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2022年 QNAP VMWare コンピューター ストレージ 技術一般

QNAPでのiSCSI構成: VMware ESXiの完全ガイド


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自宅で使っている VMWare ESXi のローカルハードディスク上のデータストア領域が少なくなり、以前、NFS を使って QNAP のストレージ領域をマウントして使ってみました。

今度は、iSCSI でもマウントをやってみたいと思い試してみました。

私がやりたいのは、こんな感じです。

VMWare ESXi 側の準備

まず、ESXi サーバー側のファイヤーウォール機能で、iSCSI が通信許可されているかを確認します。

Networking > Firewall Rules > Software iSCSI Client

「Outgoing Ports」で使用するポートが通信許可されていれば OK です。

QNAP での iSCSI 設定

iSCSI & ファイバーチャネル」から設定を行います。

左側メニューの中から「iSCSI ストレージ」を選択します。

「作成」をクリックし、「新しい iSCSI ターゲット」を選択します。

iSCSI ターゲット作成ウィザードが表示されます。

「次へ」をクリックして進みます。

iSCSI ターゲットプロファイル」を設定していきます。

  • 名前: iSCSI ターゲットの名前
  • ターゲットエイリアス:上の名前の別名(同じでもよい)

IQN iSCSI でストレージを指定するときに使うアドレスです。「名前」の値が使われるので、使いやすい名前にしておきましょう。

「次へ」をクリックして進みます。

ESXi サーバーから iSCSI ストレージをマウントする際に、認証は必須となります。後からでも設定はできますが、ここで忘れずに設定しておきましょう。

  • CHAP 認証の使用: 有効化
  • ユーザー名: 認証で使用するユーザー名
  • パスワード: 認証で使用するパスワード

「次へ」をクリックして進みます。

設定した iSCSI 向けの内容を確認します。

「適用」をクリックして、設定を適用します。

ブロックベース LUN 作成ウィザード」が起動します。

「ストレージプール」のプルダウンメニューから、iSCSI で使用したいストレージプールを選択します。

この例では「ストレージプール1」を選択しています。

LUN とは、ストレージ上で iSCSI で使用するように設定した領域のことです。

「次へ」をクリックして進みます。

LUN で使用許可する領域のサイズを指定します。

「次へ」をクリックして進みます。

設定内容を確認し、問題なければ「完了」をクリックして、選定を終了します。

iSCSI ターゲットが作成されて表示されました。

ESXi から iSCSI の LUN をマウント

ESXi サーバーにログインします。

左側のメニューの中の「ストレージ」をクリックします。

アダプター」タブをクリックします。

ソフトウェア iSCSI」をクリックします。

「iSCSI の設定」ウィンドウが表示されますので、「有効化」を選択して、ESXi サーバーで iSCSI が使用できるようにします。

設定の詳細項目が表示されます。

  • CHAP Authentication(CHAP認証): CHAP を使用

Static Target(静的ターゲット)

  • Target(ターゲット): iSCSI ターゲットを入力
  • Address(アドレス): QNAP のIP アドレスを入力
  • Port(ポート番号): 3260(変更しているならその番号)

デバイス」タブをクリックします。

新規のデータストア」をクリックします。

データストアの作成ウィザードが起動します。

「名前」に、データストアの名前を入力します。QNAP の iSCSI 領域(LUN)と見て分かるようにしておいた方が、後から分かりやすく便利です。

「次へ」をクリックして進みます。

パーティション設定は、特に何も触りません。

「次へ」をクリックして進みます。

設定内容を確認し、問題なければ「完了」をクリックして、設定を保存します。

ワーニングメッセージが表示されますが、「はい」をクリックします。

設定内容の確認

「データストア」のタブをクリックします。

ESXi サーバー上で利用可能なデータストアの一覧が表示されます。

この中に、先ほど新規作成して追加した QNAP の iSCSI 領域(LUN)が表示されてますね。

左側メニューの中の「ストレージ」から、今回追加した QNAP の iSCSI 領域 (LUN) を選択します。

今回追加した iSCSI 領域 (LUN) が表示されます。

ESXi サーバーから利用可能なストレージサイズが、右上に表示されてますね。

次に VM を作成する際に、この領域を指定すれば、VM は QNAP の iSCSI 領域 (LUN) に保存されます。

左側メニューの「ストレージ」をクリックします。

「デバイス」タブをクリックします。

QNAP iSCSI Disk が見えてますね。

ステータスが Degraded なのですが、これは問題ないみたいです。

QNAP の「iSCSI & ファイバーチャネル」の設定も見てみます。

iSCSI ターゲットリストの中で、今回作成した iSCSI ターゲットを見ると、「接続済み」と表示されており、ESXi サーバーの IPアドレスも見えてます。

詳細を見てみると、ステータスは「接続済み」になっています。

これで設定完了です。

今回は iSCSI 方式を使ったのですが、 NFS 方式を試してみたい場合は、以下のリンクで設定手順を紹介しています。

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『喧嘩芸・骨法』の技術と精神を知っているか?


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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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2022年 CCNP Enterprise Cisco DDNS VPN コマンド コンピューター トラブルシューティング ルーティング 技術一般 認定資格

Cisco ルーターでリモートアクセス VPN の設定

この設定で、リモートアクセスVPNが正常に張れることまでは確認できたのですが、なぜかルーターのLAN側にルーティングされなくて悩んでます。解決したら、また更新しようと思います。

aaa new-model
!
!
aaa authentication login userauth local
aaa authorization network groupauth local
!
username kkint password 7 kkint-pass
!
crypto isakmp policy 1
 encr 3des
 hash md5
 authentication pre-share
 group 2
!
crypto isakmp client configuration group VPNCLIENT
 key cisco
 dns 172.16.23.254
 domain kkinternational.com
 pool ezvpn1
 save-password
!
crypto isakmp profile vpnclient-profile
   match identity group VPNCLIENT
   client authentication list userauth
   isakmp authorization list groupauth
   client configuration address respond
!
crypto ipsec transform-set myset esp-3des esp-md5-hmac
!
crypto dynamic-map dynmap 1
 set transform-set myset
 set isakmp-profile vpnclient-profile
 reverse-route
!
interface FastEthernet0
 description To the Internet
 ip address dhcp
 duplex auto
 speed auto
 crypto map ezvpnmap
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2022年 おもしろ

紙幣の顔に異議あり – 日本紙幣の歴史と新たな提案


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2019年4月9日、2024年度前半に千円、5千円、1万円の各紙幣を一新させることが発表された。

この刷新は2004年以来20年ぶりである。

気になる新紙幣に描かれる人物の顔ぶれは、

  • 千円札が北里柴三郎
  • 五千円札は津田梅子
  • 一万円札は渋沢栄一

「平成」から「令和」への改元機運が高まるだの、自動販売機などの関連需要が生まれるから、景気刺激の効果もありそうだの言われているが、そんなことはどうでもよい。

私は大いに失望している。元から期待はしていなかったが。

その失望は、新紙幣の人物の人選についてである。

そして、私の場合それは2004年以前の、1984年の紙幣の刷新から始まっているのだ。

昭和50年代の紙幣

私は1975年(昭和50年)生まれだ。

小学生だった1980年代前半の紙幣は、五百円札が岩倉具視、千円札が伊藤博文、五千円札と一万円札が聖徳太子。

明治の元勲たちと日本史上最高クラスの偉人という実に濃い面々で、どの額面の紙幣も威厳に満ち満ちていた。

紙幣とはあまり縁がない子供だったからかもしれないが、そんな偉人たちが描かれた紙幣を手にすると身が引き締まったものだ。

何というか、その額面の価値があることを大いに担保してくれている気にもさせてくれていた。

だから、そうさせるような人物が紙幣の顔になるべきだと、今でも信じている。

だが、私が小学校四年生だった1984年(昭和59年)11月1日に発行が開始された新しい紙幣に描かれる人物を見て、子供心に唖然とした。

新しい紙幣の顔は千円札が夏目漱石、五千円が新渡戸稲造、一万円札が福沢諭吉。

正直、面子が軽くなったような気がした。

私はこの小学生の時点ですでに歴史オタクであり、それらの人物が何者であるか知っていたから、全員偉大な功績を残した偉人で間違いがないことはわかった。

しかし、どちらかと言えば文化面での泰斗たちが、日本社会の基礎を築いた政治面での功労者であり日本史において燦然と輝く聖徳太子や伊藤博文をはじめとした明治の政治家たちと比べると、貫禄に劣るのは否めないと感じたのだ。

特に最高額紙幣たる一万円札の福沢諭吉なんだが、ヘビー級からミドル級くらいまで落ちた感じがした、というのは冒涜だろうか?

聖徳太子という問答無用のスーパーヘビー級と比べたら、その軽薄短小化ぶりが際立つこと甚だしい。

体重78kgくらいだけどヘビー級扱いにされたみたいで、納得がいかなかった。

なんとなく額面は一万円の紙幣なのに八千円の価値しかないように思ったことを覚えている。

2004年の紙幣の顔ぶれ

月日が経つうちに、私も諭吉をはじめとした他の面子にも慣れてきた。

私の人生で初めての新紙幣の登場から20年後の2004年、再び紙幣の刷新に遭遇した。

そして、その時に感じたのも失望だった。

いや、失望より深刻な絶望ですらあった。

どのくらいかというと、日本は終わりだと落胆したくらいだ。

今の日本政府は打倒されなければならないと憤った。

2004年の刷新において一万円札は福沢諭吉が続投、五千円札に樋口一葉、千円札に野口英世が起用されて2022年の現在に至るわけだが、五千円札と千円札が問題だった。

まずは五千円の樋口一葉である。

五千円に次ぐ額面の紙幣なのに、何でそんなの出すんだ?

