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ドブネズミカップルに絶たれた青年の夢 ~1994年・青山学院大生殺人事件~


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東京都世田谷区野毛の閑静な住宅地の中に、あるワンルームマンションが存在する。

1990年代初頭に建てられた二階建てのこじんまりとしたそのマンションは、最寄りの駅から徒歩9分、コンビニや郵便局にも近くて家賃も5万円台とリーズナブル。

都内でありながら落ち着いた生活ができ、大学生が住むにはうってつけの環境だ。

だが、このマンションが建ってほどない頃の今からちょうど30年前、二階の203号室で凄惨な殺人事件が起きていた。

殺されたのは、卒業を目前に控えた大学生。

夢をかなえるために羽ばたこうとしていた矢先の無念の死であった。

非の打ちどころのない好青年

1994年(平成6年)2月15日の夜まで、このマンションの203号室は、まだ瑕疵物件になっていなかった。

この日まで同203号室に住んでいたのは、青山学院大学4年生の学生、和歌山県出身の松本浩二(23歳)。

松本は、このこじゃれたワンルームマンションの住民にふさわしい好青年だった。

高校時代は、短距離の選手で近畿大会に出たほどの実力の持ち主で、青山学院大学入学後は一転してヨット部に入ったが、運動神経抜群の彼はそこでも実力を発揮。

3年生の時には、全国で3位に入ったほどのスポーツマンだ。

だからと言って松本は体育バカではなく、学業もおろそかにしていなかったし、性格もさわやかなナイスガイだった。

進路を決める4年生になると、エアライン・パイロット養成のための公的機関である航空大学校を受験し、競争率7~10倍の壁を突破して見事合格。

4月からは、同大学校で国際線パイロットになるための訓練が始まる。

それは、彼の長年の夢だったのだ。

来月に大学の卒業式を終えた後、その夢の実現に向けた第一歩を踏み出すことになる彼は、幸福の絶頂だったことだろう。

航空大学校は遠く宮崎県にあり、4月までには引っ越さなければならないが、非常に実り多き四年間の大学生活を送った東京を離れるのは名残惜しいものだ。

実家の母親からは、帰ってきたらどうかと電話で言われていたが、松本は残り少ない東京での暮らしをかみしめながら過ごすつもりだった。

だが、後に母親はなぜもっと強い調子で「帰って来い」と言わなかったのかと悔やみ続けることになる。

なぜなら、この日は息子の夢ばかりか、命までもが永遠に絶たれる日となるからだ。

ちょうどこの時、松本の住む部屋の隣室に、その災いをもたらすことになる悪魔たちが、邪悪な企みを実行に移そうとしていたことを、彼はまだ知る由もなかった。

ドブネズミカップル

出水智秀

松本が自宅の203号室でくつろいでいた頃、隣の205号室には、出水智秀(20歳)と飯田正美(20歳)という男女がいた。

二人とも、20歳だが学生ではない。

荒廃した家庭で育った出水は、少年期に当然の権利のごとくグレて窃盗や傷害で少年院に入ったこともあるケチな悪党。

飯田は昨年二月に少年院を出たばかりの出水に、名古屋の繁華街でナンパされて以来付き合うようになったのだが、手っ取り早く金を得ようと日本各地を転々としながら、車上荒らしや盗みなどを40件も繰り返してきたクズカップルだ。

松本と違って、両人ともこのこぎれいなマンションに住まうにふさわしい品性が全くない風貌であり、その前に、この205号室の住民ですらない。

この205号室の本来の住人は、宮崎県出身の大学生、名尾満男(仮名・20歳)であったが、2月6日に帰省して不在であった。

いや、逃げ帰ったと言った方が正解だ。

彼は中学時代に飯田と付き合っていた時期があり、その縁で前年の1993年(平成5年)7月に飯田が出水と一緒に自分の住む205号室を訪ねてきたことがあった。

思春期の淡い思い出がよみがえって飯田との会話が弾んだところ、一緒に来て背後に控えていた出水に「オレの女にナニ慣れ慣れしゅうしとんのや」と因縁をつけられ、それから二度にわたって金を脅し取られていたのだ。

要するに、美人局をかまされていた。

出水たちは、窃盗よりそちらの方が金になると考えたらしい。

今回、実家に逃げ帰ったのは春休みということもあるが、先々週に出水から電話がかかってきて「また近いうち行くから金用意して待っとれや!」と、脅迫されて怖くなったからである。

やがて、出水と飯田は名尾から三度目の恐喝をしようと2月11日に205号室へやって来たが、留守で鍵がかかっていたため、ベランダ伝いに侵入して勝手に生活し始めた。

名尾が帰ってくるのを待つためだ。

その間、無一文のまま来ていた二人は部屋内を物色して見つけた現金を使って生活費としていたのだが、コンビニで買った弁当の空き箱やゴミは散らかしっぱなし、セックスをしては床や布団を汚染するなど、数日間他人の部屋でやりたい放題してきた。

ドブネズミかゴキブリのような奴らである。

見つけた現金を使い果たすと、今度は部屋にあったテレビを質に入れようと質屋に電話したが、学生証と印鑑が必要だと言われて断念していた。

この2月15日夜には、彼らの所持金は数百円を下回るほどになっており、かなり追い詰められた状態に陥る。

衝動的で短絡的な出水は「ここにいても金にならないし、死ぬしかない」などと悲観して、前々日と前日には、この部屋で飯田と心中しようとすらしていたが、その覚悟が足りず死にきれなかった。

部屋の主の名尾や大家には悪いが、こいつらが、この時にめでたく死んでくれていれば事件は起きなかったのだ。

死ぬこともできず八方ふさがりとなった出水だったが、生きるための行動を思いつく。

生まれつき頭が悪くて、困ったら平気で盗みをする男の考えることだから、もちろん犯罪である。

それは、このこぎれいなマンションの住民を襲って金を奪う強盗である。

標的は、隣室203号室の住民、松本浩二だ。

出水は昨年、名尾を恐喝しにここを訪れた際に松本を見ており、顔を覚えていた。

何となく、自分とは違って育ちのいい感じの奴だと記憶しており、金を持っているに違いないと考えたらしい。

肝心の実行計画だったが、彼氏同様お世辞にも利口とは言えない飯田と即興で考えたものらしく、ずさんそのもの。

事件後の捜査で、この部屋から「犯行計画」が書かれたルーズリーフが見つかっており、そこには「計画、隣に侵入する、人がいた場合」とだけ記され、その後は白紙だった。

つまり、思い付きの域を出ず、その後のことや他のこまごまとしたことは「やってしまってから」と考えていた可能性が高い。

こうして、行き当たりばったりで、おぞましい惨劇の幕が切って降ろされることになったのだ。

異常な凶行

飯田正美

今まさに強盗の片棒を担ごうとしている飯田正美は、出水同様に問題のある家庭環境で育ったとはいえ、前年の1993年まで昼は紡績工場で働きながら、保育士を目指して夜間の短大に通うなどまっとうな生き方をしていた。

だが、出水と出会ってから人生が変わってしまったようだ。

流されるままに窃盗を繰り返しながら、一緒に各地を転々とする生活を送るようになったのである。

出水が真面目に働かずに、悪さばかりすることに嫌気がさして別れようとしたこともあったが、結局よりを戻した。

互いに魅かれ合うものがあったので、このクズ男と一緒に行動し続けたのである。

優柔不断で自己主張ができない弱い性格だったとも考えられるが、ここまで出水に付き従って協力している以上、共犯者というそしりは免れ得ないであろう。

犯行は、飯田が203号室のチャイムを鳴らして、中の松本を呼び出すことから始まった。

「隣の部屋の者ですが、ちょっと換気扇の調子がおかしいんですけど、見ていただけませんか?」

夜中にもかかわらず対応した松本は、困った顔した飯田にそう言われて、何の疑いもなく205号室に向かってしまった。

隣に住んでいるのは、名尾という男子大学生であることは松本にも分かっていたはずだが、前述のとおり昨年7月に出水と飯田が名尾宅を訪れた際に顔を合わせており、特に話をした仲ではなくてもお互いに顔を知っていたのだ。

だから名尾の部屋に飯田がいても、以前に見た顔だから知り合いが来ているのだと判断したようである。

だが、もし松本が名尾とよく口をきく仲だったら、彼が出水から脅されていたことや、隣の部屋で起きている異常事態に気づいて警戒したかもしれない。

隣の部屋の中では出水が台所にあった果物ナイフを持って控え、そうとは知らずに入ってくるターゲットを待ち構える。

出水は威勢がいい男ではあったが、暴力を専門とする武闘派の悪党ではなかったからかなり緊張していたらしい。

やがて、松本が部屋に入って来るや、じっとりと汗ばんだ手で握るナイフを突きつけて上ずった声と引きつった顔で、松本を脅した。

「オラ!大人なしゅうせいや!殺てもうたろか!おおん!?」

一方の松本もスポーツマンとはいえ荒事には慣れておらず、元々品のない顔を余計ひきつらせて、刃物片手にわめく出水を前にして声を失う。

その間に、飯田は松本の後ろに回り込み、部屋にあったビニールひもで後ろ手に縛りあげた。

完全にターゲットの制圧に成功した出水と飯田は、縛られた松本を彼の部屋である203号室に引っ立て、そこで足も縛った。

完全に身動きできず恐怖に震える松本は、飯田にナイフを突きつけられ、出水は部屋内を物色して金品を探る。

その一方で、出水は部屋内でタバコを吸ったりテレビゲームをしたりもしていたので、松本にとって生きた心地がしない時間はかなり長かったようだ。

やがて、航空大学校合格を祝って東京在住の母方の伯母がくれたお祝い金5万円の他に、現金3000円とキャッシュカードが見つかって出水に奪われ、暗証番号も吐かされた。

それでも満足できない出水は「もうないんか?殺てまうぞ!」と、さらに金品を要求。

また、「殺す」というチンピラらしい脅し文句も何度か使っているうちに、本当にやる気になってきたとみられる。

これまでの行動から考えて、こいつは行き当たりばったりな性格であったはずだから、感情のおもむくままに犯罪行為をエスカレートさせる傾向があったとみて間違いないだろう。

