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2023年 Active Directory Azure Microsoft MS Azure Administrator MS Azure Fundamentals クラウド コンピューター 認定資格

MS Azure を学ぶ(2)Azure Active Directory とオンプレ Active Directory の違い

Azure Administrator (AZ-104)に合格しましたので、覚えた内容を忘れないように、これから少しずつアウトプットしていきたいと思います。

私が勉強に使った教材は、こちらでブログで紹介しています。


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Active Directory(AD) とは

  • AD とは一般的に、Active Directory Domain Service (AD DS) サーバーを指す
  • AD DS とは、認証認可を行うサーバー
  • ディレクトリーサービスを提供

認証:

  • 「本人確認」のプロセス。
  • コンピューターの世界では、ユーザー名とパスワードを使って本人確認を行う。認証を通じて、「なりすまし」を防止する。

認可:

  • 「その IDが、サービスやアプリケーションにアクセス可能であるか」を確認するプロセス。
  • 認証された IDで、利用できるサービスやアプリケーションの範囲が決定する。

以下、分かりやすく表記するために、オンプレ Active Directoryを AD DS、Azure Active Directory を Azure AD とします。

AD DS と Azure AD の違い

1. 使用範囲の違い

  • AD DS(オンプレ Active Directory)は、オンプレミス向けの認証と認可を提供
  • Azure AD は、クラウド向けの認証と認可を提供

まず、AD DS とAzure Active Directory は、使用の範囲が異なります。

AD DS は、企業の中で、その企業のリソースを管理したり、認証と認可のために使われます。一方で、Azure AD は、クラウド向けの認証と認可とリソース管理のために使われます。

オンプレミス Active Directory
  • 自社データーセンターに AD DS を設置(オンプレミス)
  • 大規模拠点にも AD DS を設置するケースもあり
  • 自社のサーバー(アプリ)へのアクセス制御
Azure Active Directory
  • Azure の自社のテナント上で AD DS を使用(クラウド)
  • Azure の自社のテナント上のサーバー(アプリ)へのアクセス制御
  • Microsoft 365 などの SaaS アプリへのアクセス制御

2. 使用されるプロトコルの違い

  • AD DS は、社内ネットワークで使用され、Kerberos や NTLM を使用
  • Azure AD は、インターネット環境で使用され、SAML、WS–Federation、OpenID Connect、OAuth などのプロトコルを使用

AD DS とAzure AD では、認証と認可でしようされるプロトコルが異なります。

AD DS は、組織内で使われることを前提としており、古くはNTLM、今の主流ですと、Kerberos を使って、認証と認可を行います。

一方で、Aure AD はクラウドを前提としており、SAML、WS-Federation、OpenID Connect、OAuth などといったプロトコルを使って、認証と認可を行います。

オンプレミス Active Directory
  • オンプレ AD DSでディレクトリーサービスを提供
  • Kerberos (古いと LDAP)を使って認証
Azure Active Directory
  • ブラウザーでのアクセスを対象
  • SaaS アプリにアクセスし、Azure AD で認証
  • Azure AD の許可で、SaaS アプリへのアクセス許可を得る

3. 組織構成の違い

  • AD DS は、組織を1つのフォレストとし、その中でドメインを構成し、必要に応じてドメイン同士で信頼関係を結ぶ
  • Azure AD は、Microsoft が提供するAD DS 上で、組織にテナントが割り当てられる

AD DS ではフォーレストという空間を組織毎にドメインで小分けして管理します。それぞれのドメインは、アクセスが必要であれば信頼関係を結びます。

一方で、Azure AD にはドメインという考え方はなく、代わりにテナントいう考え方になります。1つの組織は1つのテナントとして認識されます。信頼関係という考え方もありません。

オンプレミス Active Directory
  • 1つの組織で1つのフォレストを構成
  • フォレストの中にドメインを作成
  • 必要に応じて子ドメインも作成
  • 信頼関係を結ぶことでアクセスの許可
Azure Active Directory
  • Azure AD はマルチテナントで動作
  • 組織は、Azure AD 上で「テナント」として管理
  • 必要に応じて複数のテナントを作成することも可能
  • 信頼関係という考え方はない(それぞれが独立したテナント)

Azure AD は、クラウドベースの ID を一元管理し、アプリケーションへのアクセス要求に対して認証と認可を行います。

また、クラウドサービスとして提供されるものなので、当然ながらドメインコントローラーのようなサーバーの展開はありませんし、ドメインコントローラーのメンテナンスも必要なくなります。

合格対策Microsoft認定試験AZ-104:Microsoft Azure Administratorテキスト&演習問題

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(模擬試験付き)徹底攻略 Microsoft Azure Administrator 教科書 [AZ-104] 対応

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2023年 中国 中国語 事件簿 平成 本当のこと 西安

壮大にスベった下ネタが招いた騒動 ~2003年・西安留学生寸劇事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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2003年10月30日、中華人民共和国陝西省西安市にある西北大学外国語学院で、前日の29日に開催された演芸会『第三届外语文化节(第三回外語文化祭)』に出演した日本人留学生三人の寸劇をきっかけとして、同大学の学生たちを中心とした反日デモが発生した。

デモは、西安市内の他の大学の学生たちも合流してより激化。

学生たちは、留学生が暮らす留学生楼を取り囲んだばかりか、内部に乱入して、器物を破壊したり日本人留学生を殴るなど暴徒化し、ついには、西安の中心部で市民まで加わって、日本料理店を襲うなどの反日暴動に発展した。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

ここまでの騒動の発端となった日本人留学生の行った寸劇は、何が問題だったんだろう?

イタすぎるパフォーマンス

現在の西北大学

この騒動のきっかけとなった寸劇は、『第三届外语文化节(日本での報道時は『文芸の夕べ』と訳された)』と称する演芸会で行われた。

同演芸会は「第三」となっているように、毎年秋の深まったこの時期に開かれるようになった催しであったらしい。

その主催者は、西北大学の共青団支部。

共青団とは中国共産主義青年団の略で、中国共産党の指導の下で14歳~28歳の団員を擁する組織であり、つまりは、お堅い団体だ。

そんな堅い団体が主催する演芸会であるために、企業もスポンサーについたりして、その演目も堅く、胡弓の演奏などまじめで格調が高いもので出し物は占められていた。

2003年10月29日、西北大学の礼堂で午後7時から始まった同演芸会の観客は、ほとんどが中国人学生であったのは言うまでもないが、日本人留学生ら10人程も混じっていたようである。

そんな演芸会もたけなわとなった午後8時過ぎ、日本人の演目者が現れた。

会場となった西北大学で日本語講師をしている吉田正伸(仮名・26歳)だ。

吉田は、180cmほどもある西洋人のようなマネキンを持って登場。

彼が行ったパフォーマンスは一人二役の腹話術であり、ありていに言えば、可もなく不可もなく反発を買うようなものではなかった。

吉田の演目が終わった後も日本人で、同大学の日本人留学生の菊池宏尚(仮名・26歳)、谷内慎(仮名・22歳)、坂本春仁(仮名・21歳)の三人である。

しかし、この三人こそがいけなかった。

彼らの演目が、後の騒動のきっかけを作ることになるのだ。

まず、出てきて早々、観客たちは「!?」となった。

彼らのいでたちが異様だったからだ。

その場にいた者によると、三人ともTシャツの上に赤いブラジャー、股間に男性器のような紙コップをつけ、ダンボールで作ったロボットの被り物をかぶり、その上には「寿司」、「毛沢東」、「謝謝」、「中日友好」、「看什么?(何見ているの)」とか、何を言いたいのかわからない文字が、つらつら書いてあったという。

想像図

後で、本人である菊池たちが語ったところでは、「西安に現れた、ナーと鳴く異星人」という設定のコスチュームだったらしいが、だったとしても、意味不明すぎるしイタすぎだろう。

そして、壇上において菊池、谷内、坂本扮する三匹の宇宙人は、中国語で寸劇らしきものを始めたのだが、

「你什么名字?(あなたの名前は)」

「什么?(何?)」

「ナー!」

というやり取りが行われた後、手をつないで背中を見せて「ナーナーナー」という効果音だけの節にあわせて、不思議な踊りを始めた。

三人は背中にそれぞれ、「中国」「♡」「日本」と書いた紙を貼っており、踊りの途中でブラジャーの中からお菓子を取り出すと、観客に向かってそれを投げ始めた。

プログラムには、菊池たちの演目は「日本舞踊」とされていたようだが、そうだったとすれば前衛的すぎるし、日本文化に対する極めて重大な挑戦だろう。

会場にいた中国人学生ら観客は、どう反応すればよいかわからず、冷ややかに沈黙。

「日中友好」を表現したかったのと、下ネタに走ってウケを狙っていることは何とか理解できそうだが、会場は誰一人クスリともせず明らかに白けきっていたと、現場に居合わせた日本人留学生の一人は、後に証言した。