そりゃ文学界では偉大な功績を残してはいるが、樋口一葉は活躍期間が短く存在感は弱い。

ミドル級にも遠く及ばない軽量級のバンダム級。五百円札でも荷が重い。

何より問題だと思ったのは、一葉は生前生活に困っていたことだ。

そんな人物を紙幣の顔にするなんて縁起でもない!

そして野口英世だが、これは樋口一葉とは逆の意味で大問題だ。

医学においては国際的に多大な貢献をした野口英世は、千円札の顔としての貫禄は申し分ないように見える。

だがその反面、英世は金銭感覚がゼロに等しく、まとまった金を手に入れると後先考えずに遊興に使い倒して借金まで重ねていたのだ。

生活困窮者と借金王が我が国の紙幣の顔。

日本を滅ぼす気か?

当時はバブルが崩壊してはや十数年、坂道を転がるように衰退していく日本経済を体感していた私には、すさまじく不吉なものに見えた。

もっと景気のいい偉人を使えよ!

功績とか知名度もいいが、まずはその偉人の生前の経済状況も重要ではないか!

そりゃ紙幣の顔を変えたからって、景気がぐんぐん良くなるわけはないが、まずは形からだろう

事実、当時の私の悪い予感が的中してしまい、日本経済は失われた三十年を迎えて現在に至っている。

私の望む紙幣の顔ぶれ

そして迎える2024年の刷新での紙幣のメンツは前述のとおりだ。

一万円札の顔である渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われているぐらいだし、実際に大富豪だったから、そりゃあ景気がいい。

女子教育の先駆者たる津田梅子も、樋口一葉よりずっと凄みと重量感があるし、元々裕福、近代日本医学の父・北里柴三郎も若いころは金で苦労したが、晩年になるまでにはかなりの資産があったから経済問題はどの偉人もクリアしている。

だが、大きくモノ足りない。

なぜなら日本史の偉人たちの中で、彼らはウェルター級くらいだと個人的には思うからだ。

出すなら一万円札はヘビー級、五千円札はクルーザー級以上の偉人じゃなきゃ。                    

その人物の出現以前と以後では我が国の在り方が変わってしまったほどの人物じゃないと、高額紙幣の顔になる資格はないはずだ。

本音を言えば、明治期に活躍した政治家や軍人を出してもらいたいが、我が国への逆恨みが甚だしい隣国が文句をつけてくるかもしれないから、もっと時代をさかのぼってやろう。

選ぶなら、よほどのバカじゃない限り日本人誰もが知っており、日本史に与えたインパクトが絶大で、願わくば経済的にも困っていなかったであろう人物でなきゃダメだ。

そこで歴史マニアの私から、今ここに理想の紙幣の顔を独断と偏見で提言する。

・千円札 空海

ご存じ弘法大師だ。

千円札を文化面での偉人から選定するとすれば、空海が日本史上最強だろう。

空海は中国から仏教の奥義や経典を体系づけて日本に伝来させて確立させた真言宗の開祖であり、この人がいなかったら今の日本仏教はない。

また宗教家としてのみならず本場の唐人をもうならせた能書家でもあり、当代一流の詩人であって、温泉を掘り当てたり堤防を作ったりの技術者でもあり、讃岐うどんの開発者でもあると語り継がれるほどの発明家。

ダビンチやゲーテに匹敵する日本が誇る万能人の空海は、いきなり千円札からヘビー級ではないだろうか。

大富豪ではなかったかもしれないが、かと言って決して貧乏ではなかったはずだし、そして一休や日蓮を抑えて日本史上最も有名な坊さんに違いないからどう考えても縁起がいい。

・五千円札 卑弥呼

男ばっかりじゃなく女も、という考えから2004年の時は樋口一葉を出したんだろうが、だったらもっとマシな人物選ばんかい。

日本史の最初の方には、そんじゃそこらの男の偉人など屁でもないような女傑がいるじゃないか。

それは邪馬台国女王、卑弥呼だ。

日本生まれの日本人なら知らないとは言わせない。

文句なしに日本人女子史上最重量級、日本史の中でもスーパーヘビー級の偉人ではないだろうか。

はっきり言って五千円札では役不足すぎるくらいだ。

問題はどんな顔をしていたか確かめようがないことだが、そんなものは女性皇族か政治家、はたまた大女優の顔をいくつか合成してそれらしい貫禄と気品あふれるご尊顔を作り出せばよい。

・一万円札 徳川家康

言うまでもなく戦国の最終勝者にして江戸幕府の開祖。

この人物なくして今の日本はありえないほどの影響を後の世に与えたのは言うまでもなく、日本史において明治の元勲ですら束になってかかってもかなわないくらいの規格外の偉人、それが徳川家康だ。

しかもまだ金銀産国であったころの日本各地の金山銀山をおさえ、海外との貿易を仕切って日本最大の石高を有する大大名でもあったから、当時の世界最大の大富豪でもあった。

なおかつ倹約に努めてその莫大な資産を遺したんだから、紙幣の顔として申し分はないはずだ。

一万円札も、何となく一万五千円くらいに価値が増した錯覚を覚えるかもしれない。

最高額紙幣の顔としては百点満点で四百点くらいの超適任者ではないか!

一万円程度では濃すぎるから五万円札を新設してその顔にしてもよいくらいだ。

いかがであろう?

我が国の紙幣が一挙に盛大になった気がしないか?

思えば1984年以来、紙幣の顔はそこそこ無難な人物ばかりで、どうもその姑息さが現代の日本社会の空気と大いにかぶる気がするのは私だけ?

地味な偉人で占められてすっかりネクラになってしまった現行の紙幣が、国全体からダイナミズムも活気も失われてしまって久しい我が国の姿を象徴しているとすら言いたくなるのは、極論だろうか?

だが先ほども述べたが、もう一度かつての輝きを取り戻す気があるならば、まずは形から入ってもよいではないかと、私は言いたいのだ。

いや、形こそ重要な第一歩だ!

だから腰抜け日本政府よ、紙幣の顔こそ気合入れて選ばんかい!

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超絶小物候補の逆恨み選挙戦 ~岐阜県知事にいじめられたと訴えた男~


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泡沫候補という言葉をご存じか?

泡沫候補とは、選挙において当選する見込みが極めて薄い立候補者を指すものである。

彼らは選挙に必要な地盤(後援会組織)・看板(知名度)・鞄(資金)がそろっていないのはもちろんのこと、あまり目立った政治活動をやっていなかったり、荒唐無稽か実現不可能な主張をしたりする者も多い。

また、ハナから当選ではなく、売名が目的だったりする者もいる。

よって、我が国をはじめ多くの民主主義国家では、公職選挙においてこうした候補の乱立を阻止する目的で、立候補する際に選挙管理委員会等に対して寄託することが定められている供託金という制度がある。

この供託金は落選したとしても法定得票数に達すれば全額返却されるが、一定票に達しない場合は全額没収されてしまう。

だが、それでも泡沫候補は全国いたるところで出現し、特に東京都知事選においては数多の泡沫候補が立候補する傾向がある。

時代が昭和から平成に移ったばかりの1989年の岐阜県の県知事選でもそんな候補者がいた。

だが、その男は30年以上たった現在でも忘れられることはなく、ある程度の年齢の岐阜県民にはしっかり記憶されているほどの恥…、いやインパクトを残したのだ。

平成最初の地方大型選挙

1989年(平成元年)1月9日、元号が昭和から平成に変わって間もないころ、岐阜県で平成最初の大型選挙と銘打たれた岐阜県知事選挙がスタートした。

この年の2月5日、1977年(昭和52年)より12年間にわたり、三期岐阜県知事を務めた上松陽助氏は、任期満了を機に引退することを表明していた。

よって、この選挙は新しい時代の岐阜県県政を担う、新たな県知事を選ぶ選挙であったのだ。

名乗りを上げたのは無所属新人の候補三名。

  • 一人目は、上松氏の下で四年間副知事を務めた梶原拓氏(当時55歳)
  • もう一人は、元岐阜県高教組委員長の岡本靖氏(当時61歳)
  • 最後は、ウナギ販売会社社長の児島清志氏(仮名、当時40歳)

である。

立候補者は以上の三氏だったが、事実上は梶原氏と岡本氏の二氏の争いとみられており、当時、選挙戦の模様を伝えていた岐阜県の地方紙である岐阜新聞の記事は、両氏の動向のみを取り上げていた。

梶原氏は副知事を務めてきたという実績もあったし、自民党や社会党(後の社会民主党)などを含めた五政党の推薦を受けていたし、岐阜県の教育界でハバを利かせてきた岡本氏は、共産党の推薦を受けていたからだ。

