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2023年 本当のこと 歴史 江戸 長寿

最後の江戸時代生まれ

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明治生まれが111歳以上となってしまった令和5年現在、それよりずっと前の江戸時代なんて完全無欠の大昔である。

だが、実は50年か60年くらい前の昭和の中頃まで江戸時代と現代はしっかりつながっていた。

健在だった江戸時代生まれが何人もいたからだ。

2023年現在、NHK「連続テレビ小説」で放映中の『らんまん』の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎はまだまだ江戸時代だった文久2年(1862年)の生まれだったが、昭和32年まで存命だった。

牧野富太郎

高度成長期の時代の日本の100歳オーバーの長寿者は皆江戸時代生まれで、その当時の病院の受付などで書かされる生年月日の記入欄には「昭和・大正・明治」の他に「慶応」があったり、あるいは「慶応」やそれ以前の元号を書く空欄があったという。

しかし、昭和40年代になって江戸時代生まれの高齢者が次々に鬼籍に入っていったことにより、江戸時代と現代のつながりは徐々に細くなってゆき、最後の一本となる時が来た。

そのラストワンとなった人物とは、河本にわという媼だ。

河本にわ媼

にわ媼は、1975年5月31日に梅田ミト媼が112歳で亡くなったことにより、その当時の長寿日本一かつ世界一の人物兼最後の江戸時代生まれとなった。

にわ媼はミト媼が生誕した約五か月後の文久3年8月5日(1863年9月17日)生まれ。

産声を上げた時、江戸幕府はまだ健在で将軍は徳川家茂、時代は幕末の動乱期に入っていた。

媼が物心ついて成長、20歳で結婚して三男五女をもうけて川魚の行商をしたりして生活に追われている間、世の中では大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争、明治憲法制定、日清戦争、日露戦争、大正デモクラシーとエポックメイキングな出来事が目白押し。

太平洋戦争中の時点ですでに80歳代の高齢者になっており、それからも高度成長期という一大転換期を生き、孫が17人、ひ孫が38人、玄孫が25人いた。

晩年は持病のリュウマチがひどくなり、目も耳も不自由になって一人歩きできないほどであったが寝たきりというわけではなく、朝昼晩の食事は必ず摂り、好物はカレーと川魚。好き嫌いはほとんどなく、一日四本牛乳を飲んだ。

普段は先立った次男の嫁に面倒を見てもらっており、仏壇に手を合わせたり、好きな針仕事をするのを日課とし、近所に住む三男と四女の訪問を楽しみにしていた。

新聞の記事

自動的に生成された説明
にわ媼と三男

このように安らかな晩年を送っていた媼のもとには、日本一の長寿者になってからマスコミが入れ代わり立ち代わり取材しに来ていたが、耳が不自由な本人に次男の嫁が耳に口を当てて聞いても、返答は歯がないためにモゴモゴと聞き取りづらく、なおかつトンチンカンなものが多かったらしい。

また、「あほうの長生きで…」が口ぐせだったという。

周りがチョンマゲ頭ばかりだった時代から外では車が走り回る時代までを生き、その生涯は明治維新からオイルショックまでをカバーするほどの長きにわたるが、あまりにも多くの激変を目の当たりにしすぎて「何をしてきたかおぼえていない」とも語っていた。

きっと人類が経験していい変化や出来事の数をもう超越していたのだろう。

理解しようと積極的に対応することなく、傍観するか流される態度に徹していたということのようである。

それこそが長生きの一番の秘訣だったのかもしれないが。

しかし、寄る年波にいつまでも勝ち続けることはできない。

次々やってくるマスコミの取材も体調不良を理由に断ることが多くなり、長寿日本一となった翌年の1976年(昭和51年)11月16日8時半、滋賀県高島郡の自宅で老衰のためにこの世を去った。

享年113歳。

非の打ちどころのないほどの大往生であり、天寿を見事に全うしたのだ。

同時に、この日は日本人が江戸時代とつながっていた最後の日となり、これ以降江戸時代は永遠に時代劇や歴史書の世界となった。

追記1:河本にわ媼の死去により、慶応元年生まれの泉重千代翁が日本一の長寿者であり最後の江戸時代生まれと当時みなされたが、その出生日や戸籍についての疑念はかねてより多く、実際は実年齢より15歳若かったという説が現在では有力である。拙ブログはこの説に従った。

追記2:この翌年の1977年(昭和52年)5月25日に108歳で死去した中山イサ媼は1868年8月3日(慶応4年6月15日)出生だが大政奉還後であり、拙ブログは大政奉還までを江戸時代とみなした。

出典元―朝日新聞、『現代の顔 : 湖国の100人』

(サンブライト出版部)、中日新聞、毎日新聞

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2023年 昭和 暴動 本当のこと 長野 高校野球

高校野球で暴動 ~1969年長野-丸子実業戦~

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1915年(大正15年)に始まり、すでに100年を超える歴史を有する高校野球。

それを統括する高野連(日本高等学校野球連盟)は、一貫して日常のちょっとした不祥事でも厳重に処分するという姿勢でもって運営してきたため、各校野球部内で体罰やしごきが横行していても、これまでどの試合も表向きは健全に行われてきたといえよう。

だが、その長い歴史の中でも最悪と言ってもいい騒動が起きた試合がある。

それは、1969年7月夏の全国高校野球長野大会で起こった。

1969年長野-丸子実業戦

1969年(昭和44年)7月25日、上田市営球場で行われた夏の全国高校野球長野大会の一回戦第二試合の長野高校-丸子実業高校戦は、前半から不穏な空気に包まれていた。

同日午後2時15分から始まったこの試合、四回裏の丸子実業の攻撃中に審判の判定を巡って、丸子実業を応援する三塁側スタンドの観客席から空き瓶が投げ込まれるなどの騒ぎがあり、一時試合が二十分間中断。

およそ高校野球に似つかわしくない危険なムードの中で試合は再開されたが、双方決め手を欠いて延長戦となった。

日も傾き始めた午後6時半ごろ、4-4の同点で迎えた十一回表の長野高校の攻撃で、すでに2アウトとなっていた長野高校の選手の打った球が三塁ベースをギリギリで抜いてファウルグランドに転がる。

きわどい当たりであったが、審判は「フェア」と判定。

長野高校に1点が入って、さらに2点目も追加して勝ち越した。

丸子実業側は「ファウル」だと抗議したのだが、判定が覆るはずはない。

合点のいかない判定によって勝ち越された丸子実業は納得できない様子だったが、選手や監督以上に納得していない者たちがいた。

またしても、丸子実業側スタンドに陣取る観客たちだ。

再びグランドにモノが投げ込まれ、数名がグランドに乱入する事態となって、この試合二回目の一時中断となった。

そして、丸子実業の選手たちも行動に出る。

試合再開後、再三けん制をしたり、選手がタイムをとってわざとらしく靴ひもを結びなおしたり、不自然な選手交代を行うようになったのだ。

どう見ても、試合の引き延ばしをしているとしか思えない行動である。

その狙いは、日没引き分けだろう。

試合は事実上の三度目の中断となった。

だが、この腹いせの姑息な作戦は大いに裏目に出る。

そして、空前絶後の大騒動をも招く。

没収試合、そして爆発

ゲ-ムが遅々として進まなくなった事態を前に、審判団と長野県高野連は協議を始めた。

露骨な遅延行為であり、このような行為を許すわけにはいかない。

午後6時45分、審判団はきつい判定を下した。

それは没収試合。

没収試合とは、試合において一方のチ-ムの行為が原因で試合の開始又は続行が困難となった場合に、原因となった側のチ-ムを強制的に敗戦扱いとする判定である。

ここで原因となったチ-ムとは、もちろん丸子実業だ。

試合は9-0で長野高校の勝ちとされた。

だが、この毅然とした判定はすでに一万人になっていた観客、特に丸子実業を応援していた数千人もの観客たちに対してはあまりにも危険なものとなる。

彼らの一部は、すでに二度にわたってモノを投げ込むなどエキサイトしていたのだ。

判定がアナウンスされるや、これらの観客は総立ちとなって口々に怒りの声を上げ始め、例のごとく、グラウンドにモノを投げ始めたのだが、今度のはそれではすまない。

投げる標的は審判団であり、先ほどより多くの観客がグランドになだれ込み始め、球場内に引かれている電話線を引きちぎり始めた。

さらには誰かが放火したらしく、丸子実業側の観客席に火の手が上がる。

ちなみに暴れているのは丸子実業の生徒ではなく、大人の一般人だから始末が悪い。

まだ娯楽の少ないこの時代、プロ野球を生で見る機会のめったにないこの地方の大人たちは、高校野球でも見ごたえのあるものだったらしく、それぞれ在校生でもないのに、ひいきのチームを応援しに来ていたようだ。

そして、選手や応援する生徒よりエキサイトしてしまったのである。

なだれこんだ観客がグランド内の設備を壊し、観客席まで燃え始めた上田市営球場は、高校野球の試合会場とは思えない修羅場となってしまった。

完全無欠の暴動である。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

通報を受けて、鎮圧のために上田署から警官約100人が出動。

暴れた観客2名が逮捕されるなどして沈静化させ、8時半には、ようやく騒動はおさまった。

その後

高校野球の試合において現代までグランドに観客が乱入したり、モノが投げ込まれる事態はあったようだが、この規模のものはさすがにない。

勝ったとはいえ、試合をめちゃくちゃにされた長野高校の監督は、「ウチの選手も丸子実業の選手もかわいそうだ。これは大人の横暴だし、そもそも大会の運営にも問題があるだろう」と話していた。

