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誤解を招く名言の真実 – 名言の裏に潜む危険な思考


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世の中には数多の格言、名言、ことわざ及び喩えがある。

これらは昔から伝わっていたり、偉人や有名人が言った言葉だったりする。

それを心の支えにして自分の座右の銘にしている人もいれば、昔からこう言うんだからこうしろと他人を言いくるめて納得させるために使う人もいる。

だが、我々は果たして昔から言われてきたから、あるいは偉い人が言ってたからと無条件にそれを信じたり、他人に偉そうに説教するために使ったりしていいのだろうか?

実は結構ツッコミどころがあるんじゃないだろうか?

私の中では個人的にどうしてもおかしいと思ったり、誤解を招きかねず鵜呑みにすると危険な格言やことわざがある。

ヒマな私はそれをいくつか取り上げて、批判的考察を述べたいと思う。

●「嘘つきは泥棒の始まり」

いや違う。そうとは限らない。

ちゃんと嘘つきのその後と、泥棒の過去をリサーチしたのか?

両者は別物だ。必要となるスキルに互換性は少ない。

嘘つきがプロフェッショナル嘘つきの詐欺師になることはあっても、泥棒に転化するとは限らん。

軽度のアマチュアであるが、結構嘘つきな私が言うんだから間違いがない。

私は嘘をついたことはあっても、モノを盗んだことはないからだ。

ちなみにこれは嘘をついていないからな。念のため。

●「立つ鳥跡を濁さず」

私は個人的にこの言葉が相当嫌いだ。言われるとムカつく。

経験上、かなり都合よく使われる場合が多いと考えるからだ。

そりが合わず大嫌いだった中学校の怨師(・・)や(恩師(・・)の誤記ではない)、立地条件や日当たりが悪すぎるのに、家賃やら更新料が高すぎるから引っ越すことにしたボロアパートの強欲大家とかが言ってた言葉である。

昔働いていたブラック企業を一方的にリストラされた時も、そこの総務部長がヌケヌケと言いやがった。

冗談じゃねえぞ!私は鳥ではない。

ムカついた場所を去る時は汚し放題汚して、ションベンしてから火をつけて出て行ってやりたいというのが本音だ!

●「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」

この言葉もおかしい。

発明王エジソンの言葉だが、多分に成功者バイアスがかかっていると思う。

特にスポーツの世界では思いっきり当てはまらない。

リーチが長くて肩幅の広い奴にボクシングで勝てるか?

身長2メートルの奴とバスケやって勝てるか?

西アフリカの黒人に100メートル走で勝てるか?

第一、言ったエジソン自身が「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になる」と言いたかったんだとか、後にその意味を部分的に否定している。

子供だましだ。いい大人が大人に向かって言っていい言葉じゃない。

何らかの習い事を我が子にやらせたいと思った親が、その分野で明らかに才能のない子供に無理やりやらせる場合とかに使いそうな言葉だ。

ウチの親がそうだった。

だから私ならこう言う。

「天才とは、99%の才能と1%の努力である」

●「電車と女は追うな。すぐまた来る」

オーストリアの格言だ。

正直、若い頃この格言を知った時には雷に撃たれたようにしびれた。

何てカッコいい言葉なんだと思い、

私を振った女に未練たらしくするのをスパッとやめた。

しかし、中年になった今は思わない。

どちらにも終電というものがあることが分かったからだ。

あれやこれや大胆にも名言や格言にツッコミを入れたが、批判してばかりは建設的ではない。

実は私は既存の格言やことわざを改良したり、新たに自分で作った言葉もあるのだ。

憚りながら、いまここにその拙作をいくつか紹介させていただこうと思う。

〇「性犯罪者にも一分の理」

嫌な気分にさせて申し訳ない。

「盗人にも三分の理」ということわざがあるが、これは窃盗犯の肩を持っているのではなく、その気になればいくらでも理屈はつけられることを表している。

同様にこの言葉も性犯罪者の立場に立っているわけではない。

むしろ逆。

三分も理がつく盗人と比べて性犯罪者は一分しかなく、それくらい情状酌量の余地がないということを言いたかった。

「生活できない」「もう三日も食べてない」と比較して、「モテない」「彼女がいない」は1ミリも世の支持を得られない。

これは主に私自身に対する…いや、性犯罪をやりかねない者全員への警句である。

〇「出る鼻毛は抜かれる」

これを言い出した時、勘違いする人が本当に多かった。

「出る杭は打たれる」の類義語で、出て打たれたり抜かれたりするくらいになることはいいことだと答える人が意外といた。

違うのだ。

鼻毛は確かに必要だ。

呼吸する際、外部からの異物をシャットアウトするフィルターの役割を果たす。

だが、鼻の外に出てきたりしたら、抜かれるだろう?

鼻毛は、眉毛やまつ毛のように自己主張したら消される運命にある。

だから、自分本来の役割を果たし、それ以上でしゃばるなという警句のつもりなのだ。

〇「一知らせたければ、十聞かせよ」

これが普通なんじゃないだろうか?

一を知らせるには、十言わなきゃならない。

私は人にものを教える時はこうしているつもりだ。よく「しつこい奴だ」とか言われるが。

最初に勤めた会社の上司の口癖が「一を聞いて十を知れ」だった。

そんなテレパシー能力を人に期待してはいけない。

「一知らせたけりゃ一伝えりゃいいだろう」とおっしゃるかもしれないが、そうはならないことが多く、万全を期すべきだということを説いている。

〇「運命の女神はストーカーに屈する」

私の人生訓だ。

そろそろ人格を疑われ始めているだろうが、他に的確な喩えが思いつかない。

自らの運命に関して、

かのローマ帝国には「運命の女神は勇者に味方する」という格言があった。

ルネッサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリも著書『君主論』で、

「運命の女神は女であり、彼女を支配するには怒鳴りつけ殴りつける必要がある。そういう者にこそ運命は従順になるようだから」

と、補足的にそのバージョンアップ版を論じている。

確かに、歴史を切り開いてきた者の多くには共通点がある

カエサルしかり、チンギスハンしかり、織田信長しかり、ナポレオンしかり…。

その後の運命はともかく、彼らは猪突猛進的な突破力によってそれまでの自らの運命を変えて一時代を築き、歴史にその名を残してきた。

皆、積極果敢な行動により運命を従わせてきた者たちなのだ。

マキャベリの言う通り運命の神は女。

それも男にも女にもモテモテな絶世の美女だから、気まぐれで傲慢不遜。

相手をその気にさせてもてあそぶのが大好きな性悪である。

むろん、一目ぼれしてこちらに寄って来てくれることは滅多にない。

ならばと、こちらから声をかけ、おだてて媚びを売ってようやく微笑んでくれたと思った瞬間、「遊んでやっただけなのにその気になりやがって」と冷酷にそっぽを向かれる。

ようやく交際できたとしても、すぐに飽きられて浮気され、自分の元から去ってゆく。

相思相愛の恋愛関係などほぼあり得ないし、長続きはよりあり得ないのだ。

ならば、好かれる必要はない。愛される必要もない。

言うことを聞かせさえすればよいのだ。有無を言わさず。

相手に言うことを聞かせたければ、愛されるより恐れられる方がはるかに効果的である。

勇気を持って果敢な行動により運命の女神を脅し上げて泣かし、髪の毛を掴んで連行し、自分の目指す道を共に進むのだ。

しかし、その勇気は一時だけではだめだ。終始一貫持続させる必要がある。

さもないと逃げられる。

また、女神が脅しに屈せず、反撃されたり逃げられたりすることも多い。

ローマの格言も、マキャベリもそういった場合をカバーしていない。

ならばどうするか?

そういう時はストーカー行為をすればよいではないか。

たとえ嫌われても、想い続けて付きまとうのだ!

勇気を持って行動を起こし、姿を現して「オレはお前の近くにいるぞ」とアピールすることも忘れるな!

何年かかっても自らの存在を主張し、ビビらせ続けよ!

運命の女神を従わせて自らの願望をかなえるには勇気を持っているだけじゃ足りない。

食い下がること、

執拗たることも必要とされるはずなのだ。

自分の願望に対して執拗であることは美徳である。

好みでも何でもない、むしろ「キモい奴」が荒れ狂いながらいつまでもまとわり続ければ、さしもの女神も恐怖で持ち前の冷徹ぶりが狂い始める。

いつの日か、彼女がおびえ切って「もう見逃して」と泣きを入れてくる時が来るだろう。

その瞬間こそ、断固見逃してはならない!

