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超絶小物候補の逆恨み選挙戦 ~岐阜県知事にいじめられたと訴えた男~


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泡沫候補という言葉をご存じか?

泡沫候補とは、選挙において当選する見込みが極めて薄い立候補者を指すものである。

彼らは選挙に必要な地盤(後援会組織)・看板(知名度)・鞄(資金)がそろっていないのはもちろんのこと、あまり目立った政治活動をやっていなかったり、荒唐無稽か実現不可能な主張をしたりする者も多い。

また、ハナから当選ではなく、売名が目的だったりする者もいる。

よって、我が国をはじめ多くの民主主義国家では、公職選挙においてこうした候補の乱立を阻止する目的で、立候補する際に選挙管理委員会等に対して寄託することが定められている供託金という制度がある。

この供託金は落選したとしても法定得票数に達すれば全額返却されるが、一定票に達しない場合は全額没収されてしまう。

だが、それでも泡沫候補は全国いたるところで出現し、特に東京都知事選においては数多の泡沫候補が立候補する傾向がある。

時代が昭和から平成に移ったばかりの1989年の岐阜県の県知事選でもそんな候補者がいた。

だが、その男は30年以上たった現在でも忘れられることはなく、ある程度の年齢の岐阜県民にはしっかり記憶されているほどの恥…、いやインパクトを残したのだ。

平成最初の地方大型選挙

1989年(平成元年)1月9日、元号が昭和から平成に変わって間もないころ、岐阜県で平成最初の大型選挙と銘打たれた岐阜県知事選挙がスタートした。

この年の2月5日、1977年(昭和52年)より12年間にわたり、三期岐阜県知事を務めた上松陽助氏は、任期満了を機に引退することを表明していた。

よって、この選挙は新しい時代の岐阜県県政を担う、新たな県知事を選ぶ選挙であったのだ。

名乗りを上げたのは無所属新人の候補三名。

  • 一人目は、上松氏の下で四年間副知事を務めた梶原拓氏(当時55歳)
  • もう一人は、元岐阜県高教組委員長の岡本靖氏(当時61歳)
  • 最後は、ウナギ販売会社社長の児島清志氏(仮名、当時40歳)

である。

立候補者は以上の三氏だったが、事実上は梶原氏と岡本氏の二氏の争いとみられており、当時、選挙戦の模様を伝えていた岐阜県の地方紙である岐阜新聞の記事は、両氏の動向のみを取り上げていた。

梶原氏は副知事を務めてきたという実績もあったし、自民党や社会党(後の社会民主党)などを含めた五政党の推薦を受けていたし、岐阜県の教育界でハバを利かせてきた岡本氏は、共産党の推薦を受けていたからだ。

一方、支持母体や政党のバックもなく、県政に関わった活動をしてこなかった児島氏は、ハナから泡沫候補と見られていたのもある。

しかし、それ以前にこの第三の男である児島氏は候補者としての資質に問題があった。

その主張が、あまりにも陰湿且つ幼稚だったからだ。

「梶原拓はかくのごとき男です」

新聞社というのは、当選の見込みのない泡沫候補の主張や選挙戦の模様に、紙面を割きたがらない傾向があるものだ。

それは地元紙の岐阜新聞も同じであり、選挙戦での発言や公約はすべて梶原氏と岡本氏で占められていたのは、前述のとおりである。

だが、蚊帳の外に置かれていた児島清志氏も、全く何もしなかったわけではない。

選挙戦が始まってからほどなくして、前述の岐阜新聞の朝刊の折込広告の中に、あるチラシが混じるようになった。

それは、あの第三の候補者である児島氏の主張が書かれたものだった。

当時、私は岐阜県内の中学校に通う二年生。

知事選挙が行われていることは何となく知っていたが、関心があるわけはない。

そんな私がこの選挙を今でも覚えているのは、そのチラシに書かれた児島氏の主張を目にしたからだ。

それは、

『岐阜県知事候補・梶原拓はかくのごとき男です』という題名から始まっており、梶原氏の裏の顔とその正体を告発するものだった。

なんでも、児島氏は自身の仕事の関係か何かで何度か岐阜県庁に足を運び、副知事だった梶原拓氏と接触したのだが、話し合いがこじれてモメたらしい。

その結果、梶原氏本人とその部下から恫喝されたり暴力を振るわれたり、屈辱的な仕打ちを受けたというのだ。

チラシの中で、権力を笠に着た梶原氏がどんな罵声を浴びせてきたか、自分が何をされたかを延々と書き連ねており、そんなもの見せられた読者の家庭はドン引きして。朝っぱらから重力が重くなったことだろう。

梶原氏だけでなく、その部下と思しき人物も『暴力公務員』という枕詞を冠して実名で告発されていた。

例えば、

「…梶原拓の部下である暴力公務員〇〇と△△は私の胸倉をつかんで「てめえ、それでも男かて」「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」と脅しました…」

というような内容なのだ。

「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」って…、ホントに言われたとしても書くかフツー。

とにかく書いていることが、高卒レベル(偏差値48くらいの)の文章力を有した小学生が、いじめられたことを先生にチクるために書いているような恨み帳そのものである。

文章は、終始一貫して梶原氏への誹謗中傷で占められており、県知事になってからの具体的でまともな公約がほとんど目立たない。

このヒト、一応県知事候補だよな?

