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君は『喧嘩芸・骨法』を覚えているか?

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1989年、当時中学三年生だった私は、ある深刻な悩みを抱えていた。

それは私にとって幼少時から始まり、最も多感な時期である中学時代になるや爆発的に増大し、私自身を内面から苛むようになった悩みだ。

それは、ケンカが弱いことだ。

それは思春期特有の自意識過剰なあまり、自分で勝手に悩むようになったからではない。

実際に不利益と実害が大いにあったからだ。

ぶっちゃけ、私は中学校でいじめに遭っていた。

持ち物は取られるわ、ズボンは下げられるわ(女子の前で)、砂場に首まで埋められるわ、修学旅行の宿ではオナニーさせられるわ。

かといってちょっとでもやり返したら、当然の権利のごとく返り討ちに遭うなど、苦痛と屈辱を大いに味わわされていたのだ。

何とか反撃、あわよくば倍返できるようケンカに強くなるためのハウツー本はないかと、本屋に行ったある日、私はある本に出合った。

それは『喧嘩芸骨法』だ。

喧嘩芸…、殺し文句だった。

これぞ、私の求めていた本ではないか!

表紙の写真は、長髪にひげを生やしたおっさんが構えを取っており、そのおっさんはいにしえの侍もかくありや、と思わせるような感じの迫力とインパクト満点の容貌をしており、「喧嘩芸」という言葉に説得力を持たせている。

だが、思わず手に取って読んでみたか、というとそうでもなく、

中学生ながらそんなもん読んだからって、すぐに強くなれるはずないと分かっていたし、第一金がなかったから、そのまま立ち読みをしに成人誌のコーナーへ向かった。

しかし、その時から「喧嘩芸」「骨法」というワードは、頭に残った。

神秘の必殺拳・骨法

骨法とは、先ほどの長髪でヒゲのおっさん・堀辺正史氏が創始した格闘術である。

堀部氏によると、骨法は柔術とは異なる流れの古来の日本武術を復興させたものであり、その著書『喧嘩芸骨法』において、

東條英機のボディガードを務めた父からその技を相伝され、骨法司家の第52代・源一夢(みなもとのいちむ)を襲名し、伝統的骨法の修行の傍らケンカ・他流試合に明け暮れた日々の中から、実戦的な格闘技術を習得、古流の骨法を改革して喧嘩芸骨法を創始した

と述べて、その実戦性を盛んに主張していた。

もっとも、古来から骨法が実在したことの信ぴょう性は乏しく、実際は他流派の古流柔術などを学んだ堀辺氏が、独自に創始したとされている。

しかし、骨法とその創始者の堀辺氏は、同書を世に出した80年代後半から90年代にかけて世間に広く知られるようになり、メディアにも多数出演するようになった。

また、新日本プロレスとも交流があって、アントニオ猪木や船木誠勝などの日本を代表するレスラーにも指導を行い、骨法由来の技がプロレスに使われるようにもなった。

プロレスが最強の格闘技だと思われていた時代に、プロレスラーから認められていたのである。

よって90年代初めまでは、マスコミの影響もあって、骨法はまさに神秘的な超実戦的格闘技だと信じていた人は本当に多かった。

だが、現代のユーチューブにも公開されている当時の骨法の組手動画を実際に見てみると、長いグローブをつけてペチペチ叩き合っており、こんなものが強いわけないだろ!と疑ってしまう。

また、1993年に開催された骨法のイベント『骨法の祭典』での演武では、技を決められた選手が「あだだだだだだ!!!」とか叫び声をあげたりして、あまりの大げさぶりに笑えたりもするが、当時の格闘技ファンの多くの目には、骨法が「参った」した相手でも極め続ける危険な殺人格闘術に映っていた。

格闘技専門雑誌『格闘技通信』もたびたび骨法を取り上げており、その強さを疑う声はあまりなかったのだ。

しかし1996年、メッキがはがされたと言われても仕方がない出来事に見舞われることになる。

骨法の他流試合

1996年、骨法に試練が立ちはだかった。

同年8月4日に開催される『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』で、ブラジルの選手と対戦することになったのだ。

今まで骨法の選手同士の試合はしていたが、これは事実上初めての他流試合である。

これより前の1993年11月12日、海の向こうのアメリカでUFCの第一回大会が開かれ、格闘技界に衝撃を与えていた。

現在でこそMMA(総合格闘技)の最高峰の一つとなっているUFCだが、当時の考え方は「ノールールの戦いの勝者こそが最強」というもので、この大会のルールは打撃や投げ技、寝技はもちろんのこと、グローブなしの顔面パンチもOKなばかりか、嚙みつきと目つぶし以外は「何でもあり」、だからノールールと称しており、当時としては恐るべきものだった(何と金的も禁じられていなかった)。

この大会はトーナメント制で、ケン・ウェイン・シャムロックやジェラルド・ゴルドーなど90年代の日本でも名が知れた格闘家が参加したが、倒した相手の顔面に蹴りを見舞ったり、頭を踏みつけたりのストリートファイトさながらの凄惨なものとなった。

そして、この大会で上記名だたる選手を制して優勝したのが、それまでまだ世に知られていなかったグレーシー柔術のホイス・グレーシーだ。

ホイス・グレーシー

ホイス・グレーシーはブラジル出身。

ブラジルでは昔からこのような何でもありであるノールールの試合「バーリトゥード」が開かれており、ホイスの父であるエリオ・グレーシーが興したこのグレーシー柔術はその中で磨かれてきた格闘技である。

そして自身も、それまで道場破り相手にバーリトゥード形式の試合を行っていたため、何でもありの試合の対策を熟知してもいた。

ホイスは、翌年開催されたUFCの第二回大会も、圧倒的な技術で制する。

そして、この「バーリトゥード」は、94年日本にも上陸。

同年と翌年には「バーリトゥードジャパン94」と「バーリトゥードジャパン95」が開かれ、これにはホイスの実兄であるヒクソン・グレーシーが出場して、弟と同じく圧巻の強さで連覇。

ヒクソン・グレーシー

日本人の格闘ファンに「グレーシー柔術強し」という印象を、問答無用で植え付けた。

また、日本のプロレスラーや総合格闘技の団体である修斗の選手などが、このノールールの試合で敗れることが多かったからなおさらである。

ノールールの試合とグレーシー柔術はまさに黒船だったのだ。

一方、実戦格闘術を売りにしている骨法の創始者・堀辺氏は早くからこのノールールの考え方に賛同していたようで、骨法のスタイルをそれに合わせて、元来の打撃技を中心とした立ち技系から寝技系へと変革していた。

格闘技通信も、それを進化として大々的に取り上げ、特集を組んで堀辺氏の持論や試合に臨む骨法の選手が、米国に渡ってブラジリアン柔術(グレーシー柔術から発展したブラジルの柔術の総称)の技術指導を受ける模様を読者に伝えていた。

紙面には、これまで神秘的な最強説が唱えられていた骨法なら何かやってくれるだろうという期待感が作り出されていた。

プロレスも空手も修斗もやられたが、まだ日本には骨法があると。

そして、読者の多くもそれを信じていたことだろう。

当時の私もそう信じていた一人だった。

骨法神話の終焉

そして迎えた8月4日の『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング2nd』。

骨法は二人のエース級の選手、小柳津弘選手と大原学選手が出場した。

彼らの相手はどちらもブラジル人であったが、グレーシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術ではなくルタ・リーブリというグレコローマンレスリングを発展させた格闘技の選手である。

ルタ・リーブリは、グレーシー柔術と同じくノールールの試合で磨かれてきた技術を有し、ブラジル本国では因縁すら生じているほどのライバル関係で対抗戦も行われるなど、柔術と渡り合ってきた。

そのため、アメリカで骨法の両代表選手は手の内を知るブラジリアン柔術の選手から技術指導を受けてきたのだ。

準備は万端。

これまで日本の他の格闘技の選手はブラジル勢に負け続けていたが骨法は最後の切り札、負けるわけにはいかない。

そして、今まで秘められていた真の実力を見せる時である。

だが、

両選手とも負けてしまった。

まず最初に試合をしたのは小柳津弘選手、骨法内の試合では打撃技を繰り出して相手選手を撃破してきた「骨法の狂気」という異名を冠せられた看板選手だ。

小柳津選手の相手は、カーロス・ダニーロ選手。

前述のとおりルタ・リーブリの選手ということになっていたが、本来はキックボクサーで、ルタ・リーブリは試合が決まった一か月前に始めたばかりだったようである。

試合が開始されるや、小柳津選手は打撃ではなく組みつきに行ったのだが、ダニーロ選手に腕を取られてしまう。

そのままコントロールされて転がされるも、腕を振りほどいて今度は相手を倒したが再び下になった相手から腕を取られた。

そして下からパンチと肘の連打を浴び、三角締めでタップしてしまう。

この間たった1分0秒。

完敗である。

次に登場したのは、小柳津選手と並んで骨法最強と言われた大原学選手。

対戦相手は、ペドロ・オタービオ選手。

オタービオ選手は、ブラジル国内では中堅どころの実力と見られていたが、この年の4月に東京で開催された『ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング』にも出場。

