ある程度の地理学的常識を有した方なら、ツッコミを入れたくなるはずだ。

釜山、どう見ても韓国のあのプサンじゃないか?中華料理店が名乗っていい名前だろうか?

「イタリア料理マルセイユ」や「タイ料理ホーチミン」くらいおかしいだろう?

ひょっとしたら、韓国風中華の店のつもりだったのかもしれないが、そんなスキマを付いた店が、1970年当時の地方都市に出現したとは考えにくい。

もっとも、その当時は中国と韓国の区別もつかないほどО市の市民は低能だったらしい。

誰からもツッコまれることなく「中華料理釜山」と書かれた看板をデカデカと国道にさらし、恥ずかしげもなく堂々営業していた。

オーナーが釜山出身の在日韓国人だったとかなのかもしれないが、真相は今でも謎のままである。

この「釜山」は名前こそふざけてはいるが、店の外装や看板は気合が入っており、1970年代の日本人の頭の中だけにある間違った中国像を具現化したように派手だった。

だが、気合を入れたのは外観だけだったようだ。

まだ小学校低学年だった私も家が比較的近所だったので、その存在を知っており、チャイナ全開の見た目に魅かれて何度も連れて行ってほしいとせがんだが、父が断固拒否。

なぜなら父は「釜山」がひどい店であることを、すでに身を持って知っていたからだ。

父によると、職場の同僚らとそこで歓送迎会を開いたことがあったが、父を含めた参加者ほぼ全員が、この店には二度と行きたくないと腹を立てるほど最低な店だったという。

店内は当時から汚く、店員の態度も横柄で味や量に比べて、不当に高かったらしい。

また、その悪名は、我が家の中だけに限ったことではなかった。

「釜山」は私が通っていた小学校の学区内にあったため、学校の同級生たちは皆「釜山」のことを知っていて実際に食事した者も多かったが、ダメ出しのオンパレード。

ある生徒は作文の宿題で、小学生の視点によりその恐るべき実態を記述していた。

きのう、ぼくはお父さんとお母さんとねえちゃんといっしょに、ちゅうかりょうりプサンという店へ食べに行きました。

ぼくはラーメンを食べましたが、おいしくなかったです。

それと店の中はきたないし、お父さんが店のおじさんとけんかしたりしたので、ぼくはもう行きたくないなあとおもいます」

我が小学校の児童の間でも「釜山」は「まずい・高い・汚い」という飲食店にとっては致命的な三冠王の店として勇名を轟かせていた。

他に「態度が横柄」「出てくるのが遅い」「この店のラーメンはカップ麺」「料理にシャブが入っている」などの講評や噂も混じっていたが、そんな市井の評判が実際の経営状態には反映されることはなかったようだ。

「釜山」の駐車場には常に一定数の車が停まり、いけしゃしゃあと営業を続けていた。

少年時代の私の心に、実際には行っていない「釜山」に対する侮蔑まじりの恐怖が刻まれたのはその頃からだ。

そして、韓国の釜山市民には悪いが、今でも釜山という地名にいい印象がない。

韓国政府もいくら地方都市とはいえ、自国の都市のマイナスイメージを不特定多数の日本人に刻み続ける店に、何らかの行動をするべきだったであろう。

実食する不運

私が「釜山」で食事する機会を得たのは、長じて大学生となった頃だ。

いや、食事する羽目になったと言うべきか。

その日、私は自分の通う大学の同級生である五島賢司と遊びに行き、その帰りは彼の車で家まで送ってもらっていた。

我々の乗った車が私の家目指して国道を走っていた時、五島が「どこかで飯にしよう」と提案。

ちょうど正午で昼食を食べていなかった私も同意し、国道沿いの適当な店を物色したがなかなか決まらず私の家近くまで来てしまった。

「ココ壱番屋にしないか?この先にあるんだが」

「カレーはどうも食う気がしないな…お、ここにしよう!」

そう言って、急にウインカーを出して入ったのが何と「中華料理釜山」だったのだ。

「ここはやめないか?いい噂を聞かないんだ」

私は地元民として忠告したが「俺はここで食いたいんだ」と五島は譲らない。

具体的な評判を伝えて説得してみたが、結局強硬な五島に折れる形で私も店内に入ることになったのは、自分自身が「釜山」に入ったことがなく、実は言われてるほどひどくはないのではないかと甘く見ていたからだ。