中学二年生の私から見てもあまりにもかっこ悪く、圧巻の大人げなさだった。

とても当時の両親と同い歳くらいのおっさんが書いているとは思えない、と感じたことを覚えている。

こんなものを、児島氏は岐阜県中の家庭にばらまいていたのだ。

彼は泡沫候補の中でも他の候補に対する妨害を目的とした、いわゆる特殊候補だったのである。

記事として取り上げる価値のない泡沫候補である前に、どうりで岐阜新聞が相手にしないわけである。

もっとも、岐阜新聞も完全にシカトしていたわけではなく、時々小さく児島氏の主張を載せて、その存在をささやかながら県民に知らせてはいた。

児島氏の主張

しかし、梶原氏や岡本氏のように「日本一住みやすい岐阜県づくりに努めたい」とか「弱者切り捨ての県政は終わりにしよう」などのお決まりだが景気のよい前向きなものではなく、ひたすら私怨ほとばしり、被害妄想に満ちたネクラなものだった。

何より日本語も少々おかしい。

梶原氏の対抗馬の岡本氏にとってはありがたい存在ではあったろうが、ここまで程度が低いとあまり頼りにはならなかっただろう。

そして迎えた投票日の1月29日、開票が行われた結果は以下のとおりだった。

  • 梶原拓氏は544069票
  • 岡本靖氏は204309票
  • 児島清志氏は42465票

梶原拓氏の圧勝だった。

予想されたことだったが児島氏は大惨敗であり、得票が法定得票数に満たなかったために、供託金は没収となったはずだ。

というか、四万人もこんな人物に入れた県民がいたことは驚きだったが。

この結果になることはわかりきっていたはずだし、時間と、何より金の無駄以外の何者でもない。

しかし、彼はあきらめなかった。

驚くべきことに、再び立候補するのである。

しかも、この年のうちに。

第十五回参院通常選挙

岐阜県中の失笑を買った児島清志氏だったが、1989年の岐阜県知事選から半年もたたないうちに、再びその名前を岐阜県民は目にすることになる。

同年7月に行われる第十五回参院通常選挙に再び出馬したのだ

一体何を考えていたんだろうか?

国会議員になって、今や岐阜県知事の梶原氏を見返したかったのか。

この参院選挙での岐阜選挙区の立候補者は自民・現職の杉山令肇氏(66歳)も含めて5人だったが、その中には川瀬一雄氏(仮名、42歳)という元印刷会社社員、元警察官、元証券会社社員で現在は無職というわけのわからない経歴の泡沫候補も混じっていた。

児島氏も泡沫仲間がいてよかった。

だが、児島氏は体を張って岐阜県民を楽しませる泡沫候補としての経験値が違った。

今回も岐阜新聞に相手にされなかったが、またしても折り込み広告には自らの主張を挟んできたのだ。

そして案の状その内容は『岐阜県知事・梶原拓はかくのごとき男です』で始まる例の恨み帳だった。

参院選挙だぞ、岐阜県知事関係ないだろ?

よっぽど梶原拓が嫌いらしい。

今回のお話も敵役が梶原氏であることに変わりはなかったが、前回の県知事選とは違うバージョンの内容だったことをよく覚えている。

いじめられたのは、一回だけではなかったようだ。

児島清志-確かにいじめたくなる顔だ

そして新聞でもお情けでささやかながら、その主張を掲載させてもらっていたが、相変わらず何が言いたいのか意味がわからない。

ここまで来ると、選挙には関係がない我々中学生も児島氏のことを知るようになり、学校で話題にする同級生もいた。

もちろん応援するのではなく、その大人げなさを小馬鹿にしていたのだ。

「こんな大人になってはいけない」という見本を岐阜県中の未成年者の前に自ら晒していたといっても過言ではない。

また、真剣なぶん余計笑えた。

そして7月23日の投票の結果、当選は454154票を獲得した新人の高井和伸氏(48歳)。

現職だった杉山氏とは、約34000票差の接戦であった

もちろん児島氏は、今回も28049票で大惨敗。

だが、泡沫候補仲間の川瀬氏の得票23660票を上回っており、こちらも接戦であったが。

それ以降、児島氏の名前を選挙で見かけることはなかったが、その小人物ぶりと負けっぷりは岐阜県人の間で伝説となった。

副知事時代に児島氏をいじめたと訴えられたものの、1989年から晴れて岐阜県知事となった梶原拓氏の方は、2006年に健康上の理由により退任するまで四期16年間知事を務めた。

また在任中は、財政を悪化させるハコモノ行政を行ったと批判を浴びたこともあったが岐阜県知事としてだけではなく全国知事会会長をも務める重鎮ともなり、2006年4月には旭日大綬章を受章、2017年83歳で天寿を全うした。

梶原拓氏

児島氏にとっては、地元で悪が栄え続ける様を見せ続けられたことになろう。

ところでこの児島氏なんだが、実は私の実家からほど近い場所に住んでいたらしい。

1989年当時40歳だったから、2022年現在ご存命ならば御年73歳くらいか。

まだお元気でお住まいもそのままだったら、次回帰省した際に訪問してお話を伺ってみたいものだ。梶原拓氏について。

出典元―岐阜新聞

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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若き犯人たちの無謀な誘拐事件 – 1995年・足立区小二女児誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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吉永小百合を襲った男 ~武闘派モンスターファン~


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ある一定以上の年齢の日本人ならば、吉永小百合という人物を知らない方は圧倒的に少ないであろう。

2022年3月の現在でもキリンのCMに登場したりしているから、比較的若い世代の方でも、今まで一度はその名前を耳にしたか、テレビ画面でその姿を見たことがあるはずだ。