一方、支持母体や政党のバックもなく、県政に関わった活動をしてこなかった児島氏は、ハナから泡沫候補と見られていたのもある。

しかし、それ以前にこの第三の男である児島氏は候補者としての資質に問題があった。

その主張が、あまりにも陰湿且つ幼稚だったからだ。

「梶原拓はかくのごとき男です」

新聞社というのは、当選の見込みのない泡沫候補の主張や選挙戦の模様に、紙面を割きたがらない傾向があるものだ。

それは地元紙の岐阜新聞も同じであり、選挙戦での発言や公約はすべて梶原氏と岡本氏で占められていたのは、前述のとおりである。

だが、蚊帳の外に置かれていた児島清志氏も、全く何もしなかったわけではない。

選挙戦が始まってからほどなくして、前述の岐阜新聞の朝刊の折込広告の中に、あるチラシが混じるようになった。

それは、あの第三の候補者である児島氏の主張が書かれたものだった。

当時、私は岐阜県内の中学校に通う二年生。

知事選挙が行われていることは何となく知っていたが、関心があるわけはない。

そんな私がこの選挙を今でも覚えているのは、そのチラシに書かれた児島氏の主張を目にしたからだ。

それは、

『岐阜県知事候補・梶原拓はかくのごとき男です』という題名から始まっており、梶原氏の裏の顔とその正体を告発するものだった。

なんでも、児島氏は自身の仕事の関係か何かで何度か岐阜県庁に足を運び、副知事だった梶原拓氏と接触したのだが、話し合いがこじれてモメたらしい。

その結果、梶原氏本人とその部下から恫喝されたり暴力を振るわれたり、屈辱的な仕打ちを受けたというのだ。

チラシの中で、権力を笠に着た梶原氏がどんな罵声を浴びせてきたか、自分が何をされたかを延々と書き連ねており、そんなもの見せられた読者の家庭はドン引きして。朝っぱらから重力が重くなったことだろう。

梶原氏だけでなく、その部下と思しき人物も『暴力公務員』という枕詞を冠して実名で告発されていた。

例えば、

「…梶原拓の部下である暴力公務員〇〇と△△は私の胸倉をつかんで「てめえ、それでも男かて」「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」と脅しました…」

というような内容なのだ。

「ちんぼ見せてみんかいオラ!!」って…、ホントに言われたとしても書くかフツー。

とにかく書いていることが、高卒レベル(偏差値48くらいの)の文章力を有した小学生が、いじめられたことを先生にチクるために書いているような恨み帳そのものである。

文章は、終始一貫して梶原氏への誹謗中傷で占められており、県知事になってからの具体的でまともな公約がほとんど目立たない。

このヒト、一応県知事候補だよな?

中学二年生の私から見てもあまりにもかっこ悪く、圧巻の大人げなさだった。

とても当時の両親と同い歳くらいのおっさんが書いているとは思えない、と感じたことを覚えている。

こんなものを、児島氏は岐阜県中の家庭にばらまいていたのだ。

彼は泡沫候補の中でも他の候補に対する妨害を目的とした、いわゆる特殊候補だったのである。

記事として取り上げる価値のない泡沫候補である前に、どうりで岐阜新聞が相手にしないわけである。

もっとも、岐阜新聞も完全にシカトしていたわけではなく、時々小さく児島氏の主張を載せて、その存在をささやかながら県民に知らせてはいた。

児島氏の主張

しかし、梶原氏や岡本氏のように「日本一住みやすい岐阜県づくりに努めたい」とか「弱者切り捨ての県政は終わりにしよう」などのお決まりだが景気のよい前向きなものではなく、ひたすら私怨ほとばしり、被害妄想に満ちたネクラなものだった。

何より日本語も少々おかしい。

梶原氏の対抗馬の岡本氏にとってはありがたい存在ではあったろうが、ここまで程度が低いとあまり頼りにはならなかっただろう。

そして迎えた投票日の1月29日、開票が行われた結果は以下のとおりだった。

  • 梶原拓氏は544069票
  • 岡本靖氏は204309票
  • 児島清志氏は42465票

梶原拓氏の圧勝だった。

予想されたことだったが児島氏は大惨敗であり、得票が法定得票数に満たなかったために、供託金は没収となったはずだ。

というか、四万人もこんな人物に入れた県民がいたことは驚きだったが。

この結果になることはわかりきっていたはずだし、時間と、何より金の無駄以外の何者でもない。

しかし、彼はあきらめなかった。

驚くべきことに、再び立候補するのである。

しかも、この年のうちに。

第十五回参院通常選挙

岐阜県中の失笑を買った児島清志氏だったが、1989年の岐阜県知事選から半年もたたないうちに、再びその名前を岐阜県民は目にすることになる。

同年7月に行われる第十五回参院通常選挙に再び出馬したのだ

一体何を考えていたんだろうか?

国会議員になって、今や岐阜県知事の梶原氏を見返したかったのか。

この参院選挙での岐阜選挙区の立候補者は自民・現職の杉山令肇氏(66歳)も含めて5人だったが、その中には川瀬一雄氏(仮名、42歳)という元印刷会社社員、元警察官、元証券会社社員で現在は無職というわけのわからない経歴の泡沫候補も混じっていた。

児島氏も泡沫仲間がいてよかった。

だが、児島氏は体を張って岐阜県民を楽しませる泡沫候補としての経験値が違った。

今回も岐阜新聞に相手にされなかったが、またしても折り込み広告には自らの主張を挟んできたのだ。

そして案の状その内容は『岐阜県知事・梶原拓はかくのごとき男です』で始まる例の恨み帳だった。

参院選挙だぞ、岐阜県知事関係ないだろ?

よっぽど梶原拓が嫌いらしい。

今回のお話も敵役が梶原氏であることに変わりはなかったが、前回の県知事選とは違うバージョンの内容だったことをよく覚えている。

いじめられたのは、一回だけではなかったようだ。

児島清志-確かにいじめたくなる顔だ

そして新聞でもお情けでささやかながら、その主張を掲載させてもらっていたが、相変わらず何が言いたいのか意味がわからない。

ここまで来ると、選挙には関係がない我々中学生も児島氏のことを知るようになり、学校で話題にする同級生もいた。

もちろん応援するのではなく、その大人げなさを小馬鹿にしていたのだ。

「こんな大人になってはいけない」という見本を岐阜県中の未成年者の前に自ら晒していたといっても過言ではない。

また、真剣なぶん余計笑えた。

そして7月23日の投票の結果、当選は454154票を獲得した新人の高井和伸氏(48歳)。

現職だった杉山氏とは、約34000票差の接戦であった

もちろん児島氏は、今回も28049票で大惨敗。

だが、泡沫候補仲間の川瀬氏の得票23660票を上回っており、こちらも接戦であったが。

それ以降、児島氏の名前を選挙で見かけることはなかったが、その小人物ぶりと負けっぷりは岐阜県人の間で伝説となった。

副知事時代に児島氏をいじめたと訴えられたものの、1989年から晴れて岐阜県知事となった梶原拓氏の方は、2006年に健康上の理由により退任するまで四期16年間知事を務めた。

また在任中は、財政を悪化させるハコモノ行政を行ったと批判を浴びたこともあったが岐阜県知事としてだけではなく全国知事会会長をも務める重鎮ともなり、2006年4月には旭日大綬章を受章、2017年83歳で天寿を全うした。

梶原拓氏

児島氏にとっては、地元で悪が栄え続ける様を見せ続けられたことになろう。

ところでこの児島氏なんだが、実は私の実家からほど近い場所に住んでいたらしい。

1989年当時40歳だったから、2022年現在ご存命ならば御年73歳くらいか。

まだお元気でお住まいもそのままだったら、次回帰省した際に訪問してお話を伺ってみたいものだ。梶原拓氏について。

出典元―岐阜新聞

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ドロボー少女に緊縛制裁 ~戦後無法~

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戦争末期と戦後の昭和二十年代前半の日本は、食糧難の時代だった。

いくら昭和は芳しく見えても、この時代は誰だって嫌だろう。

一応戦後も配給制は存続していたが、そんなもので足りるはずもなく、全国各地の焼け跡に闇市が出現し、都市部の住民は着物などの持ち物を農村に持ち込んで作物と交換していたし、東京では不忍池や国会議事堂前にまで畑が作られていた。