最大限の勇気を奮って全力で拉致し、有無を言わさず冷酷に××しまくれ!

そうすれば、運命の女神はもうあなたの奴隷だ。

私はロクな職歴もないフリーターだった29歳の時、翻訳者で身を立てようと思った。

その直後、運送会社の契約社員になって荷物の仕分けをしながら翻訳の勉強を続け、「いつの日か」が来るのをしつこく願い続けた。

39歳になってしまった時、ようやく「いつの日か」が「その日」となった。

「その日」を迎えて以降七年間、私は翻訳者・通訳者として未だ食うに困っていない。

だから、僭越ながら自信を持って言うのだ。

「運命の女神はストーカーに屈する」と。

いつの日か私も彼女に逃げられるかもしれないが、少なくとも好ましくない運命を望ましいものに変えさせることができたのは事実だと確信している。

他に類義語として、私のかつての恋愛哲学であった「来る者拒まず、去る者地の果てまで追い回す」などがあるが、

こちらの方は危険すぎるし、成功した後或いは成功する前に自身が社会的に破滅する可能性が高い。

あくまでストーカー行為は運命の女神相手だけにしよう。あなたも私も。

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オカマハムスターのユニークな逸話


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中学生の頃、ゴールデンハムスターを二匹飼い始めた。

ペットショップで買ったのではなく、ハムスターを十匹以上飼っていた近所のK山さんがくれた。

二匹ともオスで、名前は村上と斎藤。

全身真っ茶色なのが村上で、白色と茶色のまだら模様なのが斎藤だ。

なぜそんな名前にしたのか?

それは、もらわれてきた初日に真っ茶色い方を一目見た瞬間、弟が、

「この茶色い奴、顔が村上にそっくりだぞ!」

と言い出したからだ。

村上は我々兄弟共通の知り合いで、私から見てもホント村上にそっくりな顔だった。

村上本人がやや色黒で、まさに真っ茶色っぽい顔色をしていたのもあるが、特に目の配置がそのまんまに見えたからだ。

その日から真っ茶色のゴールデンハムスターは「村上」と命名された。

その村上と学校でいつもつるんでいたのが斎藤だったため、自動的に白色と茶色のまだら模様の方は「斎藤」になった。

ちなみにこちらの方は斎藤と顔が似ているわけではない。

もらわれて我が家に来た時点で二匹とも生後一年を過ぎており、それは人間の年齢に換算すれば40歳近いわけで、昨日今日ハムスターとして生きてきたわけではない貫禄に満ちていた。

要するに、初々しさのかけらもなく妙にオッサンっぽい。

それは成熟した大人のオスハムスターならば持っている身体的特徴を、二匹とも十分備えていたからでもあるのだが、

その特徴とはこれだ。

もうそれはそれは御多分に漏れず本当に立派なものを持っていて、オスであることを雄弁に主張していた。

ゴールデンハムスターの性周期は4日であり、つまり通年にわたって繁殖が可能であるからあんなにオス全開なんだろうか。

だが村上と斎藤ではその使い道が違った。

より分かりやすく、かつ露骨に言えば使おうとする対象が正反対だった。

斎藤が使おうとする対象はメスだったが、村上は逆。

そう、村上はホモハムスターだったのだ。

二匹がそれぞれ入れられているゲージを掃除した後に間違えて一緒にしてしまった時に気づいた。

犯そうとするのだ、斉藤を。

大人のハムスターは通常同性の多頭飼いはできない。

オス同士、メス同士を一緒にしたら冗談抜きに殺し合いになる。

よって、普段は引き離して別々のゲージで飼っていたからそれまで全く気付かなかった。

しかも始末が悪いことに村上はタチであり、より最悪なのはケンカの強いオラオラ系ゲイハムスター。

斉藤の抵抗をあっさり制すると、かなわないと見て逃げる斉藤を猛然と追い掛け回し、後ろから組み付くと腰をカクカクし始めるという目を疑う光景が展開された

さすがにハムスターにもゲイがいることが私も弟も信じられず、弟の友達たちのうちハムスターを飼っている者がいて、我が家に飼っているオスハムスターを持ってきてもらい。

試しに一緒にしてみたら、同じように村上は襲いかかっていたから本物のゲイハムスターだった。

ちなみに繁殖させようと、後にペットショップからメスのハムスターを買ってきたのだが、村上は見向きもしなかったばかりか邪魔者として攻撃する有様。

本来ならば、最低オスとメスのつがいなら同じゲージで飼えるのだが。

以降「おかまハムスターがいる」と、村上は弟の友達の間で有名になってしまった。

かように人気者?になった村上だったが、栄光は長続きしなかった。

ある日のこと、ゲージから忽然と姿を消した。

ゲージの出入り口が空きっぱなしだったから、そこから脱走したと思われる。

それから村上は二度と姿を現すことはなかった。

一方のストレートで俗物の斉藤は逃げることはなく、後から購入したメスハムスターとの間に10匹以上子供を作るなどオス機能をフル活用して天寿を全うした。

それから、我が家では数年にわたり斉藤の子孫や他から購入したハムスターを飼い続けたが、やはり村上以上にインパクトのあるハムスターは斉藤も含めていなかった。

だって、ホモハムだったんだもの。

人類以外にもゲイがいることを中学生にして知ってしまった。

そんなもん知らせてどうすんだという感じであり、あともう少し我々が幼かったらどう解釈すればよかったんだろう?

両親に聞いても我々を納得させる回答を得るのは困難だったはずだ。

子供の情操教育に小動物を飼う家庭もあるようだが、甚だしくそれに不適切な個体もあるということは覚えておいても損はないだろう。

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ケンカのための外国語:異文化コミュニケーションの力


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書店には語学の本があふれている。

文法から受験や資格取得用の参考書はさておき、

英語の会話集は安定した充実ぶりだし、最近では中国語会話のものも増えてきた。

その中には様々な場面を想定した日常会話集以外にも、旅行用会話集からビジネス会話集、はたまた恋愛用のものまである。

これらはその言語を話す人々と十分にコミュニケーションを図ったり、さらには一時的又は将来的により良好な関係を構築するための一助となることを主眼としている。

つまりは仲良くなることを目的としていることが多い。

仲良くすることは大いに結構。

だが、本当にそれだけでいいのだろうか?

人類皆他人なり~ケンカできる者は仲良くもなれる~

どの国だっていい人ばかりではない。

ある程度悪い奴はいるし、

いい人もいつまでもいい人であるとは限らない。

言いがかりをつけてきたり、ムカつくことを言ってきたりする奴もきっと多いはずだ。

そんな時、相手がどんなムカつくことを言っているか、またはどう言い返せばいいかを知っておくことも必要ではないかと思う。

ムカつくことを言われていることに気づかないのはマヌケだし、何より言われっぱなしは断固いけない。

言われたら言い返す、怒鳴られたら怒鳴り返す。

相手の言葉で相手にわかるように。

仲良くできることも必要だが、いざとなったらケンカできることも必要だ。

ケンカできる者は仲良くすることもできる。

ケンカ上等の者とは仲良くしといた方が良いと考えるのが、万国共通の人情なはずと信じるからだ。

友好至上主義者への啓蒙書

私はかようにある程度戦闘的であることの重要性を感じており、かねてより口ゲンカ、口論対策に特化した外国語会話集の発行を提言したいと考えている。

定番の英語や中国語はもちろん、日本人がよく行きそうな国々の言語のものをだ。

この会話集はあくまでも口ゲンカ専門の会話集であるため、旅行会話集などでよく見かける、トラブルに見舞われた時の「助けてください」とか「やめてください」のような消極的な表現は断固排除する。

本書は現地の人間の敵対的もしくは差別的な言葉の暴力や言いがかりに対して、

「さっき言ったこともういっぺん言ってみろ」とか、
「触んじゃねえ!素チン野郎」とか、
「自分がブスだって自覚ねえのか!」
「日本人が全員礼儀正しいと思うなよ!」

のような積極的な言葉での反撃を行うためのものである。

もちろんこちらがそんなこと言ったら相手も黙っていないはずで、必ずや口論になるであろう。

それを迎撃し、堂々言葉で渡り合うための語学的スキルを教授するのだ。

本書の最終目的は専守防衛とはいえ外国語での言葉の暴力に対してそれにふさわしい応答を行い、対等に口ゲンカして引き分け以上の決着をもたらすことである。

各章は街で文句をつけられた又は差別された場合、セクハラを受けた場合、商談や交渉のもつれ、留学先の学校での諍い、居住している場合のご近所トラブルや交通トラブル、交際している現地の彼氏又は彼女との痴話ゲンカなど、実際にあった、もしくは考えられ得るあらゆる種類と強度の揉め事の実例で構成される。