1945年3月13日生まれの吉永氏は、1957年に小学5年生でデビュー以来、『キューポラのある街』などの名作をはじめ、これまでに100本以上の映画に出演。

歌手としても成功をおさめ、テレビドラマやCMの出演は数知れず、2006年に紫綬褒章を受章し、10年には文化功労者にも選ばれた日本を代表する大女優である。

日本映画の全盛期だった1960年代には、まだ10代だったにも関わらず(10代だったからこそか)、所属する日活の看板女優として日本中、特に男性ファンの目をくぎ付けにしていた。

1963年、そんなまばゆいばかりに輝く銀幕のスターだった吉永氏が、自宅に侵入した熱狂的なファンに襲撃される事件が起きる。

芸能人が狂ったファンに襲われる事件は現代までたびたび発生しているが、この時吉永氏を襲った男は、そんじゃそこらのモンスターファンではなかった。

吉永小百合家への侵入者

事件が発生したのは、1963年8月9日夜9時45分のことである。

当時、吉永小百合氏は人気絶頂の映画女優でありながらもまだ18歳の高校生であり、東京都渋谷区西原某所で家族と同居の身。

その日、彼女は16歳の妹と共に自宅の二階にある自室に向かおうとしていた。

俳優業で多忙でありながら大学進学も希望していた彼女は、目前に控えた大学入学検定試験に備えて勉強をしようとしていたのだ(高校は撮影で休みがちだったため出席日数が足りなかった)。

だが自室のドアを開けた瞬間、あり得ない異常事態に遭遇することになる。

自分以外いてはならないはずの完全なプライベート空間たる部屋の洋服ダンスから、見知らぬ男が現れたのだ。

しかもその両手には、刃物ともう一つ奇妙な物体が握られているではないか!

びっくり仰天した二人は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、家族のいる一階に逃げた。

この時、吉永氏は階段から転げ落ちて軽傷を負っている。

一方の侵入者は追いかけてくることもなく、部屋にとどまっているようであった。

吉永氏から事情を聞いた父親は、すぐさま警察に通報。

駆け付けた警官六人は、吉永一家五人を退避させると、男が居座る二階に向かう。

しかし警官たちは、男が片手に刃物を持っていることを聞いており、あらかじめ危険なことは承知していたが、もう片方の手に刃物より危険なものを持っていたことは知らなかったようだ。

