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最凶ヤクザ時代:1998年・那須町の調理師兄弟生き埋め事件

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1998年11月27日、栃木県那須町のホテルに勤務する調理師の兄弟・丸田紘一さん(仮名・49歳)と丸田昭二さん(仮名・48歳)が、夜中に出かけたまま失踪した。

翌28日、弟の昭二さんの家族から捜索願が出されたが、兄弟に家出や自殺の動機が一切なかったことから、警察も事件に巻き込まれた可能性の高い特異家出人として受理して捜査に乗り出す。

栃木県警捜査一課及び二課、黒磯署は、兄弟の周囲でトラブルがなかったかの聞き込みを行ったところ、明らかに不審な点が見つかった。

兄弟は、暴力団関係者とトラブルを抱えていたのだ。

そして、27日の晩に飲みに行ったと思われるスナックで、暴力団員風の男らから、暴行を受けて連れ去られたことが判明する。

やがて、その相手であった暴力団員である岩瀬裕(本名・51歳)ら、三人を暴力行為違反法で逮捕して丸田兄弟の行方について聞いたところ、二人ともすでに殺されて栃木県那須町の山林に埋められていたことが分かった。

供述により、翌1999年1月8日に発掘したところ、地中から1.5メートルの深さの地点から二人の死体を発見。

身元はやはり、紘一さんと昭二さんであったが、司法解剖の結果、恐ろしい事実が判明する。

二人とも刺し傷などの外傷はなく、暴行を受けたことによる肋骨などの骨折があり、気管に土砂が詰まっていた。

つまり、生き埋めにされていたのだ。

「逆らう奴は許さん」

岩瀬裕。絶対に近づきたくない人相だ。

丸田兄弟を埋めたのは、山口組系の二次団体の組員の岩瀬裕(本名・51歳)、菅原康正(本名・31歳)、坂本薫(本名・40歳)である。

兄弟は、この岩瀬とトラブルになっていたのだが、そのきっかけは無茶苦茶なものだった。

それは、失踪する二か月前の9月下旬に、ある男性が岩瀬らに些細なことから因縁をつけられたことから始まる。

その男性は、丸田さんらの飲み仲間だったのだが、岩瀬は何と飲み仲間であるという理由で、丸田さんにまで慰謝料を要求してきたのだ。

とんでもない外道である。

こんな理不尽な要求でも、ヤクザが相手だと払ってしまう一般人もいるが、兄弟は断固拒否、再三にわたる恫喝も無視し続けた。

こんな奴らに払う義理はないし、払ったら払ったでまた何かとたかってくるに決まっているからだ。

こうして、約二か月が経過した11月27日。

その日、二人は弟の昭二さん宅で酒を飲んでいたが、午後11時半ごろ「ちょっと出かけてくる」と家族に言って出かけた。

行先は、黒磯市内のスナックである。

だが、このまま家で飲んでいるか、もう遅いから寝るべきであった。

なぜならば、そのスナックで彼らを脅し続けている岩瀬たちと鉢合わせしてしまったからだ。

岩瀬は、自分の要求を拒み続けていたカタギの相手が、自分たちの息のかかったスナックで平然と飲んでいるのに激怒。

自分たちを見てもビビらない態度も火に油を注いだ。

「テメーら!ナニ偉そうに飲んでやがんだコラ!!」

一緒にいた菅原と坂本、滝本郁夫(本名・43歳)も加わって、丸田兄弟に殴りかかって暴行を始めた。

岩瀬は51歳だったが幹部ではないペーペーの組員、つまり出世できずに、歳だけくった三流ヤクザだ。

そのくせ、世間から恐れられるヤクザの端くれであることに妙な誇りを持っており、堅気ならば自分の言うことにビビッて従うべきだと考えていた馬鹿野郎でもある。

そんな岩瀬は、畏怖されて然るべきヤクザである自分に逆らう丸田兄弟にはかなり腹を立てており、今日という今日はけじめをつけてやるとばかりに暴行を加えたが、これだけやられても泣きを入れてこない兄弟にますます逆上した。

「オイ、場所替えるぞ!」

二人をスナックの階段から蹴り落とし、自分たちの車に押し込んで、岩瀬と菅原、坂本が向かった先は那須町寺子丙の山林。

底辺ヤクザの岩瀬は、後先を冷静に考える頭を持っていない。

自分たちをナメた相手を生かしておくつもりはなく、埋めることにしたのだ。

この時、岩瀬は自分たちに協力させようと、もう一人の男を真夜中に電話で呼び出していた。

中林邦夫(仮名・49歳)という造園業に従事する男であり、ヤクザではない。

だが、岩瀬の組から金を借りたことがあり、金はすでに返済していたが、そのまま関係を断ち切れないでいた。

ヤクザは一度関係を持った相手を離さず、延々と自分たちに都合よく利用しようとするものなのだ。

中林が命じられたのは、人気のない場所に自分たちを案内することと、そこにショベルカーで穴を掘ること。

後に、殺人ほう助の罪で逮捕されることになる中林は「穴は掘ったが人を埋めるとは思わなかった」と供述しているが、自分がこの時こんな山奥で何のために穴を掘らされていたかは、十分に推察できていたのは間違いない。

かと言って拒否すれば「さんざん世話になったオレの言うことが聞けねえのか」などと言われて、どんな報復をされるかわからないし、下手をすれば、その穴に自分が入れられかねない。

警察が動くのは、やられてしまってからの方が多いのだ。

そんなことは百も承知の中林は「チャッチャとやれよ!」とか、岩瀬らにどやされながら嫌々ショベルカーを操作した。

「テメーらが埋まる穴だぜ」

丸田さんたちは、自分たちを埋める穴を掘るところを見せられて、恐怖のあまり絶句していたという。

穴を二メートル程度まで掘り終わると、車から引きずり出して穴に蹴り落とす。

二人とも穴から出ようとしたが、上から踏みつけられて、再び落とされた。

そして、犯人三人のうち一人がショベルカーを運転して穴に土砂をぶっかけ、兄弟を生き埋めにした。

ナメられたと思ったら、なりふり構わないから職業犯罪者であるヤクザは恐ろしい。

だが、しょせんはヤクザの中でも低級な部類に属する岩瀬の犯罪。

それまで被害者を脅していたり、スナックで暴行を働いたりと目立ちすぎ、捜査線上にすぐに浮かんで逮捕となった。

いくら犯罪者に甘い日本でも、こんなことをしでかしてただで済むわけがない。

岩瀬は、翌1999年11月18日に求刑どおり無期懲役の判決を下された。

本来なら死刑が妥当な気もするが、犯罪の冷酷さから、現在まだ生きていたとしても塀の中のはずだ。

また、出てくることもないだろう。

ヤクザが最も恐ろしかった時代、そして今後

この1990年代後半から2010年代にかけて、ヤクザが最も凶悪化した時代ではないかと本ブログの筆者は個人的に思う。

一般人を相手にした殺人事件が、やたら目立ったのだ。

ちなみに栃木県では、この那須での生き埋め事件からさかのぼること一年前の1997年11月30日にも、凶悪な事件が発生している。

同じ栃木県内の真岡市のスナックで、松葉会系暴力団の組員二人が口論になったとび職の男性を、さんざん暴行した上に店外まで連れ出し、とどめとばかりに車でひき殺したのだ。

2001年7月には、出会い系サイトで知り合った女性のとの間で金銭トラブルを起こした埼玉県越谷市の高校教師が、女性の背後にいた暴力団組員に監禁されて金を脅し取られた上に殺されて、静岡県内の山林に遺棄された。

2002年3月4日には、兵庫県神戸市で神戸商船大学の大院生が暴力団員に言いがかりをつけられて暴行後、拉致されて殺される事件が起きている。

暴力団が背後に立って違法な金利で取り立てをする闇金が生まれ、振り込め詐欺が横行しはじめたのもこの頃だ。

それ以外にも、中国人窃盗団の手引きをしたり、中には自ら一般人の家庭に押し込み強盗を働いて、家人を殺傷する組員すら出現していた。

思うに、90年代後半は暴力団対策法が施行された上に、不況で資金獲得が難しくなってきた時期でもあったから、シノギのためには、なりふり構っていられなかった組員が多かったはずである。

だから余裕がないあまり、テンパって暴走する者が少なからず出たようだ。

何よりこの頃は、血気盛んな若年の組員の総数も多かったからなおさらである。

今から考えれば、恐ろしい時代だ。

だが2004年以降、さらに暴力団を締め付ける暴力団排除条例が各地の自治体で施行され始めて、暴力団は徐々に弱体化してゆく。

暴力団員が犯罪を起こせば、より重い刑罰も課されるようになり、抗争はもちろん、シノギもますます難しくなる。

脱退者は増え続けるのに加入者は少なく、2022年の現在は、残った組員たちも高齢化して行動力も低下し、もはや、かつてのように我が物顔でのさばることはできなくなった。

強力な悪を追い詰めた結果、その悪がより凶悪になった1990年代後半から2010年代を経た後、その勢力は力を失いつつあるのだ。

これは、表面上とても良いことに思える。

だが、本当にそうか?