そして、その畑から作物を盗む者も現れるようになる。

だが、そんな食糧危機の時代に食べ物を盗んだら、ただじゃすまない。

捕まったら最低数百発は殴られる。グーどころか棒で。

冗談抜きに殺された例もある。

人心は荒廃していて、食べ物の恨みは現代とは比べものにならないほど深かった。

現代みたく怒られて終わりだったり、「腹が減ってたのか。かわいそうに」なんて同情されるような甘っちょろい時代じゃない。

何より畑の主も次から次に現れる畑荒らしに、神経をとがらせていた。

1946年、栃木県宇都宮市西原で馬鈴薯を栽培していた農民の菊池太平(当時46歳)もその一人だ。

馬鈴薯は闇市の人気商品で、高値で取引されていたために、畑荒らしにも人気の作物。

腹も満たせるし、懐も温めることができるために、よく狙われていた。

菊池の馬鈴薯畑もご多分にもれず被害に遭っており、これまで丹精込めて作った作物を畑荒らしにしょっちゅう盗まれて、気が立っていたらしい。

同年5月、そんな男の畑から馬鈴薯を失敬しようと忍び込んでしまった者がいた。

木村千枝子という、何と20歳の女である。

しかも木村は、この一週間後に婚礼を控えていた。

そんな身の上の女がこんなことに手を染めるんだから、いかにこの時期の日本が食糧難にあえいでいたか、わかるであろう。

とはいえ、彼女が盗もうとした馬鈴薯は20キロ近くの量であり、なかなか大胆である。

だが、彼女は盗みに入る畑を間違えた。

この畑は立て続けの被害に怒り狂い、危険な状態となっていた菊池の畑だったのだ。

そして、より不幸なことに菊池に犯行を目撃されて、捕まってしまった。

「このデレ助が!!」

女だろうが容赦はしない。

これが初めてだったとかも関係がない。

誰の畑を荒らしたかわからせてやる。

菊池のこれまでの積もり積もった怒りが、すべて20歳の女ドロボーに向く。

木村は家に連れ込まれ、その夜、拷問に近い仕置きを受けた。

翌日になっても許してもらえない。

縄で縛り上げられた木村は、電信柱に括り付けられた。

近くには立札が立てられ、そこには『社会の害虫、野荒し常習犯』と書かれている。

痛めつけられただけではなく、さらし者にされたのだ。

だが、これはさすがにやりすぎだった。

見物人の中に通報した者がいて、菊池は過剰防衛で逮捕されてしまった。当たり前だ。

もっとも、ボコられて生き恥をさらされた木村も窃盗罪で捕まったが。

怖い時代だ。

昭和30年代の日本も貧しかったが、餓死者出るほどじゃなかったはずだからまだ人情味が入り込む余地があったが、戦後くらい貧しいと人間は、ここまで心がささくれ立つということだ。

「現代に生まれてよかった」と思うかもしれないが、日本でこのような食糧危機は、もう起こらないとは限らないのではないだろうか。

少なくともこの時代は農民も多かったし、食糧自給率は輸入に多くを頼っている現代の日本より、ずっと高かったのだ。

日本の経済力がさらに低下して、外国から安い食料が買えなくなったら…。

全く考えられない悪夢ではないはずだ。

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仙台アルバイト女性集団暴行殺人

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2000年(平成12年)12月24日、宮城県仙台市でアルバイト店員の女性、曳田明美さん(仮名、20歳)が暴力団員を含む8人の男女に拉致されて6日間にわたるリンチの末に殺害され、遺体は灯油で焼かれて遺棄されるという悲惨な事件が起きた。

こんなむごい殺され方をするなんて、この曳田という女性はよっぽどのことをしでかしたんだろうか?

いや、実は全く何もしていない。

グループの一人の一方的で身勝手な思い付きとその他全員の勢いだけで監禁され、何の落ち度もないのに残忍な暴行を加えられ続けて殺されてしまったのだ。

犯人たちと事件の発端

この凶行を犯したのは、某広域指定暴力団組員の平竜二(仮名、25歳)、大野和人(仮名、21歳)、平の弟分で同組員の猪坂大治(仮名、21歳)、大野の彼女である木場志乃美(仮名、21歳)、田中久美子(仮名、20歳)、兼田亮一(仮名、19歳)、高橋衛(仮名、18歳)、赤塚幸恵(仮名、19歳)の男女8人である。

もっとも、ずっと以前からつるんでいたわけではなく、事件が発生する直前までに知人を介して知り合って、たまたまその場に居合わせた者もいたという関係性が希薄な集団であった。

そして、当然どいつもこいつもまともな連中ではない。

暴力団員まで含めたこのろくでなし集団が、よってたかって一人の女性を死に至らしめることになる事件の発端は、被害者となる曳田明美さんとは全く関係がないところで始まった。

それは2000年12月中旬ごろ、一味の一人である木場志乃美のもとに、ある男からメールが送られてくるようになったことからである。

そのメールは、木場に対して気があるようなことをにおわせる内容であったが、木場本人にはその気はなかった。

むしろ、不快極まりない。

同じく一味の一人である大野和人と付き合っており、同棲までしていたからなおさらだ。

木場は、彼氏である大野にこの件を言いつけた。

メールを送ってきた男は大野の顔見知りではあったが、自分の女にそんなことをする奴は許せない。

「ふざけやがって。シメてやる」といきり立った。

大野は窃盗で少年院に送られたこともあるし、暴力団構成員の平や猪坂とつるんで、暴力団事務所にも出入りしているから準構成員と言ってもよいが、中途半端に危険な男だ。

だから、一人でやる気はさらさらない。

他のメンバーにも声をかけて頭数をそろえた上で、一味の親玉であり暴力団組員の平竜二にもお願いして仙台市内の組事務所マンションを使わせてもらうことに成功。

平はこの組の部屋住みらしく、普段この組事務所で寝泊まりしており、融通が利いたようだ。

ほどなくして12月18日夜に相手の男を事務所に呼び出すや、平らとともに殴る蹴るの制裁を加える。

さんざん殴られた男は顔を腫らして完全に泣きが入ったため、ヤキを入れる目的は順調に果たした。

しかし、調子に乗った大野は、おさまらなかったらしい。

「誰か、こいつ以外にヤキ入れてー奴いるか?ついでにやっちまおう!」などと言い出したのだ。

組事務を使わせてもらって気に入らない奴を痛めつけることができたから、のぼせ上っていたのだろう。

それに、すかさず答えた者がいた。

大野の彼女、この制裁の発端となった木場志乃美である。

「中学ん時の一コ下でさ、約束破った奴いるんだよね。そいつやっちゃおうよ」

「よっしゃ。で、どんな奴?女?」

「曳田明美って女。ウリ(援助交際)しないって約束したのにしやがってさ」

「おう、その曳田って女、今から呼び出せ」

親分気取りの平も了承し、惨劇の幕が切って降ろされることになった。

深夜の呼び出し

曳田明美さん(仮名)

曳田さんは、援助交際など全くしていない。したこともない。

健全な家庭で育っており、進路が決まるまで自分を見つめなおそうと普段ファミレスでアルバイトをし、夜間に出歩いて両親に心配をかけたりすることが全くない、まじめな性格の持ち主だった。

完全に木場のホラである。

そもそも両人とも、そこまで長く深い付き合いではない。

あくまで木場の供述なのだが、曳田さんは中学の後輩だったとはいえ、実際に木場との交友が始まったのは、事件が起こった年の3月ごろからだという。

また、実際には特に怨恨らしい怨恨も全く発生していないようだ。

にもかかわらず、木場はこの時もう日付けが変わって19日の深夜になっているのに、曳田さんを痛めつけるために呼び出そうと携帯に電話する。

一方、真夜中にいきなりの呼び出しの電話を掛けられた曳田さんは当然断った。

「もう夜遅いから無理ですよ。これからお風呂だし」

だが、しつこい誘いと「今から迎えに行くから」という強引さに根負けしてしまい、しぶしぶ了承してしまう。

この時のやり取りを、隣の部屋にいた曳田さんの妹が聞いていた。

普段、携帯電話で話をする時は、いつも楽しそうにしゃべっていた姉だったが、この時は本当に憂鬱そうな声で対応していたという。

第一、この付き合いは木場の一方的な思い込みであり、さほど親しい間柄でもない。

それどころか曳田さんの方は、つきまとう木場をできることなら避けたかったらしいことが、ある友人の証言で明らかになっている。

木場は性格が極めて陰険で、高校を中退してから窃盗などの犯罪歴を重ね、今では暴力団関係者とつるみ続けているクズ女だったからだ。

かと言って、お人よしすぎるところがあった曳田さんは、きっぱり拒絶することもできず、中途半端な状態が続いていた。

また、前述のごく少数を除いて、曳田さんの友人知人の中に木場との付き合いがあることを知っている者はいなかった。

木場が痛めつける相手として嘘までついて曳田さんを選んだ納得のいく具体的な理由は事件後に逮捕されてからも明らかになっていないが、木場の方は曳田さんのよそよそしい態度を感じて、ムカつき始めていたのではないだろうか。

自分勝手な奴に決まっているから、なぜ自分が避けられているか考えるはずもなく、「親しくしてやってるのに距離とろうとしやがって」と逆ギレし、その逆恨みの感情がきっかけになった可能性が高い。

曳田さんは、木場に言われるまま翌19日の午前4時に家を出て、迎えに来た大野と木場の車に乗り、前述のマンションに向かう。

あまりいい予感はしなかったであろうが、まさかこれから連日地獄のような暴行を加えられて、命を絶たれることになるとは思いもせず。

凄惨な暴行の始まり

大野と木場に連れられてマンションの一室に入った、曳田さんは凍り付いた。

その一室の雰囲気は暴力団事務所なだけに、とても普通の住居やオフィスとは思えないだけでなく、明らかに堅気ではなさそうな雰囲気の者たちがこちらを剣呑なまなざしで見ているし、何より顔を腫らした男が正座させられているではないか。