だが、なぜもっと強く五島を制止しなかったのかと入ってからすぐに後悔することになる。

「釜山」は評判どおりの店だったのだ。

店内に入ってまず気づいたことは、臭うことである。

「匂い」ではない「臭い」だ。

中華料理店特有の食欲をそそる炒め物の「匂い」ではなく、不衛生な台所の饐えたような「臭い」である。

その悪臭の発生源は紛れもなく厨房なのだが、入口を入ってすぐのところに目につくため、否応なしにさもありなんと思わせる凄まじい惨状が目に入った。

もう、年季の入った便所といい勝負の汚さではないか。

本当は便所も兼ねてるんじゃないかと思うくらいのレベルで、ここで料理が調理されて出てくるなんて考えたくもない

その厨房を囲むようにカウンター席が設置されており、厨房を真正面に見据えざるを得ないそこにだけは座りたくないと思ってテーブル席を目指したが、大柄でブサイクな女性店員が我々の前に立ちはだかりカウンター席を指さした。

「ここへ座る!」

中国人留学生のアルバイトらしい。

我々を強引にカウンター席へ座らせると、目の前にメニューをどさっと置いて「どれ食べる?」とさ。

正直ここで何も食べずに帰りたいが、とりあえずメニューを開いてみる。

メニューも油ベトベトで薄汚く、そして高い。

何で醤油ラーメンが900円(当時平均600円程度)もするのだ。

「お得!」と書かれたランチセットの欄があったが、そのネーミングがカオスだった。

  • 万里の長城セット:1000
  • 毛沢東長征スペシャルセット:1200
  • 中国4000年の歴史セット:1500

この店は、中国と世間を完全にナメてる。

それに、ネーミングは無意味に壮観で痛々しいが「万里の長城セット」は単なる半ラーメン+餃子だし、「毛沢東長征スペシャルセット」は半ラーメン+チャーハン、「中国4000年の歴史セット」なんぞは半ラーメン+チャーハンに餃子。

