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地獄の集団就職 ~高度経済成長の生贄にされた金の卵たち~

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「集団就職」という雇用の形態が、かつての日本にはあった。

ご存じの方も少なからずいらっしゃることであろうが、一般的には高度成長の時代に盛んに行われた、地方の中卒者らが大都市の企業や店舗などへ集団で就職することを指す。

「金の卵」とも呼ばれた彼らは年端もいかぬ年齢で親元を離れ、故郷から遠く離れた都会の職場でホームシックに苛まれながら厳しい労働に耐え、ある者は後にその会社の中核となったり、またある者は起業して経営者となったりと、日本の発展を支える存在となっていったことはもはや伝説と言ってもよいだろう。

だが、伝説に謳われているように職場で懸命に働いた努力が報われて成功した者たちばかりではなかった。

中には厳しい環境に耐えられずに離職してしまった者もいたが、そもそも、その職場環境自体が人間の生存に適さない、すなわち超ブラック企業だった場合も多かったのだ。

本ブログでは『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された記事から、こうした悪辣な企業の餌食になって夢も希望もつぶされて故郷に逃げ帰った少年たちを例にとり、集団就職の暗部をご紹介しよう。

祝福されて地獄へ送り込まれた少年たち

バスに乗り込む人々の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

1959年(昭和34年)3月25日午前9時、群馬県高崎市市役所前から、七台のバスが出発した。

それぞれのバスに乗っているのは、つい先日中学校を卒業したばかりの少年少女たち約240名、職安や教員ほか同市の関係者らに盛大に祝福されて集団就職のために東京へ出発する「金の卵」たちである。

バスの外では彼らの親たちも駆けつけ、寂しさと感慨の入り混じったまなざしで、我が子の早めの巣立ちを見送っていた。

まだ十代半ばの少年少女たちは、涙をにじませて窓の外の親兄弟たちに手を振り、親元や故郷を離れる心細さやこれから始まる新たな生活への大いなる不安とかすかな希望を胸に一路大都会東京へ向かう。

レストランにいる人々

中程度の精度で自動的に生成された説明

若者たちを乗せたバスは国道17号線を南下し、およそ100㎞先の東京都千代田区にある九段会館に到着したのは正午過ぎ。

ここ九段会館では、在京の群馬県出身の有力者による「受入式」という大げさな式典が行われ、彼らは地元群馬県選出の自民党幹事長・福田赳夫(後の第67代内閣総理大臣)などお偉方の長ったらしい祝辞を聞かされた後、それぞれの就職先の責任者らに連れられて東京各地に散って行くことになる。

このように大仰に送り出された「金の卵」たちの中に阿部慎(仮名)、江田紘孝(仮名)、松林宜秀(仮名)という三人の少年が含まれていた。

彼らは他の者たち同様、ついこないだ中学の卒業式を終えたばかりで、就職先は高千穂ランプ(仮名)という自転車や自動車のランプ及び関連部品を製造する従業員数180名あまりの中小企業だ。

新しい職場へ行くことは何度転職を経験していたとしても期待より不安が勝るものだが、15歳かそこらで社会へ放り込まれることになる安倍たちにとってはなおさらである。

そうは言っても、大きな安心材料もあった。

それは出身中学こそ違えど同じ群馬県出身で、これから同じ職場へ向かう“戦友”が17人もいたことだ。

また、彼らには他にもこれからの新生活に期待を持たせる要素もあったようである。

阿部慎は地元高崎の職安で高千穂ランプの社員寮には当時まだ広く普及していなかったテレビがあると聞かされており、仕事終わりには、毎日実家にはないテレビが見れるであろうことを楽しみにしていた。

また、家を出る際に母親がいなりずしを持たせようとしてくれたが、昼食くらい出してくれるだろうと思って持ってこなかったという。

江田紘孝は、野球を見るのもやるのも大好きだ。

安倍と同じく地元の職安で高千穂ランプの社長と面談した際に「野球が好きだ」と言ったところ、社長はにこやかに「そうか、君は野球が好きか。じゃあ、仕事に慣れてきたら、みんなで野球大会をやろう」と言ってくれたらしい。

「社会人になっても野球ができる!」と、その時江田はうれしくてうれしくて仕方がなくなり、これから始まる社会人生活も悪くないだろうと信じていた。

松林宜秀は比較的向学心が旺盛で、家が貧しい農家でなかったならば高校に進学していたはずの少年である。

彼は姉に買ってもらったノート十冊と万年筆を持参し、通信教育を受けるための会費も払い込んでいた。

仕事の傍ら勉強するつもりだったのだ。

しかし、彼らのほんの些細な希望は入社早々ことごとく裏切られるばかりか、絶望のどん底に叩き込まれることになる。

情報が限られていたうえに社会経験が未熟な中学生だったから仕方のない話だが、知っていたのならば従業員数180人の会社に群馬県出身の新入社員だけで17人というのが何を意味するのか気づくべきだった。

高千穂ランプはパワハラや長時間労働が横行するブラック企業だらけだった昭和30年代においても、その漆黒さがトップクラスの超ブラック企業だったのだ。

時間も金もむさぼられる金の卵たち

高千穂ランプの作業場兼寮

少年たちが社会人生活をスタートさせることになる高千穂ランプは東京都東部の江東区にあった。

安倍は初日となるその日のうちに、高千穂ランプの工場の二階にある「第一寮」と呼ばれる社員寮に入居したのだが、第一日目から嫌な予感を感じることになる。

その部屋は日当たりが悪くて暗く、背の低い安倍でも手を伸ばせば手が届くくらい天井が低いのだ。

また、その部屋は八畳ほどの広さしかないのだが、入居者は安倍とそれ以外の新入社員七人。

一人あたり一畳しかスペースがなく、楽しみにしていたテレビもない。

「受入式」でも会社からも昼食すら出なかったし、この住環境を前に少々嫌な気分になったが、その日は一つ屋根の下で同じ年頃の少年たちばかりということで修学旅行のようなノリになり、荷解きをしながらワイワイ言っているうちに、そんな気分は消えていった。

しかし、翌日になって少年たちは超ブラック企業の洗礼を本格的に受けることになる。

第二日目となったその日、他の者たちと一緒にさっそく工場に投入された安倍は、コンベアの上でヘッドライトを組み立てる作業を任された。

それは新人でもすぐできるようになる簡単な作業であったが、初めてやる作業なんだから、もう一度やり方を確認してからやるべきだ。

高千穂ランプの作業場

そう思った慎重な性格の阿部が職長と呼ばれるこの現場の責任者である中年男に作業のやり方を改めて聞いた時、社会に出てまだ二日目の彼にとって信じられない反応が返って来た。

「説明してやったろ?二回も聞くんじゃねえ!!だいたい仕事ってのはな、見て覚えるモンなんだよ!!!」

と、とんでもない大声で怒鳴られたのだ。

確認しようとしただけなのに、何でこんな剣幕で怒られなければならないのか。

安倍は一挙に委縮した。

どの時代のどの職場にもいるが、「仕事は見て覚えろ」と言う奴は新人に指導することを面倒くさがっているだけであることが多い。

この職長は、まさにそんな手合いであったようだ。

そして、こいつは怠慢で気が短いだけでなく陰険な奴でもあった。

「こんなのバカでもできる仕事だけどよ、オメーは初めてなんだからこれやれ」と、

もう一人の新人である松林にランプ磨きを横柄に命じたのだが、さっき安倍を怒鳴った剣幕を見て縮みあがっていた松林は緊張のあまり手を滑らせてランプに指紋をつけてしまう。

すると「このボケ!そんなこともできねえのか!!」と罵声を浴びせたばかりか、

「おい!オメーら!!このバカみてーにボケーっと仕事してんじゃねえぞ!」などと、他の人間に聞かせるように松林を吊し上げるのだ。

新入社員たちは一挙に凍り付いた。

こんな横暴な奴が上司で、気持ちよく働けるわけがない。

さらに高千穂ランプは、労働環境や待遇も負けず劣らず劣悪だった。

会社の始業時間は午前8時ということになっていたが、実際は午前7時から開始であり、その一時間分の時間外手当はつかない。

そして残業は午後10時くらいになることもあり、休日にいたっては月二回。

寮で出される食事も貧相かつ劣悪で、米は異臭漂う三級品。

おかずは、朝は菜っ葉と味噌汁、昼はカブの煮つけとつくだ煮、夕は漬け物だけで魚がつくことすら滅多にない。

極めつけは一月の給料が5500円だったが、そこから寮の食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代や寮費などを差っ引かれると手取りは1000円しか残らないことが先輩からの話で判明した。

タコ部屋顔負けの搾取である。

一週間にもなると「こんなトコ辞めたい」が彼らの合言葉になったというのも無理はない。

そして翌4月になって、早々それを実行に移した者が現れた。

仕事の傍ら勉強しようとしていた松林だ。

横暴な職長や奴隷労働そのものの職場環境には、もちろん我慢ができない。

何より、勉強して知識をつけ、金をためて独立しようともくろんでいた松林は、高千穂ランプの長時間労働と薄給ではそれが半世紀くらい後にならないかぎり不可能であることに気づいたのだ。

4月2日、彼は「実家に相談しに行く」と仲間たちに告げて寮を出て行ってしまった。

松林の離脱がトリガーとなり、翌3日にはテレビを毎日見れるという約束を反故にされた安倍と野球をする時間もないことに不満の江田、そして他数名の少年たちが早朝に寮から脱走する。

故郷へ向かう列車が出る上野駅で「雇い主に黙って出てきたんじゃないか?」と警官に呼び止められて補導されはしたが、ひどい職場環境であったことなどを説明した結果、会社に戻されることなく群馬に逃げ帰ることに成功した。

無責任で薄情な大人たち

当時の『週刊明星』の記者は少年たちに取材したばかりではなく、高千穂ランプや送り出した群馬県の関係者にも話を聞いている。

まず張本人の超ブラック企業「高千穂ランプ」常務・石黒勉(仮名)は取材に対しこう語った。

「中小企業は労働基準法どうりやってたら経営が成り立たないんだよ。だいたい、そんなきついことやらせてないはずだよ。何で逃げたかわかんないね。職長がおっかなかったとか言ってるみたいだけど、あの人は職人気質なんだから仕方ないだろう」

すがすがしいほど奴隷労働をさせていたという意識も反省もない。

石黒という奴は、ブラック企業の役員どころか、限りなく奴隷商人に近い思考回路の持ち主であると言わざるを得ない。

そして、安倍の中学三年生時のクラス担任だった瑞田由紀子(仮名)は、

「一生その会社でコツコツやるという意識がない子が最近は多いですね。理想と現実が合わないとすぐやめてしまう」

もう卒業してしまったら、教え子ではないとばかりに他人事だ。

昔の教師もこんな手合いはいたようである。

もう一人の当事者で、安倍たちに高千穂ランプを紹介した職業安定所職業課長の幸迫義則(仮名)は、

「高千穂ランプは定着率が悪くってね。毎年三分の一はすぐやめて、こっちに帰ってきちゃうんだよ。あそこは管理がなってないんじゃないかな」

定着率が悪いことや管理がなっていないのを知っていて紹介したということだ。

紹介して送り出しさえすればよいという考え方で、その後は知ったこっちゃないと言っていると理解すべきだろう。

『週刊明星』によると、高千穂ランプでひどい目に遭った安倍たち以外にも、

「雇い主の子供に殴られているのに、その雇い主である両親は黙って見ていて止めようともしない」

「御用聞きに行った客先で待たされて、帰ってきたら「帰ってくるのが遅え!」と怒鳴られた」

「雇い主の主人と妻が夫婦喧嘩し、八つ当たりされた」

などなど雇われ先で理不尽な目に遭わされた少年少女は少なくなく、記事が掲載された昭和34年の4月8日の時点で、職場から故郷に逃げ帰ろうとして上野駅で保護された者が32名もいたことが報告されている。

単に根気がなかっただけの者もいたんだろうが、就職ガチャで大ハズレを引いてしまった不幸な者も多かったはずだ。

もっとも、高度経済成長中とはいえ、まだ貧しかった当時の日本は、他人をそこまで思いやるほど余裕のある社会ではなかったとも考えられる。

また「金の卵」とかいいつつも、少子高齢化になって久しい現代の日本と違って、若者は吐いて捨てるほどいたから、代わりはいくらでもいたと多くの職場では考えていたのではないか。

だがいずれにせよ、多感な十代中盤で社会に出たとたんに最悪の職場に出くわしてしまった安倍たちは、その後の人生に深刻な悪影響が出たはずだ。

本ブログの筆者の体験から言って、社会に出たばかりの時の経験は、後々の社会人人生に大きく影響する。

社会人一年生の時点でひどい会社に入ったり、ひどい上司にパワハラを受けてすぐやめてしまった経験は、言い方は悪いが強姦されたに等しい災難で、働くこと自体怖くなってしまう。

集団就職で入った都会の勤め先から逃げた少年少女たちの中には、その悪夢から一生を棒に振るほどの精神的ダメージを負った者もいたのではないだろうか。

群馬へ逃げ帰った安倍は、暗い目で記者にこうも言ったという。

「東京の人間はウソつきだ」

2023年の現在、もう八十近い年齢になっているはずの彼が、いずれかの時点で立ち直ってやり直し、今は安らかな老後を送っていることを願わずにはいられない。

出典元―週刊明星

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2023年 カツアゲ ならず者 不良 事件 事件簿 昭和 本当のこと 福岡

独居老人をよってたかって恐喝した昭和の極悪童たち

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1982年(昭和57年)、福岡県粕屋郡須恵町で、後にも先にも滅多にないような卑劣な少年犯罪が行われた。

一人暮らしで体の不自由な75歳の老人を、23人もの小学生や中学生の悪ガキたちが入れ替わり立ち替わり37回も恐喝。

面白半分に暴行を加えるなどして、老人の唯一の収入源であるなけなしの年金を脅し取り続けていたのだ。

お年寄り相手に、よってたかってカツアゲとは何という奴らだ!

