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嫌老青年の主張 ~現代の高齢者は敬われる資格がない~

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私は、某大手運送会社のY運輸で働いていたことは、当ブログで何度も言及している。

アルバイト時代も含めれば、十年以上も勤務してしまった。

まあ正直言って、社会には必要な仕事の一つなのかもしれないが、荷物を仕分けたりするような単純な作業で誰もやりたがらない夜勤だったせいもあるのか、浮世離れした人間が多かった気がする。

勤務していた十年の間に、実に多くの怪人物に出くわしてしまったものだ。

そして、今回ご紹介する加賀雅文も、間違いなくその範疇に入るであろう理由は、極端な屁理屈で理論武装された主義主張と行動原理を有していたからである。

見かけによらない男

加賀は、私と同い年の同学年で、2003年(平成15年)だったその当時28歳。

何年かある大手企業でサラリーマンをやっていたらしいが、その会社を辞めてから、アルバイトとしてY運輸に入ってきた。

パッと見、礼儀正しく、おとなしそうな男である。

働き始めのころは、特に問題を起こすこともなく勤務していたから、あまり目立った印象はない。

しかし、それは二週間ほどで変わることになる。

加賀は、いつも大きな荷物を仕分ける係をやっていたのだが、その日は腰が痛くなったとか言って、一番肉体的負担の軽いベルトコンベアから流れてくる荷物を引き入れる係をやろうとしていた。

我々の部署の班長である新井は放任主義で、人員の配置については、その多くをアルバイト同士の暗黙の了解や話し合いで決めさせている。

そんなこともあって、そこはいつも東野という五十代のおっさんがやることになっていた場所であったが、この日は遅れて来るらしいので空きができていたのだ。

作業が始まって一時間後、東野が出勤して来た。

東野は遅れてきたくせに、いつもの楽な場所をやろうと、そこで作業している加賀に「オイ、交替交替」とか言って、自分に替わらせようとしていた。

このおっさんは、いつもこうだ。

「俺は腰が悪いんだ」とか言って、一番楽なその場所に別の誰かがいると、必ず譲らせようとする。

だが、加賀はその場所を離れようとしない。

東野に何か言われて答えている様子だったが、それが穏やかではない雰囲気に発展していっているのが、遠目からも分かった。

やがて「あ?俺だって腰が痛えんだよ!」とかいう加賀の言葉が聞こえてきて、東野がまた何か言うと、

「今日くらいいいだろ?!」とか「いっつも楽なトコばっかりやってんじゃねーか!!」とか「ふざけんな!同じ給料だぞ!!」とか怒鳴り始めた。

あの大人しそうな加賀とは思えない剣幕で、ドスもかなり効いており、普段偉そうな東野もその迫力に、「いや、その、だからさ…」とか言っててタジタジだ。

さらには、

「体が動かねえなら、いっそのこと家で死んでろ!!!」

とまで言い放った。

やがて班長の新井が飛んできて間に入ったのだが、結局、新参者の加賀は古株の東野に楽な場所を譲らされ、一番きつい元の場所に強制送還されてしまった。

加賀がいなくなると、東野は「なんだあのヤローは?ふざけやがって!」とか、急に威勢がよくなって悪態をつき始めていたが、おさまらない加賀の方は、「年取ってるからって、そりゃおかしいじゃないですか!」とか「不公平ですよ!!」とか、大声で新井に抗議し続けているのが聞こえてきた。

ヒトは見かけによらない、あんな気が荒い奴だとは思わなかった。

私も気を付けよう。

嫌老有理

新人のくせに、曲がりなりにもベテランの東野に反抗するという騒動を起こしたにもかかわらず、加賀はその後も何食わぬ顔で出勤し続け、次の月になるころには職場になじんできた。

また、歳が同じということもあって、私とはよく口を利くようになる。

だが、態度はちっとも穏やかにはならない。

東野に吠えてからしばらくたったある日の作業中には、須藤という東野と同じくらいの年輩のおっさんに対して、「コラ!国民年金払ってやらんぞ!!」とか、ワケの分からんことを怒鳴っていた。

聞けば、大声を出した理由は、須藤が重い荷物の仕分けを「若い人に任せます」とか言って、加賀に押し付けようとしたからだという。

だとしても、ひと回り以上年長の人に、あんな言い方はよくないだろうに。

しかし、加賀は相変わらず「あのオヤジがふざけたこと言うからだ」と聞く耳を持たなかった。

話すようになってすぐに気づいたが、この男はかなり年寄りがお嫌いらしい。

「なんで役に立たんジジババと俺らが同じ給料なんだ」

と、口癖のように言っていたし、なぜか私のことを自分の理解者だと判断したらしく、休憩時間だけでなく帰りの電車の中でも、年長者に関する歪んだ自説を主張し続けていた。

帰り道が途中まで一緒だったので、私は帰りによく捕まって、それを聞かされ続けることになる。

何でも、彼に言わせれば、現代日本の年長者は尊重するに値しないのだそうだ。

加賀によると、まず年長者が年少者から尊重される前提は、多数派の若年人口に対して圧倒的少数派であることだという。

少子高齢化が進み、年長者が多数派になりつつある昨今では、今後ますますこの前提が成り立たなくなる。

そして第二に、年長者の存在意義としては、その豊富な社会経験や知識を有していることだが、それらは昨今の目まぐるしく変化する現代の産業・社会構造の前には、モノの役に立たないことが多いし、その変化についていけないではないか。

つまり存在意義がないばかりか、足手まといですらある。

我々現役世代は、従来の常識も教えも全く通用せず、より複雑でより暗くなる一方の未来に立ち向かわなければならない。

なおかつ、悠々自適を決めこむ多くの高齢者を養うための国民年金を払いながらだ。

彼らのような恵まれた引退後の生活は、絶望的なのにも関わらず。

どちらがどちらを尊重するべきなんだろう?

というようなことを帰りの山手線の電車内で話す時、

28歳の加賀は、いつも優先席にどっかりと座っていた。

本来、そこに座ることができる高齢者が来ても譲る気配は一切なく、恨めしそうにこちらを見てきたら「シッシッ」と追っ払うしぐさをする始末。

優先席には、いつも優先的に座っているのだそうだ。

私はさすがに立っていたが。

さらに、加賀は子供のころから年長者に言われると腹が立って仕方がない言葉があるという。

それは「これからの日本は大変だ」である。

「ろくでもない将来を押し付けられてるみたいじゃねえか!あとは知らねえよ、ってことだろ!?」

あともうひとつ、「今の若い者は恵まれている」と言った年寄りに対しては、殺意を抑えきれないらしい。

「俺たちは、あいつらみたくボーっとした時代を生きてねえんだ、ふざけんな!!」ともよく言っていた。

その二点については、私も確かに理解できなくもないが、電車内でしゃべっているうちにエキサイトしてきたらしく、声が大きくなるのだけは勘弁してくれ。

こちらを振り向く人もチラホラいるんだから。

だが、そんな加賀でも尊重する世代があって、それは第二次世界大戦(加賀は、大東亜戦争と呼んでいた)に従軍した経験のある人たちだ。

結構、右寄りの男でもある。

ただし、尊重すべきは直接戦地に行って戦った経験のある人たちのみに限られ、空襲で逃げ回っていただけの非戦闘員だった連中は認めないとか言ってて、そこは加賀らしい暴論だ。

同時に最も嫌う世代があって、それは戦後の1940年年代後半のベビーブームに生まれた団塊の世代(この当時はまだ50代後半だったが)である。

「アイツらがいるから、日本がおかしくなってきたんだよ!」

どうも、加賀が前の会社を辞めた理由は、団塊世代の上司たちが原因のようだ。

無能で働かず、「もう歳だから」という理由で、こちらにきつい仕事は押し付けてくるは、理不尽な要求はしてくるは、挙句の果てには責任まで押し付けてくるは。

「俺の若い時はこうだった」とか過去の成功体験にしがみついたワケのわからん根性論を振り回し、エクセルやワードも覚えようともしない。

尊敬できる人間は誰一人いやしない、目前に迫った退職までダラダラのんびり過ごすことを決め込んでいるとしか思えなかった。

そのくせ、肩書や給料だけは一丁前に高い!

それに我慢がならなくなり、そのうちの一人を会社で張り倒してしまって退職。

今のアルバイト生活に至ったらしい。

加賀は、そんな生産性の低い奴らが法律に守られてクビにもならず、その役立たずに牛耳られた日本企業は体力を奪われ、結果として国力は衰退して行くのだと主張。

さらに、あと何年もしたら退職した大量の楽隠居が野に放たれ、その後、何十年も福祉に国庫が食われ続けて破滅的状況を招くことになると警鐘を鳴らした。

また、団塊世代が若いころ安保闘争やなんやで好き勝手暴れ、社会の主流となってからは、我が国を間違った方向に導いておきながら逃げ切るのも許せないといきり立つ。

「あのまま、あいつら団塊世代を生かしといたら、日本はまずいぜ!今のうちに半分くらい殺処分するべきだ!!」

いくら個人的な恨みがあるからってそりゃ言い過ぎだろが。

しかも電車の中でそんな大声で。

こいつは右翼どころか、ファシストだ。いや、紅衛兵に近いのかもしれん。

それに、私の両親もお前が言うところの団塊の世代だぞ。

お前は私の両親も殺す気か?

しかし加賀も、「俺の両親だってどちらとも昭和23年生まれでどんぴしゃり団塊だ」とさらりと答えた。

だったら、まずはお前が率先して自分の両親を…、

というブーメランはさすがの私も返すことはできなかったが。

これから高齢者になる者の心構え

「でもさ、上の世代の働きで今の日本があるわけだろ?」などと私が言おうものなら、

「じゃあ、これから先はどうなんだ?今までの功績があるからって、これからは足を引っ張ってもいいってか?」

「だいたい、あいつら一番いい時に生まれただけじゃねえか。あいつらが偉いわけじゃねえ!」

「本当に偉いのは、これからどんどんやばくなる日本で生きなきゃいけねえ俺たちだろ!」

と、数倍の反論が返って来た。

ムチャクチャとはいえ、加賀が年寄りに冷たいのには彼なりの理由があるようだが、一つ重要なことを忘れてる。

それは、「我々も年をとる」ということだ。

爺さんになってから、若い世代に冷たくされたらどう思うんだ?

対する加賀は顔色を変えることなく、「間違いなくされるに決まっているだろう!」と断言。

それどころか、今の若い奴ほど年寄りに親切じゃないはずで、「いつまで生きてるんだ」と、迫害を受けるだろうとも予測していた。

自分たちが高齢者になったら下の世代からゴミ扱いされると達観しているようなのだ。

そして、

「どうせ親切にされないなら、俺たちだって親切にする必要はない」

と力説し、

「罰を受けるなら、好いことやって受けるより、悪いことやって受けた方がマシだ!」

と唸り出したところで、我々の乗る山の手線は新宿駅に到達した。

運がいい。

私はここで降りて小田急線へ、奴はこのまま乗って大塚までだ。

今日は、とりあえずこれ以上とち狂った話を聞かずに済みそうである。

とは言え、考えてみれば加賀の予測どおり、我々が高齢者になった時は、下の世代からの冷遇という過酷な余生が待っていることは間違いなさそうで、彼はそれを覚悟の上であることは何となく理解できる。

暴論とはいえ、少なくとも一本筋は通っているような気がした。

だが、それは私の誤解であったことが、後日すぐに分かることになる。

その日、私はY運輸に出勤してタイムカードを押してから現場に向かうと、人だかりができて騒がしくなっていた。

時々怒声が聞こえるから、誰かがモメているらしい。

「誰と誰がもめてんだ?」と思って近寄ってみたら、もめてる片方はあの加賀ではないか!