大相撲の元横綱で、ノールールなら日本人最強とも目されたこともあるプロレスラーの北尾光司選手を、1RTKOで破っていた。

そして、このオタービオ選手は身長190cm体重100kgであり、身長170cm体重90kgの大原選手に体格で大いに上回っている。

しかし、小柳津選手は秒殺に等しい完敗だったが、その精神力と寝技の技術で定評のあった大原選手ならば、もう少しいい勝負ができるのでは?という期待はあったようだ。

こうして始まった骨法の第二試合、大原選手は果敢にオタービオ選手に組み付いて、テイクダウンを奪った。

だが、両者とも決定打を欠き膠着状態になったためにレフェリーがブレイクを命じ、再びスタンドでの試合再開となる。

だがその後、大原選手は倒されてしまい完全にマウントポジションを取られて、上からオタービオ選手のパウンドの猛攻を加えられた。

レフェリーもストップせず、セコンドもタオルを投入しなかったので、100発以上のパンチを浴びせられてしまう。

しかし、大原選手は耐え抜いて、マウントポジションから脱出することに成功。

そのまま30分の試合終了まで戦い抜いた。

大原選手は、体格差をものともせず最後まで善戦したと言えるが、マウントパンチを浴びるなど劣勢だったことは否めず、結果は2-0の判定負けであった。

骨法の完全敗北である。

それも、骨法の中でもツートップの選手が負けた。

喧嘩芸だのなんだの言っていても、このほぼ喧嘩であるノールールの試合で、その威力を発揮できなかったのは間違いなかったのだ。

骨法最強幻想は、ブラジルからやってきた現実の前に崩れ去ったと言ってもよかった。

これまで骨法の話題をさんざん取り上げ、日本格闘技界の最後の切り札とばかりの論調だったくだんの『格闘技通信』は、この試合結果を伝える記事において、「負けたとはいえ、大原選手は素晴らしい選手だった」とか、まだまだこれからだというような一見前向きな意見を書きつつも、

結論―。

「これまで骨法に多くのページを割きすぎました」

という一文がその中にはあった。

そして、その一文は紛れもない本音だったことが、後に証明される。

骨法のその後

それまで、あれほどまで骨法を持ち上げてきた『格闘技通信』は、手のひらを返したかのように骨法を話題に取り上げなくなった。

その他のメディアの露出も以前ほどなくなり、多くいた門下生も減ってしまったという。

本格的な他流試合であるブラジル勢相手の試合での敗北は、かなりの痛手となっていたのだ。

一方で、96年に骨法がブラジル勢に敗れて以降、一時期ノールールにおいて日本の格闘技界は、世界において「日本最弱」とまで言われていたが(これはくだんの格闘技通信が言った)、翌年97年から日本の格闘家の逆襲が始まる。

1997年2月7日、UFC 12に出場した日本のプロレスラー・高橋義生選手がブラジリアン柔術の選手から判定で勝ち、日本人のUFC初勝利をあげる。

1997年10月11日には今や伝説となった格闘技イベント『PRIDE』が始まり、第一回大会で当時日本のトップレスラーだった高田延彦選手が、バーリトゥードジャパンを連覇した前記ヒクソン・グレーシー選手に敗れはしたが、同大会では、和術慧舟會の小路晃選手が、同じグレーシー一族の一人であるヘンゾ・グレーシー選手と引き分けに持ち込むなど大健闘。

その後『PRIDE』に桜庭和志選手が登場し、ホイス・グレーシーを含めたグレーシー一族の選手を連覇して「グレーシーハンター」の異名をとるなど大活躍、「日本最弱」の汚名を大いに返上する。

しかし、この一連の逆襲劇の中に骨法の姿はなかった。

もはや、以前ほどの注目を浴びることはなく、汚名を返上できるような選手も結果的に現れなかったのだ。

とはいえ、骨法は創始者の堀辺正史氏の下でその後も存続し続けた。

2015年12月26日に、堀辺氏は心不全でこの世を去ったが、時代が令和になった2022年の現在でも『日本武道傳骨法會』の名で活動している。

ちなみに格闘技だけでなく整体もやっているようだ。

今から思えば、グレーシー柔術をはじめとしたブラジル勢が無敵だった時代もはるか昔だ。

90年代は喧嘩大会だったUFCも今や洗練され、MMAの最高峰の大会となった。

それ以上に、骨法が最強だと信じられていた時代があったことが信じられない感がある。

まだネット社会になる前だった90年代はマスコミに取り上げられたりしようものなら、それだけで真実だと無条件に信じられてしまった時代だった。

その当時、青少年期を過ごした私は、まさにそんな一人だったからこそそう思う。

その時期骨法に入門した人々も、その神秘性に魅かれて入った人も多かったのではないだろうか。

骨法最強神話は、90年代までの若者だけが信じることができたおとぎ話だったのかもしれない。

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フラミンゴを見て思ったこと

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先日、福島県いわき市にあるメヒコというシーフードレストランに行きました。

そのレストラン、何と、テーブルの横にあるガラスの向こうに、フラミンゴがたくさんいるんです。お洒落なレストランです。

フラミンゴを眺めながら、友人と食事をしていたのですが、ふと思いました。

「フラミンゴの足ってさ、歩く時、膝が前にまがってるよね。前に曲がると、歩きにくくないのかな?片脚立ちする時に折り曲げるんなら、後ろに曲げてもいいんじゃない?どうしてだろう?」

気になって、その場でインターネットで調べてみました。

あの脚の曲がるところ、膝ジャなくて、カカトなんです。

マジか、へーと思っていろいろ調べてたら、分かりやすい絵がありました。なるほど。

カカトが長いんです。つまり、足の水かきのついているところが足の指という感じです。つま先立ちしているんですね。

空手でいうところの「猫足立ち」状態というわけです。キャットウォークです。

一つ勉強になりました。

馬とかラクダとかの後ろ足と同じなんですね。人間も鳥も4本足の動物もすべて同じなんです。

ちなみに、フラミンゴが片脚で立つ理由は、水の中にいて体温の定価を避けるためです。

そして、赤の色が鮮やかなほど、異性を引きつけます。モテるのです。

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浜田省吾 – 聖地巡礼情報 –

2022年08月05日更新

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浜田省吾の大ファンです。

浜田省吾の住んでいたところは、どこでも行ってみたいと思い、広島に行く度に聖地巡礼してます。

自分の聖地巡礼のために、いろいろと情報を集めています。

ちなみに、こちらの記事で、私が実際に行ったところを公開しています。広島に行く度に更新してます。

2022年5月に、新たな聖地巡礼で北鎌倉へ行ってきました。「紫陽花のうた」の歌の舞台ですね。北鎌倉への聖地巡礼のブログも追加しました。

浜田省吾

1952年12月29日

広島県竹原市で生まれる

浜田省吾生家: 広島県竹原市港町2丁目7番池2号

3歳から

御調郡向島町岩子島(現尾道市)

佐伯郡廿日市町宮内

五日市町(現広島佐伯区)

広島市元宇品(現南区元宇品)

と広島県内で転校を繰り返す。引越しは、18歳までに20近くとか。

9歳の時

江田島の海沿いの町、鷲部に移居。

♪海辺の田舎町〜10才のころラジオから〜

浜田省吾が昔通っていた小学校は、今は図書館になっています。

13歳の時

呉市汐見町に転居

呉市立二河中学に転校

広島県立呉三津田高校に入学

以降は高校卒業まで呉市で育った。

♪この町のメインストリートわずか数百メートル(れんがどおり)、さびれた映画館(呉シネマ(現ポポロシアター))

♪15の時〜通りのウィンドウに〜飾ってあった〜ギターを見た時〜(楽器店&レコード店の公声堂)

大学受験に失敗後

大竹市に転居。

♪溶けたタールパルプの匂いの

♪丘の上幾つもの〜工業地帯の向こう沈んでいく(2号線沿いに立ち並ぶ石油コンビナート・紙パルプ・化学繊維工場)

そして予備校生活

♪予備校の湿っぽい廊下で〜あの娘を見つけた〜(英数学館(現 並木学園=高校)は、広島老舗の予備校)

♪放課後の図書館のロビーで〜(予備校から一番近い市役所の図書館)

  • 予備校(現 並木学園)広島市中区

予備校に行かずにライブハウスFIVEに通っていた(中央通り)。

今後行ってみたいところ

今まで、浜田省吾の住んでいたいろんなところへ行ってますが、歌の舞台になっているところが中心でした。

それ以外にもいろいろと調べてみると情報がありますので、今後は、是非そちらを訪問してみたいと思います。

私の今後の行きたいところのメモです。新しい情報を見つけては、アップデートしています。自分用のメモとして。

尾道市

〒722-0072 広島県尾道市向島町岩子島1306−1

地図は尾道市岩子島農業構造改善センター(旧岩子島小学校)

尾道に住んでいたことまでは知っていましたが、場所までは分かりませんでした。次回の広島訪問時に時間ができたら、再度、尾道へ行ってみたいと思います。再び、尾道で尾道ラーメンを食べてきます。

小学校2〜3年生の時に通った元宇品小学校

場所は広島の最南端、元宇品(宇品島)

「広島の一番海岸べりにひょっこりひょうたん島みたいな島があって、橋で結ばれてるんですけど、その島の丘の上にある学校で・・・」

元宇品の小学校にも通っていたのだとか。小学校は江田島だけかと思ってました。

浜田省吾が広島でライブをやる時は、プリンスホテルに泊まるらしいのですが、昔住んでたところのすぐそばだったからなのかも知れませんね。今度、広島にいく時は、私もプリンスホテルに泊まってみることにします。