二階に踏み込もうと階段を上がっていた時、犯人が現れて階段上で仁王立ちするや、その謎の物体をこちらに向けたかと思うと、耳をつんざく破裂音。

先頭の警官が崩れ落ちた。

男が持っていたのは手製のピストルだったのだ。

籠城戦

撃たれた警官は、あごに弾を食らっており、全治二か月の重傷であった。

かなり危険な暴漢と判断した警官隊は、階下にとどまって応援を要請。

やがて、最寄りの代々木署だけではなく、防弾チョッキやヘルメットで身を固めた機動隊員らも駆けつけ、総勢300人近くが吉永家を包囲した。

周りは一般の住宅が立ち並んでいるため、警官の静止にもかかわらず、物見高い付近の住民たちが出てきて現場は騒然となっていた。

警官隊は、吉永氏の部屋に引きこもった犯人に向かい拡声器で投降を呼びかける一方、決死隊の五人がはしごで二階に上がり、犯人のいる部屋の向かいの日本間に陣取る。

また、階下からもピストルを構えた警官が階段を上がって犯人に迫り、ドアを挟んで対峙した。

「武器を捨てて出てこい!さもないと撃つぞ!」

「そんなおもちゃの銃で何ができるんだ!」

警官隊は犯人に向けて怒鳴ったが、

「試してみっか!?まだ弾は持ってんだぜ!!」

と怒鳴り返され、部屋の中からもう一発、発砲音が響いた。

かなり好戦的な犯人である。

強行突入もやむなしと判断した警官隊は催涙弾の準備が整えたが、にらみ合いが続いて40分ほど経過した午後10時20分ごろ。

部屋のドアのガラス部分が中から突然割られ、ピストルと思しき物体と刃物が投げ出された。

逃げられないと観念したのだろう。

男が投降したのだ。

すかさず警官隊は部屋に突入し、犯人の確保に成功した。

犯人の目的

逮捕されたのは、都内に住む旋盤工の渡辺健次(26歳)。

未成年のころにも強盗未遂事件を起こし、少年鑑別所に送られた経歴を持っていた。

渡辺健次

確保された時に手に傷を負っていたが、これは警官隊との押し問答の最中に手製ピストルを暴発させたのと、投降の際にガラスを割った時に負ったものである。

職場の上司の話によると、渡辺は勤務態度が不真面目であり、犯行に使ったピストルや弾丸も仕事中に作ったものらしい。

犯行に使用したものを含めてピストルは5丁も製作、単発式で孔径は7ミリであり、逮捕時にはまだ13発も弾丸を所有していた。

渡辺の自家製ピストル

渡辺は当初「有名人の家なら金があるだろうと思って忍び込んだ」と供述していたが、その後、吉永小百合の大ファンであり、最初から吉永氏を目的としていたことが判明する。

それはアパートの部屋の壁に切り抜かれた吉永小百合のグラビアがベタベタ貼られ、それは職場の旋盤にも貼っていたほどだ。

やがて写真やスクリーンだけでは飽き足らなくなり、雑誌で住所を知るや実物に会いに行こうと、何度も自宅周辺に出没していたことが分かる。

ちなみに吉永氏の父親の話によると、このような図々しいファンは珍しくなく、自宅付近を不審者がうろつくのは珍しくなかったようだ。

だが、渡辺がそんじゃそこらの不審者と違ったのは、ピストルまで作って自宅に侵入した以外にも、よりおぞましい目的を持っていたことである。

渡辺は、吉永家侵入時にピストルや刃物以外にも数本束ねた針と墨汁を持参して来ており、その用途たるや、

「小百合ちゃんの手か足に俺の名前を入れ墨しようと思った」だったのだ。

未遂に終わったとはいえ、後に国民的大スターとなる人物に自分の名前をネーミングしようとは、とんでもない野郎である。

国宝の法隆寺や清水寺に落書きをするのに等しい犯罪行為といっても過言ではない。

もし本当に実行されてしまったならば、吉永氏は女優として再起不能となっていたことであろう。

ばかりか、自分を襲った男の名前を否応なく目にし続けて、歯ぎしりしながら一生を送ることになったはずだ。

危うく難を逃れた吉永氏だったが、この一件で重大な精神的ショックを受けてしばらく立ち直ることができず、受ける予定だった大学入学検定試験も欠席。

高校も留年する羽目になってしまった。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌 2 – 中高年のキレる心理と対策


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最近いい歳こいた中高年がキレやすくなっているみたいだ。

そして、彼らがキレる相手というのは、駅の駅員とか店の店員が多いようである。

向こうは立場上逆らってきたりすることはなく、こちらは言いたい放題言えるはずだと、そのトチ狂った頭でタカをくくっているんだろう。

だが、平謝りする店員ばかりではないようだ。

今回お話しするのは、そういった例外に出くわしてしまった不幸な愚か者についてである。

某牛丼店での出来事

私は現在テレワークの身の上であり、自宅で仕事している。

昼食は時々外食で、12時から13時を避けて14時くらいに行く。

あんまり混んでいない時間を狙っているのだ。

その日、私が入ったのは某牛丼チェーン店。

同店は、一か月に二、三回くらいは利用している。

その店での注文は、入り口近くのタッチパネル式の券売機で食券を購入して、提供口まで持って行くというセルフサービス方式だ。

そしてその出来事は、客が私一人しかいない店内で私が食事している時、食券の券売機の前で始まった。

新たにやって来た客で、声の感じから60代くらいの男が、比較的大きな声を出し始めたのだ。

「おい!おーい!おーい!!」

どうやら店員を呼んでいるらしいが、少々横柄な感じである。

厨房には若い男の店員が一人しかいないようで、呼び続ける60男に対して、やや一呼吸遅れた感じで向かった。

「はい?」

一応、ここまでは店員として普通の対応だったし、それまでの一連の出来事に対して、私もあまりたいして気に留めることもなく飯を食い続けていた。

だが、この60男はかなり勘違いした男だった。

その店員に向かって、

「呼ばれたら返事しろ!」

と高飛車なモノ言いをするのだ。

さらに

「モタモタするな!さっさと来い!」

とも続ける。

何を勘違いしてるんだ、この男は?

客だからって、その態度はないだろう。

しかし次に、その店員が取った対応は全く普通のものではなかった。

少なくとも、この日本において私の知る限り、カタギの飲食店において、客に対する態度では全くなかったのだ。

チンピラ店員

「あん!?」

文句を付けられたその若い店員が発した第一声である。

聞き間違いではない。

とっさに出てしまったというより、ケンカ上等な男がいちゃもんを付けてきた相手に発するような「あん?」なのだ。

その後に「なんか文句あんのか?」と続いてもおかしくない感じの。

60男は、店員にあるまじき反応にカチンときたのだろう、

「“あん?”とはなんだ!」

と怒り出した。しかし店員は全く動じない。

そして次に続いた対応で、さっきの「あん?」という挑戦的な応答が、確信犯的なものであったことが明白となる。

「だから、ナンか用かよ?」

「お前なあ!その口のきき方は…!」

「用があんだろ?サッサと言えよ」

信じられない。

クレーマーが相手とはいえ、完全に店員の対応ではない。

多少声を荒げ、ぶれることのない毅然とした凄みまで効かせている。

「お前などに頭は下げんぞ」という確固たる意志と「これ以上文句つけるとただじゃおかんぞ」という気迫を60男も感じたんだろう。

「この券売機、全然動かんぞ…」

と、さっきより気勢をそがれた感じで用件を言い始めたのだが、店員の態度は変わらなかった。

「どこ押したんだよ?」

「ここだよ、ここ」

「そこじゃねー、ここだよ!“注文”って書いてあんだろがよ」

「わかりにくいんだよ…」

「頭使えよ、ボケ」

もう一度言うが、これは客と店員の会話である。

しかもこの店は、全国展開している大手なのだ。

後ろ姿だったが、店員は片手をポケットに突っ込み、頭を多少傾けて、60男の方をにらみ続けているような剣呑な感じがした。

舌打ちを交えたりして、完全にチンピラそのものの態度だ。

文句をつけた店員の思わぬ反応にひるみ始めていた60男だったが、「頭使えよ、ボケ」には頭に来たらしい。

「何だと!もういっぺん言ってみろ!」とまた元気になって大きな声を出したが、店員の方は「だから、頭使えって。ボケェ」と冷静に挑発。

完全にケンカなら買う、という態度なのだ。

ここに至って、これ以上食ってかかるとヤバイことが、さすがの60男にもわかり始めたようである。

「こんなトコ二度と来ねえからな!」

と捨て台詞を吐いて、店から出て行った。

完全に60男の敗北である。

「オウ、来んな来んな!とっとと消えろ!!」

店員は尻尾を巻いて去って行く60男に対して、追い打ちの罵声を浴びせる。

外の通行人にも聞こえるくらいの声で。

「ったくよ。偉そうにしてんじゃねえ」

と、その後、舌打ちをしながら厨房に戻っていった。

何となく、私にも聞かせてるような気がしたのは思い過ごしだろうか。

なんちゅう店だ。

長年利用してきたが、こんな店員が雇われていたとは。

この店で、絶対にクレームをつけてはいけない。

てか、今後の利用は見合わせようか。

さっきの60男こそ、一番問題であったのは言うまでもないが。

キレる中高年につける薬

この出来事で、私なりに一つ気づいたことがある。

それは、

キレる中高年は、相手にキレ返されると弱いのではないのか?

