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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(後編)


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1989年3月に発覚した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人。

2022年の現代になっても語り継がれ、世界的にも知られている悪名高きこの事件は大きく報道され、1989年の日本に大きな衝撃を与えた。

殺された女子高生・古田順子さんは不良でもないし、犯人たちを怒らせるようなことは何もしていない。

上場企業の部長職を務める父と母、兄と弟の三人兄弟という健全な家庭で育っており、家族思いで母親の家事もよく手伝い、近所の人にも挨拶ができたため「よくできた娘さんだ」と評判だった。

学業成績や学校での素行にも問題はなく、身も心も華のある彼女は、友達も多かったという。

かといって傲慢な態度をとることは全くなく、誰からも愛されていたのだ。

そんな順子さんが、卒業後の進路として家電量販店への就職が決まり、残りわずかとなった高校生活を満喫していた頃に、宮野ら鬼畜たちの毒牙にかかり、若い命を絶たれてしまった。

理由はただひとつ。

彼女の容貌が、彼らにとっても魅力的だったからだ。

おまけに彼らは、欲しいものがあったらモノでも人でも、奪うことを無計画に繰り返す無法者たちでもあった。

両親や兄弟はもちろんのこと、同級生たちも彼女の死を悲しみ、葬式では、慟哭の嗚咽がこだましていた。

そして、葬式にはいなかったが、家族と同じくらい深い悲しみと喪失感に打ちひしがれ、怒りに身を震わせていた人物がいた。

順子さんの彼氏である。

彼氏が語る順子さんと過ごした日々

彼氏であることを自ら名乗り出て、某女性誌のインタビューに応じ、同誌記者にそのやるせない心情を語ったのは、川村(仮名)という建築作業員の23歳の青年であり、順子さんとは歳がやや離れている。

高校を中退しているが、犯人の宮野たちのように当然の権利のごとく道を踏み外すことなく、まじめに生きてきた勤労青年だ。

川村青年が語ったところによると、順子さんとの出会いは、事件が起こる前の年のクリスマス。

友人の一人が順子さんの親友と交際しており、その縁で初めて顔を合わせた。

「目が大きくて明るい子」

それが、川村青年の彼女に対する第一印象だったという。

それから二回ほど、その友達も含めた複数名で遊びに行ったりしてほどなく、本格的な交際が始まる。

川村青年のことを気に入ったらしい順子さんの方から、「今度は二人だけで会いましょう」と言ってきたからだ。

付き合うようになってすぐに迎えたバレンタインデーの日。

お菓子作りが好きだった順子さんは、手作りのチョコレートを贈ってくれた。

2月は彼女の誕生日でもあり、チョコレートをもらった川村青年は18金のネックレスを贈る。

それから、週に一回くらいデートをするようになったのだが、順子さんはいつも律儀にも、そのネックレスをつけてきた

また、彼女は普段から非常に気が利き、六歳も年下なのにこちらの気持ちを察してくれたらしい。

非の打ちどころのない子だったのだ。

夏になると、川村青年の運転する車でよく海へ一緒に遊びに行ったりして、1988年という年は、幸福に満たされて過ぎていく。

やがて秋になり冬が近づいてきたころには、「冬になったらスキーに行こう」などと話し合ったりもした。

秋も深まった11月23日は、川村青年の誕生日。

その日のデートでは、順子さんはセーターを持ってきてプレゼントしてくれた。

彼女の手編みの黒いセーターだった。

その日は、二人で食事をしてボーリングを楽しみ、順子さんを自宅まで送り届ける。

「またね!」

別れ際、笑顔で手を振る順子さん。

この時、川村青年はこれが順子さんを見た最後となるとは、つゆほども思わなかったに違いない。

だが、この最高の彼女はその二日後、青年の元から永遠に奪われることになる。

彼氏の悲憤

デートから四日後の27日。

順子さんの母親から、ただ事でない連絡を受ける。

娘が、学校の制服のまま失踪したというのだ。

自分の彼女が消えて、平然と構えていられる男などいない。

川村青年は心当たりのある所を血眼になって探し始めた。

休みの日はもちろん、仕事が終わってからも。

そのさなか、再び順子さんの母親から連絡が入り、順子さんが「家出しただけだからすぐに帰る」と、電話で伝えてきたことが知らされる。

これは当の母親はもちろん、川村青年も「これはおかしい」と感じた。

不自然すぎるし、何かあったのなら共通の知り合いに真っ先に連絡があるはずだと考えたからだ。

何かよくないことが起こっていることを、彼はこの時点で確信したという。

事実、この電話は監禁されている最中に犯人によって言わされたものだったことが、後の調べで判明している。

その後も、川村青年は独自で必死の捜索を続けたが、何の手がかりも得られない。

昨年順子さんと出会い、今年は一緒に楽しむはずだったクリスマスが過ぎ、年が明けて正月も過ぎ、バレンタインデーも過ぎ、彼女の18歳の誕生日も過ぎた。

そして3月30日。

その日は、川村青年にとって、それまでの人生で最も悲しく、最も怒りを覚えた日となる。

埋め立て地のコンクリート詰めのドラム缶の中から、順子さんがむごたらしい死体となって発見されたのだ。

その知らせを聞いた後、川村青年はフラフラと親友のアパートに転がり込み、悲嘆のあまり正気を失うまで酒を飲んだ。

4月1日、順子さんの通夜。

川村青年もひっそりと線香をあげに行ったが、翌日の葬式には姿を見せなかった。

その代わりに、彼女の死体が発見された埋め立て地に花を供えに行き、ひとりむせび泣いたという。

「もう順子ちゃんとは会えない」

4月の中頃、まだ悲しみと怒りの真っただ中だった川村青年は酒浸りの生活になっており、生前の順子さんに勧められて禁煙していたタバコをひっきりなしに吸いながら、涙声で記者に語った。