一方の丸子実業の監督は、「没収試合にされたのは実に乱暴だ」と没収試合にされたことに納得していなかった。

主催者である県高野連の運営のまずさを非難する声も世間では多かったようだが、こんな騒動を起こした責任は取らせなければならない。

その矛先は丸子実業に向かった。

同校の野球部は暴動の一因を作ったとして謹慎していたが、高野連は対外試合を2年間停止するという重い処分を下す。

もっとも、11か月後にはこの処分は解除されている。

そして、試合当日に応援に繰り出していた丸子実業野球部の後援会は、責任を取って自主的に解散した。

暴れたのは大部分が大人であって高校生たちではなかったのだが、やはり原因を作ったことには変わりがないとみなされていたようだ。

いずれにせよ、令和の現代では考えられない事件である。

しかし、この時代は学生運動なども盛り上がりを見せて、機動隊が出動する事態に発展することも珍しくはなかったのだから、当時の日本人は令和のすっかり軟弱になった我々より、総じて血の気が多かったことは間違いない。

出典元―信濃毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞

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2023年 イラク 戦争もの 本当のこと 歴史

21世紀の銃剣突撃 ~2004年イラク戦争・ダニーボーイの戦い~

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白兵戦とは本来、敵味方の兵士が入り乱れての白刃による近接戦闘を指す。

白兵戦は古代や中世は言うにおよばず、遠距離からの攻撃が可能な火器が登場してからも行われ、近世に至ってほぼすべての兵士に火器が行き渡ると、それに銃剣を着剣しての白兵戦が主流となり、第一次世界大戦まで重要な戦法であり続けた。

自動火器が発達してからも完全に消滅することはなく、第二次世界大戦はもちろん、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争でも敵味方が近距離で遭遇した際には、白兵戦が発生していたという。

それ以後、より兵器が高度になった1982年のフォークランド紛争や精密誘導爆弾やステルス戦闘機などのハイテク兵器の独壇場になった1991年の湾岸戦争においても、銃剣を使った白兵戦が完全に消滅したわけではなかった。

だが、ステルス機や精密誘導爆弾などのハイテク兵器が登場して久しく、IT化も進んですでに敵の姿すら見ることがなくなったと言われるようになっていた21世紀の戦場ではどうだろうか?

さすがに、もう発生することはないだろう。

いや、実はそうではなかった。

2004年、中東・イラクのバスラでそれは起こった。

しかも、古式ゆかしき銃剣を着剣しての突撃で、それを行ったのは世界屈指の軍事大国・英国の部隊なのだ。

待ち伏せに遭った英軍

2003年3月20日に米英を中心とする有志連合によって、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とした『イラクの自由作戦』の名の下で行われたイラク戦争。

イラク正規軍との戦闘は、ほぼ一方的な展開となってイラクの独裁者サダム・フセイン率いるバアス党政権は崩壊、2003年5月1日に戦争に踏み切ったジョージ・W・ブッシュ米大統領によって「大規模戦闘終結宣言」が出たが、米国が指摘した大量破壊兵器の発見には至らず、さらにイラク国内の治安が悪化して戦闘は続行していた。

そんなイラク戦争二年目の2004年5月21日、有志連合の一角であった英軍の第16空中強襲旅団戦闘団(当時はアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ)所属の兵士20名は、任務交代の命令を受けて、ダニーボーイと呼ばれた検問所へ向かっていた。

ダニーボーイは、イラク南部で最大の都市であるバスラに近い地点にある。

このころイラク北部では、米英軍に対する抵抗が活発化して極端に危険になっていた時期であったが、北部は前政権のバアス党に優遇されていたスンニ派の地域だ。

バスラを含めた南部はバアス党に虐げられてきたシーア派住民居住区であり、駐留する米英軍に攻撃を加えてくることはあっても大規模な衝突となったことはなかった。

また、この時点のイラク南部では後に米英軍相手に猛威を振るうことになるIED(路肩爆弾)による被害が発生しておらず、英軍兵士は危険な任務ととらえてもいなかったようである。

よって、英軍はあえて重装備の部隊を派遣せず、非装甲の軍用トラックで兵員を派遣していた。

だが、分隊がバスラまで約55マイルの地点まで来た時に、それが間違いであったことを思い知ることになる。

その場所は郊外の集落で、道路沿いには、まばらなに建物があったのだが、その後ろから人影が見えたかと思うと突然激しい銃撃を加えてきたのだ。

イラクに駐留している全ての外国軍の排除を目的としたシーア派武装組織マフディ軍である。

マフディ軍は、これまでも攻撃を加えてきたことはあったが、今回ほど激しいものは初めてであり、人数も優勢だ。

マフディ軍

英軍にとって完全な不意打ちとなったが、彼らは世界に冠たる英軍の第16空中強襲旅団戦闘団の精鋭たち。

指揮官の的確な支持の下、瞬時に反応する。

車両は銃撃を加えられながらも路肩に停止し、兵士たちは次々に下車して、路肩の縁石などを遮蔽物に反撃を開始した。

マフディ軍には数的優位があったが、指揮官や個々の民兵の練度は、英軍に遠く及ばなかったようである。

多数の敵から先制攻撃を受けたにもかかわらず、この時点で英軍側に死傷者は出ていなかったのだ。

もし、この時マフディ軍の中に有能な指揮官がいたら、手際よく英軍を包囲して殲滅に成功していたことだろう。

 2003年のイラク戦争の戦闘終結宣言以来、英軍はバスラに駐留。

誤射による死傷者を減らし、地元のシーア派イスラム教徒の支持と好感を勝ち取るために、イラクの英軍は厳格な交戦規則を設定、直接攻撃を受けた場合のみ反撃を許可していた。現在のこの状況は、明らかに反撃が許されるものである。

英軍指揮官は保有する全ての火器の使用を許可し、射撃の精度の高さもあって、交戦開始から十数分後には一時的にマフディ軍を圧倒し始めた。

数的優位があるにも関わらず、劣勢に立ったマフディ軍は態勢を立て直そうと銃撃を止め、街中へ向けて加勢を求める呼びかけを始める。

だが、これは著しく軍事リテラシーを欠いた行動であった。

なぜなら、その呼びかけは英軍にも聞こえており、自軍の状況を敵軍に知らせているに等しい行為だからだ。

しかも、英軍は現地語のわかるガイドを同行させていたために、マフディ軍の状況は筒抜けだった。

もっとも、英軍にとって不利な状況がさらに悪化しつつあることに変わりはなく、守りを固めながら一番近い友軍に無線で救援を呼びかける。

膠着状態が続いていたが、時間の経過によって事態はより悪化した。

弾薬が底を突き始めていたうえに、マフディ軍側に新手のシーア派民兵数十人が加わり、道路に沿って展開、総兵力が100人を超えたのだ。

一方の英軍は20名のままであり、敵軍の助っ人が到着するまでの間に、簡単な塹壕を掘っていたものの、数的劣勢はより深刻になって孤立した形となっていた。

道路を挟んで対峙するマフディ軍は、じりじりと包囲網を形成。

しかも、今度はRPGロケット砲や迫撃砲まで持って来ており、その増強した火力で英軍を殲滅しようとしているのは明らかであった。

危機的な状況に陥った英軍だったが、指揮官は分隊を二手に分け、一方に現在の拠点を死守させ、もう一方に相手側に攻撃を加えさせてかく乱する戦法に打って出る。

そして、救援要請に一番近くをパトロールしていたブライアン・ウッド軍曹指揮下の英軍プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊の一個分隊が応えて到着。

彼我の戦力差は4対1に縮まったが、劣勢なのは変わらない。

ブライアン・ウッド軍曹

双方とも銃撃戦を展開しつつも、マフディ軍は練度の高い英軍を警戒し、英軍はマフディ軍の数的優勢を警戒して、積極的な攻勢に打って出ることはしなかったために再び膠着状態になったが、英軍側の弾薬は確実に欠乏し始めていった。

着剣!突撃!!

プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊

30分間銃撃戦が続いた頃には英軍の弾薬はほぼ枯渇、時間の経過とともに、形勢は絶望的になりつつあった。

こののっぴきならぬ状況の前に、救援に駆け付けて孤立した英軍部隊を指揮することになったブライアン・ウッド軍曹は、捨て身の戦法を決断する。

それは、残りの銃弾を発砲しながら、銃剣を使った突撃を行うことだ。

だが、いくら弾薬がなくなったからとはいえ、これは危険というより自殺行為に等しい決定だった。

なぜなら、自軍の今いる拠点からマフディ―軍が陣取る場所まで180メートルほどしかなく、その間に遮蔽物はなかったために、恰好の標的になる危険があったのだ。

しかも相手の兵力は四倍である。

下手すれば、日本軍の米軍相手のバンザイ突撃のような結果になることは必至だったのだ。

しかしこの捨て鉢とも思えた戦法は、予期せぬ効果があった。

英軍の精鋭が発砲を続けるマフディ軍側に殺到すると、シーア派民兵たちは意表を突かれて浮足立ち始めたのだ。

マフディ―軍のシーア派民兵は、数も多くて火力に勝ってはいたが、しょせんは素人の烏合の衆。

やたらめったら撃つだけで効果的な火力網を敷くことができずに、英兵の突破を許して至近距離まで接近されるや、鬼気迫る気迫で突進してくる英軍を前に、戦意を喪失して算を乱して逃亡し始めたのである。

後方の民兵は、次から次へこちらに逃げてくる味方に当たるかもしれないので、発砲し続けるわけにもいかない。

しかも、英兵は心技体共に鍛え抜かれた練兵ぞろいで、徒手格闘や銃剣術にも長けていた。

よしんば立ち向かってくる民兵がいても、格闘術を知らない相手だから、赤子の手をひねるように確実に仕留めてゆく。

後の英軍の作戦報告書によると、多くのシーア派民兵は米英軍の兵士は、ハイテク兵器と火力に依存して白兵戦を行う勇気はないと思い込まされていた可能性があり、弾薬が尽きて降伏すると思っていたら、まさか銃剣突撃をしてくるとは思っていなかったらしいと分析されている。

おまけに、民兵たちは訓練も実戦経験も欠いていたアマチュアで、いざ世界に冠たる英軍精鋭の気迫あふれる突進を前に、戦意を喪失してしまったらしい。

 この戦闘で英軍は3名が負傷しただけで戦死者はなく、マフディ軍は20名が死亡して28~35名が負傷。

劣勢を見事に挽回した英軍の圧勝であった。

その後、この戦闘を指揮したブライアン・ウッド軍曹は、戦功十字章を授与されている。

英軍にとって、白兵戦は1982年のフォークランド戦争以来のものであったが、現在でも軍に制式採用されているアサルトライフルであるL85には銃剣を取り付けることができるし、銃剣での訓練も欠かしていなかったのだ。