今度の相手は、夜10時までの夕勤アルバイトの高校生風の若者で、意外と腕力のある加賀は、若者の胸倉をつかんで押し倒している。

そして例のごとく、ドスを効かせて大声でこう凄んでいた。

「コラ!!ガキのくせにさっきのナメた口のきき方は何だ!?俺が年上だと知ってて言いやがったのか!!」

年長者を尊重する必要はないとか言っときながら、年少者に軽んじられるのは我慢がならないらしい。

単なるならず者であった。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)


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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後 2


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資産ゼロ・無年金で東南アジア某国の現地妻の実家に転がり込んだ東野氏。

ほぼ無一文だったからか、着いて早々過酷な現実に直面したらしく、日本にいたころ働いていた職場での知り合いや知り合いではない人にまで、金の無心の電話をかけまくっていたが、現実が過酷なのはこちら日本でも同じだった。

頼んだ相手も金欠か薄情だったし、本人の職場での素行と電話での頼み方も災いして金を融通してくれる聖人は少なく、ほどなくして連絡が途絶えた。

働いていた運送会社で「死亡説」が流れ始め、一か月ほど経過して誰も話題にもしなくなったころ、単身現地へ行って東野氏の安否を確かめようという勇者が現れた。

会社の契約社員の柴田馨である。

元バックパッカーの柴田

柴田は、当時の私よりちょっと年下の30代前半で、元バックパッカーだ。

契約社員になる前は、アルバイトでためた金を使って主に東南アジア方面を放浪していたし、契約社員になってからも、年に数回海外へ行っている。

東野が旅立った某国にも何度か行っており、それが縁で、東野とも付き合いが深かった。

アルバイトだった頃には、彼が転がり込んだ妻の実家へも一緒に行って、何泊かしたことがある。

それだけ付き合いがあったんだから、東野にも金を貸しただろうし、一番心配しているのかと思いきや、「こっちも金がない」とか言って一銭も貸していないらしい。

それについて「なんで俺が貸さなきゃいけねーわけ?」と、こともなげに言っていたから薄情な男である。

そんな柴田が東野を訪ねる気になったのは、有給を使って某国に旅行するつもりだったからであり、ついでにどうしているか見てこようと思ったからだという。

金を貸してやらなかったくせに会いに行こうとは、頭も情も軽いのと同時に、強心臓の持ち主でもある。

東野がキリギリスだったら、この男はさしずめゴキブリだろうというのは言い過ぎだろうか?

いや、両人ともどちらも兼ねているのだろう。

とはいえ、柴田もさすがに、何の連絡もせずに訪問するほど無神経ではなかったらしく、東野からかかってきていた番号に、何度か電話していたようだ。

しかし、くだんの金の無心電話がピタリと止んで以降、電話に出ることも折り返しも一切なかったという。

「ちょっとただゴトじゃねえぞ、こりゃ」

出発前の職場で話した時は、そう言いつつ口元はニヤついており、怖いモノ見たさ満々の様子だった。

だが、本当に怖い思いをすることになるとは、この時彼も気づいていなかった。

東野の妻の実家にて

東野の妻の実家は某国の首都の近郊ではあるが、やや辺鄙な半農村半住宅地といった感じの場所にある。

柴田は一度しか行ったことはないが、その場所をよく覚えていた。

また、「俺がいるときに訪ねて来いよ」と東野から住所の写しももらっていたから、某国に到着した柴田はホテルにチェックインした後、すぐにタクシーでその家に向かったようだ。

家のイメージ

いかにも東南アジアの民家といった感じの、さほどボロくもこぎれいでもない二階建ての家である。

柴田が東野と一緒に訪れて泊まった当時、その家は、奥さんとその両親、兄弟の他に結婚した兄の一家が暮らす大所帯であったようだ。

奥さんは東野よりだいぶ年下だが、当時からそんなに若くはなく、もう30代後半くらいになっているはずの中年女性。

にこやかな笑みを浮かべて食事の準備やらなにやら、柴田と家の主人気取りでふんぞり返っていた東野に、かいがいしく尽くしてくれていた印象がある。

彼女は日本で働いた経験があったらしく、片言の日本語を話した。

柴田がタクシーを降りてその家に着くと、以前訪れた時と変わらぬたたずまいであった。

(さて東野さんはどうしているのやら)

何の連絡もできずいきなり訪ねる形になってしまったが、東野はむろんのこと、奥さんもこの家の人間も自分のことは覚えてくれているから大丈夫だろうと思っていた。

家の入口は開けっ放しだったので、中に誰かいるだろうかとのぞき込もうとした時、道の向こうから見覚えのある女性がこちらにやって来るのが目に入った。

あれは間違いない、東野の奥さんだ。

「オー、久しぶり!」

柴田は、現地の言葉は一切分からないので、日本語で声をかけた。

奥さんは、日本語が分かるはずだから問題ないだろうと。

だが、彼女は明らかに柴田の姿を認めた感じだったが、何の返答もなく、無表情のまま家の入口に向かおうとした。

東野と一緒に泊まった時に、いつも見せてくれてたような笑顔は一切見せない。

「おいおい、俺だよ。柴田だよ。忘れたの?」

柴田はめげずに日本語で訊ねたが、奥さんは知らないとでもいうように、無言で手を振ってプイっとそっぽを向いた。

完全に「あんた誰?」どころか「アッチ行け」扱いである。

どういうことだ?

その冷たい態度の意味が解らなかったが、それよりも、ここに来た目的は東野の消息だ。

「ねえ、東野さんいる?ここに来たでしょ?」

本題を聞かせると奥さんはこちらを見て、相変わらずにこりともせずに語気鋭く言った。

「イナイ!」

「え?でも、こっち来たって言ってたよ?」

「キテナイ!」

「ねえ、どこ行ったの?」

「シラナイ!!」

柴田はしつこく食い下がって東野の行方を尋ねたが、彼女は「イナイ」「キテナイ」「シラナイ」の三つを繰り返すばかりで取り合ってくれず、家の中に入ると、ドアをぴしゃりと閉めてしまった。

ノックしてみても、中からは相変わらず三つの「ナイ」が繰り返されるばかり。

どういうことだ?

ここには、そもそも来てないのか?それとも、やっぱり追い出されたのか?

奥さんの豹変した態度には釈然としなかったが、もうここにはいないと考えてよさそうだった。

まあいい、もう帰るか。

もともとそこまで東野のことを心配していないし、面白半分だったから長居するつもりはなく、タクシーの運ちゃんには片言の英語と筆談で、一時間後にまた来てくれと頼んでおいた。

まだ時間はあるが、運ちゃんとの待ち合わせ場所まで行こうと思ったところ、近くの木陰に座り込んで、こちらを見ている少年たちが目に入った。

小学生くらいか中学生くらいか分からん微妙な年恰好の者たちだったが、一連の様子を見ていたらしく、ニヤニヤ笑っている。

こいつら何か知ってるかな?

知ってるわけないかもしれないが、どうせ暇つぶしだ。聞いてみよう。

そう思って彼らに近づいた柴田は、帰国後、この某国に二度と足を踏み入れる気がなくなったほどの衝撃を、その後に受けることになる。

垣間見えた真相

子供達イメージ

聞いてみるといっても、柴田はこの国の言葉は分からないし、英語も片言以下、小僧たちだって日本語が分かるはずがないし、英語も期待できそうにない。

柴田はそういう時のために、海外へはいつもスケッチブックを持参し、図や絵を描いて相手に見せることによって、意思疎通を図ってきた。

「ハロー」

そう挨拶して、東南アジアの人間らしく一見屈託ない笑顔を見せる少年たちに近づいた柴田は、毎回海外でやっているように、取り出したスケッチブックに東野の似顔絵を描きだした。

名前を言ってもわからないだろうから、似顔絵を見せれば、何とかなると思ったのだ。

幸いなことに、東野は小太りでメガネをかけて側頭部だけを残したつるっぱげ、という特徴的で描きやすい容貌をしていたから、絵心の特にない柴田でも簡単だった。

しかもそんな容貌は、この東南アジアの片田舎ではあまりお目にかからないから、分かりやすいだろう。

「この人、知ってる?」と、ササっと描いた似顔絵を見せて、日本語で訊ねる。

似顔絵

少年たちが、その絵に顔を近づけて見たとたんだった。

一同から大爆笑が起こったのだ。

もうおかしくて仕方がないという感じで、笑い転げる者もいる。

ナニナニ?そんなに俺の絵ウケた?

一瞬そう思ったが、彼らは柴田の意図を理解していたらしい。

笑いながらその絵を指さした後、奥さんの家を指さした。

どうやら柴田の似顔絵の人物を知っており、あの家に“いる”か“いた”かを知らせてくれているようだ。

「まだ、いるのか?」

と聞こうと思ったら、少年たちの一人が笑いながら、柴田の描いた東野の絵の方を指さした後、頭を抱えてうずくまると、叫び始めた。

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」

次に一番背の高いガキが家の方を指さしてから、履いていたサンダルを脱いで、うずくまったガキの頭を連打するようなそぶりを見せ、

もう一人は蹴りを入れたり、ゲンコツをかますマネを始める。

現地語で罵るような口調を交えて、笑いながらだ。

え?ナニそれ?意味分から…、イヤ!待てよ!?

「アメテグレーアメテグレー!イダ!イダ!」→「止めてくれー止めてくれー!痛た!痛た!」じゃないのか?

これって、東野さんはつまり…。

凍り付いた柴田だったが、すぐさまより凍り付くことになる。

頭を抱えてうずくまっていたガキが自分の首を両手で絞めると、舌を出して「エ、エ、エ、エ」と声を出し苦しむ顔をし始め、やがて「ガクッ」とこと切れた演技をしたのだ。

まさか!!!

そしてとどめとして、

先ほどのサンダルのガキが、やや遠くのジャングルを指さして、手を枕に眠るようなしぐさをしたではないか!

それらの演技の間も、他のガキどもは終始笑い転げていた。

何があったか分かりすぎる!これが本当なら相当ヤバイ。

相変わらず笑みを浮かべるガキどもの笑顔が、この上なく邪悪に見えてきた。

ここにいてはまずい!早く帰ろう!!

逃避行

「〇×▽〇××◇!!!」

柴田が少年たちに別れを告げて退散しようとした時、いきなり少年たちの後方から、甲高い現地語の怒声が響いてきた。

東野の奥さんが怒りの表情で家から出てきて、少年たちに詰め寄ってきたのだ。

同じく中年男性と20代くらいの男も後に続いていた。

若い方は知らないが、中年男は、たしか奥さんの兄弟か何かだ。

余計なことしゃべるなとでも言っているのだろうか?柴田の方を指さしたりして少年たちを怒鳴りつけ、突き飛ばし始める。

少年たちもおばさんが相手だから、笑いながら何か言い返していたが、中年男が大声で怒鳴り、若い男がこぶしを振り上げて殴るマネをすると一斉に逃げ散った。

ガキどもを蹴散らすと、今度は柴田に矛先を向け始めた。

「アナタ、ナゼいる!?ナンでキク!?ワタシ、シラナイいった!!」

奥さんは接続詞と助詞を省いた日本語をまくし立て、阿修羅の剣幕だ。

彼女も怖いが、よりやばいのは後ろの男たちだ。

奥さんと一緒に臨戦態勢で、こちらに近寄って来るではないか!

奥さんは歩み寄りながら「アナタ、ばか!ワタシいった!アナタ、ワルイよ!!」と罵り続ける。

「分かってるよ分かってるよ、もう帰るから!帰るから!!」

そう言って後、ずさりする柴田に対して彼女が言い放った言葉は、いままで生きてきた中で最もゾッとする一言となり、今も耳に残っていると、後に語ることになる。

「アナタ、カエれない」

その言葉が何を意味するか、この状況では、分かりすぎるほど分かった。

柴田は脱兎のごとく、その場からの逃走を図った。

走り出すと、後ろから男二人が大声を出して追いかけてくる気配を感じた。

ヤバイヤバイ!捕まったら終わりだ!!