竹原市

「西に歩いて2〜3分行くと、「長建寺」というお寺があります。なんでもここの境内で省吾さんは遊んでいたそうです」とのことです。

竹原には、浜田省吾の生家があるということで行ってきましたが、当時、このお寺の存在は知りませんでした。次回、竹原を訪問の際には、ぜひ行ってみたいと思います。

2階からビートルズの曲を流してもらった同級生のせっちゃん家

浜田省吾の同級生のせっちゃんの家も、見に行ってみたいです。これも、次回の広島訪問時の目標です。

これの場所をずっと探していたのですが見つけました。

江田島の省吾が通っていた小学校(現図書館)のもう少し北側です。次回の江田島には言ってみます。

すぐ近くにあの青木病院もありますね。

喫茶サントス

浜田省吾の同級生がやっている喫茶店です。本人も通っていたらしいです。この喫茶店に行くと、昔のアルバムなどを見せてくれるらしいです。

去年、呉に行った時に寄ってみようと思って、店の前まで行ったのですが、サントスは日曜休みなんですね。開いてませんでした。今度、呉に行く時は、ぜひ行ってみたいです。

2021年12月14日に、サントスを訪問しました。

2021年12月14日サントス
2021年12月14日サントス

浜田省吾ファンということを店員に伝えると、中学の時と高校の時の卒業アルバムや雑誌の記事などを見せてくれます。

左側が中学と高校の卒業アルバム、右側が雑誌の記事

こんなものもありました。裏側には、三津田高校の校歌が記載されています。我らの省吾の卒業した年のものですね。

これがおそらく、当時の省吾が書いたものでは?とされています。そう聞くと省吾っぽさが見える気もします。

サントスでは、このオムカレーが定番です。美味しいのですが、めちゃくちゃ量が多いですので、女性の方は気をつけてください。

サントスのオムカレー

特に何もないのは分かってはいるのですが、省吾の住んでいたところがどんなところか知りたくて、五日市と廿日市にも行ってみました。

佐伯郡廿日市町宮内

昔住んでいたと言われる場所の詳しい住所が分かりません。分かったら、再度訪問してみたいと思います。

五日市町(現広島佐伯区)

五日市駅から佐伯区役所まで、ブラブラと歩いてみました。この辺りに省吾は住んでいたのかなあ。

おまけ

東京で浜田省吾ファンの集い(浜省ナイト)をやってます。丘の上の会という名前です。

コロナの影響で、最近は活動ができていませんが、浜田省吾ファン10名くらいと集まり、食事をしながら浜田省吾の話をし、カラオケで浜田省吾を歌ってます。

イベントをやる時は、Facebook に掲載してますので、興味がありましたら、ご連絡ください。

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浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめ

2022年08月05日更新

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私の父親が浜田省吾のファンで、生まれた頃から浜田省吾の歌を聞いて育ちました。そして今、浜田省吾の大ファンです。

広島空港で飛行機から降りて、広島の地を踏む時や、新幹線で行って、広島駅の出口のゲートを通過する時、Show me your way, J.Boy!!! を毎回必ずやってます。

その時から、私の頭の中では、パラリラパラリラパーパパラ!と J.Boy の演奏が鳴りっぱなしです。

そんな浜田省吾ファンからの広島旅行のおすすめです。

私は毎年一回は、旅行で広島へ行ってます。出張を含めると、年に2、3回の時もあります。そして、私が広島に行ったら、必ず行く店があります。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

〒730-0023 広島県広島市中区弥生町 6-8

広島市の繁華街の中にある鉄板焼きの店です。広島駅からは、徒歩15分くらいです。

東京で鉄板焼きというと、海老や肉を目の前で焼いてくれる店のイメージが強いですが、大阪より西は、鉄板焼きと言えば「お好み焼き」がメインですね。

でも、この店で一番のおすすめは、ウニクレソンです。

浜田省吾も、広島に帰ってきた時は、ウニクレソンを食べるそうです。

私も最近は、広島といえばウニクレソン!と言わんばかりに、広島に行くと毎回食べてます。

もちろん、広島お好み焼きや牡蠣や岩国レンコンも、鉄板で焼いてくれとても美味しいです。

ちなみに、中ちゃんにはラーメンもメニューにあり、町支寛二や古村敏比古も、ここのラーメンが好きなんだとか。

昔から、何故かこの店には、音楽関係の人たちがよく来るそうです。ただ、中ちゃんのマスターは、何故だかよく分からないと言ってます。

浜田省吾を含め、いろんなミュージシャンのサイン入りポスターが、店内の壁に飾ってあります。

この前行った時は、カウンターの端に、中島ユキノのライブのチラシが置いてありました。

中ちゃんですが、予約をしてから行くことをお勧めします。いつも満席で、外に10名くらいは並んでます。

ひろしま丸かじり 中ちゃん

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

〒730-0027 広島県広島市中区薬研堀 4-9

そして、中ちゃんで食欲を満たした後に行くのがここ、星の指輪というバーです。浜田省吾ファンなら、店の名前で分かりますよね。そう、浜田省吾バーです。

浜田省吾ファンが来ているバーなのですが、ファンじゃない人ももたくさんいて楽しめるカラオケバーです。カラオケが止まっている時は、ずっと浜田省吾の DVD が流れてます。

店内はこんな感じです。

このバー、何が良いかというと、音響がとても良いのです。照明もかなり凝ってます。そして、このバーのマスターである省八さんが、手の空いている時はギターを弾いてくれたり、ドラムを叩いてくれたり、浜田省吾ファンの人たちがギターを弾いてくれたりしてくれます。

生演奏で歌ってる気分になれます。気分は正にロックスター!

星の指輪ですが、町支寛二と古村敏比古が、カンフル罪のライブを広島でやった後に、たまに来るそうです。店の中に、写真がたくさん貼ってあります。

また、愛奴時代に浜田省吾と一緒にやってた山崎貴生(現: 劉哲志)も、広島でライブをやる時は、このバーで二次会を楽しんでます。私もこのバーで 3回お会いしてます。

バーのマスターである省八さんから聞きましたが、残念ながら、浜田省吾はまだ一度も来たことはないそうです。

浜田省吾ファンの方も、そうでない方も、カラオケが好きなら楽しめるバーです。ぜひ行ってみて下さい。

星の指輪ですが、スナック菓子くらいしか食べるものはありません。中ちゃんから徒歩 5分くらいの距離ですので、中ちゃんで食べてから行くのがオススメです。

唄えるライブなカラオケBAR 星の指輪

おまけ(聖地巡礼)

おまけと言いながら、本格的に浜田省吾ネタです。ここからはディープに行きます。

広島と言えば、浜田省吾の生まれ故郷。浜田省吾の歌の中には、広島を舞台にした作品がたくさんあります。

広島へ行ったら、その舞台になったところを見てみたいと思うのがファンですよね。当然、私もいろいろ探して行ってっました。歌の舞台になっているところを見てまわることを、私は「聖地巡礼」と呼んでます。

個人的に、浜田省吾の住んでいた所の情報を集めては、そこに巡礼として訪問しています。

浜田省吾の生家(生まれたところを遠く離れて)

2017年11月。広島から尾道に移動し、尾道ラーメンを食べて(尾道ラーメンは尾道で食べなければ尾道ラーメンではないと言われ)から、竹原で泊まりました。

なぜ竹原買って、浜田省吾の生家を見るためです。

翌朝から出発です。

こんな山道を通って行きます。竹原って、広島の中では田舎な方ですが、その中でも、かなり田舎なところに住んでいたのですね。

山道の手前で、住宅がいくつも並んでいるところを通るのですが、すれ違ったおばちゃんに、「また来た」みたいな顔をされました。ファンの人が来るんですね。

振り向けば遠くにあの子の眼差しは見えませんが、海が見えます。海の方にはコンビナートもあります。

到着しました。ここが玄関です。誰も住んでおらず、鍵が閉まってます。

玄関の前に、コンビニの袋が置いてあります。ゴミではないですよ。

ファンの人たちがここにやって来て、いろいろと書き込んたノートが入ってます。「今日で 5回目です!」とか書いてる強者もいました。

この袋ですが、私が最初にかけました。私が最初に行った時には、ノートがそのまま置いてあったのですが、雨に濡れて、そのうち読めなくなってしまうだろうと思い、持っていたコンビニのビニール袋に入れました。

ただ、これだとゴミにしか見えないので、広島に住んでいる浜友にお願いして、まともな袋に変えてもらっていますので、現在は、もう少しまともてなってます。

ちなみに、これが住所です。ファンの我々にとっては、ここは聖地です。ぜひ訪ねて下さい。

生家を横から見ると、こんな感じです。

「生まれたところを遠く離れて」は、ここを思い出して歌ってるんですね。

並木学院高等学校(予備校の湿っぽい廊下)

2016年10月。元々は予備校だったのですが、現在は高校になっています。ここがそう、「あの子を見つけた」予備校です。

私は Edge of the knife バージョンの「19のままさ」が大好きです。この高校にたどり着くちょっと手前から「19のままさ」をヘビロテして、到着した時は涙が出そうなくらい感動しました。ここで、あの子を見つけたのかと感動しまくりです。

さすがに中には入れないですので、横にまわってみました。「湿っぽい廊下」を発見。

浜田省吾ファンの仲間たちに写真を送ったら、みんな口を揃えて「確かに湿っぽい。。。」とのことでした。

初恋(海辺の田舎町)

