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2022年 おもしろ ならず者 悲劇 本当のこと

嫌老青年の主張 ~現代の高齢者は敬われる資格がない~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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私は、某大手運送会社のY運輸で働いていたことは、当ブログで何度も言及している。

アルバイト時代も含めれば、十年以上も勤務してしまった。

まあ正直言って、社会には必要な仕事の一つなのかもしれないが、荷物を仕分けたりするような単純な作業で誰もやりたがらない夜勤だったせいもあるのか、浮世離れした人間が多かった気がする。

勤務していた十年の間に、実に多くの怪人物に出くわしてしまったものだ。

そして、今回ご紹介する加賀雅文も、間違いなくその範疇に入るであろう理由は、極端な屁理屈で理論武装された主義主張と行動原理を有していたからである。

見かけによらない男

加賀は、私と同い年の同学年で、2003年(平成15年)だったその当時28歳。

何年かある大手企業でサラリーマンをやっていたらしいが、その会社を辞めてから、アルバイトとしてY運輸に入ってきた。

パッと見、礼儀正しく、おとなしそうな男である。

働き始めのころは、特に問題を起こすこともなく勤務していたから、あまり目立った印象はない。

しかし、それは二週間ほどで変わることになる。

加賀は、いつも大きな荷物を仕分ける係をやっていたのだが、その日は腰が痛くなったとか言って、一番肉体的負担の軽いベルトコンベアから流れてくる荷物を引き入れる係をやろうとしていた。

我々の部署の班長である新井は放任主義で、人員の配置については、その多くをアルバイト同士の暗黙の了解や話し合いで決めさせている。

そんなこともあって、そこはいつも東野という五十代のおっさんがやることになっていた場所であったが、この日は遅れて来るらしいので空きができていたのだ。

作業が始まって一時間後、東野が出勤して来た。

東野は遅れてきたくせに、いつもの楽な場所をやろうと、そこで作業している加賀に「オイ、交替交替」とか言って、自分に替わらせようとしていた。

このおっさんは、いつもこうだ。

「俺は腰が悪いんだ」とか言って、一番楽なその場所に別の誰かがいると、必ず譲らせようとする。

だが、加賀はその場所を離れようとしない。

東野に何か言われて答えている様子だったが、それが穏やかではない雰囲気に発展していっているのが、遠目からも分かった。

やがて「あ?俺だって腰が痛えんだよ!」とかいう加賀の言葉が聞こえてきて、東野がまた何か言うと、

「今日くらいいいだろ?!」とか「いっつも楽なトコばっかりやってんじゃねーか!!」とか「ふざけんな!同じ給料だぞ!!」とか怒鳴り始めた。

あの大人しそうな加賀とは思えない剣幕で、ドスもかなり効いており、普段偉そうな東野もその迫力に、「いや、その、だからさ…」とか言っててタジタジだ。

さらには、

「体が動かねえなら、いっそのこと家で死んでろ!!!」

とまで言い放った。

やがて班長の新井が飛んできて間に入ったのだが、結局、新参者の加賀は古株の東野に楽な場所を譲らされ、一番きつい元の場所に強制送還されてしまった。

加賀がいなくなると、東野は「なんだあのヤローは?ふざけやがって!」とか、急に威勢がよくなって悪態をつき始めていたが、おさまらない加賀の方は、「年取ってるからって、そりゃおかしいじゃないですか!」とか「不公平ですよ!!」とか、大声で新井に抗議し続けているのが聞こえてきた。

ヒトは見かけによらない、あんな気が荒い奴だとは思わなかった。

私も気を付けよう。

嫌老有理

新人のくせに、曲がりなりにもベテランの東野に反抗するという騒動を起こしたにもかかわらず、加賀はその後も何食わぬ顔で出勤し続け、次の月になるころには職場になじんできた。

また、歳が同じということもあって、私とはよく口を利くようになる。

だが、態度はちっとも穏やかにはならない。

東野に吠えてからしばらくたったある日の作業中には、須藤という東野と同じくらいの年輩のおっさんに対して、「コラ!国民年金払ってやらんぞ!!」とか、ワケの分からんことを怒鳴っていた。

聞けば、大声を出した理由は、須藤が重い荷物の仕分けを「若い人に任せます」とか言って、加賀に押し付けようとしたからだという。

だとしても、ひと回り以上年長の人に、あんな言い方はよくないだろうに。

しかし、加賀は相変わらず「あのオヤジがふざけたこと言うからだ」と聞く耳を持たなかった。

話すようになってすぐに気づいたが、この男はかなり年寄りがお嫌いらしい。

「なんで役に立たんジジババと俺らが同じ給料なんだ」

と、口癖のように言っていたし、なぜか私のことを自分の理解者だと判断したらしく、休憩時間だけでなく帰りの電車の中でも、年長者に関する歪んだ自説を主張し続けていた。

帰り道が途中まで一緒だったので、私は帰りによく捕まって、それを聞かされ続けることになる。

何でも、彼に言わせれば、現代日本の年長者は尊重するに値しないのだそうだ。

加賀によると、まず年長者が年少者から尊重される前提は、多数派の若年人口に対して圧倒的少数派であることだという。

少子高齢化が進み、年長者が多数派になりつつある昨今では、今後ますますこの前提が成り立たなくなる。

そして第二に、年長者の存在意義としては、その豊富な社会経験や知識を有していることだが、それらは昨今の目まぐるしく変化する現代の産業・社会構造の前には、モノの役に立たないことが多いし、その変化についていけないではないか。

つまり存在意義がないばかりか、足手まといですらある。

我々現役世代は、従来の常識も教えも全く通用せず、より複雑でより暗くなる一方の未来に立ち向かわなければならない。

なおかつ、悠々自適を決めこむ多くの高齢者を養うための国民年金を払いながらだ。

彼らのような恵まれた引退後の生活は、絶望的なのにも関わらず。

どちらがどちらを尊重するべきなんだろう?

というようなことを帰りの山手線の電車内で話す時、

28歳の加賀は、いつも優先席にどっかりと座っていた。

本来、そこに座ることができる高齢者が来ても譲る気配は一切なく、恨めしそうにこちらを見てきたら「シッシッ」と追っ払うしぐさをする始末。

優先席には、いつも優先的に座っているのだそうだ。

私はさすがに立っていたが。

さらに、加賀は子供のころから年長者に言われると腹が立って仕方がない言葉があるという。

それは「これからの日本は大変だ」である。

「ろくでもない将来を押し付けられてるみたいじゃねえか!あとは知らねえよ、ってことだろ!?」

あともうひとつ、「今の若い者は恵まれている」と言った年寄りに対しては、殺意を抑えきれないらしい。

「俺たちは、あいつらみたくボーっとした時代を生きてねえんだ、ふざけんな!!」ともよく言っていた。

その二点については、私も確かに理解できなくもないが、電車内でしゃべっているうちにエキサイトしてきたらしく、声が大きくなるのだけは勘弁してくれ。

こちらを振り向く人もチラホラいるんだから。

だが、そんな加賀でも尊重する世代があって、それは第二次世界大戦(加賀は、大東亜戦争と呼んでいた)に従軍した経験のある人たちだ。

結構、右寄りの男でもある。

ただし、尊重すべきは直接戦地に行って戦った経験のある人たちのみに限られ、空襲で逃げ回っていただけの非戦闘員だった連中は認めないとか言ってて、そこは加賀らしい暴論だ。

同時に最も嫌う世代があって、それは戦後の1940年年代後半のベビーブームに生まれた団塊の世代(この当時はまだ50代後半だったが)である。

「アイツらがいるから、日本がおかしくなってきたんだよ!」

どうも、加賀が前の会社を辞めた理由は、団塊世代の上司たちが原因のようだ。

無能で働かず、「もう歳だから」という理由で、こちらにきつい仕事は押し付けてくるは、理不尽な要求はしてくるは、挙句の果てには責任まで押し付けてくるは。

「俺の若い時はこうだった」とか過去の成功体験にしがみついたワケのわからん根性論を振り回し、エクセルやワードも覚えようともしない。

尊敬できる人間は誰一人いやしない、目前に迫った退職までダラダラのんびり過ごすことを決め込んでいるとしか思えなかった。

そのくせ、肩書や給料だけは一丁前に高い!

それに我慢がならなくなり、そのうちの一人を会社で張り倒してしまって退職。

今のアルバイト生活に至ったらしい。

加賀は、そんな生産性の低い奴らが法律に守られてクビにもならず、その役立たずに牛耳られた日本企業は体力を奪われ、結果として国力は衰退して行くのだと主張。

さらに、あと何年もしたら退職した大量の楽隠居が野に放たれ、その後、何十年も福祉に国庫が食われ続けて破滅的状況を招くことになると警鐘を鳴らした。

また、団塊世代が若いころ安保闘争やなんやで好き勝手暴れ、社会の主流となってからは、我が国を間違った方向に導いておきながら逃げ切るのも許せないといきり立つ。

「あのまま、あいつら団塊世代を生かしといたら、日本はまずいぜ!今のうちに半分くらい殺処分するべきだ!!」

いくら個人的な恨みがあるからってそりゃ言い過ぎだろが。

しかも電車の中でそんな大声で。

こいつは右翼どころか、ファシストだ。いや、紅衛兵に近いのかもしれん。

それに、私の両親もお前が言うところの団塊の世代だぞ。

お前は私の両親も殺す気か?