「オメーも正座しろ!」

木場が突然豹変して、高飛車に命令してきた。

何のことかわからないが、その場の雰囲気に押されて言われるがまま正座した曳田さんを、鬼の形相でののしり始める。

「何でヤキ入れられるかわかってるべが!?おめえ約束破ったろ!!」

「え、約束って…何のことですか?」

「しらばっくれんじゃねえ!」

木場は拳で有無を言わさず曳田さんの顔を殴った。

「オメー何だ!その態度はよう!おう!?」

完全にでっち上げなのに、まるで実際に許しがたいことをやったかのごとく檄高して怒声を上げて暴力をふるう。

いきなり暴行を加えられたショックに、曳田さんはされるがままだ。

「はっきりせいや!!」

彼氏の大野もここでやらなきゃ男がすたるとばかりに、曳田さんの髪をつかんで殴りつける。

その場にいた連中、平や猪坂以下ほかのメンバーも暴行に加担、無抵抗の彼女を殴るわ蹴るわ。

矛先は先ほどのメール男から、完全にシフトした。

木場の言うことが本当かどうか、又は相手が誰かなんて関係がない、みんながやっているからやる。

ならず者集団の一員ならば、やらなかったら他の奴にどう思われるかわからないし、その前に人を痛めつけるのは面白いと考えているはずの連中だから躊躇はない。

グループの親分格の平は曳田さんに木刀を突き付けて「殺してやろうか?コラ!何とか言えや!」などと脅し、髪をつかんで部屋の外に引きずり出して、非常階段の所から落とそうとすらした。

本来ならば最年長者の平はこの暴挙を止める立場にあるし、大の男が女性相手にここまでするのはみっともない、というのは一般社会の考え方である。

平竜二(仮名)

こいつは、反社会勢力である暴力団組員なのだ。

むしろ、皆に自分が危ないことをする人間であることを見せつけて「暴力ってのはこうすんだ」という模範を、示そうとすらしていた。

平は組の中では下っ端であり、事件発覚後にテレビの取材に応じた街の若者の一人には「ヤクザだけど大したことない奴」と陰口をたたかれていた程度の男だったらしいから、なおさら弱者相手だと威勢が良い。

さすがに曳田さんが大声で泣き叫ぶ声がマンション中に響いたため、弟分の猪坂が平を制止して、再びマンションの中に曳田さんを引きずり込んだ。

「ごめんなさい。もう勘弁してください」

一時間ほど暴行された曳田さんは泣きながら木場のついた嘘を認めて謝罪した。

全く何もやっていないにも関わらず。

手ひどい暴行で曳田さんの左目と左頬は腫れあがっており、木場の望みはかなった。

だが、これは始まりに過ぎなかった。

暴行を楽しむ犯人たち

犯人グループは曳田さんを十分に痛めつけたはずだったが、このまま帰すわけにはいかないと考えていた。

なぜなら顔が腫れて、何をされたか明白だったからだ。

彼女は実家暮らしだから、本人が通報しなくても家族の者がするだろう。

そこで一味は、曳田さんの顔の腫れが引くまで監禁することにした。

さらにアルバイト先にも電話をかけさせて、「ケガをしたから今日は休む」と言わせてバイト先から通報されないようにもする。

19日午前9時、平が全員に組事務所から出ていくように言い渡す。

部屋住みの平が事務所を自由に使えるのは、自分と猪坂以外の組員がいない時だけなのだ。

そこで大野と木場、田中は曳田さんを連れて仲間の一人である高橋の住むマンションへ向かう。

だが、このマンションで木場と田中は、曳田さんが携帯電話を握っているのが気に入らないと因縁をつけ始め、暴力をふるった。

その後、実家に「不良少女にからまれたところを先輩に助けられた。今は西公園の先輩の所にいる」と言うように命じ、実際に曳田さんはその日の午後に心配する母親からかかってきた電話に対してそのように答えている。

一味の者は、不良にからまれて殴られたことにすれば、顔に傷があっても不思議じゃないと考えたようだ。

その電話の後、母親にさっきと同じようなことを伝える電話をかけさせた後、外部へ連絡できないように曳田さんの携帯は破壊した。

当初一味は彼女の顔の腫れが引くまで家に帰さないつもりだった。

だが、やがてそれをぶち壊しにすることをやり始める。

またもや、理由をつけて殴り始めたのだ。

積極的なのは、やはり木場である。

性悪どころか極悪女の木場の目から見た曳田さんはぶりっ子なところがあり、お嬢様ぶってるような気がして気に食わない。

そして、暴力を振るわれたショックでしょげかえっている姿は、見ているだけで余計いじめたくなる。

木場は「和人、こいつオメーに犯されたとか言ってたよ」などとでたらめを大野に言ってたきつける。

やるならみんなと一緒の方がいいと考えるのは、こいつも同じなのだ。

「ナンだと?テメーみたいなの犯るわきゃねーだろ、コラア!!」

でたらめなことは百も承知な大野だが大真面目に激怒して、曳田さんをベランダに引きずり出して傘で殴った。

「もう許してください」と泣いて謝っても手は緩めない。

その場にいた高橋と田中も調子に乗って手を出し、後からマンションに来た兼田と赤塚も「俺らもやっていいっすか」などと言ってリンチに参加した。

もはや暴行する理由など、どうでもよかった。

彼らは後先考えずに、暴力を楽しむようになっていたのだ。

度重なる暴行で曳田さんの顔は余計に腫れ上がり、ますます家に帰せなくなる。

犯人たちは彼女の服を全て脱がせて、代わりにトレーナーを着せ、組事務所や仲間の家へ連れていく際は後ろ手に手錠をはめて車のトランクに入れていた。

監禁先は転々としていたのだ。

そして、監禁中は絶えず言いがかりをつけては集団で殴り、たばこの火を押し付け、髪を切り、頬をカッターで切ったりと暴行はエスカレートしていった。

犯人たちはグループ以外の知人の家にも連れて行ったことがあったが、その知人は度重なる暴行でむごたらしい姿となった曳田さんを見て仰天し、自分の家で凄惨な暴行が行われている間は目を背けていたと後に証言している。

だが、後難を恐れて警察に通報することはついになかった。

両親の捜索

曳田さんの両親は、愛娘がそんな目にあっているとは思ってもいなかった。

木場たちに監禁されることになる直前の18日、バイト先から帰ってきた曳田さんは家族そろって夕食の席についており、その時何も変わった様子はなかったからだ。

むしろ、目前に迫ったクリスマスには付き合っている彼氏が指輪をプレゼントしてくれるんだと母親にうれしそうに語っていたし、翌年に控えた人生の一大イベントである成人式に着る晴れ着が24日には受け取れると、ウキウキしていたのだ。

そんな幸せいっぱいだった曳田さんが姿を消した。

19日深夜に木場に呼び出されて、家を出た彼女は玄関の鍵を開けっぱなしにしており、その日の朝に起床した父親は不審に思ったが、娘は自宅二階の自室で寝ているんだろうと思い、この時点では失踪したとはつゆほども考えていなかったという。