そして犯人たちについて話が及ぶと拳を握りしめ、当然ながら憤懣やるせない様子でこう言った。

「あいつらの顔は覚えた!出てきたら同じ目にあわせて殺してやりたい!!」

この取材までの間に、彼は被害者側の関係者として刑事から犯人たちの写真を見せられており、その顔を目に焼き付けていたのだ。

「あいつら人間じゃない!」

川村青年はそう吐き捨てながら怒りに震えていたという。

少年ならば何をやっても許されていた時代

そう、人間じゃない。

やったこともさることながら、逮捕されて刑事処分を受けた四人のうち三人が出所後に罪を犯しているから、本当にそのとおりだ。

宮野裕史は、振り込め詐欺の片棒をかついだ。

小倉譲は、出所後も反省するどころか周囲に犯行を自慢、そればかりか知人男性を監禁して暴行。

湊伸治に至っては殺人未遂まで犯した。

異様に軽い判決を下した裁判官の一人は彼らに、「事件を、各自の一生の宿題として考え続けてください」などと、迷言を吐いていたらしいが、そんな宿題をまじめにやるような奴らだと思うか?

90年代初頭、この事件を扱った書籍が何冊か世に出る。

そのうちの一冊の作者は、拘留中だった犯人本人たちにも面会して取材し、その著作で彼らの育った家庭環境などの面から、この事件を社会の問題として扱っていた。

それを読むと、まるで未成年だった犯人たちが、ゆがんだ家庭と社会環境の犠牲者であり、そのおかげでこの事件が“起こってしまった”かのような印象を受ける。

今から見れば、先のことだからわからなかったとしても、バカげた主張にしか思えない。

何歳だろうが、どんな環境で育とうが、救いようもなく悪い奴というのは世の中にはいるもので、まさしく彼らがそれに該当していることは、出所後に事件を起こしていることから、すでに証明されているではないか!

だが、事件が起きてからほどない、これらの本が出版された当時というものはまだ人間性善説が全盛で、社会の安全を守るために殺処分が必要なくらいのレベルの未成年の悪党が、世の中にいないことになっていたようだ。

現代ならば、未成年でも彼らのうち複数名が、無期懲役の判決を下されていたはずである。

あの時代から生き、凶悪犯罪を犯した者が少年だという理由で、甘い判決を下されるのを目の当たりにし、他人事ながら釈然としない思いをしてきた者から見て、犯罪に対してより厳しくなった点に限って言えば、今の日本は、あの時より良くなっているのかもしれない。

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知られざる女子高生コンクリ詰め殺人発覚当時の報道(前編)


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時代が平成になって間もない1989年3月29日。

ひったくりと婦女暴行により、練馬少年鑑別所に収監されていた宮野裕史(当時18歳)の自供により、異常な殺人事件が発覚した。

それは令和4年の現在の日本ばかりか、世界的にもある程度知れ渡ってしまうほどの悪名を誇る伝説的凶悪事件。

足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人である。

この事件は翌日には新聞やテレビのニュースで報道され、やがてワイドショーや週刊誌にも取り上げられて、当時の日本社会に衝撃を与えた。

当時、中学3年生になったばかりだった本ブログの筆者は、そのころのことを未だによく覚えている。

三十年以上過ぎた現在では、同事件についてネットや書籍で語りつくされている感があるが、犯行が伝えられた当時の報道のされ方は、どのようなものだったのだろうか?

本ブログでは犯行の詳細はさておき、当時この事件がどのように伝えられたかをご紹介したい。

事件直後の報道=被害者にも非がある

翌3月30日、警察は宮野と共犯の小倉譲(当時17歳)の両名を埼玉県三郷市の高校三年生・古田順子さんに対する殺人・死体遺棄容疑で逮捕、事件はその日のうちに新聞・TVなどで報道された。

そして事件の現場は、ほどなくして共犯として逮捕された湊伸治(当時16歳)が両親や兄と住む民家の二階であり、事件前から不良少年たちが出入りするたまり場だったことが判明する。

当時、そんなハイエナの巣のようなところに、なぜ高校生の女の子がいたのか?という疑問が指摘された。

そして何より、下の階では湊の両親が居住していたのだ。

無理やり連れ込まれたとしたら、助けを求めなかったのはなぜか?と、誰しもが思った。

また、おそらく、取り調べでの犯人たちの供述をもとにしたのであろうが、

『順子さんが水をこぼしたのを少年たちがとがめたところ、反抗的な態度をとられたので、殴る蹴るの暴行を加えた。順子さんも抵抗したので暴行がエスカレートした結果、死に至らしめてしまった』

と報道した新聞社もあった。

このことから、

  • 被害者の少女も素行に問題のある、それなりの不良だったのではないか?
  • 家出か何かの事情で自ら望んでそこへ行き、何らかのトラブルを起こして、自業自得のような形で暴行を受けて、結果的に死んでしまったのではないか。

まだ事件の詳細が知られていない頃には、そんな印象を持った人も多かったようだ。

この1989年の前年には、名古屋でカップルが未成年のグループに殺される事件が発生しており、少年犯罪が、すでに成人顔負けに凶悪化していたことは、当時の社会でも認知されていた。