そこで実際に交わされた、もしくは交わされるであろう彼我双方の舌戦をひととおり掲載。

またその対話の流れと結末としては、円満解決に持ち込む場合もあれば捨て台詞を吐いて切り上げる場合、グウの音が出ないほど相手をやり込む場合まで網羅する。

ちょっとした討論や口論、怒鳴り合いやののしり合いまでカバーするために文例はかなり豊富であり、ウィットに富んだ皮肉やブラックユーモアたっぷりのこき下ろし表現も収録。

同時に相手が使ってくるかもしれないあらゆる悪口、罵詈雑言、差別用語や脅し文句も基礎知識として欠かせない(悪質な相手ならこちらも使ってもよい)。

よって本書のページ数はかなりのもので、収録される語彙数も多いため、読者はその言語の中級者以上が対象となり、語学学習の書としても価値あるものになるだろう。

この本で真面目に勉強すれば、口論のテクニックだけでなく語学力自体もかなりのレベルまで上達するはずである。

なぜなら

その言語で口ゲンカができる者は、疑いなくその言語の上級者だからだ。

また、読み物としても興味深いものになるのではないだろうか。

争いごとはいけないだって?

悪口や汚い言葉は覚える必要がないだって?

そんなこと言うとるモンは日本から出るな、ていうか幼稚園からやり直せ!

言われっぱなしで沈黙することがどれだけ間違ったことかまだわからんのか?

貴様らみたいなのがハバ利かせとるから、日本人は海外でナメられるんだ。

黙っとれ、国賊!

以武為尊(武を以って尊しとなす)~これからの日本人へ~

日本人は世界公知の沈黙の民、はっきり自己主張しない。

自己主張とはムカつくことを言われたら、言い返すことも含むはずだ。

おかげでナメられて言われっぱなしになるわ、カモにされるわ、国際的にさまざまな不利益を被っているではないか!

なぜ自己主張しないのか?

こちらが何か言ったら、相手から何と言ってるかわからない言葉で何倍以上も返ってくることを恐れているというのがまず一因ではないだろうか。

そりゃ「協調性こそ重要」とうそぶき、他人との争いを徹底的に嫌がる国民性こそが問題なのは私も日本人だからわかる。

その克服は確かに難しいからさておき、まずは相手の言ってることを知り、こちらが言いたいことを学ぶことから始めないか?

本書で学ぶことは、気も力も弱い男が護身術を習ったり、世界屈指の殺人発生率の街にカッターナイフを持って旅するくらい頼りない気休めに過ぎないかもしれない。

しかし

何ら対抗策を知らずに、丸腰でいるよりはるかにマシなはずだ。

鎖国するわけにはいかない以上、日本人は海外の国々、外国人と付き合わざるを得ない。

文化の違いもあるし、どの国にも悪い奴はいる。

そして、お互いの意見が衝突して摩擦が起きることも当然あるが、こちらが譲るわけにはいかないことだってある。

何度も言うが、

ケンカもできない者を誰が尊重しようか?

こいつとはケンカしない方がいいと思ってこそ相手を尊重する気持ちが生まれることもあるはずなのは上述したとおりだ。

だから、

ケンカができる者は対等に仲良くもなれる。

だから自己主張できる、すなわちケンカができることも必要なのだ。

私の提唱するケンカ用外国語会話集はそれを知識の面でサポートすることをねらいとする。

もっとも、エスカレートしすぎて口ゲンカじゃ済まなくなった場合や、口より先に手、もしくは手以外の危険な物を出す奴が相手だった場合なども考慮しなければならない。

そのため、本書は目次ページの末尾に「本書の説明」と題して以下を明記する。

「本書の内容を参考にされる方は、ご自身と相手方の身体的及び環境的、又はその他の状態を考慮して行ってください。本書の内容は各自の責任と判断のもとにご利用いただき、これらの情報を利用されたことによって生じた損害や問題については、本書は一切責任を負いません」

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子供の願いが奇跡を生む瞬間 – ザ・パチンコ看板


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小学生低学年だった頃、学校にほど近い国道沿いにパチンコ店があった。

名前は『ザ・パチンコ ○○閣』

夕方、暗くなり始めると『ザ・パチンコ ○○閣』とド派手なネオン看板を輝かせ、国道を行き交う車に存在をアピールしていた。

私の通っていた小学校の児童たちの多くは当然『○○閣』の存在を知っていたが、夜になると輝き出すその看板に対して、みんな秘かな願望を抱いていた。

『ザ・パチンコ…』の「パ」の字消えたら面白いだろうな、と。

実にレベルの低い、子供じみた願望であったが、小学生は子供なんだから仕方がない。

同時に子供ながら「そんなうまくいくわけはない」ことは分かっていた。

いくら何でも世の中そうそう願ったりかなったりになることはあり得ないことくらい、人として生まれて7、8年生きれば十分達観できるのだ。

だが、その後「願ったりかなったり」がドンピシャリで実現してしまうことも時にはあるのが世の中だと知ることになる。

それは私が小学校二年生時の10月末、土曜日の夕方だった。

当時の私は、毎週土曜日に親に車で送り迎えしてもらってスイミングスクールに通っていたが、夕方となる帰り道はいつも『○○閣』のある国道。

輝く『ザ・パチンコ ○○閣』のネオン看板を横目に見ながらの帰宅となり、通りかかるたびに「パの字消えろ」「パの字消えろ」と念じていたものだ。

そしてついにその日、純粋で無垢だが限りなく呪いに近い子供の祈りが、超自然的な何者かによってかなえられたがごとく具現化していた。

見事に消えてくれていたのである。
『ザ・パチンコ ○○閣』の「パ」の字だけが!

世の中捨てたものじゃないと子供ながら感激した。

切なる願いがここまで思った通りにかなってくれたことが信じられず、私は生まれて初めて神を身近に感じたくらいだ。

それにしても。

ずっと何度も実現した時のビジュアルを想像してはニヤニヤしていたが、

いざ現実に目の当たりにすると「パ」の字が消えた「ザ・パチンコ」のネオン看板は予想以上に壮観だった。

「パチンコ」からよりによって「パ」の字が消えただけでも十分絵になるのに、その前に「ザ」と強調されているその看板のインパクトは絶大の極み。

日本語を母国語とする者ならば目に焼き付いて離れなくならざるを得ない破壊力を有したスペクタクルだったのだ。

ダイレクトに「ザ・ チ〇コ」とまばゆいネオンで大真面目に自己主張している看板は、一字分暗くなっているはずなのに普段より輝いて見えたのは私だけだろうか?

それは小学校二年生の幼く未熟な笑いのツボを突き破り、なおかつピストンさせたかのごとく激しく刺激した。

「あははははは!!ザ・チ〇コだ!ザ・チ〇コだ!!」

子供だった私は車内で狂ったように笑い転げた。

だが神は恩恵だけではなく、代償として天罰も用意していたようだ。

私を乗せた車を運転していたのは母親。

同じくその絶景を目の当たりにしていたが、私とは感じ方が著しく相違した。

成人女性である彼女は、その圧巻のお下劣看板とそれを見てバカ笑いする息子を好意的に見る感性は持っていなかったのだ。

「何がおかしいの!?アホか!!」

と大声で一喝されてしまった。

おまけに母親はこの日かなり機嫌が悪かった。

決して安くはないレッスン料を払って通わせているスイミングスクールでは、背泳ぎからバタフライまで様々な泳法を教えている。

だが、当時から不器用で覚えの悪かった私はなかなか泳法をマスターできず、この日も月末恒例の背泳ぎコースの修了テストで不合格。

もう一か月背泳ぎコースを履修することが決定したため、母はお冠だったのだ。

「何回不合格すれば気が済むの!?後から入ったN島くんやS司くんはもうクロール習ってるのに、いつまでもアンタは背泳ぎばっかり!悔しくないの!?」

先ほどのバカ笑いで母の堪忍袋の緒が切れたらしく、他の子と比べて出来の悪い私をなじり始めた。

ママ友の息子がいずれも自分の息子を易々抜いていたことを知って、ずっと悔しく思っていたらしい。

それから家までの帰り道どころか家に到着してからも母の怒りは収まらずエスカレート。

車の中で「あんなくだらんモノ見て笑うな」だの「勉強も習字もそろばんもいい加減」だの、私にビンタまで食らわしながら延々説教は続く。

「パ」の字が消えてくれた喜びが一挙にしぼんで泣きべそすらかき始めた私は、おかげでこんなひどい目に遭っているという逆恨みの感情が芽生えた。

月曜日に学校に行くと、クラスでは『○○閣』のパの字消失事件の話で持ちきりになっており、「ザ・チ〇コ」「ザ・チ〇コ」とみんな大爆笑していた。

私以外のクラスメイトも結構レベルが低いが、それがリアルな小学校低学年なのだよ、その当時のウチの母親よ。

しかし母親にこっぴどく怒られた記憶が生々しい私には、そのきっかけを作った『○○閣』の話は不愉快極まりなく、話の輪の中に加わることはなかった。

通常、ネオン看板の「ザ・パチンコ」の部分から絶対に消えてはいけない一文字が消えたんだから、『○○閣』もこのまま放置しておくはずがない。

だが、翌日も翌々日もそのままだったことを近所に住むクラスメイトが証言したため、数日間『○○閣』ネタでクラスが沸き返ることになる。

その週末、例のごとくスイミングスクールからの帰りの車の中から見たら、驚くことに『○○閣』は先週と同じく「パ」の字が消えたまま営業を続けていた。

近所の住民も行政も何をしていたんだろうか?