L85

ちなみに、それから十数年後の2017年7月1日にも、英軍は白兵戦を展開している。

イラク北部のモスルで情報収集活動から帰還していた英陸軍特殊部隊SASが、イスラム国(IS)の武装集団50名に襲撃され、弾薬が尽きるまで抵抗した後に白兵戦を挑んだのだ。

世界最高レベルの戦闘集団であるSASの精鋭たちであるから格闘術も一流で、イスラム国の戦闘員を30名以上殺害して蹴散らすことに成功している。

いくら兵器のハイテク化、IT化、無人化が進んでも、最後にモノをいうのは、個々の兵士の訓練と戦意だったと言えるだろう。

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2023年 中国 事件簿 悲劇 本当のこと 東京 無念

友情を食い物にした女 ~中野区中国人留学生殺害事件(江歌案)~

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2016年11月3日深夜、東京都中野区中野のアパートで法政大学の大学院に通う中国人女子留学生・江歌(ジャンガ―・24歳)が、刃物でめった突きにされて刺殺された。

現場には、江歌と同居する同じ中国人女子留学生の劉鑫(リュウシン・24歳)がおり、無事だった彼女が警察に証言したところによると、犯人は見知らぬ男だったという。

当初、この事件は被害者が中国人であったからか、日本では新聞で小さく報道されるにとどまる扱いだった。

その一方の中国では、事件で一人っ子である江歌を殺された母・江秋蓮(ジャンチウィエン)の悲憤が報道されると多くの同情を誘い、駐日中国大使館も警視庁に事件の早期解決を要請するよう動き出す。

そしてその後、事件発生直後に劉鑫が述べた「犯人は見知らぬ男だった」という証言が嘘であって、実際は劉鑫の元カレの中国人留学生・陳世峰(チェンシーフォン・25歳)であったこと、犯行時にとった行動が最初の証言とは全く異なっていたことがわかり、さらには母・江秋蓮に対する冷淡かつ不誠実な対応によって、中国中から怒りの声が上がる事態に発展した。

異国で出会った同じ学校の同級生

劉鑫(リュウシン)

劉鑫は、1992年に中華人民共和国山東省青島市で生まれた。

両親は農民だったが、商品作物の販売に成功した農家であって、結構な金を持っていたために、幼少期から何不自由なく暮らしてきたようだ。

そのせいか、少々わがままなところがあったが、才覚ある両親の血はしっかり受け継いでおり、人に好かれやすく嫌われにくいという、おいしいキャラの持ち主であったらしい。

学校に通っていた頃は、誰もが悩む人間関係でうまく立ち回り、恋愛にもおおらかで、彼氏をとっかえひっかえしたりの華やかな青春も経験した。

2014年に、地元の泰山学院(4年生大学)の日本語学科を卒業した後、お目当ての仕事が見つからずにプラプラしていた劉鑫を心配した両親の勧めで日本に留学。

もともと日本語が専攻ではあったが、より実践的な日本語を習得すべく、当初は他の留学生と同じく、日本語学校に通うようになった。

その日本語学校で、劉鑫は同じ中国人女子留学生と知り合う。

後に命を奪われることになる江歌である。

江歌(ジャンガ―)

中国人の留学生なんてそこら中にいるのだが、江歌は特別だった。

彼女は自分と同じ山東省青島市出身で、それも互いの実家の距離は約10㎞という近さであって、なおかつ実は同じ中学校出身だったのだ。

生徒数が多かったので顔を知らない者がウヨウヨいたし、江歌も地味な子だから全然気づかなかった。

江歌は母一人子一人の家庭で育った苦労人で、母を楽させてあげたいという気概を持って、あこがれていた日本にやって来たらしい。

気ままに育ってきた劉鑫とは境遇が違っていたが、異国の空の下で同国人、それも同郷かつ同じ中学校の同級生という奇跡的なよしみから、二人は問答無用で親友になった。

これは、後に江歌の方にとっては破滅的な出会いとなるのだが、この時点では両人とも知る由もない。

災いのきっかけ

2016年4月、日本語学校を卒業した劉鑫は大東文化大学の大学院生となり、江歌は法政大学大学院に入学。

本格的な留学生活がスタートした。

そして劉鑫は大東文化大学で、江歌にとって第二の破滅的な出会いをする。

後に、江歌を殺害することになる陳世峰との出会いだ。

陳世峰は、自分より一つ上の25歳で陝西省出身(生まれは寧夏回族自治区)。

日本語がうまくて知的であり、研究発表する際などに見せるクールな立ち振る舞いに、入学したばかりの劉鑫の目はくぎ付けになって、たちまち「女」をうずかせた。

陳世峰(チェンシーフォン)

発情した劉鑫のアプローチに、優等生だがウブなところのあった陳世峰は一挙に陥落。

同年6月には、早くも板橋区高島平で同棲生活を始めた。

しかし、劉鑫は恋愛では百戦錬磨で意中の男を落とすことには長けていたかもしれないが、関係を維持することは苦手だったようだ。

また、交際する前に男を見る目も養われていなかった。

学校であれほどかっこよく見えた陳世峰だったが、一緒に暮らし始めてすぐに、彼がクールというより陰キャで、陰険なキモ男であったことに気づいたのだ。

そのくせ、ちょっとでもわがままを言うとすぐにキレる。

同棲生活開始早々、痴話ゲンカが絶えなくなり、こらえ性のない劉鑫は8月後半に別れを一方的に宣言して家出した。

たった三か月弱の交際だったが、嫌いになった男と我慢して付き合う必要はない。

さっさとポイだ。

これまでの恋愛でもそうしてきたから、今回もそうするだけである。

ただ、今回困ったことは、ヘボチン野郎の陳世峰と同棲するために住居を引き払っていたから、住む所がなくなってしまっていたことだ。

だがぬかりはない。

立ちまわるのがうまく、抜け目のない劉鑫は、この時すでに同郷の友達・江歌に連絡をとって事情を話し、彼女の部屋を間借りすることを承諾させていたのだ。

劉鑫は、他人に自分の無理難題を承知させることに長けており、しかも江歌は困っている人間の頼みを断れない性格だったからイチコロだった。

建物の入り口

低い精度で自動的に生成された説明
江歌のアパート

もっとも、この時期は母の江秋蓮が日本に来ていたために、江歌の部屋には入れない。

その間は、自分のバイト先のオーナーに泣きついて、バイト仲間の部屋に住まわせてもらっていたというから、かなりの強者だ。

やがて母親が帰国すると、劉鑫は首尾よく江歌宅に転がり込んで住居問題を解決させた。

しかし、より困った大問題が残っていた。

劉鑫の中ではとっくに元カレとなった陳世峰だったが、陳世峰の方はそう思っていなかったことだ。

さっぱりあきらめるという言葉が辞書にないこの男は、自分が運命の相手と思い込んだ女を、学業そっちのけで追いかけ始める。

毒闺蜜

劉鑫と江歌

中国語には、闺蜜(クイミー)という言葉がある。

この魅惑的な字面が意味するところは「女性の同性の親友」、「(女性にとっての)親密な女友達」だ。

同郷のよしみで、元彼氏から逃げてきた劉鑫をかくまった江歌は、まさに「闺蜜の鏡」と言えよう。

だが、劉鑫の方は紛れもなく悪い闺蜜、「毒闺蜜」だった。

下手したら江歌のことを親友ではなく、自分の都合よく動いてくれる便利なアイテムだと思っていた可能性がある。

居候させてもらっているのに、まるで自分の家のようにふるまうようになり、彼女といると息がつまり始めた江歌の方は、コーヒー屋に行って勉強するようになるなど「庇を貸して母屋を盗られた」状態になっていた。

劉鑫の方は、陳世峰から逃れてまんまと江歌にかくまってもらえたわけだが、大安心というわけではない。

ずっと部屋の中にいるわけにもいかず、外へ出たとたん陳世峰にまとわりつかれるようになっていたのだ。

別れた後も、同じ学校だから顔を合わすに決まっている大学院に劉鑫が通い続けていたのかどうか、報道では明らかにされていないが、江歌と同居しながらバイトには行っており、陳世峰にそのバイト先をつきとめられていたのである。

そして11月2日、江歌の家もストーカー野郎にバレた。

その日の午後、江歌は外にいて劉鑫が一人で部屋にいた時に、陳世峰が押しかけて来たのである。

それまでのストーカー行為で、すっかり精神的に参っていた劉鑫は、迷わず江歌に電話でこちらに来てくれるように頼んだ。

助けを求められた江歌は、当然ながら警察に通報しようと提案したが、劉鑫は何とこれを拒否する。

警察が入ると余計に面倒なことになると考えたようだが、これまで江歌にさんざん面倒をかけているという自分の立場を全く分かっていない。

いくらストーカーと化した元カレにおびえ切っていたとはいえ、都合が良すぎであろう。

親友ならば、どんなに迷惑かけてもよいと考えていたのだろうか。

それでも、義侠心に厚い江歌は親友の求めに応じて部屋に駆け付け、すっかり危険な状態になりつつあった陳世峰と対峙する。

そして、自分一人ではないと安心して部屋から出てきた劉鑫も交えて談判になったが、相手の事情などお構いなしに、よりを戻そうとしか考えていないストーカー野郎と話し合いになるわけがない。

ほぼ押し問答となった話し合いは、劉鑫がバイトへ、江歌が大学院へ行く時間になったことでタイムアップとなって物別れとなり、三人はそれぞれ行くべき場所や帰るべき場所に向かうことになった。