生きるために、ありったけの力で走り続ける。

幸いだったのは、柴田は荷物をホテルに置いて手ぶらで来ていたことと、スニーカーを履いていたことで、なおかつ、彼は100メートルを11秒台で走れる比較的俊足の持ち主だったこと。

一方の奥さん側は全員サンダルだったので、どうしても走るのが遅くなったことである。

さらに幸運なことに、とりあえず逃げた先はタクシーとの待ち合わせ場所だったのだが、約束の時間よりだいぶ早いにもかかわらずそのタクシーが待っていてくれたことだ。

運転手は中で居眠りしていたが。

必死の柴田は運転手を「ウェイクアップ!ウェイクアップ!ゴーゴー!!」とたたき起こして急いで出発させた時、彼らの姿は見えなくなっていた。

あきらめたらしい、助かったと、この時は思った。

だが、違ったようだ。

ホテルに向かって走り出したタクシーの中で、まだ震えが止まらないながらもほっとしていた柴田は、後方からしつこく鳴らされるクラクションが気になった。

そのクラクションはどうやらバイクのものらしく、だんだん近づいてきている。

「うるせえな」と思って、窓の外を見た彼は仰天した。

何と奥さんたち三人が、ホンダの『スーパーカブ』に乗って追いかけてきたのだ!

足で追いつけないと分かるや、賢明にもバイクを使った追跡に切り替えたらしい。

中年男が運転し、後ろに奥さん、若い男の順番で三人乗りしており、

奥さんの手にはトンカチ、若い男の手には長い棒が握られ(それを何に使う気だ!?)、クラクションを鳴らしながら、何ごとかわめいている。

これにはさすがに、タクシーの運ちゃんもただならぬ事態を把握したらしく、柴田に言われるまでもなくスピードを上げてくれた。

50ccのスーパーカブでは追いつけるはずもなく、タクシーはぐんぐん彼らを引き離して、やがて街中に到達。柴田は生還することに成功した。

もっとも、ホテル到着後にタクシーの運ちゃんは、危ないところを助けてやったからと恩着せがましく運賃100ドルを請求し、柴田も泣く泣く支払うことになったのだが。

彼は東野と自分が遭遇した一件を警察に訴えようとも思ったが、某国の警察は当てにならないだろうから、敢えてしなかった。

第一あれ以降、怖くて街に出る気もなくなってしまい、近くに食事に行く以外は、三泊四日の某国滞在はほぼホテル内だったのだ。

いつもなら、あっという間に終わって名残惜しく日本に帰国していたが、この時は本当に長く感じ、出国して飛行機が離陸した際はほっとしたという。

帰国後

「とんでもねえ目に遭った。もう、あそこには行きたくねえよ」

帰国した柴田はそれらの話を職場でした時、顔をこわばらせていつものヘラヘラ顔を一切見せなかった。

経済発展著しいと日本で報道される某国だったが、あんなことがまかりとおっているとは、発展途上国どころか20世紀すら迎えていないとまで話していた。

以上の話が実話なら、実にゾッとする。

柴田はホラ吹きなところがあって、話を十倍にも二十倍にもする癖があったが、帰国して以降、私がその会社を辞めるまでの六年の間に、あれほど好きだった東南アジア旅行に一回も行かなかったんだから、ほぼ事実なんだろう。

そして、東野から永久に金の無心の電話が来ないのも、会えなくなったのも確実なようだ。

彼は移住前、「俺はあの国の土になる」と周囲に言っていたというが、それは予想より、かなり早く実現してしまったらしい。

我々のうち誰かが助けてやってたら、こうはならなかったんでは?

いや、時間の問題だった。誰も悪くない。

でも、でも…。

そういった葛藤を、私以外にも多少は抱えていた者が多かったのかもしれない。

その後、あの会社において東野を知っている人間の中で、彼のことを思い出して話題にした者は、私の記憶のかぎりではいなかったのだから。

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)

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資産ゼロ・無年金で東南アジアに移住した男のその後


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海外で生活に困窮している日本人のことを「困窮邦人」というらしい。

これら困窮邦人が最も多いのはフィリピンであり、日本国内のフィリピンパブなどの女性に入れあげた挙句、一緒に暮らそうと後を追いかけたはいいが、金が尽きたとたん、相手の女性やその家族に放り出されてホームレスになってしまうなどの例が、跡を絶たないという。

またタイなどの国々でも、退職金や年金を生活資金として移住した結果、現地の物価が上昇してしまい、手持ちの金では生活が立ち行かなくなった者もいるし、同じく資金が尽きたバックパッカーが、ホームレスに転落することもある。

私の身近にもそんな手合いがいた。

だが、その男は困窮しているどころではなかった。

もっと困ったことになってしまったようなのだ。

二足歩行するキリギリス

私が昔働いていた運送会社のアルバイトの中に、東野という50代後半のおっさんがいた。

その運送会社のアルバイトの雇用条件は日雇いの形式で、二か月継続して働いたら、次の一か月は勤務できないというものだったが、東野氏はその一か月の間は別の仕事をすることなく、次の二か月間のアルバイトの雇用契約をすると、東南アジアの某国に行って過ごしていた。

昔からその国に何度も行っていた彼には現地にひと回り以上年下の妻がおり、その妻の家でやっかいになっていたらしい。

運送会社の給料は雀の涙であったが、発展途上国である某国の物価は日本と比べて段違いに安かったために、現地妻の生活費を援助することもできたし、ホテル代がかからないぶん、滞在費に困ることもなかった。

そんな彼は日本では、家賃4万円そこそこの風呂なしアパートに住み、国民年金も払ったことはなかったし、資産と呼べるものもなかったようだ。

キリギリスな彼は、そんな金があったらパチンコや競馬に行くか、東南アジアに行ってしまっていたからである。

東野氏は、仕事もお気楽で自分勝手。

文句は多いし、いつも率先して肉体的負担の少ない部署ばかりやっていた。

そして、他の人間がその部署につこうものなら「交代だ!」と言って譲らせる始末である。

体力の衰えた50代後半ではあるが、他のアルバイトは、同じ給料できついところをやっている。

反発は当然あったが、彼は腰が痛いと班長に訴えて、その楽な部署に居座り続けた。

また、腰が悪い証拠として、いつも通院している病院の診断書を持参して来ており、いざとなったら、それを水戸黄門の印籠がごとく提示してたんだからずるい男である。

だからあまりよく思っていない人間は少なくなかった。

やがて年月は過ぎ、東野氏が運送会社を去ならければなくなる日が近づいてきた。

彼は御年64歳となっており、会社では、アルバイトは65歳以上になると再契約の対象外となって、働くことができない決まりになっていたのだ。

もっとも、アルバイト以外に労働者を派遣してきていた人材派遣の会社に登録すれば、アルバイトとしてではなく派遣労働者としてなら働くことができるが、東野氏はもう辞めるという。

では他の仕事を探すのかと思いきや、そうでもないらしい。

無年金の彼は本来働き続けなければならないはずなのだが。

驚くべきことに、

「俺はもう歳だから、後はもう働かずにのんびり暮らすよ」

などと、余裕をぶっこいていた。

無年金だろ?

生活保護をもらう気なんだろうか。

だが、彼の老後の設計はそれと同じくらい世の中をナメていた。

「女房の実家のやっかいになる」

東野氏の海外移住とほどなくしてその後

誰が無収入の居候を快く受け入れてくれるものか。

親切なのは、金を運んできてくれたうちだけだろう?

職場の誰もがそう言っていた。

東野氏と親しい須藤という人がいて、その須藤さんは彼より少し年下くらいだから、「そんなに甘くないんじゃないの?」と面と向かって忠告してたらしいが、東野氏は某国の妻の家に転がり込む気満々だったという。

そして最後の勤務が終わった帰り際、「いつでも遊びに来てくれよ」なんて周りに言ったりして、全く悲観している感じはなかった。

須藤さんによると退職してから数日後、彼は意気揚々と某国に旅立っていったようだ。

部屋を解約するなどかなり前から準備をしていたらしい。

それから、半月も経っていない頃だった。

須藤さんの携帯に、早速東野から国際電話があった。

要件は「金を貸してくれ」である。

案の定だ。そして早や!

だから言わんこっちゃない。

東野は、金が必要な理由を濁していたらしいが、言われなくても容易に察しは付く。

文無しを理由に女房の実家から追い出されたか、シメられているに決まっている。

第一、貸してくれと言っているが、

東野は日本にいたころから金を借りたら借りっぱなし、おごってもらったらおごってもらいっぱなしだったから、返すアテと返す気のどちらもないであろう。

それも10万円という、彼が返済できるはずのない金額を指定してきたらしいから、あきれたもんだ。

須藤さんだって金がないから、値切りに値切って1万円を送ってやることにしたという。

送ってやったこと自体驚きだが。

しかし着金後ほどなくして、須藤さんのところに電話がかかってきて、

「この前10万と言ったのに、1万円しか送られていない!あと9万大至急送ってくれ!」

とほざかれたに至って、さすがの温厚というかお人よしの須藤さんも、ブチ切れて連絡を絶ってしまったらしい。

自分の都合よく記憶を作り換えようとするんだから完全に末期症状である。

だが、その末期症状はさらに深刻化していったらしく、須藤さん以外の職場でよく話していた人間ばかりか電話番号を知っている人間にまで、片っ端から金の無心電話をし始めた。

あんまりよく思われていなかった彼のことだから、いったいどのくらいの人間が救いの手を差し伸べたか、推して知るべしの感があったが。

東野とあまり深く付き合わなくて本当に良かった。電話番号を知られていたら、援助をねだられていたことだろう。

などと安心していたのもつかの間だった。

なぜかほとんど面識がなく、電話番号を知らないはずの私のところにも東野から連絡がきたのだ。

キリギリスの断末魔

登録のない番号だったし、携帯でも日本の固定電話でもなさそうな配列の番号だったが、どこからだろうと思って出たら東野だった。

もちろん要件は、金の無心である。

「あの、どうして僕の番号知ってるんですか?」

金の話をする前に、どうしても確かめておきたいことだったのでそれを尋ねたら、

「お前なら貸してくれるからって、電話番号教えてくれた奴がいた」

誰だか知らないが、ふざけたことしやがって!

そんなに私はいい人、いや、バカそうに見えるのか?

「なんでそんなに金が要るんです?」

分かり切ってはいたが、一応聞いてみた。もちろん貸す気はないが。

「暴風雨で家の屋根が壊れちまってさ、早く修理したいんだよ」

嘘に決まっているが、そこは敢えてスルーすることにした。

「いくらくらい必要ですか?」

「気持ちだけでいいよ。たくさんなら助かるが」

「じゃあ1000円くらいで」

「バカにしてんのか!?足りるわけねえだろ!」

そっちこそバカにしているのか?