ということだ。

考えてみれば、体力も気力も弱っているはずの中高年が、若い者との真正面からの対決に耐えられるはずがない。

手を出されなくても、出されるかもしれない気迫で向かって来られたら、身の危険を感じて素直にひるむはずだ。

またそんなことされたら、次キレそうになった場面があったとしても、二の足を踏むであろう。

二度と過ちを犯させないためには、反省させるよりも恐ろしい思いをさせる方が、簡単かつ効果的であるのは間違いない。

だから、もしお若いあなたの周りで、もしくはあなたに対して理不尽にキレてくる中高年がいたら、

彼らにちょっと怖い思いをしてもらって、気安くキレるとどうなるか教えて差し上げてもいいんじゃないだろうか?

人間いくつになっても勉強は必要、学びに遅すぎることはない。

彼らのためにも、何より社会のためにも。

ただしケガさせたり、死なれたりしない程度に。

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キレる中高年に若者が下した非情な鉄槌


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最近、いい歳こいた中高年がキレやすくなっているようだ。

キレると言えば、血気盛んな若者というイメージだったが、今では分別がついてしかるべき年代のおっさんやじいさんが駅や公共の窓口などで些細なことから暴言を吐いたり大声を出したりすることが多くなってきているらしい。

また、暴言にとどまらず直接手を出してしまうケースも多い。

社会環境の変化とか、老化により感情のブレーキが利かなくなってきたからとか専門家がいろいろ論じているが、情けないことには変わりがない。

精神的に未熟で怖いもの知らずな若者が暴れる方が、まだ健全な社会であるような気がするのは私だけだろうか。

どちらにせよ、どんなことがあっても中高年の男性が公衆の面前で自分勝手な理由からキレるのは断じてあってはならないと私は断ずる。

それはハタ目から見て、見苦しいからだけではない。

キレた相手によっては、とんでもない目に遭うからである。

私自身もかように見苦しくキレまくる中高年に出くわしたことがあるのだが、これからお話しするその男の場合、キレた彼にキレた者の出現により、公開処刑されてしまったのだ。

オラつく五十男

あれはまだ、コロナが流行する前の朝の通勤ラッシュ時。

最寄り駅のO線K駅から各駅停車に乗って、通勤快速に乗り換えようと二駅先のS駅で降り、ホームで電車を待つ客の列に並んでいた際のことだ。

S駅に通勤快速がやって、来てドアが開いて乗っていた客が降り、私も含めて入れ替わりで待っていた客が乗り込もうとしたとたん、電車の中から突然、大きな怒声が響いてきた。

「オラ!まだ降りる人間がいるんだよ!!」

大声で吠えたのは、背が高い五十代前後の男である。

特にガラの悪そうな感じではなく、背広にネクタイ姿の普通のサラリーマン風だったが、そのオラつき方は、ヤカラそのものだった。

「どけよ!!」とか「目障りなんだよ!」とか威嚇しながら、いらだった様子で、満員の車内の乗客や乗り込もうとしていたホームの乗客を強引に押し分けて出てくるのだ。

運悪く彼の進路に立っていた弱そうな中年男性は「邪魔だボケ!」と怒鳴られてどかされていた。

何なのだこいつは?いい歳のくせに、大声出してチンピラ気取りおって。

朝っぱらから気分が悪い奴だ。

電車から降りることに成功した五十男だが、その機嫌は収まらない。

「どけっつってんだろ!!」

と、今度はホームから電車に乗り込もうとしていた客の一人である男性に、勢いよく肩をぶつけた。

周りの客は道を開けたのに、その男性だけは、自分の前に立ったまま譲ろうとしなかったからだ。

ぶつけられた勢いで、半身をのけぞらせたのは若い男。

五十男を振り返った顔を一瞬見た感じでは、大学生風の大人しそうな風貌であった。

だが、次の瞬間にその若い男が示した反応は、嫌な気分になった我々通勤客を、今度は凍り付かせることになる。

公開処刑の開始

「待ちやがれ、このボケ!!!」

肩をぶつけられた若者が五十男より大きな声で、何より周囲を震え上がらせる凄絶な怒声を発したかと思うと、不機嫌そうに立ち去ろうとする五十男の襟を、後ろからつかんで一気に倒した。

さらにホームに倒された五十男のネクタイをつかみ、なおかつ膝を腹に乗せて完全に動きを制すると、もう片方の腕に体重を乗せた感じで、首に押し付ける。

「何だテメー!」

不意討ちを食らった五十男も、負けじと若者の胸倉を下からつかんで抵抗を試みていたが、威勢がよかったのはここまでだった。

抑え込まれた上に、首に押し付けた腕にさらに体重を乗せられ、「ぐぐぐ」とかうめき声を出して、苦悶の表情を浮かべる。

五十がらみとはいえ、身長が高くてそれなりに体力もありそうな男を、ここまで一方的に制するとはかなりの強者だ。

だが、厄介なことに、この若者はかなりの危険人物でもあった。

「ナメてんのか?相手選べよコラ!!」とか、

「死にてえなら、やってやんぞ!オイ!」とか、

五十男を抑え込みながら、はるかに年齢が上の男を、かなりドスのきいた声で脅すのだ。

いかにも、こういうことを何度もやってきたような手慣れた感じでもある。

五十男も、ケンカを売った相手を間違えたのに気付き始めたらしい。

若者の圧倒的な腕力と迫力を前に抵抗できなくなって、されるがままになりつつある。

しかし、素直に屈服するのはプライドが許さなかったようだ。

「仕事行くんだよ…、放せよ…」

素直に謝ればいいものを、泣きが入り始めたのをごまかそうとしている。

苦しそうな顔と漏らした言葉の調子からは、もうさっきの威勢の良さは微塵もない。

ここまでだったら、年甲斐もなくオラついた男が若きホンモノに退治された痛快な出来事を目撃したとして、気分よく職場に行けただろう。

だが、違った。

ゴン!!