少なからぬ未成年や児童も目の当たりにしているであろうにもかかわらず、「ザ・チ〇コ」と恥ずかしげもなく燦然と輝き続けていたのだ。

「もうわかったから、ええっちゅうねん」

その日も私を乗せた車を運転してたのは母親で、笑うとまた怒られるだろう。

だいたいこっちは先週怒られたのは『○○閣』のせいだと思っていたし、いくらツボをついたネタも延々やり続けられると引く。

もうさすがにクラスでも話題にはならなくなっていたし。

次の週末も同様にスイミングスクールに行った私は、迎えに来てくれた母親の車に乗って同じ道を家に向かって走っていた。

その帰り道で、何だかわからないが違和感を感じた。

心なしかいつもより国道が暗い気がするのだ。

そう思ったのは、いつもなら光り輝く『○○閣』のネオン看板が見えてくるはずの地点まで来た時である。

みるみる『○○閣』のある場所に近づくに至り、その理由がはっきりわかってきた。

あのギラギラしたネオン看板はパの字ばかりか全体が消え、店も明かりを消していた。

『ザ・パチンコ ○○閣』は閉業していたのだ。

パの字が消えたままだったのは、どうせ閉店するからだったのか。

翌週月曜日の学校では『○○閣』閉店についてはさほど話題にならず、そっけなく「『○○閣』つぶれたらしい」「みたいだな」くらいの会話がちらほら聞こえた程度である。

皆完全に関心を失って、「まだその話してるのかよ」という反応を示す者もいた。

一方の私は、何だか罪悪感のような感情を覚え始めていた。

「パ」の字が消えてくれと願うがあまり、店そのものまで消してしまったような気がしていたからだ。

同時にこうも考えた。

願っていたのは私だけか?他のみんなだって願ってたじゃないか。

私だけが悪いわけじゃない!と。

その考えに沿えば、子供たち一人一人が願い続けた一つ一つの思いは他愛もない小さなものだったが、その同じ思いが結集した結果「パ」の字だけでなく店そのものを消し去ってしまうほどの巨大なエネルギーになっていったと解釈すべきだろう。

だがもしそうだったとしたら、そのエネルギーは『○○閣』を倒産に追い込んだだけでは済まなかったようだ。

その後『○○閣』の建物はほどなくして解体され、跡地にはすぐさまガソリンスタンドが建ったが、私が中学生になる前に閉店。

次いでレンタルビデオ店、リサイクル店、ファーストフード店、ラーメン店などが開店しては次々閉店して行った。

現在はレンタルビデオ店開店の時に建て替えられ、最後にラーメン店に改装されて閉店した十年近く前の姿のままで廃墟となっている。

交通量の多い国道沿いで、決して商業的に立地条件が悪いわけではなさそうなのにも関わらずだ。

それが証拠に対面の回転すし店や、両隣のカラオケ店とファミレスは長らく営業を続けているし、『○○閣』自体閉業するまで長い歴史を持っていた。

「子供たちの願い」が転化した「呪い」は『○○閣』だけにはとどまらず、その土地そのものに今でも渦巻いているのかもしれない。

そう、罪悪感を少々覚えながら考えるのは私だけだろうか?

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「楽しい工作シリーズ」- 苦い思いでの工作体験


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タミヤの『楽しい工作シリーズ』をご存じだろうか?

総合模型メーカーとして世界的に有名な株式会社タミヤが1971年から販売する児童向けの動く模型工作のシリーズ製品だ。

同シリーズは、あらかじめ必要なパーツや組み立て説明書を揃えたダンプやフォークリフト、バギーなどの組み立てキットから、本格的な工作・開発に使えるパーツ物までを含んでおり、これまでに200種類以上が販売されている。

また時代とともに進化を続けた製品をリリースしており、ソーラーパネルを含むものや、近年では『カムプログラムロボット工作セット』のようにプログラミングの要素を含んだものまで登場している。

それは子供に動力や機構への理解を深めさせ、創造力をはぐくませるのに最適の製品シリーズの一つといっても過言ではなく、小学校時代に夏休みの工作や自由研究でお世話になった方もきっと多いはずだ。

これによってモノを作ったり機械をいじったりする楽しさを知り、その方面の道に進むきっかけとなった方も少なくないだろう。

反面、どうしてもうまく作れずに自分の不器用さを呪い、自分はこの方面に才能がないことをトラウマ級で思い知らされた方もいらっしゃるはずだ。

私のように。

自称科学少年

『楽しい工作シリーズ』とのファーストコンタクトは小学校四年生の時だった。

当時学校では四年生以上を対象にクラブ活動の時間が設けられており、生徒たちは「お料理クラブ」や「サッカークラブ」など自分の趣味・嗜好に合ったクラブに加入して活動していた。

私が入ったのは「科学工作クラブ」、モーターやギアなどの機械的動力を用いた工作を目的としたクラブだ。

「科学工作クラブ」では主にタミヤ(当時の社名は田宮模型)の『楽しい工作シリーズ』の組み立てキットやパーツを使って車やロボットを作っていた。

私が「科学工作クラブ」に入ったのは、世界の偉人伝で「エジソン」や「ライト兄弟」、「フォード」などを愛読していたことが大きい。

それに影響を受けた私は自分も機械をいじりたくなり、我が家の家電製品を勝手に分解しては修理不能にし、そのたびに親に折檻を加えられていた。

それでも機械いじりの誘惑に勝てなかったため、今度は作る方に回ろうと考えたのだ。

それに、段ボールや紙をハサミやカッターで切ったり、のりやセロハンで貼ったりの工作は三年生以下のガキの図工だ。

一方で乾電池やモーター、ギアなどで自動的に動くものを作るのは大人の図工である、というのが小学四年生だった当時の私の認識である。

こうして私は「大人」の仲間入りをすべく、「科学工作クラブ」に加入した。

楽しい工作シリーズの洗礼

クラブ活動が始まって、顧問の先生から与えられた工作のお題は組み立てキットを自由に選んで作れ、というものだった。

一緒に入った同級生たちはこういったモーターだのギアだのを使った科学的な工作をやるのが初めてな者が多く、買ってきたのは自動車工作基本セットなどの構造が単純でひかえ目なもの。

私が買ってきたのは『F1工作基本セット』。

値段も工作の難易度もやや高めだったが、完成した後スピードで他の生徒の作品を圧倒してやろうという小癪な考えを持っていた。

これは科学工作とは関係ないが、私自身が非常に見栄っ張りで自分の実力をはるかに超えて背伸びしたがる性格に起因する。

それに私は今まで、家電製品の分解を経験するなど機械をいじることに慣れているという自負があった。

そんな玄人はだしの私が、ド素人の同級生たちと同じレベルのものであっていいはずがない。

だが、間違っていた。

私は分解して壊すことには慣れていても、組み立てて作ることには慣れていなかったのだ。

そう言えば、この当時の何年か前に流行ったガンダムのプラモデルも、まともに完成させたことがない。

並外れて不器用だし、より致命的なのはパーツをしょっちゅうなくすからだ。

その時も私はやらかした。

よりによってギアを軸に固定するための重要なパーツをなくしてしまったのだ。

結果、スイッチを入れてもモーターだけが空回りし、私のマシンはピクリとも動きやしない。

五年生や六年生の先輩に泣きついてみたが「この部品なくしたらだめだ」とさじを投げられ、次から次へと完成させて「動いた動いた」とはしゃぐ同級生たちの中で、作品が最後まで可動しなかったのは私だけだった。

二学期に顧問から出たお題は自由作品。

組み立てキットではなく、バラでパーツを買ってきて創意工夫して車を作れというものだった。

私は一学期の雪辱を晴らし、皆をあっと言わせてやろうと燃えていた。

構想していたのは、何と八輪駆動のモンスターマシン。

四輪駆動なんてけち臭いこと言わずにゴージャスに行こうと考えたのだ。

八輪駆動なんてどんな機構が必要なんだろうか?