その一方で、どんな凶悪な不良少年でも、まさか何の罪もない女子高生を誘拐して監禁したあげくに、いじめ殺すほどのことはしないだろう、とも世間一般では考えられていた節がある。

つまり、被害者の女の子も、それなりのことをしなきゃそんな目に遭わないだろうとも。

どんな事件が起きても、不思議ではなくなってしまった現代ではないのだ。

だから、「殺された女の子にも問題があったはずだ」ということを、したり顔でのたまう識者すらいた。

それは、一人や二人ではない。

だが、この事件は世間が思っている以上に悪質だったことが、ほどなくしてわかる。

「そこまでするわけがないだろう」という当時の閾値を、大きく超越していたのだ。

遠慮がないマスコミ

事件が発覚した次の月の4月になると、だんだん犯行の経緯や詳細が判明してきた。

知る人ぞ知るとおり、宮野たちは最初から強姦目的で、不良少女でも何でもない女子高生を拉致して湊の家に監禁、42日間にわたって暴行・虐待し続けたあげく死に至らしめ、死体の処理に困ってドラム缶にコンクリ詰めにして埋め立て地に捨てた、という前例のない非道なものだった。

この情状酌量の余地の全くない猟奇的少年犯罪に、マスコミは色めき立った。

もともと、少年犯罪というのは社会の注目を集めやすい。

また、どんな残虐な殺人事件でも、どうも男を複数人殺すより女を一人殺す方が、悪いことに思われる傾向がある。

それも、殺されたのが若い女性だったりすると、世間の人々は怒りを覚えながらも、同時に大いに興味を持つようだ。

しかも、被害者が美女だったらなおさらである。

この事件は、それらの条件をすべて満たしていた。

マスコミも商売だから、それを見逃すはずはない。

そして、この時代のマスコミは、現代のそれより仕事熱心でモラルがなかった。

連日、ワイドショーなどは特集を組み、犯行が行われた家には取材陣が殺到。

加害者の母親を路上で追い回すならまだしも、悲しみに沈む被害者の家にもマスコミは押しかけて、インターホンを押して心情を聞こうとすらした。

そして、マスコミが去った後の被害者宅の近くにはたばこの吸い殻などのゴミが散乱していたというからあきれる。

また、あるワイドショーなどは被害者の少女の名を「ちゃん」呼ばわりしていた。

幼女ではないのだ。無遠慮にもほどがあるだろう。

テレビでも新聞でも、被害者の写真が何のためらいもなしに公開されていたが、週刊誌はこの点で、ことさら露骨だった。

某女性誌などは、事件の内容を伝える記事とともに、どこから入手したのか、被害者が夏休みに旅行に行った際の写真を複数枚掲載。

その中には、水着姿の写真まであった。

だが、それだけに飽き足らず、くだんの某女性誌は切り札を出してきた。

それは、被害者の彼氏のインタビューである。

つづく

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紙幣の顔に異議あり – 日本紙幣の歴史と新たな提案


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2019年4月9日、2024年度前半に千円、5千円、1万円の各紙幣を一新させることが発表された。

この刷新は2004年以来20年ぶりである。

気になる新紙幣に描かれる人物の顔ぶれは、

  • 千円札が北里柴三郎
  • 五千円札は津田梅子
  • 一万円札は渋沢栄一

「平成」から「令和」への改元機運が高まるだの、自動販売機などの関連需要が生まれるから、景気刺激の効果もありそうだの言われているが、そんなことはどうでもよい。

私は大いに失望している。元から期待はしていなかったが。

その失望は、新紙幣の人物の人選についてである。

そして、私の場合それは2004年以前の、1984年の紙幣の刷新から始まっているのだ。

昭和50年代の紙幣

私は1975年(昭和50年)生まれだ。

小学生だった1980年代前半の紙幣は、五百円札が岩倉具視、千円札が伊藤博文、五千円札と一万円札が聖徳太子。

明治の元勲たちと日本史上最高クラスの偉人という実に濃い面々で、どの額面の紙幣も威厳に満ち満ちていた。

紙幣とはあまり縁がない子供だったからかもしれないが、そんな偉人たちが描かれた紙幣を手にすると身が引き締まったものだ。

何というか、その額面の価値があることを大いに担保してくれている気にもさせてくれていた。

だから、そうさせるような人物が紙幣の顔になるべきだと、今でも信じている。

だが、私が小学校四年生だった1984年(昭和59年)11月1日に発行が開始された新しい紙幣に描かれる人物を見て、子供心に唖然とした。

新しい紙幣の顔は千円札が夏目漱石、五千円が新渡戸稲造、一万円札が福沢諭吉。

正直、面子が軽くなったような気がした。

私はこの小学生の時点ですでに歴史オタクであり、それらの人物が何者であるか知っていたから、全員偉大な功績を残した偉人で間違いがないことはわかった。

しかし、どちらかと言えば文化面での泰斗たちが、日本社会の基礎を築いた政治面での功労者であり日本史において燦然と輝く聖徳太子や伊藤博文をはじめとした明治の政治家たちと比べると、貫禄に劣るのは否めないと感じたのだ。

特に最高額紙幣たる一万円札の福沢諭吉なんだが、ヘビー級からミドル級くらいまで落ちた感じがした、というのは冒涜だろうか?