平成や令和の悪ガキでも、ここまでやる外道はいない!

本ブログの筆者は、この事件を40年以上も昔に年端のいかなかった者たちが、ついつい調子に乗りすぎてしまった程度の事件とはみなさない。

人の道を大きく踏み外した子犬畜生たちの非人道的行為として、令和の現在白日の下にさらしてやる!

目をつけられた独居老人

昭和の昔、福岡県粕屋郡須恵町に、ひっそりと暮らす独居老人がいた。

老人の名は、中辻国男(仮名・当時75歳)。

妻子がない独り身で、近所づきあいもほとんどない。

現役時代は国鉄(現JR)職員だったが、退職後は月7万円の年金だけを収入源にしていた。

神経痛のために足が不自由で腰が大きく曲がってはいたが、自宅の庭で野菜を育てるなどして、少ない年金ながら何とか暮らしている。

そんなつつましく老後の生活を送っていた中辻老人に1982年(昭和57年)の新年早々、おそらく彼の長い人生の中でも最悪の災いがもたらされることになった。

それは同年1月8日の夕方のこと、家の中にいた中辻老人の耳に、何かが自宅の壁にぶつけられた物音が響いたことから始まる。

粕屋郡は、前日から雪が降り積もっていたから外は一面の雪。

どうやら、誰かが自宅の壁に雪玉を作って投げ込んだようだ。

外を見ると二人の中学生になるかならないかの年頃の少年が前の道を歩いている。

何食わぬ顔をしているが、二人とも見るからに悪ガキそうだから、こいつらの仕業だろう。

老い先短い中辻だったが、この悪質ないたずらに黙っているわけにはいかず、二人を注意した。

しかし、注意された二人は自分たちではないと断固否定。

ばかりか「ナニ文句付けてんだよ、ジジイ!」と絡んできた。

この二人は、粕屋郡の隣の福岡市に住む中学校一年生の小峯仁志(仮名・13歳)と小学校六年生の板橋将人(仮名・12歳)だ。

年齢的には年端もいかぬ子供だったが、すでに本格的にグレて悪さを重ねている非行少年である。

よって語気に凄みがあった。

「ああ、違うのか。悪かった」

子供とは思えぬ迫力に、ひるんだ中辻老人は謝罪。

二人は「オレらのせいにしてんじぇねえぞ」などど悪態をつきながらもその日は立ち去ったが、それではすまなかった。

5日後の13日に再び中辻宅にやってきたのだ。

いや、「やってきた」というより「押しかけてきた」の方が正しい。

「この前のこと俺らのせいにしたワビ入れろや!!」と怒声を張り上げ、家にまで上がり込んできたのだ。

小峯と板橋は足が不自由な老人を押し倒し、手を広げさせて床に押し付けると台所にあった包丁を指の間に突き刺した。

「オラ!落とし前どうつけてくれんだ!ジジイ!」

5日前のことを口実にして、カツアゲに来たのである。

中辻老人が謝罪したことから、強気で押せば言うことを聞いてくれる相手と踏んだようだ。

13歳や12歳の少年らしからぬ凶悪な脅しに75歳の中辻はたまらず屈し、おわびの印として家にあった現金数千円を渡そうとしたが、「誠意っつーもんがねえぞ」と激高されて泣く泣く大金の2万円を払うことで解放された。

これはカツアゲどころか完全な強盗である。

だが、中辻老人は「警察にチクったら命はねえぞ」と二人に脅されていたし、相当恐ろしい思いをさせられたからか、通報することはなかった。

結果的に、それは大きな間違いとなる。

この災難は、これで終わらなかったからだ。

カツアゲ地獄

小峯と板橋は、そもそも同年代の悪ガキとはレベルが違う本格的な悪党だった。

すぐに金が手に入ったことに味をしめて、たびたび中辻老人の家に怒鳴り込んで金をせびりに来るようになったのだ。

取り上げた金は、もちろんゲームセンターなどでの遊ぶ金で瞬時に溶かすが、その時はまた老人の家に行けばよい。

中辻老人も中辻老人で、小中学生が相手とはいえ、恐怖が身に染みていたから、そのたびに金を渡してしまうという地獄のループが始まった。

悪党の脅しに屈して要求を飲んだりしようものならば、往々にしてこうなる。

相手が弱いと見たら徹底的に、かつ延々とたかりに来るのだ。

中辻老人は、なけなしの年金しかもらっていないから、決して金を持っているわけではないが、小峯たちにとっては知ったことではない。

しかも彼らは「ちょっと脅せば金をくれるジジイがいる」と不良仲間に吹聴したため、金をたかりに来る不良少年の数は増え、さらには、いくつかのグループに分かれて入れ替わり立ち替わり中辻老人の家にやってくるようになった。

小憎らしいことに年金の支給日も把握しており、その日には集中的に来る。

また、金があろうとなかろうと、面白半分に体の不自由な老人に暴力をふるった。

刃物を振り回して脅し、水をかけるわ、殴るわ蹴るわ、縛るわ、首を絞めるわ。

中辻老人は払う金がなくなると、普段あまりつきあいのない近所の住民に金を借りに行くようにまでなり、金を一切合切取り上げられるようになってからは、庭の野菜を食べてしのぐなど完全に悪童たちの奴隷と化す。

押しかけてくる不良少年の中には、小峯の大先輩で中学をすでに卒業した者もおり、それくらいの年齢の不良になると本職そのもののいでたちをしているから「本物のヤクザまで来た」と中辻老人は絶望し、通報する気が余計に失せてしまっていた。

完全に心が折られていたんだろう。

このカツアゲ地獄は、同年8月4日までに小峯や板橋らが福岡県警の東署によって強盗、恐喝の容疑で検挙、補導されるまで約七か月間も続いた。

その回数は37回に達し、中辻老人は合計約25万円の年金を奪われ、恐喝に関わった不良少年は小学生も含めた23人にも及んだ。

老人自身は通報できなかったのに、なぜ発覚したかは報道されていないが、異変に気付いた近所の住民がしたものと思われる。

それにしても、何と非道な犯罪であろう。

これまでに発生した数多くの事件の中でも、トップレベルのクズっぷりである。

中辻老人は命こそ奪われなかったとはいえ、人生の晩節で最悪の恐怖と屈辱を味わわされてしまった。

一方の小峯たちは14歳未満だったから、大した罰も受けていなかっただろう。

現在、もうすっかりいい年齢になって丸くなっているかどうかは知らないが、中辻老人くらいの年齢になってから同じ目にあってもらいたいとに願わずにはいられない。

新聞記事の一部

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2023年 おもしろ 平成 日本語 昭和 若者言葉

「超(チョー)…」はいつから使われ始めたか

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  • 「超ムカつく!」
  • 「超うれしい!」
  • 「超ウケる!」
  • 「超かわいい!」

程度が甚だしいことを表現する場合に、形容詞、はたまた動詞の頭に「超(チョー、チョウ)」をつけるようになって久しい。

当初は大人に眉をひそめさせる若者言葉だったが、それを常用していた者たちが中年以上になった現在も使っているから、もう正しい日本語にさえなりつつある。

だが、古式ゆかしき正統派の日本語ではないことは確かである。

昭和40年代くらい以前、「超」は現在のような使われ方をしていなかったはずで、比較的歴史が浅い日本語であることは間違いがない。

では、「超」はいったいいつから使われ始めたのだろうか?

80年代後半説

私の経験から、街中やテレビでよく耳にするようになったのは、90年代後半の96年くらいだったと記憶する。

使っていたのはもちろん若者だったが、大学生くらいの世代が使うことは少なく、高校生が口癖のように「超~~」を連発し、代表的な若者言葉とみなされるようになっていた。

だが、ネットなどで調べると、実は80年代の終わりから使われ始めるようになったという説が多い。

事実、ネットがなかった時代に、新語や専門用語を調べるために意識の高い社会人の多くが購入していた現代語事典『現代用語の基礎知識』(自由国民社)の1988年(昭和63年)版にも「超」とその用法が若者言葉として掲載されているが、それ以前には見当たらないという。

若者言葉を扱う書籍もこのころから「超」を載せているため、これらの事実からならだいたい1986年(昭和61年)くらいに発生したと推察できる。

しかし、私はそうは思わない。

1975年(昭和50年)岐阜県生まれの拙ブログの筆者が小学生だった昭和50年代後半、地元の小学校の複数の同級生が使っていたのを覚えているからだ。

昭和後半を生きた人々の証言

同級生が「超」を使っていたというのは、私の聞き違いの可能性もある。

あるいは岐阜県内の私の学校だけだったのかもしれない。

そこで私は、Facebook上で昭和を懐かしむグループの一つで以下のような投稿をし、昭和を生きた人々の証言を集めてみようと試みた。

テキスト

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意外と反応してくださる方が多く、以下のようなコメントが得られた。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, アプリケーション, チャットまたはテキスト メッセージ

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何と複数の方が昭和50年代後半(1980年代前半)には、すでに耳にしていたか使っていたと証言しておられるのだ。

しかも東京のみならず宮崎や静岡、大阪でも使用されていたらしい。

私の投稿にコメントしてくれた方の証言を信じるならば、「超~」という言い方は、1986年(昭和61年)以前、それも1981年(昭和56年)には出現していたということになるであろう。

さらに、1998年NHK(週刊こどもニュース)スタッフが静岡県富士市で街頭取材をしたところ、30代前半の複数人が小中学生時代に使っていたと答えていたという。

1998年の時点で30代前半だったということは、1970年代から使われていたということである。

その証言が正しければ、すでに半世紀近い歴史を有した言い方ということだ。

その間に、どれだけの若者言葉がすたれて死語になっていったことだろう。

「超~」はその利便性と合理性、そして使い勝手の良さを、世代を超えて認められた言葉とみなしていいのではないだろうか。

言葉というものは、時代ごとに変わっていくものだ。

今、正しいと言われている日本語も百年前は異端だったり、乱れた言葉だとみなされていたものもあるのだ。

あと何十年かしたら、日本人は「超」を日常会話だけでなく商談のような堅苦しい公の場でもしたり顔で使っているかもしれない

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2023年 本当のこと 歴史 江戸 長寿

最後の江戸時代生まれ

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明治生まれが111歳以上となってしまった令和5年現在、それよりずっと前の江戸時代なんて完全無欠の大昔である。

だが、実は50年か60年くらい前の昭和の中頃まで江戸時代と現代はしっかりつながっていた。

健在だった江戸時代生まれが何人もいたからだ。

2023年現在、NHK「連続テレビ小説」で放映中の『らんまん』の主人公のモデルとなった植物学者・牧野富太郎はまだまだ江戸時代だった文久2年(1862年)の生まれだったが、昭和32年まで存命だった。

牧野富太郎

高度成長期の時代の日本の100歳オーバーの長寿者は皆江戸時代生まれで、その当時の病院の受付などで書かされる生年月日の記入欄には「昭和・大正・明治」の他に「慶応」があったり、あるいは「慶応」やそれ以前の元号を書く空欄があったという。

しかし、昭和40年代になって江戸時代生まれの高齢者が次々に鬼籍に入っていったことにより、江戸時代と現代のつながりは徐々に細くなってゆき、最後の一本となる時が来た。

そのラストワンとなった人物とは、河本にわという媼だ。

河本にわ媼

にわ媼は、1975年5月31日に梅田ミト媼が112歳で亡くなったことにより、その当時の長寿日本一かつ世界一の人物兼最後の江戸時代生まれとなった。

にわ媼はミト媼が生誕した約五か月後の文久3年8月5日(1863年9月17日)生まれ。

産声を上げた時、江戸幕府はまだ健在で将軍は徳川家茂、時代は幕末の動乱期に入っていた。

媼が物心ついて成長、20歳で結婚して三男五女をもうけて川魚の行商をしたりして生活に追われている間、世の中では大政奉還、戊辰戦争、廃藩置県、西南戦争、明治憲法制定、日清戦争、日露戦争、大正デモクラシーとエポックメイキングな出来事が目白押し。

太平洋戦争中の時点ですでに80歳代の高齢者になっており、それからも高度成長期という一大転換期を生き、孫が17人、ひ孫が38人、玄孫が25人いた。

晩年は持病のリュウマチがひどくなり、目も耳も不自由になって一人歩きできないほどであったが寝たきりというわけではなく、朝昼晩の食事は必ず摂り、好物はカレーと川魚。好き嫌いはほとんどなく、一日四本牛乳を飲んだ。

普段は先立った次男の嫁に面倒を見てもらっており、仏壇に手を合わせたり、好きな針仕事をするのを日課とし、近所に住む三男と四女の訪問を楽しみにしていた。

新聞の記事

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にわ媼と三男

このように安らかな晩年を送っていた媼のもとには、日本一の長寿者になってからマスコミが入れ代わり立ち代わり取材しに来ていたが、耳が不自由な本人に次男の嫁が耳に口を当てて聞いても、返答は歯がないためにモゴモゴと聞き取りづらく、なおかつトンチンカンなものが多かったらしい。

また、「あほうの長生きで…」が口ぐせだったという。

周りがチョンマゲ頭ばかりだった時代から外では車が走り回る時代までを生き、その生涯は明治維新からオイルショックまでをカバーするほどの長きにわたるが、あまりにも多くの激変を目の当たりにしすぎて「何をしてきたかおぼえていない」とも語っていた。

きっと人類が経験していい変化や出来事の数をもう超越していたのだろう。

理解しようと積極的に対応することなく、傍観するか流される態度に徹していたということのようである。

それこそが長生きの一番の秘訣だったのかもしれないが。

しかし、寄る年波にいつまでも勝ち続けることはできない。

次々やってくるマスコミの取材も体調不良を理由に断ることが多くなり、長寿日本一となった翌年の1976年(昭和51年)11月16日8時半、滋賀県高島郡の自宅で老衰のためにこの世を去った。