江田島1回目

江田島といえば、浜田省吾が小学校、中学校時代に住んでいたところです。当然、ここにも聖地巡礼です。

2018年4月。広島市の南にある広島港の宇品からフェリーが出ているので、これに乗って行っちゃおう!と移動しました。

ちなみに元宇品は、浜田省吾が住んでいた所の一つです。

しかーし!フェリーで到着したのは、江田島の一番北の切串港です。

ファリーから降りて、目的地の小学校(江田島警察署のそば)を調べたら、8キロくらい離れてます。しかも途中、山道っぽい。

8キロくらいはら歩けるのですが、山道となるとツライ。。。

「まいったなあ、もう一つの港に向かわないとダメだったんじゃん」と、江田島に上陸してから気づきました。

完全に事前調査不足でした。

バスに乗ろうと思ったのですが、バスは走ってないし、タクシーに乗ろうかとも思ったのですが、タクシーも全く走ってません。正に「海辺の田舎町」です。さすが、初恋の島。

Google マップで調べていたら、切串港から東に向かって行くと別の港があり、そこから呉に渡るフェリーが出ていることを発見しました。

「初恋」を聴きながら「海辺の田舎町〜♪」と歌いながら、江田島には1時間くらいしか滞在せず、呉に向かいました。一回目の江田島は撃沈です。江田島って広いのねということを思い知りました。

それでも「江田島から呉に向かうフェリーなのだから、省吾が中学校に通うために乗っていたフェリーと、途中からは同じ経路だよ。省吾が見ていた景色と同じ景色は見られるじゃん!」と、前向きな私でした。

江田島二回目

2020年11月。広島が緊急自体宣言に入る少し前のちょうどラッキーなタイミングで、再び広島を訪れました。

星の指輪で広島の浜田省吾ファンの友人と飲んで歌っていたら、「明日、車で江田島まで行かない?」という話になり、再度、江田島上陸をしました。

とうとう到着しました。浜田省吾の通っていた小学校です。現在は図書館になっています。

図書館の中に、浜田省吾コーナーが設けられています。さすが、我らの省吾!江田島のヒーロー!

浜田省吾ファンの方は、この写真はご存知ですよね。この木のベンチが、今でも残ってます。

サングラスも用意してあって、このベンチに座って写真が撮れるんです。図書館の人たち、浜田省吾ファンの気持ちをわかってくれてます。当然、私もサングラスをしてベンチに座り、記念写真を撮りました。

図書館の一角にも、浜田省吾の写真の切り抜きや雑誌や本がたくさん置いてあります。もう感動しまくりです。

浜田省吾ファンの間では有名な「初恋のきた島」も置いてあります。

無料で持ち帰ることができる小冊子なのですが、これって、ネットオークションで売られているんですよね。そんなことするのって、浜田省吾ファンとして恥ずかしいです。

「初恋のきた島」は、この聖地である図書館を訪れた浜田省吾ファンだけの勲章のようなものです。

呉(この町のメインストリート、15の時通りのウィンドウに)

15の時、通りのウィンドウに飾ってあったギターを見た時、稲妻が俺の体駆け抜け、全ての夢が走り出す〜♪

2017年10月。呉といえば、まず、「終わりなき疾走」ですよね。

中学生の浜田省吾が、楽器屋の前を通った時に、飾ってあったギターを見て衝撃を受けたというのが、この公声堂です。

この写真は、江田島から移動した二回目の訪問の時のもので夕方だったのですが、一回目の訪問の時は昼間に行きました。残念ながら、今は道から見える形でギターは飾っておらず、店の奥の方に飾ってあります。

店の前で写真を撮っていたら、店のおじちゃん(写真中央の人)に「また来てるよ」って顔で見られました。やはり、ここにも浜田省吾ファンが多く訪れるんですね。

2021年12月14日に、4回目の呉を訪問しました。その際に、「稲妻の走った楽器屋」を見に行きました。店の前に自動販売機が増えてました。

2021年12月14日 4回目の訪問

前に昼間に行った時は気づかなかったのですが、通りのウィンドウにギターが飾ってありました。前からこれってあったかな?

エレキギターっだったもっと良かったのに。

2021年12月14日 4回目訪問

そして、呉と言えば、有名な曲「MONEY」ですよね。

MONEY を歌いながらいきましょう!

この街のメインストリート、わずか数百メートル〜♪

れんがどおり

寂れた映画館と〜♪

バーが 5、6軒〜♪

ハイスクール出たやつらは、次の朝バッグを抱えて出てゆく〜♪ジャジャジャン!

2016年11月 呉1回目訪問
2016年11月 呉1回目訪問
  • 呉のメインストリートは、訂正します。以前、「意外と広くて長いじゃん」と記載しましたが、場所が間違ってました。正しくは「れんがどおり」が Money のあのメインストリートです。確かに数百メートルでした。
2021年14日 呉4回目訪問
  • 寂れた映画館ですが、現在は、ポポロというスーパーになってます。この中にポポロシアターという新しい映画館ができてます。さにれた映画館、見たかったなあ。
2021年14日 呉4回目訪問
  • ポポロの周りには、飲み屋はポツポツとあります。5、6軒以上は軽くありますね。ポポロのすぐ隣にはカフェやレストランなども多くあります。
  • 高校ですが、浜田省吾が通っていたのは、広島県立呉三津田高等学校です。ここで、窓の外見てるだけ(独立記念日)だったのでしょうか。

ちなみにこの高校の前には、こんな看板が立てられています。

2016年11月 呉1回目訪問

きっと、浜田省吾ファンのことでしょう!ファンの方、聖地である三津田高校へ行きたい気持ちは分かりますが、行動には注意してください。通報されるかも知れませんよ。私も学校の周りをウロウロして写真撮って、完全に変な人でしたから。

そして、ここが通っていた中学校です。ただ、名前が変わってしまっています。浜田省吾が通っていた中学は、二河中学です。現在は統合されており、呉中央中学になっています。

2016年11月 呉1回目訪問

大竹(パワーシャベルで削った丘の上いくつもの)

2020年11月。大竹に行ってきました。マイホームタウンや大ディーズタウンの舞台ですね。

2020年11月 大竹1回目訪問

溶けたタール、パルプのにおいの、何もかも閉ざされた My Hometown 〜♪

確かに、焦げたにおいがします。大竹に住んでいる人たちには申し訳ありませんが、確かに何もない町です。

「マイホームタウン」の中で、

パワーシャベルで削った丘の上いくつもの同じような小さな家どこまでも続くハイウェイ〜♪

と歌ってますが、この町にはハイウェイは見当たりませんでした。多少の脚色は入っているんですね。

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2020年鎌倉の旅

うっかりコーヒーをこぼして、図書館で借りた本を汚してしまった。

返却日、その本を図書館の返却箱に黙って入れてシレーっと帰ろうとしたが、職員に見破られて逃走を阻止され、弁償する羽目に。

『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』、1650円なり。

ちょっと汚しただけなのに、あんまりだ。

本屋で買うと高くつきそうなのでアマゾンで探したが新品しかなく、結局本屋で購入して図書館に持って行った。

私の手元に汚してしまった『大人の遠足BOOK 鎌倉・湘南・三浦ウォーキング』が残った。

自分が悪いとはいえ、結構シャクである。

この元は断固取らなければならない、せっかくだからこの本をフル活用するべきだ。

そういうわけで、私は汚染された『大人の遠足BOOK』に記載の神奈川県鎌倉市を目指して、自宅の東京都から250㏄のバイクを走らせている。 私は位置情報ゲーム『ケータイ国盗り合戦』のヘビーユーザーだ。

鎌倉には、まだ未制圧の地域が多いからちょうどよい、とも自己暗示をかけて。

鎌倉はご存じ名所旧跡の宝庫だが、あまりじっくり見たことがない。

いい印象がないからだ。

最初に鎌倉を訪れたのは、中学校三年生の修学旅行の第二日目。

中学の修学旅行と言えば、楽しいことだらけの一生の思い出になるはずで、小学校六年生の時から楽しみにしていた。

だが、三年間待ちに待った修学旅行の初日、最初の目的地『東京ディズニーランド』で、他校の不良中学生に因縁を付けられ恐喝された。

それだけでもかなりの悲劇なのに、その日の宿で同じ部屋の奴らにパンツを脱がされてカイボウされるわ、翌日の国会議事堂見学では同じクラスのヤンキーに肩がぶつかっただけでどつかれたのに、担任は知らんぷりするわで、踏んだり蹴ったり。

そんな立て続けの災難のショックによる放心状態で、鎌倉の街を歩き回った記憶があるから、楽しい思い出になるわけがない。

だが、今やもう四半世紀以上も過去の話で「怨念の半減期」は、はるか前に過ぎているから、こうして鎌倉の街に落ち着いて来ることができる。

だが、ちょっと本を汚しただけなのに、冷酷に弁償を請求してきた図書館職員への「逆恨みの半減期」は、まだ先の話なので、道中頭をよぎりっぱなしだった。

私が住む町から鎌倉までは地味に遠く、到着したのは正午過ぎ。

最初の見学地は、13世紀建立の円覚寺だ。

と言っても、あまり綿密に計画も立てずに旅行する私の常で、たまたま最初に目についたのが円覚寺だったということである。

だが、円覚寺はバイクで来る人お断りらしく、駐車場はあっても、バイク駐輪場はない。

よって路肩に駐輪せざるを得なかった。

「駐禁とられたらどうしよう」とか「近所の元気者に壊されてたらどうしよう」とかの不安を抱えながら、競歩のように境内を歩き回っての見学を強いられた。

次の目的地、建長寺は円覚寺からほど近い場所にあり、しかもバイクを停めてもよい駐輪場を備えた懐の広い寺院だ。

やっと落ち着いて見学できる。

建長寺は、臨済宗建長寺派の大本山、1253年)の創建で開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆であるため、総門・三門・仏殿・法堂などの主要な建物は大陸的に中軸上に並ぶ伽藍配置をしている。

その中でも三門・仏殿・法堂は重要文化財であり、他に国の史跡及び名勝に指定されている建長寺の方丈庭園は禅宗庭園独特の趣が…。

もう帰ってもいいだろうか?