「金ないんやったらもう用なしや。どっちみち殺るつもりやったけどな」

「ツレに貸した金と、あとあと、サラ金からも借りてくるから!」

「たった5万円で殺さないでくれよ!」

「黙ってるから!警察には絶対言わないからさ!」

死の恐怖を存分に感じ続けていた松本は、出水の雰囲気から自分を今にも殺そうとしていることに気づき、泣いて命乞いをした。

難関の航空大学校に受かって、これからパイロットへの道が開けようとしているのに、死ぬなんて絶対にごめんだ。

だが、この必死の懇願は出水のような社会のゴミには逆効果であったようで、加虐の炎を余計にたぎらせる結果となる。

「死ぬ前に気持ちええことさせたるわ。冥途の土産にせい」

いたぶるようにそう言い放つや「正美、コイツにまたがってイカしたれや」と、飯田に松本と性交するように命じたのだ。

「いや!絶対にいや!!」

飯田は当然拒んだが、結局いつもどおり強引な出水の言いなりになる。

服を脱いで縛られたままの松本の下半身からズボンとパンツをおろしてまたがり、性交を始めたのだ。

飯田は20歳とはいえ性的魅力に乏しい小汚い女だったが、23歳の男の体は正直であった。

松本は気持ちよさそうな顔をするようになり、飯田も反応して体をのけぞらせる。

これを見ていた出水は、だんだん腹が立ってきた。

命じたこととはいえ、自分の女が他の男とヤッて感じているのを実際見ていると面白くないのだ。

「もうええわ!やめいや!!」

飯田を松本から引き離すと代わりに自分が飯田の中に入って絶頂に達し、行為を強制終了させた。

「さて、もうそろそろ死ねや!」

自分がさせたとはいえ、自分の女とヤッた奴なら、何のためらいもなく殺せる。

この異常な3Pの狙いは、そこだったのではないだろうか?

しかし、いざ殺そうとした時に手足を縛っていたビニールひもが緩んで手足が若干動くようになっていた松本が、窓側に転がって立ち上がり、外に向かって大声で叫んだ。

「あああああ!!殺されるうううう!!」

この大声は近所の住民にも聞こえていたことが、後に分かっているが、間に合わなかった。

直後に出水に羽交い絞めにされて、刃物で背中を刺されたからだ。

飯田は前から腹を刺し、二人は胸、頭、首を刺し、切る。

血だらけになって崩れ落ちた松本は、さらに首に電気コードを巻き付けられ、とどめとばかりにしめ続けられて絶命した。

夢の実現に手が届くところで、しかも23年という短い生涯を絶たれる無念はいかほどのものであろうか。

松本が出水と飯田に向けた最後の言葉は「恨んでやる…」だったという。

何の落ち度もない有為な青年を殺した出水と飯田は205号室に戻って、返り血を浴びた衣類や血を拭いたタオルなどを放置し、無神経にも16日の早朝まで寝た後マンションから姿を消した。

底なしの厚かましさと愚かさ

松本の断末魔の悲鳴が近所中に響き渡ったにもかかわらず、住民たちは、誰も通報しなかったらしい。

犯行が発覚したのは、何と二日も後の2月18日午前10時半ごろだった。

それは、和歌山県の松本浩二の母が「16日から浩二が電話に出ない」と心配して東京在住の姉、すなわち松本の伯母に様子を見に行ってくれるように依頼したことによる。

この伯母とは、出水に奪われた航空大学校への入学祝い金5万円を送った人物だ。

203号室を訪れた伯母は、部屋に鍵がかかって応答がないことから不動産会社から合鍵を借りて入り、そこで変わり果てた姿となった甥を発見したのだった。

半狂乱になった伯母の通報で駆け付けた警察による捜査が始まったが、すぐに出水智秀と飯田正美が捜査線上に浮かぶ。

勝手に生活していた205号室まで血の足跡が残り、その室内からは、血の付いたタオルなどの物証が出てきたし、同じマンションに住む学生が不審な男女を見たという証言もあった。

何より、宮崎に逃げていた本来の205号室住民である名尾の口から出水と飯田のことが語られたからである。

捜査本部が置かれた警視庁玉川署は、さっそく二人を重要参考人として手配した。

一方の出水と飯田は、犯行現場を離れた後、静岡県熱海市へ逃亡。

同市内の銀行で松本から奪ったキャッシュカードで現金1万円を引き出したりして当初はホテルにも宿泊したが、パチンコで使い果たすなどして、瞬く間に懐が寂しくなっていた。

すると、雨露をしのぐために、熱海市伊豆山にある企業の別荘に入り込んで潜伏する。

またも無断での侵入であることは言うまでもない。

その逃亡中に自分たちに捜査の手が及んでいることを、テレビで知った。

すでに、青山学院大生が自宅マンションで殺されたことが報じられており、容疑者と疑われている男女が自分たちとしか思えないことが彼らにも分かったのだ。

22日午後四時、所持金も数十円しかなく、もう逃げきれないと観念した出水が決意したのは、またしても勝手に入り込んだ場所で心中することだった。

ここまで他人に平気で迷惑をかけることができる奴らも珍しい。

二人は、別荘内の押し入れに入ってガスコンロを持ち込み、今度こそ覚悟を決めてガス心中を図った。

そして、今度もやっぱり死ねなかった。

ここで出水が信じられないくらいマヌケなことをやらかしたからである。

最後の一服を吸おうと、ガスが充満する中でタバコに火をつけたのだ。

当然爆発が起こり、火元だった出水は大やけどを負ってのたうち回った。

一方の飯田は軽傷であり、苦しむ彼氏を見かねた彼女は、夜になって119番通報。

やって来た救急車で病院へ運ばれたが、二人ともこの別荘の所有者ではないことは誰の目にも見え見えだったために、熱海署に住居侵入の容疑で逮捕されてしまった。

警察にいったん捕まった以上、今度こそ年貢の納め時である。

その日のうちに、青山学院大生殺人の重要参考人であることが判明し、翌23日には捜査本部のある玉川署に移送された結果、両人ともあっさり容疑を認めて強盗殺人容疑で逮捕された。

とことんまでクズな犯人たち

前途有望な青年の命を理不尽に奪った出水は、とことんまでゴミだった。

大やけどを負った出水は、包帯を巻かれ車いすに乗せられて玉川署に移送される際、集まって来たテレビ局などの報道陣を睨みつけて「勝手に撮んなや!ボケェ!!」などと威嚇。

取り調べにおいて容疑をあっさり認めつつも、態度は投げやりであり、被害者についてどう思っているかを聞かれると「知らんわ!」と吐き捨てた。

接見した弁護士が「謝罪する態度がないと罪が重くなる」と言っても、何ら反省の弁を述べなかったという。

移送される出水

3月5日に出水と飯田は住居侵入、窃盗、強盗殺人で起訴され、5月9日から第一回目の公判が始まったが、ここでも出水は、反省の態度を一切見せていない。

「松本さんの件については、何とも思ってません。全然関係のない人ですから、かわいそうだとは思わないです。そんなこと思うなら、殺したりしません」と平然と言い放ったと公判記録にはある。

また、貧乏ゆすりをしたりため息をついたり、早く終わらないかという態度が見え見えだった。

「もう、どうなっても知るもんか」と自暴自棄だったのかもしれない。

9月5日、東京地検での判決公判で「冷酷、反省ない」として、出水には無期懲役の刑が言い渡されたが、ここでも態度は変わらなかった。

退廷する際、腹いせに壁を蹴って出て行ったのだ。

出水は、犯した犯行も残酷で反省の態度も最後まで見せていないし、獄中でも問題行動を起こすなどしていたため、おそらく一生出てくることはないであろう。

一方の飯田は、真摯な悔恨の情を示しており、公判中に出水の子供を妊娠していることが判明する。

それについて「中絶すれば、おなかの子供を殺すことになります。私は二度も殺人を犯したくない」と言って生むことを表明し、出水との婚姻届けまで出すと発言。

「遺族の方には申し訳ありませんが」と断ってはいたが、出水の判決が出た後にワイドショーに出演した松本の父親は、この飯田の発言について「感情を大いに逆なでされた」と怒り心頭で述べている。

こんな胸糞悪い純愛も、なかなかないであろう。

飯田は、従犯的な立場だったことや遺族に謝罪していること、生育歴が不遇だったことが考慮されて、言い渡された判決は懲役15年であり、遺族にとって納得のいく判決とは言い難かった。

その年10月に飯田は女児を獄中出産しているが、育ての親である祖父母は引き取りを拒否したために、女児は乳児院に送られることに決定。

「生まれた子供に罪はない」とよく言われるが、生むべきではなかったと思う。

ただでさえろくでなしの両親も塀の中で不在であるから、まともに育つ環境には思えない。

彼らのような不幸な環境に育つがゆえに、ひねくれるであろう人間を新たに生み出しただけなのではないかと思うのは、本ブログの筆者の偏見だろうか。

こんな奴らに、夢がかなう直前で命を絶たれた松本浩二は、さぞかし無念であったことだろう。

「恨んでやる…」と言って死んだ彼の怨念が残っていたのだろうか。

怨霊となって出水と飯田を祟ることはできなかったようだが、彼が命を奪われた世田谷区のマンションの203号室の壁に残った血痕は、内装業者が何度張り替えても浮き出てきたという。

2024年現在も事件現場となったマンションは存在し、当時の惨状を知らない地方からやって来た学生らが入居し続けている。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、週刊朝日

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2024年 事件 地震 悲劇 本当のこと 能登半島

震災後は余震と津波、そして犯罪者に備えよ ~能登半島地震後に起きていること~


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2024年1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

本稿執筆中の1月7日現在において、救助活動や復旧活動が急ピッチで進められており、地震による家屋の倒壊やその後の津波襲来などで多くの住民が家を失い被災民となっている。