享年113歳。

非の打ちどころのないほどの大往生であり、天寿を見事に全うしたのだ。

同時に、この日は日本人が江戸時代とつながっていた最後の日となり、これ以降江戸時代は永遠に時代劇や歴史書の世界となった。

追記1:河本にわ媼の死去により、慶応元年生まれの泉重千代翁が日本一の長寿者であり最後の江戸時代生まれと当時みなされたが、その出生日や戸籍についての疑念はかねてより多く、実際は実年齢より15歳若かったという説が現在では有力である。拙ブログはこの説に従った。

追記2:この翌年の1977年(昭和52年)5月25日に108歳で死去した中山イサ媼は1868年8月3日(慶応4年6月15日)出生だが大政奉還後であり、拙ブログは大政奉還までを江戸時代とみなした。

出典元―朝日新聞、『現代の顔 : 湖国の100人』

(サンブライト出版部)、中日新聞、毎日新聞

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2023年 昭和 暴動 本当のこと 長野 高校野球

高校野球で暴動 ~1969年長野-丸子実業戦~

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1915年(大正15年)に始まり、すでに100年を超える歴史を有する高校野球。

それを統括する高野連(日本高等学校野球連盟)は、一貫して日常のちょっとした不祥事でも厳重に処分するという姿勢でもって運営してきたため、各校野球部内で体罰やしごきが横行していても、これまでどの試合も表向きは健全に行われてきたといえよう。

だが、その長い歴史の中でも最悪と言ってもいい騒動が起きた試合がある。

それは、1969年7月夏の全国高校野球長野大会で起こった。

1969年長野-丸子実業戦

1969年(昭和44年)7月25日、上田市営球場で行われた夏の全国高校野球長野大会の一回戦第二試合の長野高校-丸子実業高校戦は、前半から不穏な空気に包まれていた。

同日午後2時15分から始まったこの試合、四回裏の丸子実業の攻撃中に審判の判定を巡って、丸子実業を応援する三塁側スタンドの観客席から空き瓶が投げ込まれるなどの騒ぎがあり、一時試合が二十分間中断。

およそ高校野球に似つかわしくない危険なムードの中で試合は再開されたが、双方決め手を欠いて延長戦となった。

日も傾き始めた午後6時半ごろ、4-4の同点で迎えた十一回表の長野高校の攻撃で、すでに2アウトとなっていた長野高校の選手の打った球が三塁ベースをギリギリで抜いてファウルグランドに転がる。

きわどい当たりであったが、審判は「フェア」と判定。

長野高校に1点が入って、さらに2点目も追加して勝ち越した。

丸子実業側は「ファウル」だと抗議したのだが、判定が覆るはずはない。

合点のいかない判定によって勝ち越された丸子実業は納得できない様子だったが、選手や監督以上に納得していない者たちがいた。

またしても、丸子実業側スタンドに陣取る観客たちだ。

再びグランドにモノが投げ込まれ、数名がグランドに乱入する事態となって、この試合二回目の一時中断となった。

そして、丸子実業の選手たちも行動に出る。

試合再開後、再三けん制をしたり、選手がタイムをとってわざとらしく靴ひもを結びなおしたり、不自然な選手交代を行うようになったのだ。

どう見ても、試合の引き延ばしをしているとしか思えない行動である。

その狙いは、日没引き分けだろう。

試合は事実上の三度目の中断となった。

だが、この腹いせの姑息な作戦は大いに裏目に出る。

そして、空前絶後の大騒動をも招く。

没収試合、そして爆発

ゲ-ムが遅々として進まなくなった事態を前に、審判団と長野県高野連は協議を始めた。

露骨な遅延行為であり、このような行為を許すわけにはいかない。

午後6時45分、審判団はきつい判定を下した。

それは没収試合。

没収試合とは、試合において一方のチ-ムの行為が原因で試合の開始又は続行が困難となった場合に、原因となった側のチ-ムを強制的に敗戦扱いとする判定である。

ここで原因となったチ-ムとは、もちろん丸子実業だ。

試合は9-0で長野高校の勝ちとされた。

だが、この毅然とした判定はすでに一万人になっていた観客、特に丸子実業を応援していた数千人もの観客たちに対してはあまりにも危険なものとなる。

彼らの一部は、すでに二度にわたってモノを投げ込むなどエキサイトしていたのだ。

判定がアナウンスされるや、これらの観客は総立ちとなって口々に怒りの声を上げ始め、例のごとく、グラウンドにモノを投げ始めたのだが、今度のはそれではすまない。

投げる標的は審判団であり、先ほどより多くの観客がグランドになだれ込み始め、球場内に引かれている電話線を引きちぎり始めた。

さらには誰かが放火したらしく、丸子実業側の観客席に火の手が上がる。

ちなみに暴れているのは丸子実業の生徒ではなく、大人の一般人だから始末が悪い。

まだ娯楽の少ないこの時代、プロ野球を生で見る機会のめったにないこの地方の大人たちは、高校野球でも見ごたえのあるものだったらしく、それぞれ在校生でもないのに、ひいきのチームを応援しに来ていたようだ。

そして、選手や応援する生徒よりエキサイトしてしまったのである。

なだれこんだ観客がグランド内の設備を壊し、観客席まで燃え始めた上田市営球場は、高校野球の試合会場とは思えない修羅場となってしまった。

完全無欠の暴動である。

新聞の一部の白黒写真

中程度の精度で自動的に生成された説明

通報を受けて、鎮圧のために上田署から警官約100人が出動。

暴れた観客2名が逮捕されるなどして沈静化させ、8時半には、ようやく騒動はおさまった。

その後

高校野球の試合において現代までグランドに観客が乱入したり、モノが投げ込まれる事態はあったようだが、この規模のものはさすがにない。

勝ったとはいえ、試合をめちゃくちゃにされた長野高校の監督は、「ウチの選手も丸子実業の選手もかわいそうだ。これは大人の横暴だし、そもそも大会の運営にも問題があるだろう」と話していた。

一方の丸子実業の監督は、「没収試合にされたのは実に乱暴だ」と没収試合にされたことに納得していなかった。

主催者である県高野連の運営のまずさを非難する声も世間では多かったようだが、こんな騒動を起こした責任は取らせなければならない。

その矛先は丸子実業に向かった。

同校の野球部は暴動の一因を作ったとして謹慎していたが、高野連は対外試合を2年間停止するという重い処分を下す。

もっとも、11か月後にはこの処分は解除されている。

そして、試合当日に応援に繰り出していた丸子実業野球部の後援会は、責任を取って自主的に解散した。

暴れたのは大部分が大人であって高校生たちではなかったのだが、やはり原因を作ったことには変わりがないとみなされていたようだ。

いずれにせよ、令和の現代では考えられない事件である。

しかし、この時代は学生運動なども盛り上がりを見せて、機動隊が出動する事態に発展することも珍しくはなかったのだから、当時の日本人は令和のすっかり軟弱になった我々より、総じて血の気が多かったことは間違いない。

出典元―信濃毎日新聞、朝日新聞、毎日新聞

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2023年 イラク 戦争もの 本当のこと 歴史

21世紀の銃剣突撃 ~2004年イラク戦争・ダニーボーイの戦い~

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白兵戦とは本来、敵味方の兵士が入り乱れての白刃による近接戦闘を指す。

白兵戦は古代や中世は言うにおよばず、遠距離からの攻撃が可能な火器が登場してからも行われ、近世に至ってほぼすべての兵士に火器が行き渡ると、それに銃剣を着剣しての白兵戦が主流となり、第一次世界大戦まで重要な戦法であり続けた。

自動火器が発達してからも完全に消滅することはなく、第二次世界大戦はもちろん、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争でも敵味方が近距離で遭遇した際には、白兵戦が発生していたという。

それ以後、より兵器が高度になった1982年のフォークランド紛争や精密誘導爆弾やステルス戦闘機などのハイテク兵器の独壇場になった1991年の湾岸戦争においても、銃剣を使った白兵戦が完全に消滅したわけではなかった。

だが、ステルス機や精密誘導爆弾などのハイテク兵器が登場して久しく、IT化も進んですでに敵の姿すら見ることがなくなったと言われるようになっていた21世紀の戦場ではどうだろうか?

さすがに、もう発生することはないだろう。

いや、実はそうではなかった。

2004年、中東・イラクのバスラでそれは起こった。

しかも、古式ゆかしき銃剣を着剣しての突撃で、それを行ったのは世界屈指の軍事大国・英国の部隊なのだ。

待ち伏せに遭った英軍

2003年3月20日に米英を中心とする有志連合によって、イラクによる大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反を理由とした『イラクの自由作戦』の名の下で行われたイラク戦争。

イラク正規軍との戦闘は、ほぼ一方的な展開となってイラクの独裁者サダム・フセイン率いるバアス党政権は崩壊、2003年5月1日に戦争に踏み切ったジョージ・W・ブッシュ米大統領によって「大規模戦闘終結宣言」が出たが、米国が指摘した大量破壊兵器の発見には至らず、さらにイラク国内の治安が悪化して戦闘は続行していた。

そんなイラク戦争二年目の2004年5月21日、有志連合の一角であった英軍の第16空中強襲旅団戦闘団(当時はアーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダーズ)所属の兵士20名は、任務交代の命令を受けて、ダニーボーイと呼ばれた検問所へ向かっていた。

ダニーボーイは、イラク南部で最大の都市であるバスラに近い地点にある。

このころイラク北部では、米英軍に対する抵抗が活発化して極端に危険になっていた時期であったが、北部は前政権のバアス党に優遇されていたスンニ派の地域だ。

バスラを含めた南部はバアス党に虐げられてきたシーア派住民居住区であり、駐留する米英軍に攻撃を加えてくることはあっても大規模な衝突となったことはなかった。

また、この時点のイラク南部では後に米英軍相手に猛威を振るうことになるIED(路肩爆弾)による被害が発生しておらず、英軍兵士は危険な任務ととらえてもいなかったようである。

よって、英軍はあえて重装備の部隊を派遣せず、非装甲の軍用トラックで兵員を派遣していた。

だが、分隊がバスラまで約55マイルの地点まで来た時に、それが間違いであったことを思い知ることになる。

その場所は郊外の集落で、道路沿いには、まばらなに建物があったのだが、その後ろから人影が見えたかと思うと突然激しい銃撃を加えてきたのだ。

イラクに駐留している全ての外国軍の排除を目的としたシーア派武装組織マフディ軍である。

マフディ軍は、これまでも攻撃を加えてきたことはあったが、今回ほど激しいものは初めてであり、人数も優勢だ。

マフディ軍

英軍にとって完全な不意打ちとなったが、彼らは世界に冠たる英軍の第16空中強襲旅団戦闘団の精鋭たち。

指揮官の的確な支持の下、瞬時に反応する。

車両は銃撃を加えられながらも路肩に停止し、兵士たちは次々に下車して、路肩の縁石などを遮蔽物に反撃を開始した。

マフディ軍には数的優位があったが、指揮官や個々の民兵の練度は、英軍に遠く及ばなかったようである。

多数の敵から先制攻撃を受けたにもかかわらず、この時点で英軍側に死傷者は出ていなかったのだ。

もし、この時マフディ軍の中に有能な指揮官がいたら、手際よく英軍を包囲して殲滅に成功していたことだろう。

 2003年のイラク戦争の戦闘終結宣言以来、英軍はバスラに駐留。

誤射による死傷者を減らし、地元のシーア派イスラム教徒の支持と好感を勝ち取るために、イラクの英軍は厳格な交戦規則を設定、直接攻撃を受けた場合のみ反撃を許可していた。現在のこの状況は、明らかに反撃が許されるものである。

英軍指揮官は保有する全ての火器の使用を許可し、射撃の精度の高さもあって、交戦開始から十数分後には一時的にマフディ軍を圧倒し始めた。

数的優位があるにも関わらず、劣勢に立ったマフディ軍は態勢を立て直そうと銃撃を止め、街中へ向けて加勢を求める呼びかけを始める。

だが、これは著しく軍事リテラシーを欠いた行動であった。

なぜなら、その呼びかけは英軍にも聞こえており、自軍の状況を敵軍に知らせているに等しい行為だからだ。

しかも、英軍は現地語のわかるガイドを同行させていたために、マフディ軍の状況は筒抜けだった。

もっとも、英軍にとって不利な状況がさらに悪化しつつあることに変わりはなく、守りを固めながら一番近い友軍に無線で救援を呼びかける。

膠着状態が続いていたが、時間の経過によって事態はより悪化した。

弾薬が底を突き始めていたうえに、マフディ軍側に新手のシーア派民兵数十人が加わり、道路に沿って展開、総兵力が100人を超えたのだ。

一方の英軍は20名のままであり、敵軍の助っ人が到着するまでの間に、簡単な塹壕を掘っていたものの、数的劣勢はより深刻になって孤立した形となっていた。

道路を挟んで対峙するマフディ軍は、じりじりと包囲網を形成。

しかも、今度はRPGロケット砲や迫撃砲まで持って来ており、その増強した火力で英軍を殲滅しようとしているのは明らかであった。

危機的な状況に陥った英軍だったが、指揮官は分隊を二手に分け、一方に現在の拠点を死守させ、もう一方に相手側に攻撃を加えさせてかく乱する戦法に打って出る。

そして、救援要請に一番近くをパトロールしていたブライアン・ウッド軍曹指揮下の英軍プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊の一個分隊が応えて到着。

彼我の戦力差は4対1に縮まったが、劣勢なのは変わらない。

ブライアン・ウッド軍曹

双方とも銃撃戦を展開しつつも、マフディ軍は練度の高い英軍を警戒し、英軍はマフディ軍の数的優勢を警戒して、積極的な攻勢に打って出ることはしなかったために再び膠着状態になったが、英軍側の弾薬は確実に欠乏し始めていった。

着剣!突撃!!

プリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊

30分間銃撃戦が続いた頃には英軍の弾薬はほぼ枯渇、時間の経過とともに、形勢は絶望的になりつつあった。

こののっぴきならぬ状況の前に、救援に駆け付けて孤立した英軍部隊を指揮することになったブライアン・ウッド軍曹は、捨て身の戦法を決断する。

それは、残りの銃弾を発砲しながら、銃剣を使った突撃を行うことだ。

だが、いくら弾薬がなくなったからとはいえ、これは危険というより自殺行為に等しい決定だった。

なぜなら、自軍の今いる拠点からマフディ―軍が陣取る場所まで180メートルほどしかなく、その間に遮蔽物はなかったために、恰好の標的になる危険があったのだ。

しかも相手の兵力は四倍である。

下手すれば、日本軍の米軍相手のバンザイ突撃のような結果になることは必至だったのだ。

しかしこの捨て鉢とも思えた戦法は、予期せぬ効果があった。

英軍の精鋭が発砲を続けるマフディ軍側に殺到すると、シーア派民兵たちは意表を突かれて浮足立ち始めたのだ。

マフディ―軍のシーア派民兵は、数も多くて火力に勝ってはいたが、しょせんは素人の烏合の衆。

やたらめったら撃つだけで効果的な火力網を敷くことができずに、英兵の突破を許して至近距離まで接近されるや、鬼気迫る気迫で突進してくる英軍を前に、戦意を喪失して算を乱して逃亡し始めたのである。

後方の民兵は、次から次へこちらに逃げてくる味方に当たるかもしれないので、発砲し続けるわけにもいかない。

しかも、英兵は心技体共に鍛え抜かれた練兵ぞろいで、徒手格闘や銃剣術にも長けていた。

よしんば立ち向かってくる民兵がいても、格闘術を知らない相手だから、赤子の手をひねるように確実に仕留めてゆく。

後の英軍の作戦報告書によると、多くのシーア派民兵は米英軍の兵士は、ハイテク兵器と火力に依存して白兵戦を行う勇気はないと思い込まされていた可能性があり、弾薬が尽きて降伏すると思っていたら、まさか銃剣突撃をしてくるとは思っていなかったらしいと分析されている。

おまけに、民兵たちは訓練も実戦経験も欠いていたアマチュアで、いざ世界に冠たる英軍精鋭の気迫あふれる突進を前に、戦意を喪失してしまったらしい。

 この戦闘で英軍は3名が負傷しただけで戦死者はなく、マフディ軍は20名が死亡して28~35名が負傷。

劣勢を見事に挽回した英軍の圧勝であった。

その後、この戦闘を指揮したブライアン・ウッド軍曹は、戦功十字章を授与されている。

英軍にとって、白兵戦は1982年のフォークランド戦争以来のものであったが、現在でも軍に制式採用されているアサルトライフルであるL85には銃剣を取り付けることができるし、銃剣での訓練も欠かしていなかったのだ。

L85

ちなみに、それから十数年後の2017年7月1日にも、英軍は白兵戦を展開している。

イラク北部のモスルで情報収集活動から帰還していた英陸軍特殊部隊SASが、イスラム国(IS)の武装集団50名に襲撃され、弾薬が尽きるまで抵抗した後に白兵戦を挑んだのだ。

世界最高レベルの戦闘集団であるSASの精鋭たちであるから格闘術も一流で、イスラム国の戦闘員を30名以上殺害して蹴散らすことに成功している。

いくら兵器のハイテク化、IT化、無人化が進んでも、最後にモノをいうのは、個々の兵士の訓練と戦意だったと言えるだろう。

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2023年 中国 事件簿 悲劇 本当のこと 東京 無念

友情を食い物にした女 ~中野区中国人留学生殺害事件(江歌案)~

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2016年11月3日深夜、東京都中野区中野のアパートで法政大学の大学院に通う中国人女子留学生・江歌(ジャンガ―・24歳)が、刃物でめった突きにされて刺殺された。

現場には、江歌と同居する同じ中国人女子留学生の劉鑫(リュウシン・24歳)がおり、無事だった彼女が警察に証言したところによると、犯人は見知らぬ男だったという。

当初、この事件は被害者が中国人であったからか、日本では新聞で小さく報道されるにとどまる扱いだった。

その一方の中国では、事件で一人っ子である江歌を殺された母・江秋蓮(ジャンチウィエン)の悲憤が報道されると多くの同情を誘い、駐日中国大使館も警視庁に事件の早期解決を要請するよう動き出す。

そしてその後、事件発生直後に劉鑫が述べた「犯人は見知らぬ男だった」という証言が嘘であって、実際は劉鑫の元カレの中国人留学生・陳世峰(チェンシーフォン・25歳)であったこと、犯行時にとった行動が最初の証言とは全く異なっていたことがわかり、さらには母・江秋蓮に対する冷淡かつ不誠実な対応によって、中国中から怒りの声が上がる事態に発展した。

異国で出会った同じ学校の同級生

劉鑫(リュウシン)

劉鑫は、1992年に中華人民共和国山東省青島市で生まれた。

両親は農民だったが、商品作物の販売に成功した農家であって、結構な金を持っていたために、幼少期から何不自由なく暮らしてきたようだ。

そのせいか、少々わがままなところがあったが、才覚ある両親の血はしっかり受け継いでおり、人に好かれやすく嫌われにくいという、おいしいキャラの持ち主であったらしい。

学校に通っていた頃は、誰もが悩む人間関係でうまく立ち回り、恋愛にもおおらかで、彼氏をとっかえひっかえしたりの華やかな青春も経験した。

2014年に、地元の泰山学院(4年生大学)の日本語学科を卒業した後、お目当ての仕事が見つからずにプラプラしていた劉鑫を心配した両親の勧めで日本に留学。

もともと日本語が専攻ではあったが、より実践的な日本語を習得すべく、当初は他の留学生と同じく、日本語学校に通うようになった。

その日本語学校で、劉鑫は同じ中国人女子留学生と知り合う。

後に命を奪われることになる江歌である。

江歌(ジャンガ―)

中国人の留学生なんてそこら中にいるのだが、江歌は特別だった。

彼女は自分と同じ山東省青島市出身で、それも互いの実家の距離は約10㎞という近さであって、なおかつ実は同じ中学校出身だったのだ。

生徒数が多かったので顔を知らない者がウヨウヨいたし、江歌も地味な子だから全然気づかなかった。

江歌は母一人子一人の家庭で育った苦労人で、母を楽させてあげたいという気概を持って、あこがれていた日本にやって来たらしい。

気ままに育ってきた劉鑫とは境遇が違っていたが、異国の空の下で同国人、それも同郷かつ同じ中学校の同級生という奇跡的なよしみから、二人は問答無用で親友になった。

これは、後に江歌の方にとっては破滅的な出会いとなるのだが、この時点では両人とも知る由もない。

災いのきっかけ

2016年4月、日本語学校を卒業した劉鑫は大東文化大学の大学院生となり、江歌は法政大学大学院に入学。

本格的な留学生活がスタートした。

そして劉鑫は大東文化大学で、江歌にとって第二の破滅的な出会いをする。

後に、江歌を殺害することになる陳世峰との出会いだ。

陳世峰は、自分より一つ上の25歳で陝西省出身(生まれは寧夏回族自治区)。

日本語がうまくて知的であり、研究発表する際などに見せるクールな立ち振る舞いに、入学したばかりの劉鑫の目はくぎ付けになって、たちまち「女」をうずかせた。

陳世峰(チェンシーフォン)

発情した劉鑫のアプローチに、優等生だがウブなところのあった陳世峰は一挙に陥落。

同年6月には、早くも板橋区高島平で同棲生活を始めた。

しかし、劉鑫は恋愛では百戦錬磨で意中の男を落とすことには長けていたかもしれないが、関係を維持することは苦手だったようだ。

また、交際する前に男を見る目も養われていなかった。

学校であれほどかっこよく見えた陳世峰だったが、一緒に暮らし始めてすぐに、彼がクールというより陰キャで、陰険なキモ男であったことに気づいたのだ。

そのくせ、ちょっとでもわがままを言うとすぐにキレる。

同棲生活開始早々、痴話ゲンカが絶えなくなり、こらえ性のない劉鑫は8月後半に別れを一方的に宣言して家出した。

たった三か月弱の交際だったが、嫌いになった男と我慢して付き合う必要はない。

さっさとポイだ。

これまでの恋愛でもそうしてきたから、今回もそうするだけである。

ただ、今回困ったことは、ヘボチン野郎の陳世峰と同棲するために住居を引き払っていたから、住む所がなくなってしまっていたことだ。

だがぬかりはない。

立ちまわるのがうまく、抜け目のない劉鑫は、この時すでに同郷の友達・江歌に連絡をとって事情を話し、彼女の部屋を間借りすることを承諾させていたのだ。

劉鑫は、他人に自分の無理難題を承知させることに長けており、しかも江歌は困っている人間の頼みを断れない性格だったからイチコロだった。

建物の入り口

低い精度で自動的に生成された説明
江歌のアパート

もっとも、この時期は母の江秋蓮が日本に来ていたために、江歌の部屋には入れない。

その間は、自分のバイト先のオーナーに泣きついて、バイト仲間の部屋に住まわせてもらっていたというから、かなりの強者だ。

やがて母親が帰国すると、劉鑫は首尾よく江歌宅に転がり込んで住居問題を解決させた。

しかし、より困った大問題が残っていた。

劉鑫の中ではとっくに元カレとなった陳世峰だったが、陳世峰の方はそう思っていなかったことだ。

さっぱりあきらめるという言葉が辞書にないこの男は、自分が運命の相手と思い込んだ女を、学業そっちのけで追いかけ始める。

毒闺蜜

劉鑫と江歌

中国語には、闺蜜(クイミー)という言葉がある。

この魅惑的な字面が意味するところは「女性の同性の親友」、「(女性にとっての)親密な女友達」だ。

同郷のよしみで、元彼氏から逃げてきた劉鑫をかくまった江歌は、まさに「闺蜜の鏡」と言えよう。

だが、劉鑫の方は紛れもなく悪い闺蜜、「毒闺蜜」だった。

下手したら江歌のことを親友ではなく、自分の都合よく動いてくれる便利なアイテムだと思っていた可能性がある。

居候させてもらっているのに、まるで自分の家のようにふるまうようになり、彼女といると息がつまり始めた江歌の方は、コーヒー屋に行って勉強するようになるなど「庇を貸して母屋を盗られた」状態になっていた。

劉鑫の方は、陳世峰から逃れてまんまと江歌にかくまってもらえたわけだが、大安心というわけではない。

ずっと部屋の中にいるわけにもいかず、外へ出たとたん陳世峰にまとわりつかれるようになっていたのだ。

別れた後も、同じ学校だから顔を合わすに決まっている大学院に劉鑫が通い続けていたのかどうか、報道では明らかにされていないが、江歌と同居しながらバイトには行っており、陳世峰にそのバイト先をつきとめられていたのである。

そして11月2日、江歌の家もストーカー野郎にバレた。

その日の午後、江歌は外にいて劉鑫が一人で部屋にいた時に、陳世峰が押しかけて来たのである。

それまでのストーカー行為で、すっかり精神的に参っていた劉鑫は、迷わず江歌に電話でこちらに来てくれるように頼んだ。

助けを求められた江歌は、当然ながら警察に通報しようと提案したが、劉鑫は何とこれを拒否する。

警察が入ると余計に面倒なことになると考えたようだが、これまで江歌にさんざん面倒をかけているという自分の立場を全く分かっていない。

いくらストーカーと化した元カレにおびえ切っていたとはいえ、都合が良すぎであろう。

親友ならば、どんなに迷惑かけてもよいと考えていたのだろうか。

それでも、義侠心に厚い江歌は親友の求めに応じて部屋に駆け付け、すっかり危険な状態になりつつあった陳世峰と対峙する。

そして、自分一人ではないと安心して部屋から出てきた劉鑫も交えて談判になったが、相手の事情などお構いなしに、よりを戻そうとしか考えていないストーカー野郎と話し合いになるわけがない。

ほぼ押し問答となった話し合いは、劉鑫がバイトへ、江歌が大学院へ行く時間になったことでタイムアップとなって物別れとなり、三人はそれぞれ行くべき場所や帰るべき場所に向かうことになった。

いったん穏便に収まったように見えるが、実はこの時点で陳世峰は、すでに暴発寸前だった可能性がある。

これより以前のことであるが、ストーカー行為に辟易としていた劉鑫が、浅智慧をひねり出して、彼氏ができたと思わせればあきらめてくれるだろうと考え、バイト仲間の男に頼み込んで新しい彼氏のふりをしてもらい、付きまとう陳世峰に見せつけたことがあったようなのだ。

事の真偽は分からないが、もしこれが本当だったとしたら、未練がましくてみみっちい陳世峰のことだから、「他の男のモノになるくらいなら殺してやる」と決意したことは大いに考えられる。

また、後に分かったことだったが、江歌は母親の江秋蓮が日本に来た時に、劉鑫のことを話していた。

その際に、劉鑫が彼氏から逃げてきたことや一緒に住まわせてあげようと考えていることを娘の江歌から聞いた母親は、「そういう人と関わらない方がいいよ」と娘を諭していたというが、結局、この人生経験豊かな母の忠告を、人が良すぎる娘は守らなかった。

結果、母の懸念は最悪の形で的中することになる。

江歌と母の江秋蓮

親友に見殺しにされて絶たれた夢

アルバイトに向かった劉鑫だったが、いったんはあきらめて帰ったと思われた陳世峰が、後をつけてきたことに気づく。

なおかつ劉鑫のスマートフォンに「オレの所に戻らねえなら、お前のヌード写真をネットにばらまくぞ」というメールを送って脅迫までしてきた(劉鑫は、なぜブロックしていなかったのだろう?)。