一つの勢力の力がなくなれば、その空白を別の勢力が埋めるのが世の常だ

現実に暴力団の弱体化とともに、半グレと呼ばれる勢力が力を伸ばしてきたのは周知のとおりである。

どの時代でも、道を踏み外す者は出てくるが、その受け皿が暴力団という勢力から、半グレという新しい勢力に移りつつあるのだ。

外国人の犯罪組織も、今後ますます力を持つようになるだろうし、もうすでに地盤を固めている可能性もある。

そして、こういった新たな勢力というのは往々にして旧勢力よりやっかいで、扱いにくいものであることが多い。

事実、彼らは従来のヤクザ組織と違って実態がつかみにくく、その全容を把握するのは困難であるという。

よって、暴力団の完全消滅は、より安全な社会の到来であると筆者は無条件に信じることができない。

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2004年、足立区牛丼店の恐怖:クレーマー殺人事件

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殺人事件の中には、被害者に一切同情できないものがごくまれにある。

被害者と加害者は「元加害者」と「元被害者」の関係、すなわち被害者が生前に殺されても仕方がないほどのことを加害者に行った結果、反撃もしくは報復されて死に至ったケースのことだ。

本ブログで取り上げる牛丼店の店長が執拗にクレームをつけてきた男を殺した事件、俗にいう『足立区牛丼店クレーマー殺人』は、まさにその典型たる事件とされ、現在に至るまで致し方なく凶行を行ってしまった加害者への同情と自業自得で、地獄に送られた被害者への侮蔑を以って語られる事件である。

真面目な青年

この事件の犯人となる市田武司(仮名・26歳)は、不動産事業や飲食店事業などを手掛ける企業の社員であり、2004年の事件当時、その傘下の大手牛丼チェーンのフランチャイズ店の店長だった。

市田は、同企業の系列の喫茶店で四年ほどアルバイトとして勤務。

その真面目な勤務態度から2004年6月に正社員に抜擢され、足立区の北千住にある牛丼店に配属された。

そこでも持ち前の責任感や接客態度の良さが評価されたらしく、わずか二か月後の8月に店長に昇進する。

牛丼店での勤務経験の短さもさることながら、26歳という若さでの店長就任は異例のことだったという。

市田が店長をやっていた牛丼店

こうして大抜擢された市田だったが、店長になって早々試練に見舞われる。

それは、店長就任後一か月も経たない8月下旬、市田の店に弁当を買ったという男から、一本の苦情の電話が入ったことから始まった。

その男によると、弁当を買って持ち帰ったら、それが横になっていたというのだ。

そして、その言い分と口調は、苦情というより言いがかり、クレームというより恫喝に近いものだったらしい。

あまりの剣幕に、店長である市田は謝罪したが、男の怒りは収まらない。

なんとその後、7-8回もクレームの電話をかけてきたのだ。

これは営業妨害以外の何者でもない。

いくら接客業であっても、本来ならこういった輩には強硬にして断固たる処置をとるべきであった。

だが、経験が浅い市田はやってはいけない行動に出てしまう。

何と、そのクレーマーの男の自宅に出向いてお詫びした挙句、弁当代として現金千円を渡してしまったのだ。

その現金千円は市田の自腹であったろうし、この件は自分の失態であるから当然であると、責任感の強い彼のことだから思ったことだろう。

そしてこれで解決したとばかりに、この件を本社に報告することはなかったらしい。

だが、それは大きな間違いであった。

そのクレーマー、墨田区東向島在住の保川英夫(仮名・36歳)は介護の仕事をしていたが、本性はとんでもないクズ野郎だったからだ。

保川は、その後も市田を何度か呼び出すなどして断続的にクレームをつけ続け、市田を追い込むことになる。

クレーマーに怒りの猛撃

9月11日、クレーマー保川は、何ら悪びれることなく堂々と店を訪れて弁当を注文。

この時に市田は店にいなかったが、今度も店員に対して文句をつけてきた。

「オイ!何で客に水出さねえんだよ!!」

待っている間に水を出さないことに腹を立てたようだが、そこまで怒るほどのことでもないはずだ。

しかしクレームを趣味にしているとしか思えない保川は、それでだけでは済ませなかった。

店を出た後に、またしてもクレームの電話をかけてきたのだ。

「店長出せ、店長!」

「どうなってんだよ、オメエの店はよ!」

「誠意ってもんあんのか?コラ!!」

しかも、今回は前回を上回る回数であり、それは翌日の12日まで続く。

常軌を逸した執拗さに、市田は「店の正常な運営ができない」と追い詰められたが、この期に及んでも、本社に相談をしようとしなかった。

どころか、再び自分一人で解決しようと行動に出る。

しかし、今回はまた元の木阿弥になるであろう謝罪ではなく、この問題の不可逆的且つ永久的解決を決意していた。

それは保川の殺害だ。

市田は、真面目な勤務態度と責任感の持ち主だったが、明晰な頭脳は持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

おまけに、パニックになりやすくて自制心も利かない男だったのは間違いないだろう。

9月12日午前11時ごろ、前も訪れて勝手知ったる墨田区東向島の保川のマンションを訪問した市田は、持参してきた刃物で横柄な態度で対応した保川の胸を一突き。

驚いて逃げようとする保川の背中にも刃物を突き立て、声をあげさせないように口も塞ぎつつ刺し続け、殺した。

クレーマー野郎が死んだことを確認すると、市田はそのままそそくさと立ち去った。

まさに天誅である。

保川の死体はその後、自宅に集金に来た宅配弁当店の店長に発見された。

この年、職を転々として介護職に就いたばかりだった保川は、懐具合が思わしくなかったらしい。

事件の二か月前の7月、ずうずうしくもその場で払うべき宅配の弁当代を「給料が出てから払うからツケにしてくれ」と頼んでいたが、そのまま8月を過ぎても払わずに連絡すらしていなかったのだ。

ゴキブリのような奴である。

保川は市田の店以外にも、ピザ店にクレームをつけていたことが後の調べで分かっているから、営業妨害を専門とする犯罪者と言ってもよい。それもチンケな。

だが、そんな二足歩行のゴキブリでも殺したのはまずかった。

宅配弁当店の店長からの通報を受けて事件の捜査を行っていた警察は、保川の電話の通話記録から、市田の存在を割り出す。

あの怒涛のクレーム電話のことである。

そして、事件から三か月後の12月11日、市田を殺人容疑で逮捕。

彼は保川を殺した後も逮捕されるまで、牛丼店の店長を続けていた。

事件現場の近く

その後

2005年6月23日、東京地裁は市田武司に懲役10年(求刑懲役14年)を言い渡した。

判決は、保川がしょっちゅう苦情を言ってきたことが殺害の動機につながったと指摘しながらも、「被害者に殺害されなければならないほどの落ち度はない。きわめて短絡的との非難を免れない」としたのだ。

やはりどんな事情があれ、殺人にはそれなりの判決が出る。

だが保川という男は「殺すことはなかった」かもしれないが、「殺しても構わなかった」奴ではあると個人的には思う。

日本の消費者は世界一極悪であり、接客する側が甘やかすからつけあがる輩が後を絶たないが、保川はその中でも、タチが悪い部類に入る。

そんな奴に哀悼の意を表する気はない。

どんな人間でも、死ねば仏なんて思わない。

保川のような男が殺されることもなく、その後も元気よくさまざまな店にクレームをつけ続けることがなくなったことは良いことだ。

そんな社会貢献をした市田だが、10年という時間を塀の中で失い、出所後も殺人という前科を背負って生き続けることになってしまった。

しかし、彼はまだ若い。

少々頭が悪くテンパりやすい欠点はあるが、天性の真面目さと責任感を持っているはずだから、やり直しは十分に利くだろう。

これくらいの過ちで人生を捨てることなく、立派に更生できると信ずる。

あと、この牛丼店を運営する会社だが、彼をもう一度雇ってあげてはいかがだろうか?