そんな最中、地震で大きな被害を出した輪島市で、災害に付け込んだ悪事を働く輩が現れた。

5日午前8時40分頃、壊れた民家から一つ500円の高級ミカンを六つも盗んだ男が逮捕されたのだ。

その民家は住民が不在で、出てきた見知らぬ男を不審に思った住民らが取り押さえて警察に突き出したという。

男は21歳の自称大学生で、「愛知県からボランティアで来た」などと語っているらしいがとんでもない野郎である。

被災地を助けに来たのではなく迷惑をかけに来ているのだから「逆ボランティア」と言ってもよいだろう。

それだけではない。

4日には富山県高岡市で「国から依頼されて来た」と騙って住宅で復旧作業をしていた人に10メートル一万円という法外な値でブルーシートを売りつけようとした者もいて、そいつは富山県外のナンバーの車に乗っていたという。

その他、厚労省の臨時支援金受付などと言って「電子マネーで手数料を支払えば支援金を受け取れる」などといった内容のメールが届いたとの相談も受理されており、震災に便乗した詐欺も出現し始めている。

空き巣や盗難などの被害も相次いでおり、震災のどさくさで悪事を働くとは実に許しがたい行為であるが、こういった火事場泥棒的な犯罪は今回の能登半島地震特有のものでは決してない。

被災地での犯罪は1995年の阪神淡路大震災の時から問題になっており、東日本大震災や熊本地震の時にも空き家からの貴重品の窃盗や詐欺が頻発していたのだ。

また女性、特に若い女性にはもう一つの危険が付きまとう。

それは言うまでもなく性犯罪だ。

これまで発生した大規模地震後、被災した人のための避難所において性被害を受けたと告白する女性が、少なからずいたことが報告されている。

性被害では、プライバシーが十分保たれているとは言えない避難所で被害に遭うケースが多く、今後どころか、今回から何らかの対策を大至急打つべきであろう。

地震の後に余震や津波、火事、今後の生活の心配に加えて犯罪者にまで備えなければならないのは御免こうむりたいものだ。

こういった震災に乗じた犯罪は、平時においてのものよりも許しがたく、厳しく取り締まられるべきである。

犯人は射殺か地元民による私刑が望ましいが、それは残念ながら論外だ。

ならば、震災後の避難時期か復興時期の期間に限定して、被災地域での犯罪には何割増しかの重い量刑を課すことができるよう法律を改正できぬものだろうか。

ある程度の抑止力として働くであろうことは、間違いないと思うのだが。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、

ライブドアニュース、日テレニュース

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人命第一の裏で見捨てられた命 ~2024年羽田空港航空機事故~

航空業界の非情な現実


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2024年は新年早々災いで始まった。

1月1日午後4時過ぎ、能登半島を震源とする震度7の地震が発生。

石川県の能登半島を中心として、北陸地方に大きな被害をもたらした。

そして翌2日夕方には、全国のお茶の間に、東京羽田空港の滑走路で火災が発生している衝撃的な映像が流される。

当初、二か所で火炎が上がっていることだけが報道されて、なぜその火災が起こったかは分からなかったが、ほどなくして新千歳空港発の日本航空(以下JAL)516便のA350-900と海上保安庁羽田航空基地所属の航空機(MA722)が、羽田空港のC滑走路で衝突したことが報じられ、その後、事故の瞬間の映像も公開された。

原因は、本ブログ執筆中の1月6日時点で調査中であるが、この事故で海上保安庁のMA722は大破・炎上して乗員5名が死亡、1名が重傷を負う大惨事となったことが、その日のうちに発表される。

ちなみに同機は、前日に発生した能登半島地震の被災地に救援物資を運ぼうとしていた。

一方のJAL516便は、炎にからみつかれながら滑走路からずれて停止し、駆け付けた消防隊の決死の消火活動むなしく機体がみるみる炎に包まれる模様がテレビ画面に映され、さらに犠牲者が出ているのではと危惧されたが、516便のクルーの適切な処置で、乗員乗客は全員無事脱出に成功。

旅客機の側に死者が出なかったのは、不幸中の幸いであったと全国の視聴者が安堵した。

だが、この516便では人命こそ失われなかったものの、それ以外で失われた命があったことが後に判明する。

貨物室に預けられていた乗客のペットの命だ。

なぜ助けられなかったのか?

516便に徐々に火が回り、全焼していくさまを観ていた視聴者の中には「貨物室に預けられていたペットはいなかったのだろうか?」と懸念した人も少なからずいたようだが、その懸念は翌日的中する。

事故の翌3日にJALが乗客から、預かっていた犬一匹と猫一匹が、そのまま焼け死んだことが発表されたのだ。

彼らは、火が回る機内に取り残されて見捨てられたのである。

この悲劇を受けて、SNS上でタレントなどの著名人を中心に「ペットも客室に入れてあげるべきだ」「生きている命をモノとして扱うことが解せない」という意見が上がった。

例えば、フリーアナウンサーの笠井信輔氏は自身のインスタグラムを更新して、この事故で愛猫を失った乗客の慟哭のコメントを紹介。

自らも猫を飼っている笠井氏は、他人事と思えず落涙したと述べ、ペットを客室に同乗させることができる海外の航空会社を例に出して、限定的な条件を定めた上で日本でも検討できないかと訴え、犬や猫を飼う人々から大いなる賛同を得た。

また、3日以降二日間で“貨物扱い”禁止を求める署名も1.6万人を超えたことから、この問題への関心は高まっているようだ。

だが、もちろん反論もある。

「犬や猫が苦手どころか、アレルギーの人もいる」

「緊急事態になったら、人命第一なのは仕方がない」

「そもそも、飛行機に乗せることは犬や猫にとって大きなストレスになるはずだから、ペットホテルに預けるべき」

上記のような、もっともな意見もあって論争が巻き起こった。

そうは言っても、犬や猫も人間と同じ命。

暗い貨物室に押し込めて、緊急事態となったら見捨てざるを得ないのは、忍びないというのも事実だ。

笠井氏が言うように、客室へペットを持ち込める海外の航空会社も現実に存在し、日本国内でも「スターフライヤー」という中堅航空会社が、今年1月15日から小型の犬や猫を客室内に持ち込めるサービスを国内の全便において開始する予定である。

だが、いざ事故が起きても、一緒に避難できるわけではないようだ。

非情な現状

そもそも、今回の事故のように乗客が緊急脱出する際、手近にあるからといって手荷物を持って脱出することはできない。

それには理由がある。

手荷物は、通路をふさいだりして他の客の脱出の妨げになる可能性があり、脱出用のスライドを傷つけて空気が抜けた場合に、後から来る客が脱出できなくなりかねないからだ。

これはJALに限ったことではなく、どの航空会社でも規則でそう定めている。

そして、ペットを客室内に持ち込める海外の航空会社も、ペットを「手荷物」に分類している。

つまり、盲導犬などの特例は除くものの、緊急事態においては機内に置き去りにせざるを得ないのが、航空業界の世界的な常識なのだ。

ペットを客室内に持ち込めるサービスを開始する「スターフライヤー」も同様で、「緊急脱出が必要になった場合は、ペットを機内に残して脱出してください」と公式ホームページ内で明記し、サービス利用の際には、ペットの死傷に関して責任を問わない同意書に署名する必要があるという。

たしかに、家族同様のペットを置き去りにして逃げなければならない悲しみは動物を飼っていない人間にも理解できる。

恐怖や苦痛を感じるのはペットも人間と同じだから、「何とかならなかったのか」とも思いたくなるだろう。

しかし、他の大勢の乗客の脱出の支障になりかねないのは事実であって、これを変えることは難しいのが現状となっている。

JALの行ったペットを見捨てさせる緊急避難は、間違ってはいなかったと見るのが正しいのだ。

とは言え、さまざまな意見が交差しているが、前述の笠井氏も述べているとおり、変える努力をしてもいいのではないかと本ブログの著者は思う。

何事も「現状では仕方ないからあきらめる」では、この先の進歩や改善を放棄することになるのでないだろうか。

一寸の虫にも五分の魂。

長いこと連れ添ったペットならなおさらだ。

この悲劇が、航空会社が緊急時のペットの避難について検討をする契機となることを願いたい。

参考文献―Yahoo!Japanニュース、ライブドアニュース

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1986年・中学生と決闘して殺した22歳の男

本記事に登場する氏名は、一部仮名です


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1986年(昭和61年)2月、兵庫県神戸市東灘区にある市営団地で中学三年生の少年が殺される事件が起きた。

殺したのは、同区の県営住宅に住む小林寛智(仮名・22歳)。

一見すると、成人が未成年を殺した許しがたい凶行に思えるこの殺人だが、実は加害者も加害者ならば、被害者も被害者と言わざるを得ない性質の事件であった。

ミニFM局

YouTubeやツイキャスが出現するはるか以前の80年代、ミニFM局が注目を浴びていた。

ミニFM局とは、FM電波を送信する送信機を使って自分の好きな音楽などの情報を不特定多数に発信するミニラジオ局ともいうべきものである。

スマートフォンもパソコンもなかった時代だったから、情報の受け手はもっぱらラジオからだったが、テレビ局やラジオ局ではない一般人が情報を広く発信するという意味では、現代のSNSとやっていることは変わらないから、個人メディアのはしりと言ってもいいだろう。

グローバルに発信できるSNSが定着した現代と違って電波法の規制もあったから、出力できる範囲は限られていたが、それでも自分の意見なり嗜好を多くの人々に知らしめて、何らかの反応や共感を得たいという承認欲求を満たせるツールとして、多くの若者がミニFM局を開設していた。

「FMシティ」のあった県営団地の現在

神戸市東灘区に住む小林寛智もその一人で、小林は1985年7月から、自宅の県営住宅でミニFM局「FMシティ」を開設。

定職のなかった彼は、ヒマに任せて自分の好みの音楽などを配信するようになった。

小林の「FMシティ」の放送エリアは東灘区一帯という狭い範囲だったが(ちなみに当時の電波法に定められた範囲には違反していた)、出だしから好調で中学生を中心に口コミで人気が広がる。

