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2020年 おもしろ 悲劇 本当のこと 無念

自分の名前と戦う子供たち


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心愛(ここあ)、空流(くうる)、姫星(きてぃ)、本気(まじ)などなど。

おそらく平成を迎えた頃からだと思うが、自分の子供に日本人らしくないばかりか常識から外れた名前、いわゆるキラキラネームを付ける親が目立ってきた。

私の職場の同僚であるO川秀定もその一人で、来月生まれる予定の息子には「都夢」と名付けるつもりだと嬉々として宣言してしまっている。

A川も含めて、こういう親たちは自分の子供がどんなふうに育つように願っているのだろうか?

そんな名前を付けられるなんて、実に不憫な子だと切実に思う。

私はそんな変わった名前を付けられて成長した人間をリアルに知っているからだ。

1975年(昭和50年代)生まれの私の世代にも、現在ほど多くはないが珍妙な名前を背負わされた者がいた。

彼らはその時代において圧倒的少数派、いや異端派ですらある名前ゆえに、いやが応にも目立ち、いわれなき不愉快を感じていたのだ。

高校時代の同級生

高校に入学した時、同じクラスになった同級生は、名前が林五だった。

B原リンゴである。

漢字も読みも正統派の名前が99%超だった昭和49年や50年生まれの同級生の中で、さすがにリンゴという名前の響きは目立つ。

そして、

本人は相当気にしていた。

今でも覚えているが、クラスで最初のホームルームで自己紹介をやった時、林五は「○○中学出身のH原です」と下の名前を名乗らなかった。

なのに、空気の読めない担任は「下の名前は?これ何て読むの?リンゴ?」と心無い問いを発したため、林五は「…リンゴですよ!」と、憮然として答えたものだ。

さらにその後、より心無いクラスメイトたちが大爆笑したため、林五は正にリンゴみたく怒りで顔を赤くして「笑ってんじゃねえ!」と大声を出した。

どうやら両親が『ビートルズ』のリンゴ・スターの大ファンで、身内の反対を押し切って名付けたらしい。

リンゴという名前を付けるなら付けるで、「凛悟」とか「麟吾」とか、画数が多くてそれなりに教養を感じさせる秀麗な漢字でカバーすべきなのに、安易に「林五」である。

これじゃあ小作人の五男みたいじゃないか。

響きだけを優先させたのは見え見えで、他人事ながら教養の程度が分かり易い実に愚かな親である。

ちなみに林五には妹がいて、こちらはB原恵美となぜか正統派の日本人名、兄との落差が際立っている。

林五は大柄で恵まれた体格の持ち主のうえに性格が荒く(ラグビー部に所属していた)、同じ中学出身者によると、小学校の頃から自分の名前をちょっとでもからかう人間は問答無用で制圧してきたらしい。

そして両親をかなり憎悪しており、「親を殺しちゃいけない理由がわからねえ」が口癖。

そんな危険人物は「林五」と呼ばれると瞬時に顔色を変えるため、1年の時、彼を下の名前で呼ぶどころか「リンゴ」という単語自体が禁句となってしまった。

私など「アップル」と言っただけで、林五に胸倉をつかまれたことがある。

浅はかな命名をしたばっかりに息子の根性をひねくれさせ、他人に脅威を与える人間にして社会に放った林五の両親の罪は重い。

中学時代の同級生

林五は性格こそ歪んでいたが、周囲の偏見を沈黙させる能力を有していたからまだましだったかもしれないが。

私が入学した高校には同じ学年にもう一人変わった名前の持ち主がおり、こちらは女子生徒だ。

その名はC西エレナ

漢字ですらない、ダイレクトにカタカナの横文字ネームである。

エレナの存在は、入学当初から主に男子生徒の間で話題になっていた。

ハーフか?それとも外人さん?

気にならずにはいられない名前ではないか!

入学後ほどなくして、エレナが在籍するクラスには、彼女の顔を一目見ようと他のクラスばかりか上級生の男子が殺到したらしい。

私のいたクラスの生徒たちも例外ではなく、はるか遠くの教室まで、勝手に幻想を抱きながら「エレナ詣で」に出かけて行った。

だが、彼らはがっかりしながら戻ってきた。

実物はあまりにも名前との乖離が激しかったからだ。

実際のエレナ本人はスタイルも顔も典型的な日本人、チンチクリンでずんぐりむっくり体型をした大福顔で、ハーフどころか帰国子女でもない。

戦前の農村あたりによくいたタイプの佇まいで、スカートよりモンペが似合いそうなくらい地味な女の子だった。

名前も「和子」とか「敏子」どころか、「お七」や「お駒」あたりが妥当ですらある。

その容貌に対してエレナという名前は、遺伝子学的に著しく不適切だった。
彼女の両親は「エレナ」という洋風の名前を付けさえすれば、成長の過程で突然変異が起こるとでも思ったんだろうか?

その暴挙に対して、責任を追及したい気分だった。

本人の責任では決してないが、それが当時、エレナを初めて見た時の私の偽らざる印象である。

その後、3年生になって、私はエレナと同じクラスになった。

直接話したことはあまりなかったが、ある時期の席替えでエレナの席が私の前になったことがあり、休み時間になると時々エレナの友達たちがおしゃべりをしに来るようになった。

その会話から、エレナは仲間内で「レナ」と呼ばれていることを知った。

また、名前には似合わないが容貌にふさわしく古典が得意で英語を苦手としており、信仰する宗教は仏教の臨済宗妙心寺派、好物はあんころ餅と草餅だとのこと。

趣味嗜好は典型的どころか、鎖国していた江戸時代の町人の娘レベルの日本人ぶりだ。

ある日のおしゃべりで、友達の一人がエレナの名前のことを口にしたのが耳に入った。

「レナの名前ってさ、すごくきれいだよね」

「やめてよ~、全然気に入ってないんだから」

「外人さんみたいでいいじゃん」

その顔のどこがエレナだ、とかしょっちゅう言われるんだよ?私のせいじゃないのに!」

やはりエレナも自分の名前を気にしていた。

その後の会話で、どうやら母親の方が独断で命名したらしいことが分かった。

何でも、昔からあこがれていた外国人スーパーモデルの名前が「エレナ・何とかコフ」で、それが由来だという。

タチの悪い母親だ。

「そんなんで自分の娘の名前決めるなっての!自分と、自分の旦那の顔見りゃどうなるか想像つくだろうが!まともな名前つけろよ、ウチのバカ親!!」

エレナもしゃべっているうちに興奮してきたらしく、毒説を吐きまくっていた。

その後、エレナの愚母をこの目で拝む機会が訪れた。

進路指導のための三者面談で私と母親が面談を待っていた時、私たちの次の順番がエレナ母娘だったため、廊下で一緒に待つことになったのだ。

エレナ母は、娘をそのままエイジング処理したらこうなる、というぐらいそっくりで、ずんぐりしたドングリ体型なんぞ同じ型でハメたように一致する。

遺伝形質に対して挑戦的な命名を娘に強行した張本人は教育熱心でもあり、待っている最中、進路に関して学業成績の悪いエレナに、あれこれ小言を言っているのが聞こえた。

そんな母親に対し、エレナは「もう分かってるっての!」「しつこいよ、ホント!」と終始いらだち反抗的に応答していた。

思春期という事情もあるだろうが、親子仲が良好ではなさそうだった。

そんなこんなで高校を卒業したが、その後、林五にもエレナにも会ってないから彼らがどういう人生を歩んだかは分からない。

その名前について、今はどう思っているかも知らない。

変な名前やキラキラネームを付けられた子供全てがそうなるとは限らないだろうが、思春期の彼らを見た限りでは自分の名前を気に入っていた様子はなく、そのおかげで大きな悩みを抱えていた。