それも店長より上のポストで。

反社会勢力の暴力団ですら、抗争で相手を殺した組員は長い懲役を経た後に、「組のために体を張った功労者」として幹部のポストが約束されていた時代があった。

彼はまさしく店のために体を張ったではないか。

事実、この事件からしばらく、この牛丼店のその他の店舗へのクレームがなくなったというから、功労者だと断言できる。

彼を雇うことでイメージは悪くなるが、前科のある人間を雇うのは違法ではない。

全国津々浦々に展開して久しいほどの大手なんだから、それが原因で倒産するということもないではないか。

まっとうな会社だというなら、反社会勢力でもやっていること以上のことがやれるはずだ。

取り返しがつかないことをやった者でも、立ち直るチャンスを与えるという太っ腹なところを見せるべきであろう。

極論だが、真摯にそう思っている。

出典元―夕刊フジ・朝日新聞・毎日新聞

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パキスタンでの冒険が引き起こした悲劇:91年の早大生誘拐事件

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1991年3月、パキスタンを流れるインダス川をカヌーで下る旅行をしていた早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」に所属する三人の早稲田大学の学生と現地ガイド一名が姿を消した。

早大生たちは春休みを利用して、インダス川とカブール川の合流地点であるアトックからアラビア海に面した同川河口のカラチまで、約1500㎞を三週間ほどかけてカヌーで漕ぎぬくという大冒険を計画。

2月中旬にパキスタンの首都イスラマバードに到着後、物資調達や訓練を経て3月4日にアトックを出発したのだが、カラチに到着予定の同月28日になっても姿を現さず、安否が心配されていた。

やがて4月になり、春休みが終わろうとしていた同月4日に、現地の日本大使館を経由して、外務省から最悪の事態の発生が公表される。

彼らは現地の犯罪組織に誘拐され、組織から多額の身代金と獄中の幹部の釈放を要求されていたのだ。

だが、これは必然的な結末でもあった。

早大生たちが通過する予定だった場所は、誘拐事件が年間千数百件発生する危険地帯であり、彼らが出発前の情報収集のために通っていた現地の大使館の職員からは、中止するように説得されてもいたからだ。

彼らは、幸運にも生還することになるのだが、その平和ボケの極みともいうべき愚行は、その後大いに非難を浴びることとなった。

ヌケまくった冒険計画

当初のメンバー

誘拐された早稲田大学の学生は、同大学教育学部の大浜修一(仮名・当時20歳)、教育学部の斎藤実(仮名・当時19歳)、政経学部の高原大志(仮名・当時20歳)の三人である。

彼らが所属する早稲田大学の「フロンティアボートクラブ」は、ラフティングというゴムボートでの激流下りを中心に活動しており、1967年の設立以降インドのガンジス川やタイのメナム川を下ったり、ゴムボートの大会では四回優勝するなど伝統も実績も有したサークルだ。

インダス川

そんな気合いの入ったサークルに所属していた大浜たちだったからこそ、インダス川の川下りという大それた冒険を実行に移したのだが、その準備と見通しはあまりにずさんだった。

それは、川下りに出発する前の早大生たちに現地で出会った日本人女性ジャーナリストの証言によって明らかになる。

1991年の2月中旬、取材のためにパキスタンの首都イスラマバードを訪れた同ジャーナリストは、パキスタン人の夫を持つ日本人女性が経営する宿にチェックイン。

その宿に、たまたま誘拐されることになる早大生たちが宿泊しており、他の宿泊者らも交えて彼らと話をするようになった。

一見して頼りなさそうな青年たちだという印象を持った彼女だったが、話していて仰天したのが彼らのやろうとしていたインダス川の川下りの計画だった。

それは冒険というより、自殺行為に近い暴挙だと思ったからだ。

彼らが行こうとしているインダス川のうち、下流のシンド州流域は、日本より総じて治安の悪いパキスタンの中でも指折りの危険地帯であり、自動小銃などで重武装した「ダコイト」と呼ばれる犯罪集団が60団体以上跋扈し、誘拐や強盗事件が横行する現地の人間ですら恐れる場所なのである。

彼らはそのことを全く知らず、どんなレベルの危険か、全く想像がつかない様子だったという。

おまけに服装も襲ってくださいとばかりに派手な新品であり、インダス川の航行には、パキスタン観光省の許可証が必要であることも知らなかった。

外見を大きく上回る大甘ぶりである。

この時点で、後に誘拐されることになる三人以外にも一緒に川下りをするはずだった教育学部の臼井誠二(仮名・当時20歳)がいたが、臼井は、この話を聞いて賢明にも計画の中止を主張。

だが「逃げんのか?」「ここまで来たら行くしかねえだろ」「危険な方がスリリングじゃねえか」と、他のバカ三人が耳を貸さず、結局臼井だけが断念して日本に帰国することになった。

そして彼らは、現地の治安について無知だっただけではない。

物資の補給についての見通しも甘く、辺鄙で商店など一軒もない流域が多いにもかかわらず、十分な食料を調達していなかった。

また彼らが、これから始まる冒険に備えてトレーニングをしているところも女性ジャーナリストは見ていたが、普段から鍛えていないのが見え見えだったし、ゴムボートを専門としている彼らは、カヌーの漕ぎ方があまりにもぎこちなかったらしい。

かように大浜たちは準備も計画もあまりに痛々しかったが、腐っても天下の早稲田大学の名門サークル「フロンティアボートクラブ」所属の学生である。

今回の川下りに際して、そのブランド力を利用して光学機器メーカーのニコンや出版社である集英社を抜け目なくスポンサーにつけ、機材などを援助してもらっていた。

そのためにも、後には引けないという思いがあったのかもしれない。

だとしても、絶対するべきではなかった。

イスラマバードでの滞在中、自殺行為だと確信していた宿の女主人とジャーナリストは、あの手この手で出発を断念させようとしたし、情報収集のために再三訪れた日本大使館の職員にも、中止するように説得されていた。

だがこの愚行は、パキスタン観光省が渋々ながらも許可証を出してしまったこともあって強行される。

そして、この「冒険ごっこ」はスポンサーになってくれた二社に対するものより、はるかに大きな迷惑を日本・パキスタン両国政府にかけることになったのだ。

シンド州で待っていた案の定の展開

アトックの場所

臼井が帰国してしまい三人となったが、早大生たちは現地ガイド一名も加えた四人で、予定通りイスラマバードから近いパンジャーブ州アトックを3月4日に出発した。

一行は当初順調に川を下って南北に長いパンジャーブ州を南下。

途中、パキスタン警察の検問を何度か受けるが、観光省の許可証があるので、それも難なく通過した。

夜になると、岸辺にカヌーをつけてテントを張って宿営地としながらシンド州に入ったのは3月16日。

グッドゥ

このシンド州に入ってすぐにグッドゥ(Guddu)という街があり、彼らはそこを停泊地としてレストハウスに宿泊した。

地図上で見たら目的地のカラチまではあとわずかだが、ここからが厄介である。

なぜなら、このシンド州のインダス川流域こそ、犯罪組織ダコイトが出没する危険地帯だからだ。

とはいえ、彼らが泊ったレストハウスの主人は非常にフレンドリーで、はるか遠方の日本からやってきた若者たちを大歓迎。

しかも彼らがこれから向かう先を知るや、心配してダコイトが出没しない安全なルートをこと細かく教えてくれた。

親切な人だ!そして、さすが地元の人間!