私は位置情報ゲームにはまっているし旅行も結構好きだが、生来外出するとすぐ帰りたくなる性格で、こうしてはるばるやって来て名所旧跡を前にしても、心は自分の家にある。

寝床から1000メートル以上離れると、ストレスを感じるのだ。

だから遠くの博物館でも遺跡でも到着しただけで満足し、いつもサッと見てサッと出て来てしまう。

そして帰ったら帰ったで「なぜもっとじっくり見なかった?」と、死ぬほど後悔している。

今回も歴史は繰り返した。

異例の早さで建長寺の見学を終わると、次の目的地とした報国寺は一応無理やり行ったが、鎌倉は他にも見どころがあるにもかかわらず、自宅への望郷の念にもう堪えられなくなっていた。

『ケータイ国盗り合戦』のエリアもあまり攻略できなかったが、もういいだろう。

さっさと飯食って帰ろう。

せっかく鎌倉来たんだから鎌倉らしいものを食べるべきだが、鎌倉の飲食店はどれもやや高めなのにひるんで、帰り道で適当に何か食べることにした。

鎌倉から国道1号に入り、その沿線の某ラーメン店に入る。

しかし入った店は「まずい」「出てくるのが遅い」「少ない」「高い」の四冠王で、「店内が汚い」「店員の態度も横柄」というタイトルまで保持した極悪店。

昼飯時を過ぎて客が少なかったのに、何で出てくるのに二十分もかかって、『昔ながらの醤油ラーメン』一杯900円なのだ?値段だけは未来志向か?

後味が悪いモノ食わされて高い金とられ、時間までロス、おまけにその後、道に迷った。

余計イラつきながら帰りを急いでいたら、後ろからサイレンの音。

「はい、そこの多摩ナンバー○○-○○のバイク停まりなさい」

白バイだった。

一時停止違反で点数二点引かれて、罰金6000円なり!

さんざんな日帰り旅行だ。

思えば、コーヒーで汚した本を弁償させられたのがシャクで、どうせならその本を思いっきり活用しようと思って出かけたんだよな。

その挙句、貴重な時間を使って罰金取られて、損害が倍増しだ。

でも一方で、今回は修学旅行の時に見れなかった建長寺や報国寺も見ることができた。

それに、あまりエリアは攻略できなかったが今まで未踏だった神奈川県三浦・湘南地方にも進出できた。

悪いことばかりじゃないじゃないか。

そう冷静になって、よーく考えてみた。

しかし冷静になればなるほど、どう考えてもプラスマイナスで言ったら、明らかなマイナスだったという結論しか導き出せない。

得られたはずのプラスが得られず、避けられたはずのマイナスも余計に被っている。

だからやっぱり、

出かけなきゃよかった!!

鎌倉・湘南・三浦ウォーキング (大人の遠足book)

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R40「城東工業高校のテル」はいま

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映画版 ビー・バップ・ハイスクール(BE-BOP-HIGHSCHOOL)をご存じだろうか?

リアルタイムで記憶にある方の大多数は、おそらく40歳を超えているはずだ。

同作品は、1983年から2003年まで講談社のヤングマガジンで連載されていた人気漫画『ビー・バップ・ハイスクール』を原作とした日本映画である。

仲村トオル、清水宏次朗、中山美穂らが主演した1985年(昭和60年)の第1作目は、14億円を超える配給収入を記録したヒット作となり、1988年までに計6作が製作された。

不良映画の金字塔的作品であり、この当時の中高生、特に劇中の登場人物たちと同じ層の者たちに大いに支持された。

この映画の魅力の一つは、走る電車からの鉄橋ダイブシーンなど、現在なら考えられないような危険なアクションだ。

一歩間違えば死んでもおかしくないシーンが目白押しで、主演の仲村トオルはじめ出演者たちはケガが絶えず、命の危険にもさらされたという。

そしてもう一つの魅力は、主役である仲村トオルや清水宏次朗以外のキャストたちだ。

敵役はもちろん、脇役やエキストラに近いチョイ役まで、不良を演じているキャストたちはいずれも異様に迫力があった。

それもそのはず。

彼らの多くは、本物かつ現役の不良少年たちだったからだ。
この映画では出演者を一般公募、そのオーディションには、役者だけではなく現役のヤンキーや暴走族が多く集まり、主要な役をキャスティングされていた。

そんなキャストたちだったからこそ、撮影現場でガンを飛ばし合ったり、ロケ地で地元の不良とモメてさらわれたりなど、ありえないハプニングが続出したという。

当時人気絶頂だったヒロイン役の中山美穂などは、演技とはいえ、これら本物たちの迫力におびえるあまり、二作目出演後に降板してしまった。

だが、いざ撮影となれば凄んだり、睨み合ったりするシーンでの演技指導は必要ない。

存在しているだけで役者では絶対に出せない凄味があって、荒唐無稽なシーンも多かった同作品に、不良映画としてのリアリティーを、問答無用で備えさせることができた。

私が同作品を初めて観たのは、6作目がレンタルビデオ化されたばかりの頃だったが、こういった不良たちにカツアゲされた経験もあったため、画面越しでも震え上がったものだ。

そんな迫力満点のキャストたちの中でもひときわ異彩を放ち、伝説となった男がいた。

1986年、シリーズ2作目の『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』で「城東工業高校のテル」こと藤本輝男を演じた白井光浩だ。

白井演ずる映画版のテルの貫禄は、原作を上回っていた。

ご覧の通りとても高校生には見えない本職級の悪人相だったが、白井は出演当時正真正銘の18歳だったらしいから驚きだ。

劇中でのテルは容貌そのままの凶悪な高校生で、得意技は不意打ちと集団リンチ。

数を恃んで他校の不良を襲って変形学生ズボンを奪う「ボンタン狩り」を行い、仲間と共に主人公のトオル(仲村トオル)を拉致して、口に折った鉛筆を入れて殴りつけるリンチを行うなどの悪行三昧。

そのインパクトは絶大で、上述の「ボンタン狩り」や、見掛け倒しで根性がない者を意味する「シャバ憎」「シャバい」などの用語を世に広く知らしめ、

「城東は~、数が多いだけの~、チンピラの~集まりだってぇ~、ほざいたなぁ~!!」

「そのツラに穴あけてぇ~、二度とデケー口きけねーようにしてやろうかぁ~、あ~~~~!!?」

などなど、テルのセリフや立ち振る舞いを、当時のヤンキー少年ばかりか真面目な中高生たちまでもが、こぞって真似するようになった。

三十年以上経過した現在でも、当時少年時代を送った人の中で覚えている方は、決して少なくはないのではないだろうか?

そんな伝説的なキャラであるテルを見事に演じた白井光浩だが、惜しくもこの作品に出演してから俳優活動を行うことなく、一般人として自営業に従事。

「城東工業のテル」の鮮烈な印象だけが、当時中高生だった人々に記憶され続けた。

だが2012年、白井光浩は突然表舞台に現れて、役者活動を再開する。

『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』から26年。

すっかり四十路を過ぎた白井も、それなりに人生の年輪を刻んだ味のある中年の男に変貌していた。

そして映画やVシネマに出演する一方で、落語家としても精力的に活動し始める。

同時に、映画『ビー・バップ・ハイスクール』のオールドファンたちのイベントにも顔を出し、2019年にはYouTuberとして『テルチャンネル』を開設。

『ビー・バップ・ハイスクール』のロケ地を訪ね歩いたり、当時の出演者を招いて対談し、撮影の裏話を披露するなど、往年のファンを歓喜させている。

あのキレッキレの極悪ぶりをスクリーンの中で見せていたテルは、もうすっかり丸くなったお茶目なおじさんで、料理に舌鼓を打ったり、喉を鳴らして酒をうまそうに飲んだりオッサン全開だ。

一見すると中年男のどうでもいい動画ではあるが、当時の映画で見せた危険なテルを覚えており、別の場所とはいえ、同じ時代を送った者の一人としては、そんなオッサンぶりがほほえましく思えてしまう。

そして『テルチャンネル』を観た後で、再び映画『ビー・バップ・ハイスクール』を観れば、また違った味わいを楽しむこともできるのだ。

今後のテルのますますの発展と活躍を、私は陰ながら応援したい。

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高崎山の王・ベンツ ~ミスターニホンザルの生涯~

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餌付けしたニホンザルを直に見ることができる公園として有名な高崎山自然動物園(大分県大分市)。

1953年に開園した同公園では、職員が撒くエサを目当てに、C群とB群という二つの群れ、合わせて千頭以上のニホンザルが、それぞれ午前と午後に分かれて、山麓に設けられたサル寄せ場と呼ばれる場所に現れる。