唯一伝わっていたのは、この寸劇もどきの芸が、お下劣極まりないということである。

赤いブラジャーと股間の紙コップは決定的すぎた。

ましてや、ここはポルノ規制に厳しい中華人民共和国真っただ中なのだ。

ほら、拾え!とばかりに、菓子を投げつけるのもいただけない。

お堅い主催者側は、これ以上の演出は見るに堪えないと判断し、この恥ずかしい演目が始まって三分後には、大学の職員らが演目の途中で舞台に上がってきて制止し、痛々しいパフォーマンスを強制終了させた。

下ネタでスベったら、目も当てられない。

何より、最初の吉田の腹話術はともかく、菊池たちの芸がふざけすぎだったのは、他のまじめな演目を見れば明らかで、バカにするなと怒られても文句は言えないだろう。

しかしこの時、観客の学生たちは確かにドン引きしてはいたが、怒り出す者が続出して騒動になったということは、なかったようである。

この盛大にズレた芸をやった三人は「ウケないばかりか退場させられた」と落ち込んでいたというが、自分たちによって、後に日本側で『西安留学生寸劇事件』、中国側で『2003年西北大学反日风波』と呼ばれる騒動に発展するとは、予想だにしていなかった。

抗日祭りの始まり

異変は、翌日の朝早々に始まった。

西北大学にやって来た日本人はじめ、各国の留学生の寮となっている留学生楼の周りを西北大学の学生たちが取り囲み、建物にポスターを貼り始めたのだ。

そのポスターに書かれていた文章には「日本猪」「倭猪」「日本杂种滚」などの明らかに日本人を罵倒する文字が混じっており、さらによく読めば、昨晩の演芸会で行われた醜態について文章で説明されている。

さらには「滚出(出ていけ)」などと結んでいたりして、穏やかでないこと極まりない。

当時の大字报(壁新聞)

昨日の菊池たちのパフォーマンスに、怒って抗議しているのだ。

そしてポスターをさらによく読むと、腹話術という無難なパフォーマンスをしただけの日本語講師・吉田も、一味の者どころか首謀者として糾弾されていた。

ちょうどその頃、そうとは知らない吉田は西北大学に出勤しようとしていたが、出くわした教え子の一人に「先生!危険だから外に出ないでください」と、真剣な顔で忠告されたという。

中国の大学は全寮制だ。

寮では昨晩から今朝にかけて、昨日の寸劇が中国をバカにしていると学生たちの間で反日機運が高まっており、抗議行動の準備をしていたらしい。

また、留学生楼だけでなく、西北大学内のあちこちに昨晩の醜態を非難する「大字报(壁新聞)」が貼られ、留学生を除く学生の多くが学内で起きつつあることが、何かを理解していた。

対応が遅かったりして、日ごろから留学生の評判が悪かった西北大学当局も、さすがにこの異常事態を静観するわけにいかず、学生たちにポスターをはがすように指導したが、学生たちは拒否。

自分たちの行動が、愛国心によるものだとうそぶいた。

授業が始まると学生たちは講義に出席したが、昼過ぎや午後の授業が明けると再び留学生楼にやってきて、抗議のシュプレヒコールを上げる。

「给我们出来道歉(出てきて俺たちに謝れ)!」

彼らが要求するのは、昨晩の演芸会に参加した吉田と菊池たちの謝罪だ。

同じ頃、騒動を招いたのは自分たちだと分かって責任を感じていた菊池たちは、「謝りたい」と大学当局に申し出ていたが、当局の答えは「事到如今已经晚了(こうなったらもう遅い)」だった。

そして、この騒動を招いた元凶として、一方的に日本語講師の吉田の解雇と留学生の菊池、谷内、坂本の退学を発表する。

破廉恥なパフォーマンスには全く関わっていなかった吉田は完全なとばっちりだが、大学側は留学生を監督する責任があったとみなし、その不行き届きを問われたのかもしれない。

そんな発表をしても学生たちの数はますます増え、紙で作った日本国旗や日本猪(ブタ)と書かれた人形を燃やしたりと行動は過激化。

午後5時には、ヒートアップした学生の一部が留学生楼に乱入した。

留学生楼には警備員がいたが、数にモノを言わせて押し寄せる学生たちを防ぐことはできず、暴徒と化した学生たちは、「日本人狩り」を開始する。

彼らが7階建ての留学生楼の4階に殺到すると、日本語の文字を染め抜いた「のれん」を下げている部屋を発見。

日本人の部屋に違いないと判断し、ドアを蹴破って侵入すると、案の定室内でオロオロしていたのは、日本人と思しき女だ。

暴徒の一人は、その女の顔面にパンチを見舞う。

「为什么打我(なぜ殴る)?」

殴られた女子留学生は口から血を流し、半泣きになって抗議すると、

「废话!就是因为你丫的是个鬼子(決まってんだろ!てめえが日本人だからだ)!!」と吠えられた。

なだれ込んだ学生たちは、他の部屋でも室内をめちゃくちゃに荒らしまわるなど大暴れしたが、後からやって来た大学の教員たちに説得されて、この時は一旦留学生楼から退出してゆく。

しかし、これで終わりではない。

外では西安大学、西北理工大学、西安交通大学、長安大学など西北大学以外の西安市内の他校生たちが、助太刀とばかりに五星紅旗と自分たちの所属大学を記したプラカードを掲げて集まって来ていた。

「抗日祭り」に加わりに来たのである。

国家公認の敵である日本から来た奴ら相手だから、こんな面白そうなことはないのだ。

ただ単に暴れたいだけなのに、自分たちが崇高なことをしていると思い込んでいるからタチが悪い。

小癪な愛国心に燃える西北大学の学生どもは、他校生の参加を歓声で出迎えて歓迎し、学校の違いを超えた邪悪な一体感が形成されつつあった。

中には「これはやりすぎだ」と理性的な学生もいたが、大多数の威勢の良い連中は「せっかく盛り上がっているのに空気を読め」とばかりに、その者を「国賊」呼ばわりして集団でボコり始める。

そして、21世紀の義和団気取りの無法者たちによる二回目の攻撃が始まろうとしていた。

集まった学生たち

再び襲われる留学生楼

午後9時くらいになると、ようやく公安が動員され始め、時々先走って留学生楼に特攻する腕白な学生をシメて連行したりしていた。

だが、真面目に仕事をしていたとは言い難い。

留学生楼でおびえていた留学生によると、公安たちは座り込んでタバコを吸っていたりする者が目立ち、本気でこの騒動を抑えに来た感じではなかったという。

また、中途半端に中国人学生を連行したりしたので、学生たちの怒りを逆なでする結果になった。

日が変わって31日になった午前0時、再び、留学生楼が襲われた。

今度は、一回目より人数が多い。

先ほどの攻撃で殴られて顔を腫らしたままの留学生楼の警備員たちが、再び立ち向かう。

真面目に仕事をしない公安と違って、彼らは職務に忠実だったのだ。

だが、一回目同様多勢に無勢なばかりか、「中国人なのに日本人の肩を持つ裏切者」と集中攻撃されて倒され、再び建物内への乱入を許す。

この頃には、日本人女子留学生は安全のために複数名がいくつかの部屋に分かれて息をひそめ、その前に男子留学生が盾として居座る配置を取っていた。

そして、日本以外の国の留学生も、この危機を前に動く。

あるアメリカ人留学生は、自分の部屋に日本人留学生を何人もかくまい、ドアの前に立ちはだかった。

中国と同様に、反日国家である韓国からの留学生も日本人留学生を助ける。

母国で兵役を経験していたその青年は、日本人を自分の部屋に入れて、パニックを起こすことなく、ドアにバリケードを築いて防御態勢を取った。

同じ留学生のよしみである。

異国の中国に留学してひとつ屋根の下で暮らす以上、各国留学生たちは、どの国の出身だろうとみな仲間という意識を持っていたのだ。

安全を守るはずの公安が、ようやく学生たちの排除に動いたのは午前一時。

それまで、学生たちは建物内で暴れまわり、壁には穴が開けられて備品はめちゃくちゃにされ、日本人留学生一人が暴行された上に、財布と腕時計を強奪された。

荒らされた留学生楼内部

公安だけでなく、同大学の教職員も学生の排除に協力したが抵抗され、結局、この騒動で日本人留学生一人を含む28人が負傷。

中でも、身を挺して留学生を守ろうとした中国人警備員たちは、顔をボコボコに腫らしていたという。

午前三時、大学側は、安全のために日本人を含む留学生80人を警察の車両などを使って市内のホテルに移動させたが、これに対して学生たちは「何で警察は中国人を捕まえて、日本人を守るんだ」と逆ギレ。