よそ者の大浜たちはそのルートを取ることを即決し、明日からの冒険に備えて久々のベッドに入った。

しかし、彼らはすでにこの時点で、ダコイトに捕捉されていた。

どの国でもそうだが、裏社会の組織というものは、強大な情報網を有している。

パキスタンのダコイトも、ご多分に漏れずそれを完備していた。

誘拐や強盗のターゲットを探知するために、そこら中にシンパがおり、彼らのもたらす情報は、逐一構成員の元に届けられていたのだ。

そして、その情報網の一角を、このレストハウスの主人は担っていた。

主人は、金持ち国日本からの最上級のカモの出現と、その行先を迷わず自身の所属する組織に報告。

しかも、安全だと称して早大生たちに教えたルートは、ダコイトが待ち受けるのに都合のよい場所であり、それも併せて伝えたことは言うまでもない。

翌日、グッドゥを出発して、馬鹿正直にもダコイトのシンパの提示した水路を進んだ一行は、まんまと網にかかり、準備万端待ち構えていたダコイトの大歓迎を受ける。

それは、グッドゥを離れて一時間ほどのことだった。

左岸から自動火器の連射音が聞こえたかと思ったら、うち何発かが至近をかすめたのだ。

「ヤバい!!」

早大生らは、たまらず右岸へカヌーを漕いで逃げたが、そこにもダコイトの一員と思われる者たちが、ショットガンを構えて待ち構えていた。

手慣れた連係プレーである。

すっかり腰を抜かした一行は、抵抗どころか逃走も断念してホールドアップ。

ダコイトに捕獲されてしまう。

ちなみに、彼らが捕まった地点は観光省に許可されたルートから大幅に外れていた。

こうして、インダス川の川下りより、はるかにスリリングで生きた心地すらしない日々が始まった。

最上級人質

ダコイトに捕まった早大生たちは、インダス川のほとりの森の中にある掘っ立て小屋に連行された。

アジトのひとつで、さらった人間を監禁するための施設である。

このような拠点は他にもあり、その後監禁場所が数回変わったという。

とはいえ、さらった人間の身体の一部を切り取ったり、殺すことも平気だと恐れられるダコイトだが、大浜たちに対する待遇は、そんなに悪くなかった。

朝昼晩ちゃんと食事を出してくれたし(むろんカレー)、歯ブラシやトイレットペーパーなどの生活必需品も支給され、暴行を受けることもなかったらしい。

また、鎖でつながれたり閉じ込められたりも一切なく、監視付きだが近所を散歩することもできた。

彼らは「松竹梅」のうち、間違いなく最上級の「松」の部類に入る人質だったからだ。

まだ金持ち国だったころの日本から来た日本人だから、たんまり身代金が見込める。

交渉がまとまるまで、死なせてはならない。

ゲストに近い人質であり、体調を崩して体重が落ちることもなかった。

一方で「松竹梅」のうち、「梅」にも入らないとみなされると、こうはいかなかったようだ。

ここには早大生以外にも、他の場所でダコイトに捕まった一般のパキスタン人たちが何人かいたが、人質のランクとしては序の口とみなされたらしく、足かせをはめられてムチやこん棒などで、さんざん暴行を加えられていた。

これが、ダコイトたちによる本来の人質の扱い方であったのであろう。

また、それを大浜たちに見せつけることで、恐怖心を植え付ける効果もあったようだ。

そして、ゲストのように扱いながらも、絶妙のタイミングで早大生たちを「身代金の支払いが遅れたら殺すからな」と脅したりして、巧みに心を折って自分たちのコントロールに置く。

本当かどうかは分からないが、冒険家を自称する彼らは、このダコイトのアジトから脱出する計画を練っていたらしいが、常に銃を持った手下たちが抜け目なく見張っていたために、断念したという。

計画性を著しく欠いていた彼らだったが、自分たちがインディージョーンズではないことくらいは分かっていたのだ。

こんな生きた心地のしない生活がいつまで続くのか?と思った早大生たちだったが、捕まってから六日後の3月22日、三人のうち、高原大志だけが解放される。

ダコイトの要求を、日本大使館に伝えさせるためだ。

後に判明したことだが、日本大使館に早大生を誘拐したことを手紙で知らせたのに何のアクションもなく(郵便事情が悪くて届いていなかった)、そのために、致し方なくメッセンジャーとして選んだらしい。

高原は、その足でパンジャーブ州へ向かって、翌23日に同州内の地方都市から日本大使館に電話し、迎えに来た大使館員に保護された。

イスラマバードの日本大使館は、翌月の4月4日に、誘拐事件発生を公表した。

人質解放交渉

外務省は4月4日に、早稲田大学の学生三人が誘拐されたと発表したが、ほどなくして、高原大志が解放されたことを補足。

高原は、残る二人の解放交渉のために必要とみなされたために現地に残る。

この頃には、パキスタンのシンド州政府を中心に、人質解放のための行動は起こされていた。

州政府は対策本部を州内の都市サッカルに設け、地元の有力者を仲介者に立てて早大生をさらったダコイトの組織と交渉を始めた一方で、5日には特殊部隊を投入して、強行救出作戦を行ってダコイトのアジトを強襲するなど、硬軟織り交ぜた対策で臨む。

犯人側の要求は身代金1000万ルピー(当時のレートで6千万)と投獄されている仲間の釈放という法外なものであったため、交渉は紛糾。

早大生たちがいる場所は、シンド州と隣のバルーチスターン州の州境あたりにいるのではと思われたが、強行作戦を続行し続ければ人質に危害が及びかねない。

そのために交渉による解決が図られ、仲介者を介しての人質の解放条件などの交渉は続いた。

4月12日には、犯人側との合意に達したと地元警察が発表し、人質の解放も近いと思われたが、その二日後に解放されたのはパキスタン人のガイドのみ。

ガイドは「警察が動いたら人質を殺す」というメッセージを持たされていた。

その後、犯人側が態度を硬化させて、交渉が中断するなど暗雲が立ち込めた時期もあったものの、粘り強い交渉を続けた結果、残る早大生二人の解放への道筋は整ってきてはいた。

このころまでに多くのパキスタン軍・警察関係者が動員され、日本人が誘拐されたことも地元で大きく報じられるようになっており、20日には、当時のパキスタン首相ナワーズ・シャリーフが「パキスタンに汚名をもたらした事件の解決に全力を挙げる」と記者会見で異例の声明を発表。

パキスタン政府としては、不手際を犯して最大のODA供与国・日本との関係を悪化させるわけにはいかなかったのだ。

そして誘拐されてから44日目の4月30日、最終的な合意をしたダコイトは二人を解放した。

解放された二人

交渉は主にパキスタン側が引き受けていたために、その合意に至った条件の詳細な内容は公表されていない。

だが、パキスタン側は否定しているとはいえ、100万ルピー(600万円)ほどの現金が支払われたとの見方がされている。

イタい冒険者たちの帰国

解放された早大生二人は、解放現場のシンド州インダス川流域から車で、川下りの目的地だったカラチに到着。

在カラチ総領事館に入ってから、シンド州警察の事情聴取や健康チェックなどを受けた後、先に解放されていた高原とともに、5月4日に日本に帰国する。

身内や大学のサークル仲間及び関係者らはもちろん安心したが、世間は彼らを無謀で軽率な行動をして、日本・パキスタン両国政府に迷惑をかけたと批判的な見方が一般的だった。

記者会見では、ねぎらいの言葉よりも厳しい質問が多く、三人は『関係者に大変な迷惑をかけ、反省している』『身代金は払われていないと聞いているが、もし払われていたら働いて返す』と、神妙な面持ちで答えて頭を下げた。

記者会見する三人

だが、本当に心の底から反省していたかは疑わしいと世論は見ていた。

「悪気があってやったわけじゃないのに何で?」という怒られた時の子供のような顔をしているように世の人々の目には映っていたのだ。

早大生の行動に批判的な報道が多かったし、帰国前、彼らはカラチの総領事館でマスコミに『我々がやろうとしたことを理解してほしい』など書いたメモを渡したことも新聞で報道されたりと、その無責任さを糾弾する空気も作り出されていたのが大きい。

彼ら早大生が乗っていた飛行機には偶然、後にアフガニスタンで医療活動や用水路建設で活躍することになる医師・中村哲氏が乗っており、彼らの態度を見続けていた中村氏は、後に新聞記事で『空港での賑々しい記者会見で英雄気取りの態度に、軽蔑の思いで唾の一つでもかけたくなったものである』と憤激。

『パキスタン政府の面目を実質上潰し、日本の恥をふりまいて、意気揚々と帰国した』とまで罵倒している。

中村哲氏

さらに、記者会見での『これからも川下りを続けるか?』という質問に対して、天然ボケと受け取られるような言葉を吐いて世間を完全に敵に回す。

『どこが悪かったかを、しばらく考えて決断したい』などと、人によっては「これにめげずに冒険を続ける」とも解釈できる発言をしてしまったのだ。

それによって、彼らはさまざまなバッシングを受けることになってしまった。

悪気があってやったわけではないのは事実だろうが、計画性のなさと、見通しが甘すぎたのも事実である。

20歳くらいの年代ならば、このような経験と思慮のなさゆえに失敗することは十分ありうるが、彼らはそれを海外でやってしまい、結果的に国際的な大騒動に発展してしまったのだ。