何のことはない。

四軸すべてに動力をつければよいと考えたのだ。

つまり、モーターとギアをすべての車軸に取り付けようとしたのだ。

動力も四つあれば、スピードも四倍。

いかにも頭の悪い小学生が考えそうなお粗末な構想だった。

かくして、長めの板にゴテゴテと動力や乾電池ボックスを装着したグロテスクな八輪車が出来上がった。

それは科学工作というより前衛芸術作品のようであり、

作者はピカソ、作品名は『ゲルニカ』という感じの見た目であった。

これで曲がりなりにも動けば多少はよかったのだが、

それぞれの車軸に動力を設けたために動力が干渉し合って動かないという当然の結末を迎えた。

「お前の作った車、また動かねえのか」

「だせえな。不器用すぎだろ」

私以外も頭の悪い小学生ばかり。

前回に引き続き、またしても失敗作を作った愚か者を見て見ぬふりするわけがない。

私は『科学工作クラブ一不器用な男』の烙印を押されたばかりか、

不器用ぶりがクラスにも広められて語り草にまでされてしまった。

タミヤの割礼~己を知れ~

小学四年生だった私は科学工作クラブにおいて、

「動力とは何たるか?」

「動力にはいかなる機構が必要か?」

「自動車のしくみとは?」

を自らの尊厳を犠牲にして知ったのだった。

何より自分にはモノを作る才能が全くないことも。

すべてタミヤの『楽しい工作シリーズ』が教えてくれた。

今から思えば、これも模型メーカー・タミヤの社会貢献の一種なのかもしれない。

タミヤは『楽しい工作シリーズ』を通じてモノ作りの楽しさを数多くの子供たちに教え、将来モノ作りを担うことになる人間をはぐくむ一助も果たしてきた。

同時に

才能がない者に己の不器用さを心に刻み込ませ、
将来的にモノづくりの現場から排除し、
彼らがもたらすであろう欠陥品による事故から社会を守る役目も果たしているのだ。

何とも見上げた理念じゃないか!

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雨男の誇り – 雨雲を呼ぶ男の奇妙な旅

私は自他共に認める雨男である。

外出するとよく雨が降ることを自覚しているし、「お前が来るといつも雨だ」と知人たちによく苦情を言われる。

私の写る旅行先での記念写真はたいてい今にも降ってきそうな曇り空が背景であることが多いし、

今まで参加する予定だった数々の野外イベントを雨天中止に追い込んできた筋金入りである。

雨男の心構え

雨男であることに胸を張る気はない。

むしろ迷惑をかけていることを自覚して心苦しく思う、たまに。

それに、いつも降らせるわけではないし、わざとやってるわけじゃない。

雨男にもかかわらず、私はスズキのバイクST250を所有してツーリングを趣味にしているが、気を引き締めて行けば降らないこともないわけではない。

ただこれまでバイク仲間と集団でツーリングに行ったことが三度あったが、三度とも浮かれすぎて気が緩んだらしく大雨になった。

それについては本当に申し訳なく思い、以来ツーリングは一人で行くことにしている。

向こうも誘ってくれなくなったし。

そんな私はかなり天気予報には敏感で、降水確率が20%以上の場合は絶対にツーリングに出かけない。

経験則から、20%程度だと私が外出したとたんにその降水確率は急上昇、天候が激変することが多いからだ。

気象予報士やアメダスも気圧配置や雨雲の動きだけではなく、私の行動や予定も観測した方が良い。

しかし自慢じゃないが、天気予報が降水確率0%と予想していても雨天にしたことだってあるのだ。

雨雲を呼ぶ男~雨男の自己迷惑力~

いつも雨にしないよう気を引き締めて外出するが、我ながら天気予報に0%と言い切られるとどうしても気が緩んでしまうようなのだ。

その日新潟市までの長距離ツーリングを予定していた私は、天気予報が新潟県や北関東の降水確率0%と予測したのを真に受けて、勇んで愛馬ST250にまたがり関越自動車道を北上した。

天気予報は大当たり。

埼玉や群馬は快晴、私は関越道を快調に飛ばし続けて関越トンネルに入った。

日本第二位の長さの関越トンネルの果てしなき暗黒を抜ければ魅惑の新天地新潟県!

だが、

トンネルを抜けるとそこは雨だった。

それも土砂降り。

降水確率0%という予報だったのでは?

そう心の中で自分に、特にそう予想した予報士に対して問いかけたが、雨は止む気配がないどころかますます激しくなり、こちらは猛スピードのため雨にさらされる上半身や太ももが痛い。

行動に計画性が欠けることが多い私は、雨男にもかかわらず合羽を準備してこなかったため瞬く間にずぶぬれになった。

おまけにこらえ性のない私はこれ以上の進撃を断念。

小出インターチェンジを降りてUターンして関東に逃げ帰る羽目となり、新潟ツーリング旅行を強制終了。

さっき通り過ぎたばかりの関越トンネルに早くも戻ってきた。

だが、関越トンネルを抜けた先でも私の災難は続く。

群馬県側も雨だったのだ。

群馬の降水確率も0%という予報だったのにこの土砂降りとは納得いかないが、それ以上におかしいと思ったことがある。

前方の視界は晴れで、今走行している道路も乾いているのに大雨なのだ。

空を見上げると私の前方は雲一つない晴天だが、頭上にはどす黒い雨雲が浮かんで後方に広がっている。

今しがたまで晴れていた所に、私が巨大雨雲を引き連れてきたみたいだ。

まさに「嵐を呼ぶ男」ならぬ「雨雲を呼ぶ男」、自分の雨男ぶりを最大限可視化させたとしか思えない壮大な超自然現象だった。

振り切ってやる。

私はそのまま休憩なしで走り続けて雨雲圏内から離脱することを決断したが、偉大な大自然の嫌がらせは徹底していた。

雨雲は私の走るスピードに合わせてぴったり着いてきて、頭上に雨を降らせ続けたのだ。

群馬・埼玉県全域で私は雨を浴び続け、雨から解放されたのは東京都に入ってからだった。

練間インターのあたりに来るとカンカン照りで雨が降った様子が全くなく、

私一人だけがずぶぬれでバカみたいであった。

予報が降水確率0%でも地域やそこにいる人によっては降ることもあると理解すべきらしい。

緊急提言!雨男・雨女の国際貢献

私のような雨男は、自分にも他人にも迷惑をかけるしか能がないのだろうか。

いや、否!むしろ逆である。

我々雨男雨女が一定数いるから、日本は水資源が豊富なのだ。

少なくとも日本列島の生態系には欠かすことができない存在である。

我々を撲滅したら日本は水不足に苦しむことになろう。

雨にされてイベントをつぶされたくらいでそんなに嫌な顔をするでない!

それに私はこの能力を生かせる場が他にもあると前から考えているのだ。

それは

干ばつに悩む地域や国へ我々強力雨男・雨女を送り込めば、雨を降らせて水不足解決の一助になるのではないかということだ

世界に水資源に乏しい国や地域は多い。

そんな国にとって雨を招く我々は願ってもない貴重な存在のはずではないか。

ただしあんまり強力なのを大量に派遣すると降らせすぎて水害を招く恐れがある。

軍事利用にはもってこいだが、国際貢献には甚だ具合が悪い。

どの程度の奴を何人派遣するかなどの選定は慎重に行う必要がある。

それには全国の雨男雨女の存在を突き止めて聞き取り調査やモニタリングを行い、各々の雨を招くレベルや住所等データベースの作成が先決なのは言うまでもない。

またそのように全国の雨男雨女情報を把握すれば国内的にもメリットがある。

水害が予想される時期もしくは地域から海外の干ばつ救済を口実にして、彼ら彼女らを一時国外追放して各地を水害から守ることもできるのだ。

むろん、そのデータベースの取扱いについては要配慮個人情報に当たるはずなので、行政機関には厳重に管理していただきたい。

さもないと水害が起こった地域で村八分にされる恐れがある。

私がここで主張したいのは、雨男雨女は日本にくすぶって周りの人々に煙たがられながら、

水資源の確保に貢献していることにあぐらをかいていてはいけないということだ。

日本の雨男雨女は世界を目指すべきである!