いったん穏便に収まったように見えるが、実はこの時点で陳世峰は、すでに暴発寸前だった可能性がある。

これより以前のことであるが、ストーカー行為に辟易としていた劉鑫が、浅智慧をひねり出して、彼氏ができたと思わせればあきらめてくれるだろうと考え、バイト仲間の男に頼み込んで新しい彼氏のふりをしてもらい、付きまとう陳世峰に見せつけたことがあったようなのだ。

事の真偽は分からないが、もしこれが本当だったとしたら、未練がましくてみみっちい陳世峰のことだから、「他の男のモノになるくらいなら殺してやる」と決意したことは大いに考えられる。

また、後に分かったことだったが、江歌は母親の江秋蓮が日本に来た時に、劉鑫のことを話していた。

その際に、劉鑫が彼氏から逃げてきたことや一緒に住まわせてあげようと考えていることを娘の江歌から聞いた母親は、「そういう人と関わらない方がいいよ」と娘を諭していたというが、結局、この人生経験豊かな母の忠告を、人が良すぎる娘は守らなかった。

結果、母の懸念は最悪の形で的中することになる。

江歌と母の江秋蓮

親友に見殺しにされて絶たれた夢

アルバイトに向かった劉鑫だったが、いったんはあきらめて帰ったと思われた陳世峰が、後をつけてきたことに気づく。

なおかつ劉鑫のスマートフォンに「オレの所に戻らねえなら、お前のヌード写真をネットにばらまくぞ」というメールを送って脅迫までしてきた(劉鑫は、なぜブロックしていなかったのだろう?)。

恐怖のどん底に陥った劉鑫は、ずうずうしくも再び江歌に救援を求め、「バイトが終わってから、21時に東中野駅で待っていて欲しい」と電話。

学校が終わってから自分のバイトに行っていた江歌は了承し、退勤してから律儀にも時間通りに東中野に向かった。

だが、劉鑫の姿は見えない、どころかなかなか現れない。

まだバイトが終わっていなかったのだとしても、自分の都合で呼び出しておいて出てこないとは、とことん厚かましい女だ。

江歌はコーヒーショップに入り、この時間を利用して中国版Lineである「微信(WeChat)」で母親の江秋蓮に電話した。

一時間半ほど話をした中で、江歌は劉鑫の一件のことも話しており、何か嫌な予感がしたらしい江秋蓮は娘に、「気を付けなさいよ」と話したという。

母娘の会話は、何時間も遅刻していた劉鑫がようやく現れたことによって終了するが、これが江秋蓮にとって娘と交わした最後の会話となる。

江歌と劉鑫が中野区のアパートに到着した頃には、すでに日が変わって3日午前0時を回っていたのだが、そこで二人は凍り付いた。

陳世峰の野郎が、アパートの玄関で待ち構えていたのだ。

江歌は、すかさずスマートフォンで「不審者がいる」と警察に通報。

二人は濁った目でこちらを凝視する陳世峰の脇を、そそくさと通り抜けて部屋に向かったが、奴は後からついてくる。

部屋の前まで来た時に、江歌は「嫌がってるのわかんない!?もう警察呼んだんだからね!」と帰るように要求したが、この時の陳世峰は、先ほどとは比べものにならないくらい危険な状態になっていた。

「オメー、戻ってこいっつってんだろ!」と怒鳴って劉鑫の手をつかみ、無理やり連れ去ろうとするのだ。

そればかりではない。

「やめなよ!」と江歌が叫んで間に入るや、何と刃物を持って向かってくるではないか。

これを見た劉鑫がいち早く動く。

驚くべきことに、江歌が立ち向かっているのをいいことに、彼女の部屋の中に入ってしまったのだ。

しかも、江歌を置き去りにしてカギまで閉めた。

「テメー開けろ、おい!鑫!!コラあああああ!」

激高した陳世峰は、狂ったようにノアノブをガチャガチャ言わせ始めたが開くわけがない。その結果、逆上の極みに達した陳世峰が、さらにとんでもない行動に出た。

怒りの矛先が、あろうことか第三者である江歌の方に向き、持っていた刃物で一突きしたのだ。

一突きでは済まない。

失恋で頭がおかしくなっていた陳世峰は「オレの邪魔ばかりするお前が悪い!」とばかりに、部屋から閉め出されてしまった形の江歌を滅多突きにする。

「啊啊啊~!!!」

何か所も刺された江歌は、叫び声を上げてその場に崩れ落ち、陳世峰は逃走。

江歌の部屋に逃げ込んで鍵を閉めた劉鑫はパニックになりながらも、この間に110番を二回もしていたが、警察官が現場に到着するまで部屋の鍵を開けることはついになかった。

陳世峰がまだその場にいたならともかく、江歌を刺して逃走した後もだ。

その間に、江歌は手の施しようがない状態となってゆき、警官が到着後に病院に搬送されたが時すでに遅し。

複数個所を刺されたことにより失血死した。

育ててくれた母親に恩返ししようと、あこがれの日本にやってきて勉学に励んでいた江歌は、親友を助けたばかりに、夢半ばで命を絶たれてしまったのだ。

たった24年の生涯だった。

バスルームの一角

中程度の精度で自動的に生成された説明
犯行現場

母の悲憤を逆なでする劉鑫

江歌の悲報は駐日中国大使館によって、その日のうちに中国にいる母親の江秋蓮の元に届けられた。

動顛した母は翌日には来日。

変わり果てた姿となった我が子と悲しみの対面をした。

江秋蓮はシングルマザー。

離婚した後は、たった一人の我が子である江歌を、女手一つで育て上げてきたのだ。

そのかけがえのない唯一の宝を殺された母の悲しみと怒りが、尋常でなかったのは言うまでもない。

犯人は一人しか考えられない。

江秋蓮は、娘とは生前よく話していて知っていた。

親友・劉鑫の元カレの陳世峰である。

娘は劉鑫のせいで死んだという思いを抑えつつ、江秋蓮は事件現場にいて事情を知っている彼女に、犯人の逮捕のための協力と当時の状況を教えてくれるように微信経由で頼んだ。

一人の母親としては、当然の要求である。

だが、自分だけ助かった劉鑫は「事件当時は江歌と一緒にアパートへ戻り、自分はズボンが生理で汚れていたので履き替えようと先に部屋に入り、江歌は郵便物を確認するために外にいたが、外で江歌の叫び声が聞こえた。慌てて扉を開けようとしたが開かず、ドアスコープから覗いてもよく見えなかったから、怖くなって電話で110番に通報した」と返答した。

犯人が陳世峰だと彼女にも分かっているはずなのに、まるで見知らぬ人間にやられたと言っているとしか思えない主張である。

また、彼女を置き去りにして自分だけ部屋に逃げ込んでカギまで閉めたことも、この時点では言っていなかった。

ちなみに、劉鑫が110番通報した時の録音が残っているが、彼女はここでも半泣きになって動顛しながらも、たどたどしい日本語で「そとは誰か、誰か変な人がいて」と陳世峰の名前を出していない。

テキスト

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テキスト

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名前を出したのは、11月7日に陳世峰が恐喝容疑で逮捕された二日後の9日になってからからで、この時初めて江歌を殺したのは陳世峰であることや、自分が部屋に閉じこもってカギをかけてしまったことを、警察や江秋蓮に打ち明けた。

自分のせいで江歌が殺されたことは明らかだったから、あわよくば隠し通そうとしたのである。

劉鑫は徹底的に卑劣な女だった。

たとえ自分が原因で起こったことでも、面倒になりそうだと見れば、責任から徹底的に逃げる性分なのだ。

それは、その後の行動で示される

11月11日に江歌の葬儀が行われたが、前日に出席を約束したにもかかわらず欠席。

誰のせいで死んだと思っているのか?最低限の礼儀であろう。

また江秋蓮は、11月19日に江歌の遺骨を抱いて中国へ帰国するが、それまで一度も会いに来なかったばかりか、娘の最後の状況や事件の詳細を知りたがる江秋蓮の微信にも応答しなかった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, チャットまたはテキスト メッセージ

自動的に生成された説明
江秋蓮からの連絡は無視

この態度を取られて、我慢ができるはずがない。

一人娘を殺されて悲嘆にくれる母親は行動に出た。

ネットで、この非情な態度を中国の世論に訴えたのだ。

すると、中国のネット民はいち早く反応した。

中国国内で「友人を見殺しにした」と、劉鑫に対する非難が巻き起こるようになったのである。

この殺人事件は、日本ではあまり取り上げられなかったが、中国では大いに関心を集めていたのだ。

やがて、日本から帰国していた劉鑫はバッシングされるようになり、たまりかねて江秋蓮に連絡をしてきた。

しかし、それは捜査や裁判に協力するという承諾ではなく、「これ以上騒ぎ立てるなら、一切協力しない」という逆ギレの応答だった。

劉鑫の心ない返信

江秋蓮は、自分の娘はこんな奴のために死んだのかと怒りに震えた。

おまけに劉鑫の両親も両親で、彼らは微信の江秋蓮のアカウントをブラックリストに載せて連絡を絶ち、一家そろって転居して雲隠れ。

後に「心ある」ユーザーによって転居先が発見されて通報されるや、江秋蓮に電話をかけて「ウチの娘にからむな!殺した奴を恨めよ!」だの「あんたの娘は短命の運命だったんだ」などと罵倒する始末。

どうりで劉鑫みたいな女が育つわけである。

当残ながら、江秋蓮も泣き寝入りはしない。

これらの微信でのやりとりや通話内容を公開して、徹底的な反撃に出た。

中国人の怒りの炎は、日本人のものより火力が大きく、高温である。

非常識な女とその両親へのバッシングは、より激しくなった。

世間からの猛烈な反発には、さすがの劉鑫も追い込まれたようだ。

某メディアの仲介で、しぶしぶ江秋蓮との面会に同意する。

しかし、2017年8月22日に二人はようやく顔を合わせることになったが、江秋蓮が許すはずもなく、和解には至らなかった。

世に憚る憎まれっ子への制裁

そもそも、一番悪いのは江歌を殺した陳世峰である。

陳世峰は、逮捕後の2016年12月14日に殺人罪で正式に起訴され、翌2017年12月11日に公判が始まったが、江歌殺害の理由を「先に部屋に逃げ込んだ劉鑫が部屋の中から江歌に刃物を渡し、それを持って立ち向かってきた江歌から刃物を取り上げようともみ合っているうちに不意に刺してしまった」とほざいて起訴内容を否認した。