恐怖のどん底に陥った劉鑫は、ずうずうしくも再び江歌に救援を求め、「バイトが終わってから、21時に東中野駅で待っていて欲しい」と電話。

学校が終わってから自分のバイトに行っていた江歌は了承し、退勤してから律儀にも時間通りに東中野に向かった。

だが、劉鑫の姿は見えない、どころかなかなか現れない。

まだバイトが終わっていなかったのだとしても、自分の都合で呼び出しておいて出てこないとは、とことん厚かましい女だ。

江歌はコーヒーショップに入り、この時間を利用して中国版Lineである「微信(WeChat)」で母親の江秋蓮に電話した。

一時間半ほど話をした中で、江歌は劉鑫の一件のことも話しており、何か嫌な予感がしたらしい江秋蓮は娘に、「気を付けなさいよ」と話したという。

母娘の会話は、何時間も遅刻していた劉鑫がようやく現れたことによって終了するが、これが江秋蓮にとって娘と交わした最後の会話となる。

江歌と劉鑫が中野区のアパートに到着した頃には、すでに日が変わって3日午前0時を回っていたのだが、そこで二人は凍り付いた。

陳世峰の野郎が、アパートの玄関で待ち構えていたのだ。

江歌は、すかさずスマートフォンで「不審者がいる」と警察に通報。

二人は濁った目でこちらを凝視する陳世峰の脇を、そそくさと通り抜けて部屋に向かったが、奴は後からついてくる。

部屋の前まで来た時に、江歌は「嫌がってるのわかんない!?もう警察呼んだんだからね!」と帰るように要求したが、この時の陳世峰は、先ほどとは比べものにならないくらい危険な状態になっていた。

「オメー、戻ってこいっつってんだろ!」と怒鳴って劉鑫の手をつかみ、無理やり連れ去ろうとするのだ。

そればかりではない。

「やめなよ!」と江歌が叫んで間に入るや、何と刃物を持って向かってくるではないか。

これを見た劉鑫がいち早く動く。

驚くべきことに、江歌が立ち向かっているのをいいことに、彼女の部屋の中に入ってしまったのだ。

しかも、江歌を置き去りにしてカギまで閉めた。

「テメー開けろ、おい!鑫!!コラあああああ!」

激高した陳世峰は、狂ったようにノアノブをガチャガチャ言わせ始めたが開くわけがない。その結果、逆上の極みに達した陳世峰が、さらにとんでもない行動に出た。

怒りの矛先が、あろうことか第三者である江歌の方に向き、持っていた刃物で一突きしたのだ。

一突きでは済まない。

失恋で頭がおかしくなっていた陳世峰は「オレの邪魔ばかりするお前が悪い!」とばかりに、部屋から閉め出されてしまった形の江歌を滅多突きにする。

「啊啊啊~!!!」

何か所も刺された江歌は、叫び声を上げてその場に崩れ落ち、陳世峰は逃走。

江歌の部屋に逃げ込んで鍵を閉めた劉鑫はパニックになりながらも、この間に110番を二回もしていたが、警察官が現場に到着するまで部屋の鍵を開けることはついになかった。

陳世峰がまだその場にいたならともかく、江歌を刺して逃走した後もだ。

その間に、江歌は手の施しようがない状態となってゆき、警官が到着後に病院に搬送されたが時すでに遅し。

複数個所を刺されたことにより失血死した。

育ててくれた母親に恩返ししようと、あこがれの日本にやってきて勉学に励んでいた江歌は、親友を助けたばかりに、夢半ばで命を絶たれてしまったのだ。

たった24年の生涯だった。

バスルームの一角

中程度の精度で自動的に生成された説明
犯行現場

母の悲憤を逆なでする劉鑫

江歌の悲報は駐日中国大使館によって、その日のうちに中国にいる母親の江秋蓮の元に届けられた。

動顛した母は翌日には来日。

変わり果てた姿となった我が子と悲しみの対面をした。

江秋蓮はシングルマザー。

離婚した後は、たった一人の我が子である江歌を、女手一つで育て上げてきたのだ。

そのかけがえのない唯一の宝を殺された母の悲しみと怒りが、尋常でなかったのは言うまでもない。

犯人は一人しか考えられない。

江秋蓮は、娘とは生前よく話していて知っていた。

親友・劉鑫の元カレの陳世峰である。

娘は劉鑫のせいで死んだという思いを抑えつつ、江秋蓮は事件現場にいて事情を知っている彼女に、犯人の逮捕のための協力と当時の状況を教えてくれるように微信経由で頼んだ。

一人の母親としては、当然の要求である。

だが、自分だけ助かった劉鑫は「事件当時は江歌と一緒にアパートへ戻り、自分はズボンが生理で汚れていたので履き替えようと先に部屋に入り、江歌は郵便物を確認するために外にいたが、外で江歌の叫び声が聞こえた。慌てて扉を開けようとしたが開かず、ドアスコープから覗いてもよく見えなかったから、怖くなって電話で110番に通報した」と返答した。

犯人が陳世峰だと彼女にも分かっているはずなのに、まるで見知らぬ人間にやられたと言っているとしか思えない主張である。

また、彼女を置き去りにして自分だけ部屋に逃げ込んでカギまで閉めたことも、この時点では言っていなかった。

ちなみに、劉鑫が110番通報した時の録音が残っているが、彼女はここでも半泣きになって動顛しながらも、たどたどしい日本語で「そとは誰か、誰か変な人がいて」と陳世峰の名前を出していない。

テキスト

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テキスト

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名前を出したのは、11月7日に陳世峰が恐喝容疑で逮捕された二日後の9日になってからからで、この時初めて江歌を殺したのは陳世峰であることや、自分が部屋に閉じこもってカギをかけてしまったことを、警察や江秋蓮に打ち明けた。

自分のせいで江歌が殺されたことは明らかだったから、あわよくば隠し通そうとしたのである。

劉鑫は徹底的に卑劣な女だった。

たとえ自分が原因で起こったことでも、面倒になりそうだと見れば、責任から徹底的に逃げる性分なのだ。

それは、その後の行動で示される

11月11日に江歌の葬儀が行われたが、前日に出席を約束したにもかかわらず欠席。

誰のせいで死んだと思っているのか?最低限の礼儀であろう。

また江秋蓮は、11月19日に江歌の遺骨を抱いて中国へ帰国するが、それまで一度も会いに来なかったばかりか、娘の最後の状況や事件の詳細を知りたがる江秋蓮の微信にも応答しなかった。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, チャットまたはテキスト メッセージ

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江秋蓮からの連絡は無視

この態度を取られて、我慢ができるはずがない。

一人娘を殺されて悲嘆にくれる母親は行動に出た。

ネットで、この非情な態度を中国の世論に訴えたのだ。

すると、中国のネット民はいち早く反応した。

中国国内で「友人を見殺しにした」と、劉鑫に対する非難が巻き起こるようになったのである。

この殺人事件は、日本ではあまり取り上げられなかったが、中国では大いに関心を集めていたのだ。

やがて、日本から帰国していた劉鑫はバッシングされるようになり、たまりかねて江秋蓮に連絡をしてきた。

しかし、それは捜査や裁判に協力するという承諾ではなく、「これ以上騒ぎ立てるなら、一切協力しない」という逆ギレの応答だった。

劉鑫の心ない返信

江秋蓮は、自分の娘はこんな奴のために死んだのかと怒りに震えた。

おまけに劉鑫の両親も両親で、彼らは微信の江秋蓮のアカウントをブラックリストに載せて連絡を絶ち、一家そろって転居して雲隠れ。

後に「心ある」ユーザーによって転居先が発見されて通報されるや、江秋蓮に電話をかけて「ウチの娘にからむな!殺した奴を恨めよ!」だの「あんたの娘は短命の運命だったんだ」などと罵倒する始末。

どうりで劉鑫みたいな女が育つわけである。

当残ながら、江秋蓮も泣き寝入りはしない。

これらの微信でのやりとりや通話内容を公開して、徹底的な反撃に出た。

中国人の怒りの炎は、日本人のものより火力が大きく、高温である。

非常識な女とその両親へのバッシングは、より激しくなった。

世間からの猛烈な反発には、さすがの劉鑫も追い込まれたようだ。

某メディアの仲介で、しぶしぶ江秋蓮との面会に同意する。

しかし、2017年8月22日に二人はようやく顔を合わせることになったが、江秋蓮が許すはずもなく、和解には至らなかった。

世に憚る憎まれっ子への制裁

そもそも、一番悪いのは江歌を殺した陳世峰である。

陳世峰は、逮捕後の2016年12月14日に殺人罪で正式に起訴され、翌2017年12月11日に公判が始まったが、江歌殺害の理由を「先に部屋に逃げ込んだ劉鑫が部屋の中から江歌に刃物を渡し、それを持って立ち向かってきた江歌から刃物を取り上げようともみ合っているうちに不意に刺してしまった」とほざいて起訴内容を否認した。

江秋蓮は一人娘を殺害した挙句に、あきれたたわごとを並べる陳世峰の死刑判決を求めて来日、支援者の協力を受けて署名運動を行ったが、日本は犯罪者に甘い。

12月20日に結審した東京地方裁判所による一審判決は脅迫罪と殺人罪による懲役20年であり、陳世峰も控訴しなかったために、この軽い刑が確定した。

新聞の記事

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中国なら間違いなく死刑だったと江秋蓮は判決に不満を表していたが、まだ肝心な奴が罰を受けずに残っている。

娘が殺される原因を作っておきながら、のらりくらりと責任逃れをし続けた劉鑫だ。

劉鑫に対する訴訟も、起こさないわけにはいかない。

許しがたいことに、劉鑫は全く反省していないどころか、面会の後にも偽名を使ってネット上で江秋蓮のことを「クソババア」だの「全部金のためだ」などとののしり、あまつさえ「あたしはアンタの娘の生前の写真いっぱい持ってるよ。アンタにはやらないけどね」などと、直接メールを送ったりして挑発していたのだ。

しかもその後、このクソ女は名前を劉暖曦と変え、SNSで30万人超のフォロワーを持つインフルエンサーとして成功、広告収入やライブ配信の投げ銭などで、のうのうと人生をエンジョイしていることが判明する。

おまけに、時々事件をネタにしているというではないか。

こんなふざけた奴を、罰しないわけにはいかない。

2018年1月12日に中国へ帰国した江秋蓮は、弁護士に協力を要請して訴訟の準備を行い、2019年10月28日、劉鑫に対して生存権に関する民事訴訟を提起する。

裁判が始まったのは2020年4月15日。

この訴訟で、江秋蓮は劉鑫改め劉暖曦に、死亡した娘の死亡賠償金、葬儀費及び精神的苦痛への慰謝料合計207万610元(現在のレートで約4140万円ほど)を要求した。

一審判決は2022年1月10日に下され、裁判所は劉暖曦に対して約70万元の賠償金支払いを命じた。

要求額の三分の一だったが、江秋蓮は2022年1月19日に一審判決を受け入れて控訴しないことを表明した。

しかし、1月24日になって、あきらめの悪い劉暖曦は一審判決を不服として控訴。

青島市中級人民法院(地方裁判所)で、2月16日から審議が始まった。

とはいえ、中国の司法も言われているほど非情ではない。

むしろ許しがたい行いをした者には、きっちりしている。

2022年12月30日、青島市中級人民法院は、劉暖曦の控訴を棄却。

一審判決を維持し、なおかつ裁判にかかった費用10760元を上乗せして支払うことを命じた。

母の戦いは終わった。正義はようやく果たされたのだ。

ちなみに、劉暖曦は払わされることになる莫大な賠償金を得るために、現在の心境を語った文章をSNSで公開して投げ銭を集めており、驚くべきことに、少なからぬ金額が集まったらしい。

人口が多いと、こんな奴をフォローするばかりか、投げ銭までする変わり者が、まとまった数出てくるようだ。

もっとも、その後、劉暖曦のSNSのアカウントは反社会的であることを理由に削除されて、永久追放となってしまった。

いい気味である。

2023年8月12日、江秋蓮は支払われた賠償金を使って「江歌专项助学基金(江歌特別奨学基金)」という基金を設立した。

学生を支援するための基金である。

経済的苦境から勉学を断念せざるを得ないような若者が、江秋蓮の目には、志半ばで命を落とした娘の姿に重なっていたようだ。

江歌を助けられなかった分、彼らを息子や娘と思って助けてあげなければならない。

その思いから立ち上げたのではないだろうか。

同時に、江秋蓮は江歌がこれからも自分の心の中だけでなく、この基金が存続する限り、人々の心の中で生き続けることを願っているのだ。

出典元―小郭历史、現代ビジネス、朝日新聞

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無自覚な男の身勝手な夢に奪われた児童六人の命 ~2011年・鹿沼市クレーン車暴走事故~

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この写真の男を見て、好印象を抱く人はどれだけいるのだろうか?

清潔感のかけらもなく、小汚くてむさくるしい顔のうえに、中途半端にイキったバカ面をしていると思ったのは拙ブログの著者だけではあるまい。

個人的には好きか嫌いのどちらでもなく、大嫌いな顔だ。

ただでさえムカつく面構えのこの男、名前を柴田将人という。

この醜悪で、カンに触る人相の持ち主の柴田だが、読者諸兄がこいつのやったことを知ったら、ぶん殴りたくなるはずである。

なぜなら、この野郎は少子高齢化が深刻な我が国において6人もの小学生の命を奪ったクソだからだ。

集団登校中に起きた大惨事

2011年4月18日午前7時40分、栃木県鹿沼市樅山町の国道263号沿いの歩道で、その悪夢のような事故は起こった。

歩道を集団登校していた市立北押原小学校の児童たちの列に、12トンの大型クレーン車が突っ込んだのだ。

新聞の記事

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クレーン車は子供たちを巻き込んで歩道を突っ切り、その先の民家の作業小屋に突っ込んで停止。

巻き込まれた4年生から6年生までの5人の児童が即死、重傷を負って病院に搬送されていた6年生児童が同日午後に死亡したことにより、合計6人の死者を出す大惨事となった。

現場は、児童たちが通う北押原小学校から170メートルほどの場所であったため、通学路に立ってあいさつをしていた同小学校校長と登校していた多くの児童たちは、否応なくこの大惨劇の目撃者となる。

生き残った小学生たちは、悲鳴を上げて小学校に走り込むか、ショックのあまりその場で固まっていたという。

中には、突っ込まれた列にいながら運よく難を逃れたものの、目の前で自分の弟が命を落とす瞬間を目の当たりにしてしまった女児もいた。

年端もいかぬ子供たちにとっては、精神への負荷とその後の影響が大きすぎる衝撃である。

一体なぜこんな悲惨な事故が起きてしまったのだろうか?