しかし加賀も、「俺の両親だってどちらとも昭和23年生まれでどんぴしゃり団塊だ」とさらりと答えた。

だったら、まずはお前が率先して自分の両親を…、

というブーメランはさすがの私も返すことはできなかったが。

これから高齢者になる者の心構え

「でもさ、上の世代の働きで今の日本があるわけだろ?」などと私が言おうものなら、

「じゃあ、これから先はどうなんだ?今までの功績があるからって、これからは足を引っ張ってもいいってか?」

「だいたい、あいつら一番いい時に生まれただけじゃねえか。あいつらが偉いわけじゃねえ!」

「本当に偉いのは、これからどんどんやばくなる日本で生きなきゃいけねえ俺たちだろ!」

と、数倍の反論が返って来た。

ムチャクチャとはいえ、加賀が年寄りに冷たいのには彼なりの理由があるようだが、一つ重要なことを忘れてる。

それは、「我々も年をとる」ということだ。

爺さんになってから、若い世代に冷たくされたらどう思うんだ?

対する加賀は顔色を変えることなく、「間違いなくされるに決まっているだろう!」と断言。

それどころか、今の若い奴ほど年寄りに親切じゃないはずで、「いつまで生きてるんだ」と、迫害を受けるだろうとも予測していた。

自分たちが高齢者になったら下の世代からゴミ扱いされると達観しているようなのだ。

そして、

「どうせ親切にされないなら、俺たちだって親切にする必要はない」

と力説し、

「罰を受けるなら、好いことやって受けるより、悪いことやって受けた方がマシだ!」

と唸り出したところで、我々の乗る山の手線は新宿駅に到達した。

運がいい。

私はここで降りて小田急線へ、奴はこのまま乗って大塚までだ。

今日は、とりあえずこれ以上とち狂った話を聞かずに済みそうである。

とは言え、考えてみれば加賀の予測どおり、我々が高齢者になった時は、下の世代からの冷遇という過酷な余生が待っていることは間違いなさそうで、彼はそれを覚悟の上であることは何となく理解できる。

暴論とはいえ、少なくとも一本筋は通っているような気がした。

だが、それは私の誤解であったことが、後日すぐに分かることになる。

その日、私はY運輸に出勤してタイムカードを押してから現場に向かうと、人だかりができて騒がしくなっていた。

時々怒声が聞こえるから、誰かがモメているらしい。

「誰と誰がもめてんだ?」と思って近寄ってみたら、もめてる片方はあの加賀ではないか!

今度の相手は、夜10時までの夕勤アルバイトの高校生風の若者で、意外と腕力のある加賀は、若者の胸倉をつかんで押し倒している。

そして例のごとく、ドスを効かせて大声でこう凄んでいた。

「コラ!!ガキのくせにさっきのナメた口のきき方は何だ!?俺が年上だと知ってて言いやがったのか!!」

年長者を尊重する必要はないとか言っときながら、年少者に軽んじられるのは我慢がならないらしい。

単なるならず者であった。

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2022年 おもしろ ゾウ ならず者 事件 事件簿 動物 悲劇 昭和 無念

ゾウを犯そうとした男

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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1956年(昭和31年)のある日曜日、東京都武蔵野市の都立動物園である井の頭自然文化園に一人の中年の男が現れた。

彼はひととおり動物を見て回った後で向かったのは、ゾウが飼われているエリア。

当時、このゾウのエリアにいたのは、メスのアジアゾウである「はな子(9歳半)」一頭である。

ゾウのはな子

「はな子」は1949年(昭和24年)、戦後初めて日本に来たゾウであり、当初、恩賜上野動物園で飼育されていたが、1954年(昭和29年)になってから同井の頭自然文化園に移され、同園の看板動物の一頭として人気を集めていた。

「はな子」は、閉園時間にはゾウ舎に入れられているが、開園時間になると外の運動場に足を鎖でつながれた状態で出されて、来園客に披露される。

運動場の前面は安全対策として空堀で囲まれ、客は空堀を隔てた柵の向こう側から、その姿を見学することになっていた。

くだんの男もその客たちの中に混じり、熱心なまなざしで「はな子」の体重約2トンの巨体を眺めている。

この男の名は五十嵐忠一(仮名、44歳)。

機械工具製造会社で外交員を務めており、妻と中学三年生の長男をはじめとする五人の子供がいる(当時としては特に子だくさんではない)。

五十嵐は動物が好きだった。

自宅が近いこともあって、今日のように日曜日はほとんど井の頭自然文化園に足を運んでいたという。

だが、「好き」と言っても、彼の場合は普通ではない「好き」だったようだ。

現に五十嵐は、一般の来園者のものとは明らかに異なった眼差しで「はな子」を見つめている。

そして、見ているだけでは満足できなかった。

空堀で死んでいた男

1956年6月14日午前7時半ごろ。

朝の見回りでゾウ舎にやってきた同井の頭自然文化園の飼育主任・蒲山武(仮名、40歳)が、ゾウ舎入り口のカギが外されているのを発見した。

「なんだこりゃ?」

怪しいと思った蒲山が中に入ると、「はな子」の足元に散らばるのはシャツや手提げカバン。

さらに、その向こうのゾウ舎と観覧場所を隔てる深さ約2メートルの空堀をのぞくと、何と男性が倒れているではないか。

男は洋服がビリビリに破れており、その体はピクリとも動かない。

やがて連絡により駆け付けた最寄りの武蔵野署の署員により、男の死亡が確認される。

死体は胸骨と肋骨がバキバキに折れてペシャンコと言ってもよく、胸にゾウの足跡がくっきりと残っていた。

状況から見て、ゾウの「はな子」に踏み殺されたのは間違いない。

そして、その変わり果てた姿となっていたのは、毎週のように井の頭自然文化園を訪れていた、あの五十嵐忠一だった。

招かれざる来園者

五十嵐忠一(仮名)

生前の五十嵐の写真を見たならば、その外交員という職業柄もあって真面目かつ知的そうな面相をしており、特に悪い印象を持たれることはないであろう。

そして動物好きでもあり、井の頭自然文化園の常連客だった。

だが、彼に対する同園の職員の評判は、決して芳しくはない。

なぜなら言っちゃ悪いが、この男は野獣、いや野獣以下と言わざるを得ない悪癖を持っており、職員もそれを知っていたからである。

それは、たびたび夜中に同園に侵入しては、飼育されている動物を犯していたことだ。

午前9時から午後5時までの開園時間内に、正規の来園者として訪れるならまだしも、閉園時間になると動物とおぞましい「ふれあい」を、強行しに忍び込んでいたのである。

後の調べで、事故当日の朝5時ごろ園内をぶらぶらしていた五十嵐を、敷地内の職員住宅に住む職員の家族が目撃していたことがわかった。

そんな招かれざる来園者だった五十嵐は、何度か職員に捕まって注意を受けたことがあり、警察に取り調べを受けたことすらあった。

にもかかわらず懲りることはなく、今度は「はな子」を「制覇」しようとした結果、返り討ちにあってしまったのだ。

彼がそのような性癖を持つにいたったのは、戦争が原因だったのではないかと、その人となりを知る人は後に証言している。

若いころ外地の戦場へ出征した経験のある彼は、戦地で性欲を処理するためにニワトリや豚を相手にしていたらしい。

そしてそれは帰還して妻を娶り、5人もの子宝に恵まれた後も矯正されることはなかったのだ。

彼も戦争の犠牲者だったのかもしれない。

それにしても、この昭和31年当時の新聞はコンプライアンスもプライバシー保護もあったもんじゃない。

哀れ五十嵐は顔写真に実名、勤め先や住所まで報道され、ある新聞においてはその見出しに「忍び込んだ変質外交員」という枕詞まで付される始末。

いくら自業自得とはいえ、これでは気の毒すぎるではないか。

その後

この事故で死んだ五十嵐の不法侵入は明らかであり、閉園中でもあったために、井の頭自然文化園側に落ち度はないとされた。

また、「はな子」がこれによって危険極まりない動物とされて殺処分されることもなく、そのまま飼育が続けられた。

だが4年後の1960年に、今度は飼育員を踏み殺す事故を起こしてしまう。

これには「殺人ゾウ」の烙印を押されてしまい、「はな子」の殺処分も検討される事態となった。

結局、処分は免れたが、来園客から石を投げられたこともあり、ストレスなどからやせ細ったこともあったらしい。

そんな「はな子」も昭和、平成と時代が進んで21世紀を迎えても井の頭自然文化園で飼われ続け、2016年(平成28年)5月26日、ゾウとしては高齢の69歳で天寿を全うした。

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2022年 CCNP Enterprise Cisco DDNS コマンド コンピューター ルーティング 技術一般 認定資格

Cisco ルーターでダイナミック DNS を使う

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自宅のインターネットルーターで Cisco 891F を使用していて、ダイナミック DNS が使いたかったので、設定をまとめてみました。

ちなみに、私が契約しているダイナミック DNS は、Dyndns です。

インターネット上の DNS サーバーを参照できるようにします。

  • ip dns server: DNS サーバー参照を有効化
  • ip name-server: 参照する DNS サーバーの IPアドレス
C892-02# configure terminal
C892-02(config)# ip dns server
C892-02(config)# ip name-server 4.2.2.6