江秋蓮は一人娘を殺害した挙句に、あきれたたわごとを並べる陳世峰の死刑判決を求めて来日、支援者の協力を受けて署名運動を行ったが、日本は犯罪者に甘い。

12月20日に結審した東京地方裁判所による一審判決は脅迫罪と殺人罪による懲役20年であり、陳世峰も控訴しなかったために、この軽い刑が確定した。

新聞の記事

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中国なら間違いなく死刑だったと江秋蓮は判決に不満を表していたが、まだ肝心な奴が罰を受けずに残っている。

娘が殺される原因を作っておきながら、のらりくらりと責任逃れをし続けた劉鑫だ。

劉鑫に対する訴訟も、起こさないわけにはいかない。

許しがたいことに、劉鑫は全く反省していないどころか、面会の後にも偽名を使ってネット上で江秋蓮のことを「クソババア」だの「全部金のためだ」などとののしり、あまつさえ「あたしはアンタの娘の生前の写真いっぱい持ってるよ。アンタにはやらないけどね」などと、直接メールを送ったりして挑発していたのだ。

しかもその後、このクソ女は名前を劉暖曦と変え、SNSで30万人超のフォロワーを持つインフルエンサーとして成功、広告収入やライブ配信の投げ銭などで、のうのうと人生をエンジョイしていることが判明する。

おまけに、時々事件をネタにしているというではないか。

こんなふざけた奴を、罰しないわけにはいかない。

2018年1月12日に中国へ帰国した江秋蓮は、弁護士に協力を要請して訴訟の準備を行い、2019年10月28日、劉鑫に対して生存権に関する民事訴訟を提起する。

裁判が始まったのは2020年4月15日。

この訴訟で、江秋蓮は劉鑫改め劉暖曦に、死亡した娘の死亡賠償金、葬儀費及び精神的苦痛への慰謝料合計207万610元(現在のレートで約4140万円ほど)を要求した。

一審判決は2022年1月10日に下され、裁判所は劉暖曦に対して約70万元の賠償金支払いを命じた。

要求額の三分の一だったが、江秋蓮は2022年1月19日に一審判決を受け入れて控訴しないことを表明した。

しかし、1月24日になって、あきらめの悪い劉暖曦は一審判決を不服として控訴。

青島市中級人民法院(地方裁判所)で、2月16日から審議が始まった。

とはいえ、中国の司法も言われているほど非情ではない。

むしろ許しがたい行いをした者には、きっちりしている。

2022年12月30日、青島市中級人民法院は、劉暖曦の控訴を棄却。

一審判決を維持し、なおかつ裁判にかかった費用10760元を上乗せして支払うことを命じた。

母の戦いは終わった。正義はようやく果たされたのだ。

ちなみに、劉暖曦は払わされることになる莫大な賠償金を得るために、現在の心境を語った文章をSNSで公開して投げ銭を集めており、驚くべきことに、少なからぬ金額が集まったらしい。

人口が多いと、こんな奴をフォローするばかりか、投げ銭までする変わり者が、まとまった数出てくるようだ。

もっとも、その後、劉暖曦のSNSのアカウントは反社会的であることを理由に削除されて、永久追放となってしまった。

いい気味である。

2023年8月12日、江秋蓮は支払われた賠償金を使って「江歌专项助学基金(江歌特別奨学基金)」という基金を設立した。

学生を支援するための基金である。

経済的苦境から勉学を断念せざるを得ないような若者が、江秋蓮の目には、志半ばで命を落とした娘の姿に重なっていたようだ。

江歌を助けられなかった分、彼らを息子や娘と思って助けてあげなければならない。

その思いから立ち上げたのではないだろうか。

同時に、江秋蓮は江歌がこれからも自分の心の中だけでなく、この基金が存続する限り、人々の心の中で生き続けることを願っているのだ。

出典元―小郭历史、現代ビジネス、朝日新聞

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2023年 ネイティブ英語 外国語 英語 語学学習

ネイティブの英語 6 “you feel me?”

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意味:

「オレの言ってる意味分かるか?」とか「分かるよね?」の意味です。

ほぼ同じ意味の表現で、”You know what I’m saying?” と言うのもあります。かなり早口で言うので、 “ya know wum sayin?” とか、時にはほとんど “Yan wum sayin?” のように聞こえます。

もう一つの同じ意味の表現で、”See what I’m saying” と言うのもあります。これも早口で言うので、”See wum sayin?” のように聞こえます。

“You feel me?” は、アメリカ(北米)で使われるインフォーマルな表現で、正式な表現ですと、”Do you understand what I am saying?” になります。

ちなみに、これの回答としては “I feel you.”「分かるよ」です。正式な表現ですと “I understand you” ですね。

(Do) you feel me?

US informal

do you understand what I am saying?:

https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/do-you-feel-me

例文:

Come on man, you feel me?

オレの言ってること分かるよな?

I’m not helping you any more, you feel me?

今後、キミのことを助けることはもうしない。分かったね?

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2023年 中国 復讐 河南省

君子報仇(二)十年不晩 ~中学時代の怨師に二十年越しのお礼参り・2018年中国河南省~

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学校に通っていた頃を思い出すと、教えを受けた教師の中には「怨師」と言わざるを得ない者がいる。

恩師ではない、怨師だ。

学生時代の自分を導いてくれて、終生その恩を忘れるべきではないのが恩師だが、怨師はその真逆。

自分を目の敵にしているとしか思えず、感情的になって面罵してきたり、あるいは体罰を加えてきたり、はたまた同級生の前でさらし者にしたりした教師のことだ。

多感な時期に屈辱的な思いをさせられ、何年たっても、あれは個人的な好き嫌いからヒステリーを起しただけだとし考えられないし、今の自分のためにも一切なっていないから思い出しただけで腹が立ち、許すことができない奴のことである。

拙ブログの著者も何人か心当たりがあり、今からでも遅くないから、お礼参りをしてやりたいものだとすら考えたこともある。

そんな筆者が時々夢見るようなことを本当にやってしまった男が、お隣の中国にいた。

実に痛快なことをやってくれたもんだ。

さぞかし爽快な気分になれたことであろう。

だが、そうではなかったようだ。

6.8億回再生された動画

2018年12月中旬、ある一本の動画が中国中を席巻した。

路上で30がらみの男が50代のスクーターに乗った男を呼び止め、何事かなじりながらビンタをくらわせている動画だ。

街中などで発生したもめごとや騒動を、居合わせた通行人が撮影して動画サイトやSNSにアップすることは中国でもよくあることだが、この事件はただの暴行事件ではなかった。

ビンタを食らっている方は張清林という名の中学教師で、ビンタをくらわせている方の30男は、常仁堯という張の元教え子だったのだ。

中国では、日本とは比べものにならないほど教師を尊重する伝統があり、その権威も高い。

その反面で、教師は生徒に遠慮なく体罰をふるう傾向があることが問題視されてきた。

加害者の常仁堯は、中学時代に被害者の張清林に手ひどく体罰を受け、この動画はその報復を20年越しに果たしたところを撮影したものなのだ。

だったとしても、教師に卒業後の教え子が手をあげる動画は中国社会では衝撃的なものであったらしく、6.8億回再生されるほどの注目を浴びた。

のこの行動には賛否両論があったが、上記の中国ならではの社会的背景もあって、学生時代に体罰を受けた者、もしくは現在進行形で受けている学生の共感もあったようだ。

担任だった相手を20年も昔のことで、あまつさえ公衆の面前でビンタまでするか?と思う方もいらっしゃるかもしれない。

だが、以下に記す常仁堯が実際にされたことを本当にわが身に置き換えることができたとしたら、あなたはそう言えるだろうか?

体罰四天王

加害者の常仁堯は1985年、中国河南省洛陽市欒川県で生まれ、早くに両親が離婚して家庭が貧しかったために恵まれない幼少時代を過ごした。

欒川県実験中学

小学校を卒業した後は、家から遠く離れた欒川県実験中学に入学。

家庭環境が良好ではなかったとはいえ、特に問題行動を起こす生徒でもなかった彼は、順当に一年生を修了する。

だが、1998年に二年生に進級したとたん、学校生活は暗闇に包まれることになった。

それは、担任教師が張清林だったからだ。

当時の実験中学の生徒たちの間では、「体罰四天王」という言葉がささやかれていた。

それは、生徒に加えるせっかんが特に激しい四名の教師を指していたのだが、張清林はそのセンター的存在であると恐れられていたのである。

まだ30代で血気盛んだったはトガリまくっており、生徒に圧倒的な威勢をふるうことこそ教師のあるべき姿と勘違いしていたらしく、ちょっとしたことでもキレて、生徒をズタボロにするまで体罰を加えることで有名だった。

何をしに学校に来ているかわからない者は、生徒の側だけでなく、教師の側にもいるようである。

そんな暴力教師に、常は目をつけられてしまった。

彼は素行不良で反抗的な少年では決してなかったのだが、張清林の目には、カンに触る生徒と映ってしまったらしい。

は英語教師で、常が英語を苦手科目としていたできの悪い生徒だったのもあるが、そんな些細なことも含めて、しょっちゅう体罰の餌食にされるようになる。

大声で罵倒されるわ、ビンタは食らうわ、蹴りは入るわ、棒で突かれるわ。

それもクラスのみんなの前だったから、さらし者にされたのメンツはズタズタになった。

また、は暴力的だっただけではなく、陰険な教師でもあった。

の家庭は貧しくて、学費を払うのにも一苦労だったために支払いが遅れることがあったのだが、は「誰だろな、学費も払ってない生徒は?全く、払うモン払わないなら、学校に来るんじゃないってんだ」と、をにらみながらクラスメイト達の前で嫌味を言ったのだ。

