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中華料理釜山: 30年間生き残った飲食店の謎

記事に登場する氏名、及び店名は、全て仮名です。


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我が日本国には飲食店があふれている。

バブル期に比べれば減少したとはいえ、今でも67万店舗もの飲食店が各地で営業しているらしい。

だがその平均寿命は短く、開店して三年営業を続けられればいい方であり、十周年も迎えることのできない店の方が多いと聞く。

その業界の熾烈な生存競争においては、うまくて評判の良い店が生き残るとは限らない。

だがその反面、まずくて評判が最悪な店がすぐ淘汰されるとも限らない。

私の生まれ育った地方都市О市の国道沿いに店を構えていた「中華料理釜山」は、間違いなく後者に属する店だった。

このО市民の間で悪名高かった中華料理店は1970年代に開店して21世紀を過ぎて少しの間まで、不当にも、その地で30年以上の長きにわたって営業を続けたのだ。

悪に限ってのさばり続けるというこの世の不条理を体現する存在、それがこの「中華料理釜山」だった。

市民に恐れられる店

「中華料理釜山(仮名)」

まず、この店名からしてふざけている。

ある程度の地理学的常識を有した方なら、ツッコミを入れたくなるはずだ。

釜山、どう見ても韓国のあのプサンじゃないか?中華料理店が名乗っていい名前だろうか?

「イタリア料理マルセイユ」や「タイ料理ホーチミン」くらいおかしいだろう?

ひょっとしたら、韓国風中華の店のつもりだったのかもしれないが、そんなスキマを付いた店が、1970年当時の地方都市に出現したとは考えにくい。

もっとも、その当時は中国と韓国の区別もつかないほどО市の市民は低能だったらしい。

誰からもツッコまれることなく「中華料理釜山」と書かれた看板をデカデカと国道にさらし、恥ずかしげもなく堂々営業していた。

オーナーが釜山出身の在日韓国人だったとかなのかもしれないが、真相は今でも謎のままである。

この「釜山」は名前こそふざけてはいるが、店の外装や看板は気合が入っており、1970年代の日本人の頭の中だけにある間違った中国像を具現化したように派手だった。

だが、気合を入れたのは外観だけだったようだ。

まだ小学校低学年だった私も家が比較的近所だったので、その存在を知っており、チャイナ全開の見た目に魅かれて何度も連れて行ってほしいとせがんだが、父が断固拒否。

なぜなら父は「釜山」がひどい店であることを、すでに身を持って知っていたからだ。

父によると、職場の同僚らとそこで歓送迎会を開いたことがあったが、父を含めた参加者ほぼ全員が、この店には二度と行きたくないと腹を立てるほど最低な店だったという。

店内は当時から汚く、店員の態度も横柄で味や量に比べて、不当に高かったらしい。

また、その悪名は、我が家の中だけに限ったことではなかった。

「釜山」は私が通っていた小学校の学区内にあったため、学校の同級生たちは皆「釜山」のことを知っていて実際に食事した者も多かったが、ダメ出しのオンパレード。

ある生徒は作文の宿題で、小学生の視点によりその恐るべき実態を記述していた。

きのう、ぼくはお父さんとお母さんとねえちゃんといっしょに、ちゅうかりょうりプサンという店へ食べに行きました。

ぼくはラーメンを食べましたが、おいしくなかったです。

それと店の中はきたないし、お父さんが店のおじさんとけんかしたりしたので、ぼくはもう行きたくないなあとおもいます」

我が小学校の児童の間でも「釜山」は「まずい・高い・汚い」という飲食店にとっては致命的な三冠王の店として勇名を轟かせていた。

他に「態度が横柄」「出てくるのが遅い」「この店のラーメンはカップ麺」「料理にシャブが入っている」などの講評や噂も混じっていたが、そんな市井の評判が実際の経営状態には反映されることはなかったようだ。

「釜山」の駐車場には常に一定数の車が停まり、いけしゃしゃあと営業を続けていた。

少年時代の私の心に、実際には行っていない「釜山」に対する侮蔑まじりの恐怖が刻まれたのはその頃からだ。

そして、韓国の釜山市民には悪いが、今でも釜山という地名にいい印象がない。

韓国政府もいくら地方都市とはいえ、自国の都市のマイナスイメージを不特定多数の日本人に刻み続ける店に、何らかの行動をするべきだったであろう。

実食する不運

私が「釜山」で食事する機会を得たのは、長じて大学生となった頃だ。

いや、食事する羽目になったと言うべきか。

その日、私は自分の通う大学の同級生である五島賢司と遊びに行き、その帰りは彼の車で家まで送ってもらっていた。

我々の乗った車が私の家目指して国道を走っていた時、五島が「どこかで飯にしよう」と提案。

ちょうど正午で昼食を食べていなかった私も同意し、国道沿いの適当な店を物色したがなかなか決まらず私の家近くまで来てしまった。

「ココ壱番屋にしないか?この先にあるんだが」

「カレーはどうも食う気がしないな…お、ここにしよう!」

そう言って、急にウインカーを出して入ったのが何と「中華料理釜山」だったのだ。

「ここはやめないか?いい噂を聞かないんだ」

私は地元民として忠告したが「俺はここで食いたいんだ」と五島は譲らない。

具体的な評判を伝えて説得してみたが、結局強硬な五島に折れる形で私も店内に入ることになったのは、自分自身が「釜山」に入ったことがなく、実は言われてるほどひどくはないのではないかと甘く見ていたからだ。

だが、なぜもっと強く五島を制止しなかったのかと入ってからすぐに後悔することになる。

「釜山」は評判どおりの店だったのだ。

店内に入ってまず気づいたことは、臭うことである。

「匂い」ではない「臭い」だ。

中華料理店特有の食欲をそそる炒め物の「匂い」ではなく、不衛生な台所の饐えたような「臭い」である。

その悪臭の発生源は紛れもなく厨房なのだが、入口を入ってすぐのところに目につくため、否応なしにさもありなんと思わせる凄まじい惨状が目に入った。

もう、年季の入った便所といい勝負の汚さではないか。

本当は便所も兼ねてるんじゃないかと思うくらいのレベルで、ここで料理が調理されて出てくるなんて考えたくもない

その厨房を囲むようにカウンター席が設置されており、厨房を真正面に見据えざるを得ないそこにだけは座りたくないと思ってテーブル席を目指したが、大柄でブサイクな女性店員が我々の前に立ちはだかりカウンター席を指さした。

「ここへ座る!」

中国人留学生のアルバイトらしい。

我々を強引にカウンター席へ座らせると、目の前にメニューをどさっと置いて「どれ食べる?」とさ。

正直ここで何も食べずに帰りたいが、とりあえずメニューを開いてみる。

メニューも油ベトベトで薄汚く、そして高い。

何で醤油ラーメンが900円(当時平均600円程度)もするのだ。

「お得!」と書かれたランチセットの欄があったが、そのネーミングがカオスだった。

  • 万里の長城セット:1000
  • 毛沢東長征スペシャルセット:1200
  • 中国4000年の歴史セット:1500

この店は、中国と世間を完全にナメてる。

それに、ネーミングは無意味に壮観で痛々しいが「万里の長城セット」は単なる半ラーメン+餃子だし、「毛沢東長征スペシャルセット」は半ラーメン+チャーハン、「中国4000年の歴史セット」なんぞは半ラーメン+チャーハンに餃子。