DDNS の設定を入れていきます。

  • ip ddns update method: 契約している DDNS のサービス
  • http: HTTP を使用して更新

この例では、Dyndnsをサービスとして使っています。

C892-02(config)#ip ddns update method DynDNS
C892-02(DDNS-update-method)#http

次に、Dyndns で契約しているサービスのアカウント情報を指定します。Dyndns の場合、構文は以下の内容になります。

https://username:password@members.dyndns.org/nic/update?system=dyndns&hostname=&myip=

C892-02(DDNS-HTTP)# add http://kkinternational:pass-kk@members.dyndns.org/nic/update?system=dyndns&hostname=<h>&myip=<a>

次に、アップデートのインターバルを指定します。

  • interval maximum: DDNS の更新間隔

日 時間 分 秒 の順になります。以下の例だと 5分毎という指定です。このインターバルは時間が短すぎると、サービスによっては拒否されますので、適当な長さで指定した方が良いです。

C892-02(DDNS-HTTP)# interval maximum 0 0 5 0

これで、ダイナミック DNS の設定は完了です。

DDNS として No-IP を使用している場合、こちらが参考になります。

最後に、この設定をインターネットに面しているインターフェースに適用していきます。

  • ip ddns update hostname: 契約している DDNS のホスト名
  • ip ddns update: 契約しているサービス名
C892-02(DDNS-update-method)# interface dialer0
C892-02(config-if)# ip ddns update hostname kkinternational.dyndns.org
C892-02(config-if)# ip ddns update dyndns
C892-02(config-if)# ip address dhcp

動作確認には、このデバッグコマンドが使えます。

C892-02#debug ip ddns update 
Dynamic DNS debugging is on

この設定を使って、リモートからの IPSec VPN 接続を行おうと設定をしています。こちらの設定についても、まとめたら公開していきたいと思います。

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2022年 事件 事件簿 北米

ノースハリウッド銀行強盗事件(North Hollywood shootout)~合衆国犯罪史上最大級、発射弾数約2000発の大規模銃撃戦~

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1997年2月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノース・ハリウッドが戦場と化した。

この地のバンク・オブ・アメリカ・ノースハリウッド支店に押し入った二人組の銀行強盗と駆け付けた警官隊との間で、大規模な銃撃戦が発生したのだ。

犯罪者と警官との銃撃戦は、銃犯罪が横行する合衆国において珍しくないのは知られているところだが、この銀行強盗はただ者ではなかった。

犯歴を重ねたプロの強盗であるだけでなく、全身を自家製防弾着で包み、違法に改造された複数の自動火器と豊富な弾薬で重武装していたからだ。

犯人たちは全自動で銃を乱射し、拳銃やショットガンで応戦する警官隊を圧倒。

この模様は、テレビによって全米にも大々的に生中継され、約44分間続いたこの銃撃戦は犯人二人が死亡して幕を閉じたが、警官12人と市民8人が負傷。

発射された弾丸は、双方合わせて約2000発という合衆国の犯罪史上でも最大級の銃撃戦となった。

犯人と事件に至るまでの経緯

この事件の犯人は、ラリー・ユージン・フィリップスJr.とエミール・デクバル・マタサレヌである。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.(以下、フィリップス)は1970年9月20日生まれ、既婚者で二児の父。

幼少時より母親に射撃場に連れていかれたために銃に親しんで育ち、成人してからは不動産のセールスマンをしていたが、1989年ころから不動産詐欺や窃盗などの犯罪行為に手を染めていた。

ラリー・ユージン・フィリップスJr.

エミール・デクバル・マタサレヌ(以下、マタサレヌ)は、1966年7月19日にルーマニアで生まれた。

母親は精神病院を経営していたが、幼少時に入院している患者に襲われて負傷。

それが原因かは不明だが、粗暴な性格になっていったらしい。

しかし成長後は、電気技師の資格を取って自営業を営むなどまっとうな道を歩んではいたが、その事業はあまりうまくいかなかったようだ。

エミール・デクバル・マタサレヌ

そんな二人が出会ったのは1989年、ロサンゼルスのゴールドジム。

両人とも体を鍛えるのが趣味で、銃器が好きだったこともあって意気投合したらしい。

だが、この出会いは両人以外にとっては、あまり好ましいものではなかった。

むしろ最悪、後につるんで武装強盗を重ねるようになっていったからである。

1993年7月20日、フィリップスとマタサレヌは、コロラド州リトルトンで現金輸送車を強奪。

同年10月29日、スピード違反で検挙された際に車内から、銃器と大量の実弾などが見つかったことで逮捕されるが、100日間の服役と3年間の保護観察で済んだ。

逮捕されても全く反省する気のない二人は、1995年6月14日、ロサンゼルスのウィネトカで再び現金輸送車を襲撃、この際は警備員1名を殺害し、もう1名に重傷を負わせる。

1996年5月には同じくロサンゼルスで二回にわたり銀行強盗を行い、150万ドルを強奪した。

実際の犯行の模様

これらの犯行により、ノースハリウッドの事件前までには、二人とも危険極まりない凶悪犯として警察にマークされるようになる。

そして、これほどの犯行を行って大金をせしめたにも関わらず、彼らは満足しなかった。

さらなるあぶく銭を得ようと、次なる悪事の準備を開始する。

犯行に向けた準備

次なるターゲットとしたのは、ロサンゼルス市のバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店だ。

この銀行はハイウェイにも近く、逃走しやすい場所にあった。

二人は数か月にわたる入念な下見と偵察と並行して、稼いだ金を元手に、犯行に使う武器弾薬や装備の調達に動く。

そして、用意した武装はハンパではない。

中国北方工業公司(ノリンコ)製の56式自動小銃S型(AK-47III型のコピー)が二丁に、同じく中国製の56式自動小銃S-1型、ブッシュマスターXM15、HK91といずれも自動火器であり、56式自動小銃S-1型とXM15は違法改造を施して、全自動射撃が可能になっていた。

56式自動小銃
ブッシュマスターXM15
HK91
ベレッタ92FS

フィリップスは、それ以外にもベレッタ92FSピストルを装備する。

彼らには犯歴があったため、いくらアメリカでも、こんなシロモノを銃砲店で堂々購入できないが、どっぷり裏社会の住人である二人ならば、闇市場で手に入れるのはたやすいことだった。

買い集めた弾薬も膨大で約3300発、それもパトカーも貫通する被覆鋼弾(フルメタルジャケット)だ。

しかも弾丸を装填するマガジンとして、56式自動小銃用に75発入りドラムマガジンを、XM15用には100発入りドラムマガジンを準備した。

攻撃だけではなく防御にも凝っている。

銃撃されることも想定して、ケプラー製の防弾性能IIIAの防弾チョッキを縫い合わせて胴体だけでなく、肩や手足をも防護できる手製の全身防弾着を作り上げていた。

ちなみに、IIIAの防弾チョッキは9ミリ弾だけでなく、44マグナム弾をも防ぐことができる。

両人が付けていた自家製防弾着
両人が付けていた自家製防弾着

行き先が戦場だったとしても、この装備はやりすぎなくらいであったが、実際の現場では大いに威力を発揮することになる。

もちろん、犯行に使った車や武器を焼却して証拠を隠滅するために、ガソリンを準備することも忘れない。

そして、決行日は2月28日とした。

この日は給料日が近いために客で混雑し、銀行側のセキュリティーにも余裕がないと踏んでいたからだ。

こうして、プロの犯罪者だったとしても入念すぎるほどの準備をした彼らは、その決行の日を迎えた。

同時に、それは彼らの命日にもなるのだが。

銀行襲撃

バンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店

1997年2月28日、午前9時17分。

全身防弾着に身を包んで重武装したフィリップスとマタサレヌが白いシボレーに乗って、営業時間になったばかりのバンク・オブ・アメリカノースハリウッド支店に現れた。

決行の前に二人は、精神を落ち着かせるために鎮痛剤を服用。

手袋に縫い付けた腕時計を8分間が経過したら、アラームが鳴るように設定した。

これは、犯行を8分以内に終わらせるためである。

彼らは事前に警察無線を盗聴し、通報により警察が駆け付けるまでに、最低でも8分かかることを突き止めていたのだ。

準備は万端、あとは決行あるのみ。

フィリップスとマタサレヌは、覆面をかぶり56式自動小銃を構えて、正面玄関から堂々行内に侵入する。

だが、外では彼らにとって、極めて不運なことが起こっていた。

偶然にもパトロール中のパトカーが近くを通りかかり、車内の警官が、銀行に入っていく彼らを目撃していたのである。

覆面をかぶって自動小銃を持った二人が、融資の相談や預金の引き出しに訪れた客であるはずはない。

警官は、無線で大至急の応援を要請する。

一方、そうとは気づかない二人は、銀行内で手際よく犯行を行っていた。

マタサレヌは56式を全自動で天井に向けてぶっぱなし、フィリップスは、”This is a fucking hold up!”と吠え、客や行員に銃を向けて脅し上げる。

フィリップスはさらに、ロビーと出納係のいるスペースとの防弾通用門を56式の一連射で破壊すると中に侵入、アシスタントマネージャーを脅して、金庫の扉を開けさせるのに成功した。

犯行の模様

しかし、実際にあった金は、予想していた75万ドルに遠く及ばない303305ドル。

現金の配送スケジュールが変更されて、まだ届いていなかったのだ。

フィリップスは、腹立ちまぎれに金庫に向けて56式を連射して蜂の巣にする。

埋め合わせにATMから金を奪おうとしたが、これもうまくいかない。

だが、たった303305ドルでも、ないよりはマシだ。

アシスタントマネージャーに現金を持参してきたバッグに詰めさせると、人質となっていた客や行員約40名を金庫室に閉じ込めて撤収を開始する。

セットしていたアラームが鳴った午前9時25分ごろ、フィリップスがノースハリウッド支店の北側から、マタサレヌはが南側出入口を出た。

しかし、そこで彼らは唖然とすることになる。

最初に発見した警官の応援要請によりパトカーがすでに十数台到着し、50名余りの警官がこちらに銃を構えていたからだ。

並みの強盗だったら、ここで「万事休す」であったことだろう。

だが彼らは違った。

大銃撃戦

こちらに銃を向ける警官たちに向けて、フィリップスの56式が火を吹いた。

発砲するフィリップス

弾は被覆鋼弾で、パトカーを貫通して警官たちを負傷させる。

警官隊も応戦したが、こちらはベレッタ92Fやスミス&ウェッソン等の拳銃やイサカ37といった散弾銃。

いくら大勢いても軍用の突撃銃である56式の敵ではなく、弾幕を張られて、顔を出すこともできない。

75発入りのドラムマガジンなので、銃撃はなかなか途切れないのだ。

フィリップスはこの時、地上の警官だけではなく上空を旋回する警察のヘリコプターをも銃撃した。

この銃撃で警官7人と、巻き添えで民間人が3人負傷する。

死者が出なかったのは、弾丸が被覆鋼弾なので、通常の弾丸のように人体内で変形して止まることはなく貫通したからだと言われる。

パトカーや警官の配置及び銃撃戦の見取り図

フィリップスは一旦銀行内に戻った後、マタサレヌと合流。

金を持って退散しようとしたが、札束の中に特殊なインクを飛散させて紙幣を証拠品化する防犯装置が密かに仕込まれており、金が台無しになっていたのに気づく。

せっかく苦労して手に入れたのに!

これで癇癪を起したのだろうか、金を放棄して外へ出た二人は、立ちはだかるパトカーに向けて56式をぶっ放した。

フィリップスとマタサレヌ

警官隊も発砲したが、拳銃や散弾銃は遠距離射撃での精度が低かった上に、二人とも全身防弾着を着用しているので、いくら命中させても倒れやしない。

防弾性能IIIAだと、9ミリ弾や散弾を十分防ぐことができるからだ。

警官が数発撃つと、彼らはその数倍以上撃ち返してくる有様で、完全に火力で圧倒されていた。

武装での不利を悟った警官隊のうち数名が、劣勢を挽回すべく、近所の銃砲店から軍用火器の調達に走ったが、これは結果的に事件の解決に間に合うことはなかった。

次々応援に駆け付ける警察を見たマタサレヌは、逃走に移ろうと、駐車場に停めた自分たちの車に向かう。

銃撃を続けていたフィリップスだったが、この時警官の放った弾丸が、56式の機関部に命中して壊れてしまった。

 

その直後、頃合いよくマタサレヌの乗る車が近くに来たので、車のトランクから予備に持ってきたHK91に換えて銃撃を再開するが、これも被弾により破壊されたため、もう一丁の56式を取り出す。

フィリップスはマタサレヌに車をゆっくり運転させ、それを遮蔽物にして銃撃を始めた。

この頃には、現場にはテレビ局のレポーターやスタッフも駆け付けてきて、アメリカでも前代未聞のこの銃撃戦をレポートし始めており、上空のへリは犯人から銃撃を加えられながらも、その模様を撮影している。

二人は、そのまま一緒に逃走するのは危険と判断したのだろうか、やがてフィリップスは徒歩で、マタサレヌは車で、それぞれ分かれて逃走を図り始めた。

犯人の最後

銃撃しながら逃げるフィリップス

徒歩のフィリップスは56式を乱射しながら逃走を続け、追撃する警官隊も銃撃を浴びせる。

彼は全身を覆う特製防弾着を着てきたが、全くダメージがなかったわけではない。

テレビ中継された映像から、たびたび被弾したと思われる際に、痛みを感じているようなそぶりを見せているのが分かるからだ。

また、完全に弾丸を防ぐわけでもなかった。

この時警官の撃った9ミリ弾が右肩の防弾着と防弾着を縫い合わせた部分に命中して負傷、左手首にも弾丸を食らう。

悪いことに、56式も弾詰まりを起こして作動しなくなった。

フィリップスは56式を捨てて、予備に持ってきたベレッタを取り出して反撃を試みるが、これでは威力が弱すぎる。

弾も次から次へと命中するし、ベレッタの残りの弾数もあとわずかとなってきた。

今度こそ終わりである。

だが、彼は降伏を選ばなかった。

右手を撃たれて一旦落とした拳銃を拾うと、それをあごの下に当てるや引き金を引いて自分の頭を撃ち抜き、崩れ落ちた。

逮捕されるより死を選んだのだ。

一方のマタサレヌは乗っている車のタイヤを撃ち抜かれており、ちょうど対面からやってきたピックアップトラックを奪おうとしていた。

うまいことに、ピックアップトラックの運転手は逃げ出したので、マタサレヌはそこへ武器と弾薬を移し替える。

しかし、運転席に座って発車しようとしたが、エンジンがかからない。

トラックの運転手は逃げる際に、エンジンが動かなくなるキルスイッチを作動させていたからだ。

さらに、そこへパトカーがやってきた。

今度は一般の警官ではなく、特殊部隊のSWAT隊員が乗っている。

装備もAR-15なので火力で負けはしない。

SWATから銃撃されたマタサレヌは、急いでピックアップトラックを降りると、それまで乗っていたシボレーのフロント部分に回って、ブッシュマスターXM15で反撃。

フロントガラス越しに全自動でXM15をぶっ放し、至近距離での自動火器同士の銃撃戦となる。

SWATとマタサレヌの銃撃戦
SWATとマタサレヌの銃撃戦

しかし、SWAT隊員の一人が車の下からマタサレヌの足めがけてAR-15を撃ち、これが防弾チョッキで保護されていない足に複数発命中。

これには、さすがのマタサレヌも戦意を喪失し、銃を捨てて手を挙げた。

拘束されたマタサレヌ

こうして、約44分間続いた銃撃戦はようやく幕を閉じたが、救急車の到着が遅れたためにマタサレヌは足の銃創からの出血多量で死亡してしまった。

その後

この事件では、犯人以外に死者こそ出なかったものの、警官12人と市民8人も負傷。

犯人側が1100発以上、警官側が650発以上発砲するという戦場のような規模の銃撃戦となった。

合衆国の犯罪史上でも他に類を見ないほどのすさまじさであったため、社会にかなりのインパクトを与えたようだ。

その後、事件を元にした映画も何本か作られている。

ちなみに、事件が起こる二年前にロバート・デニーロ、アル・パチーノが共演した映画『ヒート』において、自動火器で武装した銀行強盗が拳銃やショットガンを装備した警官隊を圧倒するシーンがあったが、まさにそれのリアル版となってしまった感がある。

事実、後の捜索で彼らのアジトから『ヒート』のビデオテープが見つかったというから、ある程度参考にしていた可能性は高い。

もちろん合衆国各地の警察にも影響を与えた。

ノースハリウッドの事件で火力が不足したばかりに、ここまでの規模になってしまった教訓から、警官の装備の見直しが図られたのだ。

以降、各パトロール隊にはAR-15セミオートマチックライフルを装備した隊員、パトロールライフルオフィサー(PRO)が加わるようになった。

そして現在、カリフォルニア州ロサンゼルスのハイランドパークにあるロサンゼルス警察博物館には、二人の犯人の等身大のマネキンに実際に付けていた防弾着を着せ、同じく装備していた武器や乗ってきたシボレー、弾痕の残るパトカーなどが展示されて、事件の詳細を生々しく今に伝えている。

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2022年 ならず者 昭和 歴史 海賊

戦後の瀬戸内海賊(パイレーツ・オブ・セトウチアン)

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瀬戸内海には、かつて海賊が出没していた。

といっても、歴史に詳しい人ならばご存じであろう平安時代に反乱を起こした藤原純友の一党や安土桃山時代まで活躍していた村上水軍のことではない。

現代にほど近い、戦後間もない1940年代後半の話である。

それは、『海賊と呼ばれた男』みたいな大げさな比喩とか形容ではない。

航行する船舶や陸上の倉庫などを武装して襲い略奪するという、海賊行為以外の何者でもない犯行を行う、ガチなホンモノたちのことだ。

無法状態だった戦後の瀬戸内海

終戦から三年余り、昭和23年ごろの日本はまだ食糧難にあえいでおり、日用品などの生活物資の欠乏も深刻だった。

当然治安は乱れ、日本各地では武装して公然と公権力に立ち向かい、違法行為を繰り返す第三国人の集団や愚連隊の類が跳梁跋扈している有様であったことはよく知られている。

戦前より国立公園に指定され、風光明媚なことで知られる瀬戸内海一帯でも例外ではなく、陸の上に勝るとも劣らぬ無警察地帯と化していた。

この年、警察制度の改革により海の安全を守るべく海上保安庁が発足していたが、その整備が整っていなかったのも大きい。

広い瀬戸内海全体の保安を担当する職員も監視船も絶望的に足りず、なけなしの船を使った海上巡視も形ばかりという有様では取り締まれ、と言う方が無理だったのだ。

おかげで、瀬戸内海では朝鮮半島との密輸やダイナマイトを使った密漁などの違法行為が横行、法秩序が崩壊していた。

だが、その程度の連中は、まだ安全な部類であったといえよう。

戦後の瀬戸内海で形成された悪の生態系の中では末端か、それより少し上の方に過ぎなかったからである。

その生態系の頂上には、彼ら密輸業者や密漁者すら捕食する本当に危険な存在がいた。

それは海賊だ。

海賊の被害

当時の新聞報道によると、海賊による被害は昭和23年(1948年)の12月ごろから目立ち始めた。

同年12月19日に香川県仲多度郡の高見島、岡山県児島市味野町の専売局出張所が襲撃を受けて大量のタバコが強奪され、翌昭和24年(1949年)1月20日には香川県香川郡の喜兵衛島、1月29日に香川県三豊郡粟島、2月1日には岡山県児島郡の石島と、矢継ぎ早に海賊団による強盗被害が報告された。

陸上の倉庫などの施設が狙われ、深夜に発動機付き漁船で乗り付けてきた賊は4、5人ほどで日本刀やピストル、ダイナマイトで武装しており、金品の他にも衣類や食料品、日用品一切合切を奪い去っていくという。

もちろん洋上を航行する船も主なターゲットである。

2月4日、岡山県邑久群牛窓町沖で石炭輸送船の第十和喜丸(300トン)が海賊船に襲われ、積み荷をはじめ船内の物品が強奪された。

船長以下乗組員7人を縛り上げると引き上げる際に船の機関を破壊、おかげで同船は三日間も洋上を漂う羽目になる。

被害にあった船員たちの証言によると、賊は総勢8人で全員30歳前後、ボスと思しき者だけが上等な洋服に身を包んでいたが、残りは漁師風の風体であり、引き揚げる前に人員の点呼を行って残留者がいないことを確かめた後に

「わしらは国際海賊団じゃ。30人くらい若いモンがおるけえのう」

などと自慢げに捨て台詞を吐いていた。

その言葉どおり、2人ほど朝鮮人と思しき賊も交じっていたようだ。

ちなみにこの第十和喜丸は三日後、今度は淡路島近辺で別の海賊に再度襲撃されている。

この際は白塗りの怪漁船に横付けされて3人の海賊が乗り込んできたが、積み荷の石炭に石灰をふりかけていたために、賊は商品価値の低い石灰と誤認。

何も奪うことなく逃走した。

海賊の正体

まだ陣容の整わなかった海上保安庁はこれらの事件の犯人をすぐに検挙することはできなかったが、これらの襲撃地点から考えて、海賊が塩飽諸島を中心とした海上東西約60キロ、南北約10キロを行動圏とし、その圏内に根拠地があると推測。

塩飽諸島

事実、推測された圏内にある香川県の綾歌郡や塩飽諸島の村々では、海賊行為が頻発した時期に見かけない顔の荒くれ者たちが現れたという情報が寄せられていた。

彼らはガラが悪く、なおかつピストルや短刀をこれ見よがしに持っていたり、船に乗って出かけて帰ってきた際には多くの物品を積み荷にしていたという。

また、塩飽諸島ではそれらの者たちが島内の青年に「一仕事で4万か5万は儲かるけえ」などとなんらかの勧誘をしていたのが目撃されていた。

これらの情報をもとにして、陸上での捜査を開始した警察は3月3日、一味の幹部クラスらしき男らを逮捕。

逮捕されたのは丸山某をはじめ9人で、丸山は表向き青果物の商売をしていたが、海賊十人ほどを率いる小ボスであり暴力団関係者。

そして彼らの供述から、海賊団の組織力と恐るべき実態が明らかになった。

丸山の属する海賊の本拠地は大阪にあったが、総元締めの1人は香川県仏生町に住み、高松・丸亀・観音寺に支部を置いて5人の貸元と呼ばれる頭目が指揮を執っている。

そしてその子分たるや総勢2000人余りもいたのだ。

構成員は、ばくち打ちなどの遊び人やならず者の他に、副業感覚で参加する会社員・百姓・大工・漁師など正業に就いている者も大勢いた。

つい数年前までは戦争中で、兵隊にとられて各地で戦場を経験した男たちもこの当時は、まだ二十代か三十代で血気盛ん。

人を殺したことがある者も多かったはずだ。

そんな度胸も据わった若き猛者が掃いて捨てるほどいて、なおかつ多くが生活に困っていたんだから人材にはこと欠かない。

彼らは命令があると出動する態勢をとっており、仕事のたびにお互い顔も名前も知らない者と組まされることが多かったらしい。

ターゲットとなる標的を探知する情報網は強大で、いつどの船が何を積んでどこへ行くか、どこのどの倉庫に何がどれだけあるか、また荷主がどのような人間かも総元締めや貸元に逐一情報が入っていた。

それまでの被害総額は当時の金額で3000万円以上だったらしいが、やましい方法や目的で入手した物品を奪われた荷主も多かったはずなので、これをはるかに上回っていたことは間違いない。

また、奪った物品をさばくルートも確立しており、運送会社の社員まで抱き込んで盗品を輸送していたようだ。

一方、岡山県側にも総元締めとされる者がおり、これも別件で逮捕されていた。

逮捕されたのはミシン加工業を営む山本某で、それまで違法な方法で財をなしてきた男である。

山本は盗品の中に衣類があると、自身の工場で加工して売りさばいてもいた。

どうやら海賊団は、このような財力を持った「ヤミ成金」が資金力にモノを言わせて組織したらしいことが判明する。

彼らはそれぞれ小規模な実行部隊に分かれて海賊行為を行い、それらの部隊は戦果の一割を上部に上納して残りを山分けするシステムだったのだ。

そしてこの海賊団は事実上の暴力団であり、しかも武闘派。

一度逮捕された仲間を警察から力ずくで奪回したこともあった。

規律も厳格で、密告しようものなら海に放り込まれて魚の餌だったし、ヘマをすれば指詰めを強いられいたために指のない者が多かったという。

よって、当時の報道によると逮捕されて洗いざらいしゃべってしまった丸山は「シャバに出たら腕の一本は落とされるだろう」と警察でおびえていたことも報道されている。

瀬戸内の海賊はその後、海上保安庁の整備が進んで取り締まりが強化されると同時に巷で物資が出回るようになってから消えていった。

戦後の数年間は、生きるのに精いっぱいなあまりサバイバル力を暴走させて一線を大きく超える者がハバを利かせた時代だったのだ。

出典元―中国新聞、毎日新聞

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新幹線の食堂車での思い出 =終生忘れ得ぬこの無念

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かつて東海道・山陽新幹線の「ひかり」には食堂車があった。

覚えている方も多いことだろう。

この食堂車は1974年、博多駅開業目前に登場して以来、最盛期には全ての「ひかり」に編成されて営業をしていたが、後に新幹線のスピードアップにより、乗車時間が短縮されたと同時に利用率が低下。

これを踏まえたJR各社が不要と判断した結果、2000年に営業を終了した。

この新幹線の食堂車をリアルに見たことがある人の中で、一度はそこで食事をしてみたいと思った方も多いはずだ。

まだ食堂車が全ての0系新幹線の「ひかり」にあったころに小学生だった私もその一人である。

そしてある日、その夢の食堂車で食事するチャンスに恵まれた。

だが、それは2022年の現在になっても忘れられない、無念極まる思い出となった。

あこがれの食堂車

岡山県に母方の伯母一家が住んでおり、盆暮れには新幹線に乗って私の住む岐阜県の祖父母の家に帰省していた。

そして岡山に帰る際、祖父母と私の家はよく新幹線の岐阜羽島駅のホームまで見送りに行ったものだが、たびたび食堂車を伴った「ひかり」によく出くわした。

私が小学生だった時代の新幹線はだいたい0系であり、食堂車は後に登場する100系新幹線に連結された電車二階建ての168形ではなく、36形食堂車である。

36形食堂車
168形食堂車

「ひかり」が岐阜羽島駅に入ってきて停車し、食堂車が通り過ぎると、何とも言えないいい匂いがしたものだ。

特急列車が好きだった当時の私にとっては問答無用であこがれの車両である。

是が非でもそこで食事をしたいと、しょっちゅう両親にせがんでいた。

しかし、夫婦そろって出不精な両親は、たまにしか行かない家族旅行も100キロ圏内だったし、いつも車を利用していたために食堂車どころか新幹線にもなかなか乗れなかった。

子供心に「大人になってからにしよう」と半ばあきらめかけてもいたが、持続的な強い願いは時に運命をも動かす。

食堂車で食事ができる絶好のチャンスが訪れたのである。

夢の食堂車

新幹線の食堂車

それは小学校四年生の春休み、今から37年前の1985年のことだ。

いつも岡山から岐阜に来るだけだった伯母一家が、「たまにはうちに遊びに来て」と誘ってくれたため、私の一家は重い腰を上げて岡山まで新幹線「ひかり」で行くことになったのである。

岐阜羽島駅から岡山駅までは300km以上の距離があり、当時の「ひかり」でも二時間はかかる。

食堂車を利用する時間は十分あるではないか。

両親はあまり乗り気じゃなかったが、だだをこねまくって、当日は食堂車に行くことを約束させることに成功した。

ようやく夢がかなう!

私は伯母の家に行って従兄妹たちに会うよりずっと食堂車の方が楽しみだった。

岡山に向かうその日、岐阜羽島駅までの道中では、二歳年下の弟と、食堂車で何を食おうかそればかり話をしていたものである。

このころから何かと気が合わない弟だったが、食堂車は奴にとっても楽しみだったのだ。

新幹線「ひかり」の自由席に乗ったのは昼前だったから、ちょうど昼食時には食堂車だ。

この日は休日だったはずだったが意外と空いており、我々一家は新幹線の端の方の自由席に席を四人分確保することに成功。

だが、もう居ても立っても居られない私たち兄弟は、席にどっかりと腰を降ろしてゆったりしようとする両親を食堂車へせかした。

真ん中くらいに存在する食堂車は昼時とあって混んでいるかもしれないと思っていたが、自由席同様空いていた。

食堂のスペース手前の方にメニューがあったが、私はとりあえずカレーを食べると決めていたので、そのまま席にまで直行。

弟も付いてきて、まだメニューを見ている両親より先に着席した。

メニュー

席にもメニューがあり、やっぱりカレーじゃなくて他のにしようかなどと考えたりしていた。

食堂車の飯はどんなもんなんだろう!?

たとえまずかったとしても、恨み言は言うまい。

我が家では外食自体が珍しく、近所のラーメン屋に行くことだけでも一大イベントであったが、私にとっては食堂車での食事は、他のどんな店での外食にも勝る慶事だった。

新幹線の食堂車で飯を食うこと自体に、意義があるからだ。

ああ、もう待ちきれない。

だが、それにしても…。

親父とおっ母がなかなか席に来やしない。

何やってるんだ?

まだ入り口近くのメニューを見て、何ごとか話し合っている。

ウエイトレスのおばさんが我々の席に注文を聞きに近づいてきた時、母親が「ちょっと、ちょっと」と声を出して、我々兄弟を呼んだのが聞こえた。

「ねえ、早う来てや」と私は催促したが、父も母も「こっちにこい」と手招きしているのが目に入った。

何だよ、いったい。

多少イラつきながら両親の元に向かった我々兄弟は、父の口から告げられた一言により、有頂天の極みから奈落の底へ突き落とされた。

冷酷な両親

「昼飯やけどな、岡山駅で食べることにしたで」

はあ!?

「ここで食べたっておいしゅうないて」と母親も助け船を出す。

「いや、ここで食べようよ!」

「岡山の方がずっとおいしいトコいっぱいあるで」

「そうや。こういうトコは高いばっかでおいしくないに決まっとる」

だまされないぞ!!

ここまで来といて、そりゃないだろ!

どうやら両親は、新幹線の食事の高額さにビビったらしいことが当時の私にもわかった。

だが、家計に致命的な打撃を与えるほどではないはずだ。

「食堂車がどういうもんか分かったやろ?だから、もうええやん」

ごまかしているつもりか!入っただけで満足できるわけないだろ!

「ここで食べたい!ここで食べる!!」

「あかんあかん。もう席戻ろか」

両親は抗議する我々兄弟を無情にも力づくで食堂車から退去させ始めた。

小二の弟は大声で泣き出し、小学校四年生の私も泣き出した。

私はせめて食堂車の隣のビュッフェで食べさせてくれと懇願したが、岡山で昼食を食べるという両親の決意は変わらない。

自由席に戻る途中、幼児並みに泣きわめいて駄々をこねた我々小学生の兄弟だったが、

「しつこい!」

「母ちゃんのいうことが聞けへんのか!」

と逆ギレした両親にゲンコツをかまされ、抗議活動は鎮圧されてしまった。

こうして忸怩たる思いのまま岡山駅に到着して、我々一家が昼食に入ったのは、

駅の立ち食いソバ。

食堂車の代替に全く及ばないではないか!

しかし、「文句を言ったらまたゲンコツだぞ」オーラを出す両親にはこれ以上文句は言えず、我々の意向も聞かず一方的に注文されたかけそばをすすらざるを得なかった。

私はこの年齢になるまで、あの時以上にひもじい気持ちでかけそばを食べたことはない。

そんなことがあったから、伯母の家に到着して従兄妹たちに会っても楽しくなかった。

そこに一泊して、次の帰りも新幹線だったが、今度乗ったのは食堂車のない「こだま」。

おまけに行きと違って、客がぎっしりで自由席は空いてやしない。

立ちっぱなしの道中で、両親は

「食堂車はまた今度にしようや」

とかふてくされる我々に言い聞かせていたが、

その「また今度」が永遠に来ることはなかった。

その時、両親は絶対に叶えてくれないに決まっているから、大人になったら絶対に食堂車で食おうと固く決意していたが、その決意を忘れて大人になって、思い出した時には新幹線の食堂車は、廃止されていた。

感謝は感謝、無念は無念

「なあ、何で小四の時、新幹線の食堂車で飯食わしてくれへなんだんや?」

2021年の年末、実家に帰省した際に両親に訊ねた。

この時ばかりではない、小学校時代から高校卒業後に実家を出て今に至るまで、数百回は言っている。

だが、いつも答えは同じだ。

「はあ?そんなことあったかいな?」

「覚えとらんて、そんな昔のコト」

ウソだ。

最初にそれを聞いたのは小五の夏休みだったが、半年前のことを忘れているはずがないのに同じようなことを言っていた。

「俺やったら、ウチの子に食わせたで」

妻子を伴って帰省していた私の弟も口をはさんだ。

「昔のことは忘れた」とよく言う奴だが、あの時の無念は忘れてはいないらしい。

それでも両親は忘れてしまったようなことを言い、なかったことにしようとしている。

両親にはこれまでさんざん苦労をかけさせた自覚はあるし、そこそこ感謝もしている。

だが、あの件だけはいまだに許せない。

一年に一回はあの時の夢を見る。

新幹線「ひかり」の36形食堂車の席に座ってさあ食事しよう、という夢だ。

私自身はまだ子供だったり、もう今の歳になっていたり、親が来なかったり、ウエイトレスが来なかったりいろいろなバージョンを見たが、いつも共通しているのは料理にありつけないことだ。

どんなにうまいものを腹いっぱい食べて苦痛なほど満腹になったとしても、あの時口に入るはずだった料理を出されたら食べるだろう。

あのたった一食の喪失感は30年以上たった今でも忘れられない。

「どうでもええことばっか、いつまでもよう覚えとるな」

「昔っからホンマぐちゃぐちゃしつこいな、アンタは」

年老いた両親には、なんら罪の意識がないようだ。

大人げないのは承知だが、この件を風化させる気はない。

今後も言い続けるし、両親を看取る時は、

「苦労かけてすまんかった。でもあの時食堂車で飯食わしてくれなかったのはいかんだろう」

と一応言うつもりだ。

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同級生の顔面を硫酸で溶かした思春期の狂気 ~古き悪しき昭和の事件~

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。

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昭和36年(1961年)9月14日、静岡県三島市で中学三年生の高野薫子さん(仮名、14歳)が顔面に茶碗一杯分の希硫酸をかけられて重傷を負うという恐ろしい事件が起きた。

犯人は同じ中学に通う同級生の安田真緒(仮名、14歳)。

60年前の教育関係者にも衝撃を与えたというこの事件、いったい二人の女子中学生の間に何があったのだろうか?

加害者と被害者

この鬼の所業をしでかした安田だが、事件後に行われた学校側の説明によると、決して粗暴で悪辣な生徒ではなかった。

素行に問題はないどころか、学業成績もクラスでトップクラス。

家庭環境は極めて良好で、祖父は市議会議員を務めたこともあり、両親とも教育者という非の打ちどころもないものだったのだ。

一方の被害者である高野さんも学業成績は優秀、安田とは一、二を争うほどの優等生。

それだけではない。

彼女は、性格も活発で男女問わず他人を引き付ける魅力を有し、クラス内でもよく目立つセンター的存在という一面を持っていた。

かなりの怨みがなければ到底犯すことのできないような犯行であったが、同じく学校側によると、この安田と高野さんは犬猿の仲ではなかった。

むしろ二人は普段から非常に仲が良く、同じ部に所属して部長と副部長をそれぞれ務めており、事件当日も一緒に下校している。

つまり親友同士だったのだ。

そんな優等生の二人の関係は、一見するとお互いを認め合うさわやかで、模範的なものに見える。

しかしその後の三島署の調べで、安田は高野さんに対して密かに、一方的で敵対的なライバル心を胸に持ち続けていたことを供述した。

表向きは友達としての付き合いを続けていたが、以前から自分にはない人を引き付けるという高野さんの長所を妬ましく思っていたようなのだ。

そんな表面上と相反する感情を抱きつつ平穏に保たれていた安田の心の均衡は、やがて崩れることになる。

それは、ほんの些細なことだった。

安田の凶行

ある時期から、高野さんの身長が安田を抜いた。

両人とも成長期真っ只中の中学生だったが、拮抗して伸びるとは限らない。

安田を取り残して、高野さんの方がぐんぐん伸びたのだ。

これは安田にとっては大問題だった。

容姿で差を広げられたとでも考えたようである。

おまけに伝え聞いたところでは、高野さんに対抗可能だった学業成績でも自分の上を行ったらしいというではないか。

これらの事実は取るに足らないことだと成人の視点では考えるだろうが、多感で複雑な思春期の子供にとっては衝撃的なことであったであろう。

とは言え、思春期だったとしても、自身で自重して受け入れるべきことであったはずだ。

しかし、安田という狂った少女は違った。

彼女は自意識過剰な思春期の子供の中でもより危険な部類に属していたのである。

偏執的で異常なほど嫉妬深く、劣等感を怨念と同期して一方的に増大させ、勝手に精神を自壊させてしまったのだ。

普段おとなしいぶん発散できないため、余計タチが悪い。

やがて安田の心の中で高野さんは許容可能な敵対的ライバルから一気に許しがたい仇敵に変わり、惨劇へと突っ走ることになる。

事件が起こるその日、安田は高野さんと放課後に、文化祭の後片付けをした。

片付けが終わると、二人で一緒に下校。

これはいつものことだったが、それからが違った。

自宅に帰った後、再び外出して高野さん宅に向かい、その途中の薬局で希硫酸を購入する。

午後8時に高野さん宅を訪れて、何気なさを装って高野さんを外へ呼び出した。

そして、何の疑いもなく外に出て一緒に近所を歩き始めた彼女の顔に、隠し持っていた硫酸を浴びせた(玄関で浴びせたという報道もある)。

硫酸をまともに顔に浴びた高野さんは、半狂乱になった家族の者によって外科病院に運び込まれたが、全治三か月の重傷。

しかも、両眼失明という重大な障害を負わされてしまった。

「思春期の過ち」などとお茶を濁すわけにはいかない、何ら情状酌量の余地のない身勝手で許しがたい凶行である。

高野さんは14歳という若さで、視覚ばかりか、女性にとって命より大事な顔を台無しにされたのだから殺人より悪質であろう。

だが、その後の報道を見る限り安田への法的裁きは家裁送致止まりであり、この事件が報道された約一か月後の時点で逮捕もされず、自宅で謹慎していたというから驚きである。

日本はこの時代から被害者を放置して未成年の犯罪者を守る国だったのだ。

この事件は60年以上も過去のものであるから、高野さんと安田がその後どのような人生を送ったかは知るすべがない。

だが、同じ目に遭わせるのは無理にしても、せめて安田本人にも一生極貧を余儀なくされるほどの賠償金を課すくらいの報いは受けさせるべきだったと思うのは、筆者だけではないはずだ。

無神経な当時の新聞報道

どうしても言いたいことが最後にある。

本稿は当時の新聞をもとにして作成したが、その紙面から感じたことだ。

それは、被害者への配慮のなさだ。

現代の基準に照らせば、この時代は良く言えばおおらか、悪く言えば無神経極まりなかったと言わざるを得ない。

被害者の高野さんは保護者の氏名と住所つきで実名報道されている一方、加害者の安田はA子と仮名が付されている点は現代でも同じだが、掲載された学校関係者や有識者による思慮の欠如した意見やコメントは非難に値する。

二人の通っていた中学校の校長は、

深く責任を感じている。A子の転校の方法などを考え将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」と、寝ぼけたことをほざいていた。

また、社会心理学が専門の某大学教授などは、

加害者が異常心理状態で立ったことはたしかだろう。加害者と被害者との仲は純粋に競争相手としてのものか、同性愛的な要素もあったのかどうか。また加害者は、親の愛情に恵まれていたかどうかも犯行動機をとくカギとなろう。…」とのたまっていた。

ワザと言っているのか、それともバカなんだろうか。

「…将来しこりが残らないよう解決策を考えたい」だと?

残るに決まっているだろう!

目をつぶされて人前に出れない顔にされて、それでもなかったことにできる者が、この世にいると思うか!

「…同性愛的な要素もあったのかどうか」って?

変態野郎!!

大学で何を研究してるんだ?お前の妄想を新聞でほざいて、何の役に立つんだ!!

被害者感情を逆なでするもの以外の何者でもないのではないか!?

「そういう時代だったから」と受け入れる気はない。

私が高野さんかその身内だったら、安田の次に許せなかったであろう。

参考文献―読売新聞、朝日新聞

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我が中二病 ~人類防衛の大義に燃えた思春期~

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中二病なる言葉がある。

なんでも、「思春期に特徴的な空想や価値観、過剰な自意識やそれに基づく言動を揶揄する俗語」であるらしい。

それが大体中学校の二年生くらいで発症することが多いから、こう呼ばれているようだ。

そういえば私が中学生の頃も、グレ出す奴は、大体二年生からだった気がする。

反抗期もこれくらいの時期から本格化するみたいだし。

また、この年代はかなり多感な時期らしいから、自我が目覚めて荒れ狂うあまり、かなり恥ずかしい言動をしてしまいがちなようだ。

そして、身内以外の他者の影響も受けやすい。

私もそういえばその時期、その中二病に近い症状を患った記憶がある。

ただし、私は問題行動を起こさなかったし、校則はきっちり守る真面目な生徒だった。

先生や親に怒られるのが怖かったし、第一そんなことしたら他の生徒にシメられるのは当時からわかりきっていたからな。

私の場合はそういった人様の鼻につく症状ではなく、主に精神面及び思想面で発症したのだ。

もっとも、その影響は言動にきっちり表れていたから、中二病マンマであったが。

私の発症した中二病とは何か?

それは、異星人の地球侵略を本気で心配していたことだ。

思春期にありがちな異性への関心や将来への不安そっちのけで、私の中学校生活の後半は、異星人の侵略におびえる毎日だった。

きっかけは、金曜ロードショーで放映されたアメリカの異星人侵略モノのテレビドラマV』を見たこと、そして愛読していた漫画『ドラゴンボール』に戦闘民族サイヤ人が登場してきたことだったと思う。

元々心霊やUFOなど超常現象に興味があり、薄々異星人への脅威は感じていた。

だがその脅威は、それらの作品との出会いが思春期に達した当時の私の精神状態と不適切に相互作用して、多感な頭の中で爆発的に増大したのだ。

とどめは、日本テレビで放送された『矢追純一UFO現地取材シリーズ』

まだ1980年代後半で、当時騒がれていたノストラダムスの大予言「1999年の7の月、人類は滅ぶ」とは、異星人の侵略だろうと確信した。

私はその圧倒的な脅威におびえるあまり、熱心に家庭や学校でその危険性を説き、身近な人々をまず啓蒙しようと努めた。

だが、無理解な両親は「もうすぐ受験だろ」と突き放し、学校ではいつもつるんでいた友達に距離を置かれ、「面白い奴がいる」と私を迫害する同級生が増加しただけだった。

誰も理解を示してくれなかったが、私は三年生になると心機一転して、自分ひとりだけでも異星人に立ち向かおうと決意、独自に戦闘訓練を開始した。

まず、攻めてくる異星人は『矢追純一UFO現地取材シリーズ』で主に取り上げられているリトル・グレイという種族だと断定。

そのリトル・グレイと戦うためにまずは格闘術の訓練として、二歳年下で中学校一年生の弟を異星人に見立て、組手の相手とした。

なぜ中学一年生の弟だったかというと、そのリトル・グレイという種族は身長140センチくらいで、当時の弟の身長とほぼ同じであり、まさに練習相手としてうってつけと考えたからだ。

私は「異星人の侵略に対する抵抗のため」という大義を弟に説き、練習相手となるよう命じたが、当時から兄である私を小バカにしていた弟は断固拒否。

それを自分さえよければいいという勝手な考えとみなした私が、組手訓練を強行すると弟は激しく抵抗し、二階の子供部屋で大乱闘に発展した。

弟も本気になってくれたので有意義な訓練になったが、一階で仕事をしていた父親が上がってきて「うるさい」と怒鳴られ、「お前が悪い」と私だけがシメられた。

こうして格闘術の訓練はできなくなったが、やはり異星人との戦いのキモとなるのは対空戦闘であろう。

異星人と言えば円盤、きっと主に円盤に乗って攻撃してくるはずだ。

そこで私は、対空戦闘の訓練に専心することにした。

本物の銃は将来的に狩猟免許を取得してから購入するとして、私はまず、保有していたエアーガンでの射撃訓練を開始する。

標的は、家の畑に飛んでくる蝶。

円盤のように不規則な動きをするため、ふさわしい標的だろう。

私は来るべき地球防衛の戦闘に備え、自宅の前の畑にやって来た蝶を片っ端から銃撃した。

しかし、蝶を狙ったBB弾は時々近所の家に飛び込んで、そこの住民に命中。

「お宅の長男に狙撃されてる」と、その住民から苦情を受けた両親にまたしてもシメられ、エアーガンを取り上げられてしまった。

自宅での自主戦闘訓練を封じられた私だが、やはり独自にやるのではなく、ある程度専門的な機関に所属する必要を感じるようになった。

すなわち自衛隊だ。

ちょうど中学三年生で将来の進路をある程度目星をつけるべき時期に差し掛かっていた私は、とりあえず中学卒業後は一旦普通科高校に行くこととして、高校卒業後には自衛隊に入隊することを学校での三者面談で宣言。

志望動機を聞かれたが、理由はもちろん「異星人と戦うため」だ。

「自分の将来なんだから真面目に考えろ」と両親も担任教師も激怒したが、

人類防衛の大義に燃える私の信念はいささかも揺るがなかった。

将来自衛隊に入隊することを決めていた私だったが、一方で今のままの自衛隊では、異星人にまともに立ち向かえないとも感じていた。

円盤を真っ先に迎撃するのは戦闘機だが、その自衛隊の戦闘機F-15Jは、やすやすマッハ10を超す速度で飛ぶ円盤の敵ではない。

海上自衛隊や陸上自衛隊はモノの役には立たないであろう。

ムダ死には御免だ。

だいたい憲法で縛られた自衛隊では、ソ連軍(当時はまだ健在)や中国軍相手でも持たない。

そこで私は他力本願とはいえ、地球上で最強最大の軍事力を誇る米軍に思いをはせるようになった。

だいたい、映画でも異星人の侵略など地球規模の未曽有の脅威に真っ先に立ち向かうのは米軍と相場が決まっている。また、現実にも、そうなるであろう。

矢追純一のUFO特番でもやっていたが、米国は異星人と密約を結ぶ一方で、万が一の対決に備えて円盤を宇宙空間で迎撃するための『スターウォーズ計画』を策定するなど、日本政府が及びもつかないようなことをやってのける国なのだ。