そういった悩みは一過性のもので、成長の糧になることもあるんだろうか?

だが、一生のうち必ず味わわなければならない悩みでもないだろう。

できることならば、そんな無用な苦しみは味わわせるべきではないはずだ。

親の願望を子供の名前に託すのはいいが、思わずからかいたくなる名前になっていないかよく考えよう。

だから、A川秀定くんよ。

今度生まれる子供に「都夢」って名前つけるのやめた方がいいぞ。

君にも林五やエレナの話をしただろう?

戦国大名みたいな自分の名前が悩みだったからって、トムって名前つけられた息子はそれとは別種で、より深刻な悩みを持つかもしれないんだからな。

え?「都夢」はトムじゃなくて、ドムって読むのか。

いや、そりゃあ目立つだろうけど、人気者とは限らんよ。

それに自分の願いは、林五やエレナの親ほどチャラくないだって?

じゃあ、どうチャラくないってんだ?

何々?ほうほう。

なるほど、

『機動戦士ガンダム』のジオン軍のモビルスーツである『ドム』のような強い男になって欲しいという願いを込めてこの名前に…。
よけいタチ悪りィわ!!

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元柿泥棒です

ついこないだまで暑くてかなわなかったと思ったらもう11月、季節はもう晩秋。

実りの季節、食欲の秋である。

食欲の秋の味覚と言ったら、私は柿を真っ先に思い浮かべる。

故郷の実家で暮らしていた頃は、柿に不自由したことがなかった。

近所の蒲山さんという半兼業農家の庭に大きな柿の木が何本もあり、我が家は毎年柿をお裾分けしてもらっていたからだ。

その柿の木のうちの二本は蒲山邸の塀近くに生えており、枝が塀を越えて道路側までせり出しているため、たわわに実った柿に手を伸ばせばすぐに届く。

中学2年生の頃からシーズンにその下を通り過ぎると、いつも半自動的に私のズボンのポケットには柿が入っていた。

勝手に失敬していたからだ。

黙っていてもお裾分けしてくれるのにこんな悪事を働いていたのは、柿の熟度への私独自のこだわりからである。

柿が一番おいしいのは完熟になる直前より前、ほんのり甘く果肉が固いくらいの熟度のものであると、このころから確信していた。

それより前や後はダメだ。

人間の年代で換算すれば、高校2年生から大学1年生くらいまでが好ましい。
つまり十代後半。

私はそれぐらいが、柿の食べごろだと今でも思っている。

あのまだ固く、出し惜しみ恥じらうような甘さこそがたまらないのだ。

だからそれを過ぎた柔らかい柿は無理だし、ましてや干し柿なんて論外!