両群とも、普段公園が存在する高崎山山中で生活しているため、訪れた観光客は檻を隔てることなく、ほぼ野生に近い姿のニホンザルを観察することが可能だ。

群れには数百頭を超えるサルがひしめき、目まぐるしく動き回っているために、観光客の目にはどれも同じにしか見えない。

だがそんな観光客の目にも、明らかに他とは違う雰囲気のサルがC群にいた。

老いたとはいえ、群を抜いて巨大な体躯。

圧倒的な存在感と威厳を有し、サル寄せ場にあるボスザル(アルファオスと最近では呼ばれる)の指定席たる切り株に座って周りを睥睨する様は、まさに玉座に座る帝王の風格すらある。

切り株を降りてサル寄せ場をのし歩けば、他のサルたちは道を譲る。

彼の目の前に職員の撒いたエサがあったら、より若く体力のあるオスザルも決して手を付けようとしない。

忠誠の証だ。

彼に挑戦的な態度を取ることができるサルは、この高崎山には存在しない。

どころか、観光客や職員たち人間をも震え上がらせる凄味があった。

彼はここ、C群650頭の頂点に君臨するボスザル。

その名はベンツ。

「高崎山史上最強の男」と人間に言わしめた伝説のボスザルだ。

若年期

ベンツは元々C群ではなくB群出身で、1978年ごろ生まれたと考えられている。

当時すでに、ニホンザルの群れとしては別格に多い数百頭規模のB群の中で、ベンツは早くから頭角を現し始める。

この当時群れはA群・B群・C群の三つ、A群、C群とB群の順番でサル寄せ場にやってきていた。

そのサル版三国志のような高崎山においてB群は、自分たちより先にいるC群としょっちゅう出くわして衝突していたが、その抗争でベンツは大暴れしたのだ。

立派な体格の大ザルで、サルの中でも運動能力に秀でていた彼は、先頭に立って、C群のサルを駆逐、B群内の幹部クラスのオスザルが、次々に群れを離脱したこともあって徐々に序列を上げてゆく。

このころ、高崎山自然動物園職員にベンツと名付けられたのは、その存在感からであるようだ。

そして1987年、弱冠9歳の若さにして、B群のボスザルになった。

これは、人間の年齢ならば20代後半に相当し、ニホンザルの社会でも異例のこととされる。

ボスザルになってからもベンツは、自分の群れがC群と衝突した際には、真っ先に駆け付け、平時には群れ内で起きるケンカを鎮圧。

ボスザルの本来の役割を、存分に果たした。

だが、2年後の1989年に転落することになる。

発情期に抗争相手のC群のメスザル・リズに目をつけ、たびたび群れを離れるようになったのだが、これがいけなかった。

群れを一定期間留守にすると、たとえボスザルであっても、群れから排斥されてしまうのがニホンザルの社会なのだ。

リズとの情事を終えて戻ってきたベンツは、今まで自分に忠誠を誓っていた他のサルから一斉に威嚇されて、B群を追放されてしまう。

C群での下積み生活

トップの座を失い、群れからも“破門”されたベンツは、ハナレザルとなったが、ほどなくして、今までさんざんいびってきたC群に加わろうと接近する。

だが、C群は自分たちをさんざん攻撃してきた憎っくき敵の元大将の顔を覚えており、ベンツをリンチ。

B群のボスザル時代に良い仲だったリズも知らんぷりで、ベンツはC群の外延部から中に入れず、サル寄せ場でエサにありつけない半ハナレザル生活を余儀なくされた。

前の群れでのキャリアなど、ニホンザル社会では関係ない、元ボスザルだろうと新たに加わった群れでは最下層からの出発、ここ高崎山では、サル寄せ場からは遠い周縁部での生活となる。

そして、そこから浮かび上がることはほとんどない。

だが、ベンツは違った。

伝説のボスザルたり得た原因は、たぐいまれな強運もあったからだ。

下積み生活を続けていたベンツは翌年1990年、群れの中央にいることができる幹部クラスのオスザルで、C群での序列第八位のサイジョーの知遇を得る。

サイジョーはそれまで、ベンツを見かけるたびに攻撃していたが、ある日ベンツにマウンティングをした。

これは、サルの世界では弱い一方が誓った忠誠や謝罪を、強い一方が受け入れたことになり、上下関係が存在するとはいえ、一定の友好関係が生じたことを意味する。

サイジョーに認められ、ベンツがC群に居場所を確保した瞬間だった。

サル道に忠実なベンツ

それから後のサイジョーは、未だベンツを認めないC群の他のサルが、ベンツを攻撃すると威嚇して追い払ったし、ベンツはサイジョーがうっかりB群に紛れ込んで攻撃を受けた際は、真っ先に飛び込んで救出した。

彼らはまさに、義兄弟のような関係になっていった。

そして、三か月後にはC群ボスザルのバートン、次いで序列第二位のゲンタのマウンティングを受ける。

それは、C群トップと最高幹部の“盃”を受けたに等しく、ベンツは晴れてサル寄せ場に入って職員の撒くエサを口にする権利を有するオスザル、C群の幹部となった。

ニホンザルの群れは、歴然たる階級社会である。

その序列は、オスの場合年功序列で決まり、群れに長くいればいるほど順位が高い。

そして、自分より順位の高いサルに挑戦する“下剋上”はあまり発生しない。

そんな暴力団のような習性がニホンザルの世界には存在する。

C群は、自分たちより先の午前中にサル寄せ場にいるもう一つの群れ、A群とたびたび鉢合わせして紛争が頻発していたが、例のごとく、ベンツはそこでも大活躍。

戦利品とばかりにA群からエサを奪い取ることもしばしばだったが、功労者であるにもかかわらず、自分より序列が上のサルが来るとベンツはエサを譲った。

ベンツは、上位の者には絶対服従というニホンザルの掟に忠実だったのだ。

そしてその掟は、義兄弟の関係よりも優先すべきものだった。

ある日、ボスザルのバートンと序列が三位になっていたサイジョーがケンカになったのを目の当たりにしたベンツは、何と恩人(恩サル)であり兄貴分のサイジョーを攻撃したのだ。

おそらく、これが原因でサイジョーは群れ内で失脚、ほどなくしてC群から姿を消した。

どう見てもベンツは恩を仇で返したことになるが、それは人間社会の見方である。

ベンツはサル社会での常識、群れ内での順位関係を律義に守ったにすぎないのだ。

それにより、ベンツは上位のサルからの信頼を勝ち取っていった。

高崎山最強軍団・C群行動隊長

サイジョー失脚後、ベンツのC群内での序列は当然上がった。

その後、上位のオスの離脱(オスザルはある期間生活した群れを出る習性がある)によってベンツの地位も上がり、2000年には、序列二位の副ボスザルになっていた。

そのころのベンツは、気力体力共に最盛期。

並外れて大きく筋肉の鎧で覆われた貫禄十分の姿で、群れの内部でしばしば発生するケンカを収め、群れの脅威と判断した観光客や職員までも攻撃するなど、上位オスの本領を発揮。

その一方で、新たなボスとなったゾロには絶対服従と、ニホンザルの王道を走っていた。

だが、ベンツを語る上で欠かせないエピソードとなるのは、その立派なオスザルぶりはおまけに過ぎない。

それは2002年、A群との大規模抗争での活躍だ。

A群は高崎山に公園ができる前からいた群れであり、B群・C群は共に同群から分派したものである。

そして霊長類の群れとしては、世界最多の800頭以上で構成されていた。

A群は、C群より先にサル寄せ場にやってくる群れであり、午前中いっぱいをサル寄せ場で過ごし、午後になると入れ替わりでC群の番になる。

しかし、二時間余りすると今度はB群が来て、C群のエサの時間は強制終了となってしまう。

この当時は、どの群も個体数が飽和状態で、律義に順番を守っていたらエサに十分ありつけないからか、A群はいつまでもいるし、C群は早めに降りてくるようになっていた。

違う群れ同士が同じエサ場で同時に共存することは、ニホンザルの世界ではあり得ない。

バッティングする機会と時間が多くなった両群間で、小競り合いが前にも増して頻発するようになり、それはほどなくして、A群対C群の全面戦争に発展した。

それは大げさではなくまさに戦争、総力戦だった。

両群合わせて1400頭余りの大中小のサルがにらみ合い、あちこちで肉弾戦が起こる。

こうした抗争こそ、ベンツの出番だった。

彼はその戦闘の最前線に常に立ち、圧倒的な度胸と戦闘力を思う存分発揮したのだ。

本来、A群は約800頭の巨大組織であり、数の上では約600頭のC群に勝ち目はない。

しかし、大きな問題を抱えていた。

ボスザルのブラボーはじめ、外敵に立ち向かうべきオスザルたちが頼りにならなかったのだ。

ニホンザルはオスだけでなく、メスにも序列がある。

メスはオスと違って生まれた群れを一生離れないため、メス間の序列がオスの場合のように変動することはない。

そしてその序列は世襲であり、上位のメスから生まれたコザルはオスメス問わず生まれながらに上位、即ち群れ内における“貴族”である。

ブラボーはまさに貴族出身、群れで上位に君臨する母ザルの威光の下で労なくしてボスザルになったボンボンで、厳しいハナレザル生活も、新たに加入した群れでの三下生活といった苦労を経験していない。