それは、実に不可解な事故だった。

後に目撃者が語ったところ、クレーン車は当初児童が歩いていた歩道沿いの車線ではなく反対車線を走っていたのだが、突然大きく右へ曲がって子供たちの列の前方に突っ込んだらしい。

どんな運転ミスをしたらこんなことになるのだろう?

事故直後、小屋に突っ込んで停止したクレーン車の運転席から、張本人の運転手がフラフラ出てきて呆然としていた。

腹立たしいことに、無事だったようだ。

ほどなくしてこの大事故を起こした運転手は、現場に駆け付けた栃木県警に自動車運転過失傷害の容疑で現行犯逮捕された。

そう、この運転手こそが柴田将人なのだ。

そしてその後日、自動車運転過失致死傷容疑に切り替えられて取り調べを受けた柴田の供述と、その後の関係者の証言によって、ただでさえ取り返しがつかないこの大事故が、単なる不注意やミスなどではなく、柴田の日ごろの無自覚と無責任ぶりによって起こり、防ぐことができたものであることが明らかとなる。

運転してはいけなかった男

これは、事故の前年に鹿沼市の広報誌に掲載された柴田の記事である。

記事の中で柴田は、自分の仕事であるクレーンの操作技術の向上に日々邁進するさわやかな好青年として紹介されているが、6人もの児童の命を奪った事故を起こした後で見たらけったくそ悪いことこの上ない。

こいつがクレーン車に乗っていなかったら、事故は起こらなかったのだ。

そもそも、柴田はクレーン車のような大型車どころか、自動車そのものを運転してはいけなかったのである。

と言っても、普通車はもちろん大型特殊の免許まで持っているから無免許ではない。

免許は交付されていても、車を運転させるには、あまりにも危険な特性があったのである。

この事故を目撃していた人間は、クレーン車が小学生の列に突っ込んだ時、運転手はハンドルに突っ伏していたと証言しており、柴田も当初の取り調べでは、居眠りをしていたと供述していた。

さらに柴田は「ドン」とぶつかったのは覚えているが、人をはねたかどうかは覚えていないとも話し、ぼうぜんとした状態であったという。

だが、柴田の務める小太刀重機は現場から700メートルしか離れておらず、それだけの距離で居眠りをするのは不自然であり、何らかの持病があって発作を起こしたのではないかと見られていた。

ほどなくして、3年前の2008年4月9日にも、柴田は乗用車の運転中に小学生をはねて複雑骨折の重傷を負わせる事故を起こしていたことが判明する。

同年11月には、宇都宮地裁により自動車運転過失傷害罪で禁固1年4か月執行猶予4年の判決が下され、執行猶予中だった。

この事故でも、当時の柴田は居眠りをしていたと供述しており、事故後に病人のようにふらふらしていたとの目撃証言があったことから、発作によって意識を失ったのではないかと見られていたが、インフルエンザの影響などとも言い張って否定していた。

これはいよいよ単なる居眠りではなかった可能性が高まって調査を続けたところ、案の定柴田には持病があったことが分かる。

それはてんかんだ。

てんかんは、脳の神経細胞が無秩序に活動することによって発作が起こる慢性の病気であり、柴田は子供のころから、てんかん発作を起こして度々通院していたのである。

それも、意識を失うくらいだから症状が重い。

薬を飲めば、その発作をある程度抑えることができるのだが、事故当日に柴田はその薬を飲んでおらず、しかも前日は夜遅くまで携帯電話でゲームをしていたと供述。

柴田の自身の持病に向き合おうとしない無自覚さが、この大惨事の一因であったことが明らかになった。

さらに、免許の取得や更新時の記録などを調べたところ、より許しがたい事実が発覚する。

柴田は、義務付けられている持病の申告や診断書の申告をせず、持病を隠して免許を取得・更新していたのだ。

遺族の感情を逆なでするボンクラ親子

柴田が事故を起こしたことは、2008年と今回の大惨事以外にもあった。

何と免許を取得した2003年から、通算12回もの事故を起こしていたのである。

なおかつ、柴田を診断していた医師からは「大事故を起こす可能性がある」と、再三運転をやめるよう忠告されてもいた。

にもかかわらず、このバカは車に乗り続け、あまつさえ大型クレーン車を運転していたのだ。

正直に申告したら、クレーンどころか普通車の免許も取得もしくは更新できないと考えたらしいが、身勝手極まりなく、もはや未必の故意による殺人の一歩手前の犯罪者と言えるだろう。

そして、死亡した児童の親の目から見た公判中の柴田は、とても反省しているように見えなかった。

柴田将人

公判中に、幼い我が子を失った遺族の調書が読み上げられたり、モニターで事故現場が映されていてもヌボーとした様子であり、何より誠意が感じられなかったのは、事故から3か月後に6人の児童の遺族へ出した謝罪文が、全て同じ内容だったことである。

だいたい、当初の「人をはねたかどうかは覚えていない」という供述でもわかるとおり、事故現場からパトカーに乗せられた時に「オレ交通刑務所行くんですかね?」と警官に尋ねるなど、自分がどれだけ重大なことをやらかしたかについての自覚がなかったのだ。

「わざとやったわけじゃねえから、しかたねえだろう」とでも思っていたんだろうか?

そのくせ、同じく公判中において危険な持病を隠してまでクレーン車の運転を続けた理由を聞かれると、自分はクレーン車の運転手は天職だと考えていたと答えて、その魅力について目を輝かせてとうとうと語ったりするなど、あらゆる発言や態度に配慮や自責の念が感じられず、遺族の心情を逆なでした。

彼らは「おまえのその夢に、うちの子は殺されたんだ」と怒り狂ったはずだ。

自分の病気の精密検査の結果や服用する薬について、被害者側弁護士から聞かれても「よく分からないので、オカンに聞いてください」などと平然と答え、26歳にもなって同居する母親まかせだったようであるから、タチの悪いマザコンでもある。

そんな柴田は母子家庭であったのだが、母親もこのボンクラの親にふさわしいバカだった。

母親は、事故の二日後に息子の務めていた会社に『(息子の)持病、執行猶予中の身であることを隠したまま面接を受け働かせていただいておりました。たいへんなご迷惑をおかけしてしまいました、本当に申し訳ありません。一生をかけて償いたく思います』と、お詫びの手紙を出しているのだが、一番肝心なことをしていなかった。

そう、幼い我が子を失った遺族たちの方には、何ら謝罪していなかったのだ。

虫唾が走る母性愛である。

しかも遺族によると、彼らの前に一度も姿を現すことはなく、後の民事裁判にも出廷してこなかったという。

どうりで、柴田のような無責任な男が生まれるわけである。

そんなバカ母は柴田が幼いころ、てんかんの発作を時々起こす息子にいらだつ余り、せっかんを加えたこともあったようだが、反面で中途半端に甘やかしてもいたようだ。

おかげですっかりわがままになって、高校を中退するなど完全無欠なバカに成長した息子が、発作を起こして事故を起こすたびに車を買い与えたり、てんかんの薬を飲もうとしない柴田を注意することもしなかった。

クレーンの免許を取りに行く際には、試験場まで車で送迎しているし、2008年の事故では「てんかんの持病があるって言ったら殺すぞ」と息子にオラつかれて、警察に病気持ちではないとウソの証言をしていたのだ。

180cmという無意味にデカい体に育って暴君と化していた息子の言いなりになってしまっていたと弁護できなくもないが、事故の共犯とみなされても仕方がない。

当然その後、彼らは大きな代償を支払わされることになる。

後味が悪い結末

治療薬の服用を怠ったり、てんかんの症状があるのを隠してクレーン車を運転した挙句の重大事故であったことから、柴田には上限懲役20年の危険運転致死罪の適応が検討された。

同罪の対象は「故意」による無謀運転だったが、最終的に検察側は「故意」の立証を断念して上限7年の自動車運転過失致死罪の適応に留めてしまった。

宇都宮地裁は、2011年12月19日に自動車運転過失致死罪で柴田に懲役7年の実刑判決を言い渡し、翌年1月5日までに柴田が控訴しなかったために刑が確定する。

小学生6人の命を奪った割には、あまりに軽い制裁であった。

遺族はその後、防げたはずの事故であったとして柴田とその母親、勤めていた会社に対し3億7770万円の損害賠償を求めて宇都宮地裁に提訴。

2013年4月24日、宇都宮地裁は被告3者の責任を認めたが、命じられた賠償は合計して、たったの1億2500万円だった。

もっとも、成人である柴田の母親に対する内服管理責任を認めた点は特筆的であったが。

この事故は、そもそも柴田がてんかんの持病を有しているのにもかかわらず、それを申告せずに運転を続けた結果である。

遺族は同様の事態を防ぐべく、「持病を有し、それを申告せず免許を取得、更新した場合の事故」に、危険運転致死傷罪を適用すること、てんかん患者が病気を隠して不正に免許を取得できないようにすることを求める署名を、2012年4月9日法務省に提出した。

しかし、それから間もない4月12日、京都府祇園で同じくてんかんを申告せずに運転していた男の危険運転行為により、7人が死亡する事故が起きてしまう(運転手も死亡)。

京都祇園軽ワゴン車暴走事故

ようやく法律を見直す動きが加速し、2013年に「自動車運転処罰法」が成立し、てんかんや統合失調症といった一定の病気により「正常な運転に支障が生じるおそれがある状態」で自動車を運転し人を死傷させたケースを、危険運転致死傷罪の一種として規定。

死亡事故の場合は、15年以下の懲役を科せることになった。

だが、多くの人命を脅威にさらしていることを承知の上で、自分の権利をごり押しした無自覚なバカどもに奪われてしまった命は戻らない。

京都で7人を死なせた方のバカは、もうすでに地獄に落ちたからよしとして、柴田の方はもう刑期を終えてシャバに出てきているはずだ。

莫大な賠償金を課されてはいるが、身勝手な夢を見て6人の児童の命を奪った罪には到底及ばない。

まさか、今でものうのうと車を運転してはいまいな。

こんな奴には原チャリすら乗る資格はない、一生徒歩で移動してろ。

そして、人並の暮らしをする権利もない。

読者諸兄も柴田を見かけたら遠慮なく冷たい視線を、より願わくば、そのアホ面に鉄拳をお見舞いしていただきたい。

出典元―毎日新聞、朝日新聞、京都新聞、

『あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故 遺族の想い』

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2023年 ホスト 本当のこと 東京

どん底からの這い上がり方 ~勝利の女神に貢がせるホスト・涼風つばき~

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歌舞伎町に「涼風(すずか)つばき」という男がいる。

二次元世界の登場人物のリアル版がごとき美男子であることから分かるとおり、職業はホスト。

涼風つばきという名も当然本名ではなく、源氏名だ。

つばきは、『現代ホスト界の帝王』とも称されるローランドがオーナーを務めるホストクラブ『THE CLUB』所属のホストであり、2023年に入ってから三か月連続、売り上げナンバーワンの座に君臨し、五か月で早くも約1億3千万円を売り上げているほどの売れっ子である(ホスト業界では、通常年間1億売り上げれば売れっ子と呼ばれる)。

持って生まれた容貌と話術を駆使しつつ、チャラチャラしながらヒトがうらやむような成功をたやすく手にしているように見える彼だが、ここに至るまでの道は、決してバラが敷き詰められた赤カーペットではなかった。

その前年まで、どん底をさまよっていたのだ。

『THE CLUB』に来る前

1991年に群馬県で生まれたつばきは少年時代、ジャニーズにあこがれていたらしい。

ルックスに自信があって、そこそこ学校で異性にモテてもいた。

しかし、そんな程度の者は世の中いくらでもいる。

履歴書を何度か送ってみたものの、ことごとく書類選考ではねられてしまう。

高校卒業後に東京都内の大学に進学して上京したつばきだったが、ジャニーズはダメでも、とにかく有名になってちやほやされたいとは思っていた。

そんな若者らしい不純な夢を追いかける彼が選んだのは、ホストの世界だった。

だがその店で、つばきはホスト業界の洗礼を受ける。

その店は未成年だったつばきに酒を飲ませ、先輩は何かといえば暴力をふるうなどのパワハラが横行する店だったのだ。

そして売り上げも上がらず、耐えられなくなった彼は、三か月ほどで店を辞めてしまう。

若者の不埒な純情は、現実の前で木っ端みじんにされてしまったのだ。

一旦、大学生活に戻ってあきらめたかに見えたが、やはり未練が残っていたのだろう。

負けん気が人並外れて強い人間でもあるつばきは、再び在学中にホストの道に舞い戻る。

その店の名は『スーパースター』

結果的に、この選択は大当たりだった。

この店には合ったらしく、持ち前のルックスの良さも手伝って売れっ子になり、五年連続年間同店の売り上げナンバーワンを維持するほどになる。

コンピューターのスクリーンショット

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スーパースター時代

しかし次第に、ホスト業界につきもののドロドロとした人間関係に疲れ始め、絶頂期だった26歳の時にホストを引退。

稼いだ金がかなりあった彼は働くこともなく、海外に行ったり、筋トレをやったりして、悠々自適の生活を送り始めた。

一見好きなことをしてのんびり過ごすことは最高なようだが、つばきは、この生活にも苦痛を感じるようになる。

やはり、何も目標も張り合いもない生活には耐えられないのだ。

金も一生遊んで暮らせるほど持っているわけでもない。

もう一度輝きたい。

そして、自分が輝けるのはホストしかないと思ったつばきは、2021年に三年間の放蕩生活に終止符を打って、ホストに戻ることを決意する。

とは言っても、ホストクラブならば、どこでもいいわけではない。

つばきが選んだのは、ホスト界の帝王と称され、TVでも脚光を浴び、YouTubeでも100万人超の登録者を誇って知名度抜群のローランドの経営する店だった。

それに、ローランドは現役だったころに知り合った友人でもあったのだ。

もっともこのころ、ローランドの経営するホストクラブ『THE CLUB』はコロナ禍で自主閉店し、ローランド自身はホストの世界からは遠ざかっていた。

よって、復帰したつばきが入ったのは、ローランド不在の中でTHE CLUBに所属していたホストらが立ち上げた新しい店『THE CICH』であった。

つばきは、すでにこの時30歳を超えており、ホストとしては年齢的に不利ではあったが、腐っても元レジェンドホスト。

他店舗ならばナンバーワンであってもおかしくないほどの売り上げと実力を有したホストが目白押しのTHE CICHでも、入店早々頭角を現し、売り上げナンバー3にまで入る健闘を見せる。