五十男が苦し紛れの言葉を吐き終わるや、若者はその顔面に渾身の頭突きをかましたのだ。

こちらにまで、音が聞こえるくらいの勢いで。

「ぶぶ~!」

とか言って、鼻に打撃をもろにくらったらしい五十男は、顔を押さえた。

その手の間から、みるみる血があふれ出す。

「傷害だぁ…、傷害事件だぞぉぉ~~」

顔を押さえながら声を裏返らせて、もう完全に泣きが入ったみたいだ。

いくら傍若無人な態度で他人を不愉快にした相手とはいえ、若者もこれはやりすぎだろう。

周りの乗客はもちろん見ているだけで、駅員もオロオロして止めに入ろうとはしない。

私も、その一人であったことを告白するが。

「ケンカしてえんだろ?なあ?オイ!聞いてんだろ!!」

一方の若者は、なおもネチネチと脅し続ける。

もうすでにソロのオヤジ狩り。

ハイエナがライオンにやられているようなもんでもあり、嫌な食物連鎖でもある。

私はこのままずっと見ていようかとも思ったが、仕事に遅れそうだし、あの若者が今度は私に「何見てんだ」とか絡んできたらたまらないので、次の電車に乗った。

電車に乗り込む際、後ろから、

「あん?ゴラァ!!オイッ!!」

と、若者が五十男をいびり続ける声が耳に入ってくる。

ドアが閉まって電車が発車しても、ホーム上の客も車内の客もみんなそちらの方向を見ていたからまだまだ続いているようだった。

ヤバい光景を見てしまった。

あの五十男も元々気が短いんだろうが、本当にヤバい奴と渡り合うのは、未経験だったはずだ。

ホンモノを相手にしてしまい、あっという間に制圧されて、ねちっこくシバかれ続けて、明らかにビビッていたからな。

あんなことをされた以上、心的外傷ストレス障害まっしぐらで、もう公衆の面前で怒声を張り上げることは、終生できんだろう。

というか、もうS駅で降りることも、電車に乗ること自体が怖くなってしまったんじゃないか?

同情する気は全くないが。

中高年は若い男にケンカ売っちゃだめだ、とも心底思った。

若い男は若い女ほど可愛らしい存在ではない。

こちらを圧倒する体力があって、その気になれば、こちらを素手で殺せるはずだからな。

そして何より、世の中高年の紳士諸君もどんなにイラついても年甲斐もなくオラつくのは、やめた方がよいだろう。

「うるせえオヤジだ」とかムカついて、突っかかって来る若者もいるかもしれないから。

あのS駅での事件が、その後どうなったかは知らない。

最初の方は嫌な気分になった後で面白いことになったけど、最後の方でドン引きしたが。

何より、大勢の人の前で男廃業させられた五十男に合掌。

助ける気が全然起きなくて、誠に申し訳ない。

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世界を平和にする方法


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思春期真っただ中だった中学校の頃、私は本気で異星人の地球侵略を心配していた。

あれから四半世紀以上たった現在では、さすがにあの時のような無意味で愚かな懸念はしていない。

だが、今でも異星人の存在は確信しており、歳を重ねて自分なりにある程度見識を深めた中年になってから、思春期とは全く違うことを考えるようになってきた。

それは、あのころとは全く逆のこと。

「地球に、どこかの異星人が攻めて来てくれないだろうか?」だ。

異星人の地球侵略待望論

なぜそんな考えを持つに至ったかと言うと、世界平和について私なりに思うところがあるからだ。

ご存じのとおり、2022年2月現在の世界も、相変わらず平和じゃない。

ウクライナとの国境沿いでは十万人のロシア軍が集結、軍事侵攻の危険性が高まってきているし、中国の台湾侵略の可能性だって指摘されている。

危機どころか、実際に内戦になってしまったシリアやイエメンではいまだに戦闘が収まる気配もない。

他にも南スーダンで、リビアで、アフガニスタンで、エチオピアで…。

いつも地球上のどこかで血なまぐさい戦闘や紛争、テロが起こり、人間同士の殺し合いが絶えることはない。

やったらやり返し、やってやったらやり返されるのループはズルズル続く。

当事者双方はもちろん譲る気なんてないし、国際平和の推進を目的としているはずの国連でも積極的に仲介どころか各国、特に大国がエゴを振りかざして問題が一向に解決しないことの方が多い。

そして、そのまま長期化して人が死に続ける。

なぜなんだろう?