他に「黄河悠久の流れセット」や「楊貴妃セクシーダイナマイトセット」などセンスが爆裂した名前のセットもあったが、その内容と値段は見ていないし、見る気もなかった。

中国人アルバイトよ、お前は何も言わないのか?ずいぶん安く見られてるぞ、祖国が。

我々は、一番安くて無難そうな「万里の長城セット」を頼んだが、この厨房で調理するんじゃなくて、よその中華料理店から出前を取ってきて欲しいというのが本音だった。

強引に入った五島も責任を感じたのか、バツが悪そうに押し黙っている。

しかし祈りもむなしく、目の前の汚厨房でジャージャー調理が始まり、そこで作られた「万里の長城セット」が我々の前に並ぶ。

見た目は普通で、食べてみたら、おいしくはないが噂ほどまずくもなかったとはいえ、厨房があの有様だっただけに箸をつけるのに決死の覚悟が必要であった。

他にも何人か客はいたが、昼食を楽しんでいる様子はなく、皆修行僧のように無言で食べている。

我々も腹が減ってたはずだったのに、全部食べることはできなかった。

会計の時もひと悶着あり、くだんの巨漢女は堂々と「中国4000年の歴史セット」の値段1500円で請求してきやがった。

まだテーブル上にある残った餃子とラーメンを動かぬ証拠に断固抗議して取り下げさせたが、全部食わなくて本当に正解だった。

店を出た時、「だからやめろって言っただろ」と愚痴る私に、「いや、外から見たら本格的そうに見えたんだけどな」と、五島は言い訳をしていた。

確かにド派手な「中華料理釜山」の看板を遮る建築物が周囲に存在しないため、遠くからでもよく目立つし、店の外観は立派でいかにも中国という錯覚を覚えさせる。

主要幹線道路だけに交通量は多く、見かけにつられて入ってしまうビジターが後を絶たなかったから、O市の住民にあれだけ評判が悪くても営業できたのではないだろうか。

それが証拠に、駐車場に停まっている車は他県のナンバーが多く、県内ナンバーがあったとしても五島のようにO市から遠く離れた市町村の住民と思われる。

私はこの時初めて「釜山」がしぶとく生き残っている理由がわかったような気がした。

車に乗り込む前に「釜山」の駐車場へS県ナンバーの車が一台入ってきた。

五島はその車から降りてくる中年男性に駆け寄り、「この店ひどいですよ」と忠告。

腹いせの営業妨害をしていたが、私は止めなかった。

中華料理店釜山の最後

そんな来る客来る客に、トラウマを植え続けてきたであろう「中華料理釜山」がようやく閉店したのは、ミレニアムの西暦2000年を超えて数年経過した頃だ。

原因はおそらく「釜山」の隣に建てられた某宗教団体のO市支部の建物だろう。

「釜山」に向かって国道を車で走ればわかる。

そのお城のような建築物は、数多のビジターを毒牙にかけてきた「中華料理釜山」の看板を見事に隠していたのだ。

もう片方の対向車線側から見たら見えるが、看板につられて入ってくる客は単純計算で半減することになる。

よく中華料理店はつぶれにくいと聞くが、それは家族経営の場合であって、「釜山」のような比較的大規模の店は当てはまらないのではないだろうか。

それに、地元の人間に嫌われていた「釜山」が、ビジターをひっかけられなくなったら命取りだったはずだ。

相手が宗教団体だけに、まさに神罰と言えなくもない。

だが、「釜山」の悪運が尽きたのが30年以上のさばってきた後なので、さんざん悪事を働いた暴力団組長が96歳でようやく殺されたくらい釈然としないところがある。

それに悪魔を討伐して無辜のビジターを救ったことになるのが、霊感商法などで全国的に悪名高きうさん臭い宗教団体。

のさばり続ける悪に勝てるのは正義ではなく、より大きな悪だったということだろうか。

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2004年、足立区牛丼店の恐怖:クレーマー殺人事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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殺人事件の中には、被害者に一切同情できないものがごくまれにある。

被害者と加害者は「元加害者」と「元被害者」の関係、すなわち被害者が生前に殺されても仕方がないほどのことを加害者に行った結果、反撃もしくは報復されて死に至ったケースのことだ。

本ブログで取り上げる牛丼店の店長が執拗にクレームをつけてきた男を殺した事件、俗にいう『足立区牛丼店クレーマー殺人』は、まさにその典型たる事件とされ、現在に至るまで致し方なく凶行を行ってしまった加害者への同情と自業自得で、地獄に送られた被害者への侮蔑を以って語られる事件である。

真面目な青年

この事件の犯人となる市田武司(仮名・26歳)は、不動産事業や飲食店事業などを手掛ける企業の社員であり、2004年の事件当時、その傘下の大手牛丼チェーンのフランチャイズ店の店長だった。

市田は、同企業の系列の喫茶店で四年ほどアルバイトとして勤務。

その真面目な勤務態度から2004年6月に正社員に抜擢され、足立区の北千住にある牛丼店に配属された。

そこでも持ち前の責任感や接客態度の良さが評価されたらしく、わずか二か月後の8月に店長に昇進する。

牛丼店での勤務経験の短さもさることながら、26歳という若さでの店長就任は異例のことだったという。

市田が店長をやっていた牛丼店

こうして大抜擢された市田だったが、店長になって早々試練に見舞われる。

それは、店長就任後一か月も経たない8月下旬、市田の店に弁当を買ったという男から、一本の苦情の電話が入ったことから始まった。

その男によると、弁当を買って持ち帰ったら、それが横になっていたというのだ。

そして、その言い分と口調は、苦情というより言いがかり、クレームというより恫喝に近いものだったらしい。

あまりの剣幕に、店長である市田は謝罪したが、男の怒りは収まらない。

なんとその後、7-8回もクレームの電話をかけてきたのだ。

これは営業妨害以外の何者でもない。

いくら接客業であっても、本来ならこういった輩には強硬にして断固たる処置をとるべきであった。

だが、経験が浅い市田はやってはいけない行動に出てしまう。

何と、そのクレーマーの男の自宅に出向いてお詫びした挙句、弁当代として現金千円を渡してしまったのだ。

その現金千円は市田の自腹であったろうし、この件は自分の失態であるから当然であると、責任感の強い彼のことだから思ったことだろう。

そしてこれで解決したとばかりに、この件を本社に報告することはなかったらしい。

だが、それは大きな間違いであった。

そのクレーマー、墨田区東向島在住の保川英夫(仮名・36歳)は介護の仕事をしていたが、本性はとんでもないクズ野郎だったからだ。

保川は、その後も市田を何度か呼び出すなどして断続的にクレームをつけ続け、市田を追い込むことになる。

クレーマーに怒りの猛撃

9月11日、クレーマー保川は、何ら悪びれることなく堂々と店を訪れて弁当を注文。

この時に市田は店にいなかったが、今度も店員に対して文句をつけてきた。

「オイ!何で客に水出さねえんだよ!!」

待っている間に水を出さないことに腹を立てたようだが、そこまで怒るほどのことでもないはずだ。

しかしクレームを趣味にしているとしか思えない保川は、それでだけでは済ませなかった。

店を出た後に、またしてもクレームの電話をかけてきたのだ。

「店長出せ、店長!」

「どうなってんだよ、オメエの店はよ!」

「誠意ってもんあんのか?コラ!!」

しかも、今回は前回を上回る回数であり、それは翌日の12日まで続く。

常軌を逸した執拗さに、市田は「店の正常な運営ができない」と追い詰められたが、この期に及んでも、本社に相談をしようとしなかった。

どころか、再び自分一人で解決しようと行動に出る。

しかし、今回はまた元の木阿弥になるであろう謝罪ではなく、この問題の不可逆的且つ永久的解決を決意していた。

それは保川の殺害だ。

市田は、真面目な勤務態度と責任感の持ち主だったが、明晰な頭脳は持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

おまけに、パニックになりやすくて自制心も利かない男だったのは間違いないだろう。

9月12日午前11時ごろ、前も訪れて勝手知ったる墨田区東向島の保川のマンションを訪問した市田は、持参してきた刃物で横柄な態度で対応した保川の胸を一突き。

驚いて逃げようとする保川の背中にも刃物を突き立て、声をあげさせないように口も塞ぎつつ刺し続け、殺した。

クレーマー野郎が死んだことを確認すると、市田はそのままそそくさと立ち去った。

まさに天誅である。

保川の死体はその後、自宅に集金に来た宅配弁当店の店長に発見された。

この年、職を転々として介護職に就いたばかりだった保川は、懐具合が思わしくなかったらしい。

事件の二か月前の7月、ずうずうしくもその場で払うべき宅配の弁当代を「給料が出てから払うからツケにしてくれ」と頼んでいたが、そのまま8月を過ぎても払わずに連絡すらしていなかったのだ。

ゴキブリのような奴である。

保川は市田の店以外にも、ピザ店にクレームをつけていたことが後の調べで分かっているから、営業妨害を専門とする犯罪者と言ってもよい。それもチンケな。

だが、そんな二足歩行のゴキブリでも殺したのはまずかった。

宅配弁当店の店長からの通報を受けて事件の捜査を行っていた警察は、保川の電話の通話記録から、市田の存在を割り出す。

あの怒涛のクレーム電話のことである。

そして、事件から三か月後の12月11日、市田を殺人容疑で逮捕。

彼は保川を殺した後も逮捕されるまで、牛丼店の店長を続けていた。

事件現場の近く

その後

2005年6月23日、東京地裁は市田武司に懲役10年(求刑懲役14年)を言い渡した。

判決は、保川がしょっちゅう苦情を言ってきたことが殺害の動機につながったと指摘しながらも、「被害者に殺害されなければならないほどの落ち度はない。きわめて短絡的との非難を免れない」としたのだ。

やはりどんな事情があれ、殺人にはそれなりの判決が出る。

だが保川という男は「殺すことはなかった」かもしれないが、「殺しても構わなかった」奴ではあると個人的には思う。

日本の消費者は世界一極悪であり、接客する側が甘やかすからつけあがる輩が後を絶たないが、保川はその中でも、タチが悪い部類に入る。

そんな奴に哀悼の意を表する気はない。

どんな人間でも、死ねば仏なんて思わない。

保川のような男が殺されることもなく、その後も元気よくさまざまな店にクレームをつけ続けることがなくなったことは良いことだ。

そんな社会貢献をした市田だが、10年という時間を塀の中で失い、出所後も殺人という前科を背負って生き続けることになってしまった。

しかし、彼はまだ若い。

少々頭が悪くテンパりやすい欠点はあるが、天性の真面目さと責任感を持っているはずだから、やり直しは十分に利くだろう。

これくらいの過ちで人生を捨てることなく、立派に更生できると信ずる。

あと、この牛丼店を運営する会社だが、彼をもう一度雇ってあげてはいかがだろうか?