成熟した色気や美魔女なんて認めない。

あくまで柿の話だからね、柿。

18歳、私的食べごろ

ところがくだんの蒲山さんがお裾分けしてくれる柿は、私的適齢期を大きく越えているものばかりなのだ。

人間の年齢だと25歳以上くらいが平均で、三十路を超えた年増まで混じっている。

祖母や両親には好評だったが、思春期の私の食指は動かない。

20代後半、ド完熟
40代後半、過完熟で発酵中

とんでもないことをしていたと今では反省しているが、その時は「食べごろをくれない方が悪い」とばかりにシレーっと柿泥棒を働いていた。

蒲山家の柿をいただく時は、一撃必殺がマストだ。

何食わぬ顔で柿の木まで近づく間までに標的を定め、柿がたわわに実って下までしなった枝の下まで来た瞬間に手を伸ばし、両手を使って瞬時にもぐ。

気分はまるで、大戦中B29を迎撃しに向かった戦闘機「飛燕」のパイロットそのもの。

もぐのに失敗した場合はそのまま通り過ぎ、深追いはしない一撃離脱戦法を取っていた。

むろん、前後に誰かの目が光っていないか確認するのは言うまでもない。

あの時の感覚は今でも覚えており、実家に帰省して蒲山さん宅近くに行くと、いつもあの興奮が罪悪感と共によみがえる。

このように戦利品が得られたら、家に帰る前に全部食べてしまう。

証拠を隠滅し、完全犯罪を果たすためだ。

私は柿を切って食べない、どころか皮も剥かない。

そのままワイルドに皮ごと丸かじりである(さすがにヘタやタネは食べないが)。

これは多分に、我が家の習慣によるものだ。

子どもの頃から、祖母が柿をおやつに出してくれた時は、いつもそのまま出てきた。

他の果物、リンゴや梨などは律義に皮を剥いて切って出してくれるのに、柿だけは、なぜかそのままなのだ。

祖母によると、昔からこうしてたとのこと。

祖母の息子である私の父も何の疑問も持たず、そのまま柿をかじっていたし、母もそれになじんでいた、

人様のお宅で柿をごちそうになった時、リンゴや梨と同じく皮を剥いて切られて出てくると「何もそこまでしてくれなくてもいいのに」と思うくらい、私の中では常識である。

皮あっての柿なのだ、皮なしの柿など柿ではない。

私にとっての皮なしの柿は、女子高生フェチの男性にとって制服を着ていない女子高生と同…。

かなり不快な喩えをして申し訳ないが、私にとって皮のない柿がどんなものか、わかる人には十分わかっていただけたものと信ずる。

こうして私は中学校を卒業するまでバレることなく、二年連続秋になると違法な柿狩りをしていたが、それを知らないであろう蒲山さんは、毎年柿をお裾分けし続けてくれた。

高校生になってから、何てことしたんだろうと思うようになって現在に至る。

高校を卒業して大学生になった頃、蒲山家の柿の木は家の増築により残らず伐採されたため、柿のお裾分けはなくなった。

私は上京して故郷を離れたが、帰省した際には時々、お土産を蒲山家に持って行く。

罪滅ぼしのつもりなんだが、まだ中学生の頃柿を盗んでいたことは告白していない。

蒲山さん夫妻も80代のお年寄りだ。

今年こそ謝罪しよう。

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『カルビーポテト丸』の衝撃

『カルビーポテトチップス』を無性に食べたくなる発作が時々起こる。

食べたくなるのはもちろん『うすしお味』。

幼少の頃から親しんだ、単純だが安定感のあるあの味だ。

私の中で『カルビーポテトチップスうすしお味』を上回るポテトチップは存在しないし、今後も現れないだろう。

ポテトチップの永遠不変の決定版であり、

スナック菓子における『スーパーカブ』か『AK47』的存在だとすら思う。

この“『カルビーポテトチップス』を無性に食べたくなる発作”だが、

『カルビーポテトチップスうすしお味』を食べれば当然症状は収まる。

だが、発作を鎮めたとしても後に残るのは充足感ではなく、後味の悪い満腹感だ。

やはり、健康に対して好ましいものでは決してないからな。

この発作を抑えるための療法のおかげで最低5年くらいは健康寿命が縮んでいるはずで、 「余分なカロリーを摂取してしまった」「また無駄金を使ってしまった」などと気に病む精神的副作用も深刻である。

それでもこの発作は何の前触れもなく急激に発症し、

私はその度に即効性のある対症療法を施してしまっている。

最近、そんな私の急性発作を激しく誘発し、重症化させる写真をネットで発見してしまった。

それはこれである。

カルビーポテト丸!

何というまんまであろうか!!

これを初めて見た時は勤務中だったが(たまたま息抜きに検索しただけだ)、まんますぎて問答無用で食べたくなったために職場を抜け出してコンビニに行ってしまった。

この文章を書いている現在もポテトチップスを食べながらである。

じゃなきゃ、何の症状も発現させずに冷静に書けやしない。

私と同じ症状に苦しむ方々の中にも、これを見て発作を起こしている方は少なくないことだろう。

このカルビーポテト丸、むろん車両や原油を運ぶ船ではない。

文字どおりカルビーポテトチップスの原料となるジャガイモを運ぶことを主任務とする馬鈴薯運搬船なのだ。 同船の貨物室はジャガイモを運ぶために断熱構造や換気・空調設備を有し、定温輸送する能力を持つ。

毎年夏から冬にかけて、産地である北海道の十勝港からカルビーの工場のある広島港又は鹿児島県の谷山港に向けてジャガイモを輸送している。

現在のカルビーポテト丸は三代目で、所有者はエヴァラインという海運会社となり、船名は『ポテト丸』に改称された。

『ポテト丸』はコンテナに積んだジャガイモを約850トン輸送可能で、

オフシーズンにはプラントなどジャガイモ以外の貨物も運んでいるが、主な荷主はもちろんカルビーで、ジャガイモ運搬が本分であることに変わりはない。

『カルビー』という枕詞こそ消えたが、『ポテト丸』だけでも十分殺し文句である。

この文章を書いている途中でも、ソッコーで一袋開けてしまった。

私の重症化してしまったこの病、東洋医学的に根本から治す必要があるようだが、カルビーポテトチップスうすしお味も食べられない辛い後半生を送るつもりもない。

完治させる必要もないだろう。

対症療法をも含めた併用療法で対処し、病と適度に共存もいいじゃないか。

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芳しき昭和的趣味と子供の将来

牛乳瓶のフタの収集という趣味をご存じだろうか?

乳飲料はガラス瓶に充填され、紙製のフタでシールしているものが主流だった昭和の時代、少なからぬ小学生がその牛乳瓶のフタをコレクトしていた。

1975年(昭和五十年)生まれの私も小学校時代の一時期はまった一人だ。

牛乳瓶のフタなど一見すると単なる廃棄物だが、乳製品は数多の銘柄や種類があって、フタのデザインも様々である。

何十種類も集めて並べて眺めてみると、実に壮観で目を見張る。

私の学校でのブームはずっと続いたわけではなく、私が二年生の時の数か月ほどだったが、あの時の牛乳瓶のフタを求め続けたむさぼるような感覚ははっきり覚えている。

○○牛乳、△△コーヒー、×△フルーツだの乳製品の名前を耳にしただけで、45歳の今でも当時の情熱を思い出して私の心はときめく。

当時学校でも友達の家でも皆、自分のコレクションを自慢し合ったりしたものだ。

そんな中でも、私の近所に住む一学年上の上田唯という少年は誰も持っていないようなレアもののフタを大量に保有する断トツのコレクターで、皆から仰ぎ見られていた。

大人になった今から思えば、あの当時の上田も我々も子供ながら非常にみみっちくつまらないことにこだわっていたものだ。

だが他の子供たちより多くコレクションを充実させることができた上田こそ、実は将来の星であったと今では思う。

彼はこの牛乳瓶のフタの収集において、将来世渡りに有利となる才覚を発揮していた点がいくつか見受けられるからだ。

まず、レアものを数多くゲットしていたからには、行動力が抜きんでていたと考えられる。

行動力は社会的成功を収めるための必須の要素の一つ、それなくしては遊びも仕事も始まらない。

どこに行けばそれがあるかを察知する注意力、情報収集能力もあっただろう。

また、上田は自分で探すだけでなく他のコレクターとの交換によってもレアものを入手していたから、交渉能力にも長けていたに違いない。

なおかつ交換ではなく他人からの純粋な譲渡によってもコレクションを入手しており、それは上田が粗末に扱ってはいけない人間と見做されていたからであって、人間的な魅力(あるいは迫力)にも富んでいなければできないはずだ。

確かに上田は私を含めた近所の子供たちの間だけではなく、学校の同級生たちの間でもセンターに位置する少年だったと記憶する。

これだけでも、社会生活を営む上で勝者となりうる資質ではないだろうか。

更に彼は他の子に先んじて収集を始めていた。

つまり、いち早く流行をキャッチしていたということだ。

その能力は社会に出てからなお一層有利に働くことは言うまでもないだろう。

もし上田が流行を作り出していた本人だったとしたらなおさらである。

上田は建築用ガラス業者の長男で、成長してからは親の跡を継いで二代目の社長となった。

そして、彼の率いる会社は平成大不況を乗り切ったばかりか、日本経済が縮小する現在でも高度成長期ばりに業績を拡大している。

それを目の当たりにすると、牛乳瓶のフタ集めでの上田はその資質の片鱗を見せつけていたと、今では思えて仕方がない。

一方の私は学校の給食で出てくる牛乳のフタか、近所の牛乳屋でいくらでも手に入るために誰でも持っているものしか持っておらず、コレクションは貧弱だった。

そんな私の貧しいコレクションが一気に豊かになったのは、我が小学校での牛乳瓶のフタ集めがブームとなって何か月も経ったある日のこと。

その日、上田が直々に私を呼び出して、自慢のコレクションを分けてくれたのだ。

それからしばらくしてからも上田は自分のコレクションを私にくれるようになり、しまいには残り全部を譲ってくれた。

何とありがたいことだろう!