それは他の幹部クラスのオスザルたちの多くも同様で、そんな彼らが気骨に欠けるのは人間の場合と事情は同じだ。

一方のC群は他群の出身で最下層からたたき上げたベンツを筆頭に、ワイヤーやブルなど、ハナレザル出身で屈強な体格の武闘派ザルが目白押しだった。

そんな本物の“男たち”に、A群のマザコンたちが敵うはずがない。

ベンツが巨体を怒らせ「ゴッ!ゴッ!ゴッ!」と雄叫びを挙げて突進すれば、A群のサルたちは瞬く間に蹴散らされ、「キーキー」叫んで逃げ出す。

ベンツの背後から襲い掛かる卑怯者には、後に続くC群ボス・ゾロの弟ゾロメ(後のC群ボスザル)が対処し、他の戦線でもワイヤー、ブルが遅れてはならじと相手を撃破してゆく。 C群の他のオスザル、それもついこないだまでコザルだったような“少年ザル”たちまでが戦列に加わり、ベンツの後に続く。

最強の“男”と肩を並べて戦えるのだ。

こんな心強いことはない。

“行動隊長”ベンツを先頭にしたC群の猛攻で、衝突の度にA群の戦線は崩壊。

土煙を挙げてサル寄せ場から山の中へ、一斉に逃げ帰って行った。

それ以降も何度か攻防が続いたが、C群にA群が追い散らされることが多く、その際はいつも先頭にベンツの姿があった。

やがて、A群はベンツの姿を見ただけで動きを停めるほど、ベンツを警戒するようになり、しまいにはベンツが一頭で突進すると、何百頭が揃って逃げ出すほどになった。

そしてその年以降、A群はサル寄せ場に姿を現さなくなった。

完全に高崎山から駆逐されてしまったのだ。

ボス就任、そして伝説へ

2011年、長らくC群ボスザルの地位にあったゾロが姿を現さなくなったことから、ベンツが新たなC群ボスザルとなった。

C群への移籍から21年、ベンツは再び頂点に立ったのだ。

異なる二つの群れでボスになったサルは、高崎山自然動物園が開園して以来存在しない。

B群における最年少でのボス就任、対A群戦争での大殊勲に続いて奇跡的な偉業を、またしてもベンツは果たしたのだ。

ベンツはこの年で年齢33歳、人間の年齢に換算すれば100歳超。 体も弱って、もはや、かつてのような大暴れをすることはなく、サル寄せ場でのんびりと過ごすようになる。

しかしその威厳は健在で、その姿には何事かを成し遂げた者だけが持つ重厚なオーラを見る者に感じさせていた。

そのように余生を穏やかに送るだけ、と思われていたベンツが再び人間を驚かせたのはボス就任の二年後、晩年のことだ。

2013年9月、ベンツが山から下りてこなくなった。

姿が見えなくなってから一週間後、高崎山自然動物園の職員による捜索隊が高崎山に入り、ベンツの捜索が始まった。

普通のサルとは違って、これまでのベンツの武勇伝はマスコミによって広く知れ渡り、ベンツを一目見ようと多くの観光客が高崎山を訪れていたために、無視できない存在となっていたからだ。

もはや死亡したものと思われていた翌10月、何と高崎山から7キロ離れた大分市内で見つかり捕獲された。

通常なら有害鳥獣として殺処分されるところだったが、特別の計らいで住み慣れた高崎山戻されることになった。

だが、長いこと群れを離れていたサルは前述のとおりたとえボスザルであっても受け入れてもらえなくなるのがニホンザルの社会だ。

B群時代同様の事態が懸念されたが、ここでも奇跡は再び起こった。

ベンツの盟友で、彼の不在中にC群の“最高実力者”になっていたゾロメの毛づくろいを受けていたのだ。

これは受け入れられただけではなく、ボスとして復帰したことを意味する。


中央左がゾロメ、右がベンツ

ニホンザルの世界では異例のことが、またしても起こったのだ。

もはやベンツが伝説のボスザル以外の何者でもないことは、疑いようがなかった。

しかし、これが最後の奇跡となった。

その年の12月、ベンツは再び姿を見せなくなり、そして二度と姿を現すことはなかったのだ。

老いて群れについていけなくなったニホンザルは群れを離れ、そのまま死体を残すことなく消えてしまうという。

高崎山自然動物園の職員によると、35歳でニホンザルの平均寿命を大きく上回っていたベンツは、復帰後も老化による衰えが目立っていたらしい。

そしてニホンザルの最後にふさわしく、人間に発見されることなく高崎山の土になった。

最後の最後までニホンザルの王道を走ったのだ。

その後ベンツは、人間たちにその数々の偉業をたたえられて名誉ボスとされ、祠付きの銅像まで作られた。

ベンツはボスザルから守り神となって、今も高崎山に君臨し続けているのだ。

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米国のハードロックバンド Danger Danger を想う (1)

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米国のハードロックバンドの1つである Danger Danger をご存知でしょうか。

1982年に、チープトリックのライブ会場で、ベースとドラムが知り合い、1987年にユーヨークで結成されたバンドです。

1989年に、アルバム「Danger Danger」でデビューしています。

私の Danger Danger との出会いは、もう 25 年くらい前になります。当時、ジャケット見てたまたま借りてきたのが Danger Dangerのデビューアルバムで、それを聞いて好きになりました。「Rock America」 という曲にシビれました。

Out of the backstreets

I hear my heartbeat

we’re gonna rock America

“Rock America”, Danger Danger

バックストリートに出て

オレの鼓動が聞こえる

オレ達がアメリがを Rock してやるぜ!

すぐに、セカンドアルバムのScrew It! も聞きました。

今度は、「I Still Think About You」という曲に、心が泣きました。

I’ve been walking down the same old road

Tryin’ hard to forget you

But I just can’t let you go

I still think about you

Do you think about me?

“I still think about you”, Screw it!

(あれからのずっと)昔と同じままの道を歩いてる。

君を忘れようと努力してる

でも忘れられないんだ

今も君のことを考えてる

君はどうだい?

ロックのバラードって良いですよね。Guns and Roses の November Rain とかも好きです。Slash のギターが泣いてますね。

アルバムは、現在、7 枚リリースしています。ライブアルバムなども合わせると、12枚になります。

2014年に「Danger Danger」と「Screw It!」のリマスター版をリリースしています。どちらもボーナストラックで数曲追加になっています。

アルバムタイトルリリース時期
Danger Danger1989
Screw It!1991
Dawn1995
Four the Hard Way1997
The Return of the Great Gildersleeves2000
Cockroach2001
Revolve2009

ライブアルバム

  • Dawn and Dirty Live (1990年)
  • Rock America (1990年)
  • Live and Nude (2005年)
  • Down and Dirty Live! (2013年)

コンピレーションアルバム

  • Rare Cuts(2003年)

Rare Cuts」 ですが、CD 版で購入しようかと思ってアマゾンで探してみたら、89万円とかで売られてました。意味が分かりません。

Apple Music とか Prime Music を契約しているなら、そこから聞くことができます。そこから購入しても、このアルバム 1枚で、1500円くらいです。

私は、一番最初の Mike Pant がボーカルのころの音楽は知らないのですが、Ted Poley がボーカルの時から聞いてます。もちろん、ライブアルバム含めて、全部持ってます。

1993年に Cockroach のアルバムを収録終えた後、バンドは、Ted Poley をクビにし、新たに Paul Laine を新にボーカルとして迎え入れてます。

2004年に仲直りし、再びボーカルが Ted Poley に戻り、今でも活動しています。2013年にライブアルバムを出し、2019年に、東京と大阪で来日ライブをやりました。私はライブに行けなくて残念です。

Wiki Danger Danger

そういったボーカルの入れ替わりということがあったため、3枚目のアルバムになるはずだった「Cockroach」は、1993年にリリース予定だったのですが、取り止めになっています。それから2001年になって、Cockroach がリリースされたのですが、2枚組のアルバムです。そして、ディスク 1 とディスク 2 に同じ曲が入っているんです。そう、Ted Poly 版と Paul Laine 版です。曲順が違うんですけどね。最初、ん?と思いました。

私は仕事の関係で、毎年、何度か米国に行っています。到着3時間前くらいになると、機内の朝食の時間になるのですが、毎回、そこからは着陸するまで、Rock America をずっと聞いてます。あの頃、米国に憧れていた自分を思い出し、これからアメリカを Rock しに行ってやるぜと、自分の気分を駆り立てるために。

今回は、Danger Danger について、その中でも特に、私の好きな初期のアルバムについてご紹介しました。

彼らの曲には、いろいろと良い曲があります。シビれる曲もあるし、聞かせる曲もあります。今度は時間を作って、他の曲の紹介でもできたら良いなと思ってます。

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円空 ~至高のアマチュア仏師~

プロフェッショナルとは何ぞや?

その道の専門家にして、その分野の技術と知識、経験を生かすことによって報酬を得ている者を指すというのが一般的なところだろうか?