聖徳太子という問答無用のスーパーヘビー級と比べたら、その軽薄短小化ぶりが際立つこと甚だしい。

体重78kgくらいだけどヘビー級扱いにされたみたいで、納得がいかなかった。

なんとなく額面は一万円の紙幣なのに八千円の価値しかないように思ったことを覚えている。

2004年の紙幣の顔ぶれ

月日が経つうちに、私も諭吉をはじめとした他の面子にも慣れてきた。

私の人生で初めての新紙幣の登場から20年後の2004年、再び紙幣の刷新に遭遇した。

そして、その時に感じたのも失望だった。

いや、失望より深刻な絶望ですらあった。

どのくらいかというと、日本は終わりだと落胆したくらいだ。

今の日本政府は打倒されなければならないと憤った。

2004年の刷新において一万円札は福沢諭吉が続投、五千円札に樋口一葉、千円札に野口英世が起用されて2022年の現在に至るわけだが、五千円札と千円札が問題だった。

まずは五千円の樋口一葉である。

五千円に次ぐ額面の紙幣なのに、何でそんなの出すんだ?

そりゃ文学界では偉大な功績を残してはいるが、樋口一葉は活躍期間が短く存在感は弱い。

ミドル級にも遠く及ばない軽量級のバンダム級。五百円札でも荷が重い。

何より問題だと思ったのは、一葉は生前生活に困っていたことだ。

そんな人物を紙幣の顔にするなんて縁起でもない!

そして野口英世だが、これは樋口一葉とは逆の意味で大問題だ。

医学においては国際的に多大な貢献をした野口英世は、千円札の顔としての貫禄は申し分ないように見える。

だがその反面、英世は金銭感覚がゼロに等しく、まとまった金を手に入れると後先考えずに遊興に使い倒して借金まで重ねていたのだ。

生活困窮者と借金王が我が国の紙幣の顔。

日本を滅ぼす気か?

当時はバブルが崩壊してはや十数年、坂道を転がるように衰退していく日本経済を体感していた私には、すさまじく不吉なものに見えた。

もっと景気のいい偉人を使えよ!

功績とか知名度もいいが、まずはその偉人の生前の経済状況も重要ではないか!

そりゃ紙幣の顔を変えたからって、景気がぐんぐん良くなるわけはないが、まずは形からだろう

事実、当時の私の悪い予感が的中してしまい、日本経済は失われた三十年を迎えて現在に至っている。

私の望む紙幣の顔ぶれ

そして迎える2024年の刷新での紙幣のメンツは前述のとおりだ。

一万円札の顔である渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われているぐらいだし、実際に大富豪だったから、そりゃあ景気がいい。

女子教育の先駆者たる津田梅子も、樋口一葉よりずっと凄みと重量感があるし、元々裕福、近代日本医学の父・北里柴三郎も若いころは金で苦労したが、晩年になるまでにはかなりの資産があったから経済問題はどの偉人もクリアしている。

だが、大きくモノ足りない。

なぜなら日本史の偉人たちの中で、彼らはウェルター級くらいだと個人的には思うからだ。

出すなら一万円札はヘビー級、五千円札はクルーザー級以上の偉人じゃなきゃ。                    

その人物の出現以前と以後では我が国の在り方が変わってしまったほどの人物じゃないと、高額紙幣の顔になる資格はないはずだ。

本音を言えば、明治期に活躍した政治家や軍人を出してもらいたいが、我が国への逆恨みが甚だしい隣国が文句をつけてくるかもしれないから、もっと時代をさかのぼってやろう。

選ぶなら、よほどのバカじゃない限り日本人誰もが知っており、日本史に与えたインパクトが絶大で、願わくば経済的にも困っていなかったであろう人物でなきゃダメだ。

そこで歴史マニアの私から、今ここに理想の紙幣の顔を独断と偏見で提言する。

・千円札 空海

ご存じ弘法大師だ。

千円札を文化面での偉人から選定するとすれば、空海が日本史上最強だろう。

空海は中国から仏教の奥義や経典を体系づけて日本に伝来させて確立させた真言宗の開祖であり、この人がいなかったら今の日本仏教はない。

また宗教家としてのみならず本場の唐人をもうならせた能書家でもあり、当代一流の詩人であって、温泉を掘り当てたり堤防を作ったりの技術者でもあり、讃岐うどんの開発者でもあると語り継がれるほどの発明家。

ダビンチやゲーテに匹敵する日本が誇る万能人の空海は、いきなり千円札からヘビー級ではないだろうか。

大富豪ではなかったかもしれないが、かと言って決して貧乏ではなかったはずだし、そして一休や日蓮を抑えて日本史上最も有名な坊さんに違いないからどう考えても縁起がいい。

・五千円札 卑弥呼

男ばっかりじゃなく女も、という考えから2004年の時は樋口一葉を出したんだろうが、だったらもっとマシな人物選ばんかい。

日本史の最初の方には、そんじゃそこらの男の偉人など屁でもないような女傑がいるじゃないか。

それは邪馬台国女王、卑弥呼だ。

日本生まれの日本人なら知らないとは言わせない。

文句なしに日本人女子史上最重量級、日本史の中でもスーパーヘビー級の偉人ではないだろうか。

はっきり言って五千円札では役不足すぎるくらいだ。

問題はどんな顔をしていたか確かめようがないことだが、そんなものは女性皇族か政治家、はたまた大女優の顔をいくつか合成してそれらしい貫禄と気品あふれるご尊顔を作り出せばよい。

・一万円札 徳川家康

言うまでもなく戦国の最終勝者にして江戸幕府の開祖。

この人物なくして今の日本はありえないほどの影響を後の世に与えたのは言うまでもなく、日本史において明治の元勲ですら束になってかかってもかなわないくらいの規格外の偉人、それが徳川家康だ。

しかもまだ金銀産国であったころの日本各地の金山銀山をおさえ、海外との貿易を仕切って日本最大の石高を有する大大名でもあったから、当時の世界最大の大富豪でもあった。

なおかつ倹約に努めてその莫大な資産を遺したんだから、紙幣の顔として申し分はないはずだ。

一万円札も、何となく一万五千円くらいに価値が増した錯覚を覚えるかもしれない。

最高額紙幣の顔としては百点満点で四百点くらいの超適任者ではないか!