警察車両に投石する者が現れるなど、いわれなき怒りの矛先は、警察にも向いた。

この日、西北大学だけではなく、西安市内の大学も騒動の拡大を恐れて閉鎖されたが、学生たちは、街頭に出て反日デモを開始する。

そのデモには学生だけでなく、悪ノリした一部市民たちも参加して、その数は二千人以上に膨れ上がった。

この頃には、すでに日本人留学生が卑猥な寸劇を行ったことが、市民の間に知れ渡っていたのだ。

それは、29日の夜に西北大学の演芸会で行われたことを批判するビラが、市内にばらまかれていたからである。

ビラには、日本人の芸が中国人を侮辱するものであり、それを先導したのは日本語講師だったと書かれており、作成したのは演芸会の主催者である共青団であることが明記されていた。

どうも、この騒動を煽ったのは、ふざけた芸に怒った共青団だったとみられる。

香港のマスコミもいち早く悪ノリし、三人の留学生は「見ろ、これが中国人だ」という紙を身に着けていたと報道。

インターネットの掲示板や口コミでも尾ひれがついて、日本人留学生の悪行をあげつらうデマや流言飛語がすでに飛び交い始めており、それをダイレクトに伝えたのだ。

大学生以外の市民まで加わったデモ隊は、日系のホテルの前で抗議のシュプレヒコールを上げたり、道中の日本料理店のドアを破壊することまで行った。

完全に、日本憎しの直接行動にすり替わっている。

この2003年当時の西安は、経済発展から取り残されて失業者が多く、学生も将来に希望が見いだせなかったために、イライラしていたようだ。

寸劇事件は、その格好のうっぷん晴らしの形となってしまった。

この騒動は、西北大学が日本人講師の吉田と菊池たち三名の留学生に反省文を書かせてホームページに公開した11月1日の翌日2日になって、ようやく沈静化に向かう。

寸劇に出たわけ

中国人学生たちは、やりすぎだったとはいえ、そもそもきっかけを作ったのは菊池、谷内、坂本の三人が、日本の底辺高校か Fラン大学の学芸会でやったとしても、ブーイングを浴びるであろう醜悪な寸劇をさらしたからだ。

なぜ、こんなセンスのかけらもない連中が、演芸会に出たのか?

どうやら、彼らは自主的に参加したわけではなかったらしい。

この三人は同じ日本人とはいえ、普段からつるんでいるわけではなく、彼らの共通点は日本語と中国語を相互学習する西北大学の学生が同一人物であって、その学生から参加を求められたのだという。

しかも、それは当日の二日前であり、その前に自分たちが参加する演芸会が何をするものなのかということも、三人は知らなかった。

何を演ずるかも前日まで決まらず、困った彼らが、その貧弱な発想力で思いついたのが、前述の寸劇だったのだ。

実は、数年前の留学生と中国人学生合同の飲み会の余興で、日本人男子留学生がブラジャーと網タイツ姿でダンスして中国人にバカウケしたという話を聞いており、何ら考慮することなく、軽い気持ちで同じようなことをすればいいや、と思ったようである。

とはいえ、練習する時間もあまりなく、息も合わない三人に、まともな芸ができるわけはない。

首謀者にされた吉田によると、彼らは、しょっぱなから自信なさそうな様子であったようだ(ちなみに吉田は自主的に参加していた)。

案の定、惨憺たる醜態をさらしてしまい、その後はその後で、大騒動を招いてしまった。

では、出ることを強いられた彼らは、全くの被害者なんだろうか?

いや、彼らにも責任は大いにある。

恥をかくに決まっている演芸会への参加など、最初から断ればよかったのだ。

だが、彼らは中国人学生に促されるまま、出る羽目になった。

中国人の物言いは総じて、日本人に比べたら強圧的に聞こえることが多い。

「演芸会に出ませんか?」ではなく、「演芸会に出てください」と、一方的に要求しているように中国語が未熟だった菊池たちには聞こえたんだろう。

「いや、その…」とか言葉を濁していたら、「なぜ出ないんですか?」とか詰問調でたたみかけられたりして、ビビッて断れなくなってしまったのではあるまいか。

これが欧米人や韓国人だったら「我不干(やらない)!!」とはっきりNOと言ったはずだ。

それができなかった菊池たちは、典型的な日本人留学生だったともいえるが、その日本人らしさが、この騒動につながったのだ。

相手との摩擦を徹底的に避けるあまり、はっきりNOも言えない者が、海外留学などする資格はない。

これから海外留学する者は、彼らを反面教師として、最低限の自己主張をする気概と覚悟を持って赴くべきだ。

その後

この騒動は中国でも報道され、それは、日本人講師と留学生が下品で侮辱的な芸を行ったことに対して、学生たちが抗議活動を行ったというものだったが、留学生楼が荒らされて留学生らが殴られたこと、芸は中国を侮辱するものではなかったことは報道されなかった。

西北大学もこの騒動の戦犯として、吉田の解雇と三人の留学生の退学を早々に決めておきながら、日本人留学生を殴ったのは、抗議活動にまぎれこんだ社会人(中国ではゴロツキを意味する)のしわざと言い張って、学生の処分は行わなかったようだ。

暴れた学生どもはもちろん、都合のいい現地のマスコミも大学も、腹立たしいことこの上ない。

西北大学を追い出された四人は、ほどなくして強制的に帰国させられたが、殴られた女学生を含む日本人女子留学生八人も、自主退学して日本に帰った。

彼女たちは、あの騒動で受けた精神的ダメージが深刻で、これ以上西安に居続けることができなくなってしまっていたのだ。

話は変わるが、本ブログの筆者は、事件の8年前の大学生だった1995年春、この騒動の起こった西安市で、短期留学していたことがある。

だが、日本人という理由で危ない目に遭ったり、文句をつけられることはなかった。

留学していた西安外語学院の学生たちは、我々日本人に対して友好的で、日中戦争について、何らかの文句をつけてくることもなかった。

思うに、1995年時の大学生は小学校や中学校の時分に、愛国主義教育と称した反日教育を受けていない。

反日教育も以前から行われていたが、それが強化されたのは、89年の天安門事件以後だというから、まだ当時の大学生たちはさほど日本人に対して悪い感情を持っていなかったのではないだろうか。

だが、2003年は違う。

義務教育が始まったころから反日教育を受けていた世代が、大学生になっていた。

憎き敵国の奴らが自分たちの国にやってきて、自分たちの住んでいる寮より立派な留学生楼でヌクヌク暮らしているのも、普段から気に食わなかったりしたんだろう。

その考えは断固支持できないが、自分が中国人だったら理解できる気がしないでもない。

その後年になっても、2004年に中国で開かれたサッカーのアジアカップで日本チームに大ブーイングを行ったり、2005年や2010年にも反日デモが行われ、2012年には、日本政府の尖閣諸島3島の国有化をきっかけとして、反日デモ隊が暴徒化し大規模な破壊・略奪行為を行う事件が報道され、国民レベルで日本を敵視していることを、我々日本人はまざまざと見せつけられた

中国政府も中国政府で相変わらず反日教育を行って、国民に日本を敵視させ、尖閣諸島周辺に海警の大型船を送り込む嫌がらせを繰り返している。

この国は官民ともに、今後も日本に危害を加える恐れがある巨大な反日国家と言わざるを得ない。

かような国が隣国で、我が国はこのままでいいのか?