背景にはいろいろな政治的理由やら歴史的な因縁だのもあるが、要はつまり、人類というのは敵を作って戦いたがる本能があるからじゃないだろうか?というのがまず一つ。

また、過酷な現実を正しい努力によって変えようとするよりも、誰かのせいにして、そいつを敵視して憂さ晴らしをする方をどうしても選んでしまうというのも一つだ。

特にこの特性は、民衆の不満が鬱積している国家や地域の指導者にとっては利用価値が大いにあり、誰の目にもわかりやすい敵を示してやれば、民の大多数が闘争本能をたぎらせて見事にまとまって支持が得られるという効能がある。

だからすぐに新しい敵が作られるし、昔の敵は敵のままであることが多い。

もちろん敵視された方も黙っていないから、争いの火種には事欠かないのだ。

人類は歴史上いつもそうしてきた。

現在もそうだし、しばらく先の未来もそうなることだろう。

世界は、いつまでたってもまとまらないし、人類皆兄弟なんて夢のまた夢だ。

だが、この悪しき特性により、昔から進んでいがみ合いたがる人類全員を、一致団結に導き得る条件が一つだけ考えられる。

それこそが、異星人の地球侵略だ。

全人類が団結した世界

共通の敵がいればまとまるのが人類なんだから、人間同士殺し合うことなく団結するには、人類共通の敵がいればよい。

環境問題とかは人類共通の課題だが、人類を団結させるには曖昧すぎて弱い。

コロナも人類共通の完全な「敵」だが、人類の闘争本能を熱く駆り立てるには不十分だ。

いつか勝てると達観してるフシがあるし。

それらの脅威はどちらかと言えば「問題」であって「敵」ではなく、大同団結に向けて全人類を動かすには、やはり明確な「敵」でなければならない。

その「敵」は目に見える形での他者、異星人であるのが一番分かりやすい。

異星人とは他の惑星に住む、すなわち地球に住んでいない完全なよそ者である。

そのよそ者の存在は、まず全人類にお互い同じ地球に住む地球人だという意識を否応なしに持たせるはずだからだ。

選べるはずはないけど、何十万年も進化してるようなのは地球人類に勝ち目はないから、千年か二千年くらい先を行ってる程度で、うまくやれば勝てそうなレベルのやつがいい。

もっとも、バカ正直に真正面から軍事侵攻をしてくるとしたら、そのくらいの中途半端に高度な種族であろうとも考えられる。

そんなよそ者が全人類を敵視して地球に攻め込んできたら、今までの因縁を忘れて人類は団結して戦うであろう。

ロシアもウクライナにかまっている場合じゃなくなるし、中国も台湾をいびるのは中止する。

アメリカも地球上ではNATO以外で最も頼りとなるであろう中国やロシアに歩み寄り、両国ももろ手を挙げて受け入れる。

NATO・ロシア連合軍だって高い確率で実現するはずだし、アメリカと中国も第二次大戦以来初めて全面的に手を組むだろう。

南アジア地区での戦闘に備えて、インド・パキスタン同盟軍が結成されるかもしれない。

韓国人が妄想してやまない韓国・北朝鮮合同軍だって夢じゃない。

イスラム国やタリバン、イランの革命防衛隊が異星人の宇宙戦艦に自爆攻撃を仕掛けるさまは欧米諸国の人々だって応援したくなるだろう。

異星人との戦闘で米英軍やイスラエル軍が惨敗したら、パレスチナ人やイラク人だって落胆する。

航空自衛隊が空中戦で異星人の円盤をバッタバッタ撃墜すれば、中国人や韓国人だって拍手喝采するはずだ。

もうそこには、人種も宗教も歴史的な因縁もない。

ロシア人とウクライナ人も、日本人と韓国人や中国人も、イスラエル人とアラブ人も。

白人、黒人、黄色人種も。

キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒も。

誰にとっても憎むべき敵に立ち向かうべく、全人類は共闘する。

平和ではないが、人と人とが大規模に殺し合わない、人類が一つになった世界が、ようやく実現するのだ。

そして勝利した暁には、全人類が勝者としてお互いを認め合い、くまなく歓喜に包まれ、人間同士が争わなくなった世界を目にすることができるであろう。

夢にまで見た理想的な世界じゃないか!

もっとも、敵である異星人がいなくなってしばらくしたら、それは長く続かないだろう。

しかし、地球人類は痛みを伴いつつ、同じ地球に住む者として完全に一つになったという素晴らしい初体験を確実に記憶することになるはずである。

それは良くも悪くも、今より明らかに大きく前進した世界となるのではないだろうか。

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鹿の戦闘力 = 奈良公園の鹿との格闘

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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奈良県の奈良公園には、多数の鹿が生息していることはよく知られている。

鹿は同公園内に鎮座する春日大社の神使であり、国の天然記念物とされて保護を受け、公園内外に約1100頭がいるという。

そんな奈良公園には、国内外から多くの観光客が訪れ、「鹿せんべい」を与えたりして、直に鹿と触れ合うことが可能である。

だが、奈良の鹿は飼いならされているわけではなく、れっきとした野生動物。

人間に従順でも、なついてもいないのだ。

よって、鹿にかまれたり追突されたりしてケガをする観光客が続出していたことが、問題となっていたものである。

鹿をナメてはいけない。

草食動物だし、昔から人類にしょっちゅう狩られているが、だからと言って、人類が素手でタイマン張っても楽勝であることを意味しない。

日本の鹿は成獣だと、オスは60キログラムから100キログラムになるため、その攻撃力は中型犬や猫をはるかに凌駕するのだ。

ウサギと一緒などと考えない方がいい。

私はそんな鹿の恐ろしさについて身を持って知っている。

なぜなら奈良公園の鹿と戦ったことがあるからだ。

あれは、私が高校二年生だった時の春休みのことである。

『青春18きっぷ』で東大寺へ遊びに行った際に、それは起こった。

東大寺に行くのは小学校6年生の修学旅行以来だったが、小学校の時も高校生になったその当時も、奈良公園には鹿が観光客の間を歩き回るほどウヨウヨいて、観光客は鹿せんべいを与えることができた。