他に「黄河悠久の流れセット」や「楊貴妃セクシーダイナマイトセット」などセンスが爆裂した名前のセットもあったが、その内容と値段は見ていないし、見る気もなかった。

中国人アルバイトよ、お前は何も言わないのか?ずいぶん安く見られてるぞ、祖国が。

我々は、一番安くて無難そうな「万里の長城セット」を頼んだが、この厨房で調理するんじゃなくて、よその中華料理店から出前を取ってきて欲しいというのが本音だった。

強引に入った五島も責任を感じたのか、バツが悪そうに押し黙っている。

しかし祈りもむなしく、目の前の汚厨房でジャージャー調理が始まり、そこで作られた「万里の長城セット」が我々の前に並ぶ。

見た目は普通で、食べてみたら、おいしくはないが噂ほどまずくもなかったとはいえ、厨房があの有様だっただけに箸をつけるのに決死の覚悟が必要であった。

他にも何人か客はいたが、昼食を楽しんでいる様子はなく、皆修行僧のように無言で食べている。

我々も腹が減ってたはずだったのに、全部食べることはできなかった。

会計の時もひと悶着あり、くだんの巨漢女は堂々と「中国4000年の歴史セット」の値段1500円で請求してきやがった。

まだテーブル上にある残った餃子とラーメンを動かぬ証拠に断固抗議して取り下げさせたが、全部食わなくて本当に正解だった。

店を出た時、「だからやめろって言っただろ」と愚痴る私に、「いや、外から見たら本格的そうに見えたんだけどな」と、五島は言い訳をしていた。

確かにド派手な「中華料理釜山」の看板を遮る建築物が周囲に存在しないため、遠くからでもよく目立つし、店の外観は立派でいかにも中国という錯覚を覚えさせる。

主要幹線道路だけに交通量は多く、見かけにつられて入ってしまうビジターが後を絶たなかったから、O市の住民にあれだけ評判が悪くても営業できたのではないだろうか。

それが証拠に、駐車場に停まっている車は他県のナンバーが多く、県内ナンバーがあったとしても五島のようにO市から遠く離れた市町村の住民と思われる。

私はこの時初めて「釜山」がしぶとく生き残っている理由がわかったような気がした。

車に乗り込む前に「釜山」の駐車場へS県ナンバーの車が一台入ってきた。

五島はその車から降りてくる中年男性に駆け寄り、「この店ひどいですよ」と忠告。

腹いせの営業妨害をしていたが、私は止めなかった。

中華料理店釜山の最後

そんな来る客来る客に、トラウマを植え続けてきたであろう「中華料理釜山」がようやく閉店したのは、ミレニアムの西暦2000年を超えて数年経過した頃だ。

原因はおそらく「釜山」の隣に建てられた某宗教団体のO市支部の建物だろう。

「釜山」に向かって国道を車で走ればわかる。

そのお城のような建築物は、数多のビジターを毒牙にかけてきた「中華料理釜山」の看板を見事に隠していたのだ。

もう片方の対向車線側から見たら見えるが、看板につられて入ってくる客は単純計算で半減することになる。

よく中華料理店はつぶれにくいと聞くが、それは家族経営の場合であって、「釜山」のような比較的大規模の店は当てはまらないのではないだろうか。

それに、地元の人間に嫌われていた「釜山」が、ビジターをひっかけられなくなったら命取りだったはずだ。

相手が宗教団体だけに、まさに神罰と言えなくもない。

だが、「釜山」の悪運が尽きたのが30年以上のさばってきた後なので、さんざん悪事を働いた暴力団組長が96歳でようやく殺されたくらい釈然としないところがある。

それに悪魔を討伐して無辜のビジターを救ったことになるのが、霊感商法などで全国的に悪名高きうさん臭い宗教団体。

のさばり続ける悪に勝てるのは正義ではなく、より大きな悪だったということだろうか。

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 事件簿 人気ブログ 悲劇 本当のこと 東京 無念

夢の国で起きた悲劇 ~ディズニーリゾートで心中した一家~

記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

1983年4月15日にオープン以来40年、「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界…」を理念として、大人も子供も楽しませてきた東京ディズニーランド。

そんな夢の国のすぐ近くで、今から30年以上前に、あまりにも悲惨な出来事が起きていた。

時は1989年(平成元年)12月2日、同園から目と鼻の先のオフィシャルホテルでもあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルで、一家心中事件が起きたのだ。

この心中した一家の中には、11歳と6歳の幼い兄弟も混じっていた。

誰もが幸福でいられるはずの場所で、なぜ彼らはこんな悲しい結末を自ら迎えなければならなかったのだろうか?

心中した一家

1989年(平成元年)12月2日午前1時10分、ディズニーランドの目と鼻の先にあり、オフィシャルホテルにも指定されているシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの北側の中庭に、複数人が倒れているのを宿泊客が発見。

倒れていたのは子供も含む男女四人で、すでに死亡していた。

ホテルのいずれかの部屋から飛び降りたらしい。

両親と思しき中年の男女はジャンパー姿で、子供二人はオーバーコート姿だったという。

やがて彼らは、このホテルの10階に宿泊していた家族であり、岐阜県不破郡垂井町から来た会社員の中林昭さん(仮名・39歳)、妻の美彩さん(仮名・35歳)、長男の弘樹君(仮名・11歳)と次男の啓二君(仮名・6歳)の家族だと判明する。

一家は11月26日から同ホテルに滞在しており、宿泊していた部屋には四通の遺書が残されていたことから、心中したと見て間違いはない。

その遺書は、中林家の一人一人がそれぞれ書いたものだった。

まず、父親の昭さんは自分の実家や上司にあてて、『お世話になりました。妻が心臓病でよくならず、不安感がつのっていました。その結果、死を選ぶことになりました…』

母親の美彩さんは自身の父親に、『私の体は悪くなるばかりで、生きていても長生きできないだろうと思います。夫と弘樹と三人で話し合い、死を選び、旅に出ることになりました。今日でこの旅も終わりです』と記していた。