家庭環境を公開でなじられたも同然であり、これには我慢を重ねてきたも耐えかねて、この一件を今までのことも含めて校長に直訴した。

どう考えても、担任によるいじめ以外の何者でもないからだ。

さすがのも校長から注意を受けたらしく、その後はあまりあからさまなことはしてこなくなったが、その裏で教師にあるまじき嫌らしい腹いせをしてくるとは思わなかった。

クラスの中で一番ケンカの強そうな生徒に「がふざけたことをしたら殴ってもいい。先生が許す」と、そそのかしていたのである。

幸いその生徒は良識のある男で、お墨付きをもらったのを幸いに常仁堯を殴ることはなく、むしろ張清林に言われたことを、そのまま常に伝えた。

はこの世に神も仏もないのか、という気持ちになったはずだ。

だからと言って、学校で自分が担任からどんな扱いを受けているか家で言うわけにもいかない。

前述のとおり、中国では教師が日本以上に聖職者視されており、それをかさに着て、のように暴走する教師は少なくはないのだが、親も自分の子供が不当な扱いを受けても、苦情を言いにくい風潮がある。

教師をやっているほどの人が間違っているはずはないという思い込みもあるし、学校に苦情を言おうものなら、子供がより不当な目に遭わされることが中国社会の現実として、大いにあり得たからだ。

最悪の中学生活だった一年間が終わって三年に進級すると、クラス担任も変わった。

の体罰に怯える日々から解放されたが、思春期の心に刻まれたトラウマは消えなかった。

そして、それは中学を卒業してからもの心に残り続け、20年後の2018年の夏に爆発することになる。

君子報仇(二)十年不晩

常仁堯は中学を出た後、高校、大学と順当に進学・卒業して社会に出た。

浙江省杭州市に住んで自営業を軌道に乗せ、結婚して子供も生まれていたから、はた目には非の打ちどころがないような人生を歩んでいると言えよう。

だが、彼は夜な夜な悪夢にうなされていた。

それは、中学時代に張清林から体罰を受ける夢である。

中学二年生の時の出来事は、トラウマどころか心的外傷ストレス障害にすらなって、常を苦しめ続けていたのだ。

彼は昔のことを引きずりすぎる性格だったんだろうか?

「昔のことなんだから忘れろ」とか、「気にしすぎないようにした方が良い」などとでも言ってやるべきなんだろうか?

そんなことを軽々しく言う者は、本物の体罰に遭ったことのない奴か、人の気持ちを一切考えようとしない無神経極まりない奴、はたまた、体罰を快感と感じる変態だろう。

過剰な体罰に愛は一切ないのだ。

やった方にあったとすればそれは思い上がりであり、やられた方は、理不尽な暴行を加えられたとしか思わない。

そして、それを忘れることはできないのだ。

後に分かったことだが、張清林の体罰の餌食になった者は、常仁堯以外にも数多く存在した。

同級生の中にもこっぴどく殴られたことがある者が何人かおり、その多くが卒業してからずいぶん経つが、いまだに許せないと口をそろえていたという。

だけが、特別だったわけではないのである。

2018年、そんな中学時代のトラウマをぬぐいさることができぬまま33歳になっただったが、同年、思い出したくもない記憶を植え付けてくれた本人の張清林に再会する日が訪れる。

それは全くの偶然だった。

その日、蒸し暑い2018年7月某日、故郷である河南省洛陽市に帰郷していたは、地元の友達と魚釣りをしようと車を運転していたのだが、途中で釣り道具を忘れたことに気づく。

取りに戻ろうと考え、欒川郷双糖村19号の路上に車を停めて、何気なく路上に目をやった時だった。

常の目が、電動スクーターに乗ってこちらに向かってくる50がらみの男性の姿を何気なくとらえたのだが、その男の顔を見た瞬間に、彼の頭に過去の記憶が一気にフラッシュバックしたのだ。

20年以上前に起こり、今も彼を苦しめる中学時代に受けた体罰の記憶。

その体罰を加えてきた男、張清林の顔だ。

頭が禿げ上がり、年輪を刻んで年相応の顔になっていたが、あの顔は間違いない。

はとっさに一緒にいた友人に、これから自分がやることをスマートフォンで撮影するように頼んでから、何かに憑かれたかのように車を降りて、やって来るそのスクーターの前に立ちはだかった。

は周囲の評判によると決して乱暴者ではなく、紳士的でいつも穏やかであることが多い男である。

だが、この時は様子が明らかに変わっていた。

張清林か?」

常は、突然進行を妨害されて、怪訝な表情をする50がらみの男に尋ねた。

「そうだが」

なおも怪訝な顔をして中年男が答えた瞬間、常の表情が豹変し、普段の彼からは想像できない行動に出る。

你妈的以前咋削我,还记不记得(テメー、むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

そう叫ぶや、ビンタをくらわしたのだ。

いきなり顔を張られた張清林は唖然としたが、はなおもビンタを張り続ける。

十几年过去了知不知道(十数年くらい前のこと知ってるか)!?以前咋削我还记不记得(むかし俺をどんなふうにぶったか覚えてるか)!?

なじられながらビンタを何発か食らったは無抵抗であり、それどころか、

对不起(すまない)と謝罪した。

20年前からは考えられない、しおらしい態度である。

だが、はまだ収まらない。

对不起(すまないだ)?早干什么去了(いまごろになってか)!!你妈的咋当的教师(テメー何で教師やってやがったんだ)!?

の表情も言葉遣いも普段の彼からは全く想像もできないほどの剣幕であって、それは20年間溜りに溜まった鬱屈した思いが一気に決壊したかのようだったのだ。

車道上だったために、にスクーターを路肩へ移動させたが、そこでも中学時代に自分が受けた仕打ちについて非難し、のスクーターを蹴り倒した。

この一連の報復劇は、集まって来た野次馬のうちの何人かが、仲裁に入って常が冷静になるまで約9分間続いたという。

その模様は、先ほど常に撮影を頼まれた地元の友達が記録していた。

と言っても、後にが語ったところによると拡散させるためではなくて、20年前に受けたトラウマを吹っ切る一助にするための記録にしようとしたという。

が落ち着いてようやくビンタと罵声から解放されただったが、大勢の前でひどい目に遭わされてしょげかえり、肩を落として帰って行った。

中国には『君子報仇十年不晩』、すなわち『君子たるもの、復讐するのに10年かかっても遅くない』という言葉があるが、は20年かかって復讐したのである。

だが、20年間の鬱屈した思いをはらしたは、すっきりしたわけではなかった。

しばらくしてから、自分がにやった行動は正しかったのか?と思い始めるようになったのだ。

それは徐々に大きくなり、やがて撮影した動画によって、とんでもない騒動が起きることになった。

拡散された動画

ビンタをくらわせた時の張清林は、すっかり丸くなった50過ぎの中年男であり、中学時代の自分に体罰を加えてきた頃のような凶悪さはなくなっていた。

殴られても無抵抗だったし、非を認めて謝罪もしてきた。

何もあそこまでやらなくてもよかったのではないか?

いやいや、この20年間ずっとあいつの顔が頭から離れなかったんだ。

全部あいつのやったことが招いたんじゃないか。

お礼参り以来、常仁堯の心の中に、そのような葛藤が生まれたようである。

確かに思春期のトラウマは消えたが、取り返しがつかないことをしてしまったような気がしてすっきりしない。

その葛藤を振り払おうとしたのだろう。

は本来、自身の思春期時代のトラウマを落ち着けるためだけに撮影してもらった動画を、同じく中学時代にこっぴどくから体罰を受けたことのある同級生の楊某に送信する。

同じトラウマを持っているはずの人間と動画をシェアすることによって、自身のやったことの正しさを確認しようとしたようだ。

だが、これが間違っていた。

動画を送った際に「他の人間には見せないでくれ」とくぎを刺したが、その手の約束は、往々にして破られるものである。

もそういう約束を守らないタイプであって、その動画を同じく同級生の辛某に送信してしまったのだ。

辛は自分の大親友だから、特別だとでも思ったのだろう。

しかし、このはもっとタチが悪かった。

自身のSNSにアップしたりして、のお礼参り動画を拡散させてしまったのだ。

この元教え子が教師を殴るという動画はSNSのユーザーたちに衝撃を持って受け止められ、シェアにシェアが重ねられてみるみる拡散。

さらに、その過程で動画は切り抜かれて一分程度になり、それも一番の見せ場ともいうべきをののしりながらビンタしている場面だけになってゆく。

こうして前述のとおり、中国全土で6.8億回も再生されるほどにまでなってしまったのだが、この動画を目にして激怒した者たちがいた。

の通っていた実験中学の教職員をはじめとした欒川県の教育関係者たちだ。

彼らはすぐに殴られているのが欒川県実験中学の教師・張清林だと分かり、警察に通報した。

ただ、当の本人である張清林は被害を一切訴えておらず、に顔をビンタされてアザを作って帰宅した際は家族に「バイクで転んでしまった」とごまかしていたという。

なおかつ、この一件は彼にとって重大な精神的打撃となっていたようだ。

かつての教え子に公衆の面前で仕返しされること自体恥ずかしいことであるし、何より自分がなぜこんな目に遭ったのか彼にも分かっていたからである。

しかし、欒川県の教育関係者たちはそうはいかない。

いくらひどい体罰を受けていたとはいえ、かつての教師を殴るとは、教育界への許しがたい挑戦だと憤慨していた。

こんなことを許しておけば、自分たちもお礼参りされてもおかしくない。

関係者は常仁堯のことを「ヤクザ、ゴロツキ、社会のゴミ」とまで言って告訴。

年末になって、ここまでの大騒動になってしまっていることに驚いたはネットの掲示板に「自分の行いが良くなかったのは分かっているが、どうしても中学時代のことが許せなかった」という旨の声明を発表したが、すでに警察は動き出していた。