2003年の同事件をリアルタイムで目の当たりにしてから、核兵器を最低100発くらい装備していないと、国民の一人として安心できないと私は考えるようになった。

「非核三原則」なるへっぽこな方針を国是とする我が国において、私は「国賊」なんだろうが、その考えは2023年の現在も、いささか揺らいでいない。

出典元―文芸春秋、週刊新潮、朝日新聞

 

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ヤクザが最も凶悪だった時代 2 ~女子高生をナンパして歯を抜かれた大学生

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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日々ナンパやキャッチに励む諸君。

君たちの日ごろの行いは、世間の評価はさておき敬服に値すると私は信ずる。

そっぽを向かれるのを覚悟の上で見ず知らずの異性に話しかけ、自身の話術と魅力を駆使して何とか自分の思い通りにさせようとする行動力、何より勇気はたいしたものだと思う。

なぜなら無視されたり、冷ややかな態度を取られるだけならまだしも、相手の女によっては、とんでもないことになる場合もあるからだ。

今から20年前の2003年に、ある女子高生をナンパした私立大学三年生の高倉隆司(仮名・22歳)のように。

猛毒女

2003年8月24日JR池袋駅西口で、大学三年生の高倉は仲間二人とともにナンパをし、ある未成年と思しき少女二人を自分の部屋に連れ込むことに成功。

本懐を遂げて見事勝利を収めた。

しかし、彼らはナンパした相手を大いに間違えていたことに、この時は気づかなかった。

連れ込んだ女はとんでもない奴だったのである。

大満足の高倉たちの一方で、連れ込まれた二人のうちの一人の女、都立高校二年生の山下侑理江(仮名・17歳)の方は、負けた気がしていた。

たいして好みでもない奴らの口車に乗ってしまい、言いなりになってしまったことが、悔しくて悔しくて仕方がない。

この恨み、晴らさでおくべきか。

相手は大学生で、そんなにヤバそうな奴らじゃなかったが、男相手に直接自分でやることはしない。

不良少女の山下には、こういう場合にとても頼りになりそうな知り合いに心当たりがあった。

それは、藤川直哉(仮名・30歳)という男。

関東に拠点を持つ指定暴力団住吉会系の組所属の暴力団員だ。

暴力団の恐怖

ヤクザの藤川と女子高生の山下がどのように知り合ったかの詳細はよくわかっていないが、だいたい想像はつく。

おそらく、街でたむろしていた山下に藤川が声をかけて、「何かあったら連絡しろ」とか言って、組の代紋入りの名刺を渡したか何かだろう。

裏社会の人間にとって若い女は何かと利用価値が高いから、なるべくたくさんつばをつけておくに越したことはない。

一方の山下はバカに決まっているから、頼りがいのある知り合いができたと、ほくそ笑んだはずだ。

そして、何の考えもなくその力を利用することに決め、藤川に連絡を取った。

「あのさ、金取れそうな話あんだけど」

とっちめた上に、金をいただこうという算段だったんだろう。

話を持ち掛けられた藤川だったが、こいつはペーペーの組員で単体ではさほど頼りにならなかった。

自分で動くことができないし、動かせる下の人間がいなかったらしく、取り分が減ることを覚悟のうえで、組の幹部である能勢将大(仮名・41歳)に相談する。

能勢は組の幹部ではあったが、チンケなヤクザであったようだ。

小娘の持ってきた話に大真面目に乗って、山下をナンパした大学生から金を脅し取る計画を練り始めた。

そしてその小物ヤクザの考えた計画はすこぶる正攻法だった。

8月31日未明、能勢は山下に教えられた高倉のマンションに手下とともに押し入って高倉を粘着テープで縛り上げ、車のトランクに入れて拉致。

曲がりなりにも職業犯罪者だから、大学生のガキ一人をさらうなど朝飯前である。

いきなり相手の家に押しかけて連れ去るあたり、能勢は悪い意味で正統派のヤクザだったらしい。

そんな奴が脅して言うことを聞かせるためにまずすることは、たっぷり怖い思いを相手にしてもらうことだ。

そのために、高倉をトランクに監禁した車が向かった先は、人気のない河川敷である。

「コラ!ガキい!!詫び入れろや!!」

「すいません!すいません!もうかんべんしてくださいい!!」

トランクから出された高倉は、おっかない奴らに拉致され、すでに恐怖で泣き出している。

脅迫の第一段階は、十分に果たしたと言えよう。

だが能勢の脅迫には第二段階があった。

それは、すごく痛い思いを相手にしてもらうことだ。

「オラァ!口開けやがれ!!」

能勢は、高倉の口を無理やり開けさせるや、何とペンチで歯を抜き始めた。

「あががががが~!!!」

歯医者で歯を抜いたことがある人ならわかると思うが、歯を抜かれる痛みは半端じゃない。

もちろん、麻酔など使っていないからなおさらだ。

一本だけじゃすまない。

能勢たちは、さらに泣きわめく高倉の歯をもう一本二本と抜いて、合わせて上下の歯七本を抜いた。

地獄のような暴行である。

能勢は歯を抜き終わった後、山下をナンパした他の二人も呼び出し、三人にそれぞれ普段金として『150万円を払う』という念書を書かせた。

二人は歯を抜かれなかったようだが、歯を抜かれて口から血を流しながら泣いている高倉を見て、凍り付いたはずだ。

断ったら同じ目にあわされる。

高倉はもちろん、友人二人も念書を書かざるを得なかった。

彼らはその後解放されたようだが、こんなことをしたら警察に駆け込まれるのは目に見えている。

だが、長年ヤクザをやっていた能勢は経験上、徹底的に恐怖と苦痛を与えた相手は、決して訴えやしないという自信があったのかもしれない。

被害に遭った者は訴えたが最後、報復として同じ目かそれ以上ひどいことをされると、恐怖のあまり精神的に折れて泣き寝入りする場合が多いのだ。

そして、この凶行のきっかけとなった山下も、凍り付いたことだろう。

「まさかここまでやるとは思わなかった」と愕然とすると同時に、もしこの人たちを怒らせたら自分もこういう目に合うかもしれないと、震えあがったはずである。

それも、能勢の狙いだった可能性が高い。

「俺たちはここまでやってやったんだから、お前は何してくれる?」などと、過大な見返りを求めやすくなるからだ。

そして、それは延々続くことになるはずである。

それがヤクザというものだ。

しかし、この件が警察の知るところとなるのに、そんなに時間はかからなかった。

高倉たちが警察に駆け込んだのか、それとも医者か周囲の者が通報したのか、能勢や山下ら4人は事件からほどない9月18日には、逮捕監禁や恐喝で逮捕。

26日には、話をつないだ藤川も逮捕された。

その後、逮捕された能勢たちがどんな法的制裁を受けたか報道されていないが、高倉たち三人は、二度とナンパをする気がなくなったに違いない。

断られてもそっぽを向かれてもめげず、相手の迷惑そっちのけで道行く女性に声をかけ続ける諸君。

君たちも、十分気を付けてナンパにいそしんでくれ。

出典元―夕刊フジ、朝日新聞

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2023年 おもしろ 中華料理 平成 料理 旅行 昭和 本当のこと

中華料理釜山

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我が日本国には飲食店があふれている。

バブル期に比べれば減少したとはいえ、今でも67万店舗もの飲食店が各地で営業しているらしい。

だがその平均寿命は短く、開店して三年営業を続けられればいい方であり、十周年も迎えることのできない店の方が多いと聞く。

その業界の熾烈な生存競争においては、うまくて評判の良い店が生き残るとは限らない。

だがその反面、まずくて評判が最悪な店がすぐ淘汰されるとも限らない。

私の生まれ育った地方都市О市の国道沿いに店を構えていた「中華料理釜山」は、間違いなく後者に属する店だった。

このО市民の間で悪名高かった中華料理店は1970年代に開店して21世紀を過ぎて少しの間まで、不当にも、その地で30年以上の長きにわたって営業を続けたのだ。

悪に限ってのさばり続けるというこの世の不条理を体現する存在、それがこの「中華料理釜山」だった。

市民に恐れられる店

「中華料理釜山(仮名)」

まず、この店名からしてふざけている。

ある程度の地理学的常識を有した方なら、ツッコミを入れたくなるはずだ。

釜山、どう見ても韓国のあのプサンじゃないか?中華料理店が名乗っていい名前だろうか?

「イタリア料理マルセイユ」や「タイ料理ホーチミン」くらいおかしいだろう?