誰にでもある若さゆえの過ちの代償は、人によって、或いは場合や状況によっては、とてつもなく大きなものとなりうる。

バッシングを受けた日々は、ダコイトに監禁されることには及ばないだろうが、耐え難い苦痛だったことだろう。

やがて月日は流れて、世間の早大生たちへの怒りも冷めてゆき、彼らも誰にも知られることなく卒業して社会に出た。

事件が全く語られなくなった現在、誘拐された早大生の一人だった大浜修一は、フリーランスのカメラマンとなって活躍している。

卒業後は某出版社に就職し、専属のカメラマンを経てから独立したらしい。

自分たちを叩いたマスコミの世界に、果敢に入っていったのである。

若き頃にパキスタンでは大失敗したが、少なくとも彼は、日本国内において冒険を続けていたといえるのではなかろうか。

出典元―読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、週刊文春

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌 2 – 中高年のキレる心理と対策


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最近いい歳こいた中高年がキレやすくなっているみたいだ。

そして、彼らがキレる相手というのは、駅の駅員とか店の店員が多いようである。

向こうは立場上逆らってきたりすることはなく、こちらは言いたい放題言えるはずだと、そのトチ狂った頭でタカをくくっているんだろう。

だが、平謝りする店員ばかりではないようだ。

今回お話しするのは、そういった例外に出くわしてしまった不幸な愚か者についてである。

某牛丼店での出来事

私は現在テレワークの身の上であり、自宅で仕事している。

昼食は時々外食で、12時から13時を避けて14時くらいに行く。

あんまり混んでいない時間を狙っているのだ。

その日、私が入ったのは某牛丼チェーン店。

同店は、一か月に二、三回くらいは利用している。

その店での注文は、入り口近くのタッチパネル式の券売機で食券を購入して、提供口まで持って行くというセルフサービス方式だ。

そしてその出来事は、客が私一人しかいない店内で私が食事している時、食券の券売機の前で始まった。

新たにやって来た客で、声の感じから60代くらいの男が、比較的大きな声を出し始めたのだ。

「おい!おーい!おーい!!」

どうやら店員を呼んでいるらしいが、少々横柄な感じである。

厨房には若い男の店員が一人しかいないようで、呼び続ける60男に対して、やや一呼吸遅れた感じで向かった。

「はい?」

一応、ここまでは店員として普通の対応だったし、それまでの一連の出来事に対して、私もあまりたいして気に留めることもなく飯を食い続けていた。

だが、この60男はかなり勘違いした男だった。

その店員に向かって、

「呼ばれたら返事しろ!」

と高飛車なモノ言いをするのだ。

さらに

「モタモタするな!さっさと来い!」

とも続ける。

何を勘違いしてるんだ、この男は?

客だからって、その態度はないだろう。

しかし次に、その店員が取った対応は全く普通のものではなかった。

少なくとも、この日本において私の知る限り、カタギの飲食店において、客に対する態度では全くなかったのだ。

チンピラ店員

「あん!?」

文句を付けられたその若い店員が発した第一声である。

聞き間違いではない。

とっさに出てしまったというより、ケンカ上等な男がいちゃもんを付けてきた相手に発するような「あん?」なのだ。

その後に「なんか文句あんのか?」と続いてもおかしくない感じの。

60男は、店員にあるまじき反応にカチンときたのだろう、

「“あん?”とはなんだ!」

と怒り出した。しかし店員は全く動じない。

そして次に続いた対応で、さっきの「あん?」という挑戦的な応答が、確信犯的なものであったことが明白となる。

「だから、ナンか用かよ?」

「お前なあ!その口のきき方は…!」

「用があんだろ?サッサと言えよ」

信じられない。

クレーマーが相手とはいえ、完全に店員の対応ではない。

多少声を荒げ、ぶれることのない毅然とした凄みまで効かせている。

「お前などに頭は下げんぞ」という確固たる意志と「これ以上文句つけるとただじゃおかんぞ」という気迫を60男も感じたんだろう。

「この券売機、全然動かんぞ…」

と、さっきより気勢をそがれた感じで用件を言い始めたのだが、店員の態度は変わらなかった。

「どこ押したんだよ?」

「ここだよ、ここ」

「そこじゃねー、ここだよ!“注文”って書いてあんだろがよ」

「わかりにくいんだよ…」

「頭使えよ、ボケ」

もう一度言うが、これは客と店員の会話である。

しかもこの店は、全国展開している大手なのだ。

後ろ姿だったが、店員は片手をポケットに突っ込み、頭を多少傾けて、60男の方をにらみ続けているような剣呑な感じがした。

舌打ちを交えたりして、完全にチンピラそのものの態度だ。

文句をつけた店員の思わぬ反応にひるみ始めていた60男だったが、「頭使えよ、ボケ」には頭に来たらしい。

「何だと!もういっぺん言ってみろ!」とまた元気になって大きな声を出したが、店員の方は「だから、頭使えって。ボケェ」と冷静に挑発。

完全にケンカなら買う、という態度なのだ。

ここに至って、これ以上食ってかかるとヤバイことが、さすがの60男にもわかり始めたようである。

「こんなトコ二度と来ねえからな!」

と捨て台詞を吐いて、店から出て行った。

完全に60男の敗北である。

「オウ、来んな来んな!とっとと消えろ!!」

店員は尻尾を巻いて去って行く60男に対して、追い打ちの罵声を浴びせる。

外の通行人にも聞こえるくらいの声で。

「ったくよ。偉そうにしてんじゃねえ」

と、その後、舌打ちをしながら厨房に戻っていった。

何となく、私にも聞かせてるような気がしたのは思い過ごしだろうか。

なんちゅう店だ。

長年利用してきたが、こんな店員が雇われていたとは。

この店で、絶対にクレームをつけてはいけない。

てか、今後の利用は見合わせようか。

さっきの60男こそ、一番問題であったのは言うまでもないが。

キレる中高年につける薬

この出来事で、私なりに一つ気づいたことがある。

それは、

キレる中高年は、相手にキレ返されると弱いのではないのか?

ということだ。

考えてみれば、体力も気力も弱っているはずの中高年が、若い者との真正面からの対決に耐えられるはずがない。

手を出されなくても、出されるかもしれない気迫で向かって来られたら、身の危険を感じて素直にひるむはずだ。

またそんなことされたら、次キレそうになった場面があったとしても、二の足を踏むであろう。

二度と過ちを犯させないためには、反省させるよりも恐ろしい思いをさせる方が、簡単かつ効果的であるのは間違いない。

だから、もしお若いあなたの周りで、もしくはあなたに対して理不尽にキレてくる中高年がいたら、

彼らにちょっと怖い思いをしてもらって、気安くキレるとどうなるか教えて差し上げてもいいんじゃないだろうか?

人間いくつになっても勉強は必要、学びに遅すぎることはない。

彼らのためにも、何より社会のためにも。

ただしケガさせたり、死なれたりしない程度に。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌


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最近、いい歳こいた中高年がキレやすくなっているようだ。

キレると言えば、血気盛んな若者というイメージだったが、今では分別がついてしかるべき年代のおっさんやじいさんが駅や公共の窓口などで些細なことから暴言を吐いたり大声を出したりすることが多くなってきているらしい。

また、暴言にとどまらず直接手を出してしまうケースも多い。

社会環境の変化とか、老化により感情のブレーキが利かなくなってきたからとか専門家がいろいろ論じているが、情けないことには変わりがない。

精神的に未熟で怖いもの知らずな若者が暴れる方が、まだ健全な社会であるような気がするのは私だけだろうか。

どちらにせよ、どんなことがあっても中高年の男性が公衆の面前で自分勝手な理由からキレるのは断じてあってはならないと私は断ずる。

それはハタ目から見て、見苦しいからだけではない。

キレた相手によっては、とんでもない目に遭うからである。

私自身もかように見苦しくキレまくる中高年に出くわしたことがあるのだが、これからお話しするその男の場合、キレた彼にキレた者の出現により、公開処刑されてしまったのだ。

オラつく五十男

あれはまだ、コロナが流行する前の朝の通勤ラッシュ時。

最寄り駅のO線K駅から各駅停車に乗って、通勤快速に乗り換えようと二駅先のS駅で降り、ホームで電車を待つ客の列に並んでいた際のことだ。

S駅に通勤快速がやって、来てドアが開いて乗っていた客が降り、私も含めて入れ替わりで待っていた客が乗り込もうとしたとたん、電車の中から突然、大きな怒声が響いてきた。