テレビの画面が表示されたパソコンのスクリーンショット

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三度目のホスト復帰をしたころ

だが、それは長く続かなかった。

非情な現実、そしてどん底=『もう無理。さよなら』

つばきは、その後も THE CICH でホストを続けたが、売り上げは低迷。

全盛期だったころの水準はもちろん、店内の月間売り上げナンバー10 以内に遠く及ばない状態が続いた。

こんなはずではない、とつばきは焦っていたようだが、もはや時代に取り残されて、世代交代を許してしまった感があった。

つばきがホストに復帰した次の年の 2022年6月、ローランドもホスト復帰を宣言。

新たにオーディションまで開催して新人ホストを集め、休業していた THE CLUB を再開する。

THE CICH で売り上げが低迷していたつばきは、環境を変えてやり直そうと思い立ち、移籍を願い出て、ホスト未経験者も多い新生 THE CLUB に加わった。

ローランドもベテランの彼が新人を引っ張ってくれることを期待したであろう。

売り上げが落ち込んで自信を失っていたころ

だが、部屋の引っ越しまでして気持ちを新たに移った THE CLUB でも、売り上げは上がらなかった。

今まで来てくれていた指名客も途絶えるようにまでなり、売り上げが地に落ちた状態で、THE CLUB が再開してから最初の月である7月の締め日を迎える。

つばきの売り上げは、ホスト未経験だった新人にも抜かれるほど惨憺たるものだった。

友人であり現在は雇い主であるローランドは、再開した店の好調な出だしと新人の躍進を喜びつつも、この結果を黙って見過ごしてはいない。

営業が終わった後に、つばきと他の売り上げが低迷するベテランホストを呼び出して叱責した。

コンピューターのスクリーンショット

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叱責されるつばき

「つばきには何度も言ってる。お前、悔しくねえのか?」

ローランドは、つばきとほぼ同時期にホストになっており、現役バリバリだったころは他店舗だったとはいえ、その実力には一目置いていたのだ。

そんな男が、今や月の売り上げのかかった締め日に指名客も呼べず、ホスト未経験の新人にすら負けているふがいない姿を見て、自分がバカにされている気すらしていたし、なにより友人として心配していたのである。

つばきは「確かに…」としか返す言葉がなかった。

そして、この模様はローランドの YouTube チャンネルである『ローランドショー』のクルーに撮影されていた。

かつて、ローランドと肩を並べるほど売れていたホストだったつばきが、復帰してはみたものの、なかなか思うように結果が出せないさまは、視聴者の興味を引くであろうから見逃すはずがないのだ。

ローランドショーは登録者数 100万人を優に超えるから、その影響力は大きい。

約一か月後にそれが YouTube で公開されるや、日本中の少なからぬ人間の心の中に、かつては売れていたが、もはや時代についていけなくなった三十路ホスト・涼風つばきという印象が残った。

おまけに実際に公開された後、みじめな姿を面白がった心ない視聴者から中傷のDMが、わざわざ自身のインスタグラムやツイッターなどに寄せられるようになってしまう。

これは自分に自信を失い、仕事への熱意をも失いつつあったつばきには、追い打ちとなったようだ。

つばきは、THE CLUB に移ってから自分のYouTubeチャンネル『つばきっす』を開設して動画をアップし始めており、自分が叱責されるローランドショーの動画が公開された直後、自身のチャンネルでも動画を出して苦しい胸の内を吐露した。

しかもその動画の題は『もう無理。さよなら』で、いきなりネガティブこの上ない。

動画の内容はそれ以上にネガティブであり、つばきは終始暗い顔をして「すげーつれー」「どうしていいかわからない」「昭和のホストだとかコメントで書かれた」「オレに明日はあんの?ってカンジ」などと、ひとしきり自嘲気味に弱音を吐き続ける。

そして、カメラの前で泣き崩れた。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト, アプリケーション

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語っているうちに、自身のあまりのみじめさに耐えきれなくなってしまったのだ。

ひとしきり男泣きした後、「もう、うまいこと言えねえや、もういいや」と投げやりにつぶやいて、つばきはその回の動画を終了した。

どん底な姿と泣きっ面を自ら世間にさらしたこの男は、もはや立ち直ることはできないだろう。

もう 30歳を過ぎているし、一昔前の平成のイケメンという感じがするつばきの顔は、令和の現代では貧乏神にしか見えない。

視聴者の中には、そう思った者も多かったはずだ。

だが、それは違った。

堕ちるところまで堕ちたこの男は、その後反撃を開始する。

ただいま、ありがとう

もはや再起不能と思われたつばきだったが、ほどなくして『ただいま、ありがとう』と題した動画を上げた。

動画の中のつばきは、まだ暗い顔をしていたが、訥々とこれから立ち直って再びやっていくことを宣言する。

その際の表情からは、未だ落ち込んでいて頼りない感じがしたものの、それからすぐにつばきは行動を開始した。

自分の動画を YouTube に上げる頻度を増やしたのだ。

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コンピューターのスクリーンショット

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コンピューターのスクリーンショット

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動画の内容は単に自分が街を散歩していたり、コンビニの商品を食べ比べしたり、THE CLUB の他のホストと対談したりする様子を撮影するといったたわいもないものだったが、とにかく一日も欠かさず動画を更新。

まずは知名度を上げるためである。

当初、暗い顔をしていたつばきも、だんだんと生気を取り戻し始めた。

どうやら、ユーチューバーは性に合っていたらしい。

さらに、ライブ配信をして投げ銭を集めるようにもなった。

コンピューターの画面が表示されたスマートフォンのスクリーンショット

中程度の精度で自動的に生成された説明

集めた投げ銭を自身の売り上げにしようと考えたのだ。

グラフィカル ユーザー インターフェイス

自動的に生成された説明

これは、同じ THE CLUB で働く同僚ホストの俊が先に行っていた。

俊は、かなり早い段階で YouTube に個人チャンネルを開設し、すでにライブ配信で投げ銭を視聴者から集め、ホストクラブでは超高額オーダーがあった時のみに出現するシャンパンタワーに使っていたのだ。

また、持ち前のホストとしての実力の高さに加え、YouTube によって知名度を上げて集客にも成功。

これら令和的とも言える最先端の手法を駆使して圧倒的な売り上げをたたき出し、THE CLUB 再開以来絶対的ナンバーワンに君臨していた。

しかも俊はつばきと同年齢の 31歳。

ホストとして年齢的に賞味期限を超えているという悪条件をひっくり返していたのである。

そんな成功例が身近にいるのだ。

同じことをしてみない手はない。

一見冷酷そうな外見と言動の俊も、つばきのことを内心では応援していたらしく、自分のライバルを育成していると分かりつつも自身のノウハウを気前よく伝授してくれた。

つばきは、休日を返上して普段の睡眠時間も削り、YouTube の動画作成やライブ配信に取り組み続ける。

立ち直るために、なりふり構わず猪突猛進していたのだ。

元々熱中し始めたら、寝食を忘れて熱中する気質であったようだが、そのホスト業にかける熱量と思いは視聴者にも十分伝わるほど鬼気迫っていた。

そしてその熱は、運命をも動かす神がかり的な力をもたらすことになる。

勝利の女神を従わせた男

『勝利の女神は勇者に微笑む』

古代ローマ人たちが残した言葉である。

『…用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な生き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである』

16世紀のイタリアの政治思想家・マキャベリはその著作『君主論』の中で、女性差別そのもののきわどい名言を残している。

古より伝わる運を味方につけて勝者になるための法則、それはなりふり構わず積極果敢な行動を取る勇者になることなのだ。

圧倒的な男の凄みで女神たちを怯えさせ、有無を言わさず言うことを聞かせるのだ。

つばきがそれらの言葉を知っていたとは思えないが、彼はまさしく勝者になるための行動をしていた。

そして、古人の教えの正しさが数字という結果の上で裏付けられる。

まずは自身のチャンネル『つばきっす』の登録者数が、開設半年にも満たない 10月に一万人を突破。

YouTube を見た視聴者の中から指名客も現れ始める。

肝心の売り上げや指名本数も上がり始め、10月には売り上げナンバー6 にまで上り詰めた。

ここまでだったら単に比較的よくある「日ごろの努力が報われた」程度のことであったであろう。

だが、いずれかの神の存在を感じずにはいられないような奇跡が、翌月11月の締め日に早くも起きる。

その前日の時点で、すでに THE CLUB の不動のナンバーワンと化してトップを独走していた俊の売り上げとつばきの売り上げは、700万ほど差があった。

いくらその月の店でのランキングが決まる締め日には大金が乱れ飛ぶホストの世界であっても、その差は絶望的なビハインドだ。

常識的に考えて一日で挽回できる額ではない。

だがその日の営業時間、11月度も自身のナンバーワンをほぼ確信していた俊の目が驚愕で見開かれる。

どこかの卓で、800万円分のシャンパンタワーが出現したのだ。

誰だ?

まさかまさか…。

そう、それはつばきのいる卓。

何と 800万円もの大金をつぎ込む超極太客が出現し、一挙に圧倒的な差を埋めたばかりか勝ち越したのだ。

完全に神がかっていた。

もはや、この世のものではない何らかの力が働いているとしか思えなかった。

そればかりか、この日だけでつばきは合計一千万円以上を売り上げ、1290万円だった俊の総売り上げを大きく上回る 1600万円で 11月度のナンバーワンを獲得。

全盛期だった 5年前以来の栄冠を勝ち取った。

しかもホスト人生で最高の売り上げだったから、全盛期を上回っている。

翌日、つばきはライブ配信を行い、その中で感情の振幅の大きいこの男は喜びとともに、これまで味わってきた苦難を語りながら感極まって号泣した。

グラフィカル ユーザー インターフェイス, テキスト

自動的に生成された説明
再び泣いたつばき

そして、奇跡はこれだけにとどまらなかったのだ。

翌12月11日、ローランドが経営するもう一店舗のホストクラブである THE CICH との合同イベント『ザ・バトル』が開催された。

これは、一夜のみで両店舗の売り上げを競うイベントであり、当然ホストも売り上げに応じてランキングされる。

11月ナンバーワンになったばかりのつばきだったが、気持ちを新たに切り替えてこの合同イベントに臨んだ。

店舗の規模も大きく、経験豊富な実力派が数多く揃った THE CICH のホストの中には、「普段は顔を合わせない THE CLUB の人たちと楽しく飲めたらいいですね」などと余裕をかましていたが、つばきだけは戦闘的だった。

「THE CICH の奴ら息してる?誰もオレに突っかかってくる奴いねーのか?」などと、開催前からツイッターで激しく挑発していたのだ。

つばきは、いまだ粗暴な勇者だったのである。

そしてその勇気が再び天を動かす。

『ザ・バトル』で、つばきの指名客の一人が 1000万円以上を使うなどし、この日だけで合計 1500万円を売り上げて、堂々『ザ・バトル』初代ナンバーワンの栄冠を勝ち取ったのだ。

この一連の勝利は誰もがひれ伏し、その顔色をうかがう運命の女神と勝利の女神の両方を、その強引ともいえる行動力で従わせた結果としか思えないものだった。

いや、ホストだけに、両女神とも指名客にしたというべきだろう。

それもオラオラ営業で。

この瞬間から、つばきは完全に復活したばかりか第二の、いや、前回の全盛期が下積み時代に見えるほどの本物の全盛期に突入したのである。

中年の男から見たホスト・つばき

現在 48歳の中年男である私が初めてつばきを知ったのは、去年のことである。

おっさんだから、もちろんホストクラブには縁がなかったし、特に興味もなかった。

たまたま YouTube のローランドショーを見て、つばきの存在を知ったのだ。

ベテランなのにふがいない営業成績しか出せず、ローランドから怒られていた場面からである。

最初は、ゲスな野次馬根性からだった。

この情けない奴がどんな男なのか気になって検索したところ、彼が自身の YouTube チャンネル『つばきっす』を持っていることを知ってのぞいてみたのだ。

すると、つばきは早くもローランドショーで情けない自分の姿を取り上げられた件に関するくだんの動画『さよなら、もう無理』をアップしており、泣き言を言い続けた後で本当に泣き始めた場面に出くわした。

「30越えてるくせに泣くなよ。情けねえ野郎だ」

それが、その時の私の率直な感想だ。

30越えていたらもういい歳、ホストをやるには厳しいのは私でもわかる。

そろそろ他の道探せよ。

だが、私もその時ヒトのことを言っていられなかった。

当時従事していた事業の中止が宣告されて所属する部署の解散が決定、私は失業まで秒読みとなっていたからだ。

かと言って新たな仕事を探す気力もなく、宙ぶらりんだったのである。

私も、つばきとかいうホストと似たり寄ったりだ。

だからだろうか。

あの泣き虫三十路ホストのその後が少々気になりはじめた。

数日後に YouTube を見てみたら動画を更新して姿を現し、その中でまだ暗い顔をしながらも、これから立ち直っていくことを報告したのを見た時、少しほっとした気がした。