曲をリクエストする電話もかかって来るようになり、中には小林の自宅を訪ねてくる中学生のファンも現れた。

自分より若い世代に支持されていることに気を良くしたんだろう。

小林は、気さくにその中学生を自宅に上げるや、やがてその仲間たちも誘われてやってくるようになり、いつしか小林の家は中学生のたまり場になった。

だが、これが大きな間違いであったことに気づくのに時間はかからなかった。

つけあがるガキども

中学生たちは、主に小林の「FMシティ」が放送される午後11時から午前4時の間に来ることが多く、そのまま泊まっていく者もいた。

中学生のくせにそんな時間に外出していたような者たちなんだから、当然真面目でおとなしい少年少女たちではない。

小林は彼らよりだいぶ年長だったが、当初から同級生のような目線で接したのもいけなかった。

おまけに、年少者からある程度畏敬される兄貴分的な気質もみじんもなかったために、中学生たちは増長。

小林の家でタバコを吸ったり酒を飲んだり、深夜に騒いで近所の住民から注意されると逆ギレして、ビール瓶を投げ込んだりのやりたい放題をするようになったが、小林は特に注意することなく、そのままにしていた。

もっとも、注意していたとしても効果はなかったであろう。

生意気盛りのガキどもは、自分たちに対して弱気と見た小林を侮るようになっていたからだ。

そして「FMシティ」開設の翌年1986年2月、事件のきっかけが起こる。

それは、小林宅に出入りする悪ガキどもの一人である町田理人(仮名・15歳)が、聞き捨てならないことを耳にしたことから始まる。

小林が自分のことを「うざい奴だ」と言っていることを、仲間から聞いたのだ。

反抗期真っただ中の中学三年生でいいカッコしいの町田は、日頃から小林相手に生意気な態度で接し、みんなの前ではナメられまいと威勢よくふるまっていたから、そのままにしておくと自身の沽券に係わると考えた。

小林と賭けマージャンをしたりもしていたのだが、そのマージャンで賭け金やマージャンの打ち方をめぐって、小林ともめていたこともあったから、なおさらムカつく。

「あんガキ、ナメくさりおってからに!白黒つけたらあ!」

町田は、小林よりはるかに年下のガキのくせにいきり立ち、小林と話をつけると宣言した。

中学生にナメられる22歳

小林寛智(仮名・22歳)

1986年2月19日夜7時、町田は勝手知ったる小林の自宅に押しかけた。

こういう穏やかじゃない目的を持っている場合、悪ガキは往々にして一人で行かず何人か引き連れて行くものだが、町田もご多分に漏れず仲間4人を同伴している。

そんなに怖くない相手でも一人で行くのは嫌なのだ。

「おい、小林くんよお。オレの悪口言うとるみたいやけど、どういうことやねん?ああん?」

町田は仲間も来ているから、遠慮なくドスを効かせて対応に出た気の弱い年上男を脅した。

小林は中学生たちにこんな態度をとられるようだから、もともと臆病で見くびられやすい男だったのは間違いがない。

だったとしても、この時、年甲斐もなくはるか年少の少年たちの剣呑な雰囲気にビビるあまり、年上らしからぬことを口にしてしまった。

「言うとらへんよ…、オレちゃうわ。悪口言うとるんは髙澤やて…」

高澤は、町田と同じく小林宅に出入りしている中学生である。

何と22歳の小林は、中学生の高澤に矛先をそらそうとしたのだ。

どうりでガキどもから見下されるわけである。

「ホンマやろな?ほんなら、一緒に本人に聞こうやないか!ちょっとツラ貸せや!」

もう、どっちが22歳でどっちが中学生かわからない。

中学生たちは小林を連れて、近所の市営団地に住む高澤宅に向かい、団地のロビーに呼び出した本人に問い詰めたが、当然ながら激しく否定される。

ばかりか、高澤は悪口を言っていたのは小林だと主張した。

「言うわけないやろ!ええ加減なこと言うてからに!お前が言うとったんやないかい!!」

高澤も町田同様小林のことをナメているのだ。

「やっぱ、そうやったやないか!どう落とし前つけてくれるんや?コラ!」

「いや、落とし前て…んなアホな…」

「タイマンで決着つけようやないか!」

町田は語気鋭く言うや、登山ナイフを取り出した。

若気の至りの代償

何と、町田は素手ではなくナイフでタイマンしようというのだ。

「な、なんやそれは?あかん!落ち着けや…やめとこうや」

「お前もナイフ取れや、おい、誰かこいつに一本貸したれや」

町田は、仲間の一人から折り畳みナイフを出させて、小林に取らせようとする。

彼らの学校のそれなりの素行の生徒の間では、ナイフを持って歩くことが流行しており、しゃれっ気の塊のような町田が握っている登山ナイフは自慢の一品だ。

思春期の町田は仲間もいるし、気が大きくなっていたんだろう。

また、みんなの見ている前で中途半端に終わらせてしまったら、後々見くびられてしまうと考えたのも間違いない。

「なあ、なあ、あかんて、こういうの…。冷静になろうや!」

小林はナイフこそ受け取ったが、勝負しようとしない。

だが、一緒に来ていた少年たちがはやし立てる。

「はよやらんかい!」

「ビビっとんのか?!情けねえ年上やな!」

この時の町田が、どこまで本気だったかは分からない。

本当に刺すつもりだったのか、ハッタリだけで小林が謝罪してくれたらいいやと考えていたのか。

それはこの直後、永遠に確かめることができなくなる。

ナイフを握って、こちらに向かってきた町田を、小林がとっさに受け取ったナイフで刺したのだ。

町田は、うめき声を上げてうずくまった。

小林のナイフは、町田の左わき腹を貫いており血が止まらない。

ロビーにみるみる広がる鮮血を前に、刺した小林はもちろん、さっきまではやし立てていた少年たちも顔色を失った。

町田は、刺された場所が悪かったようだ。

そのまま気を失い、呆然とするあまり周りの者たちの処置が遅れたこともあって出血多量で死亡。

15年という短い人生を自業自得で終わらせてしまった。

事件現場となった市営団地の現在

小林は、その後に駆け付けた警察によって殺人容疑で逮捕される。

「ナイフを持って向かってきたから刺した。殺すつもりはなかった」と主張したが、当然正当防衛が認められるわけはない。

結果的に殺してしまったわけだし、その前に家にやって来た中学生と賭けマージャンをやったり、喫煙や飲酒を放置していたこと、そもそも自身のミニFM局が電波法に違反していたことなどから、刑事責任を免れることはできなかった。

いずれにせよ、だらしなさ過ぎたことが原因で長期の実刑を受けたであろう小林はもちろん、生意気すぎたことが原因で死んでしまった町田も同情するに値しない事件である。

防ぐことはできなかったんだろうか?

無理だったろう。

どっちも救いようがないくらい愚かだったとしか考えられないのだから。

出典元―神戸新聞、毎日新聞

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オレの代わりに受験しろ! ~替え玉受験させるために軟弱陰キャ大学生を脅して猛勉強させた男~


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「加害者も加害者なら、被害者も被害者」と言わざるを得ない事件が起きることがある。

どう考えても加害者は「普通はこんなことやらないだろう」ということをしでかし、被害者は「普通はこんなことやられないだろう」ということをされる事件のことだ。

1975年(昭和50年)に起きたこの珍妙な出来事は、まさにそれにあたり、その「どっちもどっち」さぶりは語り継ぐに値すると考える。

大志を抱く出来損ない

兵庫県姫路市で生まれた片倉卓己(仮名・19歳)は、お世辞にもデキのいい男とは言えなかった。

地元姫路市内の中学を卒業後に、高校受験に失敗。

家庭環境が複雑で家に居づらかったこともあって、1973年(昭和48年)に上京して新聞配達の仕事を始めたが、一緒に働いていた年上の大学生を殴ってクビになってしまう。

その後は東京をいったん離れ、翌年四月に四国の電波系高等専門学校に入学したが、せっかく入った高専も合わなかったらしく一年余りで退学してしまった。

その後、自分探しをするように職に就いたりしていたが、高専を退学した1975年に再び上京する。

科学技術に興味のあった片倉は、いつしか科学者になりたいと思うようになっており、それを実現するために、理系の大学に入ろうと受験勉強をするつもりだったのだ。

しかし、その夢は、片倉の知能を大きく上回っていた。

高校を卒業していない彼は、まず大学受験の資格を得るために大学入学資格検定(現・高等学校卒業程度認定試験)をパスする必要があり、大学入学試験は、それよりさらに難易度が高かったのは言うまでもないが、どちらもからっきし合格する自信がなかったのである。

普通なら、この時点であきらめるし、だいたい19にもなったら自分の能力や資質をある程度把握して見て、いい夢と悪い夢の区別くらいはつくはずだが、片倉にはそれが分からなかった。

どうしてもクリアしたいが、全く自信がない試験にどうやったら受かることができるのか?