長男の弘樹君も、彼にとっては祖父である美彩さんの父親に遺書を書いていた。

『おじいちゃん。これまでの11年間、どうもありがとうございました。楽しいことがたくさんありました。お父さん、お母さんが苦しんでいるのを見て、僕は決めました』

幼稚園児だった啓二君は、遺書のかわりに祖父の似顔絵を残していた。

遺書から分かるように、中林一家が心中する原因となったのは、母親である美彩さんの病気であったようだ。

美彩さんはこの10年前より糖尿病を患い、しょっちゅう起こる発作に苦しめられていた。

家族仲の円満だった中林家の大黒柱の昭さんは、たびたび会社を早退して妻の看護にあたっていたし、長男の弘樹君も午後5時には帰宅して、家の手伝いをしたり病院へ薬を取りに行ったりしていたという。

だが、美彩さんの病状は日に日に悪化し、病魔に苦しむ美彩さんと介護に追われる一家は、疲弊して限界に達していたと思われる。

そして、前途を悲観した中林一家は、10月18日にこの苦しみに自ら終止符を打つ決意を固め、自宅からそろって姿を消す。

その前日、幼稚園に次男の啓二君を迎えにやってきた昭さんは、「一週間ほど旅行に連れて行きます」と職員に話していた。

弘樹君の小学校の担任にも、同じようなことを言っていたらしいが、一週間たっても登校してこないのを不審に思った担任が、中林一家の近所に住む子供たちの祖父である美彩さんの実父に連絡。

祖父は、一家の暮らす県営住宅へ行ったが家はもぬけの殻で、郵便通帳が一冊残されており、口座から300万円が引き出されていた。

最後に思い出を残そうと、二度と帰ることのない永遠の家族旅行に出たのだ。

慌てた祖父は、最寄りの警察署に連絡して捜索願を出した。

その後、不意に一度長男の弘樹君から電話があったという。

しかし彼は「元気だから」と話していたものの、どこにいるかは言わなかった。

彼らが悲しき不帰の旅のエピローグとしてディズニーランドを選び、シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルにチェックインした11月26日までの足取りは分かっていない。

そして、一家が命を絶った12月2日は美彩さんが「今日でこの旅も終わりです」と遺書に記したように、同ホテルをチェックアウトする予定の日だった。

無力だったディズニーの魔法

一家が落ちた場所は玉砂利が敷き詰められた中庭であり、それがクッションとなったらしく四人とも驚くほどきれいな死に顔だったと、現場を見た宿泊客の一人は涙ぐんで証言している。

彼らの遺体は4日に浦安市で火葬され、親族によって岐阜へ帰った。

一家が泊まっていた部屋には、遺書の他にランド内で買ったと思われる大きなミッキーマウスのぬいぐるみやおもちゃも残されていた。

さらに、数冊の預金通帳と数十万円の現金。

ホテル代と迷惑料を清算したつもりだったんだろうか?

心中の場所に選んでしまった上に、宿泊費を踏み倒す気はなかったのだろう。

彼らなりの心遣いだったとすれば胸が痛む。

何より、この世の見納めと各地を漫遊してから最後にディズニーランドを楽しんだ後、どんな気持ちでこの最後の瞬間を一家そろって迎えたのかと思うと、心が張り裂けそうになる。

自殺はいけない。

ましてや、幼い子供まで巻き込んで心中するなんて考えられない。

そう言うのは簡単だ。

誰が好き好んで一家心中などするものか。

こんな手段でしか終わらせることができなかったほどの苦しみと悲しみを、この一家は味わい続け、それが限界に達してしまったのだろう。

ディズニーランドについて書かれたある本で、借金苦で心中を図る前の最後の思い出にとやって来たある一家が、ランド内で子供たちが楽しんでいる姿を見るうちに思いとどまり、「生きてもう一度やり直そう」と決心したエピソードが紹介されている。

ウソか誠か知らぬが、それを「ディズニーの魔法だ」などとその本では絶賛していたが、中林一家にその魔法は効かなかった。

そんな程度のものでは救えないほど、彼らの苦悩と絶望は大きかったのだ。

だったとしても、こんな悲しい手段を取らなくても、よかったじゃないかと思わずにはいられない。

我々にできるのはこの世で苦悶したぶん、向こうの世界で報われていて欲しいと願うことだけだ。

しかし、多くの宗教では自殺した者の魂は死後も救われず、天国に行けないと説いている。

それが本当だったら神は何と非情なのかと、この一家の一件に関しては思う。

死を選ばなければ解決できない苦しみも、世の中にはあるのがわからないのか。

天罰上等で言わせてもらう。

神よ、もし存在するならよく聞け。

この一家の魂だけは何が何でも救え。

彼らは、貴様が気まぐれで与えた試練に殺されたんだ。

責任を取れ!