垂涎の品々を大量にくれるなんて信じられない!

うれしさのあまり子供ながら「上田君は一生の恩人だ!」と思うくらい感激した。

上田だけではない。

他の有力なコレクターたちも私にコレクションをくれたため、私のコレクションはこの上なく充実した。

家でそれらを眺めて悦に浸った後にやることはただ一つ、友達に自慢である。

このコレクションを見せられたら、誰もがきっとぐうの音も出ないはずだ。

それまで経験したことのない、羨望のまなざしを大いに浴びるに違いない。

私はもらった牛乳瓶のフタを学校へ意気揚々と持って行き、皆に見せびらかした。

「どーだ、すげーだろ」

だが皆の反応は冷淡で、友達の一人にあきれ顔で言われた。

「お前、まだそんなことやってたのか?」

ブームはとっくの昔に終わっていた。

私だけがそれに長いこと気づいていなかったのだ。

私は幼少の頃から世渡りが下手だったようだ。

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ミスコンにモノ申す


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ミスコンテストに対して大いに不満がある。

『ミス・ワールド』、『ミス・ユニバース』、『ミス・インターナショナル』、『ミス・アース』などの四大ミスコンテストと呼ばれる人類一美しい女性を選ぶ最高峰から、ある地方や学園一を選ぶ程度のものまで、全てのミスコンに対してだ。

そりゃあもちろん出場する女性は、皆それなりにハッとするほどの美女である。

私が不満に思っているのは出場者のレベルに対してでは決してない。

ミスコンテストの画一的すぎる審査基準と方法に対してだ。

なぜ体重別にやらないのか?

ボクシングは言うに及ばず、柔道やレスリング、重量挙げや、はたまたボディビルの大会だって参加選手は体重別で競技を行っている。

ミスコンだって体重や身長による階級制を採用すべきだ

と思うのは私だけだろうか?

女性の美の基準は様々でどれが最高というものはない。

特に体格の違いによる美の多様性こそ認められるべきだと私は思う。

身長150cmくらいの華奢でキュートな女性の美と、身長180cmくらいでモデル体型のセクシーな女性の美とは別物で、かつ対等であってどちらが上ということはない。

それはジャンルの違いか好みの問題だ。

金魚の美しさと錦鯉の美しさが違うのと同じく、どっちも美として評価されて然るべきだろう。

現状でのミスコンに出場する女性の体格は、ボクシングに当てはめるならばミドル級に相当すると私は考えている。

だが、それはおそらく

ボクシング同様、欧米人基準の中肉中背

日本人目線だとスタイルが良すぎて、恐れ多すぎるではないか。

完全に欧米人の標準的審美眼だけに特化した画一的な基準であり、何より多様性に乏しく味気ないことこの上ないと、

美を愛し美の実践者にして美の忠実な下僕を自認するこの私は憤りすら覚える!

そこで私が提案したいのは従来のミドル級に加えて、

ミスコンのライト級やヘビー級の創設、その階級ごとに女王を選ぶことだ。

ウェルター級やクルーザー級など、さらに細分化するとなおよい。

そうすればウェルター級はきっと人類最激戦区になるであろう。

とにかく

ミドル級だけが美女ではないはずだ。

地方や大学程度の大会ならともかく、四大ミスコンなんかあれだけの組織力持ってんだから、やろうと思えばできるだろうが!

想像してみよ!

身長150cm前後、体重40kg未満の歩く人形がごとき各国の最軽量級美女が並ぶ雛壇飾りのようなキュート感充満のステージを!

身長180cm以上体重90kg超の白、黒、黄色、褐色の超重量級美女たちがステージをきしませ、原子力空母のごときド迫力ムチムチ肉厚ボディが目白押しの陣容はきっと壮観、激しくスペクタクル!世界を揺さぶる肉弾無敵艦隊!!

もう誰が優勝しようが関係がない。

胸と下半身を問答無用にときめかせる圧巻の絶景ではないか!

私はひたすら願い続ける。

スーパーヘビー級のミス・ユニバースかミス・ワールド

を拝める日が来るのを。

世界が、特に私が待っている。

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成人失格

私は世の中から煙たがられる喫煙者である。

吸うのは存在自体も煙たがられる私にふさわしい紙巻きタバコで、点火するのは使い捨てライターだ。

かように安っぽい私だが、かつて一度だけ7000円もの大枚をはたいてジッポライターを購入したことがある。

だが、購入後一週間で紛失するという離れ業を演じて発狂、以来もっぱら使い捨てライターを使用している。

ライターも私にふさわしいのかもしれない。

その使い捨てライターだが、ずいぶん前からチャイルドロックなる小癪な装置が装着されるようになった。

そりゃ子供がいたずらして事故が起こるのは断固防ぐべきだと私も思うが、

問題はその解除方法だ。

解除が簡単すぎやしないか?

あの程度のロックだと、多少賢い子供ならば容易く解除してしまうはずである。

子供をナメすぎている。

もちろん40歳過ぎのおっさん盛りで、

成人がやっていいことや入っていい場所はほぼクリアしている成人全開の私には何の問題にもならない。

そう信じて疑わなかった私の大人としての余裕と矜持が木っ端みじんにされたのは、数年前のファミリーマートでのことだった。

そこで買ったライターのチャイルドロックを解除できなかったのだ。

そのライターは着火レバーの下にボルトアクションライフルのボルトのようなレバーが付いており、それがどうやらチャイルドロックらしいのだが、

押し込もうが、捻ろうが、スライドさせようがレバーはピクリともしやしない。

なかなか解除できず頭に血が上った私は、チャイルドロック自体が壊れているのかもしれないと考え、ライターを購入したファミリーマートに引き返して女性店員に詰め寄った。

「このライターのチャイルドロック動かないんだけど」

その店員に全く責任はないのだが、私はイラつくあまり正気を失っていたようだ。

当然ながらあ然としている店員に「やってみろ」とばかりにライターを押し付ける。

「えーと、えーと。私タバコ吸わないんですけどね」

店員はそう言いながらも、私から受け取ったライターのチャイルドロックをいじり始めた。

四十路の私が着火できないんだから壊れてるに違いない。

壊れてなかったとしたら難易度高すぎ、大人までロックしてどうすんだ。

と、その時私は考えていたが…。

「ライターのことはよくわかんな…、あ、ついた!」

何と、タバコを吸わないはずの彼女はものの見事に十秒足らずでロックを解除した。

問題があったのはチャイルドロックではなく、私のやり方だったらしい。

「え、今どうやったの?」

「こうみたいですね。こう、こう」

女性店員は完全にこのチャイルドロックに慣れたらしく、軽快に何度も着火して見せた。

「あ、なーるほどね。いやいやありがとう」

私は鷹揚に平静を装って店を出て、外で先ほど店員が実演したとおりに着火してみることにした。

さっき、レバーを上げてスライドさせてたな、実は簡単だったんだな。

そう思って再現してみようとしたが、レバーを上げることはできてもスライドさせることができない。

「そんなバカな!」とムキになってレバーをガチャガチャやってたら、もげた。

キイィィィィィィ!!!