「気持ちだけでいい」って言ったじゃないか。それになんだ、その言い方。

付き合いはあまりなくても、前から大人気ないおっさんだと知っていたが、相当テンパっているらしく、余計タチが悪くなっていた。

「せめて5万くらい貸してくれよ!知らない仲じゃないだろ?」

このおっさんは、完全に頭がおかしい。元々、ほぼ知らない仲じゃないか。

さらによりおかしいことに、その後、東野は一方的に送金先である某国の銀行名と口座番号などを告げ、

「詳しいことは須藤に聞けば分かるから、大至急頼むぞ!」

と、これまた一方的に吠えて電話が切られた。

誰が貸してなどやるものか。

ほとんど話したこともない人間相手に、あんな口調で図々しい要求ができるとは、人間技ではない。

言うまでもなく、もう連絡がこないように、この番号を着信拒否にした。

その後、私と同じく電話番号を登録していなかった職場の班長である新井のところにも電話が来たことを、新井本人から聞いた。

新井相手にいたっては、「元部下が困っているのに見て見ぬふりするのか?」とか「キャバクラや競馬行く金あるんだから、貸してくれたっていいじゃねえか」とまでほざき、さらに、私をはじめ自分に救いの手を差し伸べなかった者たちの悪口を連ねた後、「助けてくれなかったら必ず化けて出てやる」と実効性のない脅しまでしてきたという。

「終わってるな、あの人。もうかかわりたくねえよ」と、新井はうんざりしていた。

そんな職場を騒がせた東野からの金の無心電話もしばらくしてからピタリと止んだ。

誰も助けてくれなかっただろうし、さすがにあきらめたんだろう。

国際電話だから、電話代もバカにならないはずだし。

連絡がなくなったことについて、

「埋められたからじゃねえの?」と、冗談めかして言う者もいたが。

しかし、その時は誰も思わなかった。

冗談ではなく、本当にそうなっている可能性が高いことを。

つづく

日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 (集英社文庫) 脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち (小学館文庫) 新版「生きづらい日本人」を捨てる (知恵の森文庫)

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奪われた修学旅行2=宿で同級生に屈辱を強いられた修学旅行生


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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

修学旅行の第一日目早々、もっとも楽しみにしていたディズニーランドで他校の不良少年たちにカツアゲされて金を巻き上げられた私は、放心状態でランド内を歩き回っていた。

集合時間までまだ時間があったが、ショックのあまりとてもじゃないが、他のアトラクションを楽しもうという気にはなれない。

そして、もうランド内にいたくなかった。

私は、集合場所であるバス駐車場に向かおうと出口を目指した。

誰でもいいから自分の学校、O市立北中学校の面々に早く会いたかった。

たった一人で他の学校のおっかない奴らに囲まれて恐ろしい目に遭わされたばかりで、その恐怖が生々しく残っていた私は、見知った顔と一緒になれば、多少安心できるような気がしたからだ。

何より、さっきの不良たちもまだその辺にいるかもしれず、それが一番怖かった。

だが、カツアゲされたことだけは、絶対に黙っておこうと、心に決めていた。

私にだって、プライドはある。

恰好悪すぎるし、教師や親、同級生に何やかやと思い出したくないことを聞かれたりして、面倒なことになるのはわかりきっていたからだ。

踏んだり蹴ったり

「コラ!オメーどこ行っとったー!!」

出口目指してとぼとぼ歩いていた私の後ろから、甲高い怒声が飛んできた。

私が本来一緒に行動しなければいけなかった班の長・岡睦子だ。

班員の大西康太や芝谷清美も一緒にいる。

さっきまで自分の学校の面子に会ってほっとしたいと思っていたが、実際に会ったのがよりによってこいつらだと、気分が滅入ってしまった。

そんな私の気も知らないで、岡は鬼の形相で、なおも私に罵声を浴びせてくる。

「勝手にどっか行くなて先生に言われとったがや!もういっぺんどっか行ってみい!先生に言いつけたるだでな!」

「わかったて、もうどっこも行かへんて…」

女子とはいえ柔道部所属で170センチ近い長身、横幅もそれなりにある大女の岡は、さっきのヤンキーに負けず劣らす迫力がある。

一方で、中学三年生男子のわりにまだ身長が150センチ程度で貧相な体格だった当時の私は思わずひるんで、岡に服従した。

しかし、何で再び脅されねばならんのか。

もうバスに戻りたかったのに、岡たちはまだ、ランド内から出ようとせず、私を引っ張りまわした。

それも、お土産を買うとか言って、ショップのはしごだ。

岡も芝谷も、ああ見えて一応女子なので、買い物にかける時間が異様に長く、ショップに入るとなかなか出てこない。

有り金全部とられて何も買えない私には、苦痛極まりない時間であるが、班を離れるなと厳命されているので、外でおとなしく待っていた。

男子の大西は早くも買い物を済ませたらしく、商品の入った袋を両手に外へ出てきて「女ども長げえな、早よ済ませろて」とぶつぶつ言っている。

私もお土産を買う必要があるが、もう金は一銭もない。

それにひきかえ、大西はお菓子だのディズニーのキャラクターグッズだのずいぶんいろいろ買っている。うらやましい限りだ。

「えらいぎょうさん買ったな、金もう無いんちゃうか?」

ムカつくので、少々皮肉っぽいことを言ってやったら、大西は自慢げに答えた。

「俺まだ1万円以上残っとるんだわ」

何?1万円だと?今回の修学旅行では持ってくるお小遣いは、学校側から7千円までというレギュレーションがかかっており、私はそれを律義に守っていた。

だが、大西はそれを大幅に超える金額を持参してきていたということだ。

畜生、私も律義に7千円枠を守るんじゃなかった。いや、それならそれでさっきのカツアゲで全部とられていただろうが。

「そりゃそうと、おめえは何も買わんのかて?」

「いや、俺は…」

カツアゲされて金がないとは、口が裂けても言えない。

そうだ、大西から金を借りられないだろうか?こいつとはあまり話したことがないが、金を落としてしまったとか事情を話せば、千円くらい都合つけてくれるかもしれない。

何だかんだ言っても同じクラスだし、同じ班なんだ。

「あのさ、俺、財布落としてまってよ…金ないんだわ」

「アホやな」

「そいでさ、千円でええから…貸してくれへんか?」

「嫌や」

にべもなかった。1万以上持ってるなら千円くらいよいではないか!

「頼むて。何も買えへんのだわ」

「嫌やて、何で俺が貸さなあかんのだ?おめえが悪いんだがや、知るかて」

普段交流があまりないとはいえ、大西の野郎は想像以上に冷たい奴だった。頼むんじゃなかった。

結局、ぎりぎりまで女子の買い物に付き合わされたが、集合時間前にはディズニーランドのゲートを出て、我々は時間通りバスの停まっている集合地点までたどり着いた。

他の面々は皆充実した時間を過ごせたらしく、買ってきたお土産片手に、あそこがよかったとか、あのアトラクションが最高だったとか盛り上がっている。

「もう一回行きたい」とか話し合っており、「もう永久に行くものか」と唇をかんでいるのは私だけのようだ。

そんな一人で悲嘆にくれる私に、更なる追い打ちがかけられた。

「おい!お前、単独行動したらしいな!」

私のクラスの担任教師、矢田谷が、私をいきなり大声で怒鳴りつけてきたのだ。

話に花を咲かせている生徒たちの話が止まり、好奇の視線がこちらに注がれる。

どうやら岡から私が班行動をしなかったことを聞いたらしく、完全に怒りモードだ。

この矢田谷は陰険な性格の体育教師で、一年生の時からずっと体育の授業はこいつの担当だったが、私のような運動神経の鈍い生徒を目の敵にして人間扱いしない傾向があり、これまでも、何かと厳しい態度に出てくることが多かった。

そんな馬鹿が不幸にも私のクラス担任になっていたのだ。

「いや、俺だけじゃないですよ、俺以外にも勝手に班を離れた人間は他にも…」

「先生は今、お前に言っとるんだ!言い訳するな!!」

クラス一同の前で、ねちねちと怒鳴られた。

なぜ私ばかり?私以外にも班行動しなかった者はいたのに!

私は再び涙目になった。

神も仏もないのか。どうして立て続けに、嫌な目に遭い続けなければならないのか?

私は今晩の宿に向かうバス内で、わが身の不運に打ちひしがれていた。

通路を挟んで斜め向かい席では、元々一緒に行動しようと思っていた中基と難波がまだディズニーランドの話を続けている。

彼らは一緒に行動してたようだ、私を置いてけぼりにして…。

そして頼むから「カリブの海賊」の話はやめて欲しい、こっちはリアルな賊にやられたばかりで心の傷がちくちくするのだ。

「おい、お前どうかしたんか?」

私の横にクラスメイトの小阪雄二が来た。

一番後ろの席に座っていたのに私のいる真ん中の席まで来るとは、どうやら私が落ち込み続けている様子に気付いていたらしい。

だが、私は十分すぎるほど知っている。こいつは私の身を案じているのではなく、その逆であることを。

それが証拠にニヤニヤと何かを期待しているようないつものムカつく顔をしている。

二年生から同じクラスの小阪は他人の災難、特に私の災難を見て、その後の経過観察をするのを生きがいにしているとしか思えない奴だ。

私が今回のようにこっぴどく先生に怒られたり、誰かに殴られたりした後などは真っ先に近寄ってきて、実に幸福そうな顔で「今の気分はどうだ?」だの「あれをやられた時どう思った?」などと蒸し返してきたりと、ヒトの傷に塩を塗りたくるクズ野郎なのだ。

「別に何でもないて!」

「何やと、心配したっとんのによ!」

嘘つけ!ヒトが怒鳴られて落ち込んでいる顔を拝みに来てるのはわかってるんだ!

しかし、奴の関心は別のところにあった。

「お前、財布落として金ないって?」

「何で知っとるんだ?関係ないがや!」

大西の野郎がしゃべりやがったんだな!

隣に座る大西は小阪と以前から仲が良く、私を見て口角を吊り上げている。

同じ班なので、バスの席も近くにされていた。前の座席には岡と芝谷も座っている。

「お前、ホントはカツアゲされたやろ?」

「!!」

「おお、こいつえらい深刻な顔しとったでな。ビクビクしとったしよ」

大西も加わってきた。気付いていたのか?

「ナニ?ナニ?おめえカツアゲされとったの?」

前の席の岡と芝谷までもが、興味津々とばかりに身を乗り出してくる。

やばい、ばれてる!ここはシラを切りとおさねばならない!

カツアゲされたことがみんなに知られて、いいことなど一つもない。

修学旅行でカツアゲされた奴として、卒業してからも伝説として語り継がれるのは必定。

それに、こいつらを喜ばせる話題を提供するのは、最高にシャクだ!

被害に遭った後、被害者が更に好奇の視線にさらされるなんて、まるでセカンドなんとかそのものじゃないか!

「されとらんて!落としたんだって!」

「ホントのこと言えや。おーいみんな!こいつカツアゲされたってよ」

「されてないっちゅうねん!」

「先生に知らせたろか?ふふふ」

小阪らの尋問及び慰め風口撃は、バスが今晩の宿に到着するまで続いた。

修学旅行生の宿での悪夢

我々O市立北中学校一行の修学旅行第一日目の宿泊地は、東京都文京区にある「鳳明館」。長い歴史を持ち、全国からやってくる修学旅行生御用達の宿だ。

なるほど、かなり昔に建てられたと思しき重厚な外観と内装をしている。

カツアゲに遭っていなければ、私も中学生ながら感慨にふけることができたであろう。

鳳明館

実はこの宿に関して、旅行前からちょっとした懸念材料があった。

ぶっちゃけた話、私は普段の学校生活で嫌な思いをさせられていた。

それも、冗談で済むレベルではない。

トイレで小便中にパンツごとズボンを下ろされたり、渾身の力で浣腸かまされたりのかなり不愉快になるレベル、即ち低強度のいじめに遭っていた。

その主たる加害者である池本和康が、同じ部屋なのだ!