「オラ!まだ降りる人間がいるんだよ!!」

大声で吠えたのは、背が高い五十代前後の男である。

特にガラの悪そうな感じではなく、背広にネクタイ姿の普通のサラリーマン風だったが、そのオラつき方は、ヤカラそのものだった。

「どけよ!!」とか「目障りなんだよ!」とか威嚇しながら、いらだった様子で、満員の車内の乗客や乗り込もうとしていたホームの乗客を強引に押し分けて出てくるのだ。

運悪く彼の進路に立っていた弱そうな中年男性は「邪魔だボケ!」と怒鳴られてどかされていた。

何なのだこいつは?いい歳のくせに、大声出してチンピラ気取りおって。

朝っぱらから気分が悪い奴だ。

電車から降りることに成功した五十男だが、その機嫌は収まらない。

「どけっつってんだろ!!」

と、今度はホームから電車に乗り込もうとしていた客の一人である男性に、勢いよく肩をぶつけた。

周りの客は道を開けたのに、その男性だけは、自分の前に立ったまま譲ろうとしなかったからだ。

ぶつけられた勢いで、半身をのけぞらせたのは若い男。

五十男を振り返った顔を一瞬見た感じでは、大学生風の大人しそうな風貌であった。

だが、次の瞬間にその若い男が示した反応は、嫌な気分になった我々通勤客を、今度は凍り付かせることになる。

公開処刑の開始

「待ちやがれ、このボケ!!!」

肩をぶつけられた若者が五十男より大きな声で、何より周囲を震え上がらせる凄絶な怒声を発したかと思うと、不機嫌そうに立ち去ろうとする五十男の襟を、後ろからつかんで一気に倒した。

さらにホームに倒された五十男のネクタイをつかみ、なおかつ膝を腹に乗せて完全に動きを制すると、もう片方の腕に体重を乗せた感じで、首に押し付ける。

「何だテメー!」

不意討ちを食らった五十男も、負けじと若者の胸倉を下からつかんで抵抗を試みていたが、威勢がよかったのはここまでだった。

抑え込まれた上に、首に押し付けた腕にさらに体重を乗せられ、「ぐぐぐ」とかうめき声を出して、苦悶の表情を浮かべる。

五十がらみとはいえ、身長が高くてそれなりに体力もありそうな男を、ここまで一方的に制するとはかなりの強者だ。

だが、厄介なことに、この若者はかなりの危険人物でもあった。

「ナメてんのか?相手選べよコラ!!」とか、

「死にてえなら、やってやんぞ!オイ!」とか、

五十男を抑え込みながら、はるかに年齢が上の男を、かなりドスのきいた声で脅すのだ。

いかにも、こういうことを何度もやってきたような手慣れた感じでもある。

五十男も、ケンカを売った相手を間違えたのに気付き始めたらしい。

若者の圧倒的な腕力と迫力を前に抵抗できなくなって、されるがままになりつつある。

しかし、素直に屈服するのはプライドが許さなかったようだ。

「仕事行くんだよ…、放せよ…」

素直に謝ればいいものを、泣きが入り始めたのをごまかそうとしている。

苦しそうな顔と漏らした言葉の調子からは、もうさっきの威勢の良さは微塵もない。

ここまでだったら、年甲斐もなくオラついた男が若きホンモノに退治された痛快な出来事を目撃したとして、気分よく職場に行けただろう。

だが、違った。

ゴン!!

五十男が苦し紛れの言葉を吐き終わるや、若者はその顔面に渾身の頭突きをかましたのだ。

こちらにまで、音が聞こえるくらいの勢いで。

「ぶぶ~!」

とか言って、鼻に打撃をもろにくらったらしい五十男は、顔を押さえた。

その手の間から、みるみる血があふれ出す。

「傷害だぁ…、傷害事件だぞぉぉ~~」

顔を押さえながら声を裏返らせて、もう完全に泣きが入ったみたいだ。

いくら傍若無人な態度で他人を不愉快にした相手とはいえ、若者もこれはやりすぎだろう。

周りの乗客はもちろん見ているだけで、駅員もオロオロして止めに入ろうとはしない。

私も、その一人であったことを告白するが。

「ケンカしてえんだろ?なあ?オイ!聞いてんだろ!!」

一方の若者は、なおもネチネチと脅し続ける。

もうすでにソロのオヤジ狩り。

ハイエナがライオンにやられているようなもんでもあり、嫌な食物連鎖でもある。

私はこのままずっと見ていようかとも思ったが、仕事に遅れそうだし、あの若者が今度は私に「何見てんだ」とか絡んできたらたまらないので、次の電車に乗った。

電車に乗り込む際、後ろから、

「あん?ゴラァ!!オイッ!!」

と、若者が五十男をいびり続ける声が耳に入ってくる。

ドアが閉まって電車が発車しても、ホーム上の客も車内の客もみんなそちらの方向を見ていたからまだまだ続いているようだった。

ヤバい光景を見てしまった。

あの五十男も元々気が短いんだろうが、本当にヤバい奴と渡り合うのは、未経験だったはずだ。

ホンモノを相手にしてしまい、あっという間に制圧されて、ねちっこくシバかれ続けて、明らかにビビッていたからな。

あんなことをされた以上、心的外傷ストレス障害まっしぐらで、もう公衆の面前で怒声を張り上げることは、終生できんだろう。

というか、もうS駅で降りることも、電車に乗ること自体が怖くなってしまったんじゃないか?

同情する気は全くないが。

中高年は若い男にケンカ売っちゃだめだ、とも心底思った。

若い男は若い女ほど可愛らしい存在ではない。

こちらを圧倒する体力があって、その気になれば、こちらを素手で殺せるはずだからな。

そして何より、世の中高年の紳士諸君もどんなにイラついても年甲斐もなくオラつくのは、やめた方がよいだろう。

「うるせえオヤジだ」とかムカついて、突っかかって来る若者もいるかもしれないから。

あのS駅での事件が、その後どうなったかは知らない。

最初の方は嫌な気分になった後で面白いことになったけど、最後の方でドン引きしたが。

何より、大勢の人の前で男廃業させられた五十男に合掌。

助ける気が全然起きなくて、誠に申し訳ない。

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鹿の戦闘力 = 奈良公園の鹿との格闘

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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奈良県の奈良公園には、多数の鹿が生息していることはよく知られている。

鹿は同公園内に鎮座する春日大社の神使であり、国の天然記念物とされて保護を受け、公園内外に約1100頭がいるという。

そんな奈良公園には、国内外から多くの観光客が訪れ、「鹿せんべい」を与えたりして、直に鹿と触れ合うことが可能である。

だが、奈良の鹿は飼いならされているわけではなく、れっきとした野生動物。

人間に従順でも、なついてもいないのだ。

よって、鹿にかまれたり追突されたりしてケガをする観光客が続出していたことが、問題となっていたものである。

鹿をナメてはいけない。

草食動物だし、昔から人類にしょっちゅう狩られているが、だからと言って、人類が素手でタイマン張っても楽勝であることを意味しない。

日本の鹿は成獣だと、オスは60キログラムから100キログラムになるため、その攻撃力は中型犬や猫をはるかに凌駕するのだ。

ウサギと一緒などと考えない方がいい。

私はそんな鹿の恐ろしさについて身を持って知っている。

なぜなら奈良公園の鹿と戦ったことがあるからだ。

あれは、私が高校二年生だった時の春休みのことである。

『青春18きっぷ』で東大寺へ遊びに行った際に、それは起こった。

東大寺に行くのは小学校6年生の修学旅行以来だったが、小学校の時も高校生になったその当時も、奈良公園には鹿が観光客の間を歩き回るほどウヨウヨいて、観光客は鹿せんべいを与えることができた。