一万円程度では濃すぎるから五万円札を新設してその顔にしてもよいくらいだ。

いかがであろう?

我が国の紙幣が一挙に盛大になった気がしないか?

思えば1984年以来、紙幣の顔はそこそこ無難な人物ばかりで、どうもその姑息さが現代の日本社会の空気と大いにかぶる気がするのは私だけ?

地味な偉人で占められてすっかりネクラになってしまった現行の紙幣が、国全体からダイナミズムも活気も失われてしまって久しい我が国の姿を象徴しているとすら言いたくなるのは、極論だろうか?

だが先ほども述べたが、もう一度かつての輝きを取り戻す気があるならば、まずは形から入ってもよいではないかと、私は言いたいのだ。

いや、形こそ重要な第一歩だ!

だから腰抜け日本政府よ、紙幣の顔こそ気合入れて選ばんかい!

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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吉永小百合を襲った男 ~武闘派モンスターファン~


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ある一定以上の年齢の日本人ならば、吉永小百合という人物を知らない方は圧倒的に少ないであろう。

2022年3月の現在でもキリンのCMに登場したりしているから、比較的若い世代の方でも、今まで一度はその名前を耳にしたか、テレビ画面でその姿を見たことがあるはずだ。

1945年3月13日生まれの吉永氏は、1957年に小学5年生でデビュー以来、『キューポラのある街』などの名作をはじめ、これまでに100本以上の映画に出演。

歌手としても成功をおさめ、テレビドラマやCMの出演は数知れず、2006年に紫綬褒章を受章し、10年には文化功労者にも選ばれた日本を代表する大女優である。

日本映画の全盛期だった1960年代には、まだ10代だったにも関わらず(10代だったからこそか)、所属する日活の看板女優として日本中、特に男性ファンの目をくぎ付けにしていた。

1963年、そんなまばゆいばかりに輝く銀幕のスターだった吉永氏が、自宅に侵入した熱狂的なファンに襲撃される事件が起きる。

芸能人が狂ったファンに襲われる事件は現代までたびたび発生しているが、この時吉永氏を襲った男は、そんじゃそこらのモンスターファンではなかった。

吉永小百合家への侵入者

事件が発生したのは、1963年8月9日夜9時45分のことである。

当時、吉永小百合氏は人気絶頂の映画女優でありながらもまだ18歳の高校生であり、東京都渋谷区西原某所で家族と同居の身。

その日、彼女は16歳の妹と共に自宅の二階にある自室に向かおうとしていた。

俳優業で多忙でありながら大学進学も希望していた彼女は、目前に控えた大学入学検定試験に備えて勉強をしようとしていたのだ(高校は撮影で休みがちだったため出席日数が足りなかった)。

だが自室のドアを開けた瞬間、あり得ない異常事態に遭遇することになる。

自分以外いてはならないはずの完全なプライベート空間たる部屋の洋服ダンスから、見知らぬ男が現れたのだ。

しかもその両手には、刃物ともう一つ奇妙な物体が握られているではないか!

びっくり仰天した二人は悲鳴を上げて部屋を飛び出し、家族のいる一階に逃げた。

この時、吉永氏は階段から転げ落ちて軽傷を負っている。

一方の侵入者は追いかけてくることもなく、部屋にとどまっているようであった。

吉永氏から事情を聞いた父親は、すぐさま警察に通報。

駆け付けた警官六人は、吉永一家五人を退避させると、男が居座る二階に向かう。

しかし警官たちは、男が片手に刃物を持っていることを聞いており、あらかじめ危険なことは承知していたが、もう片方の手に刃物より危険なものを持っていたことは知らなかったようだ。