世界が我々の助けを待っているのだ!

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地雷店に注意!まずい飲食店の実情


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飯がまずいとすぐ満腹になった気になる。

舌と消化器系がそれ以上のその食物の摂取を拒絶するからだろうか。

私が今働いている職場の周辺は飲食店が比較的多いがハズレ店の割合が多く、地雷をよく踏んだ。

それも対戦車地雷クラスの大ハズレ店が一つや二つではなかったから恐ろしい。

「毎日違う飲食店で昼飯を食う」という自らに科したその掟に忠実だったばかりに、そこで働き始めて一か月くらいは、毎日アドベンチャーを強いられていた。

牛焼肉と称しているが、明らかに牛肉ではない獣臭漂う牛焼肉定食800円、パスタが極太ソウメンか細めのうどんとしか思えない、『イタリアうどん』と言うべきミートスパゲティ、店主の創作意欲が暴走した結果、見た目も味もカオスな鉄火丼などなど。

ものすごく腹が減っているはずなのに残してしまい、空腹以上の飢餓レベルでないと完食は不可だと思えるくらいで、その日の午後の仕事のパフォーマンスにも悪影響が及ぶほどの違和感と不快感がトラウマレベルで口の中に残留した。

私の神聖な昼食時間を侵した罪に時効はない。

そんな店には一生入る気がないばかりか、腹いせに同僚にもこの店はハズレだと積極的な啓蒙活動まで行っている。

昼飯がまずいと、生活までもがつらくなる。

だが、その時の私の場合はまだましと考えるべきだろう。

確かにハズレ店もあったけど、「この店また行こう」というアタリ店や「まあまあだな」という安全店も多かったし、まずい店は二度と行かなければ良いだけなのだから。

毎日決まったメニューでそれ以外選択の余地がなく、しかもことごとくまずい場合こそヤバイ。

2017年、神奈川県中郡大磯町の公立中学の学校給食が半端じゃなくまずいと生徒の間で評判になったことが報道された。

調査によると給食の残食率が全国平均の6.9%を大きく上回る平均26%で、多い時には55%。

あるクラスでは生徒31人中完食したのは1人であったらしいから凄まじい。

きっと学校生活にも暗い影を落としたはずだ。

毎日そんなもんを食わされた生徒には同情を禁じ得ないし、そんなもんを恥ずかしげもなく提供した業者はテロリストに等しく、怒りを覚える。

私が他人事ながらそう思うのは、

昔、同じ地獄を味わったことがあるからだ。

学校を出て最初に働き始めた印刷会社の社員全員の昼食は毎日配達される弁当だったが、その弁当が半端じゃなくまずかったのだ。

その会社で働いたのは二年にも満たなかったが、その弁当を完食できた記憶がない。

私はどちらかと言えば好き嫌いが激しい方であることは認めるけど、他の社員もみんなまずいと言って残してたんだから本当にまずかったはずだ。

「美味しかった」か「まずかった」か

ではなく、

「我慢できる」か「我慢できない」かの二択しかない代物

が毎日選択不可で有無を言わさず支給されてたんだからたまらない。

普通昼食というものは、「今日は何食べようか?」「今日のメニューは何か?」と楽しみなものであるべきだが、

そこでは昼になると「今日は何を食わされるのか」不安を覚えていた。

昼休みになるのがあんなに憂鬱だったのは後にも先にもあの会社で働いていた時だけだ。

その弁当代は毎月の給料から差し引かれていたが、食べてやるから金をもらいたい気分であった。

その印刷会社は社員数が80人にも満たなかったのに毎年10人近くが途中退職しており、主な取引先はほぼ官公庁相手で、毎年安定した受注があるという強みはあったのに、会社の業績は私が入社する前から右肩下がりを続けていた。

これらは昼食のまずさと無関係ではなかったはずだ。

朝礼では社長が「給料もらってるプロなんだから、仕事にはちゃんと責任を持て!」と、偉そうに小言を言っていたが、

その社長本人は皆とは違って毎日特製の仕出し弁当を食べていたんだからムカつく。

責任をこちらに押し付ける上司もいたし、給料も安かった(毎年ドラスティックに減らされていた)から気持ちよく働ける会社では全くなかったが、何よりあの弁当のまずさこそが社員のことをどう思っていたかをわかりやすく証明していたと今では思う。

人間が働いていい職場では決してなかった。

食い物の恨みは忘れられない。

こういう食べ物についての文句を言うと、

「食べ物を粗末にするな」

とか、

「世界には飢餓で苦しむ人もいるんだ」という人もいるだろう。

ごもっとも。

まずいことを理由に残した食べ物がゴミとして破棄されるのは、私も心苦しく、忍びない。

しかし同時にこう反論したくなるのだ。

その貴重な食料を、食べたくない味に調理して提供した者の責任はどうなんだ」

と。

食べる方が好き嫌いなく食べなければいけないならば、作る方もある程度の水準、せめてヒトが食用可能な味にするべきなのではないか。

違うか?

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のぞき魔をのぞく者 – 電車内でのプライバシー


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通勤ラッシュを迎える平日午前七時半頃の小田急線。

私は狛江駅から各駅停車に乗って二駅目、成城学園前駅で降りて通勤快速新宿行きに乗り換えている。

成城学園前駅に列車がやってくると、今朝もすでに客で立錐の余地もないほどの車内に、後ろの客にも押されながらなだれ込む。

成城学園前駅で通勤快速の乗車率がマックスを迎えるらしく、車内はギュウギュウ詰めとなる。

車内でマンガを読む男

そんな満員電車の中でも前の客との空間を利用してスマートフォンを見たり、本を読む乗客がいるものだ。

とある通勤ラッシュ時、私の前に立っていた男もその一人であった。

彼が読んでいたのはマンガだ。

私はその男の斜め背後に立っていたために、その肩越しにそのマンガの内容が否応なしに視界に入ってきた。

別に盗み見るつもりは全くなかったのだが、ついついそのマンガを読み始めてしまう。

何やら中世のヨーロッパを舞台にした作品のようだが、結構面白い。

逃亡中の高貴な身分の姫と護衛の騎士が、ある関所を通り抜けようとしている。

その関所の代官は優しい顔をしているが根は極悪非道で、ちょっとでも怪しいと思った者を徹底的に拷問したあげく処刑してしまう。

護衛の騎士は何とか姫の身分を隠し通して関所を抜けようと知恵を絞るが、疑り深い代官に怪しまれ…。

読んでいるうちにハマってしまい、いつもトロトロなかなか進まないように思える通勤快速が、本当に快速に思えてきた。

もう電車は次の降車駅とのほぼ中間、経堂駅を通過。

しかし、イラつく読み方をする奴だった。

まだこっちが読み終わってもいないのに次のページに進んだり、

そうかと思えば、

こっちがとっくに読み終わったのになかなか次のページに進まなかったりする。

その止まっているページでは護衛の騎士がすでに殺されており、正体がばれてしまった姫は代官の兵隊たちに捕まっている。

早く次のページめくれ!

だが、そいつは次のページに行くどころか、

あろうことか何ページか前に戻ってじっくり読み直しを始めた。
この野郎!

もう電車は梅が丘駅を超えて停車駅である下北沢に近づきつつある。

そいつの本だし、のぞき見してる立場上「早く次のページ読ませろ!」と怒るわけにもいかず、私はやきもきしながら元のページに戻るのを待った。

騎士が代官の命令で部下とサシで決闘させられるページ、ハイ!そこはもう読んだ。

次は代官の部下を騎士は負傷させるが返り討ちに遭って殺されるんだよな、早く次!

姫が叫び声をあげて正体がばれる場面、よし!元のページに戻った!

そうこうしているうちに電車は下北沢駅に到着、男はまだマンガを見ている。

よかった、下北沢駅では降りないようだ。

さあ、お待ちかねの次のページだ!

これから姫はどんな目に遭わされるんだ?

しかーし!

男は駅に着いたことに急に気づいたらしくハッとして、マンガを閉じ、カバンにしまいやがった!

「おい、ちょ…」

思わず声を出しそうになった私を男はチラっと見たが、そのまま電車を降りて何事もなかったかのように降車する客たちの中に消えていった。

せっかく面白いところだったのにそりゃないだろ!