それからだ。

知らず知らずのうちに、彼が毎日出す動画を見るのが日課になってしまった。

そこで、私を含めた視聴者は三か月にわたってリアルタイムで目撃し続けたのだ。

万年絶不調で、このまま消えていくと思われた男が立ち上がる姿を。

立ち上がるや、何らかの未来を信じて遮二無二走り続ける姿を。

さらに、11月末から起こした一連のシンデレラストーリーを。

たった三か月で、このどん底にいた男は圧巻の復活劇を見せつけたのだ。

それは、同時にどん底にいる者たちへの啓示でもあったと思う。

這い上がるためのなりふり構わぬ行動力と熱量は一見定められたかに見える運命をも動かすことがあるのを教えてくれたのだ。

私も彼に動かされた。

もう 47歳になっていたが、あのつばきが立ち直ったように、私も再就職活動を改めて始めたのだ。

お祈りメールが送られたり、履歴書を送ってもなしのつぶてばかりだったが、彼がなかなか結果も出ずアンチからの嫌がらせにも屈しなかったように私も応募を続けた。

2023年 6月現在、私は某医療機器メーカーに職を得て勤務している。

新しくついたこの仕事だが、覚えることが多すぎて自分より一回り年下の上司にできない奴だと思われて今もてんてこ舞いだ。

だが、私は信じている、そして知っている。

継続は力なりが本当のことであったことを。

食らいつき、前進し続ければ必ず報われる日が来ることを。

つばきが三か月かけて教えてくれた。

自分が高校生の時に生まれた男に導かれると思わなかったが、彼を見つけることができて本当に運が良かった。

どん底から這い上がる姿を目の前で、しかもリアルタイムで見せつけて勇気をくれたことに感謝している。

そんなつばきは三か月連続ナンバーワンを取ったものの、現在は 4月、5月と二か月連続でナンバー2に甘んじてしまっている。

だが、もう心配はいらない。

彼なら、きっとナンバーワンに返り咲いてくれるだろう。

あれほどの奇跡を起こした男なら、またやってくれるに違いないと信じている。

コンピューターのスクリーンショット

自動的に生成された説明

出典元―

『つばきっす(https://www.youtube.com/live/btjhgzrUseE?feature=share)』

つばきっす

『THE ROLAND SHOW(https://youtu.be/Ihm9LBbtS8I)』

THE ROLAND SHOW

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2023年 心霊現象 怪奇現象 本当のこと 英国

世界最恐幽霊屋敷?捏造?ボーリー牧師館伝説

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英国エセックス州のボーリー村に、かつてボーリー牧師館(英語:Borley Rectory)という建物があった。

同牧師館は1862年に建造され、1939年に火災で焼けた後の1944年に取り壊されて今は存在しないが、その名は今なお世界的に有名である

それは、怪奇現象が立て続けに起きる恐怖の幽霊屋敷であったからだ。

建造

ボーリー牧師館が建造される前にも、このボーリー村には牧師館はあった。

だが、こちらの牧師館は1841年に火災で焼失しているため、この教区の教会の司祭を務める牧師のための住居は、長らく整備されていなかったようだ。

そこで1862年、この地方の地主であり、新たに教会の牧師となったヘンリー・D・E・ブル(Henry Dawson Ellis Bull)が、自らのために新たな牧師館を建造した。

ヘンリー・D・E・ブル

ヘンリー・D・E・ブルは、子供が14人もいる大家族。

そんな子だくさんのヘンリー一家が住めるようにと、新しい牧師館は23部屋もあって、以前のものより大きくなった。

広々とした館に転居することができて、順調に新生活をスタートさせたヘンリー一家であったが、その生活は、引っ越したその年早々から暗雲が立ち込め始める。

何やらおかしな出来事が、この広い家の中で起こり始めたからだ。

怪奇現象

在りし日のボーリー牧師館の外観

実は、ボーリー牧師館が建てられる前から、この地方には不気味な言い伝えがあった。

それは、建造の500年前、1362年に僧侶と修道女が駆け落ちしたが失敗し、僧侶は処刑され、修道女の方は、この地にあった僧院の壁に生き埋めにされたというものだ。

そんな呪われた伝説のある場所の真っただ中に建てられたからだろうか。

ボーリー牧師館での最初の怪奇現象は、建造早々の1863年に起こった。

それは誰もいないはずの牧師館の中から、奇妙な足音や物音が聞こえたり、家族の者以外の人の気配を感じたりという程度のものだったが、ここには得体の知れない何かがいるのではと思わせるのに十分なくらいであったという。

牧師館が建てられてからちょうど30年後の1892年、ヘンリー牧師が死去。

彼の息子であるヘンリー・フォスター・ブル(Henry Foyster Bull)が父の跡を継いで、この牧師館を相続する。

本格的に恐ろしい心霊現象が起こるようになるのは、この子ヘンリーの代になってしばらくしてからである。

1900年7月28日の夕方、牧師の四人の娘が、家の外で空中に修道女のような恰好をした幽霊を目撃したと主張したのだ。

娘たちによると、その幽霊はもっとはっきり見ようと近寄ったところ消えたらしい。

さらに、地元の住民にいたっては、首のない人間が乗った馬車を目撃した。

在りし日のボーリー牧師館の内部

1928年6月9日、ヘンリー・フォスター・ブルが死去。

牧師館は一時期空き家になるが、10月2日新しい牧師となったガイ・エリック・スミス(Guy Eric Smith)の一家が引っ越してきた。

ガイ・エリック・スミス

しかし引っ越して間もなく、スミス牧師夫人がタンスを掃除している際に、何と紙に包まれた女性の頭蓋骨が見つかるなど不吉な出来事があり、その後ほどなくして、ガイ家の人々はスイッチを切ったはずの呼び鈴が鳴ったり、窓に時折光が差し込んだり、どこから響いてくるかわからない足音が聞こえたりの怪奇現象に見舞われることになる。

スミス牧師夫人も例の首無し御者の乗った馬車を目撃するなど、先代の住民の時より心霊現象の不気味さはグレードアップするようになっていた。

不気味に思ったスミス牧師は、これらの現象を英国の日刊タブロイド紙『デイリーミラー』に報告して、超常現象を研究する人物の調査を依頼。

これを受けた『デイリーミラー』は、1929年6月10日に記者を派遣してボーリー牧師館での出来事を報道、さらに当時著名な心霊現象研究家であったハリー・プライスが、6月12日に同牧師館を調査に訪れた。

ハリー・プライス

だが、プライスが牧師館に入ったとたんに、新たな異常現象が起こる。

石や花瓶がひとりでに浮遊し始め、家じゅうの鏡から何かがこちらを見ているような感じがしてきたのだ。そしてプライスが去ると、これらの怪異な現象はぴたりとやんだ。

1929年7月14日、先代よりはるかに我慢が苦手だったスミス牧師一家が牧師館を去り、それからしばらく地域の教会に赴任する新しい牧師が見つからなかったこともあって、牧師館は再び空き家となる。

一年後の1930年10月16日、ヘンリー牧師の親戚でもあるライオネル・A・ホイスター(Lionel Algernon Foyster、1878年ー1945年)が、この教区の牧師に任命されて彼の妻のマリアンヌ・ホイスター(Marianne Emily Rebecca Shaw、1899年ー1992年)、養女のアデレード( Adelaide)らがボーリー牧師館に引っ越してきた。

だが、お約束どおり彼らも心霊現象に悩まされることになる。

ホイスター牧師 ― 女の子の頭がなくなる心霊写真が残っている

それも先代のヘンリー牧師やスミス牧師などより深刻で、呼び鈴が勝手に鳴ったり石や花瓶が浮遊するだけではなく、壁に意味不明の血のように赤い文字が現れたり、自分の部屋にいる時にカギがかかって出られなくなったりとかなり激しいものだった。

牧師のホイスターは、自身で二回ほど悪魔払いの儀式を行ってこれらの悪霊を退散させようとしたが、エクソシストとしての彼は三流だったか、よほど強力な霊魂だったらしく、効果はなかったようだ。

また、その儀式の最中養女のアデレードの肩に祟りとばかりに、こぶし大の石が飛んできて当たったこともあった。

結局、1935年10月に、ホイスター牧師は健康上の問題を理由にこの教区の牧師を辞めて、一家はボーリー牧師館を出て行くことになるが、それまでに2000回近い怪奇現象が起きたという。

一方において『デイリーミラー』で、以前にボーリー牧師館についての報道がなされた後、興味を持って牧師館を調査した研究者の中には、怪奇現象がホイスター夫妻の捏造ではないかという疑いを抱いた者もいた。

そして、疑われた妻のマリアンヌ・ホイスターの方は、異常な現象のうちのいくつかは夫のホイスター牧師や一部の怪奇現象研究者の仕業ではないかと考えてもいたようだが、ほとんどは確かに不可思議で説明のつかないものだという認識であったという。

マリアンヌ・ホイスター

ちなみに、マリアンヌは牧師館に部屋を間借りしていたフランク・ピアレス(Frank Pearless)と浮気をしていたようだ。

ハリー・プライスの調査

ハリー・プライスとホイスター家の人々

ホイスター牧師が去ってから、ボーリー牧師館はまたも空き家になる。

それから1937年5月、ハリー・プライスはアン女王基金会からの金で、一年間この牧師館を借りて調査に乗り出す。

プライスは、さらに5月25日、タイムズ紙で広告を出して週末にボーリー牧師館調査の協力者を募集した結果、48人もの志願者が集まった。

その大多数は怖いもの見たさの学生であったようだ。

1938年3月、プライスの助手S・ J・グランビル(S. J. Glanville)の娘ヘレン・グランビル(Helen Glanville)がロンドン南部のストリーサムで、ボーリー牧師館に出る幽霊を呼び出す交霊会を行い、プライスは、この交霊会で二つの幽霊を呼び出したと報告した。

ヘレンが、その幽霊たちから聞き出したところ、そのうちの一つはマリー・レール(Marie Lairre)という名の修道女の幽霊で、フランス出身だが、後に17世紀にイギリスに来て、この地の名門ウォルデグレーヴ家(Waldegrave Family)出身の領主に嫁いだが謀殺され、遺体は地下室か井戸に捨てられたという。

そして彼女は、時々牧師館の壁に「助けて」という文字を書いており、それは、それまでの目撃証言で語られていることだった。

二つ目は、サネックス・アミュレス(Sunex Amures)という男の幽霊で、火災を起こしてボーリー牧師館を焼き尽くし、牧師館の下に隠されている骸骨を、白日の下にさらすと語った。

その後、ハリー・プライスは、自身の調査結果をまとめて複数の本を出版。

後に、ボーリー牧師館が「最恐幽霊屋敷」として、世界にその名をとどろかせるきっかけを作った。

火災

1939年2月27日、W・H・グレグソン(W. H. Gregso)が新しい主となったボーリー牧師館で火災が発生、牧師館は焼失してしまった。

グレグソンは、このころすっかり幽霊屋敷として有名になったこの館に見物人を招いて一儲けしようとしていたらしいが、その目論見はご破算になる。

燃えてしまったボーリー牧師館

火災の原因はグレグソンの過失ともされるが、保険会社の調査によると、放火の可能性が高いというものだった。

また、ハリー・プライスは火災後に現地の人に取材したところ、火事の時にボーリー牧師館の二階の窓のところに、修道女が立っているのを見たと証言した者がいたという。

1943年8月、プライスは、ボーリー牧師館跡地の地下から二体の人骨を発見、そのうちの一つは、若い女のものと推定された。

それらの骨は当初人骨とはみなされなかったが、後にエセックス州の教区に埋葬された。

火災が起きた後も調査が行われてきたが、その調査中に照明装置が原因不明の故障を起こすなどの不可解な現象が発生したこともあったと伝えられる。

心霊現象研究協会の評価

幽霊屋敷ボーリー牧師館

ハリー・プライスが1948年に死去した後、エリック・ディングウォール(Eric Dingwall)、K・M・ゴールドニー(Kathleen M. Goldney)とトレヴァー・H・ホール(Trevor H. Hall)の三名の心霊現象研究協会メンバーが、生前のプライスによるボーリー牧師館に関する調査をまとめて、1956年に『幽霊屋敷ボーリー牧師館(The Haunting of Borley Rectory)』という著作を発表。

同時に、プライスの報告したボーリー牧師館の怪奇現象に関して、でっちあげがあったことを公表した。

この中では、少なからぬ怪奇現象が人為的であったか思い込みであったことが述べられており、例えば、不審な物音もネズミによるものだったり、建物がきしんだだけであったとされ、ディングウォールらは、調査すればするほど本物の怪奇現象であったかどうかは疑わしくなったとした。

また、神経内科の専門家であるテレンス・ハインズ(Terence Hines)は、ホイスター牧師夫妻が住んでいた1930年から1935年の期間に、夫妻は幽霊話のでっち上げに熱心で、プライス自身も同じようなものだったと主張した。

ホイスターの妻であったマリアンヌも、実際は幽霊を見たことがなく、以前に幽霊の声を聞いたというのもウソであり、夫と共謀して家にやって来た友人に幽霊がいるなどと言って、それらしい仕掛けを使って怖がらせては面白がっていたと告白。

他にも、ホイスターが引っ越してくる前の住人であるブル牧師の子供たちも、怪奇現象に出くわしたことはないと言っていたようだ。

ちなみに、これより前の1938年には、ボーリー牧師館のある地方に伝わる駆け落ちして殺された僧と修道女の言い伝えも、そのころには全く根拠のないでたらめだったと立証されていた。

一方で、プライスのホラを信じている心霊現象研究協会のメンバーもいる。

ロバート・ヘイスティングス(Robert Hastings)やプライスの遺言執行者のポール・タボリ(Paul Tabori)、ピーター・アンピーター・アンダーウッド(Peter Underwood)などであり、彼らは、プライスの報告が正しいとかたくなに信じていたのだ。

もっとも、現代では数々の有力な証拠から、ボーリー牧師館の話はプライスらのでっち上げであったというのが定説で、プライスの属していた心霊現象研究協会自体、プライス支持者の主張は、でっち上げであったことを覆すには足らないと結論付けている。

だが、ボーリー牧師館は、世界でもっとも有名な幽霊屋敷であることは現代でも変わらず、今でも跡地には、観光客がひっきりなしにやってきているようだ。

出典元―百度百科

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