出典元―岐阜新聞、朝日新聞、女性セブン

関連するブログ:

最近の人気ブログ TOP 10:

最近の記事:

カテゴリー
2023年 ならず者 事件 事件簿 人気ブログ 平成 悲劇 本当のこと

新潟六日町のトンネル事件:恋愛に狂った暴力団員の極限の嫉妬

記事に登場する氏名は、全て仮名です。


にほんブログ村

2000年(平成12年)5月22日午前5時ごろ、民家もまばらな新潟県魚沼群六日町の農道を歩いていた近所の住民の女性(72歳)の前に、ただごとでない様子の少年が現れた。

十代後半くらいのその少年は裸足で、全身ずぶ濡れとなってぶるぶる震えており、女性を見つけるなり「警察を呼んでほしい」と懇願するのだ。

そして、その理由は耳を疑うものだった。

何と男二人に灯油をかけられて、火をつけられそうになったから逃げてきたというのである。

しかも、もう一人一緒にいた友達は逃げることができず、焼き殺されたかもしれないと言うではないか。

それが証拠に、ずぶ濡れの彼の体からは、灯油かガソリンのような刺激臭が漂っていた。

その後、女性の家からの通報により、新潟県警六日町署の署員が出動。

少年が火をつけられそうになったという六日町舞台のわらび野トンネルに駆け付けたところ、トンネル内で焼け焦げた焼死体を発見。

それは、焼き殺されたかもしれないと言われていた少年、千村健太(仮名・16歳)の変わり果てた姿だった。

事件の経緯

千村健太(仮名)

事件は前日の5月21日の午後11時ごろ、殺されることになる千村健太と、助かった方の宇田川弘明(仮名・16歳)が、ある人物から「遊びに行こう」と呼び出しを受けたことから始まる。