おまけに、小阪や今日最高に嫌な奴だとわかった大西も同室で、あとの二人も悪ノリしそうな奴らであるため、一緒に一つ屋根の下で夜を明かすのは、危険と言わざるを得ない。

部屋割りはこちらの意思とは関係なく、旅行前に担任教師の矢田谷とクラス委員によって一方的に決められており、その面子が同室であることを知った時は、そこはかとない悪意を感じざるを得ず、私は密かに抗議したが、陰険な矢田谷の「もう決まったことだ」という鶴の一声で神聖不可侵の確定事項となっていた。

もっとも、その宿に到着した頃、私の精神状態はカツアゲの衝撃でショック状態が続いていたため、旅行前に感じた部屋に関する懸念については、部分的に麻痺していた。

同じ部屋の面子のことなどもうどうでもよい。今日出くわした災難に比べればどうってことないと。

ちなみに、夕飯を宴会場のような大きな座敷で食べた後は入浴の時間だったが、私はあえて入らなかった。

いたずらされるに決まっているからだ。

実際、二年生の時の林間学校では、やられていた。

同じ部屋の連中が風呂に入ってさっぱりして帰って来た時、私はもうすでに敷かれていた布団に入っていた。

今日はもう疲れた、もう寝よう。明日になれば少しは今日のことを忘れられるだろうと信じて。

しかし、私はこの時全く気付いていなかった。

本日の悲劇第二幕の開幕時間が始まろうとしていたことを。

とっとと寝ようと思ってたが、消灯時間になっても眠れやしない。

小阪や池本、大西及びあとの二人も寝ようとせずに、電気をつけたまま、ジュースやスナックの袋片手に話を続けていたからだ。

「やっぱ、前田のケツが一番ええわ」

「ええなー、池本は前田と同じ班やろ?うちのはブスばっかだでよ」

「小阪ンとこはまだええがな、うちは岡と芝谷だで。あれんた女のうちに入らへんて」

話題はもっぱらクラスの女子の話で、言いたい放題、時々下品な笑い声を立てる。

女子に関してなら私も多少興味があったので、目をつぶりながらも聞き耳を立てていたが。

しかし彼らはほどなくして、私の話を始めやがった。

「ところで、あいつカツアゲされとるよな、絶対」

「ほうやて、泣いた後みたいな顔しとったもん」

いい加減しつこい奴らだ。

だが私に関する話題は続く。

「そらそうと、あいつ今日風呂入って来なんだな。せっかくあいつで遊んだろう思うとったのに」

やっぱり池本は何かするつもりだったんだ。風呂に入らなくて正解だ。

「あいつってムケとるのかな?」

大西がここで、突然嫌なことを言い出した。

「なわけないやろうが、毛も生えてへんて。俺、林間学校で見たもん」

小阪の野郎!言うなよ!

つい前年の林間学校の風呂場で、小阪は私の素朴な下半身を散々からかってくれたものだ。

彼らの会話がどんどん不快な方向に発展しつつあった。カツアゲのことを蒸し返されるのもムカつくが、私の下半身の話も相当嫌だ!

「なあ、そうだよな!あれ?おーい。もう寝とるのか?」

どうしてヒトの下半身にそこまで興味があるのかこの変態どもは!誰が返事などしてやるものか。こっちはもう寝たいんだ!

私は断固相手にせず、タヌキ寝入り堅持の所存だったが、池本の恐ろしい一言で考えを変えざるを得なかった。

「ほんなら、いっぺん見たろうや!」

何?!それはだめだ!私の下半身は、その林間学校の時から変わらないのだ!

「おもろそうやな」「脱がしたろう」他の奴らも大喜びで賛同し、一同そろって私のところに近づいてくる。

私は思わず布団にくるまり、防御態勢を取った。

「何や、起きとるがやこいつ。おい、出てこいて」

「やめろ!」

五人がかりで布団を引きはがされた後、肥満体の池本に乗っかられ、上半身を固められた。

「おら、脱げ脱げ」と他の奴が私のズボンに手をかける。

「やめろ!やめろて!!やめろてえええ!!!」

私は半狂乱になって抵抗し、声を限りに叫ぶが、彼らの悪ノリは止まらない。

畜生!何でこんな目に!

前から思っていたが、うちの両親はどうして反撃可能な攻撃力を有した肉体に生んでくれなかった!

五体満足の健康体な程度でいいわけないだろ!

私がなぜか両親を逆恨みし始めながら、凌辱されようとしていたその時だ。

ドカン!!

入口の戸が乱暴に開けられる音が室内に響き渡り、その音で一同の動きが止まった。

そして、怒気露わに入ってきた人物を見て全員凍り付いた。

「やかましいんじゃい!!」

その人物はスリッパのまま室内に上がり込むなり凄味満点の声で怒鳴った。

我がO市立北中学校で一番恐れられる男、四組の二井川正敏だ!

やや染めた髪に剃り込みを入れた頭と細く剃った眉毛という、私をカツアゲした連中と同じく、いかにもヤンキーな外見の二井川は、見かけだけではなく、これまで学校の内外で数々の問題行動を起こしてきた『実績』を持つ本物のワル。

池本や小阪のような小悪党とは貫禄が違う。

「何時やと思っとるんじゃい?ナメとんのか!コラ!!」

そう凄んで、足元にあった誰かのカバンを蹴飛ばし、一同を睨み回すと、池本や小阪、大西らも顔色を失った。

もう私にいたずらしている場合ではない。

どいつもこいつも「ご、ごめん」「すまない、ホント」と、しどろもどろになって謝罪し始めている。

ざまあみろ!池本も小阪も震え上がってやがる。さすが二井川くんだ!

普段は他のヤンキー生徒と共に我が物顔で校内をのし歩き、気に入らないことがあると誰彼構わず殴りつけたりする無法者だが、二井川くんがいてくれて本当によかった。

災難続きのこの日の最後に、やっとご降臨なされた救い主のごとく後光すらさして見えた。

この時までは…。

「さっき一番でかい声で“やめろやめろ”って叫んどったんはどいつや!!」

え?そこ?夜中に騒ぐ池本たちに頭に来て、怒鳴り込んで来たんじゃないの?

「あ…ああ、それならこいつ」

池本も小阪も私を指さした。二井川の三白眼がこちらを睨む。

「おめえか、やかましい声でわめきおって!コラァ!」

二井川は私の胸ぐらをつかんで無理やり引き立てた。

「え、いや、だってそれは…」

大声出したのは、こいつらがいたずらしてきたからじゃないか!おかしいだろ!何で私なのだ?そんなのあんまりだ!!

「ちょっと表へ出んか…、お?こいつ何でズボン下げとるんや?」

「ああ、それならさっき、こいつのフルチン見たろう思ってさ、脱がしとったんだわ」

矛先が自分には向かないと分かった池本が喜色満面で答えると、二井川からご神託が下った。

「そやったら、お前。お詫びとして、ここでオ〇らんかい

「え…いや、何で…!」

「やらんかい!!」

魂を凍り付かせるような凄絶な一喝で私は固まってしまった。

「おい、おめーら!こいつを脱がせい!」

「よっしゃあ!」

凍り付いた私は、二井川からお墨付きをもらって大喜びの池本たちに衣服をはぎ取られた。

終わった、私の修学旅行は一日目で終わってしまった。

飛び入り参加した二井川を加えた一同の大爆笑を浴び、当時放送されていた深夜番組『11PM』のオープニング曲を歌わされながらオ〇ニー(当時はつい数か月前に覚えたばかり)を披露する私の中で、修学旅行を明日から楽しもうという気力は完全に消失していった。

絶頂に達した後は、カツアゲされたショックも矢田谷に怒鳴られたことなど諸々の不快感も吹き飛んだ。

明日からの国会議事堂も鎌倉も、あと二日もある修学旅行自体もうどうでもよくなった。

私の中学生活も、私の今後の人生までも…。

そんな気がしていた。

おまけに次の日、国会議事堂見学の時に昨日のショックでふらふら歩いていた傷心の私は、二井川の仲間で同じくヤンキー生徒の柿田武史に「目ざわりなんじゃい!」と後ろから蹴りを入れられた。

谷田谷の野郎は、担任なのに知らんぷり。

それもかなり不愉快な経験だったが、その他のことについて、昨日までのことで頭がいっぱいとなっていた当時の私が、二日目からの修学旅行をどう過ごしたか、あまり覚えてはいない。

初日にさんざん私で遊んだ池本たちは、二日目の晩にはもうちょっかいをかけてこなかったが、彼らと私との間で時空のゆがみが生じていたことだけは確かだ。

「ああー帰りたくねえな」と彼らはぼやき、「まだ帰れないのか」と私は思っていた。

失われた修学旅行

修学旅行が終わって日常が始まった。

ディズニーランドでカツアゲされたことは明るみにならなかったが、あの第一日目の宿「鳳明館」で私が強制された醜態は池本たちが自慢げに言いふらしたことにより、私は卒業するまでクラスの笑い者にされた。

修学旅行で起きたことは、もちろん親にも話さなかったし、高校進学後の三年間、誰にも話せなかった。

時間というものはどんな嫌な記憶でもある程度は消してくれるものらしいが、私の場合、三年間では半減すらしなかったからだ。

高校時代に中学の卒業式の日に配られた卒業アルバムを開いたことがあったが、中に修学旅行の思い出の写真ページがあり、二日目の国会議事堂前で撮ったクラスの集合写真に写る私自身が、あまりにもしょっぱい顔をしているので、見ていられなかった。

卒業文集の方も読んでみたら、池本と小阪がいけしゃあしゃあと修学旅行の思い出を書いていたのには、思わずカッとなった。

池本の思い出にいたっては題名が『仲間と過ごした鳳明館の夜』だ。

私にとって悪夢だった修学旅行にとどめを刺した第一日目の宿の思い出を、主犯の一人である池本は、かゆくなるほど詩情豊かに書いてやがった。

そこには私も二井川も登場せず、ディズニーランドの思い出や将来について、小阪や大西らと部屋で語り明かしたことになっている。

「僕はこの夜のことを一生忘れない」と結んだところまで読み終えた時、私はまだ少年法で保護される年齢だったため、他の高校に進学した池本の殺害を本気で検討した。

そうは言っても、時間の経過による不適切な記憶の希釈作用が私にも働くのはそれこそ時間の問題だったようだ。

大学に進学した頃には他人に話せるようになっていたし、何十年もたった今では『失われた修学旅行』などと笑って話せるまでになっている。

もっとも、未だに中学校の同窓会には一度も参加したことがないし、どんなことがあっても東京ディズニーランドにだけは行く気がせず、ミッキーマウスを見ただけで殴りたくなるが。

しかし、今となってはあの修学旅行であれらの出来事があったからこそ、今の私があるのかもしれない。

どんなに調子が良くても「好事魔多し」を肝に銘じ、有頂天になって我を忘れることがないように自分を戒め、慎重さを堅持することこそ肝要としてきた。

今まで大きな災難もなく過ごせてきたのはそのおかげだと、今の自分には十分言い聞かせられる。

中学の卒業アルバムを今開いてみると、三年二組の担任だった矢田谷、宿で私をいたぶった池本、小阪、大西たち、そして四組の二井川の顔写真は、コンパスやシャープペンシルで何度もめった刺しにされて原型を留めていない。

中学卒業後の高校時代の自分がやったことに、思わず苦笑してしまう。

これではどんな顔をしていたか、写真だけでは思い出すことはできないが、しばらくすると中学校時代が部分的にリプレイされ、徐々にだが彼らの顔が頭に浮かんでくる気がする。

そして、私をディズニーランドで恐喝したあの他校のヤンキーたち一人一人も。

時が過ぎて、はるか昔になってしまえばどんな出来事もセピア色。

三十年後の今では中学時代のほろ苦くもいい思い出に…。

いや!そんなわけあるか!

やっぱり2021年の今でもあいつらムカつくぞ!!