彼女はバイトで遅番が多く、昼前まで寝ていることが多かったからだ。

その後、部屋におらず全く行方知れずになっていたことがわかり、心配した母親が同日18時に曳田さんの携帯電話に電話した。

この時は、まだ携帯電話を破壊されておらず、曳田さん本人が電話に出てこう話した。

「今、西公園(仙台市青葉区)のとこにいる。レディースにからまれて殴られちゃってね。バイト先には休むと連絡しといたけど」

これは木場たちに言いつけられた通りのことだ。

もちろん近くに木場たちがいて、余計なことを言わせないよう聞き耳を立てていたのは言うまでもない。

「え?どういうこと?」

「また後でかけなおすね」

そう言って電話が切れた。

ただ事ではないと感じた母親がその後、数分おきにかけたが一向につながらない。

この時、初めて娘の身に不測の事態が起きたことを、曳田家の人々は知った。

その2時間後の20時、今度は母親の携帯に曳田さんから電話が入って、以下のような会話がなされた。

「今も西公園の先輩の所にいるんだけど、先輩のおかげで助かった。今顔を冷やしてもらっているところ」

「どういうことなの?あと、さっき言ってたレディースって何なの?」

「…」

「とにかく早く帰っておいで。被害届けも出さなきゃ。顔は大丈夫なの?電車で帰れる?」

「大丈夫。帰れるよ」

「電車でモール(仙台市の商業施設)まで来なさい。迎えに行くから」

「わかった」

「着いたら電話するんだよ」

母親はそう伝えると電話を切った。

とりあえず、先輩とかいう人物に介抱されていることはわかった。

それを聞いた父親は「とりあえず、明美からの電話を待とう」と言って夜勤に向かった。

そして、これが曳田さんの声を聞いた最後となる。

父親は、職場に着いてからもやはり心配だったので、何度も電話を掛けたがつながらなかった。

家に電話しても、娘からの電話はまだ来ないという。

翌20日から、異常事態の発生を確信した両親はじめ家族の者は、曳田さんの友達に連絡するなどして、血眼になって娘の行方を捜し始めた。

「西公園の」という線からもその近くに住む娘の知人を捜したが、さっぱり見当がつかない。

前述のとおり、この時点で曳田家の人々もほとんどの友人たちも、娘が木場という女との付き合いがあったことを知らなかったため、犯行グループに近づくことができなかった。

突然の家出は考えられない。

彼女は非常にまじめな性格で、親に迷惑をかけることをこれまでしたことがなかったし、前日まであんなに楽しそうにしていたのだ。

失踪から5日目の12月23日、行方に関して何ら手掛かりが得られず、ひょっこり帰ってくるのではという望みも薄くなりつつあったため警察署に捜索願を出した。

警察も「レディースにからまれた」という話や、5日間も連絡がないことから、事件性が高いと判断して捜査に乗り出す。

その後、曳田家の人々は友人知人関係のみならず、近所で独自に聞き込みを行い、時には藁にもすがる思いで霊能力者にまで霊視を依頼して娘の行方を必死に探し続けた。

だが、曳田さんは家族が捜索願を提出した翌日には殺されていたのだ。

非業の死

曳田さんが監禁されてから5日目の12月23日午前11時ごろ、木場は大野らに車で送ってもらって、保護司との面談を行っていた。

前年に大野と犯した窃盗事件で2年間の保護観察処分を受けていたためだ。

面談を終えて、車で待っていた大野たちのもとに戻る木場の機嫌は最悪だった。

このむしゃくしゃは明美のやろうをいじめて晴らしてやると考えながら。

車に乗ると、仲間に「さっき警察が来ててさ、『お前ヒト監禁して殴ってるだろ?』って逮捕状見せられたから逃げてきたよ」と、愚にもつかない嘘八百を並べ始める。

曳田さんが通報したと、皆に思わせようとしているのだ。

「なにい?ふざけやがって!めちゃくちゃにしてやる!!」

大野たちは、ろくに疑いもせずに怒り出す。

午後17時、曳田さんを監禁している組事務所にやってきた大野たちは「平さんにも逮捕状が出てるみたいだぜ」などと、ここでも嘘をついて、余計に皆をあおる。

「テメー事務所の電話使って通報しただろ!」と、曳田さんを囲んですごんだ。

「そんなことしてません!何もしてないです!!」

涙ながらに訴えたが、意に介さず拳や灰皿で殴りつける。

さらに暴行により血を流し続ける口にティッシュペーパーを入れて火をつけて、悶絶する彼女を見て笑い転げた。

翌24日の午前1時、弱い者いじめが大好きな平は、これまでの暴行で顔が原型をとどめないほど変形して、青息吐息の曳田さんをたたき起こして正座させると、

「テメー通報したろう。埋めるぞ!」

と木刀を突き付け、風俗店に勤めるように要求。

誓約書や借用書を書かせた後、大野、高橋、兼田も加わって再びリンチを始めた。

無抵抗の女性の顔に拳を叩き込み、蹴り上げ、フライパンで強打する。

「…痛いです。もうやめてください…。いっそのこと殺してください」

と弱々しい声で哀願する曳田さんを、午前8時まで暴行し続けた。

これが、最後の暴行となった。

この日の午後3時の組事務所、曳田さんの様子がおかしいことに平が気づき、他のメンバーを集める。

すでにピクリとも動かず、鼻の上にティッシュペーパーを置いても反応がない。

曳田さんは楽しみにしていたクリスマスイブの日に、20年というあまりに短い人生を絶たれていたのだ。

そして、その日受け取るはずだった晴れ着を着て、成人式に参加することもかなわなくなった。

死体遺棄

人を一人殺してしまったにもかかわらずこの人でなしたちは、強がりだったのかもしれないが、何ら痛痒を感じない様子でこう言い合っていた。

「あっけねえ、もう死んだのかよ」

「自業自得だぜ」

「こんな奴、死んだって誰も悲しまねえべ」

「でも、死体どうにかしなきゃな。ダリいな」

平はいったん用事があって事務所を後にし、大野と木場も曳田さんの死体を残したまま外出して、ゲーム機を買って戻ってきた。

そして、平を除く7人はそのゲーム機に興じ、その間に曳田さんの死体にサングラスをかけるなどして笑い合っていた。

午後10時に平が戻った後、改めて遺体をどうするか相談が始まる。

薬品で溶かすとか海に捨てるとかの意見が出たが、結局事務所のあるマンション近くの山の中で燃やそうということになった。

男たちばかり5人は車2台に分乗して曳田さんの死体を積んでその山に向かい、途中で灯油を購入。

山の中で死体に灯油をかけて火をつけたが、なかなか思ったように焼けない。

「しぶといな。もっと燃えろよ」

などと、平は木の棒でつついたりして死体をもてあそんだ。

火が消えた後は焼け焦げた死体を引きずって斜面から投げ落とした。

「ここらはもうすぐ雪が積もるから、春まではバレねえべ」

などと言って現場を後にした。

一方、事務所で留守番をしていた女性陣のうち田中と赤塚は飛び散った血痕のふき取りにいそしんでいたが、木場は寝転がってふんぞりかえっていたようだ。

逮捕

このならず者たちは、曳田さんを監禁して暴行する以外にも悪事を働いていた。

21日、監禁していた曳田さんを車のトランクに入れて知人宅に向かう途中立ち寄ったコンビニで商品を万引き。

なおかつ、店で木場と田中ら一味の女に声をかけた男性二人を集団で暴行して金を巻き上げているし、その日の夜には目が合ったという理由で男性に因縁をつけてカツアゲしている。

22日には平と猪坂の所属する暴力団の忘年会に大野と兼田、高橋も平に連れられて参加。

ゆくゆくは正式な組員となる準構成員として、組長はじめ他の組員一同に紹介するためだった。

その帰り道にも、平以外の4人は通行人を殴って現金を脅し取っていたから、どこまでもクズい連中だ。

曳田さんを殺して山に捨ててから間もない12月31日、今度は平と大野をはじめとした男たち5人が仙台市内のファッションビルで男性5人を暴行、またもやカツアゲだ。

だが、これが悪運のツキとなる。

いつまでもこんな悪事を続けられるほど、仙台市は無法地帯ではない。

この時に兼田が現行犯逮捕され、年が明けた1月には平、猪坂、大野及び高橋も逮捕された。

そしてそのころ、曳田さんを必死に探す両親は娘の交友関係の中から木場の存在を突き止めて、何か情報を知っているのかもしれないと警察に情報提供していた。

警察も木場を曳田さんの失踪に関係があるとにらんで調べを進めていたところ、現在傷害容疑で拘留中の平たちとの交友があることが判明。

曳田さんのことを拘留中の男たちに問い詰めたところ、あっさりと死体を焼いて捨てたことを供述した者がいた。

供述したのは、何と親分格で暴力団員である平。

どうせバレるなら真っ先に供述して刑を軽くしようと考えたらしいが、当初のうちは「事務所で女が死んでいたので、処理に困って燃やして捨てた」と自分で殺したわけではないと言っていたから往生際の悪い奴だ。

あろうことか子分を真っ先に売るんだから、ヤクザとしても褒められたものではない。

平を同行させて山を捜索したところ、供述通り白骨化した死体を発見。

両親から曳田さんが生まれた時のへその緒を取り寄せて鑑定した結果、その死体は曳田明美さんの変わり果てた姿だと断定される。

無事に取り戻したいという両親の切なる願いは、無情にも絶たれてしまった。

その後、仲間の木場が連れてきた女を皆で暴行して死なせたと平が白状し、2月5日には木場を逮捕。

残りの田中と赤塚も逮捕される。

ちなみに、他のメンバーはすべて犯行を自供した中で、木場だけは最後まで否認し続けていた。

遺体発見現場

その後

この事件の初公判は2001年(平成13年)5月より開かれ、悲憤にくれる両親は、曳田さんの遺影を持って出廷していた。

仙台地裁は一審で「類を見ない非人道的行為」と指弾、被告たちも控訴しなかったために以下のとおり刑が確定した。

  • 大野和人、懲役12年(求刑懲役13年)
  • 木場志乃美、懲役10年(求刑どおり)
  • 平竜二、懲役10年(求刑どおり)
  • 猪坂大治、懲役9年(求刑懲役10年)
  • 田中久美子、懲役8年(求刑どおり)
  • 兼田亮一、懲役10年(求刑どおり)
  • 高橋衛、懲役5年以上10年以下(求刑懲役10年)
  • 赤塚幸恵、少年院送致

あれだけ残忍な所業をした割にはこの程度であったが、当時の日本では、これが限度であったようだ。

曳田さんの両親はその後の2003年(平成15年)、事件の実質的な首謀者であった木場と大野に対して約1億円の損害賠償を求めて仙台地裁に提訴。

和解協議の名目で、2人との対面を求めた。

自分の娘を殺した犯人と直接会って、どんな者たちなのか知りたかったのだ。

そして、本来ならば親族以外はできない受刑者との面会が実現。

2005年2月2日には栃木刑務所で木場と、3月1日には宮城刑務所で大野との対面を行い、和解が成立。

和解条項には7600万円の解決金の支払いと両親への「心からの謝罪」が盛られていた。

もっとも、法的には和解を成立させたとはいえ両親によると木場は泣いてばかりであったし、大野は謝罪はしたものの形ばかりのようでどこか他人事であり、両人とも心から反省している様子はうかがえなかったようだ。

2022年現在、この8名は全員刑期を終えて出所しているものと思われるが、あれほどのことをしでかした奴らがたった10年かそこらでこの社会に放たれていることに驚きと憤りを感じざるを得ない。