私は怒りのあまり、死んでしまったライターをごみ箱にシュートした。

くだんのチャイルドロックは子供だけではなく、一部の成人もロックするものだったようだ。

私はもう一度同じものを買って、その際は見事解除して雪辱を晴らそうと考えたこともあったが、これ以降着火レバーを強く押し込むような単純な形式の、三歳以上の人類ならば誰でも解除可能と確信できるものしか買っていない。

チャイルドロックを解除できない成人であったという事実は、私の心に今も暗い影を落とし続けているということだ。

第一、もう一回買ってそれでも解除できなかったら、私の成人としての立場はどこへ行ってしまうんだろう?

それに、あのような形式のチャイルドロックを持つライターを全く見かけなくなった。

これはきっと解除できない成人が続出したからではないだろうか?私以外にも。

…であることを望むが。

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「俺だけは大丈夫」神話の終焉

私は現在居住する東京都で大地震が起こっても、自分だけは大丈夫と信じてきた。

自宅に食料や水などの備蓄は特になく、準備する気もなかった。

なぜなら、私の家のすぐ近くにはコンビニエンスストア『ファミリーマート』があるからだ。

それも「歩いて1分くらい」程度のレベルではなく、「歩いて何秒」か「歩いて何歩」という近さだ。

たとえ真夜中に飲んでて「飲み足りない」、「タバコが切れた」という事態が起こっても、一分以内に補充を完了させて、酒池肉林の即時再開が可能である。

「ガマンして寝る」という悲劇に見舞われたことは一度もない。

同様に地震など不測の事態が起きた瞬間にファミリーマートに駆け込めば、お望みの物資を必要なだけ手に入れることも容易であろう。

私には、近所に食糧庫があるのだ。

そう信じ込んできた。

そんな、ひとり天下泰平をむさぼる私に「審判の時」がやって来た。

昨年の2019年10月12日、令和元年台風第19号の東京直撃である。

この台風は天気予報によって、事前にその規模と上陸の日時は予想されていた。

まごうことなき非常事態目前であり、食料や水を数日分買う必要がある。

だが、その時私は動かなかった、いや動けなかった。

なぜなら、そのニュースを知ったのは自宅から遠く離れた職場だったからだ。

それならそれで職場近くのコンビニで買えばよかったのだが、その期に及んでも“私の食糧庫”ファミリーマートで帰りがけに買えばいいと呑気に考えていた。

愚かだった。

帰り道、ファミリーマートに悠々立ち寄った私は、わが目を疑った。

“私の食糧庫”から、めぼしい食品や飲料が消えているではないか!

焦った私は、他のコンビニやスーパーにも行ってみたが、事情はなおさら同じ。

完全に出遅れ、他の客にかっさらわれていたのだ。

考えてみればすぐわかることだったが、非常事態が自宅にいる時に起こるとは限らない。

それに、ファミリーマートの隣人は私だけではないのだ

駅からの通り道で人通りも多いし、ファミリーマートは、私専用ではなく“みんなの食糧庫”だった

私は十数年間にわたり、その程度のことにも気づかなかったのだ。

かくして10月12日、私は上京して以来初の食糧難と共に、台風第19号を迎える。

暴風雨により飲食店も商店も閉まっており、近所を流れる多摩川が大雨で、中国の長江のようになっていくライブ映像をパソコンで見ながら、不安で空腹な一日を送った。

この一件で私が思い知ったのは、私がバカだという幼児の頃から気づいている事実を除けば、備蓄の重要性以外の何者でもない。

最近の表現で言うなら、まさに「ぴえん超えてぱおん」だ。

そんなもんとっくに気づいて然るべきだが、徹底した面倒くさがり屋の私はこういう目に遭わなきゃわからない。

あれ以来、私は毎月の給料日には飲料水や防災食、缶詰などを買って備蓄することを心がけている。

備えあれば患いなしだ。

非常事態が実際に起きた際、私以外のファミマの隣人たちは、私を差し置いて行動する油断も隙もな…、いや、賢明な人々であることが分かった。

もう、ファミマだけを当てにしてはいかん。

それに私が購入した『美味しい防災食』シリーズは非常食とは思えないスーパーの惣菜級であり、さすがやや高いだけのことはある。

缶詰だと『宝幸 日本のさば』と『ニッスイ いわし味付』なんかは、缶詰にしておくにはもったいない逸品ではないか。

私が作るよりはるかに美味い!

非常食なのに、なぜその味を知っているかと言うと、それは我が家の財政危機という恒例の非常事態が、月末給料日前に発生しているからだ。

あと、外に買い物に行くのが面倒くさい時などもついつい…。

それらもひっくるめての備えなのだ。

と、食うたびに、そう自分には言い聞かせており、次の「審判の時」こそ、私への「最後の審判」になりそうである。

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ステルス攻撃機及び米国への中二病的願い


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久々にプラモデルを買った。

これから作ろうとしているのはタミヤの『傑作機シリーズ』アメリカ空軍のF-117だ。

このF-117は有名な米軍のステルス攻撃機。

その独特の未来的な形状もさることながら、実戦での威力が実証済みの兵器のみが備える危険な機能美と風格が感じられ、プラモデルの題材として魅力的である。

完成した暁にこれを飾れば、私の小汚い部屋の格もきっと上がるであろう。

それに、私はF-117に少々個人的な思い入れがある。

F-117、通称ナイトホークはアメリカ合衆国が開発した世界初の実用的ステルス攻撃機、レーダーに映らず対空ミサイルによる迎撃不可な攻撃機とされる。

1976年から開発が始まり、1981年に初飛行に成功。

1982年には部隊配備が始まったが、その詳細ばかりか存在自体までがアメリカ国防総省によって長らく極秘扱いとされていた。

そんなステルス攻撃機F-117がようやく公開されたのは1988年11月のことだった。

初の実戦参加は1989年のパナマ侵攻作戦で、この際の戦果は思わしくなかったが、1991年の湾岸戦争ではイラク軍相手に猛威を振るう大活躍を見せた。

1999年のコソボ空爆にも参加したが、この作戦で一機が撃墜されてしまう。

2008年、同じく高いステルス性を持つF-22、B-2が配備され、将来的に高い機動性を持つステルス戦闘機F-35も配備される予定であること、メンテナンスの時間やコストがかかりすぎることを理由に退役した。

以上がF-117のたどった経緯だが、私は同機を報道によって目の当たりにした時の衝撃をよく覚えている。

F-117がプレスリリースされた1988年(昭和63年)、私は中学校二年生だった。

その既存の軍用機とは一線を画する未来的でインパクトのある形状を見た当時の私は、こう確信した。

この機の主力兵器はきっとレーザーガンだろう

そしてその主戦場は宇宙空間であり、空中静止もお茶の子さいさい、速度だってマッハ5くらいは固いはずと。

スターウォーズなどのSF映画にそのまま出て来ても違和感がない外見をしているではないか!