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奪われた修学旅行 = カツアゲされた修学旅行生


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本記事中に出てくる人物の名前は、全て仮名となります。

中学校生活で最高のイベントといえば、修学旅行を挙げる人は少なくないだろう。

私はその中学校の修学旅行を、気が早すぎることに、まだ小学校六年生の頃から楽しみにしていた。

小学校での修学旅行先は京都・奈良であり、一泊二日とあっという間であったが、11歳だった私には、旅行先での瞬間瞬間が非常に充実しており、それまでの人生で最良の二日間だった。

旅行先の宿でクラスメイトたちと過ごした一夜は、家族旅行では味わうことができない鮮烈な体験であったことを、今でも覚えている。

当時の私

旅行から帰った後の私は、修学旅行ロスとも言うべき症状に襲われ、配られた思い出の写真を見ながら、もう二度と来ることのないその瞬間を脳内でリプレイしようと努めては、タメ息をついていたくらいだ。

同時に、私は中学校の修学旅行に思いをはせるようになった。

同級生のうち、中学生以上の兄や姉がいる者から聞いたところ、中学の修学旅行は二泊三日だという。

たった一泊二日の小学校の修学旅行でも、あれだけ楽しかったのだ。単純計算で、倍以上の楽しさになるだろうと確信していた。

しかし、その時は全く予想していなかった。

その中学の修学旅行が、これまでの人生で最もひどい目に遭った体験の一つとなり、「好事魔多し」という鉄の教訓を、私に生涯刻み込むことになるであろうことを。

待ちに待ったその日

中学に入学した時から、私の心は二年後の修学旅行にあった。

早く三年生になって、修学旅行当日を迎えたかったものだ。

そんな私の期待を、いやがうえにもさらに高めた知らせを耳にした。

私が入学した年、三年生の修学旅行の行き先は関東方面で変わらなかったが、第一日目の目的地が、何とあの東京ディズニーランドになったというのだ。

ディズニーランド

私の期待は、一年生の時点で早くも暴騰した。

これはきっと最高の思い出になるに違いないと確信し、いよいよ三年生になるのが待ち遠しくなった。

そして、短いような長いような中学校生活も二年が過ぎ、晴れて中学校三年生となった1989年の5月20日、私は夢にまで見た修学旅行初日を迎えた。

それまでの中学校生活はこの日のためだったと言っても、過言ではない。

前日、修学旅行へ持参するお菓子を、学校で定められた千円の範囲内でいかに好適な組み合わせで購入すればよいかと、スーパーでじっくりと選んでいたために、帰宅が遅くなったものだ。

きっと明日から始まる三日間は、人生で最も幸福な時間となり、終生忘れることなく、何度も思い出すことになるだろう。

私はその日、そう信じて疑わなかった。

そして迎えた修学旅行当日は、私の通うO市立北中学校に集合し、バスに乗って東海道新幹線の駅へ。

そこからは新幹線に乗って、最初の目的地・東京へは一直線だ。

新幹線の中では、クラスの皆はお菓子を食べたり、トランプをやったり、意味もなく動き回ったり、私を含めた三年二組全員は、これから始まる輝かしい時間に誰もが胸躍らせ、車内に期待が充満していた。

新幹線はあっという間に愛知県を越えて静岡県に入った。

浜名湖を超えて天竜川を過ぎて、富士山の雄姿を拝みながら、そのまま一路東に向かい、普段の退屈な学校生活とは全く異なる得難い極上の非日常を味わいながら、三島、熱海、小田原、そして新横浜に到達。

やがて多摩川を越えて東京都に達すると、今まで見たこともない大都会に入ったことを実感した。

ビルの大きさや市街地の質が自分たちの知っている最も大きな街、名古屋市を凌駕しているのだ。

テレビでしか見たことがない東京を実際に目の当たりにした我々は圧倒された。

東京駅に到着すると、そこからはバスに乗って最初の目的地、東京ディズニーランドに向かう。

車中では、私を含めたクラスメイトたち誰もが旅の疲れなどみじんも見せず、これからが本番だと興奮していた。

ディズニーランドへの道中は、窓の外がいかにも東京という光景の連続に目を奪われ続けたため、あっという間に到着してしまった印象がある。

昼食は外の景色を見ながら移動中のバスの中で摂り、待ちに待った約束の地に到達したのは正午過ぎ。

広大なディズニーランドの駐車場でバスを降りて一刻も早くランド内に突撃したかった我々だが、いったん集合させられ、学年主任の教師である宮崎利親から、長ったらしい注意事項を聞かされた。

宮崎が、いつもの論理破綻した冗長な説明において何度も強調したのは、班行動厳守。

所属する班を離れて班員以外の人間と、又は単独で行動してはならないということだ。

そうは言っても、私は自分の所属する班に不満だった。

なぜなら、班長の岡睦子は、私の好みからは程遠い容貌の上に、気が短く口うるさい女。

もう一人の女子、芝谷清美はクラスのカーストで底辺に位置するネクラな不可触民的女子。

男子の大西康太とは、同じクラスになったのは小学校から通算して初めてだし、少々気が合わないところもあって、普段からあまり話す仲ではない。

こんな奴らと一緒でどう楽しめと?

私は班から離脱することを、とっくに心に決めていた。

だが、その決断が後の災難の大きな要因になることを、この時点の私はまだ知らない。

入口ゲートをくぐると、もう教師たちの統制は効かない。

班は、大体男女二人ずつの四人を基本構成としているが、わが校の制服を着た男ばかり三人や女ばかり五人、或いは男女のペア等の不自然な組み合わせが、あちこちで出現し始めた。

皆考えることは同じなのだ。

私もしない手はないではないか。

我々の班は、独裁的な班長の岡の一存で最初に「シンデレラ城」、次に「ホーンテッドマンション」に行くことになっていたが、私は移動のどさくさに紛れて離脱に成功、別行動を開始した。

本当は、同じクラスで気の合う中基伸一や難波亘と行動を共にする手はずになっていたが、あまりにも人が多すぎて、彼らがどこへ行ったか分からなくなった。

今から思えば携帯電話のない時代の悲しさだ。

そうは言っても、私は一人であることを幸いに、自由自在にアトラクションを回ることができた。

「カリブの海賊」、「ビッグサンダーマウンテン」に「空飛ぶダンボ」等々、ジェットコースター系を好む私は「スペースマウンテン」に三回も乗った。

ビッグサンダーマウンテン
スペースマウンテン

「ホーンテッドマンション」やショーなど見てても、退屈なだけだ。

「シンデレラ城」など論外、班長の岡の感性に支配された班と行動を共にしていたら、そういった退屈なアトラクションやショッピングばかり行く羽目になっていたはずで、こんなに満喫はできなかったであろう。

私は、自分の果敢な実行主義を自画自賛しつつ、自分好みのアトラクションを渡り歩き、小腹がすくとソフトクリームやポップコーンを買って小腹を満たした。

ディズニーランドの食べ物はどこも割高であったが、心配はない。お小遣いはたっぷりもらっているのだ。

しかし、調子に乗って食べ過ぎて、もよおしてきてしまった。

幸い、トイレはすぐ近くに見つかった。

この差し迫った緊急事態を回避するためにそのトイレに入ると、さすが天下のディズニーランド。床で寝ても平気なくらい清潔だ。

しかもありえないことに、私以外に人がいないのがありがたい。私は心置きなく個室の一つに飛び込んだ。

そして、修学旅行が楽しかったのはこの時までだった。

今考えても無駄だが、なぜよりによって、このトイレを選んでしまったのだろうか?

このトイレこそ、有頂天の私を奈落の底へと突き落とす悲劇の舞台となったのだから。

悪魔たちとの遭遇

ちょうど個室に入ってドアを閉めて、一安心したのと同時だった。

下卑た大声が外から聞こえたのだ。

「お、誰かウンチコーナー入ったぞ!」

誰かに入るところを見られたようである。

声からして私と同じ中学生くらいだと思われたが、その声に聞き覚えはないため、きっと他の学校の修学旅行生だろう。

しかし、ウンチコーナーだと?

私のいた中学校では大便をするということ自体がスキャンダルになるため、外にいるのが自分の学校の人間でないとみられることに一瞬ほっとしたが、それは大きな間違いだった。

「おい出て来いよ」

「ちょっと顔見せろ!」

などと言ってドアを叩いたり蹴ったりで、かなり悪質な連中なのだ。

そんなこと言ったって、こっちはもうズボンを脱いで、便座に腰掛け、大便を始めている。

だが、彼らの悪ノリは止まらない。

「余裕こいてウンコしてんじゃねえよ」

「お、中の奴、今屁ぇこいたぞ」

「おい!いつまでケツ吹いてんだ?紙使い過ぎなんだよ!」

何なのだ、こいつらは?余計なお世話ではないか!

ヒトの排泄の実況中継や批評まで始められるに至って、私のいらだちは頂点に達した。

ドンッ!!

私は「うるさい」とばかりに、内側から個室のドアを思いっきり叩いた。

音は思ったより大きく響き渡り、外の連中の茶化す声が一瞬静まり返る。

私の強気にビビったのか?

いやいや、その逆だった。

「ナニ叩いてんのオイ!」

「俺らと喧嘩してえのか?!」

「引きずり出すぞ!ボケ、コラ!!」

彼らは、先ほどよりずっと大きな声で威嚇しながら、ドアをより強く蹴飛ばし始めたのだ。

まずい、怒らせてしまった。

そして、さっきから思っていたことだが、外の奴らは悪質も悪質、ヤンキーなのではないのか?やたらとドスが利いたガラの悪い口調である。

ならば、断固出るわけにはいかないではないか!

私はパニックになりながらも、まずは外に何人いるのか確認するのが先決だと判断。

この個室にはドアと床の間に隙間があったため、私はその隙間から外を偵察することにした。

清潔だとはいえ少々抵抗があったが、手をついて、床とドアの隙間に顔を近づける。

が、相手も外の隙間から中をのぞこうとしていたらしい。

それがちょうど私が顔を近づけた場所と向かい合わせで、至近距離で私と相手の目と目が合ってしまった。

「うわ!」

「うおお!」

私も驚いたが、外の奴もかなりびっくりしたらしい。中と外で同時に驚きの声を上げて、顔をそらした。

「中にいる奴、宇宙人みてえなツラしてるぞ!」

私は、相手の顔を一瞬すぎて判断できなかったが、外の奴は私の特徴を一方的にそう表現した。

ヒトを宇宙人呼ばわりとは失礼な奴らだ。

しかし、連中の失礼さは、そんなレベルではなかった。

「君は完全に包囲された。無駄な抵抗はやめて出てきなさい」

とか、ふざけたことを言って、タバコに火をつけて、個室に投げ込んできやがった。燻り出そうという腹らしい。

水も降って来たし、借金の取り立てみたく、ドアも連打してくる。

屈してはならない!出て行ったら何されるかわからない!

何より、やられっ放しもしゃくだ。

私は降ってきた火の付いたタバコを投げ返したり、ドアを蹴飛ばし返したりと『籠城戦』を展開した。

どれだけ攻防戦が続いただろうか。まだ水も流せないし、私はズボンもパンツも下ろしたままだ。

籠城戦というより、闇金の取り立てにおびえる多重債務者の気分に近かっただろう。

そのように、ここで一生暮らす羽目になるのではないかとすら、錯覚した時だった。

外の連中とは違う感じの声が響いてきた。

「ちょっと、ちょっと、止めてください。何してるんですか?」

その声がしたとたん、外からの攻撃が止んだ。

ディズニーランドの従業員、通称『キャスト』か!?

そうだろう!いつまでもこんな無法行為を続けれるほど、日本はならず者国家ではない、止めに来てくれたんだ!

「何だよ!中の奴が俺らをナメてんだよ」

「とにかくダメ。こういうことはやめて。警察呼ぶよ」

「中の奴と話させろよ」

「ダメダメ、もういいから出て!」

外で押し問答が続いていたが、ヤンキーどもが折れたようだ。

「わかったよ、行きゃいいんだろ!くそやろーが!覚えとけよ!」と、捨て台詞を吐いて出て行く気配がするのを、ドア越しに感じた。

助かった!さすがディズニーランド、しっかりしてる!これで安心だ。

やっとズボンを穿ける。脱出できる!

恐る恐るドアを開けて外に出ると、外の世界はさっきと同じただのトイレだったが、あの極限状態から脱した後は違って見えた。

異常事態は終わり、日常世界に生還してやった、という歓喜と達成感に満たされていたからだ。

当時のトイレのイメージ

私はトイレの光景を見て、あんな感慨に浸ったことはない。また、今後もないだろう。

同時に他校の不良少年たちの攻撃に耐え抜き、敢闘したという充実感に満たされていた。

これは災難ではあったが、あの勇敢なキャストの助けもあったとはいえ、私の偉大なる勝利だと。

命の恩人たるくだんのキャストにお礼を言うべきだったが、ヤンキー共々トイレ内にはもういないから、別にいいだろう。

とにかくトイレの外に出よう。外では美しい夢の国が待っている。

だが、それは間違いだった。

奴らは出入り口で私を待っていやがったのだ。

夢の国でのひとり悪夢

「このウンコ野郎、やっと出てきやがったか」

そう言って剣呑な目つきで出入り口をふさいでいたのは、ヤンキー漫画のリアル版のような不良中学生七人。

さっきの連中であろうことは間違いないが、剃りこみ頭や染めた髪で、変形学生服を着た本格的な奴らだった。

写真はイメージです

どういうことだ?キャストに追っ払われたんじゃなかったのか?