二階に踏み込もうと階段を上がっていた時、犯人が現れて階段上で仁王立ちするや、その謎の物体をこちらに向けたかと思うと、耳をつんざく破裂音。

先頭の警官が崩れ落ちた。

男が持っていたのは手製のピストルだったのだ。

籠城戦

撃たれた警官は、あごに弾を食らっており、全治二か月の重傷であった。

かなり危険な暴漢と判断した警官隊は、階下にとどまって応援を要請。

やがて、最寄りの代々木署だけではなく、防弾チョッキやヘルメットで身を固めた機動隊員らも駆けつけ、総勢300人近くが吉永家を包囲した。

周りは一般の住宅が立ち並んでいるため、警官の静止にもかかわらず、物見高い付近の住民たちが出てきて現場は騒然となっていた。

警官隊は、吉永氏の部屋に引きこもった犯人に向かい拡声器で投降を呼びかける一方、決死隊の五人がはしごで二階に上がり、犯人のいる部屋の向かいの日本間に陣取る。

また、階下からもピストルを構えた警官が階段を上がって犯人に迫り、ドアを挟んで対峙した。

「武器を捨てて出てこい!さもないと撃つぞ!」

「そんなおもちゃの銃で何ができるんだ!」

警官隊は犯人に向けて怒鳴ったが、

「試してみっか!?まだ弾は持ってんだぜ!!」

と怒鳴り返され、部屋の中からもう一発、発砲音が響いた。

かなり好戦的な犯人である。

強行突入もやむなしと判断した警官隊は催涙弾の準備が整えたが、にらみ合いが続いて40分ほど経過した午後10時20分ごろ。

部屋のドアのガラス部分が中から突然割られ、ピストルと思しき物体と刃物が投げ出された。

逃げられないと観念したのだろう。

男が投降したのだ。

すかさず警官隊は部屋に突入し、犯人の確保に成功した。

犯人の目的

逮捕されたのは、都内に住む旋盤工の渡辺健次(26歳)。

未成年のころにも強盗未遂事件を起こし、少年鑑別所に送られた経歴を持っていた。

渡辺健次

確保された時に手に傷を負っていたが、これは警官隊との押し問答の最中に手製ピストルを暴発させたのと、投降の際にガラスを割った時に負ったものである。

職場の上司の話によると、渡辺は勤務態度が不真面目であり、犯行に使ったピストルや弾丸も仕事中に作ったものらしい。

犯行に使用したものを含めてピストルは5丁も製作、単発式で孔径は7ミリであり、逮捕時にはまだ13発も弾丸を所有していた。

渡辺の自家製ピストル

渡辺は当初「有名人の家なら金があるだろうと思って忍び込んだ」と供述していたが、その後、吉永小百合の大ファンであり、最初から吉永氏を目的としていたことが判明する。

それはアパートの部屋の壁に切り抜かれた吉永小百合のグラビアがベタベタ貼られ、それは職場の旋盤にも貼っていたほどだ。

やがて写真やスクリーンだけでは飽き足らなくなり、雑誌で住所を知るや実物に会いに行こうと、何度も自宅周辺に出没していたことが分かる。

ちなみに吉永氏の父親の話によると、このような図々しいファンは珍しくなく、自宅付近を不審者がうろつくのは珍しくなかったようだ。

だが、渡辺がそんじゃそこらの不審者と違ったのは、ピストルまで作って自宅に侵入した以外にも、よりおぞましい目的を持っていたことである。

渡辺は、吉永家侵入時にピストルや刃物以外にも数本束ねた針と墨汁を持参して来ており、その用途たるや、

「小百合ちゃんの手か足に俺の名前を入れ墨しようと思った」だったのだ。

未遂に終わったとはいえ、後に国民的大スターとなる人物に自分の名前をネーミングしようとは、とんでもない野郎である。

国宝の法隆寺や清水寺に落書きをするのに等しい犯罪行為といっても過言ではない。

もし本当に実行されてしまったならば、吉永氏は女優として再起不能となっていたことであろう。

ばかりか、自分を襲った男の名前を否応なく目にし続けて、歯ぎしりしながら一生を送ることになったはずだ。

危うく難を逃れた吉永氏だったが、この一件で重大な精神的ショックを受けてしばらく立ち直ることができず、受ける予定だった大学入学検定試験も欠席。

高校も留年する羽目になってしまった。

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ゾウを犯そうとした男 – 1956年の井の頭自然文化園

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)


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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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中学生にいじめられた29歳の男の復讐


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2001年6月8日、大阪教育大学付属池田小で起きた児童殺傷事件は犠牲になった児童の数もさることながら、学校に凶器を持った不審者が乱入する学校襲撃事件としても、社会に衝撃を与えた。

この事件以後、全国の学校で部外者の学校施設内への立ち入りを規制したり、警備員を置くなどの安全対策が取られるようになり、もはや、学校は無条件に安全な場所ではないという考えが国民の間で広まった。

しかし、不審者が学校に侵入して生徒を無差別に襲うという事件は、この池田小事件が日本初ではない。

それより13年前の1988年7月15日、神奈川県平塚市のY中学校で、同様の学校襲撃事件が起きていたのをご存じだろうか?

この事件では死者こそ出なかったものの、鎌や斧を持った男が中学校に乗り込み生徒たちを無差別に攻撃して、8人を負傷させた。

犯人の男は教職員らに取り押さえられて逮捕されたが、その犯行動機たるや、あまりにもあきれたものだった。

ボブ

橋本健一(仮名)

犯人の橋本健一(仮名)は、事件のあった平塚市立Y中学校から、200メートルほど離れた団地で、両親や妹と同居していた29歳の無職。

子供のころから自閉症気味で家に閉じこもりがちだった橋本は、中学卒業後に就職したものの、一年とたたず辞めており、以降、働くこともなく実家に寄生して、ニート生活を送ってきた。