それも店長より上のポストで。

反社会勢力の暴力団ですら、抗争で相手を殺した組員は長い懲役を経た後に、「組のために体を張った功労者」として幹部のポストが約束されていた時代があった。

彼はまさしく店のために体を張ったではないか。

事実、この事件からしばらく、この牛丼店のその他の店舗へのクレームがなくなったというから、功労者だと断言できる。

彼を雇うことでイメージは悪くなるが、前科のある人間を雇うのは違法ではない。

全国津々浦々に展開して久しいほどの大手なんだから、それが原因で倒産するということもないではないか。

まっとうな会社だというなら、反社会勢力でもやっていること以上のことがやれるはずだ。

取り返しがつかないことをやった者でも、立ち直るチャンスを与えるという太っ腹なところを見せるべきであろう。

極論だが、真摯にそう思っている。

出典元―夕刊フジ・朝日新聞・毎日新聞

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カラアゲニスト・パーフェクトガイド(唐揚検定)


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私はカラアゲニストであり、揚師検定二級も持っています。

唐揚げは私の大好きな料理の一つです。

このブログにたどり着いた方の多くは、カラアゲニストという資格の名前を知ったからかも知れません。

まずは、唐揚検定試験を受けてみてください。

インターネットで受験できますし、無料で何度でも受けられます。

テストを受けてみると、意外と難しいと感じるかと思います。一言で唐揚げと言っても、奥が深いということです。

そこで個人的に、唐揚検定ガイドを作ってみました。

この解答を見てカラアゲニストになるのもアリなんですが、なぜその解答が正しいのかも理解できるように、私なりの解説をしてみました。

唐揚検定をきっかけにして、唐揚げのことをもっと理解し、もっと知りたいと思って頂けますと嬉しいです。

1)唐揚検定試験唐揚げの「唐」は現在のどの地域を指しているかきごうで答えよ。

  • A.印度 
  • B.中国 
  • C.西班牙 
  • D.高句麗 
  • E.佛蘭西

これは簡単ですよね。中国です。

唐揚の「唐」は、昔の中国の唐王朝のことです。現在の山東省のあたりです。

唐揚げの起源は奈良時代に遡り、遣唐使を通じて食物を揚げる技法が伝わったとされています。

江戸時代初期には、中国から伝わった普茶料理で「唐揚げ」と呼ばれ、江戸時代後期から明治時代にかけて広まったそうです。

「空揚げ」とか「唐揚げ」と記載されているのですが、一般的に「唐揚げ」と書かれるのは、このためとのことです。

ということで、答えば B です。

2)唐揚げとは何を使用して調理した料理か記号を答えよ。

  • A.鶏肉 
  • B.鳥肉 
  • C.もも肉 
  • D.むね肉 
  • E.油

ぱっと見、難しい問題ですね。どれを見ても正しい解答に見えます。

まずは最初の二つ A と B、鳥肉と鶏肉の違いを理解する必要がありますね。

「鶏肉」とは「ニワトリの肉」を指しています。鶏とはニワトリのことですね。

一方で「鳥肉」ですが、「ニワトリを含む鳥類全体の肉」を指します。

キジ肉を使った唐揚げもあるので、A も B も正しいということになります。

次に C と D です。「もも肉」か「むね肉」か。これは好みです。

むね肉はパサパサしてるから、という意見もありますが、料理の仕方次第で美味しく食べられます。つまり、C も D も正しいですよね。

この問題の答えは E です。この問題の解答は、「油を使用して調理した料理」と言わせたいのです。

3)唐揚げを作る際に粉にまぶして料理するのが一般的だが、この粉2種類の記号を答えよ。

  • A.からあげ粉 - ガーリックパウダー 
  • B.小麦粉 - 片栗粉 
  • C.小麦粉 - メリケン粉 
  • D.上新粉 - 小麦粉 
  • E.ガーリックパウダー - 小麦粉

これは、基本的な唐揚げの作り方を理解しているかを問う問題です。

ガーリックパウダーを使って味を変えることもありますが、それはあくまでオプションです。

また、日清などから唐揚げ粉というものが発売されています。唐揚げ粉を使えば手軽に唐揚げが作れるのは事実ですが、これも基本ではありません。

次に上新粉ですが、これも実際に使われることがあります。唐揚げのサクサク感を出すために、上新粉が決め手というのがあります。しかし、これも基本ではなく、オプションですね。

唐揚げは「小麦粉」と「片栗粉」を使います。つまり答えは B です。

日本唐揚協会の会長である「やすひさてっぺい」さんのオフィシャルウェブページに、材料や作り方が紹介されています。

4)代表的な料理例として鶏肉が挙げられるが、魚類ではどのような魚類が唐揚げに向いているか記号を答えよ。

  • A.蛸・烏賊 
  • B.イソギンチャク 
  • C.鰈・グルクン 
  • D.青魚 
  • E.白身魚

唐揚げというと若鶏の唐揚げを想像するので、この問題は唐揚げじゃないじゃん!と思っちゃうのですが、魚の唐揚げだって実際にあるんです。

例えば、グルクンの唐揚げ。海水魚の一種であるタカサゴは、沖縄ではグルクンと呼ばれています。

グルクンは、鮮度が落ちやすく淡白な味の魚なのですが、これを油で揚げることで臭みを消し、旨味をつけられます。これがグルクンの唐揚げです。

ちなみに、魚の唐揚げは、台湾やタイなどの南方の国々ではポピュラーな調理法です。

つまり、答えは E です。

ちなみに、野菜の唐揚げだってあります。

5)竜田揚げは唐揚げの一種であるが、唐揚げとの違いはタレに漬け込んだ後調理する点である。このタレは何と何からつくるか調味料の記号を答えよ。

  • A.にんにく - しょうが 
  • B.醤油 - ニンニク 
  • C.味噌 - 醤油 
  • D.みりん - 醤油 
  • E.酒 - にんにく

竜田揚げの作り方の基本を理解しているかを問う問題です。

「竜田揚げ」は、奈良県の生駒地方に流れる竜田川にちなんで付けられた名称です。ちなみに竜田川は、紅葉で有名です。

竜田揚げは、「肉や魚などに下味を付けて、衣(主に片栗粉)には味を付けないで揚げる」というのが調理法になります。

揚げた時に衣の厚い部分が白く、薄い部分は赤褐色に見えるのが、「川面に紅葉が映える風情を盛り込んだ料理」とされています。

日本発祥の竜田揚げは、ニンニクをほとんど使わず、下味は醤油とみりんというのが基本になります。

つまり、答えは D です。

6)正しい文章の記号を答えよ

  • A.名古屋の『手羽先』は甘辛いタレとコショウをじっくり漬け込み、それを揚げた物である 
  • B.宮崎県の『チキン南蛮』は鶏のモモ肉やムネ肉を使った、唐揚げを昇華させたおいしい食べ物である 
  • C.愛媛県今治市の郷土料理『せんざんき』はキジの唐揚げのことを指す

まず手羽先です。

手羽に塩胡椒をし、片栗粉をまぶし、それを揚げます。揚げた後、手羽にタレを塗り、胡椒をまぶします。漬け込むことはしませんので、A は間違っています。

次にチキン南蛮ですが、これは宮崎県発祥の鶏肉料理です。

鶏肉に小麦粉をふり、卵液を絡めたものを揚げ、甘酢に浸して作ります。

元来はむね肉を使用することが一般的でしたが、現在は、脂肪分が多くボリューム感があるもも肉を使う料理店が増えてきているみたいです。

つまり、答えは B です。

最後にセンザンギです。

鶏料理が盛んな愛媛県今治市に伝わる江戸時代からの郷土料理になります。

元々は、今治市に多かったキジ肉を使って揚げ物にした料理でしたが、現在では、下味を付けた鶏の唐揚げのことを指し、料理店によっては、骨付きで提供するケースもあります。

現在の形になったのは1930年代で、鶏を料理する際に残った骨付き肉を、タレに付けてあげたものが始まりとされています。

つまり、キジ肉には限定されていませんので、C も間違いです。

7)下記の地図の赤丸部分にある、唐揚げの聖地といわれる都市名を答えなさい。

  • A.大分県宇佐市 
  • B.福岡県行橋市 
  • C.福岡県福岡市博多区中洲 
  • D.福岡県北九州市 
  • E.大分県中津市

唐揚げの聖地がどこであるかを問う問題です。

大分県中津市です。大分県宇佐市という説もありますが、「中津市を唐揚げの聖地」「宇佐市は唐揚げ専門店の発祥地」とするのが、日本唐揚協会の認識となります。

カラアゲニストは、日本唐揚協会の試験です。これに従いましょう。

つまり、答えは E です。

8)下記の地図AからJより、「ザンギ」を食する地域を記号で答えなさい。

  • A    
  • B    
  • C    
  • D    
  • E    
  • F    
  • G    
  • H    
  • I    
  • J   

ザンギと言えば、北海道の料理というのが一般的です。

実際には、四国・中国地方の一部でもそう呼ばれていますが、北海道の文化として唐揚げという調理法にて料理されたものがザンギと言われています。

ちなみにザンギの発祥地ですが、北海道釧路市の飲食店と言われてます。

ザンギとは、食材に下味を付け、粉をまぶした揚げ物のことでで、唐揚げとよく似た料理です。

最も有名なのは、鶏肉のザンギですが、タコなど魚介類を揚げたものも、ザンギと呼ばれます。

ザンギという名前の由来は、中国語で鶏の唐揚げを意味する「炸鶏」に、演技を担ぎ「運」の「ん」を加えたものとされてます。

つまり、答えは A です。

ちなみに、中国語(普通語)で唐揚げは、炸鸡 (Zha Ji)と発音されます。この音をカタカナで書くなら、「ザーギー」ではなく「ザージー」です。なので、先ほどの説は、個人的にはどうなのかなとも思っています。