事実上ののぞき見なので責めるわけにはいかないが、それでもいたぶられたような感じがして釈然とせず、その日はあのページから先が気になって午前中いっぱい仕事にならなかった。(一か月後に作品名が『狼の口 〜ヴォルフスムント〜』だと知ったが)

ちなみに、視界に入ってそのまま読みふけってしまうのはマンガとは限らない。

ニュースだったり、問題集だったり、メールの内容だったりもする。

LINEをやる男

別の日に私の目に留まったのは、マンガ男と同じように私の前に背を向けて立っていた初老の男が持つスマートフォンで、そこに表示されたLINEのトーク画面だ。

マンガと違って個人情報ののぞき見だから許されざる行為だが、私の視界正面にあるんだから仕方ない。

悪いと知りながら、どんなやり取りをしているのか目を凝らして見るが読めない。

それもそのはず、トーク内容はすべてアルファベットだったからだ。

すげえ!英語でトークしている。

目に映る初老の男の背中が、知的なオーラで包まれて心なしか威厳に満ちていた。

このご老体がどんなやり取りをされておられるかますます気になったので、その英文を目で追うがピクリとも解読できない。

どうやら英語ではないらしい。フランス語?ドイツ語?

ますますご老体の背中から発っせられる後光の輝度がまばゆいばかりになった気がする。

お、ご老体が返信をしておられる!

私に読めるはずもないのだが、ゆっくりと入力される文字を思わず目で追った。

どれどれ「Sore」、次が「deha,mata」、そして「kaishade」か。

Soredeha,matakaishade…。

ソレデハ、マタカイシャデ…。

「ローマ字じゃねえか」

とたんに、初老の男の背中が放つ後光が消灯し、強烈なみすぼらしい加齢臭がしてきた。

さっきまで注いでしまった尊敬の念を返せ、と言いたい。

小声で「ローマ字…」と不用意に口を突いて出た言葉が耳に入ったらしく、ジジイはムッとした顔で振り返り、スマートフォンを隠した。

はいはいのぞいて悪かったね、もう見ないよ。

もう興味もなくなったし。

のぞいた私が言うのも何だが、満員電車内で本やスマートフォンを見る際は、背後の人間の目に入るというリスクも考慮すべきではないだろうか。

自分だけの世界に没頭して無防備でいると知らない間に私のように背後に位置する人間に自分の世界へ侵入され、勝手に暇つぶしに利用されたり評論されたり、あまつさえ非難されたり見下されたりすることもあるのだから。

YouTubeを見る男

そうは言っても、やはり満員電車で長いこと立っているだけは確かに退屈だ。

やはり本かスマートフォンを見て時間をつぶしたい。

私はそんな時、よくスマートフォンでYouTubeを見ている。

私が今回見ているのは、自然界や動物園で偶然撮影された動物異種格闘技戦

ライオン対トラ、クマ対トラなどの食物連鎖の頂点に君臨する大型猛獣同士のガチンコ対決はやっぱり血が騒ぐ。

今回発見したのはゾウ以外では最強と個人的に信じていたサイと、見かけによらずかなり危険な猛獣であるカバのスーパーヘビー級ドリームマッチだ。

サイ派の私は、サイの圧勝を期待していた。

手に汗握りながら見始めたが、大きく口を開けて威嚇するカバにサイがあっという間に屈服、背を向けて逃げ始めたところをカバに追い打ちをかけられている。

くそ!サイの負けかよ!
「よし!カバの勝ちだぜ!」

突然そんな声が耳元で聞こえたので後ろを振り向くと、そこにいたのは全く見知らぬ中年の男。

カバ派らしく、心なしか勝ち誇った顔をしている。

しょっちゅう人様のプライバシーをのぞいていた私がのぞかれていた!

相手がカバ派だけに、二重の意味で負けた気がした。

やっぱり私も背後に気をつけねばならんようだ。

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ウソつきの懺悔 – ウソと人間関係のジレンマ


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結構ウソつきであることを正直に告白する。

別にボケているわけじゃない。

自分でも普通の人に比べてよくウソをつくし、ウソに対する罪悪感もワリと低い方だと思う。

そんな私でもついていいウソと悪いウソがあるのはわかっているつもりだ。

私がつくのはヒトを楽しませるウソや無害なウソであり、他人をハメたり、迷惑をかけるようなウソでは決してない。と思う。

かようにウソつきの仁義を重んじる私だが、先月ついたウソは我ながら不謹慎すぎて有害だったと反省している。

この2021年のご時世で、絶対についてはいけないウソをついてしまったのだ。

2021年2月某日午後11時30分頃

その日、私は自宅で酒を飲みながらアマゾンプライムビデオを観ていた。

観ていたのはドニー・イェン主演の『イップ・マン 完結』。

期待通りの面白さで酒も進み、私は至福の時を過ごしていた。

そんな極上のプライベートを楽しんでいる最中にラインメッセージが入ったのは、物語も佳境に入り、酔いも手伝ってドニー・イェンのアクションシーンの真似をし始めていた頃だった。

別にラインやフェイスブックからのメッセージ自体がお邪魔虫とは思わない。
しかし、相手が問題だった。

誰なのか分かったとたん、楽しい気分に暗雲が立ち込めてきたのだ。

送ってきたのはY田という男。

私とほぼ同世代だが、仕事では大いに世話になっている人物であり、プライベートでも時折飲む仲である。

だがこのY田、仕事では頼りになるが、さほどプライベートでは楽しい人物ではない、酒の席でもシラフでも。
むしろ面白くない、というか少々ムカつく時がある。

どう面白くないかというと、まず人の話を聞かないところである。

例えば私自身が興味のあることや最近経験したことなどでもいいが、話を振ったとしよう。

全く聞いていないのである。

露骨に興味がなさそうなそぶりをするし、返ってくる返事は

「いや興味がない」「そういったことはよく知らない」

などでたちまち私の振った話は終了する。

これは私の気のせいではないと確信している。
彼ほど私の話をさせてくれない人間は、現在交際している範囲では見当たらない。

そのくせ、自分の話はよくする。

それも、

「自分の職場の後輩のN嶋K太が恩知らずだ」
「上司のS村S治に目の敵にされている」
「取引先の担当者のS司H樹の態度が無礼だ」

とかの恨み言が大半で、実名を挙げて具体的な状況まで詳細に説明してくる。

私はN嶋K太にもS村S治にも会ったことはないわけで、そんなこと知ったこっちゃない。

私はそんな話でも「そんなN嶋みたいな奴はいかんですなあ」とか、「S村みたいなのウチにもいますよ」とか、一応反応してやっている。

共通の話題ばかりが絶対続くわけはなく、お互い知ったこっちゃない興味のない話が出たとしてもある程度反応するのが会話の礼儀だろう。

私はその礼儀は守っている方であるはずだ。

いつも飲みに誘うのはだいたいがY田の方で、「報告」と称して酒の席でそういった恨み言を一方的に話すことが多い。

あとは同じく「報告」と称して、うまくいった仕事の自慢。

ちなみにこちらも同じように「報告」すると、やっぱり興味なさそうである。

もう一つ面白くないのは彼が度を越した反差別・平等至上主義者であり、これだけ隣国が敵対国家だらけなのにもかかわらず目を輝かせて非武装中立の必要性を語る反戦バカだということだ。

例えば私が「おばちゃんには方向音痴が多い」と言ったら、

「それは女性差別じゃないの?」

と真顔で非難しやがるのだ。

めんどくさい奴だと思わないか?

他にも「あなた」や「お宅」などの二人称単数を使って呼ばれるのを嫌うなど、会話において本来なら留意する必要のないNGワードも多く、どうりで後輩やら上司に嫌われるわけである。

何年か前に飲んだ時など、奴は酔ったはずみで当時の安倍内閣が意図していた憲法改正について私に議論を吹っかけてきたことがあり(むろん彼は反安倍内閣だった)、私も酔っていたので改憲賛成どころか核保有論者だと正直に言ってやったとたん、「右翼」だの「軍国主義者」だの金切り声で私をファシスト扱い。

こんな奴と楽しく飲めるだろうか?