彼らを呼び出したのは、矢内彰浩(仮名・32歳)という人物。

前月の4月下旬まで、千村と宇田川が働いていたラーメン店の店主であった。

彼ら二人が迎えに来た矢内の車に乗り込んだのは、日が変わった22日午前2時ごろ。

こんな夜中に「遊びに行こう」と誘われて、喜んで行く人間はあまりいない。

しかも、相手は前に働いていた職場の雇い主ではるかに年長、真夜中に呼び出されて遊ぶには、面白くないことこの上ない相手だ。

だが、二人とも断るわけにはいかなかった。

彼らに電話したのは矢内だったが、本当に用があって呼び出したのは、亀井俊彦(仮名・32歳)という男である。

ラーメン店の客として来ていたから顔なじみであったが、亀井がどういう人物であるかを、二人ともよく知っていたのだ。

亀井は暴力団組員であり、なおかつ地元では数々の暴力事件を起こしてきた悪名高き乱暴者。

前の年には、歩行者をひき逃げして逮捕されたが、それは単なるひき逃げ事故ではなかった。

その事故の際に、自分の車にぶつかった歩行者に腹を立てた亀井は、車を繰り返し前進後退させて三回も轢いて、そのまま立ち去ったという正真正銘の犯罪だったのだ。

亀井はその事件で逮捕されて、先月まで刑務所に服役して出てきたばかりであり、そんな危険な男の呼び出しを断ったら、何をされるかわからない。

そもそも、彼らがアルバイトをしていたラーメン店自体、堅気の店ではなかった。

店を直接切り盛りする店長の矢内は堅気だったが、オーナーは片岸祐一(仮名・34歳)という暴力団組員であり、亀井の兄貴分。

おまけに、ラーメン屋で働いていた千村は店員としてだけではなく、ヤクザである片岸の「若い衆見習い」ということにされていたらしい。

それに千村はこの時、自分が呼び出されたのが、なぜなのか気づいていた。

なおかつ、自分がタダでは済まないであろうことも。

彼には身に覚えがあった。

絶対にやってはいけないあることをして、それがバレたのだ。

だからと言って、逃げるわけにはいかない。

そうしたら余計厄介なことになることくらい、ヤクザの「若い衆見習い」にされていた彼なら嫌というほどわかる。

案の定、車内の亀井は、千村が乗り込んだ時から明らかに不機嫌であり、車が発進してほどなくして、いきなり暴力を振るってきた。

「このガキ、ナメたことしやがって!コラあ!!おらあ!!!」

ただでさえ危険な男は、酒をしこたま飲んで来たらしく、余計狂暴になっていた。

「宇田川ぁ、テメーも知ってたんだろ?なぁ!!」

「いえ、あの、その…ぶっ!!」

宇田川も殴られた。

宇田川が呼び出されたのは、ツレの千村がやらかした「やってはいけないこと」を知っていたにもかかわらず、報告しなかったからなのだ。

やらかした本人である千村の次に、罪が重いとみなされていた。

怒りの矛先が向けられたのは、二人の少年だけではない。

「停まんじゃねえよ!!飛ばせボケぇ!」

赤信号で車を停止させた、矢内も殴られた。

彼は普段から、ヤクザの片岸や亀井に奴隷扱いされていたのだ。

やがて、車は事件現場となる六日町の工業団地に到着すると、ほどなくして、一台の白い車がやってきた。

四人は車を降りてその車に近づき、亀井が「これに乗れ」と他の三人に命じた。

「お前ら逃げろ」

ある程度事情を知っていた矢内は、小声で二人の少年に言って自分は逃げたが、二人ともモタモタして逃げられず、白い車に乗せられてしまう。

その車を運転していたのは、加藤夏樹(仮名・28歳)という暴力団員ではないが、亀井の舎弟気取りの男だ。

車内で亀井は千村と宇田川を交互に殴りつつ、加藤の運転する車は、だんだん明るくなってきた午前四時ごろ、わらび野トンネルに到着。

車から降ろされた二人は、トンネルの中で正座させられた。

わらび野トンネル

「テメーら、これからどうなるかわかるか?アン?!」

そう言うと亀井は、加藤の車からポリタンクを取り出すや、正座させられている二人に、その中に入っていた液体をぶっかけた。

手下の加藤に、あらかじめ用意させて車に積んでいた灯油だ。

やがて、ライターを取り出して、それを加藤に渡すと、「夏樹、燃やしちまえ」と命じた。

大物ぶって、自分で手を下す気はないのだ。

加藤は、どちらかというと肝っ玉の座らない根性なしだったが、だからこそ、おっかない亀井には絶対服従な男。

本当にライターを近づけてきた。

脅しじゃない、本気で焼き殺す気だ。

逃げ出そうと立ち上がる二人。

宇田川は、前述のとおり逃げおおせたが、千村は間に合わなかった。

加藤のライターで火をつけられた千村は、火だるまになり、叫び声を上げて走り回ったあげく、トンネル内に倒れ込み絶命した。

事件現場

千村が犯してしまった過ち

事件が発生して翌々日の5月24日午前1時ごろ、実行犯の一人の加藤が六日町署に自首してきた。

加藤は堅気のくせに普段から「亀井さんのためなら何でもやります」などと公言してヤクザ気取りだったが、本性は気弱。

人を焼き殺してしまった事実を、受け入れることができなかったのだ。

そして、事実上の主犯である亀井は犯行後に逃走していたが、翌月6月9日に出頭して逮捕された。