そのころから、鹿に負傷させられる観光客が続出していたかどうかは知らないが、修学旅行の時にやられた人間なら知っている。

他のクラスの金子浩という奴で、鹿にいたずらした結果、突き飛ばされて返り討ちにされたらしい。

金子はその後、「鹿に負けた男」と呼ばれて、学年最弱の烙印を押され、小学校卒業まで嘲笑され続けた。

小学生の頭の中では、人間が鹿に負けるわけはないという認識だったようだ。

実は私もその一人で、高校二年になっても、それは変わらなかった。

鹿にやられるなんて人間として恥ずかしいと、頑なに信じていたのだ。

また、体はでかいがウサギと同じでおとなしく、何をやっても基本無抵抗であろうとも。

だからその時、地面に落ちている鹿せんべいを食べていた鹿を見た私は、ついつい、いたずら心を起こしてしまった。

背後から、鹿の後ろ足に足払いをかけたのだ。

鹿は後ろ足を私に払われて、一瞬よろけたものの倒れることはなく、前足で踏ん張ってすぐに体勢を立て直した。

さすが四本足の野生動物、かなりバランス感覚はいいようだがスキだらけだ。

そんなんじゃ奈良公園では生きられても、山では生きていけんぞ。

これから、お前はもっと注意力を…。

などとヘラヘラしながら考えていた私の方を、その鹿が向いた。

私を見たその顔は「さっきやったのはお前だな」と言っているような感じである。

そして、つぶらな瞳は白目をやや剥いており、明らかに怒っている様子だ。

何だ、その反抗的な態度は?鹿のくせに。

などと、人間として鹿などに謝罪する気は毛頭ない私は、余裕をぶっこいていたが、いざ向かい合ったとたんに少しビビり始めていたことを告白する。

改めて気づいたのだが、

その鹿は、周りの鹿より一回り以上大きいオスであり、角は切られていたが、体感的に素手で戦ったら勝てそうにない個体だったのだ。

ちょっとヤバかったかも。

と悟ったが、もう遅かった。

一瞬上半身を低くしたかと思ったら、勢いをつけてこちらに頭から突っ込んできたのだ。

当時、体重が50キロを上回るか上回らないかだった私は、もろにくらって吹っ飛ばされた。

だが鹿の攻撃は続き、突進して頭突きを連打してくる。

思わぬ奇襲攻撃にしてやられたが、私だって無抵抗ではない。

切られた角の部分をつかみ、前から腕を回してフロントネックチョークをかけようとしたら、ガジっと腕をかまれて振りほどかれた。

力もかなりのもんなのだ。

さらに、前足で蹴りを入れたと思ったらフェイントで、カウンターで再び下半身に向けて突進してくるなど、結構ケンカ慣れたテクニシャンでもある。

こりゃ勝てん!

鹿の思わぬ戦闘力の高さに一気に戦意を喪失した私は、全速力で逃走を図った。

私は足が遅い方で、高二にして100メートルを14秒台でしか走れなかったが、その時ちゃんとタイムを測ったとしたら、13秒台をクリアできるくらいの、自分史上最速の走りだったはずである。

しかし、草食動物から逃げ切るには遅すぎた。

いいスタートと走りではあったが、走り始めてほどなくして背中に鈍く重い衝撃。

背中に頭突きをくらわされて豪快に転んだ私に、なおも鹿は追い打ちをかけてくる。

地面に転がる私に頭突きはかましてくるは、前足で蹴るはで、滅多打ちで手も足も出ない。

ほかの観光客は「おお~」とか「ああ~」とか言って誰も助けてくれやしなかったが、さすがに奈良公園の職員は見て見ぬふりはしなかった。

「コラー!!!」

とか、大声で叫びながら飛んできて、しつこく私を攻撃する鹿を追っ払ってくれた。

危ないところであった。ちょっと遅いが助かった。

しかし、私を救い出した職員のおっさんの第一声は「大丈夫?」ではなく「鹿にいたずらするからこうなるんだ!」だった。

その前の私の所業を見ていたらしい。

さっきの「コラー」も私に向けた怒声だったようだ。

鹿にさんざん痛めつけられた後は、おっさんにグラグラ怒られた。

それら一連の様子を他の観光客は興味深そうに見ていたから、私はいい笑い者である。

また、私が攻撃されている間、他の観光客の中には笑っていたり写真を撮っていた者も、横目に入っていた。

彼らにとって私が鹿と職員にやられている様子は、東大寺や鹿とのふれあいと同じかそれ以上に面白かったに違いない。

体を張って彼らに愉快な思い出を提供してしまい、少々シャクでもある。

若気の至りというか、高校生の割にはあまりに幼稚な行為のおかげで黒歴史を刻んでしまったことは確実だった。

この事件で身に染みたのは、「自分はとんでもないバカだ」という幼児の頃から気づいていること以外に、何と言っても鹿の戦闘能力の高さだ。

メス鹿や子鹿にしときゃよかった。

とか考えたこともあったが、子鹿はともかく、体格から判断してメス鹿もそこそこ強いはずであるからナメてはいかんだろう。

あそこまで徹底的やられた私は、現在でもトラウマレベルで鹿の怖さを覚えているし、とてもじゃないが他の観光客のように鹿にせんべいを与えたりして楽しく触れ合うことはできない。

また、奈良公園どころか、奈良県自体に行く気もなくなった。

自業自得だと自分でもわかっているから、なおさらである。

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嫌老青年の主張 ~現代の高齢者は敬われる資格がない~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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私は、某大手運送会社のY運輸で働いていたことは、当ブログで何度も言及している。

アルバイト時代も含めれば、十年以上も勤務してしまった。

まあ正直言って、社会には必要な仕事の一つなのかもしれないが、荷物を仕分けたりするような単純な作業で誰もやりたがらない夜勤だったせいもあるのか、浮世離れした人間が多かった気がする。

勤務していた十年の間に、実に多くの怪人物に出くわしてしまったものだ。

そして、今回ご紹介する加賀雅文も、間違いなくその範疇に入るであろう理由は、極端な屁理屈で理論武装された主義主張と行動原理を有していたからである。

見かけによらない男

加賀は、私と同い年の同学年で、2003年(平成15年)だったその当時28歳。

何年かある大手企業でサラリーマンをやっていたらしいが、その会社を辞めてから、アルバイトとしてY運輸に入ってきた。

パッと見、礼儀正しく、おとなしそうな男である。

働き始めのころは、特に問題を起こすこともなく勤務していたから、あまり目立った印象はない。

しかし、それは二週間ほどで変わることになる。

加賀は、いつも大きな荷物を仕分ける係をやっていたのだが、その日は腰が痛くなったとか言って、一番肉体的負担の軽いベルトコンベアから流れてくる荷物を引き入れる係をやろうとしていた。

我々の部署の班長である新井は放任主義で、人員の配置については、その多くをアルバイト同士の暗黙の了解や話し合いで決めさせている。

そんなこともあって、そこはいつも東野という五十代のおっさんがやることになっていた場所であったが、この日は遅れて来るらしいので空きができていたのだ。

作業が始まって一時間後、東野が出勤して来た。

東野は遅れてきたくせに、いつもの楽な場所をやろうと、そこで作業している加賀に「オイ、交替交替」とか言って、自分に替わらせようとしていた。

このおっさんは、いつもこうだ。

「俺は腰が悪いんだ」とか言って、一番楽なその場所に別の誰かがいると、必ず譲らせようとする。

だが、加賀はその場所を離れようとしない。

東野に何か言われて答えている様子だったが、それが穏やかではない雰囲気に発展していっているのが、遠目からも分かった。

やがて「あ?俺だって腰が痛えんだよ!」とかいう加賀の言葉が聞こえてきて、東野がまた何か言うと、

「今日くらいいいだろ?!」とか「いっつも楽なトコばっかりやってんじゃねーか!!」とか「ふざけんな!同じ給料だぞ!!」とか怒鳴り始めた。

あの大人しそうな加賀とは思えない剣幕で、ドスもかなり効いており、普段偉そうな東野もその迫力に、「いや、その、だからさ…」とか言っててタジタジだ。

さらには、

「体が動かねえなら、いっそのこと家で死んでろ!!!」

とまで言い放った。

やがて班長の新井が飛んできて間に入ったのだが、結局、新参者の加賀は古株の東野に楽な場所を譲らされ、一番きつい元の場所に強制送還されてしまった。

加賀がいなくなると、東野は「なんだあのヤローは?ふざけやがって!」とか、急に威勢がよくなって悪態をつき始めていたが、おさまらない加賀の方は、「年取ってるからって、そりゃおかしいじゃないですか!」とか「不公平ですよ!!」とか、大声で新井に抗議し続けているのが聞こえてきた。

ヒトは見かけによらない、あんな気が荒い奴だとは思わなかった。

私も気を付けよう。

嫌老有理

新人のくせに、曲がりなりにもベテランの東野に反抗するという騒動を起こしたにもかかわらず、加賀はその後も何食わぬ顔で出勤し続け、次の月になるころには職場になじんできた。