普通のバカならば、やるだけムダな受験勉強をダラダラ続けたことだろう。

だが、片倉はそんじゃそこらのバカとはレベルが違った。

その劣悪な頭脳で思いついたのは「自分の代わりに誰か頭のいい奴に受験させる」ことだったのだ。

そして、そんな都合のいい奴に心当たりがあった。

気弱な大学生

だいたい、入学試験にも合格できない者が授業についていけるわけがないのだが、片倉は合格して入学さえしてしまえば、こっちのもんだとでも思っていたんだろう。

間違いなく頭が悪い。

しかし、片倉は頭こそ悪かったが、行動力が抜群にあった。

思いついたら、すぐ行動なのだ。

つまり、バカなぶん相当タチが悪い。

上京して借りた部屋は、北区十条のアパート。

そこには、顔見知りが住んでいたからなのだが、その顔見知りとは、最初に務めた新聞店で片倉が殴った大学生だった。

その大学生、本田雄介(仮名・21歳)は某工科大学の三年生で年上だったが、極端に気弱な男であったために、ちょっと脅せば言うことを聞いてくれる奴である。

新聞店にいた時に殴ってしまったのは、日ごろからいいように使っていたところ、ちょっと気に入らない態度を見せたことからついカッとなったからだ。

そんな奴と同じアパートに引っ越してきた目的は言うまでもない。

目的どおり、自分の替え玉として受験させるためだ。

本田はヘタレだが腐っても大学生である。

試験がからっきし苦手な自分が受験するよりも、合格する確率ははるかに高い。

6月ごろ、片倉は本田に自分の替え玉となって受験するように強要。

その際「オレは地元にヤクザのツレがおってのう。嫌や言うんやったら、そいつも連れて来たるで!」と見え見えのハッタリまでかました。

とんでもない無茶ぶりだが、本田は元々気弱すぎるうえに、以前片倉に殴られたこともあって、恐怖が身に染みていたと思われる。

その要求を嫌々飲まされた結果、受験勉強地獄が始まった。

受験勉強地獄

いくら大学生とはいえ、何もせずに一発で合格できるとは思えない。

念には念を入れて、やりすぎなぐらい勉強するのが望ましいのだ。

片倉は、受験で必須となる科目の参考書を本田に買い与えて学習スケジュール表を作成、一日五時間の受験勉強を義務付けた。

勉強は片倉の部屋でさせ、その間つきっきりで本田の勉強を監視。

本田はアルバイトの新聞配達をしつつ昼間は学校に通っているから学習中にウトウトすることがあったが、片倉は甘やかさない。

ちょっとでも居眠りしようものならば「合格する気あんのか!!わりゃあ!!」と、タバコの火で根性焼きか鉄拳制裁だ。

片倉は、自分が勉強する場合はダラダラやっていたが、他人に勉強させる場合は熱心かつスパルタなのだ。

自分の夢を実現するためなんだから、手は決して抜かない。

本田の家財道具も没収して自分の部屋に運び込み、「逃げた場合はこれを処分する」と脅した。

本田も本田で、いくら気弱で自分で抵抗する勇気はなかったとしても、学校や周囲の人間に相談するくらいできそうなものだが、対人恐怖症的なところもあったのか相談できる友はなく、東京で唯一知っている人間は片倉だけだったようだ。

知人が片倉のようなバカしかいないとは最悪である。

強制受験勉強が始まって一か月後、本田の大学は夏休みに入った。

だが、本田に遊ぶ時間はない、夏休みを制する者は受験を制するのだ。

学習時間は、なんと12時間にされてしまった。

これでは、授業がある時よりきつい。

本田がウトウトする頻度も多くなり、そのたびに、片倉によるお仕置きにも力がこもる。

「もうすぐ大学入学資格検定やぞ、分かっとるんか!!?」

そして、大学の夏休みも終盤を迎えた8月28日、朝から英語の学習をさせられていた本田がまた居眠りを始める。

「ナニ寝とるんじゃい!ボケェ!!」

この日、特に機嫌が悪かったらしい片倉は激怒し、火で熱したナイフを本田の右腕に押し付けた。

「あっつううううう!!!!」

この暴行には、さすがの本田もたまりかねたようだ。

同日午後1時ごろ、今までされるがままだった彼は、隙をついて部屋から脱走。

110番通報した結果、駆け付けた警察官によって片倉は暴行傷害の容疑であっさり逮捕され、その実現方法を大いに間違えた夢は潰えた。

自分が受かる自信がないから、他人に受験させようと勉強までさせ続けていたこの奇特な事件だが、加害者の片倉も相当なバカだが、被害者の本田もかなりのもんであろう。

一番悪いのは片倉だが、ここまでされるがままだった本田も問題だと言わざるをえない。

極端にバカで凶悪な奴と極端に気弱な奴が出会ったからこそ起きた世にも珍妙な事件であった。

出典―読売新聞、毎日新聞、朝日新聞

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昭和の超戦闘的暴力団抗争 ~1964年・第一次松山抗争~


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1964年(昭和39年)ごろの日本は、社会全体に活気があった。

高度経済成長の真っただ中だったし、この年の10月には東京オリンピックを控えており、三種の神器と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が全国の家庭に普及して、生活が目に見えて便利になっていくのを体感できるなど、現在も未来も明るかった時代だ。

当然、日本企業も一般庶民も元気だったわけだが、そうであってはまずい人たちも元気だった。

すなわち、反社会勢力、暴力団のことである。

その中でも最も威勢が良かった組織の一つが、ご存じ現在も神戸市に本拠を置く山口組であり、すでに西日本を中心に日本全国へ地元組織を屈服させながら、勢力を拡大中であった。

そして、その魔の手は四国の愛媛県松山市にも伸ばされ、同市を仕切ってきた地元暴力団の郷田会と対立。

1964年6月には、その対立がエスカレートして、現在なお語り草となっているパワフルな抗争が勃発した。

当時のサンデー毎日が報じた暴力団事情

抗争の発端

もめごとのきっかけは1964年4月2日、三代目山口組(田岡一雄組長)の直参である矢嶋長次(28歳)率いる矢嶋組が、愛媛県松山市大手町の大陸ビルの一部屋を「八木保」という人物の名義で借りたことから始まる。

矢嶋組は、電通局の下請業者として協同電設株式会社を設立し、電気工事事業を始めようとしたのだ。

だが松山市内の同事業は、それまで地元暴力団である郷田会が牛耳っていたために、山口組二次団体である矢嶋組の参入は、同会にとって縄張り荒らしも同然の行為であって面白いわけはなく、軋轢が生じ始めていた。

ちなみに郷田会は、関西を舞台として、当時まだ山口組と対等に張り合うことができた広域暴力団・本多会の二次団体である。

巨大組織をバックにする両者が衝突する事態になったのは、矢嶋組が協同電設株式会社を設立した2か月後の6月。

6月2日に、矢嶋組は再び「八木保」の名義で東雲ビルと入居契約をし、同3階を借りて事務所としたのだが、この東雲ビルこそが、その後の銃撃戦の舞台となる。

そして、三日後の6月5日に最初の事件が起きた。

同日の夜11時ごろ松山市内のバーで矢嶋組組員・末崎康雄(30歳)とその舎弟の門田晃(19歳)が酒を飲んでいたのだが、そのバーのママは矢嶋組と一瞬即発になっていた郷田会の会長と関係の深い女。

郷田会の息がかかっていることを自認するママは、敵対組織の手下が自分の店に来たことを訝って「矢嶋組の若いモンが来とる」と郷田会の事務所に連絡、いきり立った郷田会の組員・野中義人(20歳)ら数人がバーに殺到した。

肩を怒らせてバーにやって来た野中たちは、末崎ら二人を見るなり怒り狂った。

末崎たちは、ついこないだまで自分たちの郷田会事務所に出入りしていたチンピラであり、ゆくゆくは、こちらの身内となるはずだったのに、敵である矢嶋組のバッチをつけていたからだ。

「こん裏切りモンが!」

郷田会のヤクザたちは、末崎と門田を拉致。

末崎は逃げたが、取り残された門田は、さんざん暴行を加えられて拳銃で銃撃までされてしまった(拳銃が粗悪な模造銃だったためにさほど威力はなかった)。

翌6月6日、矢嶋組の側は一応この件について市内の喫茶店で郷田会幹部と話し合ったが、「ウチの若いモンやった奴出せや」だの強硬だったために、物別れに終わる。

すでに矢嶋組の方では、組員一同昨晩の事件について話し合った結果、「ウチにケンカを売っている」ということで、意見が一致していたのだ。

ヤクザ者同士が話し合いで決着しないなら、どう決着をつければよいかは決まっている。

同日のうちに、矢嶋組組長の矢嶋長次は戦争の準備を命じ、事務所となっている東雲ビル3階に、きっかけを作った末崎をはじめ銃器を持った組員たちを待機させた。

白昼の銃撃戦&籠城戦

6月7日(日曜日)午前10時、矢嶋組が早速行動を開始する。

末崎ら矢嶋組組員数人は東雲ビルを出て、郷田会傘下組織の岡本組の組員・阿部公孝(20歳)を阿部の自宅の付近で、拳銃を突きつけて拉致、東雲ビル3階に監禁したのだ。

そして午前11時、岡本組・岡本雅博(29歳)組長に電話をかけて、「テメーんとこの若いモン預かっとるから受け取りに来んかい」と挑発し、これを受けた岡本組組員・金昌二(22歳)や野中義人はじめ4人が、自動車2台に分乗して東雲ビルに急行する。

言うまでもなく、金たちは猟銃や拳銃などの道具持参だった。

午前11時50分頃、東雲ビルの近くまで来た岡本組組員の乗る車2台は、通りを歩いていた矢嶋組組員であるくだんの末崎ら2名と出くわす。

末崎たちは拳銃を持っていたが、分が悪いと見て逃走、発砲しながら追ってくる乗用車2台に応射しながら、東雲ビルに向かって走っていく。

この際に、末崎が猟銃の散弾を受けて負傷したものの、2人とも東雲ビルに逃げ込むことに成功した。

ビル内の矢嶋組事務所には末崎含め同組員が8人おり、岡本組の車2台が東雲ビル前の路上に到着するや、3階の窓から数人が車2台にめがけて、拳銃や猟銃、ライフルを発砲、岡本組組員の野中と金、もう一人の未成年組員(19歳)が被弾する。

岡本組の組員たちも車を盾に応戦し、白昼堂々の銃撃戦が始まった。

あさま山荘や少年ライフル魔の事件のように犯人の側がほぼ一方的に銃撃するものではなく、銃器を持った双方が互いを狙って複数発撃ち合う正真正銘の銃撃戦である。

銃撃する矢嶋組組員

これら一連の銃撃戦は市内の公衆の面前で行われたために、管轄の松山東警察署には110番通報が殺到、12時5分頃には、通報を受けた同署の捜査員6名が防弾チョッキ着用で東雲ビル前に急行したが、この人数で足りるわけがない。

とは言え、警官の出現はすで3人が負傷している岡本組組員たちには効果があったようで、4人は車に乗って逃走した。

彼らはその後、犯行に使った銃器持参で警察署に出頭している。

だが、問題は東雲ビルにいる矢嶋組の組員たち8人である。

彼らは、そのまま銃器を持って籠城を続けていたのだ。

中には、人質にされた岡本組の阿部もいる。

午後1時頃までに、非常招集に応じた松山東警察署員が現場に到着し、東雲ビルの周りの交通を遮断、最終的には各警察署から応援で駆け付けた約250名の警官隊が包囲。

また、この日は日曜日であったこともあって、現場には野次馬が約千人も集まってきた。

警察は、籠城する組員たちに投降を呼びかけたが、全く応じる気配がないどころか、それに威嚇射撃で答え、その銃口を警官隊の次にうっとうしい野次馬たちにも向けて「撃ったろか、素人ども!」と吠える始末。