私は一瞬キツネにつつまれたようにあ然とした。

「ダメダメ!トイレの中へ戻ってください!」

ヤンキーたちの中の一人、眉なしのデブがおどけて言ったその声も口調も、あの恩人だったはずのキャストそのもの。

「オメー、バカじゃねえの?フツーひっかかるか?」

茶髪のヤンキーの一言で、私は彼らの打った猿芝居に、見事に騙されたことを知った。

「そりゃそうとオメーよ、俺らにずいぶんナメたマネしてくれたな」

と、同じ中学生、いや同じ人類とは思えないくらい凶悪な人相のヤンキーたちが私を囲む。

恐怖のあまり穿いていたブリーフの前面が、用を足した直後にもかかわらず尿でじわじわと濡れてきたその時の感覚を、今でも覚えている。

震えあがった私は「え、俺知らないよ」と苦しい嘘をついたが、「オメ―しかいなかっただろう!」と一喝され、トイレの中に連れ込まれた。

二人くらいが、見張りのためか出口を固める。

悪夢の本番が始まった。

床に土下座させられた私は、ヤンキーどもに脅されながら小突き回され、頭を踏まれ、手数料だとかわけのわからない面目で、金を巻き上げられた。

旅行先でのカツアゲに備えて、靴下の下に紙幣を隠すなどの危機管理を行う修学旅行生もいるようだが、当時の私にとってそんなものは想定外であり、財布の中に全ての金があったために有り金全てを強奪された。

私の金を奪った後も、彼らは「殺されてえのか」だの「まだ終わったと思うなよ」などと、私の髪の毛を引っ張ったり胸ぐらをつかんだりして執拗に脅し続け、その時間は、個室に籠城していたよりも確実に長かった気がする。

生徒手帳まで奪われた私は「テメーの住所と学校はわかった。チクったら殺しに行くぞ」と脅迫された。

ヤンキーどもは「そこで正座したまま400まで数えたら出ていい」と命じ、最後に「東京に来るなんて百年早えぞ、田舎者!」と捨て台詞を吐いて、私の頭をかわるがわる小突いたり蹴りを入れてきたりして立ち去って行った。

さっきのようにまだ外にいるかもしれず、恐怖に震えるあまり、涙目の私が律義に400まで数えてから外に出た時には、日がだいぶ傾いていた。

ヤンキーたちは、自分たちの犯行が露見するのを恐れてたらしく、あまりこっぴどい暴行を加えてこなかったが、私の受けた精神的な打撃及び苦痛は甚大だった。

私はまごうことなきカツアゲに遭ったのだ。

カツアゲされた気分は、実際にやられた人間にしかわからないと、今でも断言できる。

おっかない奴に脅され、さんざん小突かれて金品を奪われる恐怖と屈辱は、笑い事では済まないくらいの災難なのだ。

しかも私の場合、ずっと楽しみにしていた修学旅行でそれが起こり、一番楽しいはずの夢の国ディズニーランドで、自分だけが悪夢の真っただ中だったから、なおさらである。

信じたくはなかったが、それは事実以外の何物でもなかった。

こんな目に遭うなんて誰が思うだろう?

はしゃぐのは、許されざる罪だとでもいうのか?

予測できなかった当時の私を誰が責められよう。

ランド内で目に入る客たちは誰も彼も楽しそうにしているため、私は余計に前を見ていられず、下ばかり見て歩いていた。

地面がさっきより暗く見えたのは、日が落ちてきたからばかりではない。

私は半泣きだったため、視界が時々グニャリとゆがむ。

私は修学旅行への期待に胸膨らませていた小学六年生からこれまでの三年近くの年月ばかりか、中学校生活そのものが崩れ去ったように感じていた。

もう、何も考えたくなかった。

こんな不幸に遭うことは、なかなかないはずだ。

これに匹敵する不愉快が、その後も立て続けに起こることは普通ありえない。

だが信じられないことに、私の災難はこれで終わらなかったのだ!

それもこの直後の、この日のうちにだ!

神が私に与えた試練?いや、天罰か。いやいや、嫌がらせとしか思えない。

試練にしては明確に害意を感じるし、ここまで罰されなければいけないことをした覚えもない。

私がどの神の機嫌を、いつどのように損ねたんだろうか?

その神による嫌がらせ第二段の開始時刻が刻々と迫っていることに、この時の私はまだ気づかなかった。 

パート2に続く

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中学生にいじめられた29歳の男の復讐


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2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小で起きた児童殺傷事件は犠牲になった児童の数もさることながら、学校に凶器を持った不審者が乱入する学校襲撃事件としても、社会に衝撃を与えた。

この事件以後、全国の学校で部外者の学校施設内への立ち入りを規制したり、警備員を置くなどの安全対策が取られるようになり、もはや、学校は無条件に安全な場所ではないという考えが国民の間で広まった。

しかし、不審者が学校に侵入して生徒を無差別に襲うという事件は、この池田小事件が日本初ではない。

それより13年前の1988年7月15日、神奈川県平塚市のY中学校で、同様の学校襲撃事件が起きていたのをご存じだろうか?

この事件では死者こそ出なかったものの、鎌や斧を持った男が中学校に乗り込み生徒たちを無差別に攻撃して、8人を負傷させた。

犯人の男は教職員らに取り押さえられて逮捕されたが、その犯行動機たるや、あまりにもあきれたものだった。

ボブ

橋本健一(仮名)

犯人の橋本健一(仮名)は、事件のあった平塚市立Y中学校から、200メートルほど離れた団地で、両親や妹と同居していた29歳の無職。

子供のころから自閉症気味で家に閉じこもりがちだった橋本は、中学卒業後に就職したものの、一年とたたず辞めており、以降、働くこともなく実家に寄生して、ニート生活を送ってきた。

ニートとはいえ、ずっと家に閉じこもりっぱなしの引きこもりではない。

働いていない彼は毎日ヒマにまかせて、家のママチャリに乗って近所を徘徊しており、よく向かっていた先がY中学校であった。

中卒の橋本には中学校に特別な思い入れがあったと思われる。

付近をうろつくだけではなく、校内に入っていくこともあった。

そして、女子生徒がグラウンドで体育の授業を受けていようものなら、それを凝視してニヤニヤしていることもあったし、下校途中の女子生徒をつけまわしたりもした。

完全に不審者そのものである。

行動だけでなく外見も相当怪しい。

ひょろっとした150cmほどの小男で、うつろな目をしたおかっぱ頭の橋本は、見る者に異様な印象を与えた。

そんな妖怪のような成人の男を、生意気盛りの中学生たちが放っておくわけがない。

事件が起こる5年ほど前からY中学校の生徒たちは橋本をからかうようになってきた。

中学生たちが橋本に付けたあだ名は「ボブ」。

それは、彼のおかっぱ頭がボブカットのようであったことに由来する。

そして身なりも行動も怪しく、何より弱そうな見かけだった橋本へのちょっかいが「いじめ」へとエスカレートするのに、時間はかからなかった。

中学校に近づくと大声で罵声を浴びせられたり、唾を吐きかけられたり、石を投げられたり、傘で付かれたり、足蹴にされたり。

橋本は基本無抵抗だったが、時々怒って抵抗することもあった。

しかし「それはそれで面白い」と嫌がらせがグレードアップする始末で、中学生も一人ではない場合が多かったため、よってたかって殴るけるの返り討ちにされたこともあったらしい。

ならば近づかなければいいのだが、橋本はY中学校に出没することをやめなかった。

事件の前年には、中学校の運動会の最中に校内に入ってきた橋本を生徒たちが競技そっちのけで迫害、玉入れに使う玉を、数十人が一斉にぶつけた。

この時は、さすがに教師も止めに入ったようだが、悪ガキどもにとっては、きっと運動会の競技より楽しかったことだろう。

また男子だけでなく女子も面白がっていじめに参入することもあったし、小学生までもが、橋本の自転車を囲んで荷台を引っ張ったりしてからかうようになってきた。

家にいても安全ではない。

どうやって知ったか、中学生たちは橋本の住所や電話番号を知っており、自宅に石を投げ込まれたり、いたずら電話をかけられたりもした。

はたから見て自業自得の気が大いにするし、どう見ても、いじめられに行っているとしか思えない橋本だが、なぜこういう目に遭うのか理解できず、我慢ができなかったようだ。

一度Y中学校に、以下のような手紙を書いて抗議したことがあった。

「先生一同、日ごろ子供たちに嫌がらせをされ、つばを吐かれたり悪口を言われたりして困る。しっかり指導してほしい。弱い者は、いつもいじめられても黙ってがまんしていなければならないのか」