ひょっとしたら、韓国風中華の店のつもりだったのかもしれないが、そんなスキマを付いた店が、1970年当時の地方都市に出現したとは考えにくい。

もっとも、その当時は中国と韓国の区別もつかないほどО市の市民は低能だったらしい。

誰からもツッコまれることなく「中華料理釜山」と書かれた看板をデカデカと国道にさらし、恥ずかしげもなく堂々営業していた。

オーナーが釜山出身の在日韓国人だったとかなのかもしれないが、真相は今でも謎のままである。

この「釜山」は名前こそふざけてはいるが、店の外装や看板は気合が入っており、1970年代の日本人の頭の中だけにある間違った中国像を具現化したように派手だった。

だが、気合を入れたのは外観だけだったようだ。

まだ小学校低学年だった私も家が比較的近所だったので、その存在を知っており、チャイナ全開の見た目に魅かれて何度も連れて行ってほしいとせがんだが、父が断固拒否。

なぜなら父は「釜山」がひどい店であることを、すでに身を持って知っていたからだ。

父によると、職場の同僚らとそこで歓送迎会を開いたことがあったが、父を含めた参加者ほぼ全員が、この店には二度と行きたくないと腹を立てるほど最低な店だったという。

店内は当時から汚く、店員の態度も横柄で味や量に比べて、不当に高かったらしい。

また、その悪名は、我が家の中だけに限ったことではなかった。

「釜山」は私が通っていた小学校の学区内にあったため、学校の同級生たちは皆「釜山」のことを知っていて実際に食事した者も多かったが、ダメ出しのオンパレード。

ある生徒は作文の宿題で、小学生の視点によりその恐るべき実態を記述していた。

きのう、ぼくはお父さんとお母さんとねえちゃんといっしょに、ちゅうかりょうりプサンという店へ食べに行きました。

ぼくはラーメンを食べましたが、おいしくなかったです。

それと店の中はきたないし、お父さんが店のおじさんとけんかしたりしたので、ぼくはもう行きたくないなあとおもいます」

我が小学校の児童の間でも「釜山」は「まずい・高い・汚い」という飲食店にとっては致命的な三冠王の店として勇名を轟かせていた。

他に「態度が横柄」「出てくるのが遅い」「この店のラーメンはカップ麺」「料理にシャブが入っている」などの講評や噂も混じっていたが、そんな市井の評判が実際の経営状態には反映されることはなかったようだ。

「釜山」の駐車場には常に一定数の車が停まり、いけしゃしゃあと営業を続けていた。

少年時代の私の心に、実際には行っていない「釜山」に対する侮蔑まじりの恐怖が刻まれたのはその頃からだ。

そして、韓国の釜山市民には悪いが、今でも釜山という地名にいい印象がない。

韓国政府もいくら地方都市とはいえ、自国の都市のマイナスイメージを不特定多数の日本人に刻み続ける店に、何らかの行動をするべきだったであろう。

実食する不運

私が「釜山」で食事する機会を得たのは、長じて大学生となった頃だ。

いや、食事する羽目になったと言うべきか。

その日、私は自分の通う大学の同級生である五島賢司と遊びに行き、その帰りは彼の車で家まで送ってもらっていた。

我々の乗った車が私の家目指して国道を走っていた時、五島が「どこかで飯にしよう」と提案。

ちょうど正午で昼食を食べていなかった私も同意し、国道沿いの適当な店を物色したがなかなか決まらず私の家近くまで来てしまった。

「ココ壱番屋にしないか?この先にあるんだが」

「カレーはどうも食う気がしないな…お、ここにしよう!」

そう言って、急にウインカーを出して入ったのが何と「中華料理釜山」だったのだ。

「ここはやめないか?いい噂を聞かないんだ」

私は地元民として忠告したが「俺はここで食いたいんだ」と五島は譲らない。

具体的な評判を伝えて説得してみたが、結局強硬な五島に折れる形で私も店内に入ることになったのは、自分自身が「釜山」に入ったことがなく、実は言われてるほどひどくはないのではないかと甘く見ていたからだ。

だが、なぜもっと強く五島を制止しなかったのかと入ってからすぐに後悔することになる。

「釜山」は評判どおりの店だったのだ。

店内に入ってまず気づいたことは、臭うことである。

「匂い」ではない「臭い」だ。

中華料理店特有の食欲をそそる炒め物の「匂い」ではなく、不衛生な台所の饐えたような「臭い」である。

その悪臭の発生源は紛れもなく厨房なのだが、入口を入ってすぐのところに目につくため、否応なしにさもありなんと思わせる凄まじい惨状が目に入った。

もう、年季の入った便所といい勝負の汚さではないか。

本当は便所も兼ねてるんじゃないかと思うくらいのレベルで、ここで料理が調理されて出てくるなんて考えたくもない

その厨房を囲むようにカウンター席が設置されており、厨房を真正面に見据えざるを得ないそこにだけは座りたくないと思ってテーブル席を目指したが、大柄でブサイクな女性店員が我々の前に立ちはだかりカウンター席を指さした。

「ここへ座る!」

中国人留学生のアルバイトらしい。

我々を強引にカウンター席へ座らせると、目の前にメニューをどさっと置いて「どれ食べる?」とさ。

正直ここで何も食べずに帰りたいが、とりあえずメニューを開いてみる。

メニューも油ベトベトで薄汚く、そして高い。

何で醤油ラーメンが900円(当時平均600円程度)もするのだ。

「お得!」と書かれたランチセットの欄があったが、そのネーミングがカオスだった。

  • 万里の長城セット:1000
  • 毛沢東長征スペシャルセット:1200
  • 中国4000年の歴史セット:1500

この店は、中国と世間を完全にナメてる。

それに、ネーミングは無意味に壮観で痛々しいが「万里の長城セット」は単なる半ラーメン+餃子だし、「毛沢東長征スペシャルセット」は半ラーメン+チャーハン、「中国4000年の歴史セット」なんぞは半ラーメン+チャーハンに餃子。