だが、彼らは実行犯にすぎない。

亀井は顔見知りとはいえ直接の恨みはないし、加藤に至っては初対面。

実は亀井たちの背後には、犯行を指示した本物の主犯がいた。

その人物とは亀井の兄貴分であり、千村たちが働いていたラーメン店のオーナーである片岸祐一である。

彼こそが、千村の犯した行為に激怒していたのだ。

事件発覚当時から、犯行を指示したのは片岸ではないかと事情を知る関係者の間ではささやかれていた。

捜査を担当する六日町署もそれを知って、片岸の行方を追い始める。

片岸は、亀井同様事件後に行方をくらませていたが、7月7日になって、ようやく殺人容疑で逮捕された。

片岸は逮捕当時容疑を否認していたが、千村に危害を加えるように亀井に命じたことは認めた。

そして、彼が舎弟を使って制裁を加えようとした理由、それは、ある女性をめぐってのものだ。

その女性の名は、大熊径子(仮名)。

片岸がオーナーを務めるラーメン店で、アルバイトをしていた当時19歳の少女である。

彼女は、事件の起こるちょうど一年前の1999年(平成11年)5月ころの高校在学中から働き始めていた。

径子は、地元では有名な企業の社長の娘である。

片岸は、当時所属していた暴力団の組員になる前は、その会社で働いていたことがあるし、ラーメン店の開業に際して保証人になってもらったりしていたために、その社長に恩義を感じていた。

そんな恩人のお嬢さんを預かっていたうえに、その社長夫妻からはヘタな男を近づかせないように、特に依頼をされてもいたらしい。

なにせ、径子は近所でも評判の美少女だったからだ。

片岸は社長夫妻の頼みを律儀に聞き、彼女が自動車学校に通い始めた頃には、送り迎えまでしていた。

だが、その年の11月に千村がアルバイトとして雇われてしばらくしてから、ややこしいことになる。

翌年の3月ころから、径子が千村と交際するようになったのだ。

それも、ぞっこんだったのは径子の方であった。

千村は高校に行っておらず、自身の「若い衆見習い」をさせているから、社長夫妻が言うところの娘に近づかせてはいけない男のカテゴリーに入る。

事実、この交際が4月末に社長夫妻の耳に入るや、夫人は片岸に別れさせるように依頼してきたという。

そして、このティーンエイジャーの交際を、夫人以上に快く思わない者がいた。

当の片岸本人である。

片岸は、径子の父親が経営する会社で働いていたころ、まだ幼児だった径子をかわいがっていたが、彼女が美女に成長した今は魅力的な異性として、熱視線を注ぐようになってしまっていたのだ。

意識するだけでなく行動にも移し、プレゼントを渡して告白めいたことまでしでかした。

片岸は離婚したばかりでもあったから、何としても径子をモノにしようとしていたらしい。

しかし、幼いころはなついていたとはいえ、片岸はヤクザのうえに、19歳の彼女から見たら完全におじさんの34歳。

明らかに10年以上遅い。

身の程知らずにも、ほどがあるだろう。

径子は遠回しな言い方でやんわりと断ったが、こんな勘違い野郎がオーナーの店で、気持ちよく働けるわけがない。

ほどなくして、彼女は年下の彼氏である千村、その友達の宇田川と相前後して、店を辞めてしまった。

社長夫人から依頼を受けてほどない5月2日、片岸はもうすでにラーメン屋を辞めてしまった千村を呼び出して「今回は見逃すが、次はないぞ」という脅し文句とともに、径子との交際を辞めるよう迫った。

夫人に頼まれていることを理由にしていたが、本当は、こんなガキごときに自分が付き合いたい女を取られたことに、腹わたが煮えくり返っていたことを、とりあえずこの場では隠す。

一方の径子に対しても「このまま付き合い続けたら、千村は殺されるぞ」というメールまで送ったりしたため、ただ事ではないと感じた径子も千村も、別れることをこの時は了承する。

だが、そんなことまでしても、燃え上がっている最中の十代のカップルを止めることはできなかったようだ。

二日後には、二人とも連絡を取り合うようになり、千村の身を案じた径子は、一人暮らししている自分のアパートや友達の家に、千村をかくまったりして交際は続く。

しかし、いつまでも隠し通すことはできなかった。

事件発生直前の5月21日、娘がまだ千村と交際を続けていることが、社長夫人にバレてしまう。

夫人は、その日のうちにそのことを電話で片岸に伝え、「まだ付き合ってるみたい」と愚痴った。

5月2日の最後通告は守られなかったのだ。

ヤクザとしてのメンツは完全につぶされたと、片岸は激怒した。

その矛先はもちろん「若い衆見習い」の千村である。

だいたい、こんな奴が自分の狙っていた女と付き合い続けているのは許しがたい。

ナメたガキからは、きっちりケジメを取ってやる。

しかし、だからと言って、自分で手を下す気はない。

社長夫人からの電話の後、片岸は、別の人間に電話をかけた。

それは、彼の舎弟であり暴力装置、この事件の実行犯となる亀井俊彦だ。

亀井は、暴走族だったころから片岸の世話になっており、自分の体に片岸の名前を入れ墨するほど心酔しているくらいだから、命じれば、いくらでも体を張ってくれる都合のよい奴である。