それくらいやってもおかしくなさそうな機体に見えた。

東西冷戦がまだ終結していない頃だったが、このステルス戦闘機の仮想敵はソ連軍などの地球上の軍隊ではなく、異星人に違いないと思った。

当時の私は中二病真っ盛り。

矢追純一のUFO特番の影響を大いに受けていた私は、核戦争の脅威や環境破壊よりも異星人の地球侵略を心配しており、たびたび目撃されるUFOと世界各国の空軍戦闘機との性能の差に危機感を抱いていた。

しかし米国は違う。

UFO特番でも放送されていたように、異星人と密約を結ぶ一方で万が一の対決にも備えており、表向きはソ連の核ミサイルに対抗するためとして、UFOを宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。

また、現実にもそうなるであろうと信じていた。

その米国がやっぱり期待に応えてくれた。

さすが米国、地球上で一番頼りになる国だ。

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

UFOとの空中戦はおろか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことがその後の報道で分かった。

唯一の取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時にはそんなことに思いもよらず大いに失望した。

私的には完全に見かけ倒しだったのだ。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、要はレーダーに映らないから迎撃を受けることなく爆弾を落とせるだけなんだから、余裕でマッハ5のスピードが出せるUFOの相手になりそうもない。

地球は終わりだ、と絶望した。

あれから幾星霜。

結局異星人は攻めてこなかったし、老後などの自分自身の身の振り方を別にすれば、地球環境の悪化や隣国C国の覇権主義の方が異星人よりよっぽど脅威だと、さすがの私でもわかる。

一方の米軍は地球外の敵に関し、海軍機が撮影したUFOの映像を公開するなど少しは考慮に入れてはいるようだが本格的とは言い難い。

今世紀初頭からテロとの戦いと称してアフガニスタンやイラクなどで軍事行動を行い、近年はトランプ大統領の下で段階的に撤退しつつ本格的にC国に対抗する準備を始めており、まだまだ目線はほとんど地球上だけを向いているように見える。

だが私は現在、このF-117のプラモを組み立てながら心のどこかで期待している。

米国は今でも我々の知らない場所、宇宙空間などで異星人と秘密戦争を戦っていることを。

そして退役したと見せかけたF-117攻撃機が今も現役で、公開された以上の性能を持っており、最前線で戦っていることも。

私の中二病はまだ治癒していないようだ、ひょっとして一生このまま?

それと私のプラモデル製作の腕前も中二どころか、小二の時から変わらんようだ。

なぜ私がプラモを作りだすと、いつもパーツが何個か無くなるのだ?

これじゃ完成できぬではないか!

私のF-117は結局未完成のまま、癇癪を起した私によってゴミ箱に墜落した。

やっぱり少々高くても完成品を買おうか。

タミヤ『傑作機シリーズ』

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「行列ができる店」から追い出されたことありますか?


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ラーメンブームなる風潮がいつからいつまでか、それともまだ続いているのか知らないが、美味いと評判で雑誌やテレビに取り上げられたりする「行列のできるラーメン屋」は、今でも各所に存在する。

だが、そういう店の中には店主や店員が横柄で、「嫌なら食うな」式の接客態度で客をぞんざいに扱うところがある。

まったく、売れてるからって偉そうに。

店主のこだわりだか何だか知らんが、そういう店には人一倍腹が立つぞ!

なぜなら自慢じゃないが、

私はそういう店から追い出されたことがあるからだ。

今でも忘れやしない、18年前の2002年10月のことである。

当時も東京には行列のできるラーメン屋があちこちに存在し、ラーメンマニアたちが長蛇の列を作っていた。

私もラーメンが大好きだが、いくら美味くても行列に並ぶのには抵抗があった。

食べ物のために行列を作るなんて、

難民キャンプかよ?

この飽食の国においては、いささかあさましい行為ではないか?