反省しているとか更生しているとかは関係ない。

こんな奴らが一般社会で、もしかしたら自分の近くにいるかもしれないなんて考えたくもない。

こいつらは死後、曳田さんのいる天国ではない方に行くことは確実なんだろうが、今すぐそこに送り込んでやりたいと思うのは私だけではないだろう。

参考文献―『再会の日々』(本の森)・河北新報

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2022年 Windows ガジェット コンピューター バックアップ 自動化

BanBackup でバックアップの自動化


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今回やりたいのは、こんな感じです。

パソコンのデスクトップに保存されているデータ全てを、NAS にバックアップでコピーします。

今回は、バックアップソフトとして、BunBackup を使用しています。

バックアップ元のフォルダとして、デスクトップを指定していますが、マイドキュメントでもなんでも指定できます。

バックアップ先のフォルダーとして NAS を指定していますが、外付けハードディスクでも USB メモリーでも指定可能です。

手動バックアップの設定

BanBackup を起動します。

「+」ボタンをクリックして、新規ジョブを追加します。

「バックアップ設定」のウィンドウが表示されるので、以下のように設定します。

  • タイトル:バックアップジョブの名前
  • バックアップ元フォルダ:バックアップしたい対象のフォルダを指定
  • バックアップ先フォルダ:バックアップ先のフォルダを指定

「OK」をクリックして次に進みます。

先ほど作成したバックアップジョブの名前と内容が表示されます。

この内容を保存しておきます。

上部メニューの「ファイル」から「名前を付けて保存」を選択します。

バクアップ定義ファイル(「.lbk」の拡張子のファイル)を任意の場所に保存しておきます。これがあれば、次からその内容でバックアップを行えます。

手動バックアップをやってみましょう。

上部メニューの「バックアップ」から「バックアップ開始」を選択します。

先ほど設定した内容で、バックアップジョブが実行されます。

バックアップの自動化

先ほどの手動バックアップを自動化させたいと思いました。

でも、BunBackup のマニュアルを見ても、いまいち内容が分かりません。以下の感じで記載があります。

AUTOって何?タスクスケジューラで具体的にどうやって設定するの?って感じです。そこで手順を調べてみました。

Windows の検索ボックスから「task」と入力して、タスクスケジューラを検索します。

タスクスケジューラをクリックして起動します。

タスクスケジューラが起動して表示されます。

左側のメニューの「タスクスケジューラーライブラリ」をクリックします。

右側の「操作」メニューに表示される「基本タスクの作成」をクリックします。

基本タスクの作成ウィザードが表示されます。

以下の内容で入力します。

  • 名前:今作成しようとしているタスクの名前
  • 説明:作成しようとしているタスクの説明(オプション)

「次へ」をクリックします。

「タスクトリガー」の設定画面が表示されます。

今回は毎日バックアップを使用と思いますので、「毎日」を選択します。

「次へ」をクリックします。

「毎日」の設定画面が表示されます。

以下のように設定します。

  • 開始:タスクを実行したい日時を指定
  • 間隔:毎日なら「1」、2日に一回なら「2」を指定

「次へ」をクリックします。

「操作」の設定画面が表示されます。

ここでは、タスクの起動時に実行したいプログラムを指定します。

今回実行したいのは BunBackup のプログラムですので、「プログラムの開始」を選択します。

「次へ」をクリックします。

「プログラムの開始」の設定画面が表示されます。

以下のように設定します。

  • プログラム/スクリプト:BunBackup の実行ファイルをフルパスで指定します。

例えば、「/BACKUP:”C:\My Documents\BunBackup\Test.lbk”」という感じです。

ポイントは、バックアップ定義ファイルのフルパスを「”」で囲うことです。これをしないとエラーになって BunBackup が起動してくれません。

次のポイントが「引数」です。

BunBackup のマニュアルにも記載があるように、引数では、いろんなアクションを指定できるみたいですが、以下の二つがよく使用するものになるでしょう。

  • BACKUP
  • AUTO

BACKUP の方が、手動でバックアップしている内容をそのまま自動で実行するタイプです。バックアップの状況や結果を画面に表示します。

AUTO の方が、バックアップの状況や結果を画面には表示させないでバックアップを実行するタイプです。

今回は画面に見える形で実行させたいので、BACKUP を使ってみます。

引数に、以下のように指定します。手動バックアップの際にバックアップ定義ファイル(「.lbk」ファイル)を保存しました。そのファイルのフルパスを指定します。

例えば「/BACKUP:”C:\My Documents\BunBackup\Test.lbk”」という感じです。

「完了」をクリックして、タスクを作成します。

タスクスケジューラのタスク一覧に、作成したタスクの名前が表示されます。

タスクスケジューラからの実行確認

タスクを作成したのは良いけど、ちゃんと動くのかを見ておきたいです。そんな時は、実行したいタスクをクリックし、右側のメニューの中の「実行」をクリックします。

作成したタスクの内容を実行してくれます。

バックアップジョブが動き出しましたね。

右側のメニューの「実行中のすべてのタスクの表示」をクリックしてみます。

「実行中のすべてのタスク」のウィンドウが表示されます。

ここに作成したタスクが表示されていれば、タスクが実行されていることが確認できます。

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2022年 オラオラ系 ならず者 事件 事件簿 本当のこと

1963年・森岳温泉の戦い – 秋田県森岳温泉の乱闘事件とは?


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昭和30年代は60年以上続いた昭和年間の中でも、特に芳しき芳香を放つ。

この時代に、憧憬の念を抱く日本人は実に多い。

その時代をリアルに知っている人はもちろん、まだ生まれていなかった人の中でも、古き良き時代だと認識されているようだ。

時はまさに高度成長期の時代。

オリンピックが開かれようとしていたし、いろいろな家電製品が出回り始めて、生活もどんどん便利になるのが目に見えて実感できていたから、その時代から見た将来は、令和の我々が見る将来より明るかったのは間違いない。

希望にあふれ、活気みなぎるさまが今に残る写真や映像からも、自ずと伝わってくるものだ。

そして同時に、映画『オールウェイズ3丁目の夕日』で描かれているがごとき、人情味にもあふれていたとされている。

なんてすばらしい時代だったんだろう!

でも、本当にそうか?

確かに人間味にも活気にもあふれ、発する熱量の高い時代であったのは事実だが、それは時として暴発することもあったようである。

秋田県・森岳温泉乱闘事件

当時の新聞

時は1963年(昭和38年)5月15日午後4時ごろ。

秋田県山本町森岳木戸沢の森岳温泉の某観光ホテルで、宿泊客同士の乱闘事件が発生した。

事件を起こしたのは、慰安旅行で同ホテルに宿泊していた秋田県能代市の土木会社の日雇い労務者たち約30人と、同じく慰安旅行で来ていた同市のパチンコ店従業員たち約20人。

双方とも同ホテルの広間で宴会を開いており、事件の発生した時間帯から推測して昼間から飲み続けていたものと思われ、いい感じで危険な状態にできあがっていたようだ。

きっかけはパチンコ店側が労務者をバカにしたからとも、労務者側がいちゃもんをつけたからだともされ、報道していた新聞社によって異なる。

きっと、どっちもどっちだったんだろう。

そしてこの乱闘、双方のうちごく一部がやっていたわけではない。

全員参加の総力戦だったのだ。

労務者側もパチンコ店側も女房や子供ら家族を同伴していたのだが、それら女性や子供までもが夫や父親の側に加わって相手側を攻撃。

宴会が行われていた大広間やホテルの中庭を舞台に怒声や金切りを響かせ、膳や食器が乱れ飛び、ビール瓶やどこからか見つけてきた棒で殴り合う。

障子やふすまはビリビリに破け、ガラスは粉々になった。

結局、ホテルの通報で警官40名以上が駆け付けて騒ぎを鎮圧したが、パチンコ店側から重傷者が二名出て、双方のほぼ全員が負傷していたんだからフルスケールの乱闘だったのは間違いない。

なんて気の荒さなんだろう。

現代だったら酒が入っていたとはいえ、暴力団か半グレでもない限り、こんな全員参加の団体抗争は起こりえないだろう。

昭和の人々は、右の頬を張ったら右ストレートを返してくる人々だった。

事実、昭和の日本の暴力犯罪発生率は平成や令和の現代より高かったという記録もあるし、安保闘争やドヤ街での暴動など機動隊が出動するような騒ぎだって、頻発していたからきっとそうであろう。

昭和30年代は悪い意味での人間味や活力にもあふれていたのだ。

こんな怖い時代に生まれなくてよかった。

令和の現代で本当に良かった。

でも、私は同時にこうも思うのだ。

こういう人たちだからこそ、日本を発展させることができたのではないかと。

暴力に訴える行為は一見害でしかなさそうだが、暴力をふるうにはエネルギーが必要なのだ。

そのエネルギーは負の方面だけでなく、正の方面にも発揮できる。

昭和30年代や40年代に、こういった事件や大規模なデモ隊と警官隊との衝突が起きていたのは、社会全体に活力がみなぎっていた証拠じゃないだろうか?

大地震や津波に襲われても騒動一つ起こさなかった平成の、そして令和の日本人とは、いい意味でも悪い意味でも違ったようだ。

日の出の勢いの国の国民は暴力的であるが、日が没する国の国民は紳士的なのではないかと、現代の日本を見てそう感じたのは私だけだろうか。

乱闘や暴動が起きるが未来が明るい社会と、ケンカも騒動も起きないが未来が暗い社会。

あなたならどっちを選ぶ?