そのころから、鹿に負傷させられる観光客が続出していたかどうかは知らないが、修学旅行の時にやられた人間なら知っている。

他のクラスの金子浩という奴で、鹿にいたずらした結果、突き飛ばされて返り討ちにされたらしい。

金子はその後、「鹿に負けた男」と呼ばれて、学年最弱の烙印を押され、小学校卒業まで嘲笑され続けた。

小学生の頭の中では、人間が鹿に負けるわけはないという認識だったようだ。

実は私もその一人で、高校二年になっても、それは変わらなかった。

鹿にやられるなんて人間として恥ずかしいと、頑なに信じていたのだ。

また、体はでかいがウサギと同じでおとなしく、何をやっても基本無抵抗であろうとも。

だからその時、地面に落ちている鹿せんべいを食べていた鹿を見た私は、ついつい、いたずら心を起こしてしまった。

背後から、鹿の後ろ足に足払いをかけたのだ。

鹿は後ろ足を私に払われて、一瞬よろけたものの倒れることはなく、前足で踏ん張ってすぐに体勢を立て直した。

さすが四本足の野生動物、かなりバランス感覚はいいようだがスキだらけだ。

そんなんじゃ奈良公園では生きられても、山では生きていけんぞ。

これから、お前はもっと注意力を…。

などとヘラヘラしながら考えていた私の方を、その鹿が向いた。

私を見たその顔は「さっきやったのはお前だな」と言っているような感じである。

そして、つぶらな瞳は白目をやや剥いており、明らかに怒っている様子だ。

何だ、その反抗的な態度は?鹿のくせに。

などと、人間として鹿などに謝罪する気は毛頭ない私は、余裕をぶっこいていたが、いざ向かい合ったとたんに少しビビり始めていたことを告白する。

改めて気づいたのだが、

その鹿は、周りの鹿より一回り以上大きいオスであり、角は切られていたが、体感的に素手で戦ったら勝てそうにない個体だったのだ。

ちょっとヤバかったかも。

と悟ったが、もう遅かった。

一瞬上半身を低くしたかと思ったら、勢いをつけてこちらに頭から突っ込んできたのだ。

当時、体重が50キロを上回るか上回らないかだった私は、もろにくらって吹っ飛ばされた。

だが鹿の攻撃は続き、突進して頭突きを連打してくる。

思わぬ奇襲攻撃にしてやられたが、私だって無抵抗ではない。

切られた角の部分をつかみ、前から腕を回してフロントネックチョークをかけようとしたら、ガジっと腕をかまれて振りほどかれた。

力もかなりのもんなのだ。

さらに、前足で蹴りを入れたと思ったらフェイントで、カウンターで再び下半身に向けて突進してくるなど、結構ケンカ慣れたテクニシャンでもある。

こりゃ勝てん!

鹿の思わぬ戦闘力の高さに一気に戦意を喪失した私は、全速力で逃走を図った。

私は足が遅い方で、高二にして100メートルを14秒台でしか走れなかったが、その時ちゃんとタイムを測ったとしたら、13秒台をクリアできるくらいの、自分史上最速の走りだったはずである。

しかし、草食動物から逃げ切るには遅すぎた。

いいスタートと走りではあったが、走り始めてほどなくして背中に鈍く重い衝撃。

背中に頭突きをくらわされて豪快に転んだ私に、なおも鹿は追い打ちをかけてくる。

地面に転がる私に頭突きはかましてくるは、前足で蹴るはで、滅多打ちで手も足も出ない。

ほかの観光客は「おお~」とか「ああ~」とか言って誰も助けてくれやしなかったが、さすがに奈良公園の職員は見て見ぬふりはしなかった。

「コラー!!!」

とか、大声で叫びながら飛んできて、しつこく私を攻撃する鹿を追っ払ってくれた。

危ないところであった。ちょっと遅いが助かった。

しかし、私を救い出した職員のおっさんの第一声は「大丈夫?」ではなく「鹿にいたずらするからこうなるんだ!」だった。

その前の私の所業を見ていたらしい。

さっきの「コラー」も私に向けた怒声だったようだ。

鹿にさんざん痛めつけられた後は、おっさんにグラグラ怒られた。

それら一連の様子を他の観光客は興味深そうに見ていたから、私はいい笑い者である。

また、私が攻撃されている間、他の観光客の中には笑っていたり写真を撮っていた者も、横目に入っていた。

彼らにとって私が鹿と職員にやられている様子は、東大寺や鹿とのふれあいと同じかそれ以上に面白かったに違いない。

体を張って彼らに愉快な思い出を提供してしまい、少々シャクでもある。

若気の至りというか、高校生の割にはあまりに幼稚な行為のおかげで黒歴史を刻んでしまったことは確実だった。

この事件で身に染みたのは、「自分はとんでもないバカだ」という幼児の頃から気づいていること以外に、何と言っても鹿の戦闘能力の高さだ。

メス鹿や子鹿にしときゃよかった。

とか考えたこともあったが、子鹿はともかく、体格から判断してメス鹿もそこそこ強いはずであるからナメてはいかんだろう。

あそこまで徹底的やられた私は、現在でもトラウマレベルで鹿の怖さを覚えているし、とてもじゃないが他の観光客のように鹿にせんべいを与えたりして楽しく触れ合うことはできない。

また、奈良公園どころか、奈良県自体に行く気もなくなった。

自業自得だと自分でもわかっているから、なおさらである。

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