他に「黄河悠久の流れセット」や「楊貴妃セクシーダイナマイトセット」などセンスが爆裂した名前のセットもあったが、その内容と値段は見ていないし、見る気もなかった。

中国人アルバイトよ、お前は何も言わないのか?ずいぶん安く見られてるぞ、祖国が。

我々は、一番安くて無難そうな「万里の長城セット」を頼んだが、この厨房で調理するんじゃなくて、よその中華料理店から出前を取ってきて欲しいというのが本音だった。

強引に入った五島も責任を感じたのか、バツが悪そうに押し黙っている。

しかし祈りもむなしく、目の前の汚厨房でジャージャー調理が始まり、そこで作られた「万里の長城セット」が我々の前に並ぶ。

見た目は普通で、食べてみたら、おいしくはないが噂ほどまずくもなかったとはいえ、厨房があの有様だっただけに箸をつけるのに決死の覚悟が必要であった。

他にも何人か客はいたが、昼食を楽しんでいる様子はなく、皆修行僧のように無言で食べている。

我々も腹が減ってたはずだったのに、全部食べることはできなかった。

会計の時もひと悶着あり、くだんの巨漢女は堂々と「中国4000年の歴史セット」の値段1500円で請求してきやがった。

まだテーブル上にある残った餃子とラーメンを動かぬ証拠に断固抗議して取り下げさせたが、全部食わなくて本当に正解だった。

店を出た時、「だからやめろって言っただろ」と愚痴る私に、「いや、外から見たら本格的そうに見えたんだけどな」と、五島は言い訳をしていた。

確かにド派手な「中華料理釜山」の看板を遮る建築物が周囲に存在しないため、遠くからでもよく目立つし、店の外観は立派でいかにも中国という錯覚を覚えさせる。

主要幹線道路だけに交通量は多く、見かけにつられて入ってしまうビジターが後を絶たなかったから、O市の住民にあれだけ評判が悪くても営業できたのではないだろうか。

それが証拠に、駐車場に停まっている車は他県のナンバーが多く、県内ナンバーがあったとしても五島のようにO市から遠く離れた市町村の住民と思われる。

私はこの時初めて「釜山」がしぶとく生き残っている理由がわかったような気がした。

車に乗り込む前に「釜山」の駐車場へS県ナンバーの車が一台入ってきた。

五島はその車から降りてくる中年男性に駆け寄り、「この店ひどいですよ」と忠告。

腹いせの営業妨害をしていたが、私は止めなかった。

中華料理店釜山の最後

そんな来る客来る客に、トラウマを植え続けてきたであろう「中華料理釜山」がようやく閉店したのは、ミレニアムの西暦2000年を超えて数年経過した頃だ。

原因はおそらく「釜山」の隣に建てられた某宗教団体のO市支部の建物だろう。

「釜山」に向かって国道を車で走ればわかる。

そのお城のような建築物は、数多のビジターを毒牙にかけてきた「中華料理釜山」の看板を見事に隠していたのだ。

もう片方の対向車線側から見たら見えるが、看板につられて入ってくる客は単純計算で半減することになる。

よく中華料理店はつぶれにくいと聞くが、それは家族経営の場合であって、「釜山」のような比較的大規模の店は当てはまらないのではないだろうか。

それに、地元の人間に嫌われていた「釜山」が、ビジターをひっかけられなくなったら命取りだったはずだ。

相手が宗教団体だけに、まさに神罰と言えなくもない。

だが、「釜山」の悪運が尽きたのが30年以上のさばってきた後なので、さんざん悪事を働いた暴力団組長が96歳でようやく殺されたくらい釈然としないところがある。

それに悪魔を討伐して無辜のビジターを救ったことになるのが、霊感商法などで全国的に悪名高きうさん臭い宗教団体。

のさばり続ける悪に勝てるのは正義ではなく、より大きな悪だったということだろうか。

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夢の国で起きた悲劇 ~ディズニーリゾートで心中した一家~

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1983年4月15日にオープン以来40年、「世代を超え、国境を超え、あらゆる人々が共通の体験を通してともに笑い、驚き、発見し、そして楽しむことのできる世界…」を理念として、大人も子供も楽しませてきた東京ディズニーランド。

そんな夢の国のすぐ近くで、今から30年以上前に、あまりにも悲惨な出来事が起きていた。

時は1989年(平成元年)12月2日、同園から目と鼻の先のオフィシャルホテルでもあるシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルで、一家心中事件が起きたのだ。

この心中した一家の中には、11歳と6歳の幼い兄弟も混じっていた。

誰もが幸福でいられるはずの場所で、なぜ彼らはこんな悲しい結末を自ら迎えなければならなかったのだろうか?

心中した一家

1989年(平成元年)12月2日午前1時10分、ディズニーランドの目と鼻の先にあり、オフィシャルホテルにも指定されているシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルの北側の中庭に、複数人が倒れているのを宿泊客が発見。

倒れていたのは子供も含む男女四人で、すでに死亡していた。

ホテルのいずれかの部屋から飛び降りたらしい。

両親と思しき中年の男女はジャンパー姿で、子供二人はオーバーコート姿だったという。

やがて彼らは、このホテルの10階に宿泊していた家族であり、岐阜県不破郡垂井町から来た会社員の中林昭さん(仮名・39歳)、妻の美彩さん(仮名・35歳)、長男の弘樹君(仮名・11歳)と次男の啓二君(仮名・6歳)の家族だと判明する。

一家は11月26日から同ホテルに滞在しており、宿泊していた部屋には四通の遺書が残されていたことから、心中したと見て間違いはない。

その遺書は、中林家の一人一人がそれぞれ書いたものだった。

まず、父親の昭さんは自分の実家や上司にあてて、『お世話になりました。妻が心臓病でよくならず、不安感がつのっていました。その結果、死を選ぶことになりました…』

母親の美彩さんは自身の父親に、『私の体は悪くなるばかりで、生きていても長生きできないだろうと思います。夫と弘樹と三人で話し合い、死を選び、旅に出ることになりました。今日でこの旅も終わりです』と記していた。

長男の弘樹君も、彼にとっては祖父である美彩さんの父親に遺書を書いていた。

『おじいちゃん。これまでの11年間、どうもありがとうございました。楽しいことがたくさんありました。お父さん、お母さんが苦しんでいるのを見て、僕は決めました』

幼稚園児だった啓二君は、遺書のかわりに祖父の似顔絵を残していた。

遺書から分かるように、中林一家が心中する原因となったのは、母親である美彩さんの病気であったようだ。

美彩さんはこの10年前より糖尿病を患い、しょっちゅう起こる発作に苦しめられていた。

家族仲の円満だった中林家の大黒柱の昭さんは、たびたび会社を早退して妻の看護にあたっていたし、長男の弘樹君も午後5時には帰宅して、家の手伝いをしたり病院へ薬を取りに行ったりしていたという。

だが、美彩さんの病状は日に日に悪化し、病魔に苦しむ美彩さんと介護に追われる一家は、疲弊して限界に達していたと思われる。

そして、前途を悲観した中林一家は、10月18日にこの苦しみに自ら終止符を打つ決意を固め、自宅からそろって姿を消す。

その前日、幼稚園に次男の啓二君を迎えにやってきた昭さんは、「一週間ほど旅行に連れて行きます」と職員に話していた。

弘樹君の小学校の担任にも、同じようなことを言っていたらしいが、一週間たっても登校してこないのを不審に思った担任が、中林一家の近所に住む子供たちの祖父である美彩さんの実父に連絡。

祖父は、一家の暮らす県営住宅へ行ったが家はもぬけの殻で、郵便通帳が一冊残されており、口座から300万円が引き出されていた。

最後に思い出を残そうと、二度と帰ることのない永遠の家族旅行に出たのだ。

慌てた祖父は、最寄りの警察署に連絡して捜索願を出した。

その後、不意に一度長男の弘樹君から電話があったという。

しかし彼は「元気だから」と話していたものの、どこにいるかは言わなかった。

彼らが悲しき不帰の旅のエピローグとしてディズニーランドを選び、シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルにチェックインした11月26日までの足取りは分かっていない。

そして、一家が命を絶った12月2日は美彩さんが「今日でこの旅も終わりです」と遺書に記したように、同ホテルをチェックアウトする予定の日だった。

無力だったディズニーの魔法

一家が落ちた場所は玉砂利が敷き詰められた中庭であり、それがクッションとなったらしく四人とも驚くほどきれいな死に顔だったと、現場を見た宿泊客の一人は涙ぐんで証言している。

彼らの遺体は4日に浦安市で火葬され、親族によって岐阜へ帰った。

一家が泊まっていた部屋には、遺書の他にランド内で買ったと思われる大きなミッキーマウスのぬいぐるみやおもちゃも残されていた。

さらに、数冊の預金通帳と数十万円の現金。

ホテル代と迷惑料を清算したつもりだったんだろうか?

心中の場所に選んでしまった上に、宿泊費を踏み倒す気はなかったのだろう。

彼らなりの心遣いだったとすれば胸が痛む。

何より、この世の見納めと各地を漫遊してから最後にディズニーランドを楽しんだ後、どんな気持ちでこの最後の瞬間を一家そろって迎えたのかと思うと、心が張り裂けそうになる。

自殺はいけない。

ましてや、幼い子供まで巻き込んで心中するなんて考えられない。

そう言うのは簡単だ。

誰が好き好んで一家心中などするものか。

こんな手段でしか終わらせることができなかったほどの苦しみと悲しみを、この一家は味わい続け、それが限界に達してしまったのだろう。

ディズニーランドについて書かれたある本で、借金苦で心中を図る前の最後の思い出にとやって来たある一家が、ランド内で子供たちが楽しんでいる姿を見るうちに思いとどまり、「生きてもう一度やり直そう」と決心したエピソードが紹介されている。

ウソか誠か知らぬが、それを「ディズニーの魔法だ」などとその本では絶賛していたが、中林一家にその魔法は効かなかった。

そんな程度のものでは救えないほど、彼らの苦悩と絶望は大きかったのだ。

だったとしても、こんな悲しい手段を取らなくても、よかったじゃないかと思わずにはいられない。

我々にできるのはこの世で苦悶したぶん、向こうの世界で報われていて欲しいと願うことだけだ。

しかし、多くの宗教では自殺した者の魂は死後も救われず、天国に行けないと説いている。

それが本当だったら神は何と非情なのかと、この一家の一件に関しては思う。

死を選ばなければ解決できない苦しみも、世の中にはあるのがわからないのか。

天罰上等で言わせてもらう。

神よ、もし存在するならよく聞け。

この一家の魂だけは何が何でも救え。

彼らは、貴様が気まぐれで与えた試練に殺されたんだ。

責任を取れ!

出典元―岐阜新聞、朝日新聞、女性セブン

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2023年 ネイティブ英語 外国語 英語 語学学習

ネイティブの英語 5 “Clog”


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意味:

トイレが詰まって水が流れない時の「詰まった」の表現

発音はカタカナ表記すれば「クログ」です。

この表現が一番通じます。Clog upとも言います。

実は今、アメリカのホテルで、私の部屋のトイレが詰まって水が流れなくなりました。ルームサービスに連絡して、ちょうど、この表現を使ったところです。

Clog

When something clogs up a place, or when it clogs up, it becomes blocked so that little or nothing can pass through.

https://www.collinsdictionary.com/us/dictionary/english/clog-up#:~:text=Definition%20of%20’clog%20up’&text=When%20something%20clogs%20up%20a,VERB%20PARTICLE%5D

例文:

The bathroom is clogged up. Can you please send someone to fix it?

トイレが詰まったので、誰か直しに来てくれませんか?

The toilet is clogged and it won’t flash.

トイレが詰まって、水が流れません。

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2023年 ならず者 事件 事件簿 人気ブログ 平成 悲劇 本当のこと

新潟県六日町トンネル内灯油焼殺事件 ~16歳と19歳の恋愛に嫉妬した三十路の暴力団組員~

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2000年(平成12年)5月22日午前5時ごろ、民家もまばらな新潟県魚沼群六日町の農道を歩いていた近所の住民の女性(72歳)の前に、ただごとでない様子の少年が現れた。

十代後半くらいのその少年は裸足で、全身ずぶ濡れとなってぶるぶる震えており、女性を見つけるなり「警察を呼んでほしい」と懇願するのだ。

そして、その理由は耳を疑うものだった。

何と男二人に灯油をかけられて、火をつけられそうになったから逃げてきたというのである。

しかも、もう一人一緒にいた友達は逃げることができず、焼き殺されたかもしれないと言うではないか。

それが証拠に、ずぶ濡れの彼の体からは、灯油かガソリンのような刺激臭が漂っていた。

その後、女性の家からの通報により、新潟県警六日町署の署員が出動。

少年が火をつけられそうになったという六日町舞台のわらび野トンネルに駆け付けたところ、トンネル内で焼け焦げた焼死体を発見。

それは、焼き殺されたかもしれないと言われていた少年、千村健太(仮名・16歳)の変わり果てた姿だった。

事件の経緯

千村健太(仮名)

事件は前日の5月21日の午後11時ごろ、殺されることになる千村健太と、助かった方の宇田川弘明(仮名・16歳)が、ある人物から「遊びに行こう」と呼び出しを受けたことから始まる。

彼らを呼び出したのは、矢内彰浩(仮名・32歳)という人物。

前月の4月下旬まで、千村と宇田川が働いていたラーメン店の店主であった。

彼ら二人が迎えに来た矢内の車に乗り込んだのは、日が変わった22日午前2時ごろ。

こんな夜中に「遊びに行こう」と誘われて、喜んで行く人間はあまりいない。

しかも、相手は前に働いていた職場の雇い主ではるかに年長、真夜中に呼び出されて遊ぶには、面白くないことこの上ない相手だ。

だが、二人とも断るわけにはいかなかった。

彼らに電話したのは矢内だったが、本当に用があって呼び出したのは、亀井俊彦(仮名・32歳)という男である。

ラーメン店の客として来ていたから顔なじみであったが、亀井がどういう人物であるかを、二人ともよく知っていたのだ。

亀井は暴力団組員であり、なおかつ地元では数々の暴力事件を起こしてきた悪名高き乱暴者。

前の年には、歩行者をひき逃げして逮捕されたが、それは単なるひき逃げ事故ではなかった。

その事故の際に、自分の車にぶつかった歩行者に腹を立てた亀井は、車を繰り返し前進後退させて三回も轢いて、そのまま立ち去ったという正真正銘の犯罪だったのだ。

亀井はその事件で逮捕されて、先月まで刑務所に服役して出てきたばかりであり、そんな危険な男の呼び出しを断ったら、何をされるかわからない。

そもそも、彼らがアルバイトをしていたラーメン店自体、堅気の店ではなかった。

店を直接切り盛りする店長の矢内は堅気だったが、オーナーは片岸祐一(仮名・34歳)という暴力団組員であり、亀井の兄貴分。

おまけに、ラーメン屋で働いていた千村は店員としてだけではなく、ヤクザである片岸の「若い衆見習い」ということにされていたらしい。

それに千村はこの時、自分が呼び出されたのが、なぜなのか気づいていた。

なおかつ、自分がタダでは済まないであろうことも。

彼には身に覚えがあった。

絶対にやってはいけないあることをして、それがバレたのだ。

だからと言って、逃げるわけにはいかない。

そうしたら余計厄介なことになることくらい、ヤクザの「若い衆見習い」にされていた彼なら嫌というほどわかる。

案の定、車内の亀井は、千村が乗り込んだ時から明らかに不機嫌であり、車が発進してほどなくして、いきなり暴力を振るってきた。

「このガキ、ナメたことしやがって!コラあ!!おらあ!!!」

ただでさえ危険な男は、酒をしこたま飲んで来たらしく、余計狂暴になっていた。

「宇田川ぁ、テメーも知ってたんだろ?なぁ!!」

「いえ、あの、その…ぶっ!!」

宇田川も殴られた。

宇田川が呼び出されたのは、ツレの千村がやらかした「やってはいけないこと」を知っていたにもかかわらず、報告しなかったからなのだ。

やらかした本人である千村の次に、罪が重いとみなされていた。

怒りの矛先が向けられたのは、二人の少年だけではない。

「停まんじゃねえよ!!飛ばせボケぇ!」

赤信号で車を停止させた、矢内も殴られた。

彼は普段から、ヤクザの片岸や亀井に奴隷扱いされていたのだ。

やがて、車は事件現場となる六日町の工業団地に到着すると、ほどなくして、一台の白い車がやってきた。

四人は車を降りてその車に近づき、亀井が「これに乗れ」と他の三人に命じた。

「お前ら逃げろ」

ある程度事情を知っていた矢内は、小声で二人の少年に言って自分は逃げたが、二人ともモタモタして逃げられず、白い車に乗せられてしまう。

その車を運転していたのは、加藤夏樹(仮名・28歳)という暴力団員ではないが、亀井の舎弟気取りの男だ。

車内で亀井は千村と宇田川を交互に殴りつつ、加藤の運転する車は、だんだん明るくなってきた午前四時ごろ、わらび野トンネルに到着。

車から降ろされた二人は、トンネルの中で正座させられた。

わらび野トンネル

「テメーら、これからどうなるかわかるか?アン?!」

そう言うと亀井は、加藤の車からポリタンクを取り出すや、正座させられている二人に、その中に入っていた液体をぶっかけた。

手下の加藤に、あらかじめ用意させて車に積んでいた灯油だ。

やがて、ライターを取り出して、それを加藤に渡すと、「夏樹、燃やしちまえ」と命じた。

大物ぶって、自分で手を下す気はないのだ。

加藤は、どちらかというと肝っ玉の座らない根性なしだったが、だからこそ、おっかない亀井には絶対服従な男。

本当にライターを近づけてきた。

脅しじゃない、本気で焼き殺す気だ。

逃げ出そうと立ち上がる二人。

宇田川は、前述のとおり逃げおおせたが、千村は間に合わなかった。

加藤のライターで火をつけられた千村は、火だるまになり、叫び声を上げて走り回ったあげく、トンネル内に倒れ込み絶命した。

事件現場

千村が犯してしまった過ち

事件が発生して翌々日の5月24日午前1時ごろ、実行犯の一人の加藤が六日町署に自首してきた。

加藤は堅気のくせに普段から「亀井さんのためなら何でもやります」などと公言してヤクザ気取りだったが、本性は気弱。

人を焼き殺してしまった事実を、受け入れることができなかったのだ。

そして、事実上の主犯である亀井は犯行後に逃走していたが、翌月6月9日に出頭して逮捕された。

だが、彼らは実行犯にすぎない。

亀井は顔見知りとはいえ直接の恨みはないし、加藤に至っては初対面。

実は亀井たちの背後には、犯行を指示した本物の主犯がいた。

その人物とは亀井の兄貴分であり、千村たちが働いていたラーメン店のオーナーである片岸祐一である。

彼こそが、千村の犯した行為に激怒していたのだ。

事件発覚当時から、犯行を指示したのは片岸ではないかと事情を知る関係者の間ではささやかれていた。

捜査を担当する六日町署もそれを知って、片岸の行方を追い始める。

片岸は、亀井同様事件後に行方をくらませていたが、7月7日になって、ようやく殺人容疑で逮捕された。

片岸は逮捕当時容疑を否認していたが、千村に危害を加えるように亀井に命じたことは認めた。

そして、彼が舎弟を使って制裁を加えようとした理由、それは、ある女性をめぐってのものだ。

その女性の名は、大熊径子(仮名)。

片岸がオーナーを務めるラーメン店で、アルバイトをしていた当時19歳の少女である。

彼女は、事件の起こるちょうど一年前の1999年(平成11年)5月ころの高校在学中から働き始めていた。

径子は、地元では有名な企業の社長の娘である。

片岸は、当時所属していた暴力団の組員になる前は、その会社で働いていたことがあるし、ラーメン店の開業に際して保証人になってもらったりしていたために、その社長に恩義を感じていた。

そんな恩人のお嬢さんを預かっていたうえに、その社長夫妻からはヘタな男を近づかせないように、特に依頼をされてもいたらしい。

なにせ、径子は近所でも評判の美少女だったからだ。

片岸は社長夫妻の頼みを律儀に聞き、彼女が自動車学校に通い始めた頃には、送り迎えまでしていた。

だが、その年の11月に千村がアルバイトとして雇われてしばらくしてから、ややこしいことになる。

翌年の3月ころから、径子が千村と交際するようになったのだ。

それも、ぞっこんだったのは径子の方であった。

千村は高校に行っておらず、自身の「若い衆見習い」をさせているから、社長夫妻が言うところの娘に近づかせてはいけない男のカテゴリーに入る。

事実、この交際が4月末に社長夫妻の耳に入るや、夫人は片岸に別れさせるように依頼してきたという。

そして、このティーンエイジャーの交際を、夫人以上に快く思わない者がいた。

当の片岸本人である。

片岸は、径子の父親が経営する会社で働いていたころ、まだ幼児だった径子をかわいがっていたが、彼女が美女に成長した今は魅力的な異性として、熱視線を注ぐようになってしまっていたのだ。

意識するだけでなく行動にも移し、プレゼントを渡して告白めいたことまでしでかした。

片岸は離婚したばかりでもあったから、何としても径子をモノにしようとしていたらしい。

しかし、幼いころはなついていたとはいえ、片岸はヤクザのうえに、19歳の彼女から見たら完全におじさんの34歳。

明らかに10年以上遅い。

身の程知らずにも、ほどがあるだろう。

径子は遠回しな言い方でやんわりと断ったが、こんな勘違い野郎がオーナーの店で、気持ちよく働けるわけがない。

ほどなくして、彼女は年下の彼氏である千村、その友達の宇田川と相前後して、店を辞めてしまった。

社長夫人から依頼を受けてほどない5月2日、片岸はもうすでにラーメン屋を辞めてしまった千村を呼び出して「今回は見逃すが、次はないぞ」という脅し文句とともに、径子との交際を辞めるよう迫った。

夫人に頼まれていることを理由にしていたが、本当は、こんなガキごときに自分が付き合いたい女を取られたことに、腹わたが煮えくり返っていたことを、とりあえずこの場では隠す。

一方の径子に対しても「このまま付き合い続けたら、千村は殺されるぞ」というメールまで送ったりしたため、ただ事ではないと感じた径子も千村も、別れることをこの時は了承する。

だが、そんなことまでしても、燃え上がっている最中の十代のカップルを止めることはできなかったようだ。

二日後には、二人とも連絡を取り合うようになり、千村の身を案じた径子は、一人暮らししている自分のアパートや友達の家に、千村をかくまったりして交際は続く。

しかし、いつまでも隠し通すことはできなかった。

事件発生直前の5月21日、娘がまだ千村と交際を続けていることが、社長夫人にバレてしまう。

夫人は、その日のうちにそのことを電話で片岸に伝え、「まだ付き合ってるみたい」と愚痴った。

5月2日の最後通告は守られなかったのだ。

ヤクザとしてのメンツは完全につぶされたと、片岸は激怒した。

その矛先はもちろん「若い衆見習い」の千村である。

だいたい、こんな奴が自分の狙っていた女と付き合い続けているのは許しがたい。

ナメたガキからは、きっちりケジメを取ってやる。

しかし、だからと言って、自分で手を下す気はない。

社長夫人からの電話の後、片岸は、別の人間に電話をかけた。

それは、彼の舎弟であり暴力装置、この事件の実行犯となる亀井俊彦だ。

亀井は、暴走族だったころから片岸の世話になっており、自分の体に片岸の名前を入れ墨するほど心酔しているくらいだから、命じれば、いくらでも体を張ってくれる都合のよい奴である。

「千村のガキがよ、また社長の娘にちょっかい出してやがった。しめちまえ」

片岸はこの時、そう電話で亀井に指示したと、後に供述している。

「殺せ」ではなく、あくまで「痛めつけるだけでいい」と言ったのだ、ということだ。

だが片岸も亀井もヤクザである。

彼らの世界において、上の者は本当の目的を隠して、具体的に指示することなく、それを匂わせるような言い方で指示することがあるし、下の者は、その意図を正確に察しなければならない場合があるものだ。

長年一緒に過ごしてきた彼らの間に、どんな暗黙の了解や呼吸があったかは立証できないが、亀井の方は、単に殴る蹴る以上のことをする必要があると解釈した可能性があるのは、事前に灯油を準備していたことから見て間違いがない。

おまけに、電話を受けた時は酒をしこたま飲んでおり、この乱暴者は、余計に分別のつかない状態になっていた。

その後、矢内に運転させて千村たちを連れ出し、日が変わった22日の午前3時ごろ、亀井は片岸に連絡を入れている。

その時、片岸はさらに「どういうことになるか、きっちり分からせろ」と命じたという。

そして、その電話からほどない午前4時ごろ、前述のとおり千村は、六日町舞台のわらび野トンネルで焼殺という最悪の殺され方をされてしまうことになったのだ。

不条理な判決

こんな残忍な犯行を犯した連中が、社会に出てきていいはずはない。

死刑か無期懲役、あるいは社会の脅威となる可能性がほぼなくなるほどの高齢になるまで、塀の中に隔離しておくべきである。

しかし、驚くべきことにこの凶悪犯たちは、また何か別の犯罪で捕まっていなければ、現在自由の身になっているのだ。

犯行を指示した片岸だったが、逮捕後から殺人に関して「共謀はしていない」と一貫して無罪を主張し、実行犯である亀井も殺害するように頼まれてはおらず、犯行前に灯油を準備していたのは脅すためだったと供述。

灯油までかけて加藤に「燃やしちまえ」と命じてはいたが、今回も本当は脅すつもりだったと言い張った。

ちなみに亀井は、事件前の過去に相手に灯油をかけて脅す事件を起こしている。

そして下った判決は、片岸が殺人罪で懲役13年。

実行犯の亀井は懲役18年で、加藤は15年と、人を一人焼き殺した代償にしては、軽すぎるものだった。

亀井と加藤の刑は一審で確定したが、片岸は判決を不服として控訴。

その結果、2002年4月24日に東京高裁で開かれた控訴審で「暴力を加えろという指示をしたと言えるが、殺害しても構わないという未必の殺意までは認められない」という判断がなされ、一審における殺人罪での懲役13年というただでさえ軽い判決が破棄されて、傷害致死での懲役8年という判決となってしまった。

「しめろ」「わからせろ」などの電話での指示では、殺意を立証できなかったのだ。

焼き殺すつもりは本当になかったのかもしれないが、結果としてあのような犯罪を犯した割には、あまりにも軽い制裁にしか見えない。

2023年の現在、この鬼畜がごとき犯罪者たちは恐ろしいことに、もうとっくにこの事件での刑期を終えている。

彼らはまだ50代、悪さをしようと思えば、まだできる年齢だろう。

こんな悪さをしでかした奴らが、たとえ自分とは関係のない場所に住んでいたとしても、この社会にいるというだけで、そこはかとない不気味さと釈然としなさを感じざるを得ない。

再び何かの罪で捕まって、現在は長期刑真っただ中か、より願わくば、すでに死んでいて欲しいものだ。

出典―朝日新聞、週刊新潮、週刊朝日

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