9)唐揚げを食べる際のマナーとして「レモン」の扱いで正しいものを記号で答えなさい。

  • A.皆が食べやすいように全体にかかるように絞りまぶす 
  • B.レモンをかけるゾーンとかけないゾーンをつくりそちらにのみかける 
  • C.レモンはかけずに各自が取り皿に絞り使用する

これは、唐揚げを食べる人のマナーに関する問題です。

私は唐揚げにレモンは合うと思っていますが、レモンが嫌いな人もいますし、レモンアレルギーの人だっているかも知れません。

それを考えると、自分の皿にレモンを絞り、みんなの食べる唐揚げと自分が食べる唐揚げを分けて考えるのがマナーと言えます。

カラアゲニストとは、自分のことだけでなく、他人のことも考えるべきなのです。

つまり、答えは C です。

10)唐揚げを食べる際のマナーとして「最後の一個」の扱いで正しいものを記号で答えなさい。

  • A.思い切ってすばやく自分の皿へ唐揚げを移す 
  • B.唐揚げを半分に割って、半分を皿に残し、半分を食す 
  • C.手を出さない

これも、唐揚げを食べる人のマナーに関する問題です。

半分に切って半分だけ食べるというのもありですが、二人だけで食べているとは限らないですよね。8人で食べてたら八当分にしますか?

自分は手を出さない、我慢する、というのもありです。

ですが、カラアゲニストとなる人は、最後の唐揚げ一つを見つけたら、素早く自分の皿に乗せましょう。唐揚げを愛するカラアゲニストに食べてもらった方が、唐揚げも幸せです!

つまり、答えは A です。

11)あなたの唐揚げに対する思いを書いてください。

この問題に正解はありません。

あなたの唐揚げに対する熱い思いをぶつけてください!

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広島の魅力: 浜田省吾ファン必見のスポット

2022年08月05日更新


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私の父親が浜田省吾のファンで、生まれた頃から浜田省吾の歌を聞いて育ちました。そして今、浜田省吾の大ファンです。

広島空港で飛行機から降りて、広島の地を踏む時や、新幹線で行って、広島駅の出口のゲートを通過する時、Show me your way, J.Boy!!! を毎回必ずやってます。

その時から、私の頭の中では、パラリラパラリラパーパパラ!と J.Boy の演奏が鳴りっぱなしです。

そんな浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめです。

私は毎年一回は、旅行で広島へ行ってます。出張を含めると、年に2、3回の時もあります。そして、私が広島に行ったら、必ず行く店があります。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

〒730-0023 広島県広島市中区弥生町 6-8

広島丸かじり・中ちゃん

広島市の繁華街の中にある鉄板焼きの店です。広島駅からは、徒歩15分くらいです。

広島丸かじり・中ちゃん

東京で鉄板焼きというと、海老や肉を目の前で焼いてくれる店のイメージが強いですが、大阪より西は、鉄板焼きと言えば「お好み焼き」がメインですね。

でも、この店で一番のおすすめは、ウニクレソンです。

名物・ウニクレソン

浜田省吾も、広島に帰ってきた時は、ウニクレソンを食べるそうです。

私も最近は、広島といえばウニクレソン!と言わんばかりに、広島に行くと毎回食べてます。

目の前の鉄板で焼いてくれる
広島お好み焼き

もちろん、広島お好み焼きや牡蠣や岩国レンコンも、鉄板で焼いてくれとても美味しいです。

広島の牡蠣
岩国レンコン

ちなみに、中ちゃんにはラーメンもメニューにあり、町支寛二や古村敏比古も、ここのラーメンが好きなんだとか。

中ちゃんのラーメン
中ちゃんのラーメン

昔から、何故かこの店には、音楽関係の人たちがよく来るそうです。ただ、中ちゃんのマスターは、何故だかよく分からないと言ってます。

浜田省吾を含め、いろんなミュージシャンのサイン入りポスターが、店内の壁に飾ってあります。

サイン入りの浜田省吾のポスターも飾ってある

この前行った時は、カウンターの端に、中島ユキノのライブのチラシが置いてありました。

中ちゃんですが、予約をしてから行くことをお勧めします。いつも満席で、外に10名くらいは並んでます。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

〒730-0027 広島県広島市中区薬研堀 4-9

浜田省吾バー・星の指輪

そして、中ちゃんで食欲を満たした後に行くのがここ、星の指輪というバーです。浜田省吾ファンなら、店の名前で分かりますよね。そう、浜田省吾バーです。

浜田省吾ファンが来ているバーなのですが、ファンじゃない人ももたくさんいて楽しめるカラオケバーです。カラオケが止まっている時は、ずっと浜田省吾の DVD が流れてます。

店内はこんな感じです。

浜田省吾のアルバムが飾ってある
浜田省吾のポスターもいろいろと

このバー、何が良いかというと、音響がとても良いのです。照明もかなり凝ってます。そして、このバーのマスターである省八さんが、手の空いている時はギターを弾いてくれたり、ドラムを叩いてくれたり、浜田省吾ファンの人たちがギターを弾いてくれたりしてくれます。

マスター・省八さんのギター演奏
マスター・省八さんのドラム演奏
マスター・省八さんが歌に合わせてギターを弾いてくれる

生演奏で歌ってる気分になれます。気分は正にロックスター!

スモークもあり、気分はロックスター!

星の指輪ですが、町支寛二と古村敏比古が、カンフル罪のライブを広島でやった後に、たまに来るそうです。店の中に、写真がたくさん貼ってあります。

カンフル劉罪のライブ
カンフル劉罪のライブ
カンフル劉罪のライブ

また、愛奴時代に浜田省吾と一緒にやってた山崎貴生(現: 劉哲志)も、広島でライブをやる時は、このバーで二次会を楽しんでます。私もこのバーで 3回お会いしてます。

劉哲志さん

バーのマスターである省八さんから聞きましたが、残念ながら、浜田省吾はまだ一度も来たことはないそうです。

浜田省吾ファンの方も、そうでない方も、カラオケが好きなら楽しめるバーです。ぜひ行ってみて下さい。

星の指輪ですが、スナック菓子くらいしか食べるものはありません。中ちゃんから徒歩 5分くらいの距離ですので、中ちゃんで食べてから行くのがオススメです。

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

おまけ(聖地巡礼)

おまけと言いながら、本格的に浜田省吾ネタです。ここからはディープに行きます。

広島と言えば、浜田省吾の生まれ故郷。浜田省吾の歌の中には、広島を舞台にした作品がたくさんあります。

広島へ行ったら、その舞台になったところを見てみたいと思うのがファンですよね。当然、私もいろいろ探して行ってっました。歌の舞台になっているところを見てまわることを、私は「聖地巡礼」と呼んでます。

個人的に、浜田省吾の住んでいた所の情報を集めては、そこに巡礼として訪問しています。

浜田省吾の生家(生まれたところを遠く離れて)

2017年11月。広島から尾道に移動し、尾道ラーメンを食べて(尾道ラーメンは尾道で食べなければ尾道ラーメンではないと言われ)から、竹原で泊まりました。

なぜ竹原買って、浜田省吾の生家を見るためです。

翌朝から出発です。

こんな山道を通って行きます。竹原って、広島の中では田舎な方ですが、その中でも、かなり田舎なところに住んでいたのですね。

浜田省吾生家につながる道

山道の手前で、住宅がいくつも並んでいるところを通るのですが、すれ違ったおばちゃんに、「また来た」みたいな顔をされました。ファンの人が来るんですね。

振り向けば遠くにあの子の眼差しは見えませんが、海が見えます。海の方にはコンビナートもあります。

浜田省吾生家から見た竹原の町

到着しました。ここが玄関です。誰も住んでおらず、鍵が閉まってます。

浜田省吾生家の玄関

玄関の前に、コンビニの袋が置いてあります。ゴミではないですよ。

ファンの人たちがここにやって来て、いろいろと書き込んたノートが入ってます。「今日で 5回目です!」とか書いてる強者もいました。

この袋ですが、私が最初にかけました。私が最初に行った時には、ノートがそのまま置いてあったのですが、雨に濡れて、そのうち読めなくなってしまうだろうと思い、持っていたコンビニのビニール袋に入れました。

ただ、これだとゴミにしか見えないので、広島に住んでいる浜友にお願いして、まともな袋に変えてもらっていますので、現在は、もう少しまともてなってます。

ちなみに、これが住所です。ファンの我々にとっては、ここは聖地です。ぜひ訪ねて下さい。

浜田省吾生家の住所はこれ

生家を横から見ると、こんな感じです。

浜田省吾生家を横から
浜田省吾生家、近づいて見るとこんな感じ
浜田省吾生家

「生まれたところを遠く離れて」は、ここを思い出して歌ってるんですね。

並木学院高等学校(予備校の湿っぽい廊下)

2016年10月。元々は予備校だったのですが、現在は高校になっています。ここがそう、「あの子を見つけた」予備校です。

私は Edge of the knife バージョンの「19のままさ」が大好きです。この高校にたどり着くちょっと手前から「19のままさ」をヘビロテして、到着した時は涙が出そうなくらい感動しました。ここで、あの子を見つけたのかと感動しまくりです。

元予備校である並木学院
元予備校である並木学院

さすがに中には入れないですので、横にまわってみました。「湿っぽい廊下」を発見。

「湿っぽい廊下」はここなのか?