「千村のガキがよ、また社長の娘にちょっかい出してやがった。しめちまえ」

片岸はこの時、そう電話で亀井に指示したと、後に供述している。

「殺せ」ではなく、あくまで「痛めつけるだけでいい」と言ったのだ、ということだ。

だが片岸も亀井もヤクザである。

彼らの世界において、上の者は本当の目的を隠して、具体的に指示することなく、それを匂わせるような言い方で指示することがあるし、下の者は、その意図を正確に察しなければならない場合があるものだ。

長年一緒に過ごしてきた彼らの間に、どんな暗黙の了解や呼吸があったかは立証できないが、亀井の方は、単に殴る蹴る以上のことをする必要があると解釈した可能性があるのは、事前に灯油を準備していたことから見て間違いがない。

おまけに、電話を受けた時は酒をしこたま飲んでおり、この乱暴者は、余計に分別のつかない状態になっていた。

その後、矢内に運転させて千村たちを連れ出し、日が変わった22日の午前3時ごろ、亀井は片岸に連絡を入れている。

その時、片岸はさらに「どういうことになるか、きっちり分からせろ」と命じたという。

そして、その電話からほどない午前4時ごろ、前述のとおり千村は、六日町舞台のわらび野トンネルで焼殺という最悪の殺され方をされてしまうことになったのだ。

不条理な判決

こんな残忍な犯行を犯した連中が、社会に出てきていいはずはない。

死刑か無期懲役、あるいは社会の脅威となる可能性がほぼなくなるほどの高齢になるまで、塀の中に隔離しておくべきである。

しかし、驚くべきことにこの凶悪犯たちは、また何か別の犯罪で捕まっていなければ、現在自由の身になっているのだ。

犯行を指示した片岸だったが、逮捕後から殺人に関して「共謀はしていない」と一貫して無罪を主張し、実行犯である亀井も殺害するように頼まれてはおらず、犯行前に灯油を準備していたのは脅すためだったと供述。

灯油までかけて加藤に「燃やしちまえ」と命じてはいたが、今回も本当は脅すつもりだったと言い張った。

ちなみに亀井は、事件前の過去に相手に灯油をかけて脅す事件を起こしている。

そして下った判決は、片岸が殺人罪で懲役13年。

実行犯の亀井は懲役18年で、加藤は15年と、人を一人焼き殺した代償にしては、軽すぎるものだった。

亀井と加藤の刑は一審で確定したが、片岸は判決を不服として控訴。

その結果、2002年4月24日に東京高裁で開かれた控訴審で「暴力を加えろという指示をしたと言えるが、殺害しても構わないという未必の殺意までは認められない」という判断がなされ、一審における殺人罪での懲役13年というただでさえ軽い判決が破棄されて、傷害致死での懲役8年という判決となってしまった。

「しめろ」「わからせろ」などの電話での指示では、殺意を立証できなかったのだ。

焼き殺すつもりは本当になかったのかもしれないが、結果としてあのような犯罪を犯した割には、あまりにも軽い制裁にしか見えない。

2023年の現在、この鬼畜がごとき犯罪者たちは恐ろしいことに、もうとっくにこの事件での刑期を終えている。

彼らはまだ50代、悪さをしようと思えば、まだできる年齢だろう。

こんな悪さをしでかした奴らが、たとえ自分とは関係のない場所に住んでいたとしても、この社会にいるというだけで、そこはかとない不気味さと釈然としなさを感じざるを得ない。

再び何かの罪で捕まって、現在は長期刑真っただ中か、より願わくば、すでに死んでいて欲しいものだ。

出典―朝日新聞、週刊新潮、週刊朝日

最近の人気ブログ TOP 10:

関連する記事:

最近の記事: