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2023年 ホスト 本当のこと 東京

挫折から復活するホスト・涼風つばき~


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歌舞伎町に「涼風(すずか)つばき」という男がいる。

二次元世界の登場人物のリアル版がごとき美男子であることから分かるとおり、職業はホスト。

涼風つばきという名も当然本名ではなく、源氏名だ。

つばきは、『現代ホスト界の帝王』とも称されるローランドがオーナーを務めるホストクラブ『THE CLUB』所属のホストであり、2023年に入ってから三か月連続、売り上げナンバーワンの座に君臨し、五か月で早くも約1億3千万円を売り上げているほどの売れっ子である(ホスト業界では、通常年間1億売り上げれば売れっ子と呼ばれる)。

持って生まれた容貌と話術を駆使しつつ、チャラチャラしながらヒトがうらやむような成功をたやすく手にしているように見える彼だが、ここに至るまでの道は、決してバラが敷き詰められた赤カーペットではなかった。

その前年まで、どん底をさまよっていたのだ。

『THE CLUB』に来る前

1991年に群馬県で生まれたつばきは少年時代、ジャニーズにあこがれていたらしい。

ルックスに自信があって、そこそこ学校で異性にモテてもいた。

しかし、そんな程度の者は世の中いくらでもいる。

履歴書を何度か送ってみたものの、ことごとく書類選考ではねられてしまう。

高校卒業後に東京都内の大学に進学して上京したつばきだったが、ジャニーズはダメでも、とにかく有名になってちやほやされたいとは思っていた。

そんな若者らしい不純な夢を追いかける彼が選んだのは、ホストの世界だった。

だがその店で、つばきはホスト業界の洗礼を受ける。

その店は未成年だったつばきに酒を飲ませ、先輩は何かといえば暴力をふるうなどのパワハラが横行する店だったのだ。

そして売り上げも上がらず、耐えられなくなった彼は、三か月ほどで店を辞めてしまう。

若者の不埒な純情は、現実の前で木っ端みじんにされてしまったのだ。

一旦、大学生活に戻ってあきらめたかに見えたが、やはり未練が残っていたのだろう。

負けん気が人並外れて強い人間でもあるつばきは、再び在学中にホストの道に舞い戻る。

その店の名は『スーパースター』

結果的に、この選択は大当たりだった。

この店には合ったらしく、持ち前のルックスの良さも手伝って売れっ子になり、五年連続年間同店の売り上げナンバーワンを維持するほどになる。

スーパースター時代

しかし次第に、ホスト業界につきもののドロドロとした人間関係に疲れ始め、絶頂期だった26歳の時にホストを引退。

稼いだ金がかなりあった彼は働くこともなく、海外に行ったり、筋トレをやったりして、悠々自適の生活を送り始めた。

一見好きなことをしてのんびり過ごすことは最高なようだが、つばきは、この生活にも苦痛を感じるようになる。

やはり、何も目標も張り合いもない生活には耐えられないのだ。

金も一生遊んで暮らせるほど持っているわけでもない。

もう一度輝きたい。

そして、自分が輝けるのはホストしかないと思ったつばきは、2021年に三年間の放蕩生活に終止符を打って、ホストに戻ることを決意する。

とは言っても、ホストクラブならば、どこでもいいわけではない。

つばきが選んだのは、ホスト界の帝王と称され、TVでも脚光を浴び、YouTubeでも100万人超の登録者を誇って知名度抜群のローランドの経営する店だった。

それに、ローランドは現役だったころに知り合った友人でもあったのだ。

もっともこのころ、ローランドの経営するホストクラブ『THE CLUB』はコロナ禍で自主閉店し、ローランド自身はホストの世界からは遠ざかっていた。

よって、復帰したつばきが入ったのは、ローランド不在の中でTHE CLUBに所属していたホストらが立ち上げた新しい店『THE CICH』であった。

つばきは、すでにこの時30歳を超えており、ホストとしては年齢的に不利ではあったが、腐っても元レジェンドホスト。

他店舗ならばナンバーワンであってもおかしくないほどの売り上げと実力を有したホストが目白押しのTHE CICHでも、入店早々頭角を現し、売り上げナンバー3にまで入る健闘を見せる。

三度目のホスト復帰をしたころ

だが、それは長く続かなかった。

非情な現実、そしてどん底=『もう無理。さよなら』

つばきは、その後も THE CICH でホストを続けたが、売り上げは低迷。

全盛期だったころの水準はもちろん、店内の月間売り上げナンバー10 以内に遠く及ばない状態が続いた。

こんなはずではない、とつばきは焦っていたようだが、もはや時代に取り残されて、世代交代を許してしまった感があった。

つばきがホストに復帰した次の年の 2022年6月、ローランドもホスト復帰を宣言。

新たにオーディションまで開催して新人ホストを集め、休業していた THE CLUB を再開する。

THE CICH で売り上げが低迷していたつばきは、環境を変えてやり直そうと思い立ち、移籍を願い出て、ホスト未経験者も多い新生 THE CLUB に加わった。

ローランドもベテランの彼が新人を引っ張ってくれることを期待したであろう。

売り上げが落ち込んで自信を失っていたころ

だが、部屋の引っ越しまでして気持ちを新たに移った THE CLUB でも、売り上げは上がらなかった。

今まで来てくれていた指名客も途絶えるようにまでなり、売り上げが地に落ちた状態で、THE CLUB が再開してから最初の月である7月の締め日を迎える。

つばきの売り上げは、ホスト未経験だった新人にも抜かれるほど惨憺たるものだった。

友人であり現在は雇い主であるローランドは、再開した店の好調な出だしと新人の躍進を喜びつつも、この結果を黙って見過ごしてはいない。

営業が終わった後に、つばきと他の売り上げが低迷するベテランホストを呼び出して叱責した。

叱責されるつばき

「つばきには何度も言ってる。お前、悔しくねえのか?」

ローランドは、つばきとほぼ同時期にホストになっており、現役バリバリだったころは他店舗だったとはいえ、その実力には一目置いていたのだ。

そんな男が、今や月の売り上げのかかった締め日に指名客も呼べず、ホスト未経験の新人にすら負けているふがいない姿を見て、自分がバカにされている気すらしていたし、なにより友人として心配していたのである。

つばきは「確かに…」としか返す言葉がなかった。

そして、この模様はローランドの YouTube チャンネルである『ローランドショー』のクルーに撮影されていた。

かつて、ローランドと肩を並べるほど売れていたホストだったつばきが、復帰してはみたものの、なかなか思うように結果が出せないさまは、視聴者の興味を引くであろうから見逃すはずがないのだ。

ローランドショーは登録者数 100万人を優に超えるから、その影響力は大きい。

約一か月後にそれが YouTube で公開されるや、日本中の少なからぬ人間の心の中に、かつては売れていたが、もはや時代についていけなくなった三十路ホスト・涼風つばきという印象が残った。

おまけに実際に公開された後、みじめな姿を面白がった心ない視聴者から中傷のDMが、わざわざ自身のインスタグラムやツイッターなどに寄せられるようになってしまう。

これは自分に自信を失い、仕事への熱意をも失いつつあったつばきには、追い打ちとなったようだ。

つばきは、THE CLUB に移ってから自分のYouTubeチャンネル『つばきっす』を開設して動画をアップし始めており、自分が叱責されるローランドショーの動画が公開された直後、自身のチャンネルでも動画を出して苦しい胸の内を吐露した。

しかもその動画の題は『もう無理。さよなら』で、いきなりネガティブこの上ない。

動画の内容はそれ以上にネガティブであり、つばきは終始暗い顔をして「すげーつれー」「どうしていいかわからない」「昭和のホストだとかコメントで書かれた」「オレに明日はあんの?ってカンジ」などと、ひとしきり自嘲気味に弱音を吐き続ける。

そして、カメラの前で泣き崩れた。

語っているうちに、自身のあまりのみじめさに耐えきれなくなってしまったのだ。

ひとしきり男泣きした後、「もう、うまいこと言えねえや、もういいや」と投げやりにつぶやいて、つばきはその回の動画を終了した。

どん底な姿と泣きっ面を自ら世間にさらしたこの男は、もはや立ち直ることはできないだろう。

もう 30歳を過ぎているし、一昔前の平成のイケメンという感じがするつばきの顔は、令和の現代では貧乏神にしか見えない。

視聴者の中には、そう思った者も多かったはずだ。

だが、それは違った。

堕ちるところまで堕ちたこの男は、その後反撃を開始する。

ただいま、ありがとう

もはや再起不能と思われたつばきだったが、ほどなくして『ただいま、ありがとう』と題した動画を上げた。

動画の中のつばきは、まだ暗い顔をしていたが、訥々とこれから立ち直って再びやっていくことを宣言する。

その際の表情からは、未だ落ち込んでいて頼りない感じがしたものの、それからすぐにつばきは行動を開始した。

自分の動画を YouTube に上げる頻度を増やしたのだ。

動画の内容は単に自分が街を散歩していたり、コンビニの商品を食べ比べしたり、THE CLUB の他のホストと対談したりする様子を撮影するといったたわいもないものだったが、とにかく一日も欠かさず動画を更新。

まずは知名度を上げるためである。

当初、暗い顔をしていたつばきも、だんだんと生気を取り戻し始めた。

どうやら、ユーチューバーは性に合っていたらしい。

さらに、ライブ配信をして投げ銭を集めるようにもなった。

集めた投げ銭を自身の売り上げにしようと考えたのだ。

これは、同じ THE CLUB で働く同僚ホストの俊が先に行っていた。

俊は、かなり早い段階で YouTube に個人チャンネルを開設し、すでにライブ配信で投げ銭を視聴者から集め、ホストクラブでは超高額オーダーがあった時のみに出現するシャンパンタワーに使っていたのだ。

また、持ち前のホストとしての実力の高さに加え、YouTube によって知名度を上げて集客にも成功。

これら令和的とも言える最先端の手法を駆使して圧倒的な売り上げをたたき出し、THE CLUB 再開以来絶対的ナンバーワンに君臨していた。

しかも俊はつばきと同年齢の 31歳。

ホストとして年齢的に賞味期限を超えているという悪条件をひっくり返していたのである。

そんな成功例が身近にいるのだ。

同じことをしてみない手はない。

一見冷酷そうな外見と言動の俊も、つばきのことを内心では応援していたらしく、自分のライバルを育成していると分かりつつも自身のノウハウを気前よく伝授してくれた。

つばきは、休日を返上して普段の睡眠時間も削り、YouTube の動画作成やライブ配信に取り組み続ける。

立ち直るために、なりふり構わず猪突猛進していたのだ。

元々熱中し始めたら、寝食を忘れて熱中する気質であったようだが、そのホスト業にかける熱量と思いは視聴者にも十分伝わるほど鬼気迫っていた。

そしてその熱は、運命をも動かす神がかり的な力をもたらすことになる。

勝利の女神を従わせた男

『勝利の女神は勇者に微笑む』

古代ローマ人たちが残した言葉である。

『…用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な生き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである』

16世紀のイタリアの政治思想家・マキャベリはその著作『君主論』の中で、女性差別そのもののきわどい名言を残している。

古より伝わる運を味方につけて勝者になるための法則、それはなりふり構わず積極果敢な行動を取る勇者になることなのだ。

圧倒的な男の凄みで女神たちを怯えさせ、有無を言わさず言うことを聞かせるのだ。

つばきがそれらの言葉を知っていたとは思えないが、彼はまさしく勝者になるための行動をしていた。

そして、古人の教えの正しさが数字という結果の上で裏付けられる。

まずは自身のチャンネル『つばきっす』の登録者数が、開設半年にも満たない 10月に一万人を突破。

YouTube を見た視聴者の中から指名客も現れ始める。

肝心の売り上げや指名本数も上がり始め、10月には売り上げナンバー6 にまで上り詰めた。

ここまでだったら単に比較的よくある「日ごろの努力が報われた」程度のことであったであろう。

だが、いずれかの神の存在を感じずにはいられないような奇跡が、翌月11月の締め日に早くも起きる。

その前日の時点で、すでに THE CLUB の不動のナンバーワンと化してトップを独走していた俊の売り上げとつばきの売り上げは、700万ほど差があった。

いくらその月の店でのランキングが決まる締め日には大金が乱れ飛ぶホストの世界であっても、その差は絶望的なビハインドだ。

常識的に考えて一日で挽回できる額ではない。

だがその日の営業時間、11月度も自身のナンバーワンをほぼ確信していた俊の目が驚愕で見開かれる。

どこかの卓で、800万円分のシャンパンタワーが出現したのだ。

誰だ?

まさかまさか…。

そう、それはつばきのいる卓。

何と 800万円もの大金をつぎ込む超極太客が出現し、一挙に圧倒的な差を埋めたばかりか勝ち越したのだ。

完全に神がかっていた。

もはや、この世のものではない何らかの力が働いているとしか思えなかった。

そればかりか、この日だけでつばきは合計一千万円以上を売り上げ、1290万円だった俊の総売り上げを大きく上回る 1600万円で 11月度のナンバーワンを獲得。

全盛期だった 5年前以来の栄冠を勝ち取った。

しかもホスト人生で最高の売り上げだったから、全盛期を上回っている。

翌日、つばきはライブ配信を行い、その中で感情の振幅の大きいこの男は喜びとともに、これまで味わってきた苦難を語りながら感極まって号泣した。

再び泣いたつばき

そして、奇跡はこれだけにとどまらなかったのだ。

翌12月11日、ローランドが経営するもう一店舗のホストクラブである THE CICH との合同イベント『ザ・バトル』が開催された。

これは、一夜のみで両店舗の売り上げを競うイベントであり、当然ホストも売り上げに応じてランキングされる。

11月ナンバーワンになったばかりのつばきだったが、気持ちを新たに切り替えてこの合同イベントに臨んだ。

店舗の規模も大きく、経験豊富な実力派が数多く揃った THE CICH のホストの中には、「普段は顔を合わせない THE CLUB の人たちと楽しく飲めたらいいですね」などと余裕をかましていたが、つばきだけは戦闘的だった。

「THE CICH の奴ら息してる?誰もオレに突っかかってくる奴いねーのか?」などと、開催前からツイッターで激しく挑発していたのだ。

つばきは、いまだ粗暴な勇者だったのである。

そしてその勇気が再び天を動かす。

『ザ・バトル』で、つばきの指名客の一人が 1000万円以上を使うなどし、この日だけで合計 1500万円を売り上げて、堂々『ザ・バトル』初代ナンバーワンの栄冠を勝ち取ったのだ。

この一連の勝利は誰もがひれ伏し、その顔色をうかがう運命の女神と勝利の女神の両方を、その強引ともいえる行動力で従わせた結果としか思えないものだった。

いや、ホストだけに、両女神とも指名客にしたというべきだろう。

それもオラオラ営業で。

この瞬間から、つばきは完全に復活したばかりか第二の、いや、前回の全盛期が下積み時代に見えるほどの本物の全盛期に突入したのである。

中年の男から見たホスト・つばき

現在 48歳の中年男である私が初めてつばきを知ったのは、去年のことである。

おっさんだから、もちろんホストクラブには縁がなかったし、特に興味もなかった。

たまたま YouTube のローランドショーを見て、つばきの存在を知ったのだ。

ベテランなのにふがいない営業成績しか出せず、ローランドから怒られていた場面からである。

最初は、ゲスな野次馬根性からだった。

この情けない奴がどんな男なのか気になって検索したところ、彼が自身の YouTube チャンネル『つばきっす』を持っていることを知ってのぞいてみたのだ。

すると、つばきは早くもローランドショーで情けない自分の姿を取り上げられた件に関するくだんの動画『さよなら、もう無理』をアップしており、泣き言を言い続けた後で本当に泣き始めた場面に出くわした。

「30越えてるくせに泣くなよ。情けねえ野郎だ」

それが、その時の私の率直な感想だ。

30越えていたらもういい歳、ホストをやるには厳しいのは私でもわかる。

そろそろ他の道探せよ。

だが、私もその時ヒトのことを言っていられなかった。

当時従事していた事業の中止が宣告されて所属する部署の解散が決定、私は失業まで秒読みとなっていたからだ。

かと言って新たな仕事を探す気力もなく、宙ぶらりんだったのである。

私も、つばきとかいうホストと似たり寄ったりだ。

だからだろうか。

あの泣き虫三十路ホストのその後が少々気になりはじめた。

数日後に YouTube を見てみたら動画を更新して姿を現し、その中でまだ暗い顔をしながらも、これから立ち直っていくことを報告したのを見た時、少しほっとした気がした。

それからだ。

知らず知らずのうちに、彼が毎日出す動画を見るのが日課になってしまった。

そこで、私を含めた視聴者は三か月にわたってリアルタイムで目撃し続けたのだ。

万年絶不調で、このまま消えていくと思われた男が立ち上がる姿を。

立ち上がるや、何らかの未来を信じて遮二無二走り続ける姿を。

さらに、11月末から起こした一連のシンデレラストーリーを。

たった三か月で、このどん底にいた男は圧巻の復活劇を見せつけたのだ。

それは、同時にどん底にいる者たちへの啓示でもあったと思う。

這い上がるためのなりふり構わぬ行動力と熱量は一見定められたかに見える運命をも動かすことがあるのを教えてくれたのだ。

私も彼に動かされた。

もう 47歳になっていたが、あのつばきが立ち直ったように、私も再就職活動を改めて始めたのだ。

お祈りメールが送られたり、履歴書を送ってもなしのつぶてばかりだったが、彼がなかなか結果も出ずアンチからの嫌がらせにも屈しなかったように私も応募を続けた。

2023年 6月現在、私は某医療機器メーカーに職を得て勤務している。

新しくついたこの仕事だが、覚えることが多すぎて自分より一回り年下の上司にできない奴だと思われて今もてんてこ舞いだ。

だが、私は信じている、そして知っている。

継続は力なりが本当のことであったことを。

食らいつき、前進し続ければ必ず報われる日が来ることを。

つばきが三か月かけて教えてくれた。

自分が高校生の時に生まれた男に導かれると思わなかったが、彼を見つけることができて本当に運が良かった。

どん底から這い上がる姿を目の前で、しかもリアルタイムで見せつけて勇気をくれたことに感謝している。

そんなつばきは三か月連続ナンバーワンを取ったものの、現在は 4月、5月と二か月連続でナンバー2に甘んじてしまっている。

だが、もう心配はいらない。

彼なら、きっとナンバーワンに返り咲いてくれるだろう。

あれほどの奇跡を起こした男なら、またやってくれるに違いないと信じている。

出典元―

『つばきっす(https://www.youtube.com/live/btjhgzrUseE?feature=share)』

つばきっす

『THE ROLAND SHOW(https://youtu.be/Ihm9LBbtS8I)』

THE ROLAND SHOW

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2023年 ガジェット コンピューター 認定資格 趣味

Video CC TranslatorでUdemyを快適に学ぶ


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Udemy は IT技術を含め、さまざまな内容を学習できる便利なサイトです。私もIT技術を学ぶために活用してます。

私が使っているコンテンツのほとんどは、AWS か Azure の試験向けのものなのです。非常に人気のある基礎や初級向けのものですと日本語で提供されているものが多いのですが、中級以上の内容になると、英語やその他の言語でしか提供されていないものがほとんどです。

Udemy の動画には、翻訳して字幕をつける機能もあります。ですが、日本語の字幕がないものも結構あります。私が今受講しているコースもそれです。

英語で受講しても分かるのですが、やはり疲れます。そんな時に便利な機能を見つけました。

これです。

Video CC Translator

Udemy や YouTube を自動で翻訳してくれる Google Chromeの拡張機能です。使い方も簡単です。

Video CC translator の使い方

Video CC translator のページにアクセスし、Google Chrome に拡張機能を追加します。


今回は Udemy の翻訳のみをしたいので、Udemy のみを有効にします。

Udemy の画面を開いてコースを開始すると、動画のウィンドウの右下にVideo CC translator のアイコンが追加されているのが見えます。表示されない時は、ウィンドウをリフレッシュするか、Google Chrome を再起動した方が良いです。

Video CC Translator のアイコンをクリックして、メニューを表示させます。

CCが、Udemy 側のビデオで表示する言語です。私が今回受講しているコースの言語は英語で、字幕も英語で表示させています。

その下の白と黒のマークのところが、Video CC Translator で翻訳した結果として表示したい言語です。ここで日本語を選択します。

設定をするとすぐに、日本語の字幕が表示されます。見事に翻訳されました。

でも、これでは画面に字幕が被ってしまって、コース内容の動画が見にくいですよね。

一番下の「Caption Settings」をクリックします。

セッティングメニューを開いたら、一番上の「Display under video」を有効にします。

有効にすると、が動画ウィンドウの下に移動します。これで邪魔にならなくなりました。

この拡張機能は便利ですね。コースの内容を理解することに集中できます。今後も活用していこうと思います。

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2023年 心霊現象 怪奇現象 本当のこと 英国

ボーリー牧師館伝説:恐怖の幽霊屋敷、真実か捏造か


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英国エセックス州のボーリー村に、かつてボーリー牧師館(英語:Borley Rectory)という建物があった。

同牧師館は1862年に建造され、1939年に火災で焼けた後の1944年に取り壊されて今は存在しないが、その名は今なお世界的に有名である

それは、怪奇現象が立て続けに起きる恐怖の幽霊屋敷であったからだ。

建造

ボーリー牧師館が建造される前にも、このボーリー村には牧師館はあった。

だが、こちらの牧師館は1841年に火災で焼失しているため、この教区の教会の司祭を務める牧師のための住居は、長らく整備されていなかったようだ。

そこで1862年、この地方の地主であり、新たに教会の牧師となったヘンリー・D・E・ブル(Henry Dawson Ellis Bull)が、自らのために新たな牧師館を建造した。

ヘンリー・D・E・ブル

ヘンリー・D・E・ブルは、子供が14人もいる大家族。

そんな子だくさんのヘンリー一家が住めるようにと、新しい牧師館は23部屋もあって、以前のものより大きくなった。

広々とした館に転居することができて、順調に新生活をスタートさせたヘンリー一家であったが、その生活は、引っ越したその年早々から暗雲が立ち込め始める。

何やらおかしな出来事が、この広い家の中で起こり始めたからだ。

怪奇現象

在りし日のボーリー牧師館の外観

実は、ボーリー牧師館が建てられる前から、この地方には不気味な言い伝えがあった。

それは、建造の500年前、1362年に僧侶と修道女が駆け落ちしたが失敗し、僧侶は処刑され、修道女の方は、この地にあった僧院の壁に生き埋めにされたというものだ。

そんな呪われた伝説のある場所の真っただ中に建てられたからだろうか。

ボーリー牧師館での最初の怪奇現象は、建造早々の1863年に起こった。

それは誰もいないはずの牧師館の中から、奇妙な足音や物音が聞こえたり、家族の者以外の人の気配を感じたりという程度のものだったが、ここには得体の知れない何かがいるのではと思わせるのに十分なくらいであったという。

牧師館が建てられてからちょうど30年後の1892年、ヘンリー牧師が死去。

彼の息子であるヘンリー・フォスター・ブル(Henry Foyster Bull)が父の跡を継いで、この牧師館を相続する。

本格的に恐ろしい心霊現象が起こるようになるのは、この子ヘンリーの代になってしばらくしてからである。

1900年7月28日の夕方、牧師の四人の娘が、家の外で空中に修道女のような恰好をした幽霊を目撃したと主張したのだ。

娘たちによると、その幽霊はもっとはっきり見ようと近寄ったところ消えたらしい。

さらに、地元の住民にいたっては、首のない人間が乗った馬車を目撃した。

在りし日のボーリー牧師館の内部

1928年6月9日、ヘンリー・フォスター・ブルが死去。

牧師館は一時期空き家になるが、10月2日新しい牧師となったガイ・エリック・スミス(Guy Eric Smith)の一家が引っ越してきた。

ガイ・エリック・スミス

しかし引っ越して間もなく、スミス牧師夫人がタンスを掃除している際に、何と紙に包まれた女性の頭蓋骨が見つかるなど不吉な出来事があり、その後ほどなくして、ガイ家の人々はスイッチを切ったはずの呼び鈴が鳴ったり、窓に時折光が差し込んだり、どこから響いてくるかわからない足音が聞こえたりの怪奇現象に見舞われることになる。

スミス牧師夫人も例の首無し御者の乗った馬車を目撃するなど、先代の住民の時より心霊現象の不気味さはグレードアップするようになっていた。

不気味に思ったスミス牧師は、これらの現象を英国の日刊タブロイド紙『デイリーミラー』に報告して、超常現象を研究する人物の調査を依頼。

これを受けた『デイリーミラー』は、1929年6月10日に記者を派遣してボーリー牧師館での出来事を報道、さらに当時著名な心霊現象研究家であったハリー・プライスが、6月12日に同牧師館を調査に訪れた。

ハリー・プライス

だが、プライスが牧師館に入ったとたんに、新たな異常現象が起こる。

石や花瓶がひとりでに浮遊し始め、家じゅうの鏡から何かがこちらを見ているような感じがしてきたのだ。そしてプライスが去ると、これらの怪異な現象はぴたりとやんだ。

1929年7月14日、先代よりはるかに我慢が苦手だったスミス牧師一家が牧師館を去り、それからしばらく地域の教会に赴任する新しい牧師が見つからなかったこともあって、牧師館は再び空き家となる。

一年後の1930年10月16日、ヘンリー牧師の親戚でもあるライオネル・A・ホイスター(Lionel Algernon Foyster、1878年ー1945年)が、この教区の牧師に任命されて彼の妻のマリアンヌ・ホイスター(Marianne Emily Rebecca Shaw、1899年ー1992年)、養女のアデレード( Adelaide)らがボーリー牧師館に引っ越してきた。

だが、お約束どおり彼らも心霊現象に悩まされることになる。

ホイスター牧師 ― 女の子の頭がなくなる心霊写真が残っている

それも先代のヘンリー牧師やスミス牧師などより深刻で、呼び鈴が勝手に鳴ったり石や花瓶が浮遊するだけではなく、壁に意味不明の血のように赤い文字が現れたり、自分の部屋にいる時にカギがかかって出られなくなったりとかなり激しいものだった。

牧師のホイスターは、自身で二回ほど悪魔払いの儀式を行ってこれらの悪霊を退散させようとしたが、エクソシストとしての彼は三流だったか、よほど強力な霊魂だったらしく、効果はなかったようだ。

また、その儀式の最中養女のアデレードの肩に祟りとばかりに、こぶし大の石が飛んできて当たったこともあった。

結局、1935年10月に、ホイスター牧師は健康上の問題を理由にこの教区の牧師を辞めて、一家はボーリー牧師館を出て行くことになるが、それまでに2000回近い怪奇現象が起きたという。

一方において『デイリーミラー』で、以前にボーリー牧師館についての報道がなされた後、興味を持って牧師館を調査した研究者の中には、怪奇現象がホイスター夫妻の捏造ではないかという疑いを抱いた者もいた。

そして、疑われた妻のマリアンヌ・ホイスターの方は、異常な現象のうちのいくつかは夫のホイスター牧師や一部の怪奇現象研究者の仕業ではないかと考えてもいたようだが、ほとんどは確かに不可思議で説明のつかないものだという認識であったという。

マリアンヌ・ホイスター

ちなみに、マリアンヌは牧師館に部屋を間借りしていたフランク・ピアレス(Frank Pearless)と浮気をしていたようだ。

ハリー・プライスの調査

ハリー・プライスとホイスター家の人々

ホイスター牧師が去ってから、ボーリー牧師館はまたも空き家になる。

それから1937年5月、ハリー・プライスはアン女王基金会からの金で、一年間この牧師館を借りて調査に乗り出す。

プライスは、さらに5月25日、タイムズ紙で広告を出して週末にボーリー牧師館調査の協力者を募集した結果、48人もの志願者が集まった。

その大多数は怖いもの見たさの学生であったようだ。

1938年3月、プライスの助手S・ J・グランビル(S. J. Glanville)の娘ヘレン・グランビル(Helen Glanville)がロンドン南部のストリーサムで、ボーリー牧師館に出る幽霊を呼び出す交霊会を行い、プライスは、この交霊会で二つの幽霊を呼び出したと報告した。

ヘレンが、その幽霊たちから聞き出したところ、そのうちの一つはマリー・レール(Marie Lairre)という名の修道女の幽霊で、フランス出身だが、後に17世紀にイギリスに来て、この地の名門ウォルデグレーヴ家(Waldegrave Family)出身の領主に嫁いだが謀殺され、遺体は地下室か井戸に捨てられたという。

そして彼女は、時々牧師館の壁に「助けて」という文字を書いており、それは、それまでの目撃証言で語られていることだった。

二つ目は、サネックス・アミュレス(Sunex Amures)という男の幽霊で、火災を起こしてボーリー牧師館を焼き尽くし、牧師館の下に隠されている骸骨を、白日の下にさらすと語った。

その後、ハリー・プライスは、自身の調査結果をまとめて複数の本を出版。

後に、ボーリー牧師館が「最恐幽霊屋敷」として、世界にその名をとどろかせるきっかけを作った。

火災

1939年2月27日、W・H・グレグソン(W. H. Gregso)が新しい主となったボーリー牧師館で火災が発生、牧師館は焼失してしまった。

グレグソンは、このころすっかり幽霊屋敷として有名になったこの館に見物人を招いて一儲けしようとしていたらしいが、その目論見はご破算になる。

燃えてしまったボーリー牧師館

火災の原因はグレグソンの過失ともされるが、保険会社の調査によると、放火の可能性が高いというものだった。

また、ハリー・プライスは火災後に現地の人に取材したところ、火事の時にボーリー牧師館の二階の窓のところに、修道女が立っているのを見たと証言した者がいたという。

1943年8月、プライスは、ボーリー牧師館跡地の地下から二体の人骨を発見、そのうちの一つは、若い女のものと推定された。

それらの骨は当初人骨とはみなされなかったが、後にエセックス州の教区に埋葬された。

火災が起きた後も調査が行われてきたが、その調査中に照明装置が原因不明の故障を起こすなどの不可解な現象が発生したこともあったと伝えられる。

心霊現象研究協会の評価

幽霊屋敷ボーリー牧師館

ハリー・プライスが1948年に死去した後、エリック・ディングウォール(Eric Dingwall)、K・M・ゴールドニー(Kathleen M. Goldney)とトレヴァー・H・ホール(Trevor H. Hall)の三名の心霊現象研究協会メンバーが、生前のプライスによるボーリー牧師館に関する調査をまとめて、1956年に『幽霊屋敷ボーリー牧師館(The Haunting of Borley Rectory)』という著作を発表。

同時に、プライスの報告したボーリー牧師館の怪奇現象に関して、でっちあげがあったことを公表した。

この中では、少なからぬ怪奇現象が人為的であったか思い込みであったことが述べられており、例えば、不審な物音もネズミによるものだったり、建物がきしんだだけであったとされ、ディングウォールらは、調査すればするほど本物の怪奇現象であったかどうかは疑わしくなったとした。

また、神経内科の専門家であるテレンス・ハインズ(Terence Hines)は、ホイスター牧師夫妻が住んでいた1930年から1935年の期間に、夫妻は幽霊話のでっち上げに熱心で、プライス自身も同じようなものだったと主張した。

ホイスターの妻であったマリアンヌも、実際は幽霊を見たことがなく、以前に幽霊の声を聞いたというのもウソであり、夫と共謀して家にやって来た友人に幽霊がいるなどと言って、それらしい仕掛けを使って怖がらせては面白がっていたと告白。

他にも、ホイスターが引っ越してくる前の住人であるブル牧師の子供たちも、怪奇現象に出くわしたことはないと言っていたようだ。

ちなみに、これより前の1938年には、ボーリー牧師館のある地方に伝わる駆け落ちして殺された僧と修道女の言い伝えも、そのころには全く根拠のないでたらめだったと立証されていた。

一方で、プライスのホラを信じている心霊現象研究協会のメンバーもいる。

ロバート・ヘイスティングス(Robert Hastings)やプライスの遺言執行者のポール・タボリ(Paul Tabori)、ピーター・アンピーター・アンダーウッド(Peter Underwood)などであり、彼らは、プライスの報告が正しいとかたくなに信じていたのだ。

もっとも、現代では数々の有力な証拠から、ボーリー牧師館の話はプライスらのでっち上げであったというのが定説で、プライスの属していた心霊現象研究協会自体、プライス支持者の主張は、でっち上げであったことを覆すには足らないと結論付けている。

だが、ボーリー牧師館は、世界でもっとも有名な幽霊屋敷であることは現代でも変わらず、今でも跡地には、観光客がひっきりなしにやってきているようだ。

出典元―百度百科

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2023年 世界平和 中国 化学 科学

ブラックホール爆弾の脅威:実現する未来


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ブラックホールとは、質量の巨大な恒星が超新星爆発後、自身の重力によって極限まで収縮して生成されたり、巨大なガス雲の収縮で生成されるものであり、極めて高い密度と強い重力のために物質のみならず、周囲の時間と空間、光さえ脱出することができない天体であることは皆さんご存じのことであろう。

それほどの力を持つブラックホールであるが、それを何らかのエネルギー源として利用できないかと考えるぶっ飛んだ発想は古くからあった。

数理物理学者のロジャー・ペンローズ氏などは、1969年にブラックホールからエネルギーを取り出す方法として、「ペンローズ過程」と呼ばれる理論を提唱している。

ロジャー・ペンローズ氏

これはゴミを容器に入れて、回転するブラックホールのエルゴ球と事象の地平線の間に投入して、ゴミはブラックホールに捨てて容器のみを回収した場合、質量とエネルギーの等価性により「ゴミの質量+ブラックホールの減少した質量」に相当するエネルギーが容器を加速させることから、発電が可能というものだ。

むろん、こんなものはあくまで仮想的方法であって、現在のテクノロジーでは不可能なのは言うまでもない。

だが、エネルギー源として利用しようと考えるならば、同時に兵器としても利用できると考えてしまうのが人類のようである。

中華人民共和国の検索エンジン・百度のオンライン百科事典である『百度百科』において、そのブラックホールの力を利用した兵器「ブラックホール爆弾」が取り上げられており、しかも将来実現する可能性があるか否かについて、SFではなく大真面目に論じているのだ。

拙ブログでは、その攻めた内容をご紹介させていただく。

ロシア人科学者の予言とその説

まず「ブラックホール爆弾」とは、ブラックホールに投入したエネルギーが増幅されて戻ってくる連鎖反応を利用した物理的効果を指す。

当然、巨大なエネルギーを持っているこの「ブラックホール爆弾」であるが、何と百度百科において50年後には実現可能となり、現代の人類の心胆を寒からしむる原子爆弾をチャチなおもちゃに陳腐化し得るであろうと予言した人物がいることが紹介されている。

その人物の名は、ロシアの科学者アレクサンダー・トロフィメンコ氏。

トロフィメンコ氏によると、人類が反物質であるオトン(otone)の謎を解明した日には、原子力というテクノロジーを手に入れた後のように、この新しいエネルギーを発電に利用し、同時に新型兵器——「ブラックホール爆弾」の開発に用いることになるであろうというのだ。

発電に利用した場合、原子核サイズのブラックホールは、原子力発電所のそれを大きく上回るエネルギーを有するが、兵器に使われた場合、一発の「ブラックホール爆弾」の破壊力は大量の原子爆弾の同時爆発に匹敵し、10億人以上を死に至らしめることができるために瞬時に地球をも破壊できることを意味する。

それに比べたら、核兵器の危険性など取るに足らないものとなるはずだ。

だが、そもそもブラックホールとは、はるか遠くの何光年も先の宇宙空間に存在し、地球には関係のないところにあるものではないだろうか?

ところがどっこい、前述のトロフィメンコ氏の説では、宇宙のブラックホールのミニ版——「マイクロブラックホール」は地球上どこにでも存在し、人類に多くの災難をもたらすというのだ。

また、他のロシアの科学者の中にも、地球上で起きる自然現象のいくつかがマイクロブラックホールと関係があると考えている人物もいる。

例えば火山の噴火だが、火山活動のエネルギー及び熱量は地球上の特定の地点に集中しており、尽きることがないのだが、これは、太陽のエネルギーがブラックホールを通じて地球の深層部に伝わっているからではないかということである。

さらに、太陽には核エネルギーだけでなく、マイクロブラックホールも存在し、他のどの惑星の内部にもマイクロブラックホールはあるのではないかという説まで提唱されているらしい。

そして、ブラックホールは自然界に存在するだけでない。

「人工ブラックホール」を作り出すことは可能だと、トロフィメンコ氏は主張する。

ちなみにこの「人工ブラックホール」という発想は、最初1980年代カナダのブリティッシュコロンビア大学のウィリアム・ウンルー教授によってもたらされた。

教授は、音波が流体において示す動きは、光がブラックホールで見せる動きと非常に似ていると考え、流体の速度が音速を超えたら、その流体において人工ブラックホールとも言うべき現象が成立すると考えたのだ。

そして2001年1月、英国セント・アンドルーズ大学の著名な物理学者ウルフ・レオンハート博士の研究グループが、実験室内でブラックホールを作り出すことに成功したと主張。

しかし、レオンハート博士が作り出そうとした人工ブラックホールは十分な重力に欠けたため、本物のブラックホールのように光線をはじめ、周囲の全てのものを飲み込むことができず、当時はあまり注目を浴びることはなかった。

どうやら、トロフィメンコ氏が全てを飲み込む本物のブラックホールが将来的に実験室で作り出せると考えている根拠は、このレオンハート博士の実験から来たようだ。

こうして氏は、ロシアの新聞「プラウダ」で、ブラックホールは実験室にとどまらず、50年後には膨大なエネルギーを有する「ブラックホール爆弾」が、核兵器とは比べものにならない脅威として出現しているだろうという前述の予言をしたらしい。

だが、それに対して、主に中国の科学者の間から大いに疑問の声が挙げられた。

懐疑論

まず、中国科学院原子核研究所の研究員である沈文慶氏が、上記の説に対して疑問を呈した。

沈氏によると、「人工ブラックホール」を形成するための方法として、二つ以上の粒子を粒子加速器の加速によって衝突させて強大な吸引力を有するブラックホール様の物質を形成することが挙げられるが、このような方法で生成した物質をブラックホールと呼ぶことができるか否かについてのコンセンサスは、まだ得られていないという。

沈文慶氏

しかも、これらブラックホールに近い物質は、いまだに理論上の産物であり、地球上のいかなる実験室においても完成品を作り出すことに成功していない。

沈氏は「たった50年で、人工ブラックホールからブラックホール爆弾を製造できるようになるというのは現実的ではないですね。1%の可能性をもって100%できるはずというのは間違いであり暴論でしょうな」と一笑に付した。

天文学の専門家である南京紫金山天文台の研究者・王思潮氏も、人工ブラックホールはSFの領域を出ていないと主張している。

人工的にブラックホールを作り出そうとするならば、まず解決しなければならないのは、物質の分子や原子の間の間隔を小さくして質量を巨大にすることであり、質量が大きくなれば、万有引力の法則により、その物質の引力も巨大になり、近づく物質を吸収するようになる。

だが、現状では物質の質量を改変する装置は存在せず、できることと言えば、物質の原子核を圧縮して中性子の状態にすることであり、それですら困難であるため、密度が巨大なブラックホールならばなおさらではないかと、王氏は冷静であった。

次に、たとえブラックホールを作り出したとしても、いったいどんなキャリアを使ってブラックホール爆弾にするのか?ブラックホール爆弾を、どのような装置と方法で輸送及び保管するのか?

確かに威力は破滅的だが、現代のテクノロジーでは、持っている方がまず破滅するだろう。

中国科学院高エネルギー物理学研究所の科学者も、具体的な研究の進展はともかく、現時点でのテクノロジーでは、50年かかってもブラックホール爆弾が出現することはないだろうとしている。

上記の反論から見る限り、ブラックホールに対する認識は、ブラックホールがありうる場所があるという程度のものであり、この程度で、50年間以内にブラックホール爆弾が誕生するというのは絵空事であるようなので、ひとまず安心だ。

だが、50年後は無理でも100年後か200年後はわからない。

危険だから研究するなと言っても、研究するのが人類だ。

しかし、どうせやるなら地球上ではやらないでほしい。

頼むから最低でも太陽系外でやってくれ。

出典元——百度百科『黑洞炸弹』

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2023年 不良 事件 平成 悲劇 本当のこと 江ノ島 無念

正義感が引き起こした悲劇:1989年、片瀬江ノ島駅前暴走事件


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かつて毎日新聞に、吉野正弘という記者がいた。

吉野氏は、1956年(昭和31年)毎日新聞社に入社後、記者としてキャリアを積み重ねて、1964年に連載企画『組織暴力の実態』で新聞協会賞、1976年には、連載企画『宗教を現代に問う』により菊池寛賞、1987年には1980年から担当、執筆していた夕刊コラム『近事片々』で、日本記者クラブ賞を受賞した。

また、同社内でも社会部副部長、特別報道部編集委員、論説委員を歴任して論説室顧問という役職を得るなど、記者として大成功を収めたと言っても過言ではないであろう。

しかしこの人物、論説室顧問を務めていた1989年(平成元年)4月18日、56歳で帰らぬ人となる。

その最後はお世辞にも、その社会的地位にふさわしからぬものであった。

おれは暴走族が嫌いだ

以前の小田急線片瀬江ノ島駅

1980年代後半の神奈川県藤沢市にある小田急線片瀬江ノ島駅周辺の住民は、週末の夜ともなると騒音に悩まされていた。

湘南海岸にほど近いこの場所に、地元のみならず、埼玉や千葉からもバイクや改造車に乗った暴走族の若者が押し寄せてきていたからだ。

当時の暴走族

この地に自宅を構えていた吉野氏もその一人で、何度も電話で警察に取り締まりを求めていたという。

実害があるうえに、新聞記者という職業柄からか正義感の強かった彼は、当然暴走族に良い感情は持っていない。

それは、1989年4月17日に最悪の形で爆発し、翌日が氏の命日となってしまうことになる。

その日吉野氏は、妻と甥の三人で小田急片瀬江ノ島駅近くにある飲食店で食事し、酒も飲んだ。

三人は、午後10時ごろに店を出て帰路についたが、その通り道の片瀬江ノ島駅前まで来たところ、駅前のロータリーには、暴走族風の若者が乗ったバイクや車が集っているのが目に入った。

当時の暴走族

そのうち一台のバイクが、耳障りな音を立てて空ぶかしをし始めるや、日ごろから彼らの出す騒音にイラついていた吉野氏は、意外な行動に出る。

近くにあった長い鉄の棒を拾うやそれを手に取って「オレは暴走族が嫌いだ。懲らしめてやる」と言いつつ近づいて行ったのだ。

年寄りの冷や水どころか、無謀極まりない蛮勇である。

一緒にいた甥の証言によると、氏は酩酊したほど飲んではいなかったらしいが、酒が入っていて気分が大きくなっていたのは間違いない。

だったとしても、天下の毎日新聞の論説室顧問という重職にある56歳の人物のとっていい行動ではないだろう。

とはいえ、空ぶかしをしていたバイクは、鉄パイプを持った氏にビビったのか、それともたまたまなのか、ロータリーから立ち去る。

一番ムカつく奴は消えた。

だが、車に乗っていた者たちの中で、イキった若者らしい素直な反応を文句をつけてきた50男相手に示した者たちがいた。

元暴走族で日産フェアレディーZを運転して、近くの茅ヶ崎市からやって来た工員の山上正(25歳)と石井徳久(24歳)だ。

山上と石井は「貴様ら暴走族が気に入らん」とか言って鉄パイプ片手にやって来た50男のこしゃくな挑戦を、ダイレクトに受けて立ったのである。

吉野氏は正義感が強く、新聞業界において大成した人物ではあったが、荒事には全く慣れていない。

だから自分の力がどの程度であるか全くわかっておらず、鉄パイプを持てば無双だとでも酒が入った頭で考えたんだろう。

そんな吉野氏に、そこそこ修羅場も経験してきたであろう若者たちの過酷な洗礼が待っていた。

若者たちは、あっさりと氏の鉄パイプを取り上げるや拳で殴り、足で腹を蹴る。

「やめて!」

妻と甥が止めに入ったが、甥の方が若者に殴り倒される。

彼らはひとしきり吉野氏を暴行すると、乗って来た白い日産フェアレディーZに乗って逃走した。

公衆の面前での暴行だったために、犯行は短時間であったようだが、打ち所が悪かったらしい。

吉野氏は病院に運び込まれたが、翌日の未明に外傷性ショックにより死亡してしまった。

犯人の逮捕とその後の影響

当時の取り締まり

この傷害致死事件を受けて、神奈川県警は大規模な検問を実施。

さらに目撃証言から、犯人の乗っていた車として、県内の3073台にのぼる白い日産フェアレディーZの捜索が始まった。

事件から約二か月後、茅ヶ崎市内のある駐車場に日産フェアレディーZが停まっていたが、事件直後に姿を消したという証言が入る。

この日産フェアレディーZの持ち主として、山上正の事情聴取が始まり、ほどなくして山上は犯行を自供。

共犯者の石井徳久も、その後に逮捕された。

山上によると、鉄パイプを持った吉野氏が、明らかに酔っぱらっていたように見えたため、何をされるかわからないと思って、ついついやりすぎてしまったようだ。

山上は、事件直後に友人から買ったばかりの愛車である前述のフェアレディーZを証拠隠滅のために転売。

また、両人とも翌日には普段と変わらず、何食わぬ顔で職場に出勤していた。

その後、藤沢市では県警により暴走族の大規模な締め出しが行われ、週末に多くの若者が集まることはなくなった。

また、事件の起こった片瀬江ノ島駅前も、車が入ってこれないように車止めが設置されて現在に至っている。

ところで、殺されてしまった吉野氏だが、当時の報道を見る限り正義感を発揮して命を絶たれた気の毒な人、という扱いがされている。

たしかに、死ぬまで暴行した山上と石井はとんでもない野郎だが、吉野氏も吉野氏ではなかろうか。

大新聞・毎日新聞の重職にある56歳が、酒に酔って鉄パイプを持って若者に挑むのは、褒められた行為ではあるまい。

言っちゃ悪いが、生前の功績を台無しにする最後を迎えた人間の一人と考えるのは、筆者だけではないだろう。

出典元―朝日新聞、毎日新聞

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2023年 オラオラ系 カツアゲ ならず者 本当のこと 横浜

2000年の暴力ブティック:ヨコハマソウルシティの真実

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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「万引き」「金無し」「見るだけ」「ひやかし」

上記の方は、入店を固くお断りします。

今から二十年以上前、横浜市元町に以上のような注意書きを記した紙を入口に貼って、営業していた店が実在した。

その名は、ヨコハマソウルシティ

そりゃあ、買う気もないのに店に来て何も買わずに帰っていく奴は、店の側からしたら好ましくないのは理解できるが、こうもはっきり書かれると、感じがバチクソ悪い。

たいていの人は、かように不遜な注意書きを見せられたら、入る気は失せるだろう。

だが、中には「そんなバカな」と高をくくるか見落として入ってしまい、「万引き」はともかく「見るだけ」で帰ってしまおうとする人もいた。

そして、そういった不注意な人々は、ヨコハマソウルシティが一般常識の通じる店ではないことを思い知り、同店どころか元町に行く気が終生起きなくなるくらいの思いをさせられることになった。

なぜなら、このヨコハマソウルシティは、暴力バーのブティック版、「暴力ブティック」だったからだ。

冷やかし客への過酷な仕置き

2000年11月17日、横浜の元町ショッピングストリートを訪れた村上園美(仮名・26歳)は、一軒のブティックに入った。

その店の入り口には、店名である「ヨコハマソウルシティ」のアルファベット表記の下に注意書きらしき貼り紙が貼られていたが、彼女の目は、ガラス越しの店内にある商品にあったようだ。

だからと言って、お目当てのモノがあったわけではない。

とにかく、これは、と思えるようなモノがあれば買おうというノリであり、なければ次の店に行けばよい。

ひととおり見て回って、なかなかいい感じと思えるコートを見つけた。

一応手に取って他のモノを物色するが、この店にはなさそうだ。

このコートも最初はいい感じだと思ったが、やっぱり買うのはやめとこう。

「試着してみますか?」

店主と思しき中年の男が話しかけてきた。

「すいません。やめときます」

悪いけど買う気はない。

元の場所に戻して次の店に行こう、と思っていたから、サバサバした感じで断った。

しかし、その店主の男の態度が次の瞬間に急変する。

「あ?試着しねえだと!?どういうことだ!オイ!」

いきなり怒声を張り上げ、園美を罵倒し始めたのだ。

え?何で何で?どうしてこんなこと言ってくるの?

まさか、店の人間からこんな態度を取られるとは予想だにしていなかった園美は凍り付いた。

「あ、いや、えっと…あんまり好みじゃなかったから…」

「表の貼り紙に書いてあんだろ!買う気がねえのに入ってくるたあ、ナメてんのか!?コラ!!」

「ごめんなさい」

大の男に大声で罵声を浴びせられ、園美はショックのあまり頭が真っ白になっていたが、この男が純粋にこの店の商品を買わないことにキレていることは分かった。

「じゃあ、これください…」

園美は一番安い小物を買って許してもらおうとしたが、男の怒りは収まらない。

「そんなもんで、お茶濁してんじゃねえ!てめえがさっきべたべた触ったコート買えよ!」

「いくらですか…?」

「42000円だよ!」

「そんなお金持ってません…」

男は、より激高した。

「金も持ってねえのにウチの店入りやがったのか!!土下座しろ!!ボケえ!!!」

「え…」

「しろっつってんだろ!!オラあ!!!」

あまりの剣幕に、すっかりおびえ切っていた園美は、へたり込むように土下座した。

ばかりか、男は店内でタバコを吸い始め、彼女をなじりながら吸い殻を投げつけることまでした。

園美は所持金3000円を取り上げられ、次の一週間後に残金を支払うことを約束させられた後でやっと解放されたが、この世のものとは思えないほどの言葉の暴力を加えられて、ズタボロにされた彼女は悔し泣きをしながら、その足で交番に駆け込んだ。

土下座の強制は、刑法的には義務のないことを命令したりする行為、強要罪であるから、立派な犯罪に当たる。

園美は被害届を神奈川県警加賀町署に提出し、同署は12月7日店主である石黒成(本名・38歳)を恐喝の疑いで逮捕した。

六年間のさばり続けたヨコハマソウルシティ

ヨコハマソウルシティは、事件の六年前の1995年に開店した当初から、何かと問題を起こしてきた店だったようだ。

商品を買わなかったばっかりに、園美のように土下座させられたり、肩を突き飛ばされたり、買うまで入口に施錠されて出してもらえなかったりしたなどの苦情が、元町の商店会や交番に数多く寄せられていたのである。

商店会は、たびたび改善を申し入れていたのだが、石黒は「これがうちの営業方針だ」と言い張って、聞く耳を持たなかったという。

また、被害にあうのは冷やかし客だけではない。

事件の起こる二か月前の9月には、店舗の前に配送のトラックを停めた男性に「店の前の道路もオレのもんなんだよ」とか「オレの店は1時間1万円売る店だから1万円分買え」などと、Tシャツ3枚を無理やり買わせて、1万1000円を恐喝していたのだ。

ちなみに、その店の前の道は市道であり、トラックが停まっていた時間に店のシャッターは閉まっていた。

こういうことが重なって石黒はとうとう逮捕されたが、取り調べにあたった警官によると、この男は人格的に大いに問題があったらしい。

彼は、事情聴取を受けている際にたびたび激高して大声を張り上げて、反抗的な態度を取ったかと思えば、ほどなくして、人が変わったように猫なで声を出すなど、感情の起伏が激しすぎる面が目立ったという。

何らかの人格障害があったと思われる。

ヨコハマソウルシティは店主が逮捕された後、残った女性の店員が営業を継続。

しかし、この店員もかなりの強者で、あるテレビ局が取材したところ、

「うちは、こういう方針でやっていますから」と悪びれもせずに言い放ったという。

もっとも全国的に、この店の危険性が知られた以上、営業を継続することは困難だったようで、翌年2001年の春には同店は閉店。

同年9月、恐喝、暴行罪に問われた石黒には、横浜地裁により懲役2年6月、執行猶予5年(求刑懲役2年6月)が言い渡された。

出典元―朝日新聞、日刊スポーツ

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2023年 Linux LPIC コマンド コンピューター 技術一般

LPIC を学ぶ(1) lsof コマンドについて


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オープン中のファイルやプロセス、待ち受けポート番号などを、リストで表示するコマンドです。

lsof(エルエスオーエフ)コマンドは”list open files”の意味であり、多くのUnix系オペレーティングシステムで、オープン中のファイルやそのファイルをオープンしているプロセスのリストを出力するコマンドである。このオープンソースのユーティリティは、パデュー大学コンピューティングセンターの元アソシエートディレクター、ビクター・A・アベルによって開発・サポートされた。lsofはいくつかのUnix系OSで動作し、サポートされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Lsof

lsofコマンドの書式

lsof [オプション]

「オプション」で、よく使うものは以下のものがあります。

 オプション 意味
-Pポート番号をサービス名に変換しない
-cプロセス名を指定する
-pプロセス ID を指定する
-n名前解決なしで IP アドレスで表示する
-uユーザー名を指定する
-iネットワークソケットを表示する
よく使うと思われるオプションのみ抜粋

lsof コマンドの出力には、以下の10個の項目があります。

 項目 意味
COMMAND表示されているコマンド
PIDプロセス ID
USER実行ユーザー名
FDファイルディスクリプター
TYPEタイプ
DEVICEデバイス
SIZE/OFFファイルサイズ
NODEプロトコル
NAMEファイル又はポート

コマンド出力例

それでは、「c」オプションの出力例を見ていきましょう。

「c」オプションでは、プロセス名を指定します。

まずは、ps コマンドでプロセス一覧を見てみましょう。

root@kelly ~]# ps aux | more
USER         PID %CPU %MEM    VSZ   RSS TTY      STAT START   TIME COMMAND
root           1  0.0  0.9 173312  7044 ?        Ss   01:42   0:02 /usr/lib/systemd/systemd rhgb --switched-root --system 
--deserialize 31
root           2  0.0  0.0      0     0 ?        S    01:42   0:00 [kthreadd]
root           3  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:00 [rcu_gp]
root           4  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:00 [rcu_par_gp]
root           5  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:00 [netns]
root           7  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:00 [kworker/0:0H-events_highpri]
root           9  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:07 [kworker/0:1H-events_highpri]
root          10  0.0  0.0      0     0 ?        I<   01:42   0:00 [mm_percpu_wq]
root          12  0.0  0.0      0     0 ?        I    01:42   0:00 [rcu_tasks_kthre]
root          13  0.0  0.0      0     0 ?        I    01:42   0:00 [rcu_tasks_rude_]

この中で、今回は「rcu_gp」を指定してみます。

[root@kelly ~]# lsof -c rcu_gp
lsof: WARNING: can't stat() fuse.gvfsd-fuse file system /run/user/1000/gvfs
      Output information may be incomplete.
lsof: WARNING: can't stat() fuse.portal file system /run/user/1000/doc
      Output information may be incomplete.
COMMAND PID USER   FD      TYPE DEVICE SIZE/OFF NODE NAME
rcu_gp    3 root  cwd       DIR  253,0      235  128 /
rcu_gp    3 root  rtd       DIR  253,0      235  128 /
rcu_gp    3 root  txt   unknown                      /proc/3/exe
[root@kelly ~]# 

「rcu_gp」に関する表示が出ましたね。

次に「i」オプションを見てみましょう。

「i」オプションでは、ネットワークソケットを表示します。

[root@kelly ~]# lsof -i | more
COMMAND     PID   USER   FD   TYPE DEVICE SIZE/OFF NODE NAME
avahi-dae   772  avahi   12u  IPv4  22478      0t0  UDP *:mdns 
avahi-dae   772  avahi   13u  IPv6  22479      0t0  UDP *:mdns 
avahi-dae   772  avahi   14u  IPv4  22480      0t0  UDP *:38624 
avahi-dae   772  avahi   15u  IPv6  22481      0t0  UDP *:55406 
chronyd     798 chrony    5u  IPv4  22365      0t0  UDP localhost:323 
chronyd     798 chrony    6u  IPv6  22366      0t0  UDP localhost:323 
NetworkMa   949   root   28u  IPv4 122860      0t0  UDP kelly.kanan.com:bootpc->_gateway:bootps 
cupsd       956   root    6u  IPv6  23433      0t0  TCP localhost:ipp (LISTEN)
cupsd       956   root    7u  IPv4  23434      0t0  TCP localhost:ipp (LISTEN)
sshd        958   root    3u  IPv4  23448      0t0  TCP *:ssh (LISTEN)
sshd        958   root    4u  IPv6  23459      0t0  TCP *:ssh (LISTEN)
firefox   36564  kxxx   56u  IPv4 209042      0t0  TCP kelly.kk.com:49672->239.237.117.34.bc.googleusercontent.com:htt
ps (ESTABLISHED)
firefox   36564  kxxx  124u  IPv4 173714      0t0  TCP kelly.kk.com:35908->ec2-35-161-139-221.us-west-2.compute.amazon
aws.com:https (ESTABLISHED)
[root@kelly ~]# 

通信しているもののみが表示されました。

「i」オプションでは、「i:<Port#>」とすることでポート番号を指定することもできます。例えば、HTTP(TCP/80)を指定する場合は、「i:80」と指定します。

以下は、HTTPS(TCP/443)を指定した例となります。

[root@kelly ~]# lsof -i:443 | more
COMMAND   PID  USER   FD   TYPE DEVICE SIZE/OFF NODE NAME
firefox 36564 kxxx   56u  IPv4 209042      0t0  TCP kelly.kk.com:49672->239.237.117.34.bc.googleusercontent.com:https 
(ESTABLISHED)
firefox 36564 kxxx  124u  IPv4 173714      0t0  TCP kelly.kk.com:35908->ec2-35-161-139-221.us-west-2.compute.amazonaws
.com:https (ESTABLISHED)
[root@kelly ~]# 

次に「u」オプションを見てみましょう。

「u」オプションでは、指定したユーザー名でフィルターして表示します。以下の例では、root ユーザーを指定しています。

[root@kelly ~]# lsof -u root | more
COMMAND     PID USER   FD      TYPE             DEVICE  SIZE/OFF       NODE NAME
systemd       1 root  cwd       DIR              253,0       235        128 /
systemd       1 root  rtd       DIR              253,0       235        128 /
systemd       1 root  txt       REG              253,0   1949240     496091 /usr/lib/systemd/systemd
systemd       1 root  mem       REG              253,0    582323     579363 /etc/selinux/targeted/contexts/files/file_cont
exts.bin
systemd       1 root  mem       REG              253,0     45408   33959961 /usr/lib64/libffi.so.8.1.0
systemd       1 root  mem       REG              253,0    153600   33883645 /usr/lib64/libgpg-error.so.0.32.0
systemd       1 root  mem       REG              253,0     28552   33978142 /usr/lib64/libattr.so.1.1.2501
systemd       1 root  mem       REG              253,0    102568   33871561 /usr/lib64/libz.so.1.2.11
systemd       1 root  mem       REG              253,0     32528   33959999 /usr/lib64/libcap-ng.so.0.0.0
systemd       1 root  mem       REG              253,0     41056   34639057 /usr/lib64/libeconf.so.0.4.1

以下、省略

今度は、kxxx ユーザーを指定してみます。USER の項目が kxxx のもののみが一覧表示されました。

[root@kelly ~]# lsof -u kanta | more
COMMAND     PID  USER   FD      TYPE             DEVICE  SIZE/OFF       NODE NAME
systemd    1828 kxxx  cwd       DIR              253,0       235        128 /
systemd    1828 kxxx  rtd       DIR              253,0       235        128 /
systemd    1828 kxxx  txt       REG              253,0   1949240     496091 /usr/lib/systemd/systemd
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0    582323     579363 /etc/selinux/targeted/contexts/files/file_con
texts.bin
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0     45408   33959961 /usr/lib64/libffi.so.8.1.0
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0    153600   33883645 /usr/lib64/libgpg-error.so.0.32.0
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0     28552   33978142 /usr/lib64/libattr.so.1.1.2501
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0    102568   33871561 /usr/lib64/libz.so.1.2.11
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0     32528   33959999 /usr/lib64/libcap-ng.so.0.0.0
systemd    1828 kxxx  mem       REG              253,0     41056   34639057 /usr/lib64/libeconf.so.0.4.1

以下、省略

この教材を使って学んでます。

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1997年、小牧市の悲劇:日系ブラジル人少年の集団暴行殺人


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1997年10月6日、愛知県小牧市でバットやゴルフクラブを持った暴走族の少年20人あまりが、小牧駅通路でたむろしていた日系ブラジル人の少年少女たち10人を襲撃。

三人のブラジル人の若者が重軽傷を負い、14歳のブラジル人少年・エルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガが拉致されて暴行を受け、後日死亡する事件が起きた。

暴走族による襲撃の理由は、不良ブラジル人三人にケンカを吹っ掛けられ、車をへこまされた報復である。

しかしエルクラノを含め、襲われたブラジル人少年たちは、日本人少年グループにケンカを売った三人と全く関係がなく、同じブラジル人という理由で攻撃されてしまったのだ。

そして、事件後に明らかになったのは、被害者及びその両親に対する少なからぬ日本人の冷たい対応だった。

ブラジル人の多い小牧市

エルクラノ

殺されたエルクラノ・ルコセビシウス・レイコ・ヒガ(14歳)は、1991年に出稼ぎ労働者として来日していた両親に呼ばれて、1995年に日本にやって来た。

来日して日本の中学校に入ったが、いくら言語習得の黄金期である十代前半でも、来日したばかりの彼にとって言葉の壁は厚く、学校生活になじめなかったようだ。

そこで中学校をやめて、ブラジルの通信教育システムを使って在宅で勉強を続けていた。

このように、日本の学校になじめなかった日系ブラジル人の少年少女は全体の約半数に上っていたため、エルクラノは少数派というわけではない。

かといってグレたわけでは決してなく、仕事で忙しい両親をサポートするために家事を手伝ったり、14歳ながらアルバイトをして、家計を助けていたまじめな少年だったのだ。

そんな彼にとっての息抜きは、小牧駅北側通路付近で同じブラジル人の若者と集まって話すことだった。

1990年6月に「出入国管理及び難民認定法」が改正されて日系人に在留資格が認められて以来、労働目的で日系ブラジル人が来日するようになり、特にここ小牧市は、現在でも日系ブラジル人が多い。

エルクラノと話す仲間のブラジル人の若者たちも両親に連れられてきたか、自分も工場などで働いている日系人だ。

来日して間もない者が多く、日本人は自分たちを避けて遠巻きにするから、やはり同国人同士は楽しい。

かといって、ブラジル人だけで固まっているわけではなく、このグループには仲良くなった日本人の少年少女も混じっていた。

十代の者がほとんどだが、彼らは悪さをする集団ではない。

集まって話をしているだけで、無害な部類の若者たちだった。

が、日系ブラジル人は彼らのような者ばかりではない。

数が多いと、不心得者も一定数出てくる。

エノクラノが命を奪われる事件のきっかけとなる出来事が、二日前に彼とは関係のないところで起こされていた。

シルビアに乗った不良ブラジル人

その出来事は10月4日、車を運転していた兼井亮(仮名・19歳)たちが三人の日系ブラジル人の若者にケンカを売られたことから始まる。

前をノロノロ走っていたシルビアを兼井の車が追い越したところ、そのシルビアが急加速して追いかけてきて、パッシングをするなど煽ってきたのだ。

そして横に並ぶや、中に乗っていた一人が身を乗り出して「バカヤロ!」と、なまりのある日本語で怒鳴るや、ゴルフクラブで兼井の車を一撃。

そのまま走り去った。

「あのボケら!」

暴走族などの悪い連中と付き合いがあり、その一味の者でもある兼井は怒り狂ったが、この車は知り合いから借りた車。

どこかへこまされていないか点検しようと車を停めると、先ほどのシルビアが戻って来た。

車内には、ここのところ街でよく見かけるようになった日系ブラジル人と思しき、ほりの深い顔立ちの三人の若者。

こちらを見ながら、ヘラヘラ笑って挑発しつつ再び去って行った。

「覚えとけよガイジン!顔は覚えただでな!」

兼井はヤンキーらしい捨て台詞をシルビアに向かって吠えたが、ナメられているのは明らかだから、この怒りは押さえられない。

彼は不良少年、ナメられたら自分はおしまいだと考えている種類の人間なのだ。

だいたい最近小牧市のあちこちで見かけるようになった日系ブラジル人だが、彼はいい印象を持っていない、というかムカついていた。

ついこないだも、小牧駅で日系ブラジル人らしき少年たちに「オマエ、オレニ“バカ”イッタデショ?」とか、訳のわからんいいがかりをつけられ、もめたことがあったのだ。

そういえば、さっきの奴らと同じ連中だったような気がしないでもない。

この時の兼井が知っていたか否かはわからないが、さきほどのシルビアの三人は、この小牧界隈のブラジル人ばかりか日本人不良少年の間でも有名になり始めていた札付きであった。

窃盗などの悪さを重ねる一方で、暴走族のようなイキっている日本人の不良少年が大好物らしく、見かけるとすぐにケンカを売ってくる武闘派でもあるのだ。

その夜、家に帰ってムカムカしていた兼井の携帯電話に着信があった。

かけてきたのは、タメ年の吉池浩二(仮名・19歳)。

かなりヤンチャしている男で、あちこちの暴走族にも顔が利く実力者だ。

その要件は何と、あの「シルビアのガイジン」、兼井の顔見知りでもある後輩の一人が車をへこまされたから、仕返しの手伝いに来いと言うではないか。

「そいつ知っとるぞ!俺も探しとったんだわ!」

時間はすでに夜12時を回っていたが、復讐の炎をたぎらせるあまり寝付けなかった兼井は、いきり立って家を出た。

兼井は吉池とその後輩らと合流した後、車に分乗。

車に鉄パイプやゴルフクラブを積んで、「シルビアのガイジン」狩りに夜の街へ繰り出した。

それにしても「シルビアのガイジン」は、この日特に大暴れだったらしい。

兼井や吉池の後輩にそれぞれケンカを売ったばかりではなく、別のグループにもちょっかいを出していたようなのだ。

兼井たちは途中に立ち寄ったコンビニで、自分たちより年下と思しき鉄パイプを手にした不良少年たちに出くわしたが、何かを探している様子だったので、もしやと思い「オメーら、ダレ探しとんだ?」と先輩風を吹かせて聞いたところ、彼らの答えは「シルビアのガイジン三人っす」。

少年たちは原チャリをやられたという。

その後、兼井たちは目を血走らせて、午前4時まであちこち探して回った。

だが、結局この日は誰も「シルビアのガイジン」を見つけることはできず、ムカつく気持ちを抑えられないまま、日本人の不良少年たちは帰宅した。

続々集まる日本人不良少年たち

10月6日の夕方、市内のファミレスに、吉池と兼井ほか三人の少年が集まっていた。

要件は、吉池が仲介した仲間同士の車の売り買いについてだったが、兼井は一昨日の「シルビアのガイジン」たちへの怒りが頭から離れず、この場でもそれを口にする。

二日前のことだがまだムカつく。

そして話しているうちにだんだん怒りが増してきた。

「ガイジンたよ(外人たちさ)、小牧駅にようけおるみたいなんだわ」

夕方に同胞に会おうと小牧駅北側通路に集まる、エルクラノを含む日系ブラジル人の少年たちのことである。

前に自分に文句をつけてきたガイジンも小牧駅にいた奴らだったし、「シルビアのガイジン」はあの中にいるか、もしくは知り合いかもしれないと考えたようだ。

「ああ、そういや、あそこいつもガイジンようけおるな」

「あれんた(あいつら)の中におるて、ぜってーに。やってまわんか?」

ここで兼井の話を聞いていた吉池も、自分の息のかかった者がやられているので熱くなり、こう言った。

「そうだて、やってまおうぜ。どつき回したろう」

日系ブラジル人襲撃の決行が決まった瞬間だった。

内心行きたくないと思っていた者もいたが、ここで「やめよう」と言ったら、周りに怖気づいたと思われてしまうだろう。

ここにいるお世辞にも善良とは言えない少年ばかりの中で、それは立場を完全に失うことを意味した。

そうは言っても、ここにいる人数では心細い。

悪ガキどもは、頭数を揃えるためにそれぞれのツレに電話し始めた。

同時に兼井は、バイクで小牧駅に彼らがいるかどうか偵察に向かう。

その頃、自宅で家族団らんの夕食を終えたエルクラノは、いつもの小牧駅北側通路に向かっていた。

「みんな来てるから、お前も来いよ」と、同じ日系ブラジル人の友達であるホリオンに電話で誘われたからだ。

家を出る時、母親のミリアンには「早く帰ってきなさいよ」と言われながら、喜び勇んで憩いの場所に出かけた。

小牧駅に着くと、いたいた。

ホリオンも、コウタも、エリオも、カヨコも、みんないる。

エルクラノを見つけると「よーう」とか言って、笑顔を向けてくる。

いつものメンツに加えて何人かの見かけない顔とカヨコのような地元の日本人もいるが、ここに集っている以上みんな友達だ。

エルクラノもその輪に加わって、仲間たちと話を始めた。

気の置けない友人たちと直接会って話をするのはやはり楽しい。

こういうのは携帯電話ではだめだ

彼が合流してからしばらくして、一台のバイクが彼らの近くを通り過ぎた。

バイクの形とそれにまたがっている者の風体から、日本人の中で不良とみなされている「暴走族」っぽい若者である。

それは、日系ブラジル人の少年少女たちにも分かるのだ。

バイクは距離がある程度離れたところに停まると、それに乗っていた若者はこちらに向かって「馬鹿野郎!」と吠えて走り去った。

「なんだあいつは?」

少々気分が悪いが、気にしない。

日系ブラジル人の若者たちは、つい先日行った同国人の開いたイベントの話題などで盛り上がり始めた。

「おったぞおったぞ!ガイジンた、十人くらい小牧駅におった!」

小牧駅への偵察から戻って来た兼井が、ファミレスに待機していた吉池たちに報告した。

「よっしゃ!人数も集まったで、ガイジンども、ボコボコにしたろう!」

ファミレスには、いつの間にか先ほどより多くの不良少年が集まっている。

それぞれのツレを呼び、またそのツレがツレを呼んだりして、20人くらいになっていたのだ。

当然、どいつもこいつも暴走族をやってたりするろくでなしで、木刀や鉄パイプ、ゴルフクラブなどの凶器持参なのは言うまでもない。

こんな奴らに集合場所にされて、店もいい迷惑である。

悪ガキどもは「腹が減ってはいくさはができぬ」とばかりに飯を食いながら、事実上の司令官である吉池による襲撃の手順などの説明を拝聴する。

当初の目的は「シルビアのガイジン」をぶちのめすことだったが、それはいつの間にか、小牧駅でたむろしているガイジンを一網打尽にすることに変わっていた。

また、何のために集まったかわからず、ファミレスで初めてその目的を聞いて帰りたくなった者もいたが、ここまで来といて帰るわけにいかない。

何度も言うが、こいつらは不良。

ビビったと思われたらおしまいだと考えているバカどもだからだ。

夜九時を回ろうとしたころ、総勢20人のバカたちは、車やバイクに分乗して小牧駅に向かった。

襲撃

午後9時を回ったころ、談笑していたエルクラノら日系ブラジル人の耳に、バイクの爆音が再び入って来た。

また暴走族である。

しかし、今度は大人数であり、しかも手に手にバットやバールなどの得物を持っている。

そして、何か怒鳴りながら、こちらにまっしぐらに向かってくるではないか。

「やばい!逃げろ!!」

自分たちを襲撃しに来たと分かったブラジル人の若者たちは、いっせいに逃げ始めた。

「待てコラ!ガイジン!!」

吉池と兼井を先頭に、暴走族グループは、二十人を二手に分けて挟み撃ちにする配置で襲撃。

ブラジル少年三人が逃げ遅れ、それぞれ取り囲まれる。

「こいつか?こいつじゃねえな」

「オイ、コラ!シルビアのガイジンどこだて!?」

「言えや!」

当初の目的どおり「シルビアのガイジン」のことを聞き出そうとしていたが、日本語が未熟なブラジル少年たちに、方言とスラングの混じった早口の日本語が聞き取れるわけがない。

それに、「シルビアのガイジン」って何のことだ?ブラジル人なら誰でも知り合いというわけではないのだ。

「ワタシシラナイ!ソレハナニ?」

「ちゃんと日本語しゃべらんかい!!」

イラついた兼井は、拳を脇腹に叩き込む。

他の奴らも木刀やバットをブラジル人に振り下ろし、蹴りを入れまくる。

最初は「シルビアのガイジン」の行方を聞き出すことが目的だったが、「シルビアのガイジン」もこいつらも同じガイジンだ。

日本に来て偉そうにしているように見えるから、ムカつく。

彼らが標的にしたのは、日系人でも明らかに外国人だと分かる顔立ちの者であり、一緒にいた日本人の少女や日本人そのものの顔をしている日系ブラジル人は襲われなかった。

兼井たちに痛めつけられた三人の若者は、ふらつきながら小牧駅構内に入って改札にいた駅員に助けを求めたが、何と駅員は「自分で警察に電話しなさい」と、つれない態度を取るではないか。

暴走族にビビッて、かかわらないようにしていたんだろう。

それでも三人は改札を飛び越えてホームに向かい、運よくやって来た電車に飛び乗って難を逃れることができた。

一方のエルクラノもホームに逃げ込んできたが、運悪く電車はまだ来ない。

そこで反対のホームに移動したのだが、そこで暴走族に見つかり捕まってしまう。

彼らは改札の外にいたのだが、エルクラノを見つけると、改札を飛び越えて殺到してきたのだ。

「タスケテクダサイ!」

エルクラノも構内にいた駅員に訴えたが、こいつも冷たい奴、いや非常識極まりない奴だった。

「他のお客さんに迷惑だから出て行きなさい」と明らかに身の危険にさらされているエルクラノを見捨てる態度に出るんだから信じられない。

彼は暴走族に羽交い絞めにされて、小突かれながら連れ去られようとしているのにだ。

暴走族たちは嫌がるエルクラノを車に押し込んで、すでに騒然となっている小牧駅から退散していった。

市之久田中央公園でのリンチ

現在の市之久田中央公園

「コラ!シルビアのガイジンはどこ住んどるんだ?!」

「知っとるだろが!言えて!おい!」

「日本でちょうすいた(生意気な)態度とるなてボケ!!」

エルクラノをさらって市内の市之久田中央公園に移動した不良たちは、ここでも「シルビアのガイジン」の行方を聞き出そうとしていたが、小牧駅同様同じガイジンだからとばかりに、その怒りが何の関係もないエルクラノに向かいつつあった。

どころか「そういえば、こいつあのシルビアに乗っとった奴の一人に似とるな」「いや、こいつじゃねえか!」ということになり、木刀で突き、顔面に拳を連打し、飛び蹴りをくらわし、歯が折れたらしいエルクラノは、口から血泡を出し始める。

「ワタシ、チガウ!イウイウ!ソノヒトシッテル!!」

「ほんまか?ほんなら電話しろや!」

エルクラノが苦し紛れにそう言うので、暴走族の一人が自分の携帯電話を出して電話させた。

携帯電話を貸したのは、谷永健一郎(仮名・19歳)というこの公園に移動してから新たに加わった少年で、一緒に働いている中野拓也(仮名・19歳)と難波友親(仮名・19歳)たちと来たようだ。

難波は木刀、中野はバタフライナイフ持参で来ている。

この時点で、不良の数は27人に増えていた。

だが実際、エルクラノは「シルビアのガイジン」の顔は知っていても友達ではないのだ。

よって電話番号などの個人情報は知るわけがない。

彼は谷永の電話を操作し、相手が出るとポルトガル語で話し始めたが、不良たちはその話しぶりから、すぐに何だかおかしいことに気づき始めた。

「シルビアのガイジン」じゃなくて助けを呼んでいるような感じがしたのだ。

「こいつ、助け呼んどらせんか?」

「オメーどこかけとるんだて!」

「おい!日本語使えて!」

エルクラノから携帯電話を取り返そうとしたが、手を離さずにポルトガル語で、何かを必死に訴えている。

彼は「シルビアのガイジン」と見せかけて、自宅に電話して父親に助けを求めていたのだ。

暴走族たちは、エルクラノの背中をバットで強打し、ゴルフクラブで殴りつけて、携帯電話を奪い取った。

この暴行で特に威勢が良かったのは、小牧駅での襲撃に間に合わなかった難波と谷永のグループである。

難波は、木刀でエルクラノを連打し、谷永は中野が持ってきたバタフライナイフを拝借して、エルクラノの右の太ももを刺すことまでしたのだ。

「アイイイイ!!!」

悲鳴を上げた彼だったが、暴走族グループによって、さらに容赦のない殴る蹴るの暴行を加えられる。

このままやったら死ぬな、と思った者も中にはいたらしいが、誰もやめようとはしない。

その最中、不良たちは公園内に複数の人影を見つけた。

夜のジョギングか散歩をしに来た人々である。

「やっべ!ずらかるぞ!!」

不良たちはそれぞれ乗って来た車やバイクに分乗して、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

やっと地獄のリンチから解放されたエルクラノ。

だが、遅かった。

彼はその後、近所の学習塾の講師によって助けられ、救急車で病院に運ばれたが、あまりにも身体へのダメージが重く、二日後に死亡する。

たった十四年の生涯だった。

そして皮肉なことに、日本人の不良少年が追っていた「シルビアのガイジン」たちは、10月6日の時点で車上荒らしにより逮捕されていたのだ。

エルクラノを救え!

「とうちゃん!助けて!!おれ、暴走族にめちゃくちゃやられてるんだよ!」

「エルクラノか!?今どこにいるんだ!?」

「えと、国道41号で、あと、おもちゃ屋の看板が見える。頼むよ!早く助けて!」

「大丈夫か!おい!!」

「痛っ!やめてくれよ!痛い痛い!!」

「おい!もしもし!もしもし!」

エルクラノの父マリオが受けた息子からの電話である。

彼はこの時、市之久田中央公園で暴行を加えられている最中であり、谷永の電話を借りて電話したのは、父親に助けを求めるためであったが、通話は暴走族に電話を取り上げられてすぐに終了した。

小牧駅で日系ブラジル人の少年少女たちが暴走族に襲われ、エルクラノがさらわれたことは、襲われた者たちが知らせたために、彼の両親であるマリオとミリアンだけでなく、市内の日系ブラジル人に知れ渡っていたようだ。

マリオの家の周りには知り合いだけではなく、全く見ず知らずの日系ブラジル人までもが続々集まってきて、車でそれぞれエルクラノを探し回り始めていた。

さらわれたのは、同じブラジル人の少年。

相手は暴走族だから見つけたとしても、おとなしく返してくれるわけはない。

ならば、実力で奪い返すまでだ。

マリオが知らせた情報を頼りに、腕ずくで取り戻すことも辞さない熱血漢たちは、車を走らせて血眼になって同胞の少年の行方を捜した。

だが、彼らはエルクラノを救うことはできなかった。

反省の色がない不良たち

市之久田中央公園からバックレてきた吉池や兼井ら不良少年たちは、市内のスーパー銭湯の駐車場に集まっていた。

「谷永、あのガイジン刺しとったが。どんな感じ?」

「別に、すうーって刺さったって感じ」

「オレかて木刀クリーンヒットさせたったがな」

「おめー、後ろで見とっただけだったが!」

「やっとったて!おめえが見とらんだけだがな!!」

彼らは、まるで試合後のスポーツマンのように、自分がいかにエルクラノや他の日系ブラジル人を痛めつけたかを自慢し合った。

こいつらは不良少年だからヤバいことをすることは美徳だと思っているのだ。

「あいつ死んどるぞ。これで俺らやっとらん犯罪はなくなったってことだでよ!」と言ったりして得意げですらある。

そして、乗って来た車に付着したエルクラノの血を洗い流すなど証拠隠滅にもいそしむ。

彼らは「やってやったぜ」などと、反省の色もなく威勢が良かったが、同時に懸念もしていた。

日系ブラジル人からの報復があると予想していたのだ。

そしてその予想は、この日のうちに的中する。

小牧駅での襲撃には間に合わず、公園から参加してきた谷永と難波たちは、吉池たちと別れて居酒屋に向かったのだが、途中でエルクラノを探していたブラジル人たちと鉢合わせしてしまったのだ。

同胞の少年を拉致されて気が立っていたブラジル人は、いかにも暴走族風な見かけの谷永たちを犯人の一味とみなして攻撃。

谷永たちのグループのうち一人が逃げ遅れてバットで殴られ、骨折する重傷を負った。

この時も、追われる立場になった谷永たちが応援を呼んだりしたため、事態は日本人不良少年とブラジル人の全面抗争に発展する気配になりつつあった。

さらに二日後に、エルクラノが死亡したために暴走族への報復を主張するブラジル人の若者が続出する。

小牧市の警察も大規模な衝突の発生を予感して厳重な警戒態勢を取った。

だが、そうなることはなかった。

エルクラノの葬式の日、地元の在日ブラジル人向けテレビ放送で暴力に訴えることを、声を大にして反対した人物がいたからだ。

それは、彼の父であるマリオである。

「仕返しはやめてくれ!暴力はもうたくさんだ!!死んだ息子はそんなこと望んでない!」

エルクラノの死を最も悲しんでいる人物のこの言葉を前に、血気盛んな日系ブラジル人の若者たちも矛を収めざるをえなかった。

冷たい日本社会

ビラを配るエルクラノの父・マリオ

小牧駅でブラジル人たちが襲撃された際に、彼らを見捨てた駅員たちも問題だったが、小牧市の警察も問題だった。

生死の境をさまようエルクラノが病院の集中治療室で治療を受けている際、無事を必死で祈る父親のマリオと母親のミリアンに、後からやって来た警察が開口一番に尋ねたのは「ビザを持っているか?」

最初から不法滞在者ではないかと疑っているような口ぶりだったという。

また、エルクラノが死亡した後、何度も警察署に行って犯人逮捕を求めても、なかなか捜査しようとはしなかった。

明らかに事件であるにもかかわらずだ。

マスコミの報道も小さく、何よりエルクラノの名前が間違っていた。

警察が動いてくれないなら、自分たちで動くしかない。

マリオとミリアンは愛知県庁前に立って、捜査をしてくれるように事件について書かれたビラを通行人に配り、署名活動を始めた。

やがて、心ある日本人も現れて彼らを支援してくれるようになり、マスコミにも取り上げられるようになって、この事件が日本国内ばかりか、ブラジル国内まで知られるようになってくる。

これを受けたブラジル大使館が動き出したことにより小牧警察も重い腰を上げ、事件から一か月半後の11月後半に、谷永や兼井をはじめとした犯行グループが逮捕された。

だが、それまでにマリオたちは心ない輩から「日本が嫌ならとっととブラジルに帰れ」などと、いたずら電話をしょっちゅうかけられていたという。

また、日本の司法制度も、彼らにとって満足できるものではなかった。

この当時は、今以上に加害者の権利がやたらと保証されて、被害者側が蚊帳の外に置かれているようなシステムで、マリオには、家庭裁判所での少年審判の内容やその結果も知らされなかったのだ。

加害者の少年たちの態度も問題だった。

彼らは責任を擦り付け合って心から反省しているとは思えず、その弁護士は、量刑を軽くするための示談金の話しかしてこない有様。

そして翌年の1998年7月までに判決が出たのだが、主犯の吉池は求刑7年に対して懲役5年、兼井は求刑6年に対して懲役5年。

市之久田中央公園でエルクラノを刺した谷永は懲役3-5年、木刀で殴るなど致命傷を負わせたとされた難波も懲役3-5年で、後の中野たちは中等少年院送致など異様に軽い判決だった。

「オカシイ!」

判決を聞いたマリオは、思わずそう言ったという。

「義を見て為ざるは勇なきなり」の精神を持て

マリオとミリアンは、日本に大いに失望したことだろう。

最愛の息子を殺されて警察も捜査してくれず、やっと逮捕してくれたと思ったら、人殺しに異様に軽い判決。

確かに、愛知県庁前での彼らの署名活動などを支援する心ある日本人は現れた。

しかし、エルクラノが小牧駅で襲われていた時に、心ある日本人がその場に一人もいなかったのが問題だ。

あの時にいたのは、暴走族にビビッてエルクラノを見捨てた駅員のような奴か、オロオロするしかできなかった者ばかり。

「義を見て為ざるは勇なきなり」という言葉は、1997年10月6日の小牧駅において死語になっていた。

そうでなければ、エルクラノは殺されなかったはずである。

彼は見捨てられたのだ。

そして、残念ながら、前述の言葉は現代の日本の多くの場所でも死語のままのようである。

2022年1月、JR宇都宮線の電車内で喫煙をしていた無法者を注意した高校生が暴行されたが、無情にも、その時電車内の誰も高校生を助けようとした者はいなかった。

これは、まれなケースだろうか?

きっと他のほとんどの地域でも皆見て見ぬふりするだろう。

どうも日本では「義を見て為ざるは勇なきなり」よりも「君子危うきに近寄らず」の方が美徳で、危ない奴がいたら何が何でも関わってはならないのが正解になっている。

たとえ、目の前で他人がそいつの餌食になっていようとも。

それが、この世界的に治安が良い国の礼儀正しい国民の正体だ。

それでいいのか?

いかんだろう!!

危ない奴が暴れていたら、そいつを誰もが見て見ぬふりする社会よりも、周りの人間がそいつを集団リンチする社会の方がずっと健全だ。

日本国民よ。

無法者に正義の鉄拳を下すことを躊躇するな!

正面から立ち向かう必要はない、背後などの死角から、致命的一撃を加えよ!

その場にいる者は後に続け!

日本政府よ。

心ある国民による秩序の維持のための果敢な行為に対して、法的保護を与え且つ奨励せよ!

行動しない臆病者ばかりの社会では国の将来も危うい!

より良き社会の実現に向けて、国民の意識改革を推進すべし!

出典元―『エルクラノはなぜ殺されたのか』、中日新新聞

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おぞましき闘争:1977年・浦和車両放火事件の真実


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日本国内での共産主義革命を目指して暴力的な闘争を展開する集団である過激派、警察が言うところの極左暴力集団は、昭和三十年代初頭(1950年代後半)ごろから、日本共産党から除名、もしくは離党した者たちを中心に結成された。

彼らは、学生運動が盛んだった1960年代から70年代にかけて、鉄パイプや火炎びんを用いた危険な街頭闘争を行う他、基地、皇室及び成田空港建設等に反対し、市民の安全を脅かすような手製爆弾やロケット砲を打ち込む「ゲリラ」事件を頻発させてきた。

だが、このゆがんだ理想に燃える集団は一枚岩ではなく、成立の過程や路線の違いによって分裂や結成を繰り返して多数のセクトが存在し、主なもので革マル派(正式名称:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)、中核派(正式名称:革命的共産主義者同盟全国委員会)、革労協(正式名称:革命的労働者協会)がある。

そして、それらの組織は共産主義という白昼夢を常に見ている者たちのご多分に漏れず結成当初から互いに敵対しており、内ゲバと呼ばれる抗争を繰り返した。

時には電車内で合戦

当初は集団で旗竿、角材等を使用して殴り合うという正々堂々としたものだったが、次第に相手方の活動家の住所や行動パターンを入念に調査して、自宅や路上において一人でいるところを集団で襲うという平成の某半グレ組織のようなスタイルが主流になる。

使うのは鉄パイプやアイスピック、ハンマー、斧などの凶器。

もちろん目的は半殺し、「半分殺す」ではなく「半永久的に殺す」の略である。

襲われた者は死ぬか、一命を取り留めたとしても、身体に重い障害が残るまで滅多打ちにされた。

襲撃で壊されたアジト

やった方は「反革命分子生命に革命的ピリオドをうった」などと誇らしく犯行声明を出すし、やられた者が属する組織は「白色テロ部隊を総殲滅せよ!」とか宣言して、同じような報復を行うという泥沼の復讐合戦が、1970年代中盤には各過激派間で繰り返されるようになる。

彼らは本来の社会を変えるための運動ではなく、もはや同床異夢の組織への攻撃に力を注ぐようになっていったのだ。

そんな陰惨な事件がいったん沈静化し始めていた昭和52年(1977年)2月11日、茨城県取手市の路上で、主要な過激派組織の一つである革労協の書記長・笠原正義(別名:中原一)が、鉄パイプを持った集団に襲われて撲殺される事件が起きた。

笠原を殺したのは、同じくメジャーな過激派である革マル派。

これまで、革労協と内ゲバ殺人などの抗争を繰り広げてきた敵対組織である。

革マル派にとっては、抗争相手の主要幹部のタマを取った大戦果であり、同派は自分たちが発行する2月21日付の機関紙「解放」で、事実上の犯行声明を出して誇らしげに喧伝した。

だが、革労協もやられっぱなしではない。

直ちに報復を公言し、より陰険で残忍な倍返しを計画・準備していた。

1977年4月15日埼玉県浦和市

革労協書記長・笠原正義が殺されてから約二か月後の4月15日夜に事件は起こる。

同日午後9時5分、埼玉県戸田市の印刷工場「こだま印刷」から、一台の異様な外観をしたワゴン車が発進した。

その車は、フロントガラスの部分を鉄板や金網で囲んで、他組織の攻撃に耐えうるように魔改造された革マル派の自家製装甲ワゴン車である。

このころは、どの組織も集団行動を行うなど襲撃に備えるようになっていたようだ。

「こだま印刷」は革マル派の息のかかった印刷工場で、同派の機関紙「解放」を印刷しているからカタギの会社ではなく、笠原が殺された事件でも警察の捜索を受けていた。

印刷された機関紙か何かを積んで、どこかへ運ぼうとしていたんだろうか?

装甲ワゴン車は「こだま印刷」を出てから、県道浦和―浜崎線に入って蕨市の方面に向かっていた。

乗っていたのは革マル派政治局員の藤原隆義(36歳)、この車の持ち主で、こだま印刷庶務課課長の関口誠司(35歳)、革マル派学生の金沢大学の伊東亘(23歳)と岐阜大学の伊藤修(24歳)の計4名の活動家である。

一行の乗った車は県道を進み、浦和市(現さいたま市南区)に入った午後9時10分。

異変が突如彼らの進路前方で起こる。

突然一台の4トントラックが、道沿いの空き地から装甲ワゴン車の前に飛び出し、行く手を阻んだのだ。

ワゴン車は急ブレーキを踏んで停止したが、すぐさま後ろからホロ付きの2トントラックとマイクロバスがやってきて、挟み撃ちにするように停止する。

敵対組織の攻撃だ!

一行のうちの一人の関口は、昨年にも同じように車の前後をトラックなどで挟まれる襲撃を受けたことがあるが、その時は幸いにも逃げることができた。

だが、運がそれでつきてしまっていたか、今回の襲撃者は前回の連中ほどマヌケではなかったようだ。

関口ら革マル派の車は、4トントラックを迂回して逃走しようと斜め前に動き出したが、後ろからホロ付き2トントラックに繰り返し追突されて動きを止められてしまう。

やがて、トラックの中からレインコートのようなものを着てヘルメットをかぶり、ツルハシや鉄パイプを持った5人の集団が下りてきた。

集団は完全に身動きが取れないワゴン車を囲んで凶器で叩き始める。

打撃でドアの部分が変形してフロントガラスも割られたが、ガラスの部分には鉄板が嵌め込まれているから心配はない。

こういう襲撃に備えての装備なのだ。

しかし、前方を見るためののぞき窓は開けられており、外の連中はガラスが割られて開いたその部分から、何やら液体を注ぎ始めた。

それは、まごうことなきガソリン。

彼らが襲撃された場所は工場が密集する地域であり、この時間にも残業などで残っている工員がいた。

彼は、仕事中に車を叩くような大きな物音が聞こえ、何事かと外に出たところ事件の一部始終を目撃する。

また、その音の後にクラクションが鳴らされ始めたという。

襲撃を受けた革マル派たちは、これから自分たちが何をされるか気づき、なりふり構わず助けを呼ぼうとしていたのだ。

が、襲撃者たちは悪魔だった。

ガソリンを注ぎ終わると発煙筒を焚くや、それをワゴン車の下に投げ込む。

車内にたっぷり注ぎ込まれ、路面にも広がったガソリンは一瞬にして発火、ワゴン車はあっという間に火に包まれた。

「助けて!助けて!助けてえええええええ!!!」

燃え上がった車の中からは、この世のものとは思えない、狂ったような叫び声が聞こえ、車のクラクションが断末魔の悲鳴がごとく鳴り響く。

窓の部分には鉄板が張られているし、ドアはツルハシなどの打撃でゆがんでカギが壊されて中から開かず、外に出ることのできない革マル派の活動家たちは、車内で生きながら焼かれ続け、のたうち回る。

ワゴン車に火がつけられたのを目のあたりにした近所の工場の工員は消火器を持って消火に向かったが、ガソリンの火力の前に、そんなものは役に立たなかった。

襲撃者たちはトラック二台を放置して、残りのマイクロバスに乗ってすでに立ち去っている。

結局、火は通報によって駆け付けた消防隊によって消し止められるまで燃え続け、車内の四人は全員焼死。

一人は運転席でうつぶせの姿で、助手席のもう一人は後部座席にもたれかかるように、残る二人は後部座席の床にうずくまるように炭化していた。

勝ち誇る革労協

焼け焦げた装甲ワゴン車の運転席

犯人たちは犯行後、マイクロバスから乗用車に乗り換えていたとみられる。

途中、その乗用車はタクシーと接触事故を起こしながら、不審な車と見て追跡してきたパトカーをまんまと振り切って、逃走に成功した。

現場に残された二台のトラックはいずれも盗難車で、元のナンバープレートに偽装されたナンバープレートを張り付けており、この犯行が計画的で入念に準備されたものであることは間違いない。

また、現場から6kmほど離れた土手に、犯行に使ったツルハシやかぶっていたヘルメットが遺棄されていたのが、後日発見されている。

翌16日朝、「こだま印刷」の社員5人と同社の顧問弁護士が、焼死した四人が安置されている浦和警察署を訪れて遺体を確認したが、誰が誰なのか判別が不可能なほど完全に炭化していた。

そして、革マル派は同日夕方に本部である「解放社」で記者会見を行い、死亡した四名の氏名を発表。

ここで、事件の三日前の4月12日に「解放社」へ「笠原の報復をやる」という革労協と思われる者からの予告電話があったことも明らかにした。

その一方で、この事件を「警察権力による謀略」などと、反権力革命バカ集団らしい声明も出している。

もう一方のバカ集団であり、警察も当初から実行犯とにらんでいた革労協もすぐさま声明を出した。

4月17日、千葉県成田市の三里塚第一公園で三里塚芝山連合空港反対同盟により開催された集会で、15日の4人焼殺を行ったことを認めるビラを配布したのだ。

まだ成田闘争と称する成田空港建設に反対する運動がたけなわだったこの時代、革労協はこの運動に大きくかかわっていた。

そして警察同様、最初から焼殺事件が革労協の仕業だと分かっていた革マル派も動く。

三里塚第一公園の集会へ向かう道である京葉道路に重油やクギを撒き、さらに乗用車やタンクローリーを道のど真ん中に放置して通行を妨害(むろん盗難車)。

道路わきに横断幕を掲げ、そこには「4・15謀略襲撃―四名焼殺弾劾 革マル派」と書かれていた。

4月15日の事件の腹いせである。

京葉道路を使うのは集会参加者だけではないはずで、一般の通行車両にとっては、とんでもない迷惑行為だが、テロ集団の革マル派にとっては知ったこっちゃない。

なお、革労協は翌月5月に自分たちの発行する機関紙(革マル派の機関紙と名前は同じで「解放」)で、この事件について以下のように発表した。

「わが革労協―プロレタリア統一戦線の革命的戦士は4月15日午後9時10分、反革命印刷所「こだま印刷」から出た反革命装甲車輌を的確に補足し、革マル「政治組織局員」藤原隆義、「こだま印刷」指導者関口誠司、金沢大革マル伊東亘、岐阜大革マル伊藤修に革命的テロルを叩き込み、車輌もろとも完全に打倒した。

この偉大な闘いは2・11反革命、わが革命党の最高指導部同志中原(笠原正義の別名)暗殺に対するプロレタリア革命党の鉄の回答である。

(中略)

わが部隊は2・11反革命への煮えたぎる憎しみに燃え、猛然と突撃し、前面フロントガラスをたたきわり、それに対して天井からおろした防御板でふせごうとした革マル「政治組織局員」藤原隆義、反革命印刷所指導者関口誠司、防衛隊員であり、反革命「全学連」特行である伊東亘、伊藤修計4名の反革命分子に革命的テロルを炸裂させた。

わが戦士達は、埼玉全県、首都各県、都県境橋全域にわたる権力の戒厳令をあらゆる手段を駆使して突破し、全員帰還した。

この闘いこそ、2・11反革命、わが革命的労働者協会総務委員会書記局員であり、偉大な共産主義者である、同志中原暗殺に対する煮えたぎる怒りと憎しみを、鉄の組織性と計画性、戦闘遂行における大胆さとして絞りあげ、階級的革命的原則にのっとったすさまじい革命的テロルとして革マルの頭上に炸裂させたものである(以下略)

「反革命装甲車輌」、「車輌もろとも完全に打倒」、「この偉大な闘い」、「革命的テロル」…。

文面から分かるとおり、見事に罪の意識がない。

他にもこの犯行を「2・11復讐戦」とか「4・15戦闘」とか呼んだりして、単なる凶悪殺人を武勇伝として自画自賛するとはさすがである。

どうやったらこんな思考回路になるのか。

ある意味でありえない日本語力であると同時に滑稽極まりないが、もし心底本気でそう考えていたのなら、この時代にバカだった者たちの本物ぶりは半端ではない。

その後の内ゲバ事件

浦和車両放火内ゲバ殺人事件は、革労協が自分たちの犯行だと宣言したにも関わらず、実行犯の逮捕に至っていない。

この昭和52年(1977年)時点での警視庁の発表によると、過激派(極左暴力集団)の内ゲバ事件による死者は、昭和44年(1969年)以来、この浦和の内ゲバ殺人事件での死者4名を合わせて52人目であったという。

だが、これは終わりではなかった。

革マルと革労協、中核派などの過激派は陰惨な内ゲバ殺人を断続的に犯し続ける。

何とそれは2004年まで続き、無意味で非生産的な活動に人生を売り渡した活動家たちは、50代後半か60代の白髪交じりになっても無益な争いに明け暮れ、死者は合計100名に達した。

ちなみに拙ブログの主人公である革労協は、後に主流派と非主流派に分裂し、さらにまたその後で主流派が二つに別れ、「内内ゲバ」とも呼べる抗争を起こしているから、本当に救いようがない連中だ。

頭の中が真っ赤な左翼バカたちが殺し合うのは構わない。

しかし、彼らは危険極まりない「ゲリラ」事件を起こす以外に、他組織の活動家と誤認して、無関係な一般人を死傷させたりもしている。

それに対しては「誤爆」と称して、謝罪すらしていない。

まだ暴力団抗争の方が、すがすがしく思えるのは筆者だけだろうか?

少なくとも暴力団は、一般人を誤って殺した場合は謝罪している。

また、結構早い段階で手打ちになったりして、ズルズル何十年も抗争を続けたりはしない。

それと比べると、過激派同士の抗争は実に醜く、陰険だ。

なお、これはあくまで筆者の経験だが、平和主義だの平等だの反差別だの左翼的思考を持って、それを公言する者には一定の傾向がある気がする。

それは、自分の意見は絶対的に善であり、それ以外の考えを許さないことだ。

彼らは現実を無視した理想を濁った眼を鈍く輝かせて語り、それにちょっとでもツッコミを入れる者を、人でなしとばかりに非難してくることが多い。

そういった思考回路が先鋭化した者たちで構成されたのが、過激派なのだろう。

自分たちの行動は正しく、それによって生じた結果は、どんなものでも当然のことかやむをえないことだと堂々開き直る。

また、同じ左翼思想を持っていても、違う考え方を持っている者に対してはより非寛容になるのは、内ゲバ殺人の数を見れば明らかだ。

なぜ、このような連中を今も野放しにしておくのか?

公安が監視をしているといっても、まだ堂々拠点を構えて活動している。

しょせん人権を重視しすぎるあまり、肝の座った取り締まりができない我が国だからこそイキれる集団であり、現在では多数の死に損ないたちと少数だが極左思想という重い脳障害を若くして患う者たちで構成されているにすぎないが、過去に起こしてきた所業を考えれば目障り極まりない。

とっとと我が国から消滅しろ!