浜田省吾ファンの仲間たちに写真を送ったら、みんな口を揃えて「確かに湿っぽい。。。」とのことでした。

初恋(海辺の田舎町)

江田島1回目

江田島といえば、浜田省吾が小学校、中学校時代に住んでいたところです。当然、ここにも聖地巡礼です。

2018年4月。広島市の南にある広島港の宇品からフェリーが出ているので、これに乗って行っちゃおう!と移動しました。

ちなみに元宇品は、浜田省吾が住んでいた所の一つです。

フェリーで江田島へ
ファリーから見た広島市の景色
ファリーから見た江田島の景色

しかーし!フェリーで到着したのは、江田島の一番北の切串港です。

ファリーから降りて、目的地の小学校(江田島警察署のそば)を調べたら、8キロくらい離れてます。しかも途中、山道っぽい。

8キロくらいはら歩けるのですが、山道となるとツライ。。。

「まいったなあ、もう一つの港に向かわないとダメだったんじゃん」と、江田島に上陸してから気づきました。

完全に事前調査不足でした。

バスに乗ろうと思ったのですが、バスは走ってないし、タクシーに乗ろうかとも思ったのですが、タクシーも全く走ってません。正に「海辺の田舎町」です。さすが、初恋の島。

Google マップで調べていたら、切串港から東に向かって行くと別の港があり、そこから呉に渡るフェリーが出ていることを発見しました。

「初恋」を聴きながら「海辺の田舎町〜♪」と歌いながら、江田島には1時間くらいしか滞在せず、呉に向かいました。一回目の江田島は撃沈です。江田島って広いのねということを思い知りました。

それでも「江田島から呉に向かうフェリーなのだから、省吾が中学校に通うために乗っていたフェリーと、途中からは同じ経路だよ。省吾が見ていた景色と同じ景色は見られるじゃん!」と、前向きな私でした。

江田島二回目

2020年11月。広島が緊急自体宣言に入る少し前のちょうどラッキーなタイミングで、再び広島を訪れました。

星の指輪で広島の浜田省吾ファンの友人と飲んで歌っていたら、「明日、車で江田島まで行かない?」という話になり、再度、江田島上陸をしました。

とうとう到着しました。浜田省吾の通っていた小学校です。現在は図書館になっています。

元小学校である江田島図書館

図書館の中に、浜田省吾コーナーが設けられています。さすが、我らの省吾!江田島のヒーロー!

浜田省吾コーナーが設けてあります

浜田省吾ファンの方は、この写真はご存知ですよね。この木のベンチが、今でも残ってます。

有名な写真「山田車庫」
真似して写真が撮れるようにベンチも用意されている

サングラスも用意してあって、このベンチに座って写真が撮れるんです。図書館の人たち、浜田省吾ファンの気持ちをわかってくれてます。当然、私もサングラスをしてベンチに座り、記念写真を撮りました。

図書館の一角にも、浜田省吾の写真の切り抜きや雑誌や本がたくさん置いてあります。もう感動しまくりです。

いろいろな新聞記事
書籍もたくさん

浜田省吾ファンの間では有名な「初恋のきた島」も置いてあります。

初恋のきた島

無料で持ち帰ることができる小冊子なのですが、これって、ネットオークションで売られているんですよね。そんなことするのって、浜田省吾ファンとして恥ずかしいです。

「初恋のきた島」は、この聖地である図書館を訪れた浜田省吾ファンだけの勲章のようなものです。

呉(この町のメインストリート、15の時通りのウィンドウに)

15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見た時、稲妻が俺の体駆け抜け、全ての夢が走り出す〜♪

2017年10月。呉といえば、まず、「終わりなき疾走」ですよね。

中学生の浜田省吾が、楽器屋の前を通った時に、飾ってあったギターを見て衝撃を受けたというのが、この公声堂です。

この写真は、江田島から移動した二回目の訪問の時のもので夕方だったのですが、一回目の訪問の時は昼間に行きました。残念ながら、今は道から見える形でギターは飾っておらず、店の奥の方に飾ってあります。

「稲妻が走った」楽器屋

店の前で写真を撮っていたら、店のおじちゃん(写真中央の人)に「また来てるよ」って顔で見られました。やはり、ここにも浜田省吾ファンが多く訪れるんですね。

「稲妻が走った」楽器屋

2021年12月14日に、4回目の呉を訪問しました。その際に、「稲妻の走った楽器屋」を見に行きました。店の前に自動販売機が増えてました。

2021年12月14日 4回目の訪問

前に昼間に行った時は気づかなかったのですが、通りのウィンドウにギターが飾ってありました。前からこれってあったかな?

エレキギターっだったもっと良かったのに。

2021年12月14日 4回目訪問

そして、呉と言えば、有名な曲「MONEY」ですよね。

MONEY を歌いながらいきましょう!

この街のメインストリート、わずか数百メートル〜♪

れんがどおり

寂れた映画館と〜♪

元映画館で、現在はショッピングモール

バーが 5、6軒〜♪

「バーガ5、6軒」は、この辺りかな?

ハイスクール出たやつらは、次の朝バッグを抱えて出てゆく〜♪ジャジャジャン!

2016年11月 呉1回目訪問
2016年11月 呉1回目訪問
  • 呉のメインストリートは、訂正します。以前、「意外と広くて長いじゃん」と記載しましたが、場所が間違ってました。正しくは「れんがどおり」が Money のあのメインストリートです。確かに数百メートルでした。
2021年14日 呉4回目訪問
  • 寂れた映画館ですが、現在は、ポポロというスーパーになってます。この中にポポロシアターという新しい映画館ができてます。さにれた映画館、見たかったなあ。
2021年14日 呉4回目訪問
  • ポポロの周りには、飲み屋はポツポツとあります。5、6軒以上は軽くありますね。ポポロのすぐ隣にはカフェやレストランなども多くあります。
  • 高校ですが、浜田省吾が通っていたのは、広島県立呉三津田高等学校です。ここで、窓の外見てるだけ(独立記念日)だったのでしょうか。

ちなみにこの高校の前には、こんな看板が立てられています。

2016年11月 呉1回目訪問

きっと、浜田省吾ファンのことでしょう!ファンの方、聖地である三津田高校へ行きたい気持ちは分かりますが、行動には注意してください。通報されるかも知れませんよ。私も学校の周りをウロウロして写真撮って、完全に変な人でしたから。

そして、ここが通っていた中学校です。ただ、名前が変わってしまっています。浜田省吾が通っていた中学は、二河中学です。現在は統合されており、呉中央中学になっています。

2016年11月 呉1回目訪問

大竹(パワーシャベルで削った丘の上いくつもの)

2020年11月。大竹に行ってきました。マイホームタウンや大ディーズタウンの舞台ですね。

2020年11月 大竹1回目訪問

溶けたタール、パルプのにおいの、何もかも閉ざされた My Hometown 〜♪

確かに、焦げたにおいがします。大竹に住んでいる人たちには申し訳ありませんが、確かに何もない町です。

「マイホームタウン」の中で、

パワーシャベルで削った丘の上いくつもの同じような小さな家どこまでも続くハイウェイ〜♪

と歌ってますが、この町にはハイウェイは見当たりませんでした。多少の脚色は入っているんですね。

大竹の工場
大竹の街並み
大竹の街並み

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2021年 おもしろ 中二病 料理 本当のこと 無念

私の理想の柿ピーはどれだ? – 柿ピーの理想の比率とは?


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酒を飲む時、結構な確率で柿ピーをつまみにしている。

特に好きってわけじゃないが、何にしようか迷ったら必ず柿ピーを買っている。

柿ピーと言えば、「亀田の柿の種」が真っ先に思い浮かぶ人が多いことだろう。

だが、私は「亀田の柿の種」だけは絶対に買わない。

なぜなら同商品は、私が理想とするあるべき姿の柿ピーではないからだ。

理由はピーナツが少ないから。

「亀田の柿の種」は他の柿ピー製品と比べても、ピーナツの割合が低いと思う。

柿の種とピーナツの比率は 7:3 だと標榜しているが、私は視覚的にどんなひいき目に見ても 8:2 くらいに見える。

だから私的には「亀田の柿の種」は論外。

では、他社の柿ピーはどうかと言うと、やはり私の理想とする柿の種とピーナツの比率ではない。

私の中での柿の種とピーナツの黄金比率は 4:6。

3:7 でも構わない。

つまり柿ピーと言うよりも、ピーナツ優勢の「ピー柿」であることが望ましいのだ。

だが、世の人々は柿の種派が多数派らしく、どの柿ピー製品も柿の種優勢である文字どおり「柿ピー」ばかりが市場に並んでいる。

だから私は柿ピーを買う時は、

いつもピーナツも一緒に買って来て、それを柿ピーに足して「ピー柿」にしてから食べている。

そんな強引なマネをしている。

だが、実はそんなことをしなくてもよかったことを最近知った。

市販されているのを発見したのだ。

ピーナツ優勢の柿ピーが。

普段あまり行かない『食品館あおば』で偶然見つけたその商品、名前だけで瞬殺された。

その名もずばり「ピー柿」。

何というまんまであろう。

『ピーナツ好きにオススメ!ピーナツたっぷり 60%』、私の理想とする黄金比率とも一致する。

渡る世間に鬼はない。

日本は柿の種派の一党独裁ではなかったのだ。

長年存在することさえ期待することがなかった商品が市販されていた事実に、日本の市場経済の良心と光明を見た。

衝動買いをしたのは言うまでもない。

だが、家に持って帰り、改めてよく見てから気づいた。

なんか、言うほどピーナツ多くないんじゃないか?

袋を破って皿に開けてみた。

やっぱりピーナツ少なくね?

数えてみた。

結果、柿の種:ピーナツ = 230:138。

騙された!

なにがピー柿だ!

どこがピーナツ 60% だ!

普通に「柿ピー」じゃないか!

もしかしてピーナツの重量が 60%?

いや、個数で測るべきだろう。

私は結局いつもどおりピーナツを新たに買って来てピーナツを増量させながら、少数派の消費者の硬いニーズにすら答えられない日本企業と、それを包括する日本経済の将来に失望を感じざるを得なかった。

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2020年 おもしろ 中二病 料理

元柿泥棒です – 秋の味覚:柿の魅力と私の思い出

ついこないだまで暑くてかなわなかったと思ったらもう11月、季節はもう晩秋。

実りの季節、食欲の秋である。

食欲の秋の味覚と言ったら、私は柿を真っ先に思い浮かべる。

故郷の実家で暮らしていた頃は、柿に不自由したことがなかった。

近所の蒲山さんという半兼業農家の庭に大きな柿の木が何本もあり、我が家は毎年柿をお裾分けしてもらっていたからだ。

その柿の木のうちの二本は蒲山邸の塀近くに生えており、枝が塀を越えて道路側までせり出しているため、たわわに実った柿に手を伸ばせばすぐに届く。

中学2年生の頃からシーズンにその下を通り過ぎると、いつも半自動的に私のズボンのポケットには柿が入っていた。

勝手に失敬していたからだ。

黙っていてもお裾分けしてくれるのにこんな悪事を働いていたのは、柿の熟度への私独自のこだわりからである。

柿が一番おいしいのは完熟になる直前より前、ほんのり甘く果肉が固いくらいの熟度のものであると、このころから確信していた。

それより前や後はダメだ。

人間の年代で換算すれば、高校2年生から大学1年生くらいまでが好ましい。
つまり十代後半。

私はそれぐらいが、柿の食べごろだと今でも思っている。

あのまだ固く、出し惜しみ恥じらうような甘さこそがたまらないのだ。

だからそれを過ぎた柔らかい柿は無理だし、ましてや干し柿なんて論外!

成熟した色気や美魔女なんて認めない。

あくまで柿の話だからね、柿。

18歳、私的食べごろ

ところがくだんの蒲山さんがお裾分けしてくれる柿は、私的適齢期を大きく越えているものばかりなのだ。

人間の年齢だと25歳以上くらいが平均で、三十路を超えた年増まで混じっている。

祖母や両親には好評だったが、思春期の私の食指は動かない。

20代後半、ド完熟
40代後半、過完熟で発酵中

とんでもないことをしていたと今では反省しているが、その時は「食べごろをくれない方が悪い」とばかりにシレーっと柿泥棒を働いていた。

蒲山家の柿をいただく時は、一撃必殺がマストだ。

何食わぬ顔で柿の木まで近づく間までに標的を定め、柿がたわわに実って下までしなった枝の下まで来た瞬間に手を伸ばし、両手を使って瞬時にもぐ。

気分はまるで、大戦中B29を迎撃しに向かった戦闘機「飛燕」のパイロットそのもの。

もぐのに失敗した場合はそのまま通り過ぎ、深追いはしない一撃離脱戦法を取っていた。

むろん、前後に誰かの目が光っていないか確認するのは言うまでもない。

あの時の感覚は今でも覚えており、実家に帰省して蒲山さん宅近くに行くと、いつもあの興奮が罪悪感と共によみがえる。

このように戦利品が得られたら、家に帰る前に全部食べてしまう。

証拠を隠滅し、完全犯罪を果たすためだ。

私は柿を切って食べない、どころか皮も剥かない。

そのままワイルドに皮ごと丸かじりである(さすがにヘタやタネは食べないが)。

これは多分に、我が家の習慣によるものだ。

子どもの頃から、祖母が柿をおやつに出してくれた時は、いつもそのまま出てきた。

他の果物、リンゴや梨などは律義に皮を剥いて切って出してくれるのに、柿だけは、なぜかそのままなのだ。

祖母によると、昔からこうしてたとのこと。

祖母の息子である私の父も何の疑問も持たず、そのまま柿をかじっていたし、母もそれになじんでいた、

人様のお宅で柿をごちそうになった時、リンゴや梨と同じく皮を剥いて切られて出てくると「何もそこまでしてくれなくてもいいのに」と思うくらい、私の中では常識である。

皮あっての柿なのだ、皮なしの柿など柿ではない。

私にとっての皮なしの柿は、女子高生フェチの男性にとって制服を着ていない女子高生と同…。

かなり不快な喩えをして申し訳ないが、私にとって皮のない柿がどんなものか、わかる人には十分わかっていただけたものと信ずる。

こうして私は中学校を卒業するまでバレることなく、二年連続秋になると違法な柿狩りをしていたが、それを知らないであろう蒲山さんは、毎年柿をお裾分けし続けてくれた。

高校生になってから、何てことしたんだろうと思うようになって現在に至る。

高校を卒業して大学生になった頃、蒲山家の柿の木は家の増築により残らず伐採されたため、柿のお裾分けはなくなった。

私は上京して故郷を離れたが、帰省した際には時々、お土産を蒲山家に持って行く。

罪滅ぼしのつもりなんだが、まだ中学生の頃柿を盗んでいたことは告白していない。

蒲山さん夫妻も80代のお年寄りだ。

今年こそ謝罪しよう。

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2020年 おもしろ 中二病 料理

ポテトチップス愛好者必見!カルビーポテト丸の魅力

『カルビーポテトチップス』を無性に食べたくなる発作が時々起こる。

食べたくなるのはもちろん『うすしお味』。

幼少の頃から親しんだ、単純だが安定感のあるあの味だ。

私の中で『カルビーポテトチップスうすしお味』を上回るポテトチップは存在しないし、今後も現れないだろう。

ポテトチップの永遠不変の決定版であり、

スナック菓子における『スーパーカブ』か『AK47』的存在だとすら思う。

この“『カルビーポテトチップス』を無性に食べたくなる発作”だが、

『カルビーポテトチップスうすしお味』を食べれば当然症状は収まる。

だが、発作を鎮めたとしても後に残るのは充足感ではなく、後味の悪い満腹感だ。

やはり、健康に対して好ましいものでは決してないからな。

この発作を抑えるための療法のおかげで最低5年くらいは健康寿命が縮んでいるはずで、 「余分なカロリーを摂取してしまった」「また無駄金を使ってしまった」などと気に病む精神的副作用も深刻である。

それでもこの発作は何の前触れもなく急激に発症し、

私はその度に即効性のある対症療法を施してしまっている。

最近、そんな私の急性発作を激しく誘発し、重症化させる写真をネットで発見してしまった。

それはこれである。

カルビーポテト丸!

何というまんまであろうか!!

これを初めて見た時は勤務中だったが(たまたま息抜きに検索しただけだ)、まんますぎて問答無用で食べたくなったために職場を抜け出してコンビニに行ってしまった。

この文章を書いている現在もポテトチップスを食べながらである。

じゃなきゃ、何の症状も発現させずに冷静に書けやしない。

私と同じ症状に苦しむ方々の中にも、これを見て発作を起こしている方は少なくないことだろう。

このカルビーポテト丸、むろん車両や原油を運ぶ船ではない。

文字どおりカルビーポテトチップスの原料となるジャガイモを運ぶことを主任務とする馬鈴薯運搬船なのだ。 同船の貨物室はジャガイモを運ぶために断熱構造や換気・空調設備を有し、定温輸送する能力を持つ。

毎年夏から冬にかけて、産地である北海道の十勝港からカルビーの工場のある広島港又は鹿児島県の谷山港に向けてジャガイモを輸送している。

現在のカルビーポテト丸は三代目で、所有者はエヴァラインという海運会社となり、船名は『ポテト丸』に改称された。

『ポテト丸』はコンテナに積んだジャガイモを約850トン輸送可能で、

オフシーズンにはプラントなどジャガイモ以外の貨物も運んでいるが、主な荷主はもちろんカルビーで、ジャガイモ運搬が本分であることに変わりはない。

『カルビー』という枕詞こそ消えたが、『ポテト丸』だけでも十分殺し文句である。

この文章を書いている途中でも、ソッコーで一袋開けてしまった。

私の重症化してしまったこの病、東洋医学的に根本から治す必要があるようだが、カルビーポテトチップスうすしお味も食べられない辛い後半生を送るつもりもない。

完治させる必要もないだろう。

対症療法をも含めた併用療法で対処し、病と適度に共存もいいじゃないか。

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2020年 おもしろ ラーメン 悲劇 料理 無念

「行列ができる店」から追い出されたことありますか?


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ラーメンブームなる風潮がいつからいつまでか、それともまだ続いているのか知らないが、美味いと評判で雑誌やテレビに取り上げられたりする「行列のできるラーメン屋」は、今でも各所に存在する。

だが、そういう店の中には店主や店員が横柄で、「嫌なら食うな」式の接客態度で客をぞんざいに扱うところがある。

まったく、売れてるからって偉そうに。

店主のこだわりだか何だか知らんが、そういう店には人一倍腹が立つぞ!

なぜなら自慢じゃないが、

私はそういう店から追い出されたことがあるからだ。

今でも忘れやしない、18年前の2002年10月のことである。

当時も東京には行列のできるラーメン屋があちこちに存在し、ラーメンマニアたちが長蛇の列を作っていた。

私もラーメンが大好きだが、いくら美味くても行列に並ぶのには抵抗があった。

食べ物のために行列を作るなんて、

難民キャンプかよ?

この飽食の国においては、いささかあさましい行為ではないか?

という考えを当時から持っていたためである。

そんな誇り高い私が、じゃあなぜその店に行ったかというと、当時働いていた職場でよくつるんでいた柴田という男に無理やり連れて行かれたからだ。

彼はラーメン店めぐりを生きがいにしている強度のラーメンマニアで、「騙されたと思って」とか「何事も経験だから」などとかなり強引だった。

そんな柴田に根負けした私もバカだった、と今は思う。

あの日から現在まで、時々思い出しては夜中にカンシャクを起すことがあるし、

「騙されたと思って」と「何事も経験だから」という言葉は、私にとって今でも禁句だ。

さて、そのくだんのラーメン店「○○家」は新宿某所にあり、我々が開店一時間前の10時に行くと、もうすでに列ができていた。

写真はイメージです。本内容とは関係ありません。

行列ができていることに、私の顔がさっそく不機嫌でゆがんだのを見た柴田は、

「ラーメンってのは、行列に並ばなきゃ美味くないんだぜ」

などと、もっともらしさのかけらもない屁理屈を言って、私を余計イラつかせる。

「ここは豚骨醤油ラーメンの店でさ、スープはこってりで麺は太目オンリー。でもちょっと魚介のダシも入ってるみたいで…」

11時の開店までの間中、後ろに並ぶ柴田のどーでもいいラーメンの蘊蓄を聞かされ、私の機嫌は静かに、そして確実に悪化してゆく。

その間にも客は増え続け、我々のいる位置はすでに真ん中くらいになっていた。

そして待ちに待った開店時間11時、店の入り口が開いて店員が姿を現し、先頭の客から店内に誘導し始める。

我々も前に進んで行ったが、私はその誘導している店員の言葉遣いが気になった。

「はい、モタモタしない!」「そこ、二列にならないで!」

と、完全な命令口調なのだ。

何と感じが悪い店員だと私は思ったが、店内は意外と収容人数が多いらしく、入口はもうすぐそこ。

とりあえず評判のラーメンに、いの一番でありつける。

と、柴田より前方を進む私が、入口をくぐろうとした時だった。

「はい、ここまで!」

誘導の店員の一人が、

私の襟首をつかんで、後ろに引き戻しやがった

それも「ここで待って」と、そのまま私の襟首をつかんで、引っ張って行くんだから信じられない。

私はかなりムッとなったが、その短髪の若い店員は私の方を見ようともせず

「入れ替え制ですんでぇ、しばらくお待ちくださいねぇ」

と後方の並んでいる客にぞんざいに言い放った。

これはこれでかなり腹の立つ体験だが、この時点で帰ればよかったと、今では思う。

柴田も柴田で、「おいおい慌てるなよ、みっともねえぞ」と、まるで私が悪いかのようなことを言うんだからむかつく。

待っている間、十五分後くらいから食べ終わった客が次々出てきて、三十分が過ぎた頃には店内に客は残っていなかった。

どうやら時間制で、それもたった三十分程度で食べ終わらなければいけないようだ。

「今片づけしてるんでー、そのまま待っててくださーい」

出てくる客に挨拶もせず、くだんの短髪は相変わらず横柄だ。

そして中から「オッケーです」の声と共に、「はいどうぞー」とようやく入店が許されたが、店中の店員も「いらっしゃいませ」の一言もない。

代わりに「そこの食券販売機で食券買って」とか「あー、こっち座って奥に詰めて」とかの指図が待っていた。

メニューは『店主ラーメン』のみで、一杯800円。

後ろの方で一名の女性客が万札しか持っていなかったらしく、両替を求めていたが「近くにコンビニあるから、そこで」とにべもなく断られていた。

店は厨房を囲むような形のカウンター席とその背中向かいのカウンター席で構成されており、厨房の店員は不愛想で、外の店員同様接客をする態度には見えない。

厨房の奥に、五十がらみでモジャモジャな白髪交じりの男が、腕組みをして仁王立ちしており、それがどうやらこの店の主と思われる。

我々は店の端の厨房に面したカウンター席に座ったが、我々の後ろの壁に何やら大きな額縁に入った箇条書きがあるのに気づいた。

その箇条書きはこの店で守るべきマナーらしく、毛筆で記されていた。

        客心得

その一、私語は禁ずる。

その二、携帯電話を使用するべからず。

その三、タバコ、ガムは禁ずる。

その四、飲食時間は三十分とする。

その五、具、麺はもとよりスープまで飲み干すべし。

目を疑った。

「客心得」、「禁ずる」、「~べし」だとう?

他にもいろいろあった気がするが、

箇条書きのとどめは「以上を守れない者は去れ 店主」だったのをはっきり覚えている。

この店はおかしい。

隣の柴田を見たら「仕方ない」という感じで、首を振っていた。

これも、有名ラーメン店では常識だとでも言う気か?どんな常識だ?

メニューは一つだけで、それも人数は決まっているので、客が全員席に着くまでの間に調理が始まっていたらしく、入店して五分も経たないうちに、唯一のメニュー『ラーメン』が出来上がり始めた。

手抜きもいいところじゃないか?

第一、これだったら食券にする意味ないだろう?

と限りなく心の中でツッコミを入れていた間に、最初に入店した私のところへ、真っ先にラーメンがやって来た。

ごく自然に早速箸をつけようとしたら、「全員そろってからにしてください」と、またしても、不愉快な指図を厨房の店員から受けた。

こうして、店内の客全員にラーメンが行き渡るまで待ちぼうけをくらわされたのだが、これでは待ってる間に麺がのびるではないか。

「はい、よし!」

ようやく食べることを許されたのは、全員にラーメンを運び終えた後の店員の号令によってであり、それを合図に客が一斉にラーメンをすすり出した。

それにしても「はい、よし」って、我々は犬か政治犯なのか?

私も隣の柴田もラーメンの一口目を口にした。

ここまで偉そうにするからには、相当美味いんだろう。

と信じつつ。

が、結論、

大した味じゃない。

いや、むしろ不味い、少なくとも私の味覚では。

最初、そんなはずはないと何口かすすってみたが、劇的に美味く感じることはなかった。

豚骨醤油味のはずだが、醤油が入っていると思えないくどい豚骨味で、それがかつおだしのような香りと合わさって、私の口内で不快に広がってゆく。

麺もコシがなく、きっとさっき待たされた間にのびたからだろう。

ラーメンイメージ

同時に、これまでの接客態度への怒りが、じわじわと増してきた。

この程度の味で、あそこまで偉そうにしてやがったのか!

隣の柴田もさほど美味いと感じていなかったらしく、「客心得その一」を破って私に話しかけてきた。

「オリジナリティーが感じられない、スープなんか池袋の××屋か荻窪の●●軒の劣化版だし、麺もダメ、チャーシューは横浜の…」

と、ここのスープと同じくらいくどく、ラーメン通を気取った批評を小声でしてきた。

「要するに大した味じゃないよな」

私もボソボソ応じる。

その時だった。

「おい兄ちゃんたちさ、文句あるなら帰っていいよ」

知らない間に、の中央で仁王立ちしていた店主が私たちの目の前にいた。

さっきのを聞いていたらしい。

「おい、二名さんお帰りだ!」

店主は私語厳禁の掟を破られた上に悪口を言われて怒り心頭らしく、皆に聞こえるような大声で言ったため、他の客が一斉にこっちを見た。

「あ、すいません。黙って食べます」と柴田は謝ったがもう遅かった。

「二名さんお帰りだから、金返しとけ」と店主は一方的に店員に命じる。

無茶苦茶だ!まさか追い出されるとは思わなかった。

そして店員に促されて店を退去させられる我々に、店主は最後に吼えやがった。

「こっちはな、命がけでラーメン作ってんだよ!!」

この男は、歪んだ職人気質を完全にこじらせ、勘違いしている。

命がけであの味かよ?

そしてラーメンだけじゃなく、接客にも多少は命をかけろ!

店内の客だけではなく、外で行列を作っている客の目にも、店内から響いた店主の咆哮から我々が追い出された客だとわかったらしく、好奇の視線を浴びて、とんでもない屈辱だった。

「なんなんだよ!この店!」

私は大勢の前で恥をかかされたから、腹が立ってしょうがなかったが、柴田は、

「いや、店追い出されるのはラーメンマニアにとって勲章みたいなもんだから」

と、またしても苦しいことを言い出した。

だがその割に声は震え、顔は怒りで真っ赤なので、強がりなのは見え見えだ。

路肩に駐輪している自転車を蹴飛ばしたりして、大荒れである。

その後「マニアじゃないオレにとっては完全に生き恥だ」と言った私との間で、

「オメーが大した味じゃないって言うからだろ」

「話しかけてきたのはお前だ」

という口論に発展、その日以降、私は公私ともに柴田とは疎遠になった。

全く信じられない店であった。

あれはラーメン屋ではなく、SMクラブの一種だったとしか思えない。

しかし、そんなラーメン屋風SMクラブの存続を、いつまでも許すほど社会は間違っていなかったようだ。

その五年後、所用があって長らく禁断の地になっていたラーメン屋「○○家」のある新宿某所に行ってみたら、インド料理屋になっていた。

ネットで探しても見当たらなかったから、閉店したんだろう。

悪が滅んでめでたしめでたしである。

とは言え、このむかつく体験は忘れられやせず、店主をあの店員たち共々高温の鍋で煮込んでやりたい気持ちは、今も変わらない。

私はラーメンを今でも好きだが、行列のできるラーメン屋だけは行く気しないのは、どうしてもあのラーメン屋「○○家」を思い出してしまうからである。

それに最近では、行列ができるような名店の味を再現したカップ麺や冷凍チルド食品が売られているから、わざわざ行かなくてもよいだろう。

通販の「日清行列のできる店のラーメン」とかでも、それなりの味が楽しめるのだ。

そりゃ、直接店に行って食べるのが一番かもしれないが、行列に並んだのに大した味じゃなくて、おまけに偉そうな態度を取られたりして嫌な思いをするのはごめんである。

だから、まず冷凍チルド版を試してから行っても、遅くはないのではないだろうか?と私は考えるのだ。

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サバ水揚げ高日本一・茨城発 鯖に合う酒


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友人に紹介され、「鯖に合う酒」の存在を知りました。日本酒と焼酎があります。

焼酎:SABA de CHU

日本酒:SABA de SHU

鯖をより美味しく食べてもらう」ために作られた酒だそうです。鯖の水揚げ高日本一を誇る、鯖大国の茨城県で作られました。

茨城県は鯖の水揚げ高日本一!そんな茨城県の吉久保酒造から鯖専用の「サバデシュ」が発売されました。

吉久保酒造

鯖に合うとは言うけど、どんなもんだろう?という感じで買ってみました。面白そうだし、ちょっと興味あったので。

今回、私の買ったのは焼酎の方です。

瓶にはリキュールと書いてあります。失敗したな、甘いのかな?とちょっと後悔しました。

せっかく買ったのだし、とりあえずと思い、一口飲んでみると、ほんのりレモンの味。甘さがないと言えば嘘になりますが、甘い酒という印象はないです。

早速、鯖缶(味噌煮)が家にあったので、鯖と一緒に試してみました。

鯖の味噌煮を一口、その後にSABA de Chuを飲んでみると、確かに合う!最初の試しのみの一口とは違う味が感じられます。

そして鯖の味噌煮をもう一口。SABA de Chuを飲んだ後の鯖の味噌煮も、さらに美味しく感じられます。

ここで思ったのですが、この鯖に合う酒というのは、この酒単体で完成ではなく、鯖と一緒になって、初めて完成形になるのだなということです。

次に、しめ鯖でも試してみました。単に、味噌の味がないので、もっと鯖の味を楽しめられるかなという感じで。

またSABA de Chuを一口。そしてしめ鯖を一口。

美味しいのだけど、しめ鯖よりも、鯖の味噌煮の方が合うなというのが個人的感想です。

どの鯖料理に合うかは、個人の好み次第になりそうですが、鯖に合うというのはその通りだなと感じます。

次は、日本酒の方の「SABA de SHU」も、試してみたいと思います。

インターネット上のコメントを見ていると、この日本酒はちょい辛口らしいです。辛口の日本酒が好きな私にはバッチリです。

次に試す時は、日本酒と鯖の塩焼きかなと思ってます。

今回ご紹介しました「鯖に合う酒」は、以下のリンクからご購入頂けます。是非、お試しください!

SABA de SHU サバデシュ 720ml

価格:1,162円
(2020/9/13 12:08時点)
感想(1件)

茨城県 明利酒類株式会社 SABA de CHU(さばでちゅう) 720ml

価格:1,518円
(2020/9/13 12:10時点)
感想(0件)

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激辛は正義なり – 辛さを極める!オススメのラーメン


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辛い食べ物、激辛が好きだ。激辛にまずいものはない、激辛は正義だ。

カレーハウスココ壱番屋では5辛以上しか食べないし、蒙古タンメン中本では北極ラーメン以外は注文しない。もちろん完食しているのは言うまでもない。

日本人ばなれした辛味耐久性と嗜好性を有すると自負する私は、日本人に生まれたことを悔やんでいるくらいである。

そんな私は家でインスタントラーメンを作ることがたまにあるが、軟弱なメイド・イン・ジャパンには魅力を感じない。

私が選ぶのは辛党の舌と胃袋をガッツリ満足させてくれるメイド・イン・コリア、韓国製のインスタントラーメンだ。

韓国のインスタントラーメンと言えば農心の辛ラーメンが有名だ。

だが、あんなものは私ほどの本格的辛党に言わせれば全く大したことはない、辛ラーメンを辛いと言っている人は辛党失格、人生損をしている。

私のような本物が選ぶのはオットギ・熱ラーメンだ。

辛党を名乗る方ならこの熱ラーメンのうまさが分かるはずである。

「体が熱くなるくらい辛い」というコンセプトだが、全くその名に恥じない辛さと味わいであることを保証してもよい。

他の韓国ラーメンと同じく、沸騰させたお湯に麺・具材・粉末スープを同時に入れて煮込む形式。

煮込みラーメンなので、麺は伸びにくく、モチモチと程よい歯ごたえがある。

肝心のスープは真っ赤で見るからに辛そうだが、見掛け倒しではない。

この激辛党の私の装甲車のような舌ですら確実に刺激を感じ、そのスパイシーさは敵対的ですらある。

冬にこれを食べたら、部屋に暖房はいらない。胃袋に到達する頃には体温は確実に上昇しているからだ。

袋に入っている具だけで足りないならば、自分なりに具をアレンジして入れてもよい。私はいつもネギ・ハクサイ・鶏肉を入れて煮込んでいる。

麺はもちろん、スープまで飲み干せば健康的に罪悪感を覚えざるを得ないが、その罪悪感は銀行強盗を成功させたような爽快感を多分に含む。

だが、辛さだけならばこの熱ラーメンの上を行くラーメンがある。

それは同じく韓国のトゥムセラーメン。

韓国激辛ラーメンの総大将だ。

激辛の本場・韓国でも辛すぎて食べれない人がいるほどで、世界一辛いラーメンとも呼ばれている。

私は熱ラーメンに飽き始めた頃、ネットでこのトゥムセラーメンの存在を知り、通販で購入して挑戦してみたことがある。

はっきり言ってナメてた。

熱ラーメンよりちょっと辛いくらいだろうと、

韓国はもう完全に私の軍門に下ったと、軽い気持ちで食べてみたら…。

辛い!!

油断していた分、効いた!

口に入れてからしばらくは大したことないと思っていたが、後から突き抜けるような辛さが舌を侵襲する。

韓国をナメすぎて、返り討ちに遭ってしまった気分だ。

その後、生卵を落とせば何とか食べることができることが分かったが、私の敗北である。

熱ラーメンとは別次元の辛さだったのだ。

辛さを弾丸とその威力に例えるならば、辛ラーメンは38口径のピストル弾、熱ラーメンは12.7ミリの重機関銃弾だが、トゥムセラーメンは劣化ウラン弾だった。

香りや麺の歯ごたえはなかなかのものであるが、何しろ辛い!どんな辛い物を食べても水を飲まない私が、水をガブガブ飲んでしまった。

麺は何とか完食したが、スープは…捨てた。

これを食べている時の私は汗で顔が溶解して一人サウナの状態で、端から見たらさぞかし閲覧注意な醜さであったことだろう。

よって、トゥムセラーメンは熱ラーメンをすでに制圧し、「我こそは真の辛党なり!」とおっしゃる方にはぜひ挑戦していただきたい一品、韓国インスタントラーメン最後の砦である。

実に手ごわい対戦相手となることを保証する。 スープの一滴も残さず完食し、なにとぞ私の無念を晴らしていただきたい。

ご紹介したラーメンを、みなさんも試してみませんか?激辛ラーメンライフをお楽しみください!

農心の辛ラーメン

オットギ・熱ラーメン

トゥムセラーメン