2018年12月20日、常仁堯は逮捕される。

身柄を拘束されたのは彼の住む杭州市の杭州駅、自ら出頭しようと故郷への列車に乗り込む直前だった。

その後

翌2019年8月、常仁堯は寻衅滋事罪(騒動挑発罪)で懲役1年6か月の実刑判決を受けた。

いくら犯罪者に厳しい中国でも、ビンタを張っただけでこれほどの刑が科されることは通常ない。

欒川県の教育委員会の意向が量刑に大きく影響したのだと思われる。

一方で、判決前には主にの故郷の人々を中心に、減刑の歎願が行われていた。

自営業で成功していた常は、高校時代の恩師が病気になった際には気前よく治療費を差し出すなど恩には必ず報いる男で、決して教師そのものを目の敵にしていたわけではなかったし、貧しい故郷の人々の援助を惜しまない人格者だったからだ。

だが結局判決は覆らず、懲役1年6か月が確定。

は刑務所に入れられてしまった。

翌年2020年6月19日、常仁堯は刑期を満了して出獄する。

刑務所の門の前には妻が迎えに来ており、さらには少なからぬ記者まで集まってきていた。

この一件は、それほど社会の注目を浴びていたのだ。

犯歴がついてしまっただが、支持する者は多く、彼は現在でも自営業で生計を立てている。

ただ、彼は2018年に自分が張清林にやったことを悔いているようである。

出所後に受けた記者の取材に対して「過去に何があったとしても、暴力で報復したのは間違っていた」と語っていたのだ。

それは1年半もの間、刑務所で服役させられたからだけではない。

は確かに20年前は手の付けられない暴力教師だったが、長い年月の間に人間的に成熟したらしい。

ビンタ動画が話題になった時期、彼の教え子だった生徒に「って奴は、あんないい先生に何でこんなことするんだ」と言わせるほど温厚で生徒に好かれる教師に変貌していたのである。

いくら昔ひどい体罰を受けたからといって、そんな人物にビンタをくらわしたのは、やりすぎだったとは感じていたのだ。

何よりにも家族がいて、彼らも傷ついたはずなのは、自分にも家族がいるからよく分かる。

「やらずに後悔するよりも、やって後悔する方が良い」という言葉が存在するが、の場合は行動を起こさなかったことの後悔より、行動を起こしてしまったことの後悔の方が大きかったようだ。

長年の恨みを晴らしたら、さぞかし気分が良くなるだろうと、やったことのない人間には思えるが、いざ本当にやってしまった人間に言わせれば、大きなむなしさと悔恨が残るものだということをは身をもって教えてくれたのかもしれない。

出典元―YouTubeチャンネル『英大吉來了』

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2023年 Linux SNI (Server Name Indication) Windows クラウド コンピューター 証明書

Server Name Indication (SNI) とは

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まず、ウェブサーバーなどで使われているバーチャルホストという技術が、どのようなものなのかを知っておく必要があります。

通常はWebサーバやメールサーバを運用するのにドメインの数以上のサーバコンピュータが必要となる。バーチャルホストを利用すると1つのサーバコンピュータで複数のドメインを運用することができ、サーバコンピュータの数を減らし運用のコストを下げることができる。また、後述する名前ベースバーチャルホストの場合はIPアドレスも節約することができる。 また、ドメインの追加も容易で、小規模Webサイトの運営や安価なレンタルサーバサービスなどでの利用が盛んである。

ウィキペディア

SSL/TLS では「同じサーバーは 1つの SSL サーバ証明書しか使えない」のが基本です。

ただ、このままだと不便な場合もあります。例えばレンタルサーバサービスをしているとしましょう。同じサーバを複数のユーザが利用し、更にユーザーごとに異なるドメインを利用するという使い方ができなければ、レンタルサーバーのサービスは成り立ちません。

このために出てきたのが、バーチャルホストです。

バーチャルホストの種類

今時のウェブサーバーでは、1台で複数の ウェブサービスを提供することが当たり前になっています。この技術をバーチャルホストと呼びます。

バーチャルホストには 2種類があります。

  • IP ベース
  • 名前ベース

IP アドレスが複数必要のない名前ベースのバーチャルホストの方が主流ですが、実際は、両方を混在させて使うケースもあります。

名前ベースのバーチャルホストの設定例

IP アドレスは同じで、複数のウェブサイト(ドメイン)を提供するのが特徴です。

# Ensure that Apache listens on port 80
Listen 80

# Listen for virtual host requests on all IP addresses
NameVirtualHost *:80
<VirtualHost *:80>
DocumentRoot /www/kkint1
ServerName www.kkinternational.com

# Other directives here

</VirtualHost>

<VirtualHost *:80>
DocumentRoot /www/kkint2
ServerName www.kkinternational.work

# Other directives here</VirtualHost>

IP ベースのバーチャルホストの設定例

ウェブサイト(ドメイン)毎に、異なる IP アドレスを使うのが特徴です。

Listen 80

<VirtualHost 172.30.30.100>
DocumentRoot /www/kkint1
ServerName www.kkinternational.com

</VirtualHost>

<VirtualHost 172.30.30.200>
DocumentRoot /www/kkint2
ServerName www.kkinternational.work

</VirtualHost>

なぜ SNI が必要なのか

このバーチャルホスト(特に名前ベースの方)が使われ始めたのが理由です。

名前ベースのバーチャルホストには、

  1. 同じ IP アドレスで、複数のウェブサービス(ドメイン)を提供する
  2. それらのウェブサービスは HTTPS を使っていて、サーバー証明書で暗号化されている(現在は HTTPS がほぼ必須)

という特徴があります。

上記 1の特徴から、バーチャルホストを使うウェブサーバーは、「家」よりも「アパートの建物」に似ていると言えます。アパートは、複数の部屋に分かれています。これらの部屋が、ウェブサービスでありドメインです。

次に上記 2の特徴です。この「HTTPS でサーバー証明書を使っている」というところがポイントです。基本的な SSL/TLS の仕様では、サーバー証明書は、同じ IP アドレスにつき 1ドメインしか運用できません。

上記1と2の特徴を考えると、複数のドメイン名をホストするため、IP アドレスだけでは、ユーザーが到達しようとしているドメインを示すのに十分ではありません。

なぜなら、間違った SSL 証明書を表示する可能性があり、HTTPS 接続ができなかったり、または終了されたりしてしまうというケースが発生する訳です。

じゃあ SNI があると?

Server Name Indication(SNI)は、この問題を解決するために作られました。

SNI は、HTTPS で使用される TLS プロトコルの拡張機能として提供されています。

TLS/SSL ハンドシェークに含まれていて、クライアント PC が、到達しようとしている ウェブサイトの正しい SSL 証明書を確認することができるようにします。

Server Name Indication(SNI、サーバー ネーム インディケーション、サーバ名表示)は、SSL/TLSの拡張仕様の一つである。SSLハンドシェイク時にクライアントがアクセスしたいホスト名を伝えることで、サーバ側がグローバルIPごとではなくホスト名によって異なる証明書を使い分けることを可能にする。

ウィキペディア

SNI を利用すると、クライアント PC は SSL/TLS ハンドシェイクの際に「これから通信したいサーバのドメイン名」をサーバに通知します。ウェブサーバーは「どのドメインに対応するサーバ証明書を利用すべきか」を、判断することができるようになります。

これにより、接続したいウェブサービスに必要なサーバー証明書が入手できるという訳です。

SNI をサポートしてないウェブブラウザー

SNI はクライアント側(ブラウザー)で、この機能をサポートしていないといけない訳ですが、古いブラウザーですと SNI をサポートしていません。

  • Windows XP 以前の全ブラウザ
  • IE 6 以前
  • いわゆる「ガラケー」のブラウザ

まあ、こんな古い環境でインターネットのブラウジングをしている人もいないと思いますが。

SNI をサポートしているブラウザーの一覧はこちら

SNI をサポートしているウェブサーバー

  • Apache 2.2.12 以降 + mod_ssl もしくは mod_gnutls
  • Apache Traffic Server(英語版) 3.2.0 以降
  • Cherokee(英語版) (コンパイル時 TLS サポートを有効にした場合)
  • lighttpd 1.4.24 以降(それ以前の1.4.xはパッチ)
  • Nginx と OpenSSL
  • F5 ネットワークス Local Traffic Manager 11.1 およびそれ以降
  • Hiawtha(英語版) 8.6 またはそれ以降
  • IBM HTTP Server 9.0 およびそれ以降
  • LiteSpeed 4.1 およびそれ以降
  • Pound 2.6 以降
  • Apache Tomcat (Java 7 およびそれ以降)
  • Microsoft IIS 8
  • PageKite tunneling reverse proxy
  • Citrix NetScaler 9.3 以降
  • Radware Alteon ADC (AlteonOS 28.1 以降)

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2023年 娯楽 旅行 横浜 浜田省吾 白楽 神奈川 趣味 音楽

浜田省吾 – 聖地巡礼 MONEY 神奈川説の旅

最終更新日:2023年07月18日

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今回も、浜友のスィーさんと一緒に、聖地巡礼の旅に出ました。

白楽駅に着いたのは、昼の12時ちょうど。めっちゃ暑いです。

早速、白楽の六角橋商店街に向かいました。ここが、六角橋商店街のメインストリートです。つまり、「この町のメインストリートわずか数百」です!わずか数百メートルですね!!

六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート
六角橋商店街メインストリート

商店街の一本奥の細い道に入ると、小さめの店がいくつも並んでます。コロナの影響もあるのか、空いてない店も多いです。ここが「バーが5,6軒」でしょうか。

六角橋商店街
六角橋商店街
六角橋商店街

「寂れた映画館」も探してみましたが、現在は、映画館は無くなっているみたいです。昔は、六角橋商店街にも映画館があったそうです。寂れた映画館も見たかった。

あまりにも暑いし、お腹も空いたので、わずか数百メートルのメインストリートで見つけた六角橋ホルモンという店に入って焼き肉ランチしました。ここ、美味しいです。聖地巡礼で訪問する方にお勧めです。

その後は、浜田省吾が通ってた神奈川大学へ移動です。白楽駅から徒歩15分くらいです。

辿り着きました。

肩にセーターとおろしたてのバスケットシューズの大学です!

髪をひるがえし駆け上がる校舎です!!