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若き犯人たちの無謀な誘拐事件 – 1995年・足立区小二女児誘拐事件

本記事に登場する氏名は、全て仮名です。


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1995年(平成7年)8月7日夕方、足立区の小学二年生の女の子が連れ去られ、身代金が要求される営利誘拐事件が起きた。

事件は翌日夕方、身代金の受け渡し場所に現れた犯人を警視庁の捜査員が取り押さえ、もう一人の犯人も電話の逆探知により居場所が判明して逮捕。

その際に犯人と一緒にいた女の子も無事に解放されて、一件落着となった。

だがこの誘拐犯たるや、若い女二人。

20歳の遠野亜由(仮名)と21歳の船津紀美(仮名)であった。

その身代金の要求額はたった800万円で、犯行計画もずさん。

ばかりか、その後に判明した犯行理由により、当時の日本社会を大いにあきれさせた。

事件の経緯

8月7日午後6時14分。

足立区に住む会社員・山元聖一さん(仮名)の自宅に、一本の電話がかかってきた。

電話に出たのは、中国に単身赴任していた聖一さんに代わって自宅を守っていた妻の由紀(仮名)さん。

由紀さんは、この電話に出る前に心配事があった。

それは、山元家の長女の加奈ちゃん(仮名、7歳)が塾から帰ってこないことだったのだが、その電話で気が動転することになる。

相手の電話の声の主は女であったが、

「お子さんを預かっている。明日の午後5時に、800万円を持って北千住のファーストフード店の森永ラブに来い」

などとはっきりと、娘を誘拐したことを伝えてきたのだ。

びっくり仰天した由紀さんは、すぐさま110番通報。

これを受けた警視庁は、身代金目的誘拐容疑事件対策本部を設置して捜査に乗り出した。

翌8日午後4時41分、夫の聖一さんの勤務先から借りた800万円が入ったショルダーバックを抱えた由紀さんが、身代金の受け渡し場所として指定されたファーストフード店・森永ラブ(現在は存在しない店)に入る。

もちろん、店の周りに警官が張り込み、店内にも客を装った婦人警官が待機しているのは言うまでもない。

森永ラブ

しばらく時間が経過した午後5時2分、一人の若い女が店に現れ、由紀さんに近寄るや、一枚の紙を渡した。

紙には「タクシーで自宅に30分以内に帰れ。子供が帰るまで待て。警察には言うな」と書かれている。

やがて女は口を開いて、読んだら紙を返してくれと要求。

「私はもらうモンもらいに来ただけっスからね」と、自分は連絡役に過ぎないことをさりげなく強調して、身代金を渡すように迫る。

だが、母は強かった。

「子供を返してくれなきゃ、お金は渡せません!」

ときっぱりと唯々諾々と犯罪者の言いなりになることを拒絶したのだ。

「いや、ホント無事だって…」

「じゃあ、まず子供を連れてきてくださいよ!」

犯人の女は母親の思わぬ強硬な姿勢にたじろいだらしい。

「向こうの人が信用するかどうかわかんないけど」

と折れた彼女は午後5時19分、金も持たずに店を出た。

女も冷静ではいられなかったのであろう、ひんぱんに後ろを振り返りながらその場を立ち去ろうとしている。

だが、すでに袋のネズミだった。

周囲を完全に包囲していた捜査陣は、すぐさま確保の判断を下し、ほどなくして犯人の一味と思しき女、遠野亜由は身柄を拘束された。

警察は女児の行方を追求したが、遠野はここでも「新宿のアルタ前で男に金を渡す約束をしている」と、自分は主犯ではないことを強調する。

一方、同じく警官が待機している山元家でも午後6時9分に動きがあった。

もう一人の犯人から電話が来たのである。

「どうなってるんですか?金は?ホント警察に言ったりしてないでしょうね?ちょっと変な動きがあったもんで…」

この声も女のもので、身代金を取りに行った共犯者の遠野が戻ってこないので、しびれを切らしたらしい。

電話には、被害者の母親である由紀さんの妹を装った婦人警官が対応に出て、「まだ姉は帰ってきません。私は頼まれて留守番をしているだけでして」などといいつつ、逆探知を狙って会話を引き延ばす策に出る。

「また連絡します。あ、あと私も頼まれて電話してるだけですから」

「姉が一人で行ったものなんで、私もよく分からなくて」

「とにかくまた30分後にかけます。警察が動いてるんで」

「子供はそこにいるんですか?」

「こっちにはいないから!」

こうしてあわただしく電話は切られたが、これら一連の通話にかかった時間は逆探知するには十分だった。

発信源を突き止めた警察は周辺を捜索し、午後6時43分、加奈ちゃんを連れた船津紀美を発見して逮捕。

加奈ちゃんはケガもなく無事であり、丸一日ぶりに家族のもとに帰ることができて事件は無事解決した。

この事件が円満に解決したのは警察の手腕によるのもあるが、やはり、犯行の稚拙さにも原因があった。

まず、身代金の受け渡し場所にノコノコ犯人が現れるのも、誘拐犯としては大いに問題なのは言うまでもなく、その後は、うかつに電話をかけて逆探知されるなど行動は杜撰。

何より、営利誘拐の身代金要求額としては、かなり低額の800万円を要求しているあたり、この犯罪が愚か者による思い付きの域を出ていないことを物語っていた。

逮捕された遠野と船津は取り調べでも、自分たちは連絡役に過ぎず、主犯は男であり、ほかにも共犯者として自分の女友達の実名まで上げたりしていた。

しかし、供述があいまいで矛盾する点が目立ち、やがて二人だけで行った犯行であることが断定されるのに、時間はかからなかった。

高校卒業後デビュー

逮捕された遠野亜由と船津紀美

遠野亜由(仮名)
船津紀美(仮名)

    

逮捕された遠野亜由(仮名、20歳)と船津紀美(仮名、21歳)は、幼稚園の頃からつるんでいた幼なじみ。

中学時代の同級生によると二人ともテニス部に所属し、いつも共に行動していた。

そして両人とも目立たない印象であり、特に遠野の方は、それが顕著だったという。

中学卒業後は別々の高校に進学したが、船津は卒業後に定職に就くことはなかったようだ。

遠野の方も卒業後に専門学校に入学していたが中退して働くことはなく、事件が起こる二年前から船津の住むアパートの一室に転がり込んで同居するようになった。

そのアパートは船津の祖母が所有しており、家賃の心配はなかったが、二人とも働くことはなく、ボディボードをやったりクラブに行ったり遊び惚けるようになる。

学生時代は地味だった両人の外見も変わり、髪を茶髪に染めて日焼けサロンで真っ黒に日焼けさせていたらしい。

95年当時コギャルなどと呼ばれて、マスコミでもてはやされ始めていた女子高生のファッションだ。

まだ十代のつもりだったのだろうか?

高校卒業後デビューとは情けない奴らだ。

やっていることも未成年の悪ガキそのもので、真夜中に部屋で騒いだり、青空駐車して近所に迷惑をかけ、駐車違反の罰金を請求されても知らん顔。

そして金に困ると、あきれたことにゲームソフトを万引きしては中古ソフト屋に売っていた。

主にそれを行っていたのは遠野の方で、命令するのは船津。

船津は親分気取りで遠野をふだんからアゴで使って万引きで得た稼ぎを巻き上げ、時には暴力をふるってもいた。

もっとも、派手な外見と行動にもかかわらず男っ気が全くなかった二人を“レズカップル”だと、近所のおばちゃんたちには陰口をたたかれていたようだが。

だが遠野も遠野で、無職にも関わらず300万円もするRV車を買うなど分別がついているわけでは決してない。

事件の前には数百万円の借金を抱えてかなり金に困っていた。

そのおかげで、遠野はテレクラで売春したりキャバクラで短期間勤めたり、AVに出演しようと某プロダクションに売り込みをかけたりしていたが、そのパッとしない容貌とスタイルでは、一発逆転にほど遠かったようだ。

現に事件後に取材に応じた当のAVプロダクション関係者には、

「あの程度の子ではいいところ一日三万か四万くらい」

「20歳の体じゃなかった」

などと酷評されている。

遠野のヘアヌード。確かに若さがない。

このようににっちもさっちもいかなくなって、遠野が思いついたのがよりによって、この誘拐事件だったのだ。

しかも、その話を船津に持ちかけると何とあっさり引き受けて、実際に事件に至ってしまったんだから、二人とも頭が悪いにもほどがある。

窮すれば鈍するというが、限度というものがあるだろう。

誘拐した女の子も、その日たまたま出くわしただけで、初めから狙っていたわけでもない。

また、800万円という身代金の要求額からも、普段やっている迷惑駐車や万引き、売春に毛が生えた程度と考えていたフシがあるのではないだろうか?

逮捕後も自分たちの罪を軽くしようと、いるはずのない主犯や他の共犯の存在を騙って、ばれるに決まっているウソをつきとおそうとした点からも終始一貫して思慮に欠け続けていたといえる。

どうやらこの二人は、頭が中学生か高校生のまま大人になってしまった最悪の見本の一つであることは、疑いようがないだろう。

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