出典元―毎日新聞、朝日新聞、警察白書、Wikipedia

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日本中を揺るがした虚言:92年のオーストラリア花嫁失踪騒動

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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男を惑わせて振り回すような悪い女を「魔性の女」とか、「小悪魔」とかいう言葉で形容する場合がある。

どちらも悪い意味のはずだが、「魔性の女」は何となく悪魔的な魅力を持つ上に知謀にも長けていそうな感じがして、この言葉を使われた女に対しては、多分に賞賛が含まれていると個人的には思う。

「小悪魔」の方は「魔性の女」とかより格下だが、ずるい反面で男を引き付けるだけの魅力を持っているイメージがあるから、必ずしも全面的に否定する意味ではない気がする。

今から30年以上前の1992年12月に、ハネムーン先のオーストラリアで「誘拐された」と愚にもつかない虚言を吐いて行方をくらまし、新郎や身内はじめ日豪両国の多くの関係者に迷惑をかけた女、拙ブログで取り上げる日高美穂子(仮名・25歳)はどちらだろう?

間違いなくどちらでもない。

甘ったれたバカ、そしてクソだ。

ハネムーン中に失踪した新婦

1992年(平成4年)12月7日、オーストラリアのシドニー市の観光名所ロックス近くで、日本人の榎本敦夫(仮名・29歳)はやきもきしていた。

彼は待ち合わせをしていたのだが、約束の時間になっても相手がいっこうに現れないのだ。

敦夫が待ち合わせをしていたのは、ただの相手ではない。

それは、新妻となる日高美穂子(仮名・25歳)である。

二人は、それまで二時間ほど、別々に市内を散策していた。

大阪府在住の敦夫と美穂子はテニスクラブで知り合い、一年半の交際を経て11月28日に挙式を挙げ、翌29日にハネムーン旅行に出発。

旅行先として選んだここオーストラリアは、当時の日本人に人気で、二人はゴールドコースト、ハミルトン島などの王道のコースを巡って12月6日にシドニーに入っていた。

ハネムーン中の美穂子

彼らは入籍前に結婚式を挙げたため、美穂子の性は変わっていない。

入籍は、明日8日に日本に帰国した後にすることになっていた。

だとしても、戸籍上はまだ夫婦ではないとはいえ、事実上の新婚である。

いつも一緒にいるはずのハネムーン旅行なのに別行動をとったのは、二人が午後1時ごろ、シドニーの免税店で買い物をしていたところ、美穂子が「もう最終日なんやから、自分らで自由にシドニーを回らへん?」と提案したからだ。

そして落ち合うのは、二時間後の午後3時半と約束していた。

敦夫は、待ち合わせに選んだ場所に時間通り到着していたが、彼女は、その約束の午後3時半を過ぎても影も形も見えない。

オーストラリアはアメリカなどと違って比較的治安の良い国だが、それでも海外で姿を消したとなると不安になる。

もしかしてホテルでは?とも考えて宿泊先のホテルに戻ったが、そこにもいない。

部屋の中で美穂子の帰りを待っていたが、戻ってこないばかりか連絡すらなかった。

午後8時、心配でたまらなくなった敦夫は、シドニーの日本領事館に連絡する。

領事館は、館員をホテルに派遣して事情を聴くや、ただ事ではないと判断して、シドニー警察に協力を依頼した。

不可解な失踪

敦夫の待機する部屋の電話が鳴ったのは、午後11時ごろ。

かけてきたのは、何と美穂子からだ。

「美穂子か!?お前ナニしとるん?どこ行っとんのや?」

あわてて電話に出た敦夫に、美穂子はあまりにも不可解なことを伝えてきた。

「ウチ、車で連れてかれてもうてな、ここ、どこかわからへんのや。オーストラリアの人に助けてもろたんやけどな。でも自分で帰れるから捜さんといて」

そう言うや、電話が切れたのだ。

「車で連れていかれた」、それは誘拐ということではないか?

でも、「自分で帰れるから探さないでくれ」とは、どういうことだ?

疑問点はいろいろあるが、事件に巻き込まれたにおいがする。

新婚旅行中に自分から失踪するのはありえない、とこの時は考えられた。

それに美穂子は、それまで何回も海外旅行に行っていたが、日本人のご多分に漏れず英語はからっきしだし、所持金も少ない。

「単に迷子になっただけではないか?」と考えていたシドニー警察も、7日夜の怪電話から何の連絡もないことから、事件性が高いと判断。

8日には、誘拐事件として公開捜査に乗り出す。

情報提供を呼びかける敦夫

敦夫も地元シドニーのテレビ番組に出演し、美穂子の写真をカメラに示しながら「妻は誘拐されたと考えています。見かけた方は、警察にお知らせください」と沈痛な表情で、情報提供を呼び掛けた。

だが、誘拐事件のわりには身代金の要求などもなく、事件に関する情報も、ほとんどないために捜査は難航する。

日本国内の騒動と意外な結末

この一件は、9日の時点でオーストラリア国内ばかりか「花嫁失踪事件」として日本国内で報道され、国民の知るところとなっていた。

この92年当時は、同年春にパキスタンでカヌー下りをしていた早大生が誘拐されたり、パナマでシチズンの日本人社員が誘拐されて殺害されたり、日本人が海外で誘拐される事件が頻発しており、「また起きたか」という印象が持たれてもいた。

日本のマスコミは、「美人花嫁失踪」などの釣り文句付きで連日報道。

現地の捜査の状況や美穂子の身を案ずる両親や兄弟の模様を逐一伝えており、彼女の母などは「なぜ敦夫さんはずっと一緒にいてくれなかったのか?」などと、新郎を非難する始末だった。

そんな折、三日目の10日に事件が、ますます不可解な方向に脱線する。

ホテルに待機している敦夫に、美穂子から再び連絡が来たのだ。

その電話で彼女は、「今ゴールドコーストにいる」と話していた。

だがその後は、またしても連絡が途絶える。

生きていることは分かったが、シドニーからゴールドコーストまでは800kmほど離れており、美穂子がなぜそんなところにいるのか?という疑問の声が関係者の間で上がった。

どういうことだ?本当に誘拐されたのか?

一方のシドニー警察による捜査には、進展があった。

警察は、二人が泊っていたホテルの部屋から美穂子のものと思われるメモを発見。

そのメモには、あるモーテルの名前と電話番号、住所が書かれていたのだ。

誘拐事件として捜査する反面、その線に疑問も抱いていた警察は、そのメモに書かれたモーテルのオーナーである日系人女性に連絡して、事情を聴いたうえで協力を要請。

そのオーナー女性は警察に、日本人女性が一人で宿泊しており、チェックイン日時は12月7日だと話した。

ちょうど、美穂子が行方をくらました日だ。

しかも、それは一か月前から予約されており、予約の電話をかけてきたのはミナミノと名乗る男。

滞在予定は一か月で、その女性が来る前に着替えなのか、荷物も日本から送られていた。

チェックインした際の署名は「ミナミノ・メグミ」だった。

警察から連絡を受けてからオーナー女性はさらに、そのミナミノ・メグミのいる部屋を訪ねて「日高美穂子さんですね?」と確認したが、断固否定されたと知らせてきた。

本人であると判断した警察は、11日午前3時ごろモーテルを訪れて、その部屋にいた日高美穂子と思われるミナミノ・メグミに確認を取ったところ、女は激しく否定。

ばかりか、部屋にあったパスポートやキャッシュカードを窓から投げ捨てて、身元が分からないようにしようとすらしたが、無駄な抵抗だった。

日高美穂子本人以外の何者でもないことは明白であり、彼女も観念して、警察に確保されるしかなかった。

この時、美穂子は失踪前には長かった髪をセミロングに切って、伊達メガネをかけて変装していたらしい。

また、オーナー女性が訪ねてきたことから、捜索の手が近くなっていることを察していたようで、追っ手をかく乱するためか「メルボルンに行く」というメモが用意されていた。

そして、ハネムーン中は、ずっとはめていたエンゲージリングは外され、テーブルの上に置かれていたという。

会見で明らかになった失踪のあきれた理由

誘拐は、完全に美穂子の狂言だった。

ちなみに、美穂子の滞在していたモーテルは、敦夫と泊まっていたホテルから、10㎞ほどしか離れていない。

彼女は失踪している間、ほとんど外出せずに、部屋に引きこもっていたようだ。

愚かな日本女により、完全に振り回されたシドニー警察だったが、「旅行客の保護にベストを尽くしただけで、捜査費用は一切請求しない」と、太っ腹で大人の対応をした。

だが、二人はマスコミを通じての説明責任を果たさなければならない。

現地時間の11日午後7時、彼らは宿泊していたホテルで日豪両国の記者会見に臨んだが、事情を知った敦夫はぶ然とし、張本人の美穂子は緊張のためにガクブルであり、互いに顔を合わせようとせず、美穂子は記者の質問に対しての答えも、ボソボソとして支離滅裂だった。

まず、どうして失踪したかについて美穂子は、

「一か月前、結婚することに不安を覚え、成田離婚になったらどうしようと考え、知り合いに相談したら現地のモーテル(発見されたモーテル)を紹介してくれました」

と答え、着替えまで送って一か月ほど滞在するつもりだったのは、

「ゆっくり考える時間が欲しかった」

とボケた。

また、記者会見で美穂子は

「計画的にやったわけではない」

ともボケたが、一か月前からそんな準備していたというのは、十分計画的である。

その知り合いが、くだんのモーテルに予約電話をかけてきたミナミノらしいが、では、そのミナミノとはどういう知り合いなのか?かなり親しくなければ、ここまでやってくれそうにないが、という質問には、

「前の会社の上司で、昔、海外旅行した際もお世話になって…」

と答えたが、具体的な関係については口を濁す。

男女の関係であった可能性が高い、過去形もしくは現在進行形の。

後者だったとしたら、失踪前から敦夫を裏切っていたということである。

ちなみに「ミナミノ」は騒動になっている最中も心配して、何度か美穂子に電話しており、この失踪劇の共犯であったとみなされても仕方がない。

10日に、敦夫に「ゴールドコーストにいる」と電話したのは、「日豪双方のマスコミに報道されて騒動になっていることをテレビで知り、警察ざたになるのが怖くて、じっとしているのに耐えられなくなったから」「彼に勝手なことをしていると思われたくなかった」と、立て続けに天然ボケをカマす。

すでに勝手なことをしているではないか!

そして、「12日には警察に出頭するつもりだった」とも語ったが、ここまでの騒動を引き起こしておいた後では、あまりに嘘くさい。

美穂子の答えは、終始論理が完全に破綻しているように聞こえるが、要するに好きでもない敦夫という男と結婚するのが嫌で、かと言ってきっぱり別れを切り出す勇気もなく、ズルズルとハネムーンまで来てしまったということだ。

そのくせ「誘拐された」などと、大胆な大ボラを吹いて現実逃避し、とんでもなく大きな迷惑をかけている。

一方の強烈に裏切られていた新郎の敦夫は、記者の「結婚に対して不安を持っていることは美穂子から聞かなかったのか?」という質問に対して「相談されてはいた」と答え、「では、それが失踪の原因ではないかと思わなかったのか?」と聞かれると「その時は本当に誘拐されたと思った」とし、「自分が嫌いでいなくなったと信じたくなかった」と言った。

最愛の女性を、信じたかったということだろう。

だが、「今後の結婚生活はどうなるのか」という核心に触れた質問に対しては、斜め上を行く答えを返す。

「あほやと思われるかもしれへんけど…帰国したら針のムシロでしょうが、これからも二人で一緒にやっていきます」

と、予定どおり入籍することを宣言したのだ。

絶対に別れるだろうと予想していた報道陣も、これには唖然としていた。

美穂子もナメクジのようにすすり泣きながら、「敦夫さんのことが大好き、好きです。ずっと一緒にいたいと思っています」と答えて、その場の記者たちを凍り付かせた。

帰国後

日本で会見する敦夫と美穂子

帰国して大阪空港に降り立った二人は、そこでも記者会見を行い、またしても別れる気がないことを表明して、世にも奇妙な純愛劇を世間にさらす。

しかし、敦夫は会見中に泣き始めた美穂子が「敦夫さんごめんなさい」と、洟水を垂れながら甘えるように頭を自分の肩に傾けようとすると、手でそれを押し返した。

結婚生活を続ける意思は示したものの、この裏切りは、とても全面的に許せるものではなかったのだ。

そして、この寛容バカの男も、翌日にはその決心を変える。

敦夫の身内や知人は、このまま入籍することに納得せず、ワイドショーなどのビデオを見せたりして日本国内で、どのように報道されているかを知らせたのだ。

この騒動の全貌をようやく知った敦夫はワナワナと震え、この女と今後も連れ添うことが、いかに破滅的かを悟る。

美穂子の側にすぐさまそれを伝え、順調に離婚することとなった。

当たり前だ。

特に敦夫の母は、息子がハメられたと怒り心頭であった。

そもそも、母親の美穂子に対する印象はハネムーン旅行に行く前から最悪で、息子に「本当にこの人でいいの?」と尋ねていたくらいである。

それは、結納や結婚式で美穂子と四回会っているが、ヌボーとして一度も笑顔を見せておらず、感じがあまりにも悪かったからだ。

敦夫は、ふだんから女遊びには無縁な堅物で、そのおかげで女を見る目がなく、美穂子のような陰キャなうえに、バカで自分勝手な女に引っかかってしまったと見ることもできる。

彼は大阪空港での記者会見で「今後の取材は一切お断りします」ときっぱりマスコミにくぎを刺していたが、現代以上にモラルのなかったこの時代のマスコミは、言いなりにならなかった。

狂言誘拐だとわかった後は、さすがに二人の実名は出さなくなったが、第三の男である「ミナミノ」氏の正体を探ろうとするなど、しばらく、この騒動に関する面白半分の取材は続けられ、

バラエティー番組でも明石家さんまなどが記者会見を茶化すパロディーネタを披露するなど、完全に笑いものにされる。

ネクラな美穂子は帰国後姿をくらましてしまい、会社を無断欠勤し続けていたという。

いい面の皮だった敦夫も、最愛の女性がゴミだったことに落胆するあまり立ち直ることができず、勤めていた会社を辞めてしまったようだ。

その後の二人については、30年以上たった現在では知るよしもない。

美穂子はどうなっていようが知ったこっちゃないが、せめて敦夫の方は、まっとうな人生を歩んでいて欲しいものだ。

出典元―日刊スポーツ、週刊現代、週刊ポスト、FOCUS

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