午後2時半に、最初の銃撃戦で被弾した矢嶋組組員の末崎が人質の阿部を連れた上にライフルと猟銃、拳銃を持って投降したが、残る7人は時々威嚇の発砲をしながら立てこもり続けた。

その後、説得を続ける警官隊に対し、籠城する矢嶋組組員の一人である片岡正郎(23歳)が「午後4時までに全員降りてくる」と答えはしたが、午後4時を過ぎても投降してくる気配はない。

警察の側にも、強硬手段を講じる時が来た。

警官隊は予告の上、東雲ビルの3階の窓へ催涙弾2発を撃ち込んで20名で突入。

乱闘の末、矢嶋組組員7人全員を逮捕した。

矢嶋組のヤクザたちは銃器こそ持っていたが、それを使うことなく拳で抵抗したらしい。

この突入で警官2人が負傷、その腹いせか、組員たちは警官に殴られながら連行されていった。

その後

この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に、野次馬にもけが人はなかった。

しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。

白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだ。

事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。

また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。

だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。

両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。

その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。

後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。

矢嶋組は、組長の矢嶋長次が、後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。

一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も、翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。

ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。

飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。

出典元―愛媛新聞、朝日新聞、読売新聞、サンデー毎日

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1982年・女子高生監禁暴行事件


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女子高生を監禁した事件と言えば1989年に発覚した東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人が悪名高いが、同じような悪さをする奴はこの事件の前後にも時々現れている。

この1982年(昭和57年)8月25日に発覚したこの事件では、被害に遭った女子高生は幸いにも殺されることはなかったが、犯人の非行少年少女グループの極悪ぶりは、かなりのものであった。

ガードが甘すぎる家出少女

学校が夏休みに入った1982年7月20日、神奈川県逗子市に住む私立高校一年生の米山成美(仮名・15歳)が家出した。

何が原因かは報道されていないが、黙って家を飛び出た成美が向かった先は東京。

それも、よりによって魑魅魍魎跋扈する新宿区歌舞伎町であり、未成年の女の子が日本一ひとりで行ってはいけない場所であった。

何の当てもなく歌舞伎町を歩いていると、さっそく声をかけてきた者が現れた。

成美と同い年かちょっと上くらいの少年で、どう見ても普通に高校に行っている感じではない。

知り合いもおらず行く当てのあるはずのない成美に、その少年は親しげな感じで「オレらのトコに来ねえか?」と誘ってくる。

どう考えても危険なにおいがするし、この時点で事件に巻き込まれるフラグが立ちまくっているが、成美は愚かにも、その誘いに乗ってついて行ってしまった。

15歳にもなったら、普通は声をかけてきた見ず知らずの相手について行くのが、いかに危ないことか分かるはずだ。

しかし家出するくらいだから、成美は家庭環境か素行に全く問題のない少女ではなかった可能性が高い。

年ごろから推測して不良を気取っていたか、あこがれていたかもしれず、相手がヤンキー丸出しの少年であっても、類友だから安心だとでも思ったのだろうか?

いずれにせよ、それが大いに軽率であったことを後日思い知らされることになる。

生涯忘れることができないであろう地獄の夏休みになったからだ。

監禁生活

その少年の言う「オレらのトコ」とは歌舞伎町からほど近い新宿区百人町にあり、18歳のホステスと女子高生、男子中学生姉弟が住んでいた。

本当は父親がいるが病院に入院しており、それに乗じて少年少女たちのたまり場となっていたようだ。

もちろん、どいつもこいつもまともなわけはなく、喫煙や飲酒ばかりか、シンナー遊びまでが行われる不良の巣窟である。

当初新入りの成美は、このろくでなしグループと遊びに行くなど、一見受け入れられたような感じだったが、それは長くは続かなかった。

新入りだからか、それとも不良の世界では下に見られていたらしく、ぐうたらな姉弟に炊事洗濯などの家事を命じられ、うまくできないと殴られるようになったのだ。

おまけに、出入りする少年たちに輪姦されてしまった。

地獄の始まりだ。

成美は、このろくでなしたちに逃げないように監視されて監禁状態になり、毎日面白半分にいじめられるようになる。

犯されたり、恥ずかしいことをさせられたり、よってたかって顔をパンチされたり、バットやベルトで殴られたこともあった。

その間、食事も満足に与えられず、成美は顔がパンパンに腫れて衰弱し、変わり果てた姿となっていく。

だが成美は、後年足立区で同じように監禁されて虐待され、殺されてコンクリ詰めにされた女子高生よりは幸運だったようだ。

一か月以上後の8月25日午前、見張りの少年の隙をついて脱走に成功。

そのまま、最寄りの戸塚三丁目派出所に助けを求めて駆け込んで、署員に保護される。

その後ホステス姉弟はじめ、監禁にかかわった15歳から18歳までの少年少女9人は暴力行為・傷害容疑で現行犯逮捕された。

しかし駆け込んだ際、成美は裸足で着ていた服は家出した時のままで垢や血で汚れており、顔を腫らして全身あざだらけで全治一か月の重傷。

ひと夏の火遊びは、心にも体にも大きなダメージを負う結果となってしまった。

出典元―朝日新聞、読売新聞

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地獄の集団就職 ~高度経済成長の生贄にされた金の卵たち~


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「集団就職」という雇用の形態が、かつての日本にはあった。

ご存じの方も少なからずいらっしゃることであろうが、一般的には高度成長の時代に盛んに行われた、地方の中卒者らが大都市の企業や店舗などへ集団で就職することを指す。

「金の卵」とも呼ばれた彼らは年端もいかぬ年齢で親元を離れ、故郷から遠く離れた都会の職場でホームシックに苛まれながら厳しい労働に耐え、ある者は後にその会社の中核となったり、またある者は起業して経営者となったりと、日本の発展を支える存在となっていったことはもはや伝説と言ってもよいだろう。

だが、伝説に謳われているように職場で懸命に働いた努力が報われて成功した者たちばかりではなかった。

中には厳しい環境に耐えられずに離職してしまった者もいたが、そもそも、その職場環境自体が人間の生存に適さない、すなわち超ブラック企業だった場合も多かったのだ。

本ブログでは『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された記事から、こうした悪辣な企業の餌食になって夢も希望もつぶされて故郷に逃げ帰った少年たちを例にとり、集団就職の暗部をご紹介しよう。

祝福されて地獄へ送り込まれた少年たち

1959年(昭和34年)3月25日午前9時、群馬県高崎市市役所前から、七台のバスが出発した。

それぞれのバスに乗っているのは、つい先日中学校を卒業したばかりの少年少女たち約240名、職安や教員ほか同市の関係者らに盛大に祝福されて集団就職のために東京へ出発する「金の卵」たちである。

バスの外では彼らの親たちも駆けつけ、寂しさと感慨の入り混じったまなざしで、我が子の早めの巣立ちを見送っていた。

まだ十代半ばの少年少女たちは、涙をにじませて窓の外の親兄弟たちに手を振り、親元や故郷を離れる心細さやこれから始まる新たな生活への大いなる不安とかすかな希望を胸に一路大都会東京へ向かう。

若者たちを乗せたバスは国道17号線を南下し、およそ100㎞先の東京都千代田区にある九段会館に到着したのは正午過ぎ。

ここ九段会館では、在京の群馬県出身の有力者による「受入式」という大げさな式典が行われ、彼らは地元群馬県選出の自民党幹事長・福田赳夫(後の第67代内閣総理大臣)などお偉方の長ったらしい祝辞を聞かされた後、それぞれの就職先の責任者らに連れられて東京各地に散って行くことになる。

このように大仰に送り出された「金の卵」たちの中に阿部慎(仮名)、江田紘孝(仮名)、松林宜秀(仮名)という三人の少年が含まれていた。

彼らは他の者たち同様、ついこないだ中学の卒業式を終えたばかりで、就職先は高千穂ランプ(仮名)という自転車や自動車のランプ及び関連部品を製造する従業員数180名あまりの中小企業だ。

新しい職場へ行くことは何度転職を経験していたとしても期待より不安が勝るものだが、15歳かそこらで社会へ放り込まれることになる安倍たちにとってはなおさらである。

そうは言っても、大きな安心材料もあった。

それは出身中学こそ違えど同じ群馬県出身で、これから同じ職場へ向かう“戦友”が17人もいたことだ。

また、彼らには他にもこれからの新生活に期待を持たせる要素もあったようである。

阿部慎は地元高崎の職安で高千穂ランプの社員寮には当時まだ広く普及していなかったテレビがあると聞かされており、仕事終わりには、毎日実家にはないテレビが見れるであろうことを楽しみにしていた。

また、家を出る際に母親がいなりずしを持たせようとしてくれたが、昼食くらい出してくれるだろうと思って持ってこなかったという。

江田紘孝は、野球を見るのもやるのも大好きだ。

安倍と同じく地元の職安で高千穂ランプの社長と面談した際に「野球が好きだ」と言ったところ、社長はにこやかに「そうか、君は野球が好きか。じゃあ、仕事に慣れてきたら、みんなで野球大会をやろう」と言ってくれたらしい。

「社会人になっても野球ができる!」と、その時江田はうれしくてうれしくて仕方がなくなり、これから始まる社会人生活も悪くないだろうと信じていた。

松林宜秀は比較的向学心が旺盛で、家が貧しい農家でなかったならば高校に進学していたはずの少年である。

彼は姉に買ってもらったノート十冊と万年筆を持参し、通信教育を受けるための会費も払い込んでいた。

仕事の傍ら勉強するつもりだったのだ。

しかし、彼らのほんの些細な希望は入社早々ことごとく裏切られるばかりか、絶望のどん底に叩き込まれることになる。

情報が限られていたうえに社会経験が未熟な中学生だったから仕方のない話だが、知っていたのならば従業員数180人の会社に群馬県出身の新入社員だけで17人というのが何を意味するのか気づくべきだった。