という考えを当時から持っていたためである。

そんな誇り高い私が、じゃあなぜその店に行ったかというと、当時働いていた職場でよくつるんでいた柴田という男に無理やり連れて行かれたからだ。

彼はラーメン店めぐりを生きがいにしている強度のラーメンマニアで、「騙されたと思って」とか「何事も経験だから」などとかなり強引だった。

そんな柴田に根負けした私もバカだった、と今は思う。

あの日から現在まで、時々思い出しては夜中にカンシャクを起すことがあるし、

「騙されたと思って」と「何事も経験だから」という言葉は、私にとって今でも禁句だ。

さて、そのくだんのラーメン店「○○家」は新宿某所にあり、我々が開店一時間前の10時に行くと、もうすでに列ができていた。

写真はイメージです。本内容とは関係ありません。

行列ができていることに、私の顔がさっそく不機嫌でゆがんだのを見た柴田は、

「ラーメンってのは、行列に並ばなきゃ美味くないんだぜ」

などと、もっともらしさのかけらもない屁理屈を言って、私を余計イラつかせる。

「ここは豚骨醤油ラーメンの店でさ、スープはこってりで麺は太目オンリー。でもちょっと魚介のダシも入ってるみたいで…」

11時の開店までの間中、後ろに並ぶ柴田のどーでもいいラーメンの蘊蓄を聞かされ、私の機嫌は静かに、そして確実に悪化してゆく。

その間にも客は増え続け、我々のいる位置はすでに真ん中くらいになっていた。

そして待ちに待った開店時間11時、店の入り口が開いて店員が姿を現し、先頭の客から店内に誘導し始める。

我々も前に進んで行ったが、私はその誘導している店員の言葉遣いが気になった。

「はい、モタモタしない!」「そこ、二列にならないで!」

と、完全な命令口調なのだ。

何と感じが悪い店員だと私は思ったが、店内は意外と収容人数が多いらしく、入口はもうすぐそこ。

とりあえず評判のラーメンに、いの一番でありつける。

と、柴田より前方を進む私が、入口をくぐろうとした時だった。

「はい、ここまで!」

誘導の店員の一人が、

私の襟首をつかんで、後ろに引き戻しやがった

それも「ここで待って」と、そのまま私の襟首をつかんで、引っ張って行くんだから信じられない。

私はかなりムッとなったが、その短髪の若い店員は私の方を見ようともせず

「入れ替え制ですんでぇ、しばらくお待ちくださいねぇ」

と後方の並んでいる客にぞんざいに言い放った。

これはこれでかなり腹の立つ体験だが、この時点で帰ればよかったと、今では思う。

柴田も柴田で、「おいおい慌てるなよ、みっともねえぞ」と、まるで私が悪いかのようなことを言うんだからむかつく。

待っている間、十五分後くらいから食べ終わった客が次々出てきて、三十分が過ぎた頃には店内に客は残っていなかった。

どうやら時間制で、それもたった三十分程度で食べ終わらなければいけないようだ。

「今片づけしてるんでー、そのまま待っててくださーい」

出てくる客に挨拶もせず、くだんの短髪は相変わらず横柄だ。

そして中から「オッケーです」の声と共に、「はいどうぞー」とようやく入店が許されたが、店中の店員も「いらっしゃいませ」の一言もない。

代わりに「そこの食券販売機で食券買って」とか「あー、こっち座って奥に詰めて」とかの指図が待っていた。

メニューは『店主ラーメン』のみで、一杯800円。

後ろの方で一名の女性客が万札しか持っていなかったらしく、両替を求めていたが「近くにコンビニあるから、そこで」とにべもなく断られていた。

店は厨房を囲むような形のカウンター席とその背中向かいのカウンター席で構成されており、厨房の店員は不愛想で、外の店員同様接客をする態度には見えない。

厨房の奥に、五十がらみでモジャモジャな白髪交じりの男が、腕組みをして仁王立ちしており、それがどうやらこの店の主と思われる。

我々は店の端の厨房に面したカウンター席に座ったが、我々の後ろの壁に何やら大きな額縁に入った箇条書きがあるのに気づいた。

その箇条書きはこの店で守るべきマナーらしく、毛筆で記されていた。

        客心得

その一、私語は禁ずる。

その二、携帯電話を使用するべからず。

その三、タバコ、ガムは禁ずる。

その四、飲食時間は三十分とする。

その五、具、麺はもとよりスープまで飲み干すべし。

目を疑った。

「客心得」、「禁ずる」、「~べし」だとう?

他にもいろいろあった気がするが、

箇条書きのとどめは「以上を守れない者は去れ 店主」だったのをはっきり覚えている。

この店はおかしい。

隣の柴田を見たら「仕方ない」という感じで、首を振っていた。

これも、有名ラーメン店では常識だとでも言う気か?どんな常識だ?

メニューは一つだけで、それも人数は決まっているので、客が全員席に着くまでの間に調理が始まっていたらしく、入店して五分も経たないうちに、唯一のメニュー『ラーメン』が出来上がり始めた。

手抜きもいいところじゃないか?

第一、これだったら食券にする意味ないだろう?

と限りなく心の中でツッコミを入れていた間に、最初に入店した私のところへ、真っ先にラーメンがやって来た。

ごく自然に早速箸をつけようとしたら、「全員そろってからにしてください」と、またしても、不愉快な指図を厨房の店員から受けた。

こうして、店内の客全員にラーメンが行き渡るまで待ちぼうけをくらわされたのだが、これでは待ってる間に麺がのびるではないか。

「はい、よし!」

ようやく食べることを許されたのは、全員にラーメンを運び終えた後の店員の号令によってであり、それを合図に客が一斉にラーメンをすすり出した。

それにしても「はい、よし」って、我々は犬か政治犯なのか?

私も隣の柴田もラーメンの一口目を口にした。

ここまで偉そうにするからには、相当美味いんだろう。

と信じつつ。

が、結論、

大した味じゃない。

いや、むしろ不味い、少なくとも私の味覚では。

最初、そんなはずはないと何口かすすってみたが、劇的に美味く感じることはなかった。

豚骨醤油味のはずだが、醤油が入っていると思えないくどい豚骨味で、それがかつおだしのような香りと合わさって、私の口内で不快に広がってゆく。

麺もコシがなく、きっとさっき待たされた間にのびたからだろう。

ラーメンイメージ

同時に、これまでの接客態度への怒りが、じわじわと増してきた。

この程度の味で、あそこまで偉そうにしてやがったのか!

隣の柴田もさほど美味いと感じていなかったらしく、「客心得その一」を破って私に話しかけてきた。

「オリジナリティーが感じられない、スープなんか池袋の××屋か荻窪の●●軒の劣化版だし、麺もダメ、チャーシューは横浜の…」

と、ここのスープと同じくらいくどく、ラーメン通を気取った批評を小声でしてきた。

「要するに大した味じゃないよな」

私もボソボソ応じる。

その時だった。

「おい兄ちゃんたちさ、文句あるなら帰っていいよ」

知らない間に、の中央で仁王立ちしていた店主が私たちの目の前にいた。

さっきのを聞いていたらしい。

「おい、二名さんお帰りだ!」

店主は私語厳禁の掟を破られた上に悪口を言われて怒り心頭らしく、皆に聞こえるような大声で言ったため、他の客が一斉にこっちを見た。

「あ、すいません。黙って食べます」と柴田は謝ったがもう遅かった。

「二名さんお帰りだから、金返しとけ」と店主は一方的に店員に命じる。

無茶苦茶だ!まさか追い出されるとは思わなかった。

そして店員に促されて店を退去させられる我々に、店主は最後に吼えやがった。

「こっちはな、命がけでラーメン作ってんだよ!!」

この男は、歪んだ職人気質を完全にこじらせ、勘違いしている。

命がけであの味かよ?

そしてラーメンだけじゃなく、接客にも多少は命をかけろ!