米国なら、何か考えてくれているに違いない。

そしてその頃、ずっとベールに包まれていた米国の最新兵器がプレスリリースされた。

ステルス戦闘機F-117ナイトホークである。

それは後に、実は攻撃機であったことがわかるのだが、私はその従来の軍用機とは一線を画するF-117の未来的な形状を一目見て、対異星人戦用の兵器だと確信した。

これの主武器はきっとレーザーガンで、宇宙空間だって飛べるはず。

速度マッハ5くらい出してもおかしくはなさそうだし、最低でも空中静止は堅いと

だが私の期待むなしく、F-117はレーザーガンどころか爆弾しか積んでおらず、宇宙空間は飛べないし空中静止もムリ、速度だってマッハ1すら出せやしない。

円盤との空中戦どころか、既存の戦闘機とドッグファイトしたら返り討ちに遭ってしまうことが分かった。

取り柄はレーダーに映らないことで、それは爆撃される側にとって相当ヤバいことなのだが、その時には、そんなことに思いもよらず大いに失望した。

画期的な兵器であることは私が高校一年生の時に起こった湾岸戦争で証明されたが、迎撃を受けることなく爆弾を落とすだけでは、異星人の相手になりそうもない。

人類は終わりだ、と絶望した。

そんな私だったが歳を重ねていくうちに、私の中で中二病たる異星人への恐怖は徐々に消え、地球防衛の大義のために自衛隊へ入隊するという情熱もどこかへ失せていった。

同時に、あの時の自分は何と無意味で恥ずかしいことに時間と労力を費やしてしていたのか、という常識的な反省ができるようには一応なれた。

だが成人して、久しい現在でもその後遺症は残っているようである。

画期的な新兵器が開発されて出現するたびに、それは地球上の軍隊や武装勢力ではなく、異星人相手にどこまで通用するかということを、この年齢になってもついつい考えるからだ。

軍事技術に限っては、私の目線は地球上だけではなく、地球外にも向いてしまっている。

私の中二病は、まだ完治していないということだ。

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“本当のこと”こそ言ってはならぬ 3 ~ふだん無口で不愛想なくせに、ムカつくことだけはハキハキ言う奴~

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私は頭が少々薄くなっている。

それは今に始まったことではなく、十年以上前から始まったことだ。

前髪はさほど後退していないが、頭頂部が薄くなる、いわゆる O字タイプと呼ばれるハゲに属する。

フランシスコ・ザビエルの髪型に近くなるハゲ方と言えば、イメージしやすいだろう。

私もそれは十分自覚していたし、そこそこ気にはしていた。

だが、いるのである。

わざわざ面と向かって「あ、薄い」とか指摘してくるばか野郎が!

分かっているって言っているだろう?気にしていないわけがないだろうが!

こういう輩は「本当のこと」なら、何でも言っていいと思っているのだろうか?

だからと言って、ハゲは進行しこそすれ、回復させることはほぼ不可能であることくらいわかっているから、育毛剤などを使うような無駄な努力はしない。

また、無事な前髪や後ろの髪などを総動員して、ごまかそうとするようなマネもしたくない。

余計目立つからな。

よって、私の髪型は脱毛が目立ってきた十年前から丸坊主である。

もともと髪型にこだわる方ではなかったし、寝癖が立たないとかいろいろ便利だし。

坊主にしたら、頭が薄いことをわざわざ指摘してくるバカ者はいなくなるだろう、

と思ってた。

だが、まさか言ってくる奴が出てくるとは思わなかった。

しかも床屋が!

私を差別する女主人

私が散髪によく行っていた床屋は家のすぐ近所の床屋『K&Kカットクラブ(仮名)』だ。

シャンプーも顔そりもなく、カット代だけで 1200円 くらいの格安床屋である。

坊主にするだけなんだから、4000円 とか 5000円 とか払いたくないではないか。

その『K&Kカットクラブ』は、30歳前後の小太りの女性が切り盛りする小規模な店で、散髪をやっているのはいつもその女。

だがその女店主、いつも不愛想でぶっきらぼうであった。

初めてそこを利用してから、五、六年行っていたのに、いつもそんな感じだったのである。

散髪はそこしか利用していなかったのだから、私はお得意様以外の何者でもないはずだ。

もうちょっと愛想よくしてくれても良いではないか、などと考えていた私は、わがまますぎだろうか?

素が不愛想で、誰に対してもそうなのなら仕方がない。

しかし他の客に対しては明らかに態度が違うのだ!

ある子どもの客に対しては、

野崎くん、今日はどうするの?」「あ、こことここ切ればいいの?うん分かった。いつもお利口さんだねー

という感じである。

子ども相手なら仕方がないが、私の前に散髪してもらっていたある初老の客の場合などは、

へー櫛田さん凄いですね!」

いやいや、そんなたいしたことないよ

十分すごいですよ。初心者なのに大会 4位って!

などと、その初老の客の髪をチョキチョキしながらお愛想を言い、帰り際も「いつもありがとうございます」と、終始笑顔で接していた。

そして、私の番になると途端に顔つきも声色も変わって、ハイ次とつっけんどんな態度になるんだから、対応を変えているのは明確である。

もしかして、普段話しかけない私が悪い?

私は必要以上のことを話さないから、そういう交流が嫌いな人間なのだと思われているのかもしれない。

だからある日、私の方から話しかけてみたら、

いやーすぐ伸びてくるから、一か月に一回は散髪に来なきゃいけないよ

じゃ、長く伸ばせばいいじゃないですか

てな具合で瞬時に会話が終了した!

「長く伸ばせばいいじゃないですか」って、床屋がフツ―言うか?そんなこと?

そして、再び無言のまま散髪をやっている最中に他の客が来ると、

あ、小川さんいらっしゃい!今日は早いですね

と一転して愛想よく私などそっちのけだったから、

私がこういう交流を嫌う人間と考えて、気を遣っているのではなく、私との交流を嫌っているのだと悟った。

「じゃあ、そんな不愛想なところに行かなきゃいいじゃないか」と思われるかもしれないが、あいにく家の半径 1キロ圏内に格安床屋はなく、そんな思いをしたとしても、バカ高い散髪代を払うよりましだと、『K&Kカットクラブ』に通い続けることになった。

だが、それにも限度が来る日がやってくる。

床屋が客に絶対言ってはいけないヒトコト

その日、私は性懲りもなく『K&Kカットクラブ』へ散髪に行った。

このころには、女店主に対してもう別に他の客と同じような対応は期待しないし、散髪さえきちんとやってくれればよい、と割り切っていた。

どうせ喋っていても、あんまり楽しい奴でもなさそうだし。

「3 ミリ」

私の方も多少ぶっきらぼうに髪を刈る長さを伝え、女店主もいつもどおり、バリカンの設定をしてから無言で私の頭髪を刈り始めた。

だがいつもと違ったのは、この日は散髪をしている途中で私に話しかけてきたことだ。

相変わらず、愛想は悪く事務的な感じではあったが。

「お客さん、前から思っていたんですけど」

「はい?」

向こうから、必要なこと以外を話しかけてくるのは初めてだったが、

よりによって、以下のようなことを言ってくるとは思わなかった。

「髪の毛薄いですね」

「はい?!」

それを聞いて最初、今私がいるのは床屋で、それを言っているのも床屋であることが信じられなかった。

だがその後もグサグサくる事実をズバズバ指摘してきた。

「頭頂部が特に薄いから目立ちますね」

「…じゃあさ、目立たないようにカットしてよ…」

「無理ですね。スキンヘッドにしたらどうです?自分でもできますよ」

いつもぶっきらぼうで口数が少ないのに、この時だけは妙にハキハキしていた。

「あのさ…、フツー言う?そういうこと面と向かって?」

「ホントのこと言っただけです」

ふざけるな!

「ホントのこと」だからって、言っていいことと悪いことがあるだろう!?

重ね重ね床屋として、あるまじき言葉じゃないか!

歯医者に「口が臭い」と言われた気分である。

眼医者に「目つきが気に食わない」と言われたらどう思う!?

しかも普段話しかけても塩対応しかしないくせに、こういうムカつくことだけズバズバ言うんじゃない!!

もうウチに来なくていい、と言っているに等しい破壊力を有した暴言である。

私は終生『K&Kカットクラブ』に行かないことを決意した。

幸いなことに、ほどなくして同価格の格安床屋が近所に開業。

私は、そこに散髪に行くようになった。

そこは理容師が複数いるし、不愛想が目に付くような者もおらず、『K&Kカットクラブ』のような不愉快に見舞われたことはない。今のところは。

しかし、そうなってから、もう四年ほどになるが、あれだけ私を不愉快にした『K&Kカットクラブ』が、いまだに健在であることには納得がいかない。

「悪は不滅」というこの世の不条理が、私の近所では体現されているのだ。

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