高千穂ランプはパワハラや長時間労働が横行するブラック企業だらけだった昭和30年代においても、その漆黒さがトップクラスの超ブラック企業だったのだ。

時間も金もむさぼられる金の卵たち

高千穂ランプの作業場兼寮

少年たちが社会人生活をスタートさせることになる高千穂ランプは東京都東部の江東区にあった。

安倍は初日となるその日のうちに、高千穂ランプの工場の二階にある「第一寮」と呼ばれる社員寮に入居したのだが、第一日目から嫌な予感を感じることになる。

その部屋は日当たりが悪くて暗く、背の低い安倍でも手を伸ばせば手が届くくらい天井が低いのだ。

また、その部屋は八畳ほどの広さしかないのだが、入居者は安倍とそれ以外の新入社員七人。

一人あたり一畳しかスペースがなく、楽しみにしていたテレビもない。

「受入式」でも会社からも昼食すら出なかったし、この住環境を前に少々嫌な気分になったが、その日は一つ屋根の下で同じ年頃の少年たちばかりということで修学旅行のようなノリになり、荷解きをしながらワイワイ言っているうちに、そんな気分は消えていった。

しかし、翌日になって少年たちは超ブラック企業の洗礼を本格的に受けることになる。

第二日目となったその日、他の者たちと一緒にさっそく工場に投入された安倍は、コンベアの上でヘッドライトを組み立てる作業を任された。

それは新人でもすぐできるようになる簡単な作業であったが、初めてやる作業なんだから、もう一度やり方を確認してからやるべきだ。

高千穂ランプの作業場

そう思った慎重な性格の阿部が職長と呼ばれるこの現場の責任者である中年男に作業のやり方を改めて聞いた時、社会に出てまだ二日目の彼にとって信じられない反応が返って来た。

「説明してやったろ?二回も聞くんじゃねえ!!だいたい仕事ってのはな、見て覚えるモンなんだよ!!!」

と、とんでもない大声で怒鳴られたのだ。

確認しようとしただけなのに、何でこんな剣幕で怒られなければならないのか。

安倍は一挙に委縮した。

どの時代のどの職場にもいるが、「仕事は見て覚えろ」と言う奴は新人に指導することを面倒くさがっているだけであることが多い。

この職長は、まさにそんな手合いであったようだ。

そして、こいつは怠慢で気が短いだけでなく陰険な奴でもあった。

「こんなのバカでもできる仕事だけどよ、オメーは初めてなんだからこれやれ」と、

もう一人の新人である松林にランプ磨きを横柄に命じたのだが、さっき安倍を怒鳴った剣幕を見て縮みあがっていた松林は緊張のあまり手を滑らせてランプに指紋をつけてしまう。

すると「このボケ!そんなこともできねえのか!!」と罵声を浴びせたばかりか、

「おい!オメーら!!このバカみてーにボケーっと仕事してんじゃねえぞ!」などと、他の人間に聞かせるように松林を吊し上げるのだ。

新入社員たちは一挙に凍り付いた。

こんな横暴な奴が上司で、気持ちよく働けるわけがない。

さらに高千穂ランプは、労働環境や待遇も負けず劣らず劣悪だった。

会社の始業時間は午前8時ということになっていたが、実際は午前7時から開始であり、その一時間分の時間外手当はつかない。

そして残業は午後10時くらいになることもあり、休日にいたっては月二回。

寮で出される食事も貧相かつ劣悪で、米は異臭漂う三級品。

おかずは、朝は菜っ葉と味噌汁、昼はカブの煮つけとつくだ煮、夕は漬け物だけで魚がつくことすら滅多にない。

極めつけは一月の給料が5500円だったが、そこから寮の食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代や寮費などを差っ引かれると手取りは1000円しか残らないことが先輩からの話で判明した。

タコ部屋顔負けの搾取である。

一週間にもなると「こんなトコ辞めたい」が彼らの合言葉になったというのも無理はない。

そして翌4月になって、早々それを実行に移した者が現れた。

仕事の傍ら勉強しようとしていた松林だ。

横暴な職長や奴隷労働そのものの職場環境には、もちろん我慢ができない。

何より、勉強して知識をつけ、金をためて独立しようともくろんでいた松林は、高千穂ランプの長時間労働と薄給ではそれが半世紀くらい後にならないかぎり不可能であることに気づいたのだ。

4月2日、彼は「実家に相談しに行く」と仲間たちに告げて寮を出て行ってしまった。

松林の離脱がトリガーとなり、翌3日にはテレビを毎日見れるという約束を反故にされた安倍と野球をする時間もないことに不満の江田、そして他数名の少年たちが早朝に寮から脱走する。

故郷へ向かう列車が出る上野駅で「雇い主に黙って出てきたんじゃないか?」と警官に呼び止められて補導されはしたが、ひどい職場環境であったことなどを説明した結果、会社に戻されることなく群馬に逃げ帰ることに成功した。

無責任で薄情な大人たち

当時の『週刊明星』の記者は少年たちに取材したばかりではなく、高千穂ランプや送り出した群馬県の関係者にも話を聞いている。

まず張本人の超ブラック企業「高千穂ランプ」常務・石黒勉(仮名)は取材に対しこう語った。

「中小企業は労働基準法どうりやってたら経営が成り立たないんだよ。だいたい、そんなきついことやらせてないはずだよ。何で逃げたかわかんないね。職長がおっかなかったとか言ってるみたいだけど、あの人は職人気質なんだから仕方ないだろう」

すがすがしいほど奴隷労働をさせていたという意識も反省もない。

石黒という奴は、ブラック企業の役員どころか、限りなく奴隷商人に近い思考回路の持ち主であると言わざるを得ない。

そして、安倍の中学三年生時のクラス担任だった瑞田由紀子(仮名)は、

「一生その会社でコツコツやるという意識がない子が最近は多いですね。理想と現実が合わないとすぐやめてしまう」

もう卒業してしまったら、教え子ではないとばかりに他人事だ。

昔の教師もこんな手合いはいたようである。

もう一人の当事者で、安倍たちに高千穂ランプを紹介した職業安定所職業課長の幸迫義則(仮名)は、

「高千穂ランプは定着率が悪くってね。毎年三分の一はすぐやめて、こっちに帰ってきちゃうんだよ。あそこは管理がなってないんじゃないかな」

定着率が悪いことや管理がなっていないのを知っていて紹介したということだ。

紹介して送り出しさえすればよいという考え方で、その後は知ったこっちゃないと言っていると理解すべきだろう。

『週刊明星』によると、高千穂ランプでひどい目に遭った安倍たち以外にも、

「雇い主の子供に殴られているのに、その雇い主である両親は黙って見ていて止めようともしない」

「御用聞きに行った客先で待たされて、帰ってきたら「帰ってくるのが遅え!」と怒鳴られた」

「雇い主の主人と妻が夫婦喧嘩し、八つ当たりされた」

などなど雇われ先で理不尽な目に遭わされた少年少女は少なくなく、記事が掲載された昭和34年の4月8日の時点で、職場から故郷に逃げ帰ろうとして上野駅で保護された者が32名もいたことが報告されている。

単に根気がなかっただけの者もいたんだろうが、就職ガチャで大ハズレを引いてしまった不幸な者も多かったはずだ。

もっとも、高度経済成長中とはいえ、まだ貧しかった当時の日本は、他人をそこまで思いやるほど余裕のある社会ではなかったとも考えられる。

また「金の卵」とかいいつつも、少子高齢化になって久しい現代の日本と違って、若者は吐いて捨てるほどいたから、代わりはいくらでもいたと多くの職場では考えていたのではないか。

だがいずれにせよ、多感な十代中盤で社会に出たとたんに最悪の職場に出くわしてしまった安倍たちは、その後の人生に深刻な悪影響が出たはずだ。

本ブログの筆者の体験から言って、社会に出たばかりの時の経験は、後々の社会人人生に大きく影響する。

社会人一年生の時点でひどい会社に入ったり、ひどい上司にパワハラを受けてすぐやめてしまった経験は、言い方は悪いが強姦されたに等しい災難で、働くこと自体怖くなってしまう。

集団就職で入った都会の勤め先から逃げた少年少女たちの中には、その悪夢から一生を棒に振るほどの精神的ダメージを負った者もいたのではないだろうか。

群馬へ逃げ帰った安倍は、暗い目で記者にこうも言ったという。

「東京の人間はウソつきだ」

2023年の現在、もう八十近い年齢になっているはずの彼が、いずれかの時点で立ち直ってやり直し、今は安らかな老後を送っていることを願わずにはいられない。

出典元―週刊明星

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2023年 カツアゲ ならず者 不良 事件 事件簿 昭和 本当のこと 福岡

独居老人をよってたかって恐喝した昭和の極悪童たち


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1982年(昭和57年)、福岡県粕屋郡須恵町で、後にも先にも滅多にないような卑劣な少年犯罪が行われた。

一人暮らしで体の不自由な75歳の老人を、23人もの小学生や中学生の悪ガキたちが入れ替わり立ち替わり37回も恐喝。

面白半分に暴行を加えるなどして、老人の唯一の収入源であるなけなしの年金を脅し取り続けていたのだ。

お年寄り相手に、よってたかってカツアゲとは何という奴らだ!

平成や令和の悪ガキでも、ここまでやる外道はいない!

本ブログの筆者は、この事件を40年以上も昔に年端のいかなかった者たちが、ついつい調子に乗りすぎてしまった程度の事件とはみなさない。

人の道を大きく踏み外した子犬畜生たちの非人道的行為として、令和の現在白日の下にさらしてやる!