私は憚りながらそれにもう一つ定義を加えたいと思う。

それは「その分野において自分でも頑張ればできるようになると一般人に決して思わせない、神々しいまでの圧倒的技量を有した者」ということだ。

だからこそ、一般人はプロフェッショナルに敬意を払って少なくない報酬を払うのだ。

また、そうあるべきだと思う。

江戸時代前期、円空という僧侶がいた。

円空はその出生地の岐阜県内では特に有名な人物で、名前の通り僧侶だが同時に仏師でもあり、「円空仏」と呼ばれる独特の作風の仏像を多数彫ったことで知られている。

円空の彫った仏像の特徴は簡素化されたデザインで、その素朴でゴツゴツとした野性味に溢れた刀法でありながら、見る者を思わずほっこりさせる微笑をたたえていることだ。

遊行僧として北海道から畿内に渡る範囲を行脚し、その生涯で約12万体の仏像を彫ったとされる円空の作品「円空仏」は、出身地の岐阜県と隣の愛知県を中心に全国各地に約5300体以上現存している。

岐阜県を中心に、その温かみのある個性的な作風は今でも根強い人気があり、円空の作風をまねた円空彫りで仏像を制作する「円空会」のような団体もいくつか存在する。

岐阜県で生まれ育ち、幼いころからことあるごとに「円空仏」を目にしていた私は東京在住の現在、「円空仏」を見ると郷愁に駆られる。

そして同時に、かねてよりこんな不埒な思いを抱いていたことを告白する。

「この程度なら俺でも彫れそうだ」

あまりにも不遜すぎて岐阜県では禁句ですらあるが、公然の秘密というやつだろう。

同じ思いを抱いた者は円空の生前から2020年の現代まで通算で最低数十万人はいたはずだ。

確かに円空の彫る仏像は独特でえもいわれぬ優しい笑みをたたえているとかなんとか評価されているが、ぱっと見で彫り方が大雑把すぎるのだ。

はっきり言って素人っぽい

本気出せばできる気がしてしまうのだ。

ピカソとかゴッホはその気になれば素人には真似できない写実的な絵が描けるが、円空がその気になった作品を見たことがない。 生涯で12万体仏像を彫ったんならもっと上達しろよ、と言いたくなる私は罰当たりが過ぎるだろうか?

とにかく数を彫ることが目的で出来栄えには責任を負わなかったとしか思えず、そんな円空を、私は密かに「日本史上最も高名な粗製乱造者」と呼んだこともある。

私自身が前衛的な美術作品より写実的かつ迫真に迫った作品を好む傾向があるからかもしれないが、芸術作品はその発想力や表現力の前に、それを具現化するための技量も重要だと思う。

ミケランジェロとかのルネッサンス時代の巨匠なら仏像を作らせてもそれなりのものを作っただろうが、「円空のビーナス」や「円空彫りのダビデ像」はヨーロッパ文明への冒涜でしかない有様になるであろう。

もっとも、円空が仏像を彫る目的は「困っている人々を救う」ことであり、それらの人々のよりどころとなるような仏像を各地で彫り続けていたようだ。

より多くの人を救うにはたくさん彫らなければならず、そんなに時間をかけてこだわっている場合ではなかった事情もあった。

だが、彫ってもらった人々の中には「うわ、下手っ!」とか思った辛辣な恩知らずも結構いたと思う。

先ほどのプロフェッショナルの話に戻るが、私の定義から言えばやはり円空は仏師の分野において生涯アマチュアだったと断定せざるを得ない。

だいたい円空会なる円空の作風を真似ようとする人々の団体が複数存在すること自体、円空の仏師としての技量の程度を物語っているのではなかろうか?

また、同じ仏師でも運慶などはその作品のフィギュアがネットなどで販売されてるのに、私の探したところ円空仏のフィギュアは見当たらない。

運慶とかの作品を真似しようとする気が一般人に起きることはめったにないが、円空仏は自分で作れそうだもの。

つまりアマチュアにナメられている。

もう手遅れかもしれないが、円空会内外の武闘派円空愛好者が私を殺しに来るかもしれないので、円空の仏師としてのレベルについてディスるのはこれくらいにしておこう。

そうは言っても、そもそも私は円空の功績を貶めるつもりは全くない。

彼は仏師である前に宗教家たる僧侶であり、衆生を救うということこそ本分だった。

史実に残る通り円空はそれを実行にうつし、諸国を行脚して仏像を彫り続けたというその行為自体はまさに素人には真似できないことであるはずだ。

そして江戸時代前期のアマチュアレベルの仏像が三百年以上後でも5300体以上現存していることこそ、彼の宗教家としてのレベル、つまり徳の高さを物語っているのではないだろうか。

実際の彼自身は決しておろそかにできない人物であって、その人物が彫った仏像だから無下にはできないと思った人が相当数いなかったら、とっくに薪にされていたはずだからだ。

また、円空の彫った仏像はその人柄が出ていて、円空仏を見るたびに人々は円空を思い出したことだろう。

また円空に会ったことがない我々でも、何となく人となりが分かるようような気がしてこないだろうか?

きっと「いい人」とかいうレベルじゃなくて、仏様に近いかそのものの人物だったんではないかと。

円空彫りを真似ることはできても、生き方まで真似できる人はそうそういない。

円空は仏師としてはアマチュアだったが、僧侶としては疑うことなく最高のプロフェッショナルだったのだ。

今回、ご紹介しました円空についての書籍は、以下のリンクからご購入頂けます。

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access の男性ファン

90年代初頭、access(アクセス)という音楽ユニットが出現した。

ボーカルは貴水博之、キーボードは後に音楽プロデューサーとしても活躍することになる浅倉大介だ。

accessは1992年7月に結成され、同年11月『Virgin Emotion』でデビュー、

1995年1月に活動休止するまでの間に『DRASTIC MERMAID』『MOONSHINE DANCE』『MISTY HEARTBREAK』などの数々のヒット曲を生む。

1994年5月にリリースした3rdアルバム『DELICATE PLANET』はオリコン1位を獲得し、27.7万枚のセールスを記録。

同年には『SCANDALOUS BLUE』でNHK紅白歌合戦に出場するなど、90年代前半の音楽シーンで大活躍した。

そして当時、そのaccessはファン層の90%以上が女性であると言われていた。

男性の音楽ユニットのファンの大半以上を女性が占めること自体はそんなに珍しくはないのだが、その女性ファンの性質がやや特殊だった。

それはaccess が90年代初頭の当時、他のバンドにはない特徴を有していたからだ。

それは主にこれだ。

PVでは限度を超えて親密なシーンを演出し、コンサートではステージ上で曲の途中に2人が寄り添うパフォーマンスを見せるわ、

貴水博之と浅倉大介はお互いを「大ちゃん」「ヒロ」と呼び合うわ、TVで曲を歌っている時もお互いアイコンタクト。

巷でホモ疑惑が持ち上がったのも当然で、と言うか、どう見てもまんまであった

もちろんレコード会社の戦略に決まっているのだろうが、これが当時存在を主張し始めたBL(ボーイズラブ)好きの腐女子たちの心をわしづかみにした。

彼女たちがコンサートなどで上げる黄色い咆哮は発情期のメスザルがごときで、

男性がファンであると公言したが最後、社会的に抹殺されかねない禁断の音楽ユニットという側面を当時のaccessは持っていた。

そして、ここからが重要。

2020年になった今だから告白するが、私は当時accessのファンだった。

キーボード担当で、作曲も行っていた浅倉大介は1980年代末から1990年代初めの日本国内に一大旋風を巻き起こしたユニット、TMネットワークの元サポートメンバー。

TMネットワークのリーダー・小室哲哉とも関係が深かった浅倉はその影響を当然受けており、手がける曲もその路線であった。

中学生の頃からTMネットワークの大ファンで、すぐ後年にプロデューサーとして一世を風靡することになる小室のサウンドも大好きだった私は、TMネットワークのDNAと相同性の高いaccessの曲はけっこうすんなりハマったのだ。

思うに私に限らず、TMネットワークが好きだった人は結構ハマることが多いのではないだろうか。

とは言え、彼らはこれである。

最初それを知らなかった私は大学でaccessが好きだと迂闊にも同級生に話してしまったが、幸いにもそいつは物忘れの激しい奴だったので、広められて学校で異端者として排斥される羽目にはならなかった。

だが、accessの音楽が聴きたいことは確かだった。

音楽をオンラインでダウンロードするなんてSFでも考えられなかった90年代当時、accessの音楽を聴くにはCDを買うか、レンタルショップに行くしかない。

私にはaccessのシングルやアルバムを借りるのはAVを借りるより勇気が必要だった。

accessのCDを借りるより、AVを借りる方がずっと健全だったからだ。

このようにレンタルショップなどの店員に対して一時の尊厳を犠牲にすれば、accessの曲を下宿に帰ってようやく聞けることになるのだが、

部屋の中では音が漏れないようイヤホンをして聞いていた。

他の下宿生にaccessの曲を聴いていると知れたら、下宿内での世間体も失うからだ。

この時代、accessの男性ファンであることは隠れキリシタン同様だった。

1995年にaccessは活動を休止するが、作曲も担当していた浅倉大介はソロ活動を再開。

1996年には黒田倫弘、伊藤賢一とのユニットIcemanを結成。

その後、T.M.Revolution、木村由姫、pool bit boysなど多くのアーティストをプロデュースした。

ボーカルの貴水博之よりも、どちらかと言うと浅倉の曲が好きだった私は、同じく浅倉が作曲を手掛けるT.M.Revolutionが特に好きだ。

ちなみに、1995年より休止したaccessは2002年に活動再開、

2017年にはベストアルバム『access BEST 〜double decades + half〜』をリリースし往年のファンを泣いて喜ばせ、2020年現在も活動を継続中である。

そして私は今でもaccess やT.M.Revolutionをよく聴くが、それは純粋にそれらの音楽が好きなのであって、

accessが演出してたような趣味もないし、T.M.Revolutionの西川貴教みたいな恰好をしたいと思ったことは断じてない。