よって今回も寝たことにして、既読にならないようラインを敢えて開かず見て見ぬふりを決めこみ、イップ・マンを見ながら、“空気敵”相手に大技をくらわしていた。

が、

まさか電話をかけてくるとは思わなかった。

それも携帯ではなくイエ電の方。

意地でも話をしたいようだ。

出るしかないのかよ、めんどうくさいな。

素晴らしい夜のひと時を強制終了された気分であった。

「もしもし」

私はさっきまで見えない敵と戦っていたので、多少息を切らせながら電話に出た。

「悪いね、起こした?でもさ、どうしても話したいことがあってさ」

気持ち悪い男である。こんな夜中に大の男にそんなこと言われて気持ちがいいわけがない。

実は前からY田はゲイではないかとも疑っている。しゃべり方もそれっぽいし。

「いや実はさ、今日N嶋にさ…。どうしたの?息荒いよ」

私は年甲斐もなく“ひとり組手”してたからまだ呼吸が荒かったようだ。
しかも結構飲んでいた。

そして、その酔った頭で「何とか切り上げれないだろうか?」と私は考え始めてしまっていた。

「どうしたの?具合悪いの?」

Y田はいつものオネエ言葉で訊ねてきた。

そうだ仮病を使おうか。

病気で寝てたことにすりゃあ、奴も長話してこんだろう。

「いやあ、実はその今日病院行ってきまして、検査したんですけど…」

言い訳しても仕方ないが、私の頭はこの時泥酔の一歩手前の状態だったのだ。

だが、その思考回路で考えた仮病であったとしても、

そして、たとえ相手が誰であったとしても、なっていい仮病と悪い仮病があったと今では反省している。

「え、検査って…。まさか」

「気を付けてたんですけどね…、陽性だったんです。コロナの

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『ペットと被ペット』或いは『飼い主と被飼い主』のあるべき関係


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ニホンザルの観察が好きである。

TVやYouTubeでもよく見ているし、実際に動物園や野猿公苑まで見に行くことがあり、顔も見分けることだってできるほどだ。

ネットや書籍でもニホンザルの生態を読み漁り、アマチュア研究家の端くれであると自負している。

ニホンザルの何が面白いかって、他の動物に比べて人間に近いことだ。

中にはおっさん度やおばさん度の高い個体も存在し、特に怒った時の反応や表情などを見ると、「そういや身近にこういう顔して怒る人いるな」と感心したりして、やはり人類はサルから進化したんだと納得する。

このように私はニホンザル研究に熱心であるが、ペットとして飼いたいと思ったことは一度もなく、あくまで見る専門。

ニホンザルをペットとして飼うには都道府県知事の許可が必要で、飼養施設の構造や保管方法にも様々な基準が存在するなどかなりハードルが高いのだ。

そんな面倒くさい動物など飼いたくはない。

それに、

ニホンザルを見ていて面白いと思ったことはあっても、可愛いとは思ったことがない。
「見てて面白い」イコール「ペットにしたい」とは限らないのだ。
いつも身近にいたら憎たらしくなるに決まってる。

なぜなら、ニホンザルは私がペットに求める基準に著しく反する動物だからだ。

それはSF小説の巨匠アイザック・アシモフの「ロボット三原則」に倣って、「ペット三原則」ともいうべき私独自の基準だ。

飼い主とペットの最も理想的かつ良好な関係の構築には、「私は飼い主、お前はペット」という神聖不可侵の境界が存在することが大前提であると考える。

その大前提に対して脅威を及ぼしかねない、つまり,

ペット三原則」に一つでも抵触する特性を有する動物はペット候補から完全に排除するべきである。

ニホンザルはその三つの原則すべてに抵触するから失格。

私はペットにする気が全くない。

ではその基準、「ペット三原則」とはいかなるものか?

ご高覧いただければ幸いである。

原則その一:温厚であること

凶暴な動物など御免こうむりたい、と考えるのは私だけだろうか?

ニホンザルは時々人里に現れては人を襲っているから、決して温厚な動物ではないはずだ。

現に実際にニホンザルの群れを観察していると、しょっちゅうケンカが発生しているから気が短い動物と考えて間違いはない。

ニホンザルに限らず、よく怒る動物は飼っていてきっと疲れるはずだ。

考えてもみよ。いくらペットとはいえ怒っていたら何とかなだめようとするはずで、なぜこちらがそんなに気を使わねばならんのか?

立場わきまえろよ、

と本気で思う。

話は極端にそれるが、家庭内暴力を起こす息子と起こさない息子、どっちがいいだろう?

答えは簡単であろう。

ペットも同様。

外見の如何にかかわらず、少なくとも私は温厚でない動物を可愛いと感じる感性を持っていない。

原則その二:忠実であること

裏切ったり逆らったりする奴は大嫌いだ。

人間だろうが動物だろうがそういう奴は許せない。

よく犬は忠実だが猫は気ままだと言われるから、猫は大嫌いだ。

ハムスターを飼ったことがあるが、ハムスターは恩という概念を理解する知能がなく、いつも餌をやっているにもかかわらず血が出るくらい噛まれたことが何度もあった。

よって、ハムスターは裏切る裏切らない以前の問題だから激しく論外。

やはりペットたるもの飼われているという自覚を有し、

ある程度の敬意と忠誠心を以って飼い主に接することが可能な動物が好ましい。

一方のニホンザルだが、トイレのしつけこそできないとはいえ、日光猿軍団のサルたちのように一旦飼い主と主従関係を築けば忠実になるという本能を有している。

しかし問題があって、これは犬でもそうだが飼い主一家全員に忠誠を誓うわけではなく、主たる飼い主以外の家族の者全員をそれぞれ勝手にランク付けするらしい。

しかも

自分を最底辺に置くという謙虚さは持っておらず、必ず自分より下を作り、その者に対しては不服従を貫いて時に尊大にふるまう。

そういう計算をするのはペットとしてあまりにも可愛げがない。

飼い主たる私同様、私の家族や友人にも同じく敬意を払うべきである。

それにニホンザルは高い知能を有しているというのがどうしても気になるのだ。

人間に例えるなら、

偏差値30くらいのヤバイ奴と偏差値70くらいのヤバイ奴ならば、どっちが怖いだろうか?

やっぱり、ペットはバカすぎず利口すぎないのが好ましい。

その意味から言わせてもらうなら、ニホンザルには犬以上に何を考えているかわからない不気味さを感じるから、疑り深い私はパスしたい。

原則その三:私より強くないこと

他の二つは譲れても、これだけは断固譲れない。

自分より強い動物だけはペットにしてはダメだ。

よく大型犬や、はたまたチンパンジーを飼っている人までいるが、私には信じられない。

その気になったら、こちらを殺すことができる動物なんておっかなくて飼えるものか。

「気持ちが通じ合っているから大丈夫」などと主張する飼い主もいるようだが、それは往々にして人間側の勝手な幻想である。

飼い主の気持ちがペットに分かったとしても、飼い主はペットの気持ちが本当に分かるのだろうか?

言葉が通じないから意見を聞いたり、言いくるめたりすることもできないんだぞ。

もし今機嫌が悪かったら、
実は飼い主である自分にムカついていたら、

などと考えると私ならおちおちしつけもできない。

普段自分に懐いているか懐いていないかは関係がない。

親や子相手でも逆ギレしてついやりすぎちゃった、というのは人間にだってあるのだ。

「やりすぎちゃった」後にいくら反省されても、こちらにとってはもう遅い。

そんな風にこちらがペットの顔色をうかがわなきゃいけないなんて、こちらが飼われているみたいじゃないか。

健全な飼い主・ペット関係とは言い難い。

ニホンザルはオスで体長60cm体重16㎏程度だから、体長169㎝体重68㎏の私がその気になれば勝てる。

だが結構気が荒いし、俊敏でヒットアンドアウェイが可能なあの身体は、飼い主の権威に挑戦する能力を十分に備えている

やはりペットにするには、反抗してきたとしても簡単に制圧可能な動物でなければだめだ。

以上の「ペット三原則」は、飼い主として常に毅然として威厳を持ってペットに接するために必要不可欠な、私的にペット側に求められる特性である。

ペットを溺愛するあまり家族の一員と見做し、自分たちを「飼い主・被飼い主」又は「ペット・被ペット」の関係と表現している者がいたが、私はそんなどっちがどっちだかわからないような関係はお断りだ。

この譲れない三原則以外にもっと贅沢を言えば、「見た目が可愛らしい」「世話が簡単」「放し飼い可能」「逃げ足が遅い」「なんでも食べる(飼い主以外)」「いざとなったら食える」などの条件を加えたいが、そんな私でも飼える動物は販売されているだろうか?

都合よくペットショップを経営する知人がおり、以上の私の条件を伝えて検討と見積りを依頼したところ、即座に以下のような返答があった。

「君に動物を飼う資格はない」

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