目をつけられた独居老人

昭和の昔、福岡県粕屋郡須恵町に、ひっそりと暮らす独居老人がいた。

老人の名は、中辻国男(仮名・当時75歳)。

妻子がない独り身で、近所づきあいもほとんどない。

現役時代は国鉄(現JR)職員だったが、退職後は月7万円の年金だけを収入源にしていた。

神経痛のために足が不自由で腰が大きく曲がってはいたが、自宅の庭で野菜を育てるなどして、少ない年金ながら何とか暮らしている。

そんなつつましく老後の生活を送っていた中辻老人に1982年(昭和57年)の新年早々、おそらく彼の長い人生の中でも最悪の災いがもたらされることになった。

それは同年1月8日の夕方のこと、家の中にいた中辻老人の耳に、何かが自宅の壁にぶつけられた物音が響いたことから始まる。

粕屋郡は、前日から雪が降り積もっていたから外は一面の雪。

どうやら、誰かが自宅の壁に雪玉を作って投げ込んだようだ。

外を見ると二人の中学生になるかならないかの年頃の少年が前の道を歩いている。

何食わぬ顔をしているが、二人とも見るからに悪ガキそうだから、こいつらの仕業だろう。

老い先短い中辻だったが、この悪質ないたずらに黙っているわけにはいかず、二人を注意した。

しかし、注意された二人は自分たちではないと断固否定。

ばかりか「ナニ文句付けてんだよ、ジジイ!」と絡んできた。

この二人は、粕屋郡の隣の福岡市に住む中学校一年生の小峯仁志(仮名・13歳)と小学校六年生の板橋将人(仮名・12歳)だ。

年齢的には年端もいかぬ子供だったが、すでに本格的にグレて悪さを重ねている非行少年である。

よって語気に凄みがあった。

「ああ、違うのか。悪かった」

子供とは思えぬ迫力に、ひるんだ中辻老人は謝罪。

二人は「オレらのせいにしてんじぇねえぞ」などど悪態をつきながらもその日は立ち去ったが、それではすまなかった。

5日後の13日に再び中辻宅にやってきたのだ。

いや、「やってきた」というより「押しかけてきた」の方が正しい。

「この前のこと俺らのせいにしたワビ入れろや!!」と怒声を張り上げ、家にまで上がり込んできたのだ。

小峯と板橋は足が不自由な老人を押し倒し、手を広げさせて床に押し付けると台所にあった包丁を指の間に突き刺した。

「オラ!落とし前どうつけてくれんだ!ジジイ!」

5日前のことを口実にして、カツアゲに来たのである。

中辻老人が謝罪したことから、強気で押せば言うことを聞いてくれる相手と踏んだようだ。

13歳や12歳の少年らしからぬ凶悪な脅しに75歳の中辻はたまらず屈し、おわびの印として家にあった現金数千円を渡そうとしたが、「誠意っつーもんがねえぞ」と激高されて泣く泣く大金の2万円を払うことで解放された。

これはカツアゲどころか完全な強盗である。

だが、中辻老人は「警察にチクったら命はねえぞ」と二人に脅されていたし、相当恐ろしい思いをさせられたからか、通報することはなかった。

結果的に、それは大きな間違いとなる。

この災難は、これで終わらなかったからだ。

カツアゲ地獄

小峯と板橋は、そもそも同年代の悪ガキとはレベルが違う本格的な悪党だった。

すぐに金が手に入ったことに味をしめて、たびたび中辻老人の家に怒鳴り込んで金をせびりに来るようになったのだ。

取り上げた金は、もちろんゲームセンターなどでの遊ぶ金で瞬時に溶かすが、その時はまた老人の家に行けばよい。

中辻老人も中辻老人で、小中学生が相手とはいえ、恐怖が身に染みていたから、そのたびに金を渡してしまうという地獄のループが始まった。

悪党の脅しに屈して要求を飲んだりしようものならば、往々にしてこうなる。

相手が弱いと見たら徹底的に、かつ延々とたかりに来るのだ。

中辻老人は、なけなしの年金しかもらっていないから、決して金を持っているわけではないが、小峯たちにとっては知ったことではない。

しかも彼らは「ちょっと脅せば金をくれるジジイがいる」と不良仲間に吹聴したため、金をたかりに来る不良少年の数は増え、さらには、いくつかのグループに分かれて入れ替わり立ち替わり中辻老人の家にやってくるようになった。

小憎らしいことに年金の支給日も把握しており、その日には集中的に来る。

また、金があろうとなかろうと、面白半分に体の不自由な老人に暴力をふるった。

刃物を振り回して脅し、水をかけるわ、殴るわ蹴るわ、縛るわ、首を絞めるわ。

中辻老人は払う金がなくなると、普段あまりつきあいのない近所の住民に金を借りに行くようにまでなり、金を一切合切取り上げられるようになってからは、庭の野菜を食べてしのぐなど完全に悪童たちの奴隷と化す。

押しかけてくる不良少年の中には、小峯の大先輩で中学をすでに卒業した者もおり、それくらいの年齢の不良になると本職そのもののいでたちをしているから「本物のヤクザまで来た」と中辻老人は絶望し、通報する気が余計に失せてしまっていた。

完全に心が折られていたんだろう。

このカツアゲ地獄は、同年8月4日までに小峯や板橋らが福岡県警の東署によって強盗、恐喝の容疑で検挙、補導されるまで約七か月間も続いた。

その回数は37回に達し、中辻老人は合計約25万円の年金を奪われ、恐喝に関わった不良少年は小学生も含めた23人にも及んだ。

老人自身は通報できなかったのに、なぜ発覚したかは報道されていないが、異変に気付いた近所の住民がしたものと思われる。

それにしても、何と非道な犯罪であろう。

これまでに発生した数多くの事件の中でも、トップレベルのクズっぷりである。

中辻老人は命こそ奪われなかったとはいえ、人生の晩節で最悪の恐怖と屈辱を味わわされてしまった。

一方の小峯たちは14歳未満だったから、大した罰も受けていなかっただろう。

現在、もうすっかりいい年齢になって丸くなっているかどうかは知らないが、中辻老人くらいの年齢になってから同じ目にあってもらいたいとに願わずにはいられない。

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2023年 本当のこと 歴史 江戸 長寿

最後の江戸時代生まれ


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明治生まれが111歳以上となってしまった令和5年現在、それよりずっと前の江戸時代なんて完全無欠の大昔である。

だが、実は50年か60年くらい前の昭和の中頃まで江戸時代と現代はしっかりつながっていた。

健在だった江戸時代生まれが何人もいたからだ。

2023年現在、NHK「連続テレビ小説」で放映中の『らんまん』の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎はまだまだ江戸時代だった文久2年(1862年)の生まれだったが、昭和32年まで存命だった。

牧野富太郎

高度成長期の時代の日本の100歳オーバーの長寿者は皆江戸時代生まれで、その当時の病院の受付などで書かされる生年月日の記入欄には「昭和・大正・明治」の他に「慶応」があったり、あるいは「慶応」やそれ以前の元号を書く空欄があったという。

しかし、昭和40年代になって江戸時代生まれの高齢者が次々に鬼籍に入っていったことにより、江戸時代と現代のつながりは徐々に細くなってゆき、最後の一本となる時が来た。

そのラストワンとなった人物とは、河本にわという媼だ。

河本にわ媼

にわ媼は、1975年5月31日に梅田ミト媼が112歳で亡くなったことにより、その当時の長寿日本一かつ世界一の人物兼最後の江戸時代生まれとなった。

にわ媼はミト媼が生誕した約五か月後の文久3年8月5日(1863年9月17日)生まれ。

産声を上げた時、江戸幕府はまだ健在で将軍は徳川家茂、時代は幕末の動乱期に入っていた。

媼が物心ついて成長、20歳で結婚して三男五女をもうけて川魚の行商をしたりして生活に追われている間、世の中では大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争、明治憲法制定、日清戦争、日露戦争、大正デモクラシーとエポックメイキングな出来事が目白押し。

太平洋戦争中の時点ですでに80歳代の高齢者になっており、それからも高度成長期という一大転換期を生き、孫が17人、ひ孫が38人、玄孫が25人いた。

晩年は持病のリュウマチがひどくなり、目も耳も不自由になって一人歩きできないほどであったが寝たきりというわけではなく、朝昼晩の食事は必ず摂り、好物はカレーと川魚。好き嫌いはほとんどなく、一日四本牛乳を飲んだ。

普段は先立った次男の嫁に面倒を見てもらっており、仏壇に手を合わせたり、好きな針仕事をするのを日課とし、近所に住む三男と四女の訪問を楽しみにしていた。

にわ媼と三男

このように安らかな晩年を送っていた媼のもとには、日本一の長寿者になってからマスコミが入れ代わり立ち代わり取材しに来ていたが、耳が不自由な本人に次男の嫁が耳に口を当てて聞いても、返答は歯がないためにモゴモゴと聞き取りづらく、なおかつトンチンカンなものが多かったらしい。

また、「あほうの長生きで…」が口ぐせだったという。

周りがチョンマゲ頭ばかりだった時代から外では車が走り回る時代までを生き、その生涯は明治維新からオイルショックまでをカバーするほどの長きにわたるが、あまりにも多くの激変を目の当たりにしすぎて「何をしてきたかおぼえていない」とも語っていた。

きっと人類が経験していい変化や出来事の数をもう超越していたのだろう。

理解しようと積極的に対応することなく、傍観するか流される態度に徹していたということのようである。

それこそが長生きの一番の秘訣だったのかもしれないが。

しかし、寄る年波にいつまでも勝ち続けることはできない。

次々やってくるマスコミの取材も体調不良を理由に断ることが多くなり、長寿日本一となった翌年の1976年(昭和51年)11月16日8時半、滋賀県高島郡の自宅で老衰のためにこの世を去った。

享年113歳。

非の打ちどころのないほどの大往生であり、天寿を見事に全うしたのだ。

同時に、この日は日本人が江戸時代とつながっていた最後の日となり、これ以降江戸時代は永遠に時代劇や歴史書の世界となった。

追記1:河本にわ媼の死去により、慶応元年生まれの泉重千代翁が日本一の長寿者であり最後の江戸時代生まれと当時みなされたが、その出生日や戸籍についての疑念はかねてより多く、実際は実年齢より15歳若かったという説が現在では有力である。拙ブログはこの説に従った。

追記2:この翌年の1977年(昭和52年)5月25日に108歳で死去した中山イサ媼は1868年8月3日(慶応4年6月15日)出生だが大政奉還後であり、拙ブログは大政奉還までを江戸時代とみなした。

出典元―朝日新聞、『現代の顔 : 湖国の100人』

(サンブライト出版部)、中日新聞、毎日新聞

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