また、歳が同じということもあって、私とはよく口を利くようになる。

だが、態度はちっとも穏やかにはならない。

東野に吠えてからしばらくたったある日の作業中には、須藤という東野と同じくらいの年輩のおっさんに対して、「コラ!国民年金払ってやらんぞ!!」とか、ワケの分からんことを怒鳴っていた。

聞けば、大声を出した理由は、須藤が重い荷物の仕分けを「若い人に任せます」とか言って、加賀に押し付けようとしたからだという。

だとしても、ひと回り以上年長の人に、あんな言い方はよくないだろうに。

しかし、加賀は相変わらず「あのオヤジがふざけたこと言うからだ」と聞く耳を持たなかった。

話すようになってすぐに気づいたが、この男はかなり年寄りがお嫌いらしい。

「なんで役に立たんジジババと俺らが同じ給料なんだ」

と、口癖のように言っていたし、なぜか私のことを自分の理解者だと判断したらしく、休憩時間だけでなく帰りの電車の中でも、年長者に関する歪んだ自説を主張し続けていた。

帰り道が途中まで一緒だったので、私は帰りによく捕まって、それを聞かされ続けることになる。

何でも、彼に言わせれば、現代日本の年長者は尊重するに値しないのだそうだ。

加賀によると、まず年長者が年少者から尊重される前提は、多数派の若年人口に対して圧倒的少数派であることだという。

少子高齢化が進み、年長者が多数派になりつつある昨今では、今後ますますこの前提が成り立たなくなる。

そして第二に、年長者の存在意義としては、その豊富な社会経験や知識を有していることだが、それらは昨今の目まぐるしく変化する現代の産業・社会構造の前には、モノの役に立たないことが多いし、その変化についていけないではないか。

つまり存在意義がないばかりか、足手まといですらある。

我々現役世代は、従来の常識も教えも全く通用せず、より複雑でより暗くなる一方の未来に立ち向かわなければならない。

なおかつ、悠々自適を決めこむ多くの高齢者を養うための国民年金を払いながらだ。

彼らのような恵まれた引退後の生活は、絶望的なのにも関わらず。

どちらがどちらを尊重するべきなんだろう?

というようなことを帰りの山手線の電車内で話す時、

28歳の加賀は、いつも優先席にどっかりと座っていた。

本来、そこに座ることができる高齢者が来ても譲る気配は一切なく、恨めしそうにこちらを見てきたら「シッシッ」と追っ払うしぐさをする始末。

優先席には、いつも優先的に座っているのだそうだ。

私はさすがに立っていたが。

さらに、加賀は子供のころから年長者に言われると腹が立って仕方がない言葉があるという。

それは「これからの日本は大変だ」である。

「ろくでもない将来を押し付けられてるみたいじゃねえか!あとは知らねえよ、ってことだろ!?」

あともうひとつ、「今の若い者は恵まれている」と言った年寄りに対しては、殺意を抑えきれないらしい。

「俺たちは、あいつらみたくボーっとした時代を生きてねえんだ、ふざけんな!!」ともよく言っていた。

その二点については、私も確かに理解できなくもないが、電車内でしゃべっているうちにエキサイトしてきたらしく、声が大きくなるのだけは勘弁してくれ。

こちらを振り向く人もチラホラいるんだから。

だが、そんな加賀でも尊重する世代があって、それは第二次世界大戦(加賀は、大東亜戦争と呼んでいた)に従軍した経験のある人たちだ。

結構、右寄りの男でもある。

ただし、尊重すべきは直接戦地に行って戦った経験のある人たちのみに限られ、空襲で逃げ回っていただけの非戦闘員だった連中は認めないとか言ってて、そこは加賀らしい暴論だ。

同時に最も嫌う世代があって、それは戦後の1940年年代後半のベビーブームに生まれた団塊の世代(この当時はまだ50代後半だったが)である。

「アイツらがいるから、日本がおかしくなってきたんだよ!」

どうも、加賀が前の会社を辞めた理由は、団塊世代の上司たちが原因のようだ。

無能で働かず、「もう歳だから」という理由で、こちらにきつい仕事は押し付けてくるは、理不尽な要求はしてくるは、挙句の果てには責任まで押し付けてくるは。

「俺の若い時はこうだった」とか過去の成功体験にしがみついたワケのわからん根性論を振り回し、エクセルやワードも覚えようともしない。

尊敬できる人間は誰一人いやしない、目前に迫った退職までダラダラのんびり過ごすことを決め込んでいるとしか思えなかった。

そのくせ、肩書や給料だけは一丁前に高い!

それに我慢がならなくなり、そのうちの一人を会社で張り倒してしまって退職。

今のアルバイト生活に至ったらしい。

加賀は、そんな生産性の低い奴らが法律に守られてクビにもならず、その役立たずに牛耳られた日本企業は体力を奪われ、結果として国力は衰退して行くのだと主張。

さらに、あと何年もしたら退職した大量の楽隠居が野に放たれ、その後、何十年も福祉に国庫が食われ続けて破滅的状況を招くことになると警鐘を鳴らした。

また、団塊世代が若いころ安保闘争やなんやで好き勝手暴れ、社会の主流となってからは、我が国を間違った方向に導いておきながら逃げ切るのも許せないといきり立つ。

「あのまま、あいつら団塊世代を生かしといたら、日本はまずいぜ!今のうちに半分くらい殺処分するべきだ!!」

いくら個人的な恨みがあるからってそりゃ言い過ぎだろが。

しかも電車の中でそんな大声で。

こいつは右翼どころか、ファシストだ。いや、紅衛兵に近いのかもしれん。

それに、私の両親もお前が言うところの団塊の世代だぞ。

お前は私の両親も殺す気か?

しかし加賀も、「俺の両親だってどちらとも昭和23年生まれでどんぴしゃり団塊だ」とさらりと答えた。

だったら、まずはお前が率先して自分の両親を…、

というブーメランはさすがの私も返すことはできなかったが。

これから高齢者になる者の心構え

「でもさ、上の世代の働きで今の日本があるわけだろ?」などと私が言おうものなら、

「じゃあ、これから先はどうなんだ?今までの功績があるからって、これからは足を引っ張ってもいいってか?」

「だいたい、あいつら一番いい時に生まれただけじゃねえか。あいつらが偉いわけじゃねえ!」

「本当に偉いのは、これからどんどんやばくなる日本で生きなきゃいけねえ俺たちだろ!」

と、数倍の反論が返って来た。

ムチャクチャとはいえ、加賀が年寄りに冷たいのには彼なりの理由があるようだが、一つ重要なことを忘れてる。

それは、「我々も年をとる」ということだ。

爺さんになってから、若い世代に冷たくされたらどう思うんだ?

対する加賀は顔色を変えることなく、「間違いなくされるに決まっているだろう!」と断言。

それどころか、今の若い奴ほど年寄りに親切じゃないはずで、「いつまで生きてるんだ」と、迫害を受けるだろうとも予測していた。

自分たちが高齢者になったら下の世代からゴミ扱いされると達観しているようなのだ。

そして、

「どうせ親切にされないなら、俺たちだって親切にする必要はない」

と力説し、

「罰を受けるなら、好いことやって受けるより、悪いことやって受けた方がマシだ!」

と唸り出したところで、我々の乗る山の手線は新宿駅に到達した。

運がいい。

私はここで降りて小田急線へ、奴はこのまま乗って大塚までだ。

今日は、とりあえずこれ以上とち狂った話を聞かずに済みそうである。

とは言え、考えてみれば加賀の予測どおり、我々が高齢者になった時は、下の世代からの冷遇という過酷な余生が待っていることは間違いなさそうで、彼はそれを覚悟の上であることは何となく理解できる。

暴論とはいえ、少なくとも一本筋は通っているような気がした。

だが、それは私の誤解であったことが、後日すぐに分かることになる。

その日、私はY運輸に出勤してタイムカードを押してから現場に向かうと、人だかりができて騒がしくなっていた。

時々怒声が聞こえるから、誰かがモメているらしい。

「誰と誰がもめてんだ?」と思って近寄ってみたら、もめてる片方はあの加賀ではないか!

今度の相手は、夜10時までの夕勤アルバイトの高校生風の若者で、意外と腕力のある加賀は、若者の胸倉をつかんで押し倒している。

そして例のごとく、ドスを効かせて大声でこう凄んでいた。

「コラ!!ガキのくせにさっきのナメた口のきき方は何だ!?俺が年上だと知ってて言いやがったのか!!」

年長者を尊重する必要はないとか言っときながら、年少者に軽んじられるのは我慢がならないらしい。

単なるならず者であった。

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