この抗議を受けて、学校側も生徒たちにある程度の指導はしたようだが、そんなことで思春期のガキどもが改心するなら、中学教師は苦労しない。

この時代のY中学校の生徒たちも同じで、いじめは相変わらず続く。

1988年(昭和63年)4月、Y中学校は新年度を迎えた。

橋本は学校に抗議した上に、旧三年生が去って新一年生が入ってきたことで、自分へのいじめはなくなると考えていたようだが、中学生を甘く見てはいけない。

在校生たちは、それまでと同じく橋本を見かけると嫌がらせをしてきたし、その悪しき伝統は、ほどなくして入学したばかりの新一年生にも、順調に受け継がれた。

そしてこの年、それまで橋本の心に蓄積されてきた怨念が飽和状態を超えて臨界点を迎えて爆発、事件に至ることになる。

臨界点

抗議したのに、自分へのいじめはなくならない。

橋本の中では、生徒たちばかりではなく、学校全体が敵に思えてきた。

溜め込める怨念には許容量というものがある。

もう我慢できない。

彼は平塚市内のスーパーなどで刃物類を買い集め始め、7月になったころには、鎌2丁、斧1丁、文化包丁や果物ナイフ6丁を揃えていた。

自分を虐げてきたY中学校の生徒たちを、片っ端から血祭りにあげる気になっていたのだ。

やるなら夏休みが始まる7月20日前にやろうと心に決めながらも、普段通りY中学校校内に入った7月13日。

「おい、ボブが来やがったぜ」

「ナニまた入ってきてんだよボブ!消えろ!!」

「またやられてえのか?コラ!」

「ボールぶつけっぞ!オイ!!」

この日グラウンドで練習をしていた野球部の部員たちだ。

卓越した運動能力を有する彼らは、同時に最も元気の良い一群でもある。

橋本の姿を認めるや、迫力満点の罵声を浴びせてきた。

野球部員たちにとっては、いつもどおりのことだし、皆もやっているから、特に大したことだとは考えていなかったであろう。

だがこの行為が、橋本に凶行の実行を決意させるトリガーとなったことを、彼らは知る由もなかった。

暴走

二日後の7月15日金曜日午前10時40分ごろ。

授業が行われているY中学校に、橋本が現れた。

いつもと違うのは、校舎にまで入り込んだことと、その手に紙袋を持っていたことである。

紙袋の中には二、三か月かけて買い集めた斧や鎌、刃物。

一昨日の決意を実行に移すためだ。

橋本が校舎に入って最初に向かったのは、校舎三階の音楽室。

歌声に交じって聞こえる声から、授業をしているのが女性教師であり、やりやすいと考えたからである。

その音楽室では、一年五組の生徒41人が合唱の練習中だったが、橋本が袋から出した鎌を片手に突然ドアを開けて入ってくると、歌うのを止めて静まり返った。

一瞬あっ気にとられていた一同だったが、橋本が無言のまま一番近くにいた男子生徒に鎌を振り下したとたん血が飛び散るや悲鳴が上がり、室内は大パニックとなった。

橋本は斧も取り出して、椅子や机を倒しながら、逃げ回る生徒に次々襲い掛かかる。

自分をいじめたことのある生徒だったかどうかは関係がない。

橋本にとって、このY中学校の生徒であるというだけで罪なのだ。

退屈だが平穏だった学校での日常は、最悪の非日常へと急変した。

この教室では、合計3人が頭や腕を切られて負傷する。

教室から逃げた生徒を追いかけて、廊下に出た橋本が次に向かったのは、一教室おいて隣接する一年四組の教室。

ここでは、最前列の入り口付近に座って国語の授業を受けていた生徒を真っ先に切りつけた。

蜂の巣をつついたような騒ぎとなった教室内部に、すかさず乱入し、無言で右手に鎌左手に斧を振り回して、生徒たちを追いかけ回す。

音楽室同様、教室は生徒たちの悲鳴に交じって、女性教師の「みんな逃げて!逃げて!!」という叫び声が、こだまする修羅場と化した。

橋本は四組で生徒3人を血祭りにあげると、より多くの生贄を求めて、上の四階に向かった。

四階でも二年生が授業を受けていたのだが、下の階から尋常ではない大声が聞こえてきたため、生徒たちが何ごとかと廊下に出てきていた。

そこへ下の階から上がってきた橋本が襲いかかり、生徒が2人やられた。

その勢いで、別の教室にも向かおうとした橋本だったが、その前に立ちはだかる者たちがようやく現れた。

Y中学校の教職員だ。

椅子を持って橋本を取り囲み、じりじりと近寄ってくる。

鎌や斧で武装しているとはいえ、複数の成人男性相手には分が悪かった。

壁の一角に追い詰められ、ナイフを出して抵抗しようとしたが、教職員の一人に組み付かれて取り押さえられた橋本は、観念して凶器を捨てた。

逮捕後

この凶行では死者こそ出なかったものの、生徒8人が負傷し、うち一人は、全治一か月の重傷であった。

負傷した生徒

教師たちに取り押さえられた橋本は、その後通報により駆け付けた平塚署の警察官に連行された。

平塚署では、刑事たちに動機などを厳しく追及されたが、橋本は犯行時と同じく無言だった。

黙秘していたのではない、しゃべれなかったのだ。

小さいころから、人と話すことが極端に少なかったために声帯が発達せず、大きな声で話すことができなかったのである。

そのため取り調べは、橋本に供述を紙に書かせるという異例の形になった。

「復しゅうした。今年と去年、一昨年にY中学の生徒に悪口を言われたり、石をぶつけられたりした…」

「冬には雪だまを投げられたり、家に石を投げられたりした。学校に『何とかしてくれ』と言ったが、何もしてくれず、無視された」

「この学校の生徒ならば誰でもよかった。殺すつもりはなく何人かやれば気が済むと思った」

橋本は筆談でそう供述した。

さらに凶器を入れていた紙袋から、Y中学校への恨み言や襲撃したことの動機などが丁寧な字で書きこまれた大学ノートも見つかる。

そこにはこう書かれていた。

「ボブ、バカなどと一日多いときで四、五十回も悪口を言われる。本当にムシャクシャする。皆殺しあるのみ」

事件後、新聞記者の取材に答えた生徒の一人は「いじめているという気持ちはなくて、遊んでいるつもりだった」と殺人犯による「殺すつもりじゃなかった」と同じような無責任な言い訳を吐いていた。

また「僕らも悪かったかもしれない」と殊勝な答えをした生徒もいた。

いずれにせよ、襲われたY中学校の生徒たちにとっては、身も凍る衝撃的な事件となったようである。

弱い者いじめによって自分に返ってくるかもしれない結果を、全校生徒が思い知らされたのだ。

事件後の現場検証

筆者の私見

私事ではあるが、Y中学校での事件が起きた当時、1975年生まれの筆者は中学二年生。

つまり、被害に遭った生徒たちと同年代であったから、この時の報道をよく覚えている。

もうおっさんに近い年齢の大人の男が、自分たちと同世代の中学生にいじめられたこと自体カッコ悪いのに、その報復に凶器を持って学校に乱入したんだから「みっともないったらありゃしない」とあきれ返ったものだ。

そして、私が通っていた中学にも、橋本のような部外者がよく校内に入り込んでいた。

「キチ」と皆に呼ばれていた知的障害のある二十代後半の男だ。

だが、「キチ」は「ボブ」のようにいじめられることはなく、わが校の生徒たちは、キチと一緒に遊ぶなど、一見友好的な関係を保っていた。

これはY中学校の生徒たちと違って、わが母校の生徒たちが善良だったからではない。

キチは怒らせると本当に危険なことで有名で、生徒たちも怖くて嫌がらせできなかっただけだからだ。

ボブがキチのように危険な側面を持っていたら、Y中学校の生徒も手を出さなかったはずである。

当時のだろうが今のだろうが、この世代のガキは変わらない。

弱い者いじめは、娯楽だと考えている。

相手がこちらにとって危険でなかったら、いつまでもやり続けるし、たいして深刻に考えることもない。

一方のやられる側は、それに慣れることはなく、怨念が積もり積もっていく。

それが限界を超えたら、あるものは自殺という「消極的な」手段をとるし、ボブのように「積極的な」手段に訴える者もいる。

起こりうるどちらか一方が起きたのだから、Y中学校の事件は、必然的に発生したものではないだろうか?

また、消極的より積極的な手段を採用した方がましだと思うが、ボブの良くないところは、いじめられる原因を自分で作った以外に、無関係の生徒に積極的な手段を行使してしまったことである。

せめて自分に嫌がらせをした張本人に向けていれば、多少は肯定的にとらえることができたかもしれないと思うのは、私だけだろうか?

出典元―読売新聞、毎日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

まんがでわかる ヒトは「いじめ」をやめられない

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口を糸で縫われた男 ~芳しき昭和の香ばしき事件簿~


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「うるさいと口を糸で縫うぞ!」

幼い時分、騒いでいると、よく親にそう脅されたものである。

私以外にも、言われことのある方は多いのではないだろうか?

最近では「ホチキスでとめる」の方がメジャーかな。

子供のころから、もし本当に口を糸で縫われたら、シャレにならないと思ったものだ。

しゃべれなくなる以前に、その痛みは半端でないであろうことぐらい、子供でも想像できる。

だから、本当にやられることはないだろうし、実際やられた人もいないだろう。

そう思っていた。

だが、世の中は広い。そして恐ろしい。

いたのである。この日本で、リアルに口を糸で縫われた人が!

それも、安土桃山時代や江戸時代の話ではない。

その事件が起きたのは、限りなく現代に近い昭和48年(1973年)12月18日の大阪府門真市だ。

おしゃべり大工

この口を糸で縫われてしまった気の毒な人は、大阪府茨木市に住むAさん(当時34歳)。

彼がそんな目に遭った原因は、そのままズバリ「口」だった。

このAさんは職業が大工であり、職人気質で口数の少ない人と思いきやその逆。

結構なお調子者で、あることないこと周囲に吹いて回る人物であったらしい。

そんな彼は、大阪府内の門真市にある一軒の洋酒喫茶に通い詰めていた。

目的は、その喫茶店のママ。

ママが美人であったか否かは別にして、少なくとも、Aさんはぞっこんであったようだ。

だからであろうか。

ある日、仲間と談笑していた時に、Aさんは、彼女についてこんなことを口にした。

「ワイ、あそこの喫茶店のママと寝たで!ヒーヒー言わしたったわ!」

嘘である。

「そうしたいな」と思うがあまり、口から出まかせを吐いたのだ。

だが、その場で皆の注目を浴びて調子に乗ったのか、それからも、彼はさも濃厚な肉体関係になっているようなことをペラペラ語った。

ばかりか、Aさんは後日、他の人間にもそのハッタリを自慢げに吹いて回るようになった。

それが大きな災難を招くことになる。

あまりにも多くの人間に言いふらしたからだろう。

Aさんのホラは、やがて巡り巡って喫茶店のママの周辺、それもよりによって彼女の旦那の耳に達してしまったのだ。

しかも、より厄介だったのは、その旦那の職業である。

暴力団幹部だったのだ。

昭和48年12月18日大阪府門真市

喫茶店のママの夫である福井某(当時41歳)は、泣く子も黙る巨大組織山口組の三次団体幹部で、殺人未遂など前科七犯の猛者。

話を耳にした福井は当然激怒し、12月18日の夜8時に、Aさんを門真市の自宅に呼び出すと、子分二人と共に、二階の部屋へ引きずり込んだ。

そして、その部屋で、余計なことを吹いて回ったおしゃべりへの過酷な制裁が始まった。

「こんガキぁ!ナメたマネさらしよってからに!覚悟せえ!!」と、ゴルフクラブでAさんを乱打したのだ。

「すんまへん!堪忍してください!アレはちゃーうんです!ホンマはやっとらんのですぅぅう!!」

Aさんは必死に弁明したが、それで済むならヤクザはいらない。

やっているいないにかかわらず、ここまで公言している以上ナメていることに変わりはないからだ。

福井らはAさんを裸にして縛り上げると、

「リンチはワイの専売特許や!もう余計なことしゃべれへんようにしたらぁ!!」

と言って、何と木綿針と糸でAさんの口を四針も縫った。

まさに口が招いた災いだが、その災いは口だけにとどまらなかった。

福井らは熱した鉄片をAさんの上半身に押し付けるというリンチまで行ったのだ。

「~~~~~!!!!」

口を縫われたままのAさんは叫び声をあげることすらできない。

そんな地獄のような暴行は翌日午前2時まで続いた。

幸いなことに、Aさんは命まではとられず解放されて、その足で近くの病院に駆け込んだ。

だが、その病院で縫い合わされた糸を抜いてもらうなどの治療を受けたものの、一か月の入院を余儀なくされる重傷であった。

自分の女房と関係を持ったと吹き回ったお調子者相手とはいえ、この仕置きはやりすぎだ。

暴力団員というのは本当に恐ろしい。

福井はその後、大阪府警の取り締まりにより、他の傷害罪や覚せい剤取締法違反で逮捕されて大阪拘置所に入れられていたが、三か月後の翌年昭和49年(1974年)2月14日に、この件が明るみに出たことで、再び警察署に移送されて取り調べを受けた。

ちなみに、Aさんの口を縫ったことへの法的裁きはいかほどであったかまでは、報道されていない。

しかし、昭和40年代の末期はまだ暴対法もなく、現在からみれば反社会勢力の暴力団が「保護」されていたも同然で、街の中に堂々事務所を構えて悪さをしていたんだから、すごい時代だった。

身から出たサビとはいえ、あまりにもひどい仕打ちを受けたAさんだが、もし2021年現在ご存命なら、82歳くらいだろう。

しかし、当時の恐怖と痛みは、半世紀近くたった今も忘れていないはずである。

口に縫われたような傷跡と、上半身の胸や腹に火傷の跡がある高齢者の男性を銭湯かどこかで見かけたとしても、「福井のこと覚えてますか?」とか話しかけるのは、人としてあるまじき行いだ。

それより、もっと心配なのは福井も存命で、この文章を目にしたら筆者はどうなるのか?ということだ。

もし生きてたら、福井の方は90近い年齢になっているはずだから筆者でも秒殺できるが、彼の舎弟や子分のまたその子分が私のところに押しかけてくるかもしれない。

口を糸で縫うのだけは、勘弁してほしいものである。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

本当は怖い昭和30年代 〜ALWAYS地獄の三丁目〜 平成生まれは知らない 昭和の常識 (イースト新書Q) 実録・昭和事件史 私はそこにいた

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