店内の客だけではなく、外で行列を作っている客の目にも、店内から響いた店主の咆哮から我々が追い出された客だとわかったらしく、好奇の視線を浴びて、とんでもない屈辱だった。

「なんなんだよ!この店!」

私は大勢の前で恥をかかされたから、腹が立ってしょうがなかったが、柴田は、

「いや、店追い出されるのはラーメンマニアにとって勲章みたいなもんだから」

と、またしても苦しいことを言い出した。

だがその割に声は震え、顔は怒りで真っ赤なので、強がりなのは見え見えだ。

路肩に駐輪している自転車を蹴飛ばしたりして、大荒れである。

その後「マニアじゃないオレにとっては完全に生き恥だ」と言った私との間で、

「オメーが大した味じゃないって言うからだろ」

「話しかけてきたのはお前だ」

という口論に発展、その日以降、私は公私ともに柴田とは疎遠になった。

全く信じられない店であった。

あれはラーメン屋ではなく、SMクラブの一種だったとしか思えない。

しかし、そんなラーメン屋風SMクラブの存続を、いつまでも許すほど社会は間違っていなかったようだ。

その五年後、所用があって長らく禁断の地になっていたラーメン屋「○○家」のある新宿某所に行ってみたら、インド料理屋になっていた。

ネットで探しても見当たらなかったから、閉店したんだろう。

悪が滅んでめでたしめでたしである。

とは言え、このむかつく体験は忘れられやせず、店主をあの店員たち共々高温の鍋で煮込んでやりたい気持ちは、今も変わらない。

私はラーメンを今でも好きだが、行列のできるラーメン屋だけは行く気しないのは、どうしてもあのラーメン屋「○○家」を思い出してしまうからである。

それに最近では、行列ができるような名店の味を再現したカップ麺や冷凍チルド食品が売られているから、わざわざ行かなくてもよいだろう。

通販の「日清行列のできる店のラーメン」とかでも、それなりの味が楽しめるのだ。

そりゃ、直接店に行って食べるのが一番かもしれないが、行列に並んだのに大した味じゃなくて、おまけに偉そうな態度を取られたりして嫌な思いをするのはごめんである。

だから、まず冷凍チルド版を試してから行っても、遅くはないのではないだろうか?と私は考えるのだ。

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R40「城東工業高校のテル」はいま


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映画版 ビー・バップ・ハイスクール(BE-BOP-HIGHSCHOOL)をご存じだろうか?

リアルタイムで記憶にある方の大多数は、おそらく40歳を超えているはずだ。

同作品は、1983年から2003年まで講談社のヤングマガジンで連載されていた人気漫画『ビー・バップ・ハイスクール』を原作とした日本映画である。

仲村トオル、清水宏次朗、中山美穂らが主演した1985年(昭和60年)の第1作目は、14億円を超える配給収入を記録したヒット作となり、1988年までに計6作が製作された。

不良映画の金字塔的作品であり、この当時の中高生、特に劇中の登場人物たちと同じ層の者たちに大いに支持された。

この映画の魅力の一つは、走る電車からの鉄橋ダイブシーンなど、現在なら考えられないような危険なアクションだ。

一歩間違えば死んでもおかしくないシーンが目白押しで、主演の仲村トオルはじめ出演者たちはケガが絶えず、命の危険にもさらされたという。

そしてもう一つの魅力は、主役である仲村トオルや清水宏次朗以外のキャストたちだ。

敵役はもちろん、脇役やエキストラに近いチョイ役まで、不良を演じているキャストたちはいずれも異様に迫力があった。

それもそのはず。

彼らの多くは、本物かつ現役の不良少年たちだったからだ。
この映画では出演者を一般公募、そのオーディションには、役者だけではなく現役のヤンキーや暴走族が多く集まり、主要な役をキャスティングされていた。

そんなキャストたちだったからこそ、撮影現場でガンを飛ばし合ったり、ロケ地で地元の不良とモメてさらわれたりなど、ありえないハプニングが続出したという。

当時人気絶頂だったヒロイン役の中山美穂などは、演技とはいえ、これら本物たちの迫力におびえるあまり、二作目出演後に降板してしまった。

だが、いざ撮影となれば凄んだり、睨み合ったりするシーンでの演技指導は必要ない。

存在しているだけで役者では絶対に出せない凄味があって、荒唐無稽なシーンも多かった同作品に、不良映画としてのリアリティーを、問答無用で備えさせることができた。

私が同作品を初めて観たのは、6作目がレンタルビデオ化されたばかりの頃だったが、こういった不良たちにカツアゲされた経験もあったため、画面越しでも震え上がったものだ。

そんな迫力満点のキャストたちの中でもひときわ異彩を放ち、伝説となった男がいた。

1986年、シリーズ2作目の『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』で「城東工業高校のテル」こと藤本輝男を演じた白井光浩だ。

白井演ずる映画版のテルの貫禄は、原作を上回っていた。

ご覧の通りとても高校生には見えない本職級の悪人相だったが、白井は出演当時正真正銘の18歳だったらしいから驚きだ。

劇中でのテルは容貌そのままの凶悪な高校生で、得意技は不意打ちと集団リンチ。

数を恃んで他校の不良を襲って変形学生ズボンを奪う「ボンタン狩り」を行い、仲間と共に主人公のトオル(仲村トオル)を拉致して、口に折った鉛筆を入れて殴りつけるリンチを行うなどの悪行三昧。

そのインパクトは絶大で、上述の「ボンタン狩り」や、見掛け倒しで根性がない者を意味する「シャバ憎」「シャバい」などの用語を世に広く知らしめ、

「城東は~、数が多いだけの~、チンピラの~集まりだってぇ~、ほざいたなぁ~!!」

「そのツラに穴あけてぇ~、二度とデケー口きけねーようにしてやろうかぁ~、あ~~~~!!?」

などなど、テルのセリフや立ち振る舞いを、当時のヤンキー少年ばかりか真面目な中高生たちまでもが、こぞって真似するようになった。

三十年以上経過した現在でも、当時少年時代を送った人の中で覚えている方は、決して少なくはないのではないだろうか?

そんな伝説的なキャラであるテルを見事に演じた白井光浩だが、惜しくもこの作品に出演してから俳優活動を行うことなく、一般人として自営業に従事。

「城東工業のテル」の鮮烈な印象だけが、当時中高生だった人々に記憶され続けた。

だが2012年、白井光浩は突然表舞台に現れて、役者活動を再開する。

『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』から26年。

すっかり四十路を過ぎた白井も、それなりに人生の年輪を刻んだ味のある中年の男に変貌していた。

そして映画やVシネマに出演する一方で、落語家としても精力的に活動し始める。

同時に、映画『ビー・バップ・ハイスクール』のオールドファンたちのイベントにも顔を出し、2019年にはYouTuberとして『テルチャンネル』を開設。

『ビー・バップ・ハイスクール』のロケ地を訪ね歩いたり、当時の出演者を招いて対談し、撮影の裏話を披露するなど、往年のファンを歓喜させている。

あのキレッキレの極悪ぶりをスクリーンの中で見せていたテルは、もうすっかり丸くなったお茶目なおじさんで、料理に舌鼓を打ったり、喉を鳴らして酒をうまそうに飲んだりオッサン全開だ。

一見すると中年男のどうでもいい動画ではあるが、当時の映画で見せた危険なテルを覚えており、別の場所とはいえ、同じ時代を送った者の一人としては、そんなオッサンぶりがほほえましく思えてしまう。

そして『テルチャンネル』を観た後で、再び映画『ビー・バップ・ハイスクール』を観れば、また違った味わいを楽しむこともできるのだ。

今後のテルのますますの発展と活躍を、私は陰ながら応援したい。

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