ニートとはいえ、ずっと家に閉じこもりっぱなしの引きこもりではない。

働いていない彼は毎日ヒマにまかせて、家のママチャリに乗って近所を徘徊しており、よく向かっていた先がY中学校であった。

中卒の橋本には中学校に特別な思い入れがあったと思われる。

付近をうろつくだけではなく、校内に入っていくこともあった。

そして、女子生徒がグラウンドで体育の授業を受けていようものなら、それを凝視してニヤニヤしていることもあったし、下校途中の女子生徒をつけまわしたりもした。

完全に不審者そのものである。

行動だけでなく外見も相当怪しい。

ひょろっとした150cmほどの小男で、うつろな目をしたおかっぱ頭の橋本は、見る者に異様な印象を与えた。

そんな妖怪のような成人の男を、生意気盛りの中学生たちが放っておくわけがない。

事件が起こる5年ほど前からY中学校の生徒たちは橋本をからかうようになってきた。

中学生たちが橋本に付けたあだ名は「ボブ」。

それは、彼のおかっぱ頭がボブカットのようであったことに由来する。

そして身なりも行動も怪しく、何より弱そうな見かけだった橋本へのちょっかいが「いじめ」へとエスカレートするのに、時間はかからなかった。

中学校に近づくと大声で罵声を浴びせられたり、唾を吐きかけられたり、石を投げられたり、傘で付かれたり、足蹴にされたり。

橋本は基本無抵抗だったが、時々怒って抵抗することもあった。

しかし「それはそれで面白い」と嫌がらせがグレードアップする始末で、中学生も一人ではない場合が多かったため、よってたかって殴るけるの返り討ちにされたこともあったらしい。

ならば近づかなければいいのだが、橋本はY中学校に出没することをやめなかった。

事件の前年には、中学校の運動会の最中に校内に入ってきた橋本を生徒たちが競技そっちのけで迫害、玉入れに使う玉を、数十人が一斉にぶつけた。

この時は、さすがに教師も止めに入ったようだが、悪ガキどもにとっては、きっと運動会の競技より楽しかったことだろう。

また男子だけでなく女子も面白がっていじめに参入することもあったし、小学生までもが、橋本の自転車を囲んで荷台を引っ張ったりしてからかうようになってきた。

家にいても安全ではない。

どうやって知ったか、中学生たちは橋本の住所や電話番号を知っており、自宅に石を投げ込まれたり、いたずら電話をかけられたりもした。

はたから見て自業自得の気が大いにするし、どう見ても、いじめられに行っているとしか思えない橋本だが、なぜこういう目に遭うのか理解できず、我慢ができなかったようだ。

一度Y中学校に、以下のような手紙を書いて抗議したことがあった。

「先生一同、日ごろ子供たちに嫌がらせをされ、つばを吐かれたり悪口を言われたりして困る。しっかり指導してほしい。弱い者は、いつもいじめられても黙ってがまんしていなければならないのか」