神奈川大学現正門

神奈川大学って、初めて行きましたが、かなり敷地がデカいんですね。正門はどこだ?と探しながら、かなり歩きました。

ちなみに、浜田省吾が通っていたのは、法学部です。

途中で大学の敷地内を通り抜けられそうな道があり、警備員の方に通って良いか聞いたら、校舎に入らなければ OK とのことでしたので、敷地内も歩いてみました。

たどり着いた反対側が東門。大学の地図を見ると、東門を出て右に曲がり少し進むと正門とありました。

やっと正門に辿り着きました。ここがまさに、「遠くへー1973年・春・20才」とか「キャンパスの冬」の舞台です。

ここでも警備員の方に話しかけてみると、今度はやけに人懐っこい人で、「大好きな歌手がこの大学に通っていて見にきた」と伝えると、昔のことをいろいろ教えてくれました。

神奈川大学旧正門(現東門)

警備員の方に聞いてみると、校内には並木道と言えるところはないとのことでした。ということは、学校の外なのかも知れませんね。門の外のすぐとありには、並木道っぽいところはありました。この辺りを喜び勇んで歩いていたのでしょうか。

並木道っぽいところ 1
並木道っぽいところ 2

先ほどの東門から学校を見ると、どうもこっちが正門っぽいよなと思ってたのですが、やはり昔は、今の東門が正門だったとのことです。なるほど、ここを浜田省吾は歩いたんですね。

神奈川大学旧正門(現東門)

現在、3号館があるところは、昔は校舎がなく空き地になってたとのことです。そして旧正門のそば。ということは、恐らくこのあたりで、

「紺と銀色の盾の前で、空を仰いで祈り続けてた」

のかも知れません。

神奈川大学でも、1973年ごろは、学生運動が盛んだったみたいです。

神奈川大学3号館

浜田省吾が大学時代に下宿していた宿の写真も、インターネットで見つけていたのですが、白楽一帯から探し出すのはちょっと無理かなと思っていました。

入手していた古い写真(大学時代の下宿先)

東白楽駅から帰ろうと思い、今の正門から駅に向かって歩いていたら右手に、あれ?と思える建物を発見。細長い建物ですぐ横にコンクリートの階段。え、これって!と思い写真を見てみたら、正にその下宿先でした。

大学時代の下宿先(2023年7月16日撮影)

壁の色が変わっているので、気づいたのはラッキーでした。

一階に住んでいたのか、二階に住んでいたのか。

このアパートの部屋は、全部で4部屋です。これらのどこに住んでいたのかワクワクしながら、全ての部屋の扉を見てまわりました。

学校にも行かず、アルバイトしていた頃に作ったあの「二人の夏」は、この部屋で作ったのでしょうかね。

浜田省吾もここに立っていたのかなあ

今の正門から10メートルくらいしか離れていないところです。大学から、かなり近いところに住んでいたのですね。

神奈川に出てきてすぐは、お姉さんの家で居候していたそうです。その後、このアパートに住んだとのことです。

場所は変わって、白楽駅から2つ隣の駅、菊名です。

ここは、浜田省吾の奥さんであるカヨコさんと出会った場所です。

愛奴でドラムを叩いていた20歳頃、駅で傘がなくて困っている彼女に「入りませんか」と声を掛けたのがきっかけ。彼女は普段なら断っていたけど、たまたま風邪をひいて会社を早退していたため、「じゃ、お願いします」ってことになった。

浜田省吾辞典
菊名駅東口
菊名駅東口周辺

菊名駅は東口がメインなので、出会ったのも東口だとは思うのですが、念のために西口も見ておきました。

菊名駅西口

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2023年 ベトナム マフィア 東南アジア

ベトナムマフィア

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どの国にも悪い奴はいるように、近年日本に数多くやってくるようになったベトナム人も全てが、真面目で善良であるわけではない。

一部の不心得者がいて、グループで家畜窃盗をやったり、飲食店で集団乱闘したりするニュースが報道され、北関東では bộ đội(ボドイ、“部隊”の意)と呼ばれる犯罪集団が形成されているらしい。

家畜泥棒

そんな犯罪組織であるマフィアは、彼らの母国ベトナム社会主義共和国にも当然いる。

では、そんな本国のベトナムマフィアはどのようなものなのだろう。

チャイニーズマフィアなどと違って想像しにくいのではないだろうか?

そこで本ブログでは、日本で紹介されることの少ないベトナム本国のマフィアの実態について、ウィキペディアのベトナムの組織犯罪(ベトナム語版)を参考に取り上げて見たいと思う。

本稿が皆さんのご理解の一助になれば幸いである。

ベトナムの裏社会

ベトナムには「黒社会(Xã hội đen、サーフォイデン)」という言葉がある。

これは、おなじみ中国語における裏社会を指す言葉「黒社会(ヘイシャーホェイ)」と同じで 、文字通り犯罪者や犯罪組織で形成されるアンダーグラウンドな社会全体を指す語であり、元々は、1990年代に香港映画から入って来たのが定着し、現代ではメディアでも使われるようになった。

そしてベトナムの黒社会に棲息し、コソ泥から嘱託殺人まで非合法活動をする者たち「クマの頭(チンピラの意)」は、「兄弟姉妹たち」、「ナイフ」、「風来坊」などと多種多様な呼び名で呼ばれるが、やはり組織化されて一家を構えたマフィアが、その裏社会の生態系の頂点に君臨するのは、日本をはじめとした他国と事情は同じである。

そのベトナムのマフィアも当然構成員(dân xã hội đen)がいて、そのボスとして親分(Ông trùm)がおり、ボスの指令のもとで刃傷沙汰や銃撃事件、薬物や武器の密売、殺人、犯罪組織間の抗争を頻発させている。

カイン・チャン
男性の顔

自動的に生成された説明
フック・ボー

ごく最近では、カイン・チャンやフック・ボーの組織の悪名が最も高いが、アメリカのマフィアや南ベトナム時代に悪名を馳せたナム・カムやダイ・キャセイの組織ほどの危険性や組織力はなく、半グレの域を出ていないようだ。

組織に属する手下たちは普段、バイクタクシーや運送業というまっとうな仕事をしていることが多いが、その裏で闇金や性風俗、用心棒、麻薬売買、武器の密売、サッカー賭博などの違法性の高い商売に手を染めている。

それら構成員は男女混成であり、女親分も少なからず存在する。

そして、甘言に釣られて加入してしまう未成年の学生も後を絶たない。

彼らはシノギのために徒党を組んで一般人を脅したり危害を加えることもするが、法律では解決できない一般人のもめ事を有料で収めることもする。

かつて、日本のヤクザもやっていた民事介入暴力のようなこともしているのだ。

もっとも、そのやり方はしばしば流血を伴うものであり、個人間や組織間の紛争が大掛かりな乱闘や殺傷事件に発展することも少なくない。

また、国をまたいで犯罪を行う外国人のマフィアもいる。

韓国人のソン・ムン・グルはハノイとブンタウの外国人クラブの雇われオーナーであったが、増長して本国からゴロツキを呼び寄せて組織を作り、同国人の投資家からゆすりたかりを行っていた。

各地での犯罪行為

2008年の統計によると、分かっているだけで 313 団体のマフィア組織が活動中である。

それらの団体は、犯罪組織のご多分に漏れず勢力争いや縄張りをめぐる抗争もあり、合法非合法を問わず、あらゆる事業体からみかじめ料を取っている。

そして、ベトナム国内において南部カインホア省ニャチャン市は危険な街としてイメージが定着しているようで、そうなったのは2005年10月から2006年7月までグエン・ゴック・タイン・ハンに率いられた武闘派組織が大暴れしたからだ。

グエン・ゴック・タイン・ハン

このマフィアは殺傷事件を数多く起こし、特に同市のフン・ヴォン通りにあるマッサージ店に刃物や水中銃を持った数十人を暴れこませて従業員を追いかけ回し、店を破壊する大立ち回りを演じて有名になり、さらには、カインホア省の観光協会会長のボー・ディン・トゥー氏の殺害を5000万ドンの報酬で実行した事件をも起こしている。

それから後にもカインホア省のマフィア犯罪は猖獗を極め、警官射殺事件まで起こしたが、長いこと徹底した取り締まりが行われてこなかった。

中国との国境にほど近い北部クアンニン省でも、長年約100名の構成員を有するマフィアが君臨し、刃物まで使った暴行傷害事件や器物破損事件を起こして、現地の一般人を恐怖のどん底に叩き落としていた。

中央直轄市であるハイフォンのマフィアも危険なことで知られ、刃傷沙汰どころか銃撃事件が頻発している。

そして首都であるハノイにも、闇金や債権取り立てなどを主なシノギとするマフィアが存在し、彼らは近年、あろうことか強姦や売春をさせる目的で未成年を誘拐するようになっている。

仁義もへったくれもない連中だ。

しかし、手口が相当巧みなのか警察の怠慢なのか(あるいはビビっているのか)、その捜査はあまり進んではいないようだ。

こうして見てみると、ベトナムのマフィアは日本のヤクザほど大規模で組織化されてはいないが、犯罪行為の凶悪さが日本以上なのは間違いがない。

また取り締まる側の警察の取り締まりも十分とは言えないケースが多く、さらには、犯罪者と警察が癒着していることも考えられる。

ただ、現在のベトナムの治安の状況は1990年代や2010年代の中国の状況と似ており、中国においては、まがりにも社会が成熟して政府も取り締まりに本腰を入れるようになってから、かつてほど犯罪組織が公安と結託したりして大手を振って活動できなくなったようだ。

よって、ベトナムもこの治安対策において中国に学べば、大きな改善が見込めるのではないかとみられる。

出典元―Tội phạm có tổ chức tại Việt Nam(ウィキペディア)

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2023年 ならず者 事件 事件簿 本当のこと 栃木県 無念

無自覚な男の身勝手な夢に奪われた児童六人の命 ~2011年・鹿沼市クレーン車暴走事故~

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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

新聞の記事

自動的に生成された説明

クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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