この抗議を受けて、学校側も生徒たちにある程度の指導はしたようだが、そんなことで思春期のガキどもが改心するなら、中学教師は苦労しない。

この時代のY中学校の生徒たちも同じで、いじめは相変わらず続く。

1988年(昭和63年)4月、Y中学校は新年度を迎えた。

橋本は学校に抗議した上に、旧三年生が去って新一年生が入ってきたことで、自分へのいじめはなくなると考えていたようだが、中学生を甘く見てはいけない。

在校生たちは、それまでと同じく橋本を見かけると嫌がらせをしてきたし、その悪しき伝統は、ほどなくして入学したばかりの新一年生にも、順調に受け継がれた。

そしてこの年、それまで橋本の心に蓄積されてきた怨念が飽和状態を超えて臨界点を迎えて爆発、事件に至ることになる。

臨界点

抗議したのに、自分へのいじめはなくならない。

橋本の中では、生徒たちばかりではなく、学校全体が敵に思えてきた。

溜め込める怨念には許容量というものがある。

もう我慢できない。

彼は平塚市内のスーパーなどで刃物類を買い集め始め、7月になったころには、鎌2丁、斧1丁、文化包丁や果物ナイフ6丁を揃えていた。

自分を虐げてきたY中学校の生徒たちを、片っ端から血祭りにあげる気になっていたのだ。

やるなら夏休みが始まる7月20日前にやろうと心に決めながらも、普段通りY中学校校内に入った7月13日。

「おい、ボブが来やがったぜ」

「ナニまた入ってきてんだよボブ!消えろ!!」

「またやられてえのか?コラ!」

「ボールぶつけっぞ!オイ!!」

この日グラウンドで練習をしていた野球部の部員たちだ。

卓越した運動能力を有する彼らは、同時に最も元気の良い一群でもある。

橋本の姿を認めるや、迫力満点の罵声を浴びせてきた。

野球部員たちにとっては、いつもどおりのことだし、皆もやっているから、特に大したことだとは考えていなかったであろう。

だがこの行為が、橋本に凶行の実行を決意させるトリガーとなったことを、彼らは知る由もなかった。

暴走

二日後の7月15日金曜日午前10時40分ごろ。

授業が行われているY中学校に、橋本が現れた。

いつもと違うのは、校舎にまで入り込んだことと、その手に紙袋を持っていたことである。

紙袋の中には二、三か月かけて買い集めた斧や鎌、刃物。

一昨日の決意を実行に移すためだ。

橋本が校舎に入って最初に向かったのは、校舎三階の音楽室。

歌声に交じって聞こえる声から、授業をしているのが女性教師であり、やりやすいと考えたからである。

その音楽室では、一年五組の生徒41人が合唱の練習中だったが、橋本が袋から出した鎌を片手に突然ドアを開けて入ってくると、歌うのを止めて静まり返った。

一瞬あっ気にとられていた一同だったが、橋本が無言のまま一番近くにいた男子生徒に鎌を振り下したとたん血が飛び散るや悲鳴が上がり、室内は大パニックとなった。

橋本は斧も取り出して、椅子や机を倒しながら、逃げ回る生徒に次々襲い掛かかる。

自分をいじめたことのある生徒だったかどうかは関係がない。

橋本にとって、このY中学校の生徒であるというだけで罪なのだ。

退屈だが平穏だった学校での日常は、最悪の非日常へと急変した。

この教室では、合計3人が頭や腕を切られて負傷する。

教室から逃げた生徒を追いかけて、廊下に出た橋本が次に向かったのは、一教室おいて隣接する一年四組の教室。

ここでは、最前列の入り口付近に座って国語の授業を受けていた生徒を真っ先に切りつけた。

蜂の巣をつついたような騒ぎとなった教室内部に、すかさず乱入し、無言で右手に鎌左手に斧を振り回して、生徒たちを追いかけ回す。

音楽室同様、教室は生徒たちの悲鳴に交じって、女性教師の「みんな逃げて!逃げて!!」という叫び声が、こだまする修羅場と化した。

橋本は四組で生徒3人を血祭りにあげると、より多くの生贄を求めて、上の四階に向かった。

四階でも二年生が授業を受けていたのだが、下の階から尋常ではない大声が聞こえてきたため、生徒たちが何ごとかと廊下に出てきていた。

そこへ下の階から上がってきた橋本が襲いかかり、生徒が2人やられた。

その勢いで、別の教室にも向かおうとした橋本だったが、その前に立ちはだかる者たちがようやく現れた。

Y中学校の教職員だ。

椅子を持って橋本を取り囲み、じりじりと近寄ってくる。

鎌や斧で武装しているとはいえ、複数の成人男性相手には分が悪かった。

壁の一角に追い詰められ、ナイフを出して抵抗しようとしたが、教職員の一人に組み付かれて取り押さえられた橋本は、観念して凶器を捨てた。

逮捕後

この凶行では死者こそ出なかったものの、生徒8人が負傷し、うち一人は、全治一か月の重傷であった。

負傷した生徒

教師たちに取り押さえられた橋本は、その後通報により駆け付けた平塚署の警察官に連行された。

平塚署では、刑事たちに動機などを厳しく追及されたが、橋本は犯行時と同じく無言だった。

黙秘していたのではない、しゃべれなかったのだ。

小さいころから、人と話すことが極端に少なかったために声帯が発達せず、大きな声で話すことができなかったのである。

そのため取り調べは、橋本に供述を紙に書かせるという異例の形になった。

「復しゅうした。今年と去年、一昨年にY中学の生徒に悪口を言われたり、石をぶつけられたりした…」

「冬には雪だまを投げられたり、家に石を投げられたりした。学校に『何とかしてくれ』と言ったが、何もしてくれず、無視された」

「この学校の生徒ならば誰でもよかった。殺すつもりはなく何人かやれば気が済むと思った」

橋本は筆談でそう供述した。

さらに凶器を入れていた紙袋から、Y中学校への恨み言や襲撃したことの動機などが丁寧な字で書きこまれた大学ノートも見つかる。

そこにはこう書かれていた。

「ボブ、バカなどと一日多いときで四、五十回も悪口を言われる。本当にムシャクシャする。皆殺しあるのみ」

事件後、新聞記者の取材に答えた生徒の一人は「いじめているという気持ちはなくて、遊んでいるつもりだった」と殺人犯による「殺すつもりじゃなかった」と同じような無責任な言い訳を吐いていた。

また「僕らも悪かったかもしれない」と殊勝な答えをした生徒もいた。

いずれにせよ、襲われたY中学校の生徒たちにとっては、身も凍る衝撃的な事件となったようである。

弱い者いじめによって自分に返ってくるかもしれない結果を、全校生徒が思い知らされたのだ。

事件後の現場検証

筆者の私見

私事ではあるが、Y中学校での事件が起きた当時、1975年生まれの筆者は中学二年生。

つまり、被害に遭った生徒たちと同年代であったから、この時の報道をよく覚えている。

もうおっさんに近い年齢の大人の男が、自分たちと同世代の中学生にいじめられたこと自体カッコ悪いのに、その報復に凶器を持って学校に乱入したんだから「みっともないったらありゃしない」とあきれ返ったものだ。

そして、私が通っていた中学にも、橋本のような部外者がよく校内に入り込んでいた。

「キチ」と皆に呼ばれていた知的障害のある二十代後半の男だ。

だが、「キチ」は「ボブ」のようにいじめられることはなく、わが校の生徒たちは、キチと一緒に遊ぶなど、一見友好的な関係を保っていた。

これはY中学校の生徒たちと違って、わが母校の生徒たちが善良だったからではない。

キチは怒らせると本当に危険なことで有名で、生徒たちも怖くて嫌がらせできなかっただけだからだ。

ボブがキチのように危険な側面を持っていたら、Y中学校の生徒も手を出さなかったはずである。

当時のだろうが今のだろうが、この世代のガキは変わらない。

弱い者いじめは、娯楽だと考えている。

相手がこちらにとって危険でなかったら、いつまでもやり続けるし、たいして深刻に考えることもない。

一方のやられる側は、それに慣れることはなく、怨念が積もり積もっていく。

それが限界を超えたら、あるものは自殺という「消極的な」手段をとるし、ボブのように「積極的な」手段に訴える者もいる。

起こりうるどちらか一方が起きたのだから、Y中学校の事件は、必然的に発生したものではないだろうか?

また、消極的より積極的な手段を採用した方がましだと思うが、ボブの良くないところは、いじめられる原因を自分で作った以外に、無関係の生徒に積極的な手段を行使してしまったことである。

せめて自分に嫌がらせをした張本人に向けていれば、多少は肯定的にとらえることができたかもしれないと思うのは、私だけだろうか?

出典元―読売新聞、毎日新聞、毎日新